終焉間近の静岡鉄道・秋葉線を訪ねて
プラス駿遠線新袋井駅

 今回はD氏の数ある写真の中から、静岡鉄道秋葉線と駿遠線(袋井駅周辺)を写真で追ってみましょう。後まで残った駿遠線の袋井−新三俣間が廃止になったのは、1967(昭和42)年8月28日であり、秋葉線が廃止となったのは、さらに約5年遡る1962(昭和37)年9月20日のことで、何しろ”亭主”はまだ小学生であり、その存在さえ知らなかったというのが実態である。鉄道史に興味をもつようになり、静岡鉄道の沿革を調べていくと同社に秋葉線という軌道線が存在していることがわかった。D氏の写真を拝見していると、何かしらの説明をつけながら、編者なりに秋葉線への興味を深めてみようと思い立った。
あわせて、二義的に立ち寄った駿遠線袋井駅周辺の写真も紹介しよう。

1.秋葉線
 その前身である秋葉馬車鉄道が開通したのは1902(明治35)年12月28日のことで、笠西村(のち新袋井)〜森町間13.6km軌間762mmだった。遠州森の石松で知られる(といっても若い人にはマイナーになってしまった)遠州森町と袋井の間の秋葉街道に鉄道が敷設された。さらに沿線の途中にあり、幼い徳川家康とその父を戦乱の中から救い出した住職仙麟等膳(せんりんとうぜん)和尚が、旧恩を謝した家康から招待され、席上でコクリコクリと無心にいねむりをする和尚を見た家康が和尚我を見ること 愛児の如し。故に安心して眠る。われその親密の情を喜ぶ、和尚 、眠るべし」ということで可睡齊と名がついた秋葉総本殿への参拝客の輸送を目的に、1911(明治44)年12月28日に本線の可睡口から、可睡まで1.1kmの支線が開通した。

袋井方より太田川の左岸に沿って下ってきた路線は、終点遠州森町の手前で左へ大きく曲がり終点に達する。この華奢な橋梁は当線のハイライトであった。車両(モハ5)は1925年単車で生まれたが、1960年にボギー化された。

秋葉線の始発駅、新袋井(袋井新ともいう)は、東海道本線袋井駅の北側に接しており、右へカーブして北上し、遠州森町を目指した。

その2

新袋井駅が隣接する東海道本線には、種々の貨車を連結した貨物列車が多く設定され、EH10は輸送力を確保する主力機関車であった。

新袋井を出るとすぐ道路上に出て併用軌道となる。駿河銀行の支店の重厚な建物も、道行く人々の服装とともに、この時代を物語ってくれる。

 線名の由来となった秋葉山は森町のさらに奥にあり、標高866mで赤石山系の南端に位置し、天竜奥三河国宝公園に指定されており、山頂からは三河の山々を始め、悠々と流れる天竜川や浜名湖、太平洋もはるかに望むことができ、東海一の絶景と称されている。昔から火防の神として知られる霊山で、江戸時代には全国各地から盛んに参詣登山が行われ、現在も各地に残された秋葉街道と呼ばれる道は、遠い古代から多くの人々が熱い信仰心を抱いて、この山を目指した参詣道が秋葉街道であり、毎年12月15日・16日の両日には、荘厳で神秘的な「秋葉の火祭り」が行われ、信者はもちろん多くの観光客で賑わう。度々大火に見舞われた江戸においては多くの講が作られ、秋葉詣で行い各家々の軒下には秋葉大権現のお札が張られ、落語「牛ほめ」では秋葉山のお札が“おち”にもなっている。

 この秋葉大権現の総元締めが遠州気田川の奥、秋葉山頂に鎮座する秋葉山三尺坊大権現であった。可睡齋の秋葉総本殿は、1873(明治6)年に三尺坊大権現さまの 御真躰が秋葉山より当可睡齋にご遷座されたことからおこったもので、火防霊場として秋葉総本殿三尺坊大権現鎮座道場と呼ばれており、本線、支線とも秋葉山とはきっても切れないものであった。

新袋井駅前広場側のホームに横付けされた列車は、MTMのプッシュプル・トレインのように見えるが、実態はどうだったのであろうか。右手前方に転車台があったようである。

両端駅では、電車で牽引するトレーラの付け替えを行うために機回り線があり、頻繁に入れ替えが行われた。オープンデッキのハ21920(大正9)年天野製。花上氏によると、玉電からの譲受車ではないかとの推定もある。

 1918(大正7)年大日本軌道静岡支社とともに、秋葉馬車鉄道を地元資本の会社で買収使用とする計画が持ち上がり、秋葉鉄道株式会社をへて1924(大正13)年313日に大日本軌道静岡支社の事業を引き継いだ静岡電気鉄道株式会社と合併した。合併後静岡電気鉄道の秋葉線となったのち輸送力増強のために同線は電化と軌間の1067mm化を順次行い1925年に新袋井〜可睡口〜可睡間が改修されたのに続き、可睡口〜山梨間、山梨〜森川橋間、森川橋〜遠州森町間と順次改修を続け19261225日に電気鉄道へと生まれ変わった。その後戦時中に静岡電気鉄道は陸上交通調整法により、藤相鉄道、中遠鉄道などと大同団結して静岡鉄道株式会社となったが、1944(昭和19)年127日に起こった東南海地震により秋葉線も大きな被害を受け、特に可睡支線の被害は大きく復旧できないまま1945(昭和20)年131日から休止とされたまま実質廃線となってしまった。残った秋葉線の本線部分も終戦直後は多くの乗客でにぎわったものの、高度成長期にさしかかると田舎道とはいえ地方の幹線道路上をのんびりと走る電車はモータリゼーションの波にのみ込まれ、邪魔者扱いされるようになり、1962年9月に全線廃線された。

ほぼ中間地点にあった山梨には、車庫もあり多くの列車交換はここで行われた。左手に貨物が積まれており、貨車用の引き込み線もあり、混合列車も見られたようだ。僚友のモハ2とモハ3の交換風景。

 路線は同じ静岡鉄道の駿遠線の駅が在った側とは反対側の近代的な地方都市の駅といった感じの袋井駅前から、ほぼ真北へと路線が延びていた。袋井の街のきれいに整備された町並みは、車体に不釣り合いなバッファーを付けた路面電車が走った頃の情景からは大きく時代が流れたことを感じさせる。街中で原野谷川を渡っていた部分は通りからそれて専用軌道になっていたが痕跡は残っていないとのことで、停留所の脇にあった松の木が今でも同じ場所にあり当時との位置関係を教えてくれるという。

 地図を見ると、国道1号線をこえて進み東名高速の手前の交差点が可睡口(新袋井起点2.5km)の停留所が在った場所ということになり、ここから斜めに分かれる道がかつて可睡支線が延びていた。分岐点から東名高速を過ぎると路線跡の道は川沿いを進む、川沿いに路線があったことが地震での被害を大きくして復旧を困難にしたといわれており、このあたり一時ほどの賑わいはないとはいえ、やはりこうした名刹・可睡済の風格を醸し出してくれる参道のようだ。

実は類似の写真がなく、場所の特定ができないが、右側の車両のビューゲルはあがっていないことから、山梨駅のはずれで撮影したものと推定される。左は6、右側のモハ7は、モハ8と同系で、こちらは袋井市教育委員会の手で保存されているとのことである。

併用軌道といっても、道路自体が舗装されているわけではなく、どこが線路かさえ見分けがつかないレール上を砂埃を上げて走ったという乗り物は、やはり過去の遺物なのだろうか。モハ2は清水市内線から転属してきたもので、鶴見木工製の木造単車であった。沿線随一の集落であった山梨付近を走っている。

 かつての可睡駅の建物はバス乗り場の1つ裏手に残っているとのことだ。地図で本線跡に戻ってその跡を再度たどってみよう。部分的に秋葉街道から外れるところもあるが、概ね街道上に路線が敷設されていた。廃止された1962(昭和37)年頃は、まだこの街道は舗装されていなかったようで、最後の勇姿を撮影に行った諸先輩は、土ぼこりでカメラのレンズまで真っ白くされたようである。下山梨停留所の付近では秋葉線が県道からはずれて専用軌道を走っていた跡が裏道となって続いているようだ。

 

 再び路線跡は県道秋葉街道に戻って、沿線最大の集落であった山梨は、終点あったそうだ。今は、道路の脇に植え込みとしてわずかに空間が残っているのみということである。山梨駅跡をすぎてしばらくゆくと、今でも周りには田園風景が残り、道路こそ舗装されているだろうが、さほど広くない街道脇をよく電車も走っていたものだと、見たことのない光景を思い浮かべる。途中山名神社のあたりから路線は県道からそれて進んでいたが現在も裏道となっているようだ。田園風景の中をしばらく進みやがて町並みが近づいてくると、目前を左右で大きさが違う段違いの錆が目立つ2連のガーダー橋が横切ってこちらは今も残っている。

9m足らずの短い車長で、窓は6個、その電車が立派なボギー台車をはくとかくも滑稽な姿となってしまう。四輪単台車では不安定な感がするも、この格差はなんであろうか。太田川渡りきるモハ5のサイドビュー。

何ともこじんまりとしたこの駅舎が、終点(編者風の表現では裏ターミナル)の遠州森町駅であった。火災除けの名刹秋葉山はさらにバス便で。

出典:私鉄統計年報

 天竜浜名湖鉄道は、第3セクターの手鉄道として苦しい経営環境の中、細々と生き残っているようであるが、この路線は戦時中に東海道本線のバイパスとして急ごしらえで建設された路線で、所詮は需要の少なさが今も尾をひいている。県道は天竜浜名湖鉄道を過ぎると90度左に曲がって太田川を越えているが、秋葉線はやや直進してから、少し北の商店が並ぶ路地を直進し専用軌道となって少し上流で川を越えていたが、専用軌道の跡もいまは道路になっていて、土手に草に覆われて橋台が残っているそうだ。ここから終点の森町まではあとわずかである。遠州森駅跡はバスターミナルとなっているが、かつては3線を有し、転車台もあったとのことである。講談や浪曲で知られた、清水の次郎長の中でも個性派の手下として知られた遠州森の石松のふるさとであるが、若い人にはあまりにも縁がなくなっている。         ■

ホームの高さと特に電動車のドア高さが異なっていたことから、右側のホームに見られるような踏台が活躍していた。左手に付随客車(ハ2か?)が見え、右側のモハ8は、もっとも製造年次が新しい1926年日車製の木造単車。手前の少年は編者よりやや年少だが、どんなおじさんになっているのかな?

山梨駅の遠州森町方に写真のような車庫があった。この付近は秋葉街道から少し離れ専用軌道になっていた。モハ5は、モハ6と同じモハ6形(だそうです)に分類されたが、こちらはボギー化されず単車のままであった。

D氏が訪れた時には、既に軌道線は廃止となり、バスによる代替輸送となる看板が立っていた。

 静岡鉄道駿遠線は、藤枝市街の大手から、藤枝で東海道線とは藤枝で連絡後、南下し大井川の河口近くで渡河し、御前崎の近くの地頭方まで南下した後、北西へ進み、袋井まで達する64.6kmもの長大な路線を有する軌間762mm、非電化の軽便規格の鉄道であった。D氏が秋葉線とともに、この線区の袋井付近で撮影を行った1962年9月という時期は、既に中央部の堀野新田〜新三俣間は、1964年9月に廃止され、東西線区が分断されて営業していた時期であった。
 袋井口の新袋井 - 新三俣間が廃止となるのは1967年8月と、この訪問から5年後のことであった。

秋葉線が国鉄線の北側にあったのに対し、駿遠線の新袋井駅は、南側に接してあった。    D20+ハ112

 駿遠線の歴史を紐解くと、まず藤枝側の大手 - 藤枝新(後の新藤枝)間が藤相鉄道の手で1913(大正2)年11月開業、その後路線は大井川の東側の大井川駅まで達するも、1kmにも渡る架橋を行うことは容易ではなく、対岸の大幡−細江間が開先に開業し、さらに遠州川崎町(後の榛原町)、相良へと路線を延ばしていった。大井川区間は当初は、徒歩連絡、後に人車軌道による連絡であったが、1924年に道路併用橋でやっとつながった。鉄道専用橋となるのは、1937年になってからであった。
 一方、藤枝市街の大手からさらに北へ向かい岡部までの路線を1925年に開業させたが、わずか11年後の1936年には廃止されている。相良からさらに西へ向かい、地頭方に達したのは1926年であった。

左側のキハD11は、1929年に廃止された鞆鉄道のキハ3の譲渡を受けたもので、1928年製の日本初の軽便鉄道用ボギー式ガソリンカーで、車体片側の端に鮮魚台がついている。 また右側のキハD9は藤相鉄道キハ7を引き継いだもので、1941年製で、いずれもダブルルーフ車である。、

 袋井側の路線開業は、中遠鉄道により、1914(大正3)年1月に新袋井−新横須賀間が開業し、その後南大坂 間、新三俣まで延長されたところで、静岡電気鉄道、藤相鉄道などとの戦時統合がなされ、静岡鉄道中遠線となった。戦前派ついに中遠線と藤相線はつながることがないまま、終戦を迎えている。
 戦後、1948年に新三俣−池新田(後の浜岡町)間と、地頭方−池新田間の2回に分けて延長され、1948年9月に大手−新袋井間がつながった。

手前のハ112は、客用扉をつけた客車として自社工場で製作した12両のうちの最後の1両で、1970ねんの駿遠線最後の日まで残っていた。

新袋井駅構内には車庫が併設されており、ここで数多くの車両をみかけることができたようだ。  DB607+ハ111

そのスタイルの無骨さから、「蒙古の戦車」と呼ばれたが、実態はトラック用のエンジンや変速機を使い自社製したもので、いかにもローカル私鉄といった趣きがあった。DB604

 路線の短縮は、1964年9月の大手−新藤枝間、 及び堀野新田−新三俣間から始まり、再び東西に分断され、1967年8月の新袋井−新三俣間の廃止で袋井方(旧中遠鉄道線区)の路線は消滅し、さらに1968年8月の大井川 −堀野新田間 の廃止で、全廃直前には、新藤枝−大井川間のわずか6.3kmと最盛期の10分の1にまでなっていたが、最後まで残った区間も、亭主が学生時代の1970年8月に廃止となり、遂に訪問する機会はえられなかった。

上の写真の編成を反対側から撮ったもので、ハニ2は荷物車との合造車であった。

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