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福島第1原発:最前線の復旧作業員 多くは「被災者」

福島第1原子力発電所1号機の原子炉建屋で、仮設の原子炉圧力計を設置する作業員=2011年6月3日、東京電力提供
福島第1原子力発電所1号機の原子炉建屋で、仮設の原子炉圧力計を設置する作業員=2011年6月3日、東京電力提供

 福島第1原発事故の復旧作業にあたる作業員の多くは地元・福島県浜通り地方の出身だ。大半は住み慣れた家を追われ、津波で肉親が行方不明のままの人もいる。「被災者」が過酷な「最前線」に立たされるという矛盾の中、作業員たちの抱える思いは複雑だ。【町田徳丈、袴田貴行】

 40代の作業員男性は自宅も勤務先の下請け会社も警戒区域内。避難所から仕事に出る時は子供たちに「悪いやつらを片付けてくっから」と声をかける。4歳の長男は「頑張って」と無邪気に答える。

 15年近く原発で働いてきたが、今回は想像以上に過酷だった。防護服の中を汗がとめどなく流れ、マスクはすぐ曇り、ゴムで締め付けられた頭がぎりぎり痛む。原子炉の隣、暗く湿ったタービン建屋内で余震に襲われ、恐怖で鼓動が高まった。

 妻や両親は猛反対した。「将来どんな症状が出るか分からない」。4月下旬、「辞めよう」と決意して上司に打ち明けた。上司は止めなかったが、話しているうちに、これまで自分についてきた若い部下の顔や、地元出身の東京電力社員が「何をやっていいのか分からない」と漏らしたことを思い出した。「仲間が死にものぐるいでやっている。誰かがやらないと」

 浪江町の作業員男性(34)は複雑な胸中を吐露する。「仕事がある分、救われていますよ。農家や商店の人は仕事まで失ってしまった」。警戒区域内の自宅に戻るあてはない。

 2次下請けの会社に勤め、避難指示が出た後、母や妻子と九州の親類宅に身を寄せた。新潟県の東電柏崎刈羽原発に仕事を得て4月上旬、柏崎市のアパートに妻(34)、長男(1)と移り、3週間ほど働いたところで福島第1に呼び戻された。

 高濃度汚染水の浄化設備を設置する作業。「事故を起こしておいて、自分たちは復旧作業で食っていける。皮肉ですよね」。とはいえ、いつまで続くのか、不安を感じる。

 同じ浪江町の作業員男性(40)は自宅を津波で流された。5カ所目の避難先となる東京都営アパートで南相馬市出身の妻(29)、長男(2)と3人で暮らしながら、第1原発との間を往復する。

 3月下旬の夕食後、妻が「せめて南相馬には戻りたい」とつぶやくのを聞き、迷っていた第1原発入りを決めた。「原発が収束しないと帰れない。廃炉まで付き合う覚悟はできています」

 原発から5キロほどの所に住んでいた大熊町の作業員男性(64)は4カ所目の避難先で電気ケーブル敷設作業に呼ばれた。40年ほど原発で働いてきたベテラン。妻(63)を避難所に残し、いわき市の旅館から現場に通う。「東電あっての大熊町。ずっと原発で飯を食ってきたから、肝心な時に何の役にも立たないわけにはいかない」

 3号機から時折上がる水蒸気を、間近で見る。「ぶわーっと、ものすごい量。あまり気持ちのいいもんじゃねえな」。人生で初めてヨウ素剤を服用した。妻は心配するが、「最初は怖かったけど、だんだん慣れてきた。ずっと緊張していたら体が持たないよ」と、あきらめ顔で笑う。ただし、「現場に不慣れな東電社員の面倒を見られるのは、自分たちだ」と自負している。

毎日新聞 2011年6月5日 22時21分(最終更新 6月5日 22時55分)

 

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