2011-06-04
宗教研究者のバイアス
そのため、これまでなされてきた研究には、不幸なパターンがあった。宗教を研究したいと思っている人々には、決まって心に何か考えがある。その考えは、自分の大好きな宗教批判から守りたいという考えか、宗教の非合理性と無益さを示したいという考えのいずれかであり、このような考えは、彼らの方法を偏見(バイアス)で汚しがちになっていた。そのような歪みは、もちろん、避けられないものではない。
【『解明される宗教 進化論的アプローチ』ダニエル・C・デネット/阿部文彦訳(青土社、2010年)】
これは信仰者においても全く同様である。我々は創価学会を礼賛する情報は誇大に受け止め、都合の悪い情報は無視する傾向が強い。例えを示そう。北野弘久(日本大学名誉教授/故人)が選挙運動で学会の会館を使用するのは政教分離に反すると指摘したことがある。私はギクリとなった。掲示板で紹介したのだが誰も反応しなかった。これははっきり言って分が悪いよ。他党の候補であれば会場を使用するのにお金がかかっているはずだもの。こっちは無料同然だ。しかも学会員が手弁当で支援しているため、遊説や役員などのアルバイト賃金も発生しない(この点は共産党も同じだと思われる)。明らかに平等とはいえない。
また学会出版物や民音チケットなどについても、世間からすれば信者から集めたお金を内部で還流させているようにしか見えないことだろう。これは否定できない。もっといえば、出版コーナーに置く書籍を誰が決めているのかわからないし、学会本部が大量購入する書籍も基準が不明だ。
聖教新聞の多部数購読は環境問題に逆行しているし、聖教新聞の配達は低賃金で会員を利用する格好となっている。やっているのは末端幹部が殆どだろう。愚かな婦人部幹部が「配達員さんは凄い功徳がある」なあんて言ってやがるが、本当にあるなら自分でやっているはずだよね(笑)。
と、まあ都合の悪い真実には目をつぶっているから、いつまで経っても悪い幹部は処分されないわけだ。
本書を正視眼で読むことのできる信仰者はまずいないことだろう。後半はやや失速するものの、それくらい見事な宗教批判だ。