聖教投稿

今までのブログ記事をまとめ、「SEIKYOnet」に投稿しました。

『今回の尖閣諸島中国漁船衝突事件では、多くのジャーナリストが関心を持ち、意見を発表していますが、概ね、政府の対応の不甲斐なさを指摘しています。国民の声もほとんど変わるものでないと考えます。
今回は、国を守るという、基本的な問題に対し、平和主義者であろうとなかろうと、真剣に考えてみる必要に迫られました。この間、中国に配慮したのか、聖教新聞では、記事掲載をためらい、一般紙のトップニュースを一行も報道しませんでしたが、少なくとも、事実の報道ぐらいは載せるべきだと考えます。
また、劉暁波氏のノーベル平和賞受賞ニュースも、公平さを欠くものだと考えます。学会が、国内において、広く平和団体であることが認知されない理由は、このような偏向的な記事扱いも一因でしょう。

もともと宗教新聞は偏向的であることは承知していますが、社会に向けて正義のメッセージを発することが、重大な使命と考えているのであれば、「国家と外交」については避けて通れないテーマであります。友好を築いてきた中国とはいえ、まるで道理が通らない要求をつきつけている友人に対し、強く諭しアピールするのも友情というものではないでしょうか。「ガンジー・キング・イケダ展」に見られるように、非暴力・無抵抗主義の根底には、公平、中立の大前提があると考えます。

胡錦涛主席、温家宝首相と池田先生が親しく会談されたことは、学会員であれば誰もが知っています。人間の性向は単純ではありませんが、権力を手中にする国家指導者が人間的に尊敬に値する者だとは限りません。国を富ませ、経済的な豊かさを国民に提供はしましたが、また一方では、胡錦涛体制でも若者や民主活動家が弾圧され捕えられ、拷問され、死んでいったことも事実です。自由を求める者が命を奪われるのは、昔から、民衆の苦悩を共有した詩人や文学者、知識人、あるいは貧しい最下層の農民たちの代表などの指導者に決まっています。一人の人間として偉大な部分があっても、矛盾したようなこのような権力者の行為は、どんなに素晴らしいことを成し遂げたとしても、やがて罪に問われるのは明白です。
自由を束縛する国家が長続きしたことはありません。中国はいずれ、かつてのソビエト連邦のように崩壊するでしょう。そのとき、今は謳歌を極める権力者は、歴史の彼方に悪人として葬りさられるでありましょう。

学会が今まで努力してきた日中交流の歴史は、民衆間に強い絆を築いてきました。このような堅い友情と信頼は両国の大きな財産であり、隣国として最も必要な友好のあり方だと考えます。先生が中国の諸大学から名誉教授の称号を受けられたのは、その証明でもありますが、権力者との付き合いは余程注意が必要と考えます。

尖閣諸島の一連の問題、このたびの劉暁波氏のノーベル賞受賞についての聖教の報道の仕方、または、聖教啓蒙等の成果主義に走る現在の組織のあり方について、地区でディスカッションする予定です。さらにその輪を支部、本部と広げていきたいと考えております。』

 

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私は、会員の方から見れば、内部アンチということになるのかもしれません。私にとって、そんな決め付けや分類などどうでもよいのですが、信仰が個人の自由意志を基本にし、より良き人生と社会への行動と考えるならば、現在の学会が置かれている状況は、決して安閑としていられないものだと考えます。私の目から見れば、肥大し、進化を拒んで、身動きができない巨人のように映ります。幹部の中に、そんな危機意識を持っている人が、はたして何人いるのでしょうか。組織は時代の変化に敏感に対応していかなければなりませんが、道を失った迷い子ように、信仰組織としての羅針盤を失いつつあるのではないかという危惧があるのです。今一度、原点に帰り、各個人において、信仰そのものを見つめ直し、宿命転換の力強い脈動が感じられる組織、団結、さらに大きく飛躍するために、同志間の絆、あるいは社会にアピールするための寛容精神の養成が必要なのではないか。
もう考える時期は終わりとしたい。そして自分が思うところを、白い目で見られようと、もう見られていますが、勇気を持って行動に移していきたい。

 

私は、15才で入会し、両親の体験を目の当たりにしながら、確信を掴みました。また戸田先生の生命論を読み感動したことを覚えております。現在、任用試験の勉強が全国で行われていると思いますが、私が受験したのは、入会して1年ほど経ってからだと思うのですが、毎晩、数キロ離れた男子部の先輩宅に、自転車で通いました。宗教という概念を覆すとても新鮮な仏教哲学であったこと、そして妙法の素晴らしさが現代的なトレンドにさえ感じました。その頃は、教学部員にも細かく段階があり、教授と言われる段階にはとても無理なように感じましたが、幸い30才頃に合格することができました。試験範囲は、御書全編、特に百六箇抄が中心だったように記憶していますが、詳しく思い出せません。筆記試験合格者は、その後面接試験もありました。青年部時代、地区にあっては、毎月御書講義を担当させていただき、その頃の勉強が今の基礎になっているものと思いますが、最近は恥かしいことに御書をあまり開かなくなり反省しております。
御書と先生の講義、それさえあれば、鬼に金棒だと考えます。

 

ハッキリとした年数は分かりませんが、10年来やってきた支部新聞長を今年6月に交代いたしました。仕事の忙しさもあったのですが、成果を競う啓蒙のあり方に疑問を感じるようになったからです。特に昨年からの毎月のハッピーラインは、無理と思えるような目標に次第に喜びを見い出だせなくなりました。婦人部の頑張りにはただ頭が下がる思いですが、少しでも広布が進展したのかと言えば、疑問符がつき、自己満足に終っていると言えば言い過ぎでしょうか。

 

今から何年前か忘れましたが、会友運動という打ち出しがありました。今では会友という言葉すら、あまり聞くこともなくなりましたが、思ったような結果を得られず、やがて消えていきました。
この失敗とも言える試みは、会員が十分その意義を理解していなかったことにあると考えます。会友何名というような報告をすぐ求めてきたことから言えば、県レベルでも理解していたか、疑わしいところです。じっくりと腰をすえて取り組むべき長期的視野に立った運動の主旨の無理解は、すぐ成果に結びつけたくなる学会の悪い体質が出たものと考えます。それとも単純に、選挙目当てだったのかもしれません。

 

学会活動脳を転換するのは大変なことです。友人作りが、すぐ折伏対象者と考えてしまうのは、菩薩の思考回路とはいえ、前時代の折伏行進の遺産とも言えます。経済環境も変化し、生活のなかでの価値観の多様性、嗜好性、さらにそのなかから自由に選択肢をあげることができる現在の恵まれた環境は、個人の意思を尊重する社会全体の仕組みが成熟しつつあるものと思います。もちろん問題も多々ありますが、今までの折伏マニュアルが通用しない難しさを感じます。一様な対話では納得してもらえない個々の考え方、環境があるように思えるのです。
そうであればこそ、なおのこと、一対一の対話の重要性、問題意識の持ち方について熟慮が必要なのです。要は対話の中身です。菩薩行とは対話による覚醒運動です。

今までの諸活動をすべて整理し、リセットし、社会性と学会の発展を考えた活動スタンス、先生の指導を元にした他者共存の寛容性、平和についてのイデオロギーとしての創価思想の学習など、今後の学会が進むべき方向性についての明快な考えがリーダーの条件とも言えるのではないでしょうか。
時代の要請からも、先生の指導からも言えることは、今までとは違う行動と思想性が重要であることが分かります。先生の思考は、我々には、背が見えないくらいに遠くに進んでいます。考えることもしない、勇ましい言葉で煽るだけの、がむしゃら指導にはもう誰もついてはいかない。また心からの歓喜も生まれない。ブッデイストの健全さを発揮しなければならない傾向は、今後益々強くなるものと考えます。

 

先生は、今月の大白で(10月号:P25)「仏法は勝負」について指導されております。

『仏法は勝負です。一人の信仰者の勝利が、仏法の勝負です。師である日蓮大聖人は、御自身が「仏法は勝負」と厳然と障魔と戦われ、すべての魔性を打ち破れられました。末法に生きる私たちの勝利の道を無限に開いてくださいました。その勝利の実証によってこそ、末法の衆生を救う大法が、この現実世界への流通を開始したのです。
大聖人は、広宣流布・民衆救済という「法華経の命」を蘇らせたのです。では、この命を継ぐのは誰か。この道をさらに広げ、末法万年の人々を救うのは誰か。それは師と同じく「仏法は勝負」と挑戦し、勝ち切っていく弟子以外にありません』

師とは大聖人のことです。自己の弱さに勝ち、内面にある魔性を克服していく姿に、妙法の功力があります。魂の勝利、自己実現の証明があります。生命浄化があります。自分自身の姿勢一つで、現実変革の躍動する精神性の実証があります。どこまでも自身を啓発する、弛まない継続性が要求されるがゆえに、困難な運動です。大聖人が示された姿が、それを表しています。そのうえで結果として、勝利があります。
「仏法は勝負」という言葉の基本にあるのは、個人の信仰への確信です。そして長い展望に立った社会に対する仏法者としての挑戦です。弱者への配慮、社会への献身、貢献なくして勝利はありえません。幹部が好んで使う、単に勝ち負けをイメージするような平面的、表面的な勝負という意味を強調するのは、先生の真意とはかけ離れています。「勝負」とは自己変革そのものだからです。

 

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千年の祈り
姫神

    • MT
    • 2010年 10月 14日 11:06pm

    お久し振りです。
    今日は、座談会でした。返事遅くなり申し訳ありません。

    一支国さんは、賢明な常識人だと考えております。顔を拝見したことも、話をしたこともありませんが、私の直感的な印象です。また一面クールさもあり、公平なジャッジメンとしての役割を、意識しようとしまいとお持ちなのではありませんか?
    今、学会に必要なのは、まさにそういうルールを自然と体現した人で、冷静に本質を見抜ける人が不在なのだと感じています。

    聖教ネットに投稿はしましたが、返事はないものと考えております。メルアドが必須条件にしては、つれない新聞社です。煩雑なことでも、同志と言われるつながりがあるのなら、サポートすることの大切さを理解していただきたいと考えています。
    池田先生の偉大さは、私には、たぶん理解できていません。ブログにも書きましたが、先生の遠い背中が見えるだけです。凡人には、天才は理解が難しいのですね。先生の胸中は、きっと孤独なのだと推察いたします。先駆者はある意味、いつも不幸を、満たされない使命を、感じていらっしゃるのではないかと、失礼なことと十分知りながら、先生のお心を思い浮かべてしまいます。

    Diversity さんは、コメントが書き込めないようになっておりますので、勝手にリンクさせていただきました。マルチな視点と問題意識には、学ぶところが多く、私よりずっと年齢が下だと思いますが、得がたい人だと感じています。しかし、こういう人を人材と見抜けない現在の組織に問題があります。花を咲かせるためには豊かな土壌があり、いろいろな元素と栄養素が必要です。詩心(創造力)という土壌の豊かさが、組織の要です。それは多様性の花です。共感の種です。

    総じてあるいは別してという、都合のよい言葉を持ち出すと、正確でもありませんし、大雑把ですが、同志は、世界中におりますが、別して、何でも忌憚なく話し合える同志は、私の回りには皆無です。ネットで、一支国さんをはじめ皆さんと知り合えたことが、私には大変励みになっております。
    またお出で下さい。


    *<Great Spirit>


    *<Sacred Medicine>

    • 一支国(そうかねっと)
    • 2010年 10月 14日 5:19pm

    私も似たような考えなのですが、思考を上手く整理できないのと、文章が下手なものですから、まだブログの方には書き表せていません。Diversityの一平さんと同じような問題意識をお持ちの方だと思っております。ネット上にはまだ他にもそういう問題意識をお持ちの方が見受けられますので、希望が持てるなとは思っております。

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