入院された方へ

   例会の発言について
                          院長 下司孝麿

例会で指名され発言を求められたとき、どのように言ったらよいか、初めのうちは戸惑うものである。
先輩の方々が非常に上手に話しをされるので新しい人はどんなことを言っていいのか見当がつかない。

しかし、困ることはない。
例会の発言ではまず第一に体験の発表をすればよいからである。
自分が酒を飲んでどのような醜態を演じたのか、どのように家族や社会に迷惑をかけたかといった事の具体的な話しをすればよいのである。

一般的な抽象的なきれいごとを話しても、聞いている人は感動をしない。
難しい抽象論はよっぽど頭のいい人でないとなかなかまとめることが出来ないので普通の方は言うことがなくなって会へ出るのが嫌になるのである。

体験談と言っても一遍に自分の過去何十年間を五分や十分で話せるわけがないことは判りきったことである。
与えられた短時間に総てのことを話しをしようとするとどうしても上滑りな説得力のない話ししか出来ない。
それで第一回目の時には大凡のアウトラインを話すとしても、第二回目からは、個々の一つ一つのことを話していったらよいように思う。

例えば、ある日のこと自分は酒は飲むまいと会社に出たけれども、帰りについ友達に誘われて飲みに行って、それが一合、ニ合のつもりが五合になり一升になって、そして気がついたらブタ箱に入っていた。
そして、翌朝は昨夜のことを知らなくて本当に恥ずかしい思いをして帰って来た。
もう飲むまいと思ったけれど、またその晩同じことを繰り返した、という風な自分の体験談をハッキリと思いだして詳しく述べるといいと思う。
そうすれば、誰でもそういうエピソードは何十もあるはずである。
それを思いだして喋ればよろしい。

自己中心的で他人の迷惑を顧みず、酒を飲む生活をしたことを、その為にどれだけ家族や社会に迷惑をかけたかということをじっくり思いだして貰いたい。
平生から、幾つかのそういう思い出を溜めて、ノートに書いておいてはどうだろうか。
そして、その中の一つ一つを発表していくことである。

特に大事なのは酒を止めようと思ってから飲みたいときにどうやってそれを克服したか、また他人に打ち明けて慰めてもらい励まして貰った事実を話すのである。

下司病院の三愛主義は、慰めあい、励ましあい、助け合いの三つである。
助け合いにはお互いに理解しあわないと助け合うことが出来ない。その第一歩が院内例会で自分の酒にまつわる話しをすることである。
それによって、お互いがアルコール依存症であるという仲間であることを認めあう。

なかには「自分は人を殺して刑務所に入っていた」という人がいる。普通の会合では刑務所に入っていた等というとおそらく軽蔑され、恐れられるであろう。
しかし、断酒会では違う。
皆の前で告白することによって断酒仲間へのパスポートが得られるのである。
あれは可笑しな奴だと誰も言わない。勇気を持って発表出来たことを賞賛の眼でみるのである。

恥ずかしいという感情を例会では捨てなければいけない。とにかく赤裸々に自分の過去を全部ぶちまける、ぶちまけてしまうことがアルコール依存症から立ち直る原動力になるのである。
ここでは、自分を繕ってきれいごとを言っても仕方がない。

そしてアルコール依存症克服の為のグループとしての連帯感を養わなければならない。
だから、会の初めに「私はアルコール依存症で入院しているだれそれです。私はアル中の誰です。あるいは私は酒害者の誰某です」とはっきり宣言するのがよいと思う。

さて、例会では発表するとそれに共感を示す意味で絶大なる拍手が応えてくれる。
本人も話しがいがあって、次にまた話そうかなと思う。

が、それだけでは寂しい。
発言に対する反応があった方がなお一層好ましい。それに関連して誰か、ニ、三人の人が追加発表のような格好で自分の体験を述べる。
そこで、親密な友情が生まれるのである。

断酒会へ出席しても毎回同じことをいう人があるが、何回も同じことを繰り返して言っているようでも月日が経つにつれて段々その内容が変わって来る。
やはり三月たち、半年たち、一年たちするうちにものの考え方が変わって自己中心的な考え方から、他人を思う思いやりの心が生まれて来る。

例会へ繰り返し出席することによって心の中に断酒習慣が作られてくる。
体で覚えるといってもよい。
脳の中で断酒決意の条件反射が強く形成されるのである。
酒を飲みたいというこれまでの脳の中の道を打ち壊して酒を飲まないとい新たな道を作るのである。

原野に道が生まれるとき、人が一度歩いただけでは道は出来ない。何回も、何回も歩いていると自ら道となる。だが、人が歩かない方の昔の道は草が生い茂って消滅する。

それと同じようなことが脳の中でも起こるのである。酒を飲もうとする脳の中の道を歩かずに飲まないでいると、飲みたい心は消えていく。
だから、飲まないという脳の中の道を繰り返し歩いていかねばならない。
そのように考えてみると例会では飲まない決意を繰り返し頭の中に入れることが大切である。

例会というものは他人が聞いてもそれほど面白いものではないかも知れない。
ただ、断酒に関心のある人が熱心に聞いていると、滋味溢れるこれほど感動の深い会はないのである。
酒を止めることが不可能と考えていたのに、簡単な方法で止めることができるので発見の喜びは大きい。
また、健康と家庭の団欒を取り戻し、社会の信用を得たことに対する喜びを噛みしめるのである。

だから、退院後も断酒例会では出席が楽しみであらねばならない。
千里の道を遠しとせず、しかも夜間にこの例会へ馳せ参じるのである。
もし、この会の中で争い事が起きるとその人はもう次から会に来なくなる。従って、この会では争いごとをしてはいけない。
宗教上のこと、政党のことになるとそれぞれの人が意見が違うので、そういう争いのもとになるようなことを持出してはいけない。

断酒会ではただ、自分の体験を発表してそれに基づく意見を述べるだけである。
そして、自分と異なった意見の人々があったとしても、それに反撥をしてはいけない。
その人はそれでいいのであるから聞き流す。皆それぞれ工夫があってしかるべきである。
もし、追加したければ私はこうしているという表現で発表をする。

ただ、断酒会であるので節酒論は絶対不可である。節酒論を信じている者はこの会に出席しないか、また出席しても自分の意見を述べずに人の意見を聞くにとめて欲しい。
その他は自分が正しいと思うことを、自分の体験談として述べるわけである。
しかし、余りに間違った考えであるときには、そのような考えで酒を飲んで失敗した人もあることを申し添えるが良かろう。

例えば、宴会へは出ていっても自分は頑張ってやっているという人がたまにある。
それは職業上やむを得ないときもあるから無闇に「いけない」とは言わないが、その代わり、その人は非常な努力をしていることを発表せねばならない。
だから、一般には危ないところには近寄らない方がよろしい。
しかし、どうしても宴会に出席せねばならない人はそれに相応しいだけ努力を重ねることを忘れてはいけない。
十年、二十年断酒をしている人でもなるだけ宴席は避けるのが賢い。

以上、述べてきたように断酒例会出席は断酒の為、欠くことの出来ない大事なことであるが、例会では断酒の話しのみである。
運営の話しや雑談は別の機会に譲るべきである。発言は五分以内、嘘は言わない、ありのままを話すべきことを申し添えておく。