三江学院
毕业设计(论文)报告
题 目 黑泽明
日本語 系 日語 专业
学 号 B02111020
学生姓名 沈 洁
指导教师 曽田康載
起讫日期 2006年3月-2006年4月
设计地点 三江大学
日本語学部日本語学科
卒 業 論 文
題 名 黒沢明
論文作成者 沈 潔
指導教官 曽田康載
日付 2006 年 4 月 25 日
中文概要
这篇论文,我探讨的是被称为电影界巨匠的黑泽明导演。首先介绍了他的生平和他的主要作品。从中分析被称为“世界的黑泽”的他的独创性,以及感受他电影的独特魅力。那便是他的“英雄”论。
艺术家一般都会通过他最擅长的艺术形式,来环绕几个对他而言是再重要不过的主题。这些主题,多半都是艺术家最关切的、最想告知世人的、或是艺术家自己最想解开的谜题。世界级大导演黑泽明,一样通过电影的艺术形式,环绕着他最在乎的几个议题。最初的议题是“被西方文化冲击后的日本,英雄形象到底是什么?” “何为英雄?”与“英雄的出路”,就成为黑泽明电影回绕的基调。这基调,黑泽明同时用现代剧与历史剧来对应探讨。黑泽明爱将剧情背景置于乱世景观之中,来凸显其英雄的决断能力。而且,他塑造的英雄形象是相当成功的。不仅如此,甚至因此而产生了“世界的黑泽,世界的三船”的说法。并且,他的作品对于世界影坛,特别是东方影坛的影响是极其重大而深远的。
关键词:电影艺术,英雄,完美主义者,电影界的天皇,东方的标尺。
概要(日本語)
本論文では、日本の映画監督の巨匠と言われている黒沢明を取り上げた。まず彼の生い立ちと略歴を紹介し、いくつかの彼の作品を取り上げる。そこにおいて、黒沢を「世界の黒沢」にした彼の独創性を分析し、彼の映画の魅力を解明しようとした。彼の「英雄」論についての分析がこれである。
彼は映画芸術という表現形式により、幾つかの最も関心のあるテーマについて監督する。最大のテーマは「西洋文化の衝撃を受けた後の日本における英雄(ヒーロー)のイメージとは一体どんなものになるのだろうか?」である。黒沢の追求した「英雄」は世界が認める「英雄」にならなければならなかった。「英雄とは一体何だろう?」、「英雄の生き方は?」これが黒沢映画の基調になる。黒沢が近代劇と歴史劇の両方で追求した英雄とは、乱世下における個人の決断力の持ち主であった。だから、英雄の決断力をはっきりと示すために、黒沢は劇の背景を乱世の中に置くのだ。そして、彼の英雄の創造は成功した。それにより、「世界の黒沢」になり、「世界の三船」が生まれたのである。そして彼の作品は世界の映画界、特に東洋の映画界に大きな影響を与えている。
キーワード:映画芸術、英雄(ヒーロー)、完全主義者、映画界の「天皇」、東洋の手本。
はじめに——「天皇」と呼ばれる黒澤明
日本映画は要するにお茶漬けサラサラでしょ?もっとたっぷり御馳走を食べさせて、お客にもうこれで堪能したと言わせるような写真を作ろう。ここから『七人の侍』が生まれた。この監督は完全主義で有名で、徹底したリサーチにより、自らも脚本執筆に参加し、撮影におけるその豪腕振りから天皇と呼ばれている『黒沢明』である。
そこで世界でもっとも有名な日本人黒沢明について書いてみたい。
彼は1943年に『姿三四郎』で念願の監督デビューを果たす。その後、数々のヒット作を生み、50年に発表した『羅生門』はベネチア国際映画祭でグランプリを獲得した。。日本映画が初めて海外で評価された瞬間であり、また「世界のクロサワ」の第一歩がここから始まった。その他、『虎の尾を踏む男達』(45)、『わが青春に悔なし』(46)、『素晴らしき日曜日』(47)、『酔いどれ天使』(48)、『静かなる決闘』(49)、『醜聞〈スキャンダル〉』(50)、『羅生門』(50)、『白痴』(51)、『生きる』(52)、『生きものの記録』(55)、『蜘蛛巣城』(57)、『どん底』(57)、『隠し砦の三悪人』(58)、『悪い奴ほどよく眠る』(60)、『用心棒』(61)、『椿三十郎』(62)、『天国と地獄』(63)、『赤ひげ』(65)、『影武者』(80)、『乱』(85)、『夢』(90)、『八月の狂詩曲〈ラプソディ〉』(91)、『まあだだよ』(93)などの映画がある。
黒沢明の映画では、日本民族に対する反省と批判がすべての作品を貫通している。彼の思想の奥には、激しい葛藤と矛盾が潜んでいる。その結果、彼の映画に表現されているのは、ただ人間の悪と美しさのみならず、宿命論的情緒と哲学的な人格である。
このような黒沢明の映画の魅力について述べてみたい。
一、黒澤明の生い立ち
1910年3月23日に東京都品川区大井町で生まれた。父はかつて陸軍の将校・士官を担当し、後中学(高校)理事を新たに担当した。母の実家は大阪で商業を営んでいた。父は厳しい軍人だったが、黒沢は小さいときから軍事教練に参加することを拒絶した。幼少から絵画に対して強い興味をもつ、1928年初級中学卒業後絵画に熱中して、画家を志したが、生計を維持するため、1936年彼は助監督とシナリオ執筆者として東宝映画会社に入る。東宝の前身のPCL映画会社で、名監督の山本次郎の居候として映画監督とシナリオ・ライテイングを学ぶ。7年間助監督をして、ついに機会を得て1943年に処女作『姿三四郎』を監督した、この映画は日本で大いに人気を得て、彼は一挙に名を挙げる。中国語で『海港花盛開』の木下恵介監督と共に日本映画の新しい希望の星と見なされる。彼の1950年の作品『羅生門』は翌年のベネチア国際映画祭で大賞を獲得する。黒沢明は一生に30本の映画を監督した。その中の何作かは国際映画祭で受賞する。
1948年、黒沢明は、はじめて三船敏郎を『酔いどれ天使』の主役に起用し、その時から、黒沢明と三船敏郎は「黒沢の黄金時代」を築いた。『赤ひげ』までの17年間 、黒沢明監督作品に、三船敏郎は主役として『羅生門』、『白痴』、『七人の侍』、『生きる』、『蜘蛛の巣城』、『用心棒』と『天国と地獄』などに出演した。 1950年の『 羅生門』は翌年ベネチア国際映画祭の上で大賞を獲得し、黒沢明は世に名を知られる映画界の巨匠になった。 三船敏郎も相前後して『用心棒』、『赤ひげ』 でベネチア映画祭の男性の主演賞を獲得して、二人は日本の映画界 の「 世界の黒沢、世界の三船」 の称号を得た。
1950年、『 羅生門』 で、 1951年のベネチア映画祭グランプリを勝ち取った。これまで、欧米の映画が賞を独占してきたこの映画祭で初めて、アジアの作品が第一位を獲得したのである。皮肉なことに『羅生門』はまず世界で認められ、しばらく後に日本でも認められることになった作品である。『 羅生門』 の中で、黒沢明は独特の手法で客観的真理と主観との 関係を探求する。内容はひとつの暴力事件について三人の関係者と一人の傍観者がそれぞれ違った内容の証言をすると言うものだ。芸術的には、彼の作品はほとんど 完璧である。そのため、数十年後の映画にも影響を与え続けている。例えば、Edward Zwick監督の『Courage under Fire』(1996年)は40年前の『 羅生門』の改作である。
1952年黒沢明は東宝映画会社に帰り、『生きる』 を監督する。これは多くの人から映画史上最も優秀な作品の一つだとさえ言われている。『 七人の侍』は激しい戦闘場面の連続でありながら、ユーモアにあふれ、また深い哲学に支えられている作品である。この作品は後にハリウット映画によって改作された。この時から60年代中期までは黒沢明作品の黄金時代である。『蜘蛛の巣城』 、『 白痴』 、『 用心棒』などの作品はその時代の国際映画の潮流に影響を与えた。
1960年後半~1970年の初期は、黒沢作品の低潮な時代である。まず彼と三船敏郎の関係が突然決裂した。以後、 2人の協力関係はなくなる。だがその原因について二人は口を固くつぐんで話さない。1970年、『電車声』(中国語訳)は興行成績がふるわず、赤字を出した。そのため、彼は自殺未遂を起こすに至った。 だが、黒沢はすぐに立ち直り、1975年日露合作映画『デルスウザーラ』 は相前後してモスクワ映画祭で金メダル賞とオスカーの最優秀外国作品賞を得た。1980年フランスとの合作映画を作ることになる。この時、黒沢は三船敏郎の再度の協力を得て、『 影武者』が作られた。これはカンヌ映画祭の金棕櫚賞を獲得する。
1985年、黒沢は大型の時代劇映画『乱』 を完成した。晩年の黒沢は熱心に時代劇映画を創作する。芸術性をもどん欲に追求し、作品は深い哲学的な内容を持つ。身長1.81メートルの黒沢は、日本人では珍しく背が高くて大きな体格を持つ。彼は常に完壁な作品をめざし、大声でどなりあげたりするので、スタッフはそのたびにふるえあがったそうである。『 天国と地獄』を撮った時、新幹線から現金を捨てるシーンを撮るために、何と、ある民家の2階を取り壊してしまったのである。このように少しも妥協しない精神、追求するあまり強引なやり方に、彼はみんなから「天皇」といわれるようになる。
1998年9月6日、 50年間にわたり、彼は映画界で縦横に活躍し、31本の名作を残して、ついに世を去った。享年88歳。日本の映画界にはまだ彼の芸術を乗り超える人は出ていない。
二、 黒澤明の映画の魅力
日本の映画評論家によれば以下のようである。
1、動感がある。1組の画面を同時に3台のビデオカメラを使って、3つの角度から、撮影する。最後に3組のフィルムをつないでひとつにし、本物そっくりの動感を生む。その後、この特殊撮影方式と表現手段は、国内外の多くの監督に取り入れられた。
2 、男性的で硬派な風格がある。特に50年代~60年代、映画の中の硬派の男性のイメージには、経済復興から高度経済成長期に入るころの時代が反映されている。彼はこの時代の男性を激励しているのだ。
3 、作品について研究に研究を重ねていること。黒沢は「 完全主義者」である。『白痴』が会社の意向で時間を短縮することが決まると、「切るのなら、フィルムを縦に切れ」と激怒した。「もし短縮するなら、フィルムを廃棄する」といった。『蜘蛛巣城』のラストシーンでは、三船敏郎に向けて本物の弓矢を数十本、実際に放ったと言われている。
「映画には国境がない。私は映画を通じて世界の各国の人々と対話したい。他人に自分の弱点を見せたくない。他人に負けるのは嫌い。だから絶えず努力しなければならない...シーンをどのようにカッティングすべきか、それは私だけが知っている、だから1本の映画に2人の映画監督はいらない...役者は絶えず新しい役に適応すべきだ。 もし役者が新しい役柄を受け入れないならば、芸術の生命は枯渇する。」と黒沢明は言った。
三、黒沢映画における英雄(ヒーロー)
芸術家はその一生に、いずれも自己の最も得意な芸術の形式を通して、最も重要なテーマをとりあげて監督する。これらのテーマは、たぶん芸術家が最も関心を持ち、最も人々に発表したい、或いは最も自分で解いてみたい謎である。
世界的な名監督としての黒沢は、映画芸術という表現形式により、幾つかの最も関心のあるテーマについて監督する。最大のテーマは「西洋文化の衝撃を受けた後の日本における英雄のイメージとは一体どんなものになるのだろうか?」であった。
1、個人の決断力の下の人道主義
日本では、武士道と禅が結び付けられて英雄のイメージが作られており 、これが日本文化の誇るべきシンボルになっている。これはちょうど「学者」が中国文化の精神的なシンボルになっているのと同様である。日本映画はまだこの時期には「西洋の衝撃」の中にいて、まだ、日本映画のヒーローは西欧の映画の英雄を超えることはできていなくて、世界のヒーローにはなれなかったのである。黒沢の追求した「英雄」は世界が認める「英雄」にならなければならなかった。「英雄は一体何だろう?」と「英雄の生き方」、これが黒沢映画の基調になる。この基調を追求して、黒沢は近代劇と歴史劇の両方で試みる。1943年の映画「姿三四郎」から、1965年の「赤ひげ」まで、この20年間、黒沢は英雄の定義を「個人の決断力の下の人道主義」へと収敛させていく。個人の決断力というものは何より乱世下にあって困難を極めるものである。だから、英雄の決断力をはっきりと示すために、黒沢は劇の背景を乱世の中に置くのだ。あのような乱世下での人道主義は、ただ少数者のみがなしうる決断力によるものであった。そのために、黒沢映画の英雄は、常に孤独に堪える運命にもある。
2、乱世の下の個人の決断力
黒沢明が最初に国際映画界を沸き立たせた映画『羅生門』を見てみよう。
『羅生門』(1950年)を通して、黒沢はついに国際映画界を興奮させ、世界の名監督になる。彼が国際的に称賛されているのは、人道主義に対する強調によってである。
『羅生門』ではどのように乱世を述べているのか?背景は戦乱と凶作の時代である。このような時代に人々は利己主義に陥り、誰もお互いに信用することができない。「これは戦乱や凶作より更に恐ろしいことだ」と黒沢明はせりふを通じて言わせている。
この作品の劇の筋は1つの殺人事件をとりあげている。3人の当事者はそれぞれ事件に対する証言をするが、これらの証言の間には事実のくいちがいがあり、何が事件の真実なのか誰にもわからない。あのような乱世下では、多くの人は利己主義を選ぶ。ここで、黒沢は貧しいきこりの決断力による人道精神を乱世の英雄の定義とした。きこりは自分と他人の利己主義を許すことに決め、苦難に満ちている時代と貧しい生活のなかで、他人が捨てた赤ん坊を拾って帰り育てようとする。このような決断は、もちろん易しくない。しかしそれは英雄の必然的な決断だ。このためきこりは孤独の運命に耐えねばならない。映画の終わりに、きこりは1人赤ん坊を抱いて羅生門を出て行く。
『生きる』では、乱世感は癌の告知による絶望感に変えられて主人公を襲う。死に直面する恐怖と絶望。自分が癌の末期のことを知り彼は、その苦悩からまず思いきり遊んでみるが絶望は深まるばかりだ。最後に「この生命の末期に何か意義がある事をしよう。」と「生きる目的」を初めてつかむ。そこで主役の男性は女性たちと子供たちのために、力を尽くして、ささやかな公園を作る。ここでも、黒沢は主人公を何度も死の自覚に耐えさせ、公園完成を決断させそのためにはきわめて強い意志力が必要であり、死(運命)をみつめてその孤独に耐えなければならないことを表現している。
四、黒沢の世界映画に対する貢献
黒沢明逝去の記者会見の席上で、「父は死んでも心残りはありません。彼自分のしたい事をしたのですから。」と彼の長男の黒沢久雄は言った。
黒沢明の逝去は当時世界の多くの人の関心を呼び起こした。「黒沢は日本映画界の天皇で、彼の映画が米国の監督に与えた影響は大きい」とAP通信のニュースは言った。「彼の逝去のニュースを聞き、私はとても悲しい。ここに深い哀悼の意を表します。黒沢作品は世界映画史上とても重要な地位を占めています。彼の逝去は、映画界の大きな損失です。」とフランスの大統領のシラクは言った。
第55回のベネチア映画祭の場で、司会者が黒沢明逝去のニュースを報告した後に、全体の観衆は起立して哀悼の意を表した。9月9日、日本政府は黒沢明に「国民栄誉賞」を授けることを決定した。「彼の映画は日本人を感動させ、私達に私達の在るべき姿を示した。」と賞を与える理由を詳しく述べている。
彼は一生のうちで賞を得たことは数えきれない。黒沢は1999年の12月の「アジアウィークリー」に20世紀アジアの進歩に貢献した第1位の芸術文化人だと誉められた。彼の31本の映画は黒沢映画の1つの共通性を示している――形式と内容の完壁な融合。だから、彼は1895年映画誕生以来最も優れた映画監督の一人である。アジアの多くの映画監督はすべて彼の影響を受けている。それが黒沢明の最大の業績である。名監督張芸謀が米国「 TIMES」上で評価しているように、「世界に向かう時、中国人としての自分の性格と風格を示すべきだと黒沢明は私に教えてくれた。」,「これはアジアの映画界の人にとってはとても重要な第1課だ。」
終わりに——世界の映画監督黒沢明
黒沢明は東洋の映画監督の手本である。彼が執着した人道主義、人類の運命に対する強烈な関心、人間性の本質を掘り起こしたことは、彼の多彩な映画によって永遠に広く伝えられよう。黒沢明にとって、映画は現実で、更に理想だ。
私は大学に入る前まで、映画という芸術について、全然知らなかった。初めて黒沢映画『羅生門』を見たのはその一年後のことだった。すぐに、私は黒沢映画に首っ丈になった。黒沢映画の中で、英雄に関する作品以外に、当時の普通の日本人を描いた映画もあった。これらの映画の現実性は当時の私に大きな影響を与えた。黒沢映画を通じて、日本人の魂と日本人民の内在的な力を体験することができたように思う。そして、本論文において私は、黒沢の代表的な映画を特徴づけているその英雄(ヒーロー)について理解を深めることができた。このことによって巨大な黒沢映画についてそのいくらかが解明できたと思う。
参考文献:
《日本电影经典》 ——虞吉,叶宇,段运冬著
《影视文化论稿》 ——胡智锋著
《电影一百年》 ——张穗华主编
《日本战后电影史》 ——隆夫著
《电影导演的艺术世界》 ——齐士龙著