「はあっ……はあっ……」
もうそろそろ、息が続かなくなってきた。
今にも足が千切れて上半身だけ投げ出されそうだ。
できれば今すぐに、走るのを止めてしまいたい。
あと喉も渇いたので、何か冷たいものも飲みたい。
僕の喉にだけ砂漠が出来たような、圧倒的な渇望感。 これが本当に僕の喉なのか。 それを疑うほどの、奇妙な熱気と疲労。
足腰も震えるのを我慢してフル稼働。 恐怖と大きな運動を一気に受けた脚の筋肉が、ガタガタと震えている。
だけど、それでも、だとしても……
「――――――――――あそこだッッ!」
僕は足を止めるわけにはいかなかった。
十分以上走って、今まで感じた事が無いぐらい疲れた。 普段あまり外に出ない生活への報いが訪れたのかもしれない。
運動神経が皆無なこんな体に鞭を打って、ここまで“あれ”に捕まらずに済んだというのだ。
今更この命を投げ出したくはない。 そうだ、僕はまだ死にたくない。
まだ望みを捨てるには早い……柄にも無くそんな少年漫画の主人公みたいな事を考えている自分に気付いた時、こんな状況にも関わらず唇がやや上に吊り上った。
ここまで逃走劇を繰り広げてきて見慣れてきた暗闇の中、さらに濃い暗闇に包まれた狭い通路を見つけた。
それを見て更に唇が吊り上る。 悪戯っ子のような「やってやろう」という感情が僕の中に芽生えているらしい。 今日は本当に奇妙な日だ。
(あの狭さなら、あいつも……)
『ウゥ……ォォォオオ!』
肉食獣の“恐ろしさ”を全て胃袋に詰めたような…………恐らく怨嗟も含まれているであろう、低くくぐもった咆哮が薄暗い路地に反響する。
それが起こす空気の振動だけで、街路樹は今にも倒れそうなぐらいに傾く。 何枚もの木の葉が道路に落ちるのが見えた。
掃除が大変そうな惨状になった葉っぱだらけの道路の上を僕は、“怪物”が起こす恐怖を背中に感じつつ、狭い通路へと走り出す。
“アレ”から逃げられる、という期待感や焦燥感に煽られたのか、疲れた足をより早く動かしている自分。 この時僕は、それに自分で気付いていなかった。
靴が葉っぱを踏む音を聞くまでは。
「あっ――――――」
案の定、というか……
僕はこんな肝心な場面で躓いてしまった。 死が目前に迫るこんな肝心な場面で。
そこから先の瞬間がスローモーションのように感じた。
街灯に照らされた道路の灰色のタールが眼前に迫る。
背後の“怪物”と目の前で僕を襲おうとする衝撃で二重の恐怖に挟まれた気分だった。
せめて鼻は無事であって欲しい、というささやかな願いから顔は自然と右側を向く。 頬を擦り剥くのはこの際よしとするしかない。
咄嗟に腕を前に出そうとするも、運動神経ゼロの僕の腕の筋肉がその脊髄の指令に間に合うはずもなく…………
「ぶっっ!?」
転んだ。 見事に。 盛大に。
予想通りの場所から痛みが走るところから左頬を擦り剥いたかもしれない。 でもそんな事を気にしてる内にも“怪物”は容赦なく僕に向かってくる。
振り向いた時にはもう既により近い場所に立っていた“怪物”を見て、腰が砕けたようにへなへなと落ちた。
『ガルルゥ……!』
「はっ……ひっおまっ…………だっ……くくく、くるなぁ!」
それでも僕は通路を目指した。 砕けた腰で進むからまるで老人のほふく前進のような変な進み方になってしまったけれど。
息遣いに恐怖の色が混じっているのが、自分でもわかる。 でも振り向く事だけはしなかった…………いや、正直に言うと首が後ろに動かなかった。
“怪物”の恐怖に圧倒されるぐらいなら少しでも前進したほうがマシだと思ったからだ。 こんな進み方でも“怪物”からは着々と距離を離せている。
…………正直、ここまで前向きになれたのは人生で今のが最初で最後かも知れない。
或いは、この前向きは生への執着という人間の本能がもたらした必然……僕自身としてはそっちだと思う。 だって、こんな性格だし。
「…………こ、ここだ」
多分、この狭い裏路地ならあの巨体は追ってこれないはずだ。
暗くてよく見えないが、何か遮蔽物がある。 暗くて何なのかはわからないけど、今はそれの影に隠れることにした。
逃げられるという安心感からか砕けていた腰は復活し、無事それの後ろに隠れることが出来て、ほっと息を吐く。
確認すると、車か何かかと思っていた遮蔽物は粗末なゴミ捨て場だった。 …………少し臭うけど我慢しなければいけないね。
『グルゥウ!』
鼻をつまんでいると、またあの不気味な鳴き声が聞こえてきた。
気になってこっそりゴミ袋の隙間から覗いてみると、建物に挟まれた隙間からぎらりと光る“怪物”の赤い眼が此方をぐるぐると窺っている様子が見える。
多分こっちには気付いていないみたいだけど、その無機質な顔をざまあみろと罵る気力なんて今の僕には無い。 というか多分、あってもやらない。
気が付くとその安心感からか、体中から力が抜けた。 そうして僕の体は、自然とコンクリートの壁にへたり込む。
一つ付け加えると、口―――に見える部分―――から覗いた光が怖くて仕方なかった。 あれはもしかして…………牙だろうか?
自分が恐怖に思う対象の正体をもう一度確かめたい…………そんな好奇と恐怖が混ざった目で、“怪物”の様子を再度ゴミ袋の隙間から膝立ちして覗き込んだ。
……だけど、そこにはもうあのギラギラした眼は無かった。 見えるのはぶんぶんと振られる尻尾のような何か。
『…………グルゥ』
その巨体を翻して、ようやく“怪物”は去ったということか。 その鳴き声には、もうさっきみたいな覇気は感じ取れない。
ズシンズシンと重々しく聞こえていた足音は、僕からどんどん遠ざかっていく。 その様子から、暫くしたらまた戻って来るかも知れないという不安がゼロになった。
一部始終を見た当事者の僕は、生きているという実感を喜びつつも、まるで生きている心地がしないという矛盾を抱え込んだ気分が襲いかかって来る。
…………とりあえず今は、助かったんだ。 不安を押さえ込むように、自分にそれを言い聞かせる。
そうして出てきた疲れのようなものに身を任せて、薄汚れたコンクリートの壁に再び背中を預ける。
今度はずるずるとだらしなく座り込む。 ようやく体が落ち着き、自然と安堵の溜め息が出た。
どうやら僕はあまりに疲れすぎて、不安だとか恐怖だとか、そういうのが全部どうでもよくなってしまったらしい。 多分。
「ぁーあ…………」
狭い隙間から見える夜空を見て、ついさっきまでの出来事を振り返った。
こんな体験初めてだ。 きっと、もう二度と味わえないはずだ。 そういう意味では貴重な体験かも知れない。
(いや味わいたくは無いんだけども)
だとしても大事に胸にしまっておこう、自分はそうすることにして、心の中の呟きにフォローを加えた。
そうしているといつもの日常が帰ってくる気がしてくる。 ……なんとなくではあるけれど。
「はぁ……はぁ…………」
肩が上下している事に気付いた。 とりあえず息が整うまではこうしていよう……そう思いながらぼーっと空を見詰める。
しかし息が整うと次は、立てるようになるまでこうしていよう。 と座り続けた。
少し疲れが癒えると、次は歩けるようになるまで。
次は汗が乾くまで……そんな風にして僕は、ずっと空を見上げていた。
――――――――――Episode01:未知との邂逅――――――――――
『【習作】オレと屋根下ハーレム生活』
20XX / XX / X1 一話投稿
20XX / XX / X3 一話修正
20XX / XX / X3 一話修正
春は来ない。 新生活も始まらない。
オレには春なんて無い……。
親もいないしっ! 代わりに元女子寮だった場所に泊まる事になっちゃったしっ!
しかも学校も元女子高で共学になってまだ3年ちょいだしっ! 同性の友達が少ないよっ! オレ寂しいっ!
「おにいちゃ~ん! 朝だよぉ~! 起きてぇ~!」
聞き慣れた後輩の女の子の声がした。
どうやらオレを起こしに2階まで上がって来たようだ。
オレはまだヤドカリの世話も終わっていないというのになんて忙しい女なのだろう。
「…………って」
オレはそんな今の状況を一言で表せる言葉を思いついた。
「それなんてエロゲ!」
普通の男なら思わず飛び跳ねて叫びそうな美味しい状況だろうが、オレにとっては地獄でしかない……
オレには女の気持ちなんてわからない。 この間もツンツンした幼馴染にキスされたりしたし。
「おにーちゃーん! ごはんできたよ~♪ はやくおりてきてねぇ~☆」
そう思っていると、聞き慣れた甘ったるい声が階下から届いてk
カタッッッ-‐‐
「…………書けぬ」
リズミカルな音の響きがピタリと止んだ部屋に、厳格な男の声が部屋に響く。
男は獣のような獰猛さと、年齢以上の風格と理性を併せ持った雰囲気を纏ってそこに佇んでいた。
逆立った黒髪ときりりとした太い眉毛の下では、鬼のような形相でノートPCの液晶画面を見つめる黒い瞳が、全てを射抜く程の眼光を放つ。
「書ァァけェェェぬゥゥゥゥッッ!!」
彼は苦悩していた。
日本人には馴染みが深い雰囲気であろうやや狭い和室の中、小さなちゃぶ台の上にノートPCを広げた状態で。
袴胴衣に包まれた、大柄で筋骨隆々な浅黒い体躯との対比で、ノートPCはまるでコンパクトなタイプの電子辞書のように見えてしまう。
ノートパソコンのキーボードに添えていた指を、グッと握り締めたかと思うと、握り締めた右の手をそれの液晶画面に向けて繰り出す。
「いや、できぬっ!」
しかしその右手は、現れた自身の左手によって、寸でのところで止められた。
彼は、ノートパソコンの液晶画面を殴りつけようとした右手を、左手でちゃぶ台に押さえつけ必死に自制した。
やがてそのまま右手は床まで押さえつけられ、しかしそれでも右手に入った力が抜けない。 男は生まれて初めて自分の体の一部相手に苦戦している。
次は右手に体の全体重を掛けようと、男は右手を押さえた左手の上から、横腹で更に右手に圧力をかけた。
「ぬ、ぬぅ……っっ!」
しかしそれでも右手の力は抜けない。
次はノートパソコンの安全を確保しようと、ちゃぶ台の下から出した左脚の親指で少しずつそれを動かす。
その拍子に袴は完全にめくれ、筋肉でごつごつとした生足がフンドシと共に露になる。
「し、静まれぇぇ! ワシの右手ぇぇぇぇ!!」
とその時、彼が先程まで座っていた場所の、すぐ後ろにある襖戸が開いた。
「……………………と、父さん」
その時、二人の間だけ時が止まる。
聞き覚えのある声で“父さん”と呼ばれた彼は、奇妙な体勢のままその姿を見やる。
立っているのは、筋骨隆々な彼とは対照的に華奢な印象の少年だった。 着ている服は黒光りするボタン式の学生服。 俗に言う学ランというものである。
「父さん……何やって……」
少年は鳶色の瞳で奇妙な体勢の“父”に疑惑の視線を送りつつ、恐る恐る現状を訊こうと口を動かす。
その視線に気付いた父。 しかし彼もまた少年を見て疑問を感じ、視線にそれが混ざる。
少年はそれを感じ取ったのか、途中で言葉を途切れさせてしまう。 この一瞬の間を逃さず、父は少年に訊ねた。
「明日斗(アスト)よ、制服が違うのではないか?」
「え…………」
言われて数秒固まる明日斗と呼ばれた少年に、父が付け加えるかのうに説明する。
「しっかりせい……お前は今日から高校生。 通うのは赤保志(あかぼし)高校。 無論立てるのは……」
「あ! あぁ……そそ、そうだった! それじゃあ、着替えてくるねっ!」
明日斗は父の説明を最後まで聞かずに慌てて引き返し、襖戸を閉めた。
2階への階段を駆け足で上がる音が部屋から遠ざかって、それが父の耳には心地よく聞こえてくる。
「フラ…………まったく……」
父は元の体勢に戻り、大人しく炬燵に入り直した。 その顔は今までのものとは打って変わって真剣なもの。
眼も口も閉じ、顎(あご)に手を当てうんうん、としきりに頷いている。
「うむ……流石我が息子。 あやつには類稀なる素質があるな…………」
次に彼は顔をくわっ、と強張らせて強く叫んだ。
「フラグのッッ!!」
――――†――――
明日斗は本来の“矢先市立 赤保志高等学校”の制服に着替えて玄関を出て登校した。
右手で鞄を下げ、どこか覚束無い表情で初めての通学路を歩き出す。 今日の矢先市は彼から見て、心なしかやや暗く見える。
少年は若干俯き気味なまま歩いているので、その顔は正面からは丁度黒い前髪で目が隠れて見える状態になっていた。
大柄な父と比べて小柄な事もあってか、そんな彼の纏う雰囲気はお世辞にも明るいとは言えないものであり、大多数からはむしろ暗いと言われるだろう。
「……………………」
普遍的な髪型の黒髪、白い肌の貧相な体格、触れれば折れそうな程の暗いな雰囲気と鳶色の瞳。
何れを取っても先程の父の姿とは似ても似つかない要素ばかりで、血縁を疑われても仕方のない容姿。
強いて言えば髪の色ぐらいしか外見上の共通点がない明日斗は、物心が付いた時から少しずつその事が気になるようになった。
なぜか今日はそれを特に強く意識している自分がそこにいる。
「…………はぁ」
明日斗はそんな自分相手に思わず溜め息が出た。 何をそんな小さな事を気にしているんだろう、と。
第一、似た所であんなゴツゴツした体じゃ気持ち悪いじゃないか、と。 そうやって自分に何度か言い聞かせた。
ただ、余りに極端に似なさ過ぎて正直どうかと思った事も何度かあるのは事実ではある。
『渋ヶ谷 明日斗』 (しぶがや あすと)。 16歳。 身長は男にしては低め。
『人に自慢できるような特技は何一つ持ち合わせておらず、“なんとなく”今を生きている』
事実はどうであれ、彼は自分にそんな評価を下していた。 暗い雰囲気は今日だけのものではなく、生来のものである。
過去もこの性格で何度か苦労した事を、彼は未だに忘れることができていない。
「よっ、明日斗! 今日も元気かー?」
そんな彼の気持ちは露とも知らず、背後から陽気に声を掛ける男が一人。
男は笑顔だった。 手を振って友人に挨拶をするという、彼自身にとっては当たり前の行為をしながら。
声を掛けられた本人である明日斗は数秒迷った後、重い動作で振り返る。 見慣れている、逆立った琥珀色の髪が明日斗の視界に入った。
「ん……あぁ、おはよう」
暗い雰囲気の少年は素っ気無く応える。
そんな髪に眼が隠れた少年を見かねた男は、姿勢を下げてその顔を覗き込もうとする。
しかしその行為は、明日斗が前―――正確には少し下だが―――を向いたことにより失敗に終わった。
「どうした? いつもより元気ないじゃねーか」
「そ、そうかな? そんなこと……ないよ?」
明日斗は呟くように返した後、すぐに歩調を速める。 ……まるで男から逃げるかのように。 いや、自覚はなくとも彼はどこかでわかっていた。
自分があの明るい雰囲気に馴染めない気分なのを自覚しているからだ。 だがしかし男はそれに動揺する事無く、歩調を合わせて彼から離れない。
その後も、暗い雰囲気の少年が幾ら早足で歩いても男は付いて行くのを止めなかった。
どれぐらいそうしていただろうか……明日斗は、慌てている男の様子から自分が心配されているのだとやっと気付いた。
「お、おいっ……何だよ一体? 何かあったのか?」
「ごっ、ごめん……なな、何でも…………ないから……」
心配そうに声を掛けてくる男に対して少年は飽くまで「何でもない」を突き通すつもりのようであった。
元気な振りをしようとした。 だが喉から上手く声が出ない。
もう落ち込んでいることはバレているだろう。 いや、挨拶された時から丸わかりだったか、と明日斗は誤魔化すのを諦めて決心する。
自分は父親と自分のあまりの差にがっくりと項垂れています。 今日も元気がありません。 そう言うつもりだった。
「まっ……無理には聞かないけど」
しかし先に諦めたのは男のほうだった。 彼はそういった後すぐに明日斗に肩を並べる。
明日斗はその言葉を聞いて安心した。 なぜなら、父親との差をなぜか今更になって気になってきて、
それで今朝は思い詰めていた。 などという下らないであろう理由でここまで落ち込んでしまったからだ。
馬鹿らしい。
『志乃宮 奏也 (しのみや そうや)』
明日斗と同い年だが身長は高い。 明日斗と比べてではなく同年代と比べても少し高い程度だ。
性格は明るく前向きで、誰とでも仲良くなれるタイプである。
かく言う明日斗も、彼に自分の悩みをあっさり解決されてからいつの間にか仲良くなっていたという。
それが随分と幼い頃の出来事だった為か、今二人は幼馴染とでも言えるような関係だ。
毬栗のようにつんつんと逆立った琥珀色の髪と大きな真紅の瞳は、彼の本質を表すかのように澄んだ輝きを持っていた。
明日斗は奏也を信じ切れないわけではない。 むしろ周りの人間よりも一際信頼しているほうだ。
ただ、幼馴染に無駄な心配をさせるわけにはいかない。 他人から見れば、幼馴染がいきなり妙な事気にし出して一人で勝手に落ち込んでいるだけ。
もしまだ明日斗が奏也に迫られていたとしたら、前述のネガティブな考えで明日斗は更に落ち込み、奏也にまた心配されてまた落ち込む、という悪循環が続いていただろう。
その時の彼には「やはり打ち明けようか」という気持ちがあったが、その必要はなかった。
「…………わー。 アストだー」
二人の前方…………少々曖昧さを正すと数メートル先、というのが妥当だろうか。
感情の起伏があまり見られない……下手すればたどたどしい演技だとも思われかねない、しかし外見相応の幼さが残る声を上げて明日斗を見る少女がいた。
少女の姿を目に入れた明日斗は一瞬、蛇に睨まれた蛙のように竦んでしまう。
それに構わず少女はゆらり、と緩慢な速度で僅かながらに恐れを表情を浮かべる少年に近づいてくる。
『羽須井 須羽 (うすい すう)』
見た所、恐らく二人と同い年だろうが実のところは年齢不詳の謎の少女ということになっている。
濃紺の黒髪は伸び放題で、両目が隠れて見えず、後ろ側を見れば膝よりも下に伸びていて服の一部と間違えてしまいそうな程。
しかしその髪は朝日に照らされながらも確かな艶を持っていたので、どうやら面倒だから手入れをしていないわけではないようだ、と明日斗は人知れず推測する。
そして制服はこれから明日斗と奏也が行く学校の制服のはずだが、実はその学校のルールによって彼女の服装は異質なものになっていた。
少なくとも奏也の知識にあるものではそれが如何なる格好かは例えられない異質さを持っている。
明日斗という蛙は未だに絶句したまま。 その原因は彼女の長い髪を含めた異様にある。
蛙は絶句の間、じっと彼女の服装を見ていた。
下半身は灰色のミニスカートの下にオーバーニーソックスという定番かと思いきや、スカートの上から取り付けられたベルトを始点に長い腰布が垂れ下がっていた。
その腰布は味気ない真っ黒な無地のデザインだが、それが今学校の制服の上から垂れ下がっている。 ……これでは味気ないどころか特上の珍味だ。
もはやスカートなのか腰布なのか。 それは後ろ側を囲むようになっているので前側は透き通るような白さを持つ肌の一部が露出している。 より具体的には太股が。
つまり顔の半分と太股と手以外が黒に覆われているゴシックな格好。 これを奇抜と言わず何と言う、それが明日斗が抱いた感想だった。
「よお、須羽。 オレ達を待っててくれたのか?」
「……ああ、す……須羽。 おお、おはよう」
二人の少年は同時に挨拶するが、しかし今日初めて目にするその装いからは目が離せなかった。
……上半身。 まず袖が着物のように垂れ下がっている。 ようやく落ち着いた明日斗は、袖の下から針でも発射しそうだねと苦笑。
他に目立つ特徴は無さそうだが、それは飽くまでも部分的な特徴だ。 更に言うと彼女の姿は黒ずくめと言えるそれだった為、明日斗の絶句も当然のものだったであろう。
だから彼は挨拶の後に思わず訊いてしまった。
「そ、それ……何のコスプレなの?」
「アスト、これコスプレノンノン。 制服」
「ん~……まあ、確かに赤保志高校は制服のアレンジ自由だって聞いたけども……これはオレも驚いたな」
明日斗の質問に不思議な口調で答えた須羽に続けて奏也が話す。
須羽の異様はそういう事だ。 つまり自由に制服をアレンジした結果がこの黒ずくめだった。
明日斗もある程度はアレンジをしているが、ここまで徹底しているともはや別物だな、と感嘆にも似た息を漏らす明日斗であった。
奏也の「オレはそういうの興味ねーなー」という呟きを耳にした明日斗が彼を一瞥したが、本当に彼の制服には何も手が加わっておらず、須羽と奏也の姿を見比べた明日斗。
そのあまりの差に驚きを隠せず、少年の表情が無意識に二度目の苦笑いへと変わっていた。
そうして話している内にいつの間にか三人は横並びで歩いていた。
快活な笑顔を見せる少年が一人、その右側には笑顔だがまだ少し暗い雰囲気の少年がいて、
更に右側には、表情すらよく見えない黒ずくめの少女がいるというこの光景は……一見するとかなりシュールなもの。
そんな光景の通学路でも、明日斗にとっては幼い頃とあまり変っていない事が嬉しいものに思えていた。
(いつまでも……こんな日々が続けばいいのにな)
人知れずそう望んだ明日斗は…………しかし、その望みが今日潰える事をまだ知る由もなかった。
―――――†―――――
「う…………んぅ……」
苦悶にも似た声……あるいはそのものを出しながら、僕は目を覚ました。
起きたけれど、何もかもが重い。
瞼が重くて目が開かない。
手足が重くて、動けない。
頭が重くて考えられない。
喉が重くて声が出せない。
「…………?」
なんとか首だけを起こし、いつもより視界の狭い寝起き眼で、倒れた自分の身体を見た。
そこにあるのは汚れて色がくすんだ制服。 空色のポリエステルは今や曇った雑巾のように色褪せてしまっている。
……くすんでいるのは制服だけじゃない。 僕もだ。 肌のあちこちが埃っぽくて煙たい。
あとでクリーニング出しとかないと…………シャワーも浴びたいなぁ…………
…………あれ? ぼくはなんで、ここにいるんだったっけ?
「…………あぁ」
―――――思い出した。
{「――――――――――あそこだ!」}
必死に逃げる僕と。
{『グルゥウ!』}
追い回す“怪物”。
あれはひょっとして夢…………だったのだろうか?
その疑問に応えるようにして僕の固定観念、常識、それまで培ってきた知識が告げる。
「そう」だ。 「あれは夢」だ。 「忘れる」んだ。 そうでなくとも、「気付かなかった振り」をすればいい。
だけどその一方で、「あれは確かに現実だった」と脳に伝えるあの時の感覚の名残がある。 体と、頭と…………本能に。
走り続けた時……呼吸が苦しくなり喉が渇き、脚が悲鳴を上げ、シャツが汗でべとべとになったあの時の感触。
忘れられない恐怖。 赤い瞳に射殺されそうになったあの時の感情。
空を見上げながらここに座るまでの、全ての感覚が忘れられない。 まるで昨日今日の出来事じゃないみたいに。
ようやくはっきりしてきた眼で辺りを見回すと、そこは予想通りの場所だった。
昨日―――かは定かではないが―――空を見上げた…………“怪物”から逃げて飛び込んだ路地裏。
あの時は疲れと暗さでよく見えなかった場所も、今はぐるりと見渡せる。
といっても路地裏というだけあって、射してくる日光が少ないのか。 それほどくっきりとした視界じゃなかった。
まあ、今の僕には眩しくなくて助かったけど。
「あぁ…………? うん……」
この状況とこの場所に対しての疑問。 それらが頭の中を駆け巡っても出てくるのは意味を持たない声。
聞いてわかったことだけれども、喉はかなり枯れている。 まだ幼い自覚があった僕の声も、一段と老けたように感じた。
「は、やく……帰ら、ない……と…………」
立とう。 そう思うだけでさっきまでぼやけていた意識ははっきりしてきた。
腕に力を入れて腰を上げる。 腰が上がれば足を立たせる。
けれど……それだけの事をするのに何十秒かかっただろうか。
「うっ……」
壁にぶつかった衝撃で呻き声が漏れてしまった。 このまま歩いてもふらついて倒れそうなので、半ば仕方なく壁伝いに歩く事に。
ここまできて昨日の“アレ”はここまで体に響く事だったかな、と一瞬疑問に思ったけど、そんな事よりも家に帰る事のほうが大事だろうと振り払う。 頭振れないけど。
そしてずりずりと制服の左肩が擦っているのがわかったがこれも気にしないことにした。 まさか入学式当日――なのだろうか?――にこんな事になってしまうなんて。
……やはり性格は直らないもので。 どうにでもなれ、という自暴自棄になった思考の片隅でいつまでも、自己を主張している明日への不安は消えない。
帰ったら父さんに何て説明すればいいのかなぁ……なぁ……なぁ……ナァ――-‐(フェードアウト)
翌日。
まさか制服に予備があるとは思っていなかった。 流石父さん、抜かりない。 しかし、やはり人生とは、そう都合の良いことばかりでもない事に気付かされた。
当然ながら、今日は疲れで授業どころじゃなかった。 といっても初日だから授業なんて殆どなかったけど。 今回はそれが幸いだった。
というか自己紹介が殆どだった。 でもそれが淡々としたものになってしまったのは、僕としてはなんとなく残念でならない。
緊張でたどたどしい態度になる、とかの方がまだ良かった。 僕は疲れていたので自分が何を言ったのか覚えていなかったけれども。
奏也と須羽はそんな僕を心配してくれたけど情けなくなってつい意地を張って「何でもない」の一点張りをしてしまった。
大体疲れた原因が非現実的過ぎる……今でも半信半疑だけど、なぜか現実だと確信を持ててしまう自分に戸惑っている。
…………そんな気持ちで家の門の前に立っている自分に鬱になっていると、不意に後ろから声を掛けられた。
「あ、あの――っ!」
まるで真夏の猛暑を打ち消す風鈴のような心地良い響きの清涼感溢れる女性の声だった。
振り返らなくても活発で行動的な服を着た姿の清楚な女の子が容易に想像できた。 活発で清楚な…………あれ? えーと……うん、もういいや。
「あなた、渋ヶ谷明日斗さんですよねっ!?」
僕はその思い描いた姿への期待と共に、声に惹かれるように後ろを向いた。
「えっと……そうだけど…………………!?」
まず、思わず息を呑んだ。
目の前で僕の名前を聞いた女の子の姿にあらゆる驚きが生まれたからだ。 腰よりも下までさらりと伸びた赤髪は幾らか桃色を含んで輝いている。
その下から覗く、くりくりとした大きな金色の瞳が別種の魅力を備えた輝きを持っていて、思わず吸い込まれそうになった。
「よかった! 実はわたし、あなたに大事な用があって!」
……そこまではいい、そこまではただのとびきり可愛い女の子だ。 なのに……
た、確かに動き易そうな服ではあるだろうけど…………何で?
「…………なんで、鎧なの?」
言って、数秒の間。
この時僕は、しまった! と口を押さえた。 初対面の女の子にいきなり格好の事を質問するとか失礼極まりないよ!
でもさっきの質問をなかった事にする気はない。 なにせ彼女の、服装を含めた雰囲気があまりにもこの日常の風景に合っていない。
美少女なだけならいい、いやそれでも目立つけども……服装が更に目立つ。 彼女が着ているのはファンタジー系のライトノベルに出てきそうな鎧だった。
ビキニ水着のようなピチッとした赤いビキニ水着のようなインナースーツの上から短いオレンジ色のベストが着せられて、
左肩と左腕の甲にはそれぞれ燃えるような緋色の肩鎧とガントレットが嵌められている。
右腕には盾を象ったような飾りが付けられた太い腕輪が一つだけ手首に付けられているだけで他には何も無い。
腰と足にも同じように動きやすそうな鎧。 その鎧の全てが日光を反射していて、「本物だ」と思わせる重厚感があった。
動きやすそうなのに重厚感というのは矛盾しているかもしれないが本当にそうだから仕方ない。
ただそれで戦士然としたイメージがあるかというと、胸の谷間がチラチラ見えたり腰の布の量が少なかったりで、
目のやり場に困るような際どい衣装だったので、あまり“戦い”のワードがしっくり来ない。 ファンタジーだね。
そんな鎧を気にしてうっかりしてしまった質問にも、彼女は気にする事も無くはにかんで応えた。
「これは戦闘用の衣服です! 普段着はちゃんとありますから安心して下さい!」
「そうかそうか…………なんだ戦闘用か……」
それなら仕方ないよね。 そうかそうかじゃあ…………ん?
納得しかけたけど言ってることが色々とおかしい事に気付く。
戦闘用って……このコなに!? 異国のスポーツ選手か何かなの!?
でもスポーツ選手にしては胸が大きいし髪も長いよね……違うかな、露出度も高いし。
いやいや、さっきから胸の事が頭から離れないのはどうかと思うね。 僕、青すぎる。 でもそれ以上に彼女の言った事を問い質したい気持ちが勝った。
「…………いや戦闘用って何!? 君は一体何なの……?」
「コホン…………わ、わたしは……」
僕が訊くと彼女は少し躊躇いがちに咳払いをする。 彼女が息を吸うと、それを見ている僕にも緊張が走った。
一体何を言うつもりなんだろう、という期待と不安が胸に宿った緊張。
小さな口を精一杯開けて僕に発せられた言葉は―――――
「私はあなたの護衛の命に応じて参上した『戦乙女<ヴァルキリード>』、リリアです!」
「…………………………」
時間が止まった。
僕と彼女―――リリアの間だけ。
え? なんてワードが出てきた?
ばるきりーど? 護衛? 胸が大きい? いや待て待て雑念は振り払え! しっかりしろ!
頭を全力で左右に振る。 昨日の疲れがまだ残っているのか少しクラクラした。
しかしそれでも彼女の肌がチラチラと目に入るのでやはり煩悩を完全に払拭する事は叶わなかった。
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、リリアは僕の顔色を伺うかのようにおずおずと此方を見てきた。
……どうやらふざけて言っている感じでも無いので適当に流すのも悪いな、と思い無難に応対することにした。
「リリア……さん、ですか」
「そうです、あと呼び捨てでも構いませんよ……渋ヶ谷さん」
「いえ、僕はこれで失礼するので。 ではっ!」
帰ろう。 門を開ければそこから先には法律の盾で彼女は入れない…………はず、正直自信はあまり無い。
門の取っ手に手を掛けると予想通り後ろから呼び止められた。
こ、この! 根暗な僕でも、こんな時に美少女一人の誘惑ぐらいに負けたりはしない!
門の内側にさえ入れれば多分このリリアとかいうコも帰ってくれるに違いない、正直付き合っていられないよこの電波には!
服装を見た時点で気付くべきだった。 このコはおふざけじゃなく本気で自分を聖女かなんかと自称しちゃうイタい女の子だったんだ!
大体僕の本名まで知ってるなんて怪しすぎるし、これじゃあ逃げるのが普通でしょ?
関わらないほうが身の為だ…………と心中で呟きつつ門の取っ手を引いた。
このあと黒い門が金属特有のガチャリ、という音とともに開く…………はずだった。
「あ、あれ……?」
手が動かない。 いや…………この感触は違う。
何か“物凄い力”で手首を押さえられている。 今度は一体何だというのだろうか。
事件は現場で起こっているんだ、感触の源である手首を見てみよう。 と冷静に判断したのも束の間。
そこには、僕の手首に食い込む白くて細い綺麗な指があった。 この指は……………………………………ナニ?
すると耳元に先程聞いて間もない声がまた聞こえた。
「お願いします、話を聞いてください!」
「ひ、ひぇっ!?」
いつの間にかリリアに距離を詰められていた。 この握力といい、この人は身体能力は大したものなのかもしれない。
金色の瞳に涙を溜めて上目遣いで僕を見詰める姿には、思わず「いいよ」と言ってしまいそう…………電波なのにハイスペックなのかこのコはッ!?
しかし今、その要素は僕にとって恐怖以外の何物でもない。 逃げ出したくなる衝動からつい情けない声まで出してしまった。
「申し訳ありませんが強引にでも契約を履行させていただきます!」
「やややめてよ! は……はは、離して!」
動揺で声が震える。 もう相手には僕の情けなさは存分に伝わったと思う……だからこんな僕相手に本気にならないでよ。
早く開放して欲しい、その一心で繰り返し訴え続ける。
ついでに背中に何か柔らかい感触を感じるが無論今は素直にそれを喜ぶ事はできない。
「ですから……ッ!」
僕の手首に加わる力が更に強くなる。
もうダメ……手に力が入らない…………誰か助けて……僕はこんな所で高校生活という名の青春を失うわけにはいかない……。
と、その時。 僕の手前の玄関からギィ、という扉の開く音がした。
「ぬ? 明日斗よ……何事じゃ?」
僕の予想通り、玄関の扉から覗いたのはまるで格闘ゲームのラスボスのような厳つい顔。
だけどそんな厳つい顔は同時に僕の見慣れた顔でもあった。
「と、父さん! 助けてよ、この人……」
「渇ッッ!」
厳つい顔の男……父さんが突然そう叫ぶと、流石に驚いたのか僕を掴む指の力が緩んだ。
この好機を逃すことなく僕はその手を振り払うと、真っ先に玄関に向かう。
途中「あっ」という声が聞こえたという事は予想外だったのだろう。 僕を掴むことばかりに夢中になっていたリリア(?)に向かって心の中で舌を出した。
「待ってください!」
――――しかし相手はしぶとかった。
「なっ!?」
次はがっしりと左肩を掴まれた。
しかしその手の上から更に何かが重なった感触。
「待つのだ、娘っ子」
その感触の正体は思った通り、父さんの大きな左手だった。
ふと見ると、僕の前には父親の壁のように分厚い体がそこにはあった。 いつもの袴姿で。
父さんをこんなに頼もしいと思ったのはいつ以来だろうか……と思った矢先に、
「一枚……いいかね?」
父さんはなぜか右手にカメラを構えていた。 小型の黒いデジタルカメラだ。
その大きな右手からは、小型のデジカメが対比でより小さく見える。
僕はそれを見て、父さんが何をしようとしていたのか大体察しがついた。 自然と出す声にも怒気が混じった。
「…………父さん」
「とりあえずその戦士っ娘をわしのカメラに収めさせてくれ!」
「何しに来たんだよアンタッ―――――――!!」
自分でも久しぶりに聴いた、僕自身の腹の底からの叫び声が、空しく響いた。