邪宗に堕ちて以来、本門戒壇の大御本尊様をないがしろにし、本尊はどれも同じです、信の二字にしかない?信じる胸中にある、などとしてニセ本尊を製造し販売している創価学会。
それを騙されて16年も拝んで来た私。
創価にそそのかされ、16年前に正しい御本尊を手放した私。
何としても口惜しい限りであり、痛恨の極みである。
大御本尊様に懺悔してもし切れない。本当に悔しく情けなく思う。
1988年(昭和63年)の春の登山、夏の登山の登山券が荷物の中から出てきた。
正本堂と富士山の写真のある券だ。
思えば、この年の学生部でのタコ部屋生活に疑問を持ち、組織から去ることを決意できたのも、大御本尊様のお導きだったのだろう。
幸せになるための信心が、組織の歯車の一部になり、先生にお答えするためにと、3時間の睡眠と休みの無い組織活動という不条理な生活を強いていた。学祭の準備ということで2ヶ月に及ぶ半監禁生活。学祭が終わった時に感じたのはただの空しさだけ。メタリカのONEという曲のメロディーとともに、これは信心じゃない、そう叫んでいた。
なぜなら、夜学生として、勤めていた勤務先での遅刻や居眠りと多大な迷惑をかけていて、とても心苦しく思っていたからだ。自分の責任だと言われれば、早期に組織を離脱していただろうが、組織側でも幹事という責任を持っていたから逃げられなかった。
そして、一歩引いて自分を見つめた時、俺、なにしてんだろう?社会に迷惑をかけているじゃん。何のための活動なんだよ、イベントを成功させても自分の社会的信用を失ってるじゃん。何の意味があるんだよ。そう思った。
そして、一度学会から離れて、距離を置こう。仕事を通して社会に貢献するのも広宣流布の筈だ。信用を失って、誰を折伏すると言うのだ。そして、もっと一般の人たちとの普通の交流をしよう、学生部の不条理な価値観での青春から、普通の人と同じ目線の価値観で生活がしたい、そう願った。
そのころの思い出に残るのは、毎週日曜日の日蓮正宗の池袋法道院での早朝勤行(6:30)の参加と、ルノワールですすった温かいブレンドコーヒーの味。
あれから二十数年がたった。
さて、学会の考える御本尊はどれも同じという思想は、以下の点に要約できる。
・御本尊は、書画であり、ニセ本尊であっても、正宗の本尊と同じことが書かれてあるから、何も問題ない。
・御本尊は、書画であり、末法の法華経だから、誰が書いたとか開眼供養がとか関係ない。
・御本尊は、信ずる心にあり、信ずる行者の肉団に、胸中にあるものだから、唯授一人血脈相承など関係ない。
・法道院が戦前、戦後まもなく日寛上人の御形木御本尊を版木で刷って授与していた、だから学会も同じ。
・宗教法人として学会は独立してるから、とやかく言われる筋合いはない。
・日寛上人の御本尊をやや手を加えたが、血脈のある日寛上人の本尊だから印刷元が違うだけでニセではない。
・そもそも一閻浮提総与の御本尊だから宗門が独り占めしてるのがおかしい。
御書を読んだ事も無く、聖教新聞を鵜呑みにしてる輩にすれば、どれももっともに聞こえる。
しかし、法義の上からの解釈は上記の考え方にはまるでなく、法義を学んでいないものの解釈。
平成3年以前に創価が金儲けの為に発刊していた御書講義集でいいから、一度読んでみた方がいい。正しい解釈と解説が、やや学会こそが!という独りよがりな思想と共に著述してある。
つまり、御宗門と分裂する前の創価学会の教学は、けして的外れなものではなかったと言える。
特に、創価が発刊している六巻抄講義は、今の創価が主張することと真逆なことが書いてある。勤行の意義やら、本門戒壇の御本尊様に三大秘法が具備してる事なども。
正しい考え方。
・御本尊の根本は、大聖人出世の本懐である本門戒壇の大御本尊様。
・御開扉は御戒壇さま(人法一箇、仏宝と法宝)と僧宝である猊下様がそろって三宝一体となり、それに列席している。大御本尊様には猊下様の花押はない。ご自身が唱導の師として、御戒壇さまに向われている。つまり僧宝。逆に言えば、猊下様を欠いた状態は三宝がそろっていない、僧宝が欠落してる状態。学会の本尊の事。
・義の本尊である授与いただく御本尊は、すなわち、猊下様の花押があることで三宝一体となる。(古い御本尊様は時の猊下様の花押ですが、法水写瓶により現在の猊下様に通じているので問題ない)
・自宅の御本尊で、御開扉を再現している、義として猊下様をとおして御戒壇様に繋がっている。御戒壇様を拝している。創価は猊下様を否定してるので、戒壇の御本尊を想って祈っても血脈が流れてこない。
・御本尊様は、草木成仏口決(御書)の通り、開眼供養により生身の仏である。凡夫は文字に見え、仏は仏に見える。(仏眼)つまり、書画だから同じことがかいてるから同じとはならない。開眼供養と血脈がなければ紙切れ。
・御本尊様は、法体のみではなく、人法体一、人法一箇の御本仏である。
・一閻浮提総与の御本尊とは言うが、与う、法華講衆敬白とあり限定されているし、大聖人がただ一人に相続すると定めているので、血脈付法の結要付属は唯授一人で何も問題ない。これを否定する輩は、日蓮大聖人の御心に逆らう破仏法の者。相続された猊下様の慈悲で我々は参拝できる。猊下様は拝ませないとは言っていない。秘法、秘仏であるから、信徒にのみ参拝を許すのは道理にかなっている。
1.創価学会=御宗門より破門された邪宗・・・が作るニセ本尊
(猊下様の許可なし、開眼供養なし、創価の邪儀が印されている。)
2.池袋法道院=日蓮正宗富士大石寺の末寺・・・猊下様に許可をもらって印刷していた御形木御本尊
(もちろん、正宗の御住職が開眼供養されて授与されていた。昔の話で今はしてません。)
はい、1と2の本尊は、まったく別物です。上に書いた通りです。
法道院と創価学会(破門された邪儀の団体)がどうして同じでしょうか?法道院がご本尊の授与をしていたから創価学会が勝手にやっていいという道理は一切ない。
したがって、創価学会のニセ本尊は、何の許可も無く勝手に正宗の御本尊を盗み印刷し販売してる紙切れです。
また、御本尊は開眼供養がなければ、ただの書画、身延で売ってるお土産となんら変らない。
日蓮正宗の正しい信仰は、戒壇の大御本尊様を唯一の御本仏と拝し信ずることです。
自宅の義の御本尊(大御本尊のレプリカ。といっても開眼供養があるので、分身の仏)を拝することは、大御本尊様を拝してると思わなければ、いくら祈っても信心の血脈は流れてこない。
私は日蓮正宗に復帰して一番感動したことがある。それは、こんな大謗法を犯した私であっても、懺悔し勧戒を受ければ、再び戒壇の大御本尊様にお目道理できる事であり、大聖人様はこんな愚か者の私をじっと待っててくださった。
法華経の悪人成仏や逆縁、下種とは、御仏が一切衆生を成仏させると言う大願の事であり、御仏は信じているのです、一切衆生が仏門に入る事を。
創価学会の皆さん、
日蓮大聖人様は、戒壇の大御本尊様は、御本仏さまは、じっとあなた方を信じて、戻ってくる事を信じて待てて下さっています。大御本尊様は、あなた達を見放してはいません。
必ず、正しい仏法に目覚めてくれると信じているのです。
一日も早く、創価学会を脱会し日蓮正宗に復帰されん事をご祈念致します。
それを騙されて16年も拝んで来た私。
創価にそそのかされ、16年前に正しい御本尊を手放した私。
何としても口惜しい限りであり、痛恨の極みである。
大御本尊様に懺悔してもし切れない。本当に悔しく情けなく思う。
1988年(昭和63年)の春の登山、夏の登山の登山券が荷物の中から出てきた。
正本堂と富士山の写真のある券だ。
思えば、この年の学生部でのタコ部屋生活に疑問を持ち、組織から去ることを決意できたのも、大御本尊様のお導きだったのだろう。
幸せになるための信心が、組織の歯車の一部になり、先生にお答えするためにと、3時間の睡眠と休みの無い組織活動という不条理な生活を強いていた。学祭の準備ということで2ヶ月に及ぶ半監禁生活。学祭が終わった時に感じたのはただの空しさだけ。メタリカのONEという曲のメロディーとともに、これは信心じゃない、そう叫んでいた。
なぜなら、夜学生として、勤めていた勤務先での遅刻や居眠りと多大な迷惑をかけていて、とても心苦しく思っていたからだ。自分の責任だと言われれば、早期に組織を離脱していただろうが、組織側でも幹事という責任を持っていたから逃げられなかった。
そして、一歩引いて自分を見つめた時、俺、なにしてんだろう?社会に迷惑をかけているじゃん。何のための活動なんだよ、イベントを成功させても自分の社会的信用を失ってるじゃん。何の意味があるんだよ。そう思った。
そして、一度学会から離れて、距離を置こう。仕事を通して社会に貢献するのも広宣流布の筈だ。信用を失って、誰を折伏すると言うのだ。そして、もっと一般の人たちとの普通の交流をしよう、学生部の不条理な価値観での青春から、普通の人と同じ目線の価値観で生活がしたい、そう願った。
そのころの思い出に残るのは、毎週日曜日の日蓮正宗の池袋法道院での早朝勤行(6:30)の参加と、ルノワールですすった温かいブレンドコーヒーの味。
あれから二十数年がたった。
さて、学会の考える御本尊はどれも同じという思想は、以下の点に要約できる。
・御本尊は、書画であり、ニセ本尊であっても、正宗の本尊と同じことが書かれてあるから、何も問題ない。
・御本尊は、書画であり、末法の法華経だから、誰が書いたとか開眼供養がとか関係ない。
・御本尊は、信ずる心にあり、信ずる行者の肉団に、胸中にあるものだから、唯授一人血脈相承など関係ない。
・法道院が戦前、戦後まもなく日寛上人の御形木御本尊を版木で刷って授与していた、だから学会も同じ。
・宗教法人として学会は独立してるから、とやかく言われる筋合いはない。
・日寛上人の御本尊をやや手を加えたが、血脈のある日寛上人の本尊だから印刷元が違うだけでニセではない。
・そもそも一閻浮提総与の御本尊だから宗門が独り占めしてるのがおかしい。
御書を読んだ事も無く、聖教新聞を鵜呑みにしてる輩にすれば、どれももっともに聞こえる。
しかし、法義の上からの解釈は上記の考え方にはまるでなく、法義を学んでいないものの解釈。
平成3年以前に創価が金儲けの為に発刊していた御書講義集でいいから、一度読んでみた方がいい。正しい解釈と解説が、やや学会こそが!という独りよがりな思想と共に著述してある。
つまり、御宗門と分裂する前の創価学会の教学は、けして的外れなものではなかったと言える。
特に、創価が発刊している六巻抄講義は、今の創価が主張することと真逆なことが書いてある。勤行の意義やら、本門戒壇の御本尊様に三大秘法が具備してる事なども。
正しい考え方。
・御本尊の根本は、大聖人出世の本懐である本門戒壇の大御本尊様。
・御開扉は御戒壇さま(人法一箇、仏宝と法宝)と僧宝である猊下様がそろって三宝一体となり、それに列席している。大御本尊様には猊下様の花押はない。ご自身が唱導の師として、御戒壇さまに向われている。つまり僧宝。逆に言えば、猊下様を欠いた状態は三宝がそろっていない、僧宝が欠落してる状態。学会の本尊の事。
・義の本尊である授与いただく御本尊は、すなわち、猊下様の花押があることで三宝一体となる。(古い御本尊様は時の猊下様の花押ですが、法水写瓶により現在の猊下様に通じているので問題ない)
・自宅の御本尊で、御開扉を再現している、義として猊下様をとおして御戒壇様に繋がっている。御戒壇様を拝している。創価は猊下様を否定してるので、戒壇の御本尊を想って祈っても血脈が流れてこない。
・御本尊様は、草木成仏口決(御書)の通り、開眼供養により生身の仏である。凡夫は文字に見え、仏は仏に見える。(仏眼)つまり、書画だから同じことがかいてるから同じとはならない。開眼供養と血脈がなければ紙切れ。
・御本尊様は、法体のみではなく、人法体一、人法一箇の御本仏である。
・一閻浮提総与の御本尊とは言うが、与う、法華講衆敬白とあり限定されているし、大聖人がただ一人に相続すると定めているので、血脈付法の結要付属は唯授一人で何も問題ない。これを否定する輩は、日蓮大聖人の御心に逆らう破仏法の者。相続された猊下様の慈悲で我々は参拝できる。猊下様は拝ませないとは言っていない。秘法、秘仏であるから、信徒にのみ参拝を許すのは道理にかなっている。
1.創価学会=御宗門より破門された邪宗・・・が作るニセ本尊
(猊下様の許可なし、開眼供養なし、創価の邪儀が印されている。)
2.池袋法道院=日蓮正宗富士大石寺の末寺・・・猊下様に許可をもらって印刷していた御形木御本尊
(もちろん、正宗の御住職が開眼供養されて授与されていた。昔の話で今はしてません。)
はい、1と2の本尊は、まったく別物です。上に書いた通りです。
法道院と創価学会(破門された邪儀の団体)がどうして同じでしょうか?法道院がご本尊の授与をしていたから創価学会が勝手にやっていいという道理は一切ない。
したがって、創価学会のニセ本尊は、何の許可も無く勝手に正宗の御本尊を盗み印刷し販売してる紙切れです。
また、御本尊は開眼供養がなければ、ただの書画、身延で売ってるお土産となんら変らない。
日蓮正宗の正しい信仰は、戒壇の大御本尊様を唯一の御本仏と拝し信ずることです。
自宅の義の御本尊(大御本尊のレプリカ。といっても開眼供養があるので、分身の仏)を拝することは、大御本尊様を拝してると思わなければ、いくら祈っても信心の血脈は流れてこない。
私は日蓮正宗に復帰して一番感動したことがある。それは、こんな大謗法を犯した私であっても、懺悔し勧戒を受ければ、再び戒壇の大御本尊様にお目道理できる事であり、大聖人様はこんな愚か者の私をじっと待っててくださった。
法華経の悪人成仏や逆縁、下種とは、御仏が一切衆生を成仏させると言う大願の事であり、御仏は信じているのです、一切衆生が仏門に入る事を。
創価学会の皆さん、
日蓮大聖人様は、戒壇の大御本尊様は、御本仏さまは、じっとあなた方を信じて、戻ってくる事を信じて待てて下さっています。大御本尊様は、あなた達を見放してはいません。
必ず、正しい仏法に目覚めてくれると信じているのです。
一日も早く、創価学会を脱会し日蓮正宗に復帰されん事をご祈念致します。