松村精神
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□ 酒の嫌になる薬 昭和25年5月12日(夕刊) 高知日報 下司孝麿 (リレー随筆 第一面 晩餐后) 今年の始めの頃、日報の記者がやって来て「先生、何か珍しい薬はありませんか」と問うものだから「酒の嫌になる薬があるよ」と、うっかり喋ったら、早速「くろしお」欄に書かれてしまった。 ところが飲ん兵衛を亭主に持ったおかみさん、酒癖の悪い恋人を持った女等々から、深刻な問合せが殺到して、土佐は酒国だなと、今さら思い知った。 須藤博士の話しによると、戦前の土佐は、あらゆる種類のアル中患者がいて、他県には見られない壮観を呈していたとのことで、戦時中はさすがに減っていたが、戦後いち早くカムバックしたのは土佐一国の名誉とは申し難い。 酒飲めば放火する男、意識混濁して動物が見えたり、大蛇に巻き殺されると思った男、記憶を消失した男、心臓が騒ぎ死にかかった男等、実に多彩である。 さて、前置きが長くなったが、酒を止めさす方法は何れも条件反射を応用する。 或る犬に一定の音を聞かしながら食べ物を与えていると、遂にはその音を聞いただけで唾が出て来る。 梅干しと聞いただけで、唾の出るのもこの類いである。 飲酒する度に不愉快なこと、例えば嘔吐が必ず伴うと酒を見ただけで吐き気を催して飲みたくなるというわけである。 昔のことはさておき、現在酒嫌いの妙薬に三つあって何れも数千例の治療によって、その効果が確かめられている。 その一つは、アポモルヒネ(麻薬)であり、第二はエメチン(アメーバ赤痢、肺ジストマの薬)である。 この二つは昔からある薬で入手しやすい。 第三が、この頃有名なアンタブス(アンチ・アビュース 乱用を防ぐの意)で、デンマークで駆虫剤の研究の副産物として生まれ、ノルウエー、フィンランド等、北欧で寵児となって愛用されているそうである。 飲みやすくて、値段が安くて、しかも危険性が少ないのがこの薬の取り柄である。 一服飲めば、数日間効果があるので、毎朝一瓶内外飲むだけで良い。 但し、飲ん兵衛の老人が鯨飲中にアンタブスを飲んで死んだという報告もあるから、酒を断っておいてから服用しなければならない。 アメリカやデンマークでは、アル中専門の病院が存在する程患者が多いが、幸せなことに日本では割合に少ない。 しかし、軽犯罪法で大虎小虎は必ず病院に収用することにすれば、さしあたり土佐はアル中病院建設候補地の随一であろう。 入院患者は全て、アンタブスで治療して酒飲み退治を徹底すれば、喜ぶのは女性群であり、困るのは酒屋さんであろう。 それで、私は随筆のバトンを花の友の社長に渡して御高説を拝聴することにしたい。 〆 (注、花の友は酒造会社である。1950年には断酒会はまだなく AAも知られてない。条件反射を応用する薬物療法のみを私は語っている。記者は松田忠吉氏で県内きっての文化人でもあった町田病院町田昌直院長のところに立寄った序でに東隣の向い側にあった精神科に立寄りよく話題を拾っていかれた。松田さんは高知日報社が潰れると高知新聞に入社し、学芸部長になられたと記憶をしている。当時町田病院は帯屋町二丁目のダイエーの位置に眼科・外科・精神科などをそろえていた。) □ ちょっとお顔を 昭和25年12月13日 高知新聞 断酒療法の開祖 医学博士 下司孝麿氏 ▽… わきに一升瓶がニ本かしこまってござる。さりとて〃ムム、仕事のヒマにやるとみうけた。さても話せる先生じゃなあ〃と早まりめさるな。この酒、れっきとした清酒にはあれど断酒に一役買う妙薬?ここに控えまするは左党にとっては大の鬼門エメチン療法でいま売り出しの下司孝麿博士。当年とって三十六歳。 そもそもエメチン療法とはアミーバ赤痢や肺ジストマによっく効くエメチン、こいつを酒と一緒にのみ下せば二十分、四十分、一時間とたつうちに、グワッと吐き出す。吐いてはのみ、のんでは吐き四度、八度、十六度とつづけるうちに酒を見るのもイヤになる段取り。 ▽… 外国文献でほの見たところをわが国でもためさんと、ことし六月十二日から香美郡日章村の松木なにがしを実験、もののみごとに成功、十月九日発表におよんだところ共同通信に流され全国津々浦々に知れ渡って大当たり、この六十日がほどに遠くは広島県や大阪市、近くはお城下から訪れたのみすけ患者は百と少々。手紙問合せに至ってははるか北海道の二十通はじめ二百七十と四通。これがウソでない証拠に手紙の山が手許にござった。 ▽… 高知市で生まれて育ち、岡山医大を出た後もあらかたは土佐住まいの生っ粋の高知ッ子。だがもとより酒はゲコなれば義理にも土佐の乱れ酒いいとはおっしゃいませぬ。日本学術振興会研究誌の頁をめくって「秋田につぐ酒のみ県高知では脳溢血の死亡率が高い」とやっつける。 「全国のアル中患者が十万あると見て家族を含めて五十万の苦しみを救わん」と思い立ったが断酒十万人の悲願? ▽… してエメチンの効き目やいかに! 「九割は間違いなし。一生なおるは三分の一。ただし土佐に酒の悪友多きを遺憾」 無理につがれてのむうちに一合がニ合三合…一升となり逆戻りの恐れあり。要は療法後の精神力が大切。 ―エメチン効かざるその時は― 「アンタブスを用いんといま研究中」これデンマーク産断酒の劇薬。 ―エメチンは高きものにあらずや― 「否、酒一升、二升のむくらいのもの」いとお安きわざならん。 ▽… 「大望は麻薬療法。成功すればノーベル賞間違いなし。ハッハッハ」 いささか風呂敷ひろげすぎる嫌いはあれど断酒療法まず成功とおみうけした。 〃ノーベル賞〃にあらずして酒でさんざ困ったあげくエメチン療法で救われた人々から〃ノーメヌ賞〃とたたえられていることは確か。(文弥) □ コレハ耳ヨリナハナシ 昭和25年12月××日 効いた?酒きらいの薬 朝日新聞兵庫版 本紙既報=どんなひどいアル中患者でもピタリと治り酒が嫌いになるという奥さん方に耳よりな藥−エメチンによる反射心理断酒法はまだ試験的段階だが、これを服用し、地方きっての好酒家の名を返上した男が丹波地方にあらわれ話題を投げている。 氷上郡柏原町柏原、著述業の山上行夫氏(33)=仮名=がそれで同氏はこの地方きっての酒好家であったが11月初旬「酒をやめることを決意」このエメチン反射心理療法の主、高知市帯屋町町田病院の精神科内科医下司孝麿博士にこの療法を依頼、同博士より送られたエメチンと呼ぶ白色粉末剤を夕食後10間服用したところ効果はてきめん、以来一滴の酒もむねが悪く吐き出しそうで飲めなくなり人々を不思議がらせている。 山上氏談 15、6の時から今日まで我ながらもよくこんなに飲んだと思うほど飲み続けたが、ある理由で断酒を決意し、エメチン療法を下司博士にお願いし、10日間服用したが現在ではもう一滴も飲めません、私と同じような立場で酒をやめようと決意される方にこの療法をお奨めしたい。 □ 効果覿面のエメチン療法 昭和26年2月12日(日曜版) 夕刊静岡新聞 絶対お酒が嫌になる 効果覿面のエメチン療法 呑ン平の旦那に泣く奥様への福音 〃失われた週末〃を体験した高知市在住の松本義松さん(40)=船員=は完全なる幻覚症アルコール中毒者であったが、「アル中患者がぴったり酒の嫌いになる療法」があることを聞いて、療法の主、高知市帯屋町町田病院の精神科内科を受け持つ下司孝麿博士の門を叩き、僅か通院一週間でさしものアル中もきれいさっぱりなおり、酒を見るだけで虫ずが走るようになったという、ではその療法は・・・ エメチン反射心理断酒法はしごく手軽に誰にでも自宅でできるエメチンと呼ばれる白い粉末剤(吐根から採った催吐作用のある輸入薬)を食後二時間して小量(0.04グラム)服用し直ぐ後で酒または焼酎を5勺から一合をゆっくり飲み、一時間して吐かないときは指を口中に入れて吐き出す。 それでも吐かない時は翌日量を二、三倍にして飲む。これを毎日一回十日間続けるとごく重いアル中患者でも酒の匂いさえかげなくなるといった簡単なもの。これはいわゆるパブローパーの条件反射(例えば梅干しを見ただけでも口の中がすっぱくなってくるような現象)を応用したものでエメチンと同時に酒を飲ませ胃をいじめつけて吐かせる、これを十回も繰返せば酒を見ただけで胃が嘔吐反射をするようにしつけられ、酒が嫌いになるという理屈であり副作用はほとんどなく酒を一、二合買う程度の費用で完治できる。 エメチンは元来アメーバー赤痢や肺ジストマに効く薬で、これを応用した禁酒法は古い欧州の文献にもみられるが、日本で試みたのは同博士が始めてでこの間にエメチンより強力に効くアンタブス療法という禁酒法もあるが苦悶心臓停止などの危険を伴うのでまだ研究の域だ。 下司博士が現在まで直接手がけた患者は百人を超え、そのうちの九五%は完全に飲酒泥酔党から永世局外素面党に切替えられ、あとの五%は大半が酒との惜別の念断ち難い意志薄弱組らしい。「この療法は右か左か決心した人以外には効きめはありません。中立は駄目ですよ」とは博士の弁。 この療法のご厄介になった患者のうち変わり種を二、三拾ってみると (その一) ある料理屋の板場さん(男=卅五)、日頃酒くせが悪く、下司博士が禁酒療法をやると聞き、数回同病院に泥酔して「俺の酒のみが治るなら直してみろ」とどなり込んで来たが、とどのつまり博士の療法の実験台になり、その結果は今では借りて来たねこの子同然におとなしくなった。 (その二) つぎはある官吏(男卅八)、酒のさかなにリンゴが好きで、治療のさいもリンゴをさかなにして酒をのんだため条件反射がリンゴに及び、酒がのめなくなったのは良かったが、罪のないリンゴまでぬれ衣を着せられ食べられなくなった。(共同) 【写真は美人芸奴三人にすすめられても真っ平ご免だと手で断る酒好きだった彼氏。どんな顔やら見えぬのが残念。】 □ 第48回 日本精神神経学会総会要覧 (第13回日本医学会第23分科会) 会期 昭和26年4月2.3.4日 会場 東京慈恵会医科大学 83 抗酒剤アンタビユースに就いて ○高橋宏 宮澤修(東大精神科) 川田仁子 アルコール嗜癖に対してアンタービュース(テトラニチルチウラム・ディズルフィッド)を抗酒剤として用いた臨床試験について報告する。 84 慢性酒精中毒症に対するエメチン療法とアンタビユース療法 ○下司孝麿 (高知市町田病院精神科) 尾木傅六 ( 〃 ) 田邊善丸 (高知市精華園) 昭和25年6月13日にエメチン療法を始めてから同年12月31日までの間に断酒希望者が403名あり、その中115名を治療し、治療成績の明かな83名について報告する。 治療の方法は硫酸エメチン40瓱(20瓱乃至150瓱)を1日1回清酒焼酎等(3勺乃至2合)といっしょに飲ませ、ふつう10日間毎日續けて治療した。上記83名は3回以上治療した者であって、治療直後の成績は全然飲めなくなった者48名(58%)、飲みたくないが無理に飲めば飲める者、或は飲酒量の減った者25名(30%)、無効10名(12%)である。再発例もあるが、一番長く有効な者は6ヶ月で持続している。 エメチン療法の原理は、嘔吐その他の不快感と飲酒とを結合さした条件反射が主であって、これに精神療法を加味して行かねばならない。この療法の良い點は副作用が少いこと、自宅でも治療ができることである。 アンタブス(日新化學)を1例に試みた。2日間アンタブスを飲んでから15日間焼酎とアンタブス(0.5)を連用さしたところ酒は嫌いになったが、可逆性の痴呆と四肢の失調を生じ、心電図に異常はなかった。 注:1951年当時、薬物療法に「精神療法を加味」としたところが画期的で、後の断酒会、アルコール依存症療法の糸口となっている。 □ 松村春繁への手紙 下司病院 院長 1958.1.13 ものには始まりと終わりがある。松村春繁初代断酒会長が亡くなって三十四年(二千四年現在)にもなるが、四十六年前に断酒会を創るように働きかけた私の手紙を松村さんの死後に、奥さんが届けて下さった。その松村文子さんも今はいない。 時の利と、人を得て断酒会は大発展をしたが、今ここに氏への私の手紙を初公開する。 * 松村春繁 様 本日は思いがけない、嬉しいお便りを頂き、有り難う存じました。 血のにじむ様な御体験は誠に尊いと思いますが、それを御自分だけに秘めておくのはもったいない。 多くのアル中の方々に公開し、お酒にとらわれている方々の救世主となってはいかがでしょう。 アメリカにはそういう無名の人々による治療(alcoholic anonymous)が盛んです。 アル中から脱出した人々が、アル中に悩んでいる人を説得するだけで、七十五%は治ると云われます。 費用は無料、教会の地下室等を利用して一週一回やっている様です。 高知でもある方が町田病院でやっておりましたが、只今では立ち消えになっています。 ハッピイ・ニュー・イヤーを御自身だけでなく、人々に分け与えて頂きたいものです。 先ずは御礼と共にお願いまで。 一月十三日 下司孝麿 * 当時私が勤めていた帯屋町十三番地の町田病院の便箋と封筒が使われており、昭和三十三年一月十三日の郵便印が押されている。 郵便料金は当時十円、高知市若松町二十 宮地海運内 松村春繁行き □ 「断酒の誓い」他、旧版のご紹介 全国に普及していた「断酒の誓い」他は全断連中央で討議の結果、1994年(平成6年)6月26日に改訂となっております。 旧版にも個性的な評価がありますが、改訂はジェンダーなど時代変革の波によるもので、禁酒会が漢文調で使っていた明治期的な「断酒の誓い」を昭和の口語体に直した下司孝麿改訂版を更に平成期に手直ししたものが全断連の現在使っているものです。 改訂前年土佐断酒会20周年で南四国断酒会の桑野会長は誓いの言葉の始まりが「私共」と卑屈であると感じ「私たちは」と自分の気持ちを込めて独自に読んだと述懐しています。 その他、歌や旗、マーク、規約等変わって来ています。 断酒の誓い 1958年 (昭和33年) 下司孝麿 改訂 一、私共は酒の魔力に捉われて、自分の力だけでは、どうにもならなかったことを 認めます。 一、私共は過去の過ちを悟り、迷惑をかけた人々に、出来るだけの償いをします。 一、私共は互いに助け合い、酒癖に打ち勝って雄々しく新しい人生を建設します。 一、私共は酒癖に悩む人々の相談相手となって酒をやめるように勤めます。 一、私共は宗教や思想に関係なく、断酒会の同志として団結します。 黙祷 1964年12月8日 (昭和39年) 山室武甫 作詞 下司孝麿 改訂 一 心の誓 私は断酒会に入会して酒を止めました。 これからどんなことがあっても、酒でうさを晴らしたり、卑怯なまねはいたしません。 私は今後一切酒を飲みません。 多くの同志が酒を止めているのに、私が止めれない筈はありません。 私も完全に酒を止めることができます。 私は心の奥底から酒を断つことを誓います。 二 家族の誓 私の主人(息子・妻)は断酒会に入会しました。 あれ程好きな酒を止めるのは、本当につらいことでしょう。 断酒を決意した主人(息子・妻)はえらいと思います。 主人(息子・妻)の酒癖は病気です。病気だから直さねばなりません。 また直すことができます。 主人(息子・妻)の悩みは、私の悩みです。 主人(息子・妻)の酒を断つために少しでも力となって共に苦しみ共に直します。 断酒会の皆様と共に主人(息子・妻)の断酒に協力することを誓います。 断酒例会 下司孝麿 作 (今日の言葉) 1973年1月28日 (昭和48年) 一、皆さんのおかげで、今日も朝礼に出席できました。 一、今日も一日、酒は飲みません。 一、おたがいに手をとりあって真剣に頑張りましょう。 (誓いの言葉) 1972年12月1日 (昭和47年) 一、断酒例会では、本当のことを述べ、うそは言いません。 一、人の話しを熱心に聞いて自分の血となり肉となるように努力します。 一、人の悪口を言ったり、喧嘩はいたしません。 (感謝と決意の言葉) 1972年12月1日 (昭和47年) 一、皆さんに教えていただき励まして戴いたことを感謝します。 一、次の例会まで、酒は一滴も飲まずに頑張ります。 一、会員と会のために少しでも力となって奉仕します。 「断酒の誓・心の誓・家族の誓」の改正は全日本断酒連盟(当時の理事長は島根の井原利)において、平成6年6月26日の総会で満場一致でなされた。それまでの討議による改正理由が平成6年5月20日付けの全断連事第6−2号文書により伝わっている。 下司孝麿には小林哲夫を介して「6月26日の総会で満場一致で決定しました」と伝えられた。 断酒の誓・心の誓・家族の誓の改正について 1、なぜ、改正するのか ○ 断酒会の基本原理を表現する各種の誓の言葉が、全国まちまちであるのは疑問である、との声が各階からあがっている。 ○ 三つの誓の言葉は、断酒会の創成期につくられたものであるが、断酒会活動が続く中で、当初、正しいと思われていたことに、誤りが認められるようになった。また、近年の価値観の急速な変化に対応できない部分も認められた。 2、「断酒の誓」改正の具体的理由 ○ 現在使われている断酒の誓は、禁酒同盟の中で発案した東京断酒友の会(全断連とは無関係)が、A・Aの12のステップを参考に作ったもので、全断連のオリジナルではない。 ○ また、昭和40年代にこの誓の言葉に関して、酒害防止協会(友の会系)の機関紙である「酒なし新聞」は、全断連に対して、まぎらわしいことをするな、と批判している。 ○ 全断連によって、「指針と規範」がつくられた現在、断酒の誓は断酒指針をそのまま使うべきである。 ○ 断酒指針7か条をそのまま使うと、新人会員に理解できない部分が生じるので、一部を削ることにした。(自己洞察等の言葉) 3、「心の誓」改正の具体的理由 イ.現在使っているものの誤り ○ 努力の結果断酒ができているのに、入会して酒を止めました。という過去形を使っている。 ○ 失敗(再飲酒)を卑怯な真似と断定しているが、これでは断酒会へのやさしさと幅の広さが疑われる。 ○ 今日一日の断酒という原則を無視して今後一切酒を飲みませんと、将来のことまで言い切っている。 ○ 全体的に見ると、飲むか飲まないかということだけに集中して、アルコール依存症からの回復という視点がない。 ロ.改正案の具体的説明 ○ 酒害から立ち直るためという言葉を使い、断酒の最重要課題を最初にもってきた。 ○ 例会に出席して酒を断つという、最も基本的な考え方を使った。 ○ 新しい自分を作る努力という言葉を使い、断酒会の基本理念を表現した。 ○ 同志という言葉を、より親しみのある仲間という言葉に変えた。 ○ 全体的に見ると、断酒の奥の深さと断酒による心豊かな人生を表現した。 4、「家族の誓」改正の具体的理由 イ、現在使っているものの疑問点 ○ 私の主人、断酒を決意した主人、主人の酒癖等々、最初から最後まで主人という三人称で終始している。 ○ 私という家族自身を表現する言葉が一度も出ないのは、家族自身の回復という視点がないためである。 ○ 家族を協力者とのみ位置づけ、自己犠牲、献身的な愛のみを強調していると受け止められても仕方がない。 ロ 改正案の説明 ○ 夫の酒に巻き込まれて悩み、苦しんだという言葉を使って、家族自身の状態を表現した。 ○ 酒害は家族ぐるみの病気という、現在では常識的な言葉を使った。 ○ 互いに協力してこの病気から回復するという言葉を使い、家族自身の健康を欠いた状態からの立ち直りを実現した。 |
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□ 全断連バッチの由来 秦泉寺正一先生はその後インドネシアに住んで親善に努めインドネシア共和国文化功労賞を受けましたが「少々頑張っても日本の企業が無茶をするから反日になる」とこぼしておられました。 下司病院近くの鷹匠町にお住まいでインドネシアから帰るとスカルノ帽をかぶって自転車で町内を通行しているのをよく見かけたものでした。 2001年6月7日87歳で死去、本研究所の顧問でもありました。 又、「ああ玉杯に花受けて」で始まる曲にあわせての「断酒の歌」作詞もしました。かつて全国の断酒会で歌われた「断酒の歌」を紹介しましょう。 |
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断酒の歌 〜「ああ玉杯」の曲で | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
作詞 秦泉寺 正一 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一、あゝ酒断たんと心せど 又して呑まるるこの弱さ 生きる命のともしびも 酒に朽ちなん情けなや 崩れゆく身に涙して 生死の境さまよいぬ |
二、あゝ魔の酒は又しても 五体に狂い 五臓さけ 悪鬼 蛇蝎は迫り来て 我が身いずくに置くべきか あゝ天 地神救いあれ 酒に滅びしこの痴人 |
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三、生きるのぞみはつき果てて 身も世もあらず嘆くとき 酒断つつどいあると聞き これぞ救いの主なりと 盃砕き、意志固め、 今日も飲まざる日が続く |
四、廃人の夢、今は醒め 死生の奇跡新生へ 吾が子、我が妻、むつみあい 自力を尽くし 家築く あゝこの喜び 分ちあい 酒癖の人を 救わなん 酒癖の人を 救わなん |
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1962年2月4日 節分の夜作 もともとは「高知県断酒新生会の歌」として作られたものです。 |
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□ 高知アルコール問題研究所 創立趣意書(1962.7.28) Kochi Institute of Alcohol Problem 酒の愛用は人類の誕生と共に始まったようですが、いつの頃からか慶弔いずれを問わず酒を用いる習慣が出来ました。 しかし、この酒は必ずしも人類社会に平和と健康をもたらしたとはいえないと思います。 或人は「酒は百薬の長である」と礼賛し、或人は「百害あって一利なし」と排斥していつまでも結論は得られませんでした。 百薬の長を説く人は「酒は楽しい生活の原動力」といい、百害を説く人は「酒は健康を害して家庭の幸福を破るもの」と主張しています。 人間の生活の中に酒のあることによって醸し出される数多くの問題点を総合的に究明することは未だ日本では手がつけられず放置されるままになっています。 高知県断酒新生会が生まれて四年、三百名の会員を擁して、着々成果を挙げつつあります。 その高知県に於いて日本にはじめてのアルコール問題研究所を設立しあらゆる学問の分野に亘って専門的に掘りさげを行ない、総合研究の実を挙げようと本研究所の誕生をみた訳です。 昭和三十七年七月二十八日 高知アルコール問題研究所 □ 数は力だ 作詩 下司孝麿 1966年9月25日 断酒会の輝く未来によせて 酒をやめるのに 一人なら難しいが二人なら楽だ そんなら輪をひろげよう 十、百、千、万、数は力だ 多勢のグループなら 気やすく参加できる 妻も参加しよう アル中は家族の病気だから ケースワーカーも参加しよう アル中は社会の病気だから 治療効果のすばらしい断酒会 少しの経費で 最大の効果をあげる断酒会 断酒会は アル中治療体系の重要な部分だ。 世間はもう放っておかない アル中を救おう 断酒会を援助しよう そんな日のくるのも もうすぐだ 日本の同志よ だから団結しなければならない 酒を断とうと悪戦苦闘している かなしいアル中のために この幸せを分かとう 数は力だ 数は力だ 注釈:この詩は全断連大会で日本放送アナウンサーで東京断酒会員である村上正行氏によって読み上げられました。どんどん全断連が支部を増やしていっている頃の出来事です。 □ 松村さんの飲酒運転への取り組み 酒害救済に全国行脚する松村全断連会長 断酒連盟の会長、松村さんは、下司先生の分身といえる活動家である。明治38年生まれ、数少ない明治っ子で、若い頃社会運動に身を投じ、戦後は高知県地方労働委員などをしていたが、酒のため、家族を苦しめ、はてはアル中となって下司先生の治療を受けること二度に及び社会的信用もなくなり、一時は自殺まではかったことがあったが、教員をなさっている文子夫人の愛情に支えられ、33年11月一念発起して断酒運動に立ち上がった。以来、下司先生のうしろだてで文字どおり東分東奔西走、全国の断酒会を今日の大組織に盛り上げた。 この10月1日からドライバーの行政処分に点数制度がとられ酒酔い運転には最高の9点(6点以上になると6ヶ月以内の免許停止になり、15点以上で免許を取り消される)とされている。 「よっぱらい運転は交通3悪中の最大悪、私たちの運動の推進は交通事故にも大きな意義があるのです」と、松村さんは下司先生以上にファイトを燃やしている。 大塚薬報no.207 1968.11.12 □ 松村断酒語録 今ある松村断酒語録は、高知アルコール問題研究所発行の「新聞断酒」昭和45年9月1日号での、「断酒の松村方式アンケート集」を土台にしている。 50項目が発表されたが「このアンケートは松村先生の言動を会員が心に受けとめたものの投影ですから松村先生の言動そのものではありません。ご了承願います」と断わっている。 松村春繁さんと下司孝麿院長は、診療前の朝の時間を利用して話し合いを繰り返し、断酒と断酒会についての基本的な考え方を練り上げていった。 朝のこの週間は「患者さんが待っているから今日はこれまでにしてください」と婦長に追い出されるまで続いた。 このときの共同作業が松村語録にも反映されている。 下司孝麿院長は、昭和37年2月から「新聞断酒」に10語からなる「断酒鉄言」を発表し始め、26項目に達した。この中には、松村断酒語録と重なるものも多く含まれている。 松村断酒語録 1. 例会には必ず出席しよう。 2. 一人で止めることは出来ない。無駄な抵抗は止めよう。 3. 断酒に卒業なし。 4. 今日一日だけ止めよう。そして、その一日一日を積み重ねよう。 5. 前向きの断酒をしよう。 6. 例会には夫婦共に出席しよう。 7. 例会の二時間は断酒の話のみ真剣に。 8. 自分の断酒の道を見いだそう。 9. 断酒優先をいつも考えよう。 10. アル中は心身の病気である。 11. 例会で宗教や政治の宣伝をしてはいけない。 12. 酒害者の最大の敵は自分自身であり酒ではない。 13. 自信過剰は失敗のもと。 14. 失敗したらすぐ例会へ。 15. アル中は一家の病気である。 16. 断酒会は、酒害者の酒害者による酒害者のための会である。 17. 酒害者は酒のために墓場へ行くか、断酒会で酒を断つか二つの道しかない。 18. 会員は断酒歴に関係なく平等である。 19. 自覚なき酒呑みの多い中で入会された勇気に敬意を表する。 20. 断酒会員には普通の人より何か優れたところがある。 21. 節酒は出来ないが断酒は出来る。 22. 飲酒に近づく危険の予防のため自己の酒害を常に認識しよう。 23. 酒害者に対する奉仕は自分の断酒の糧である。 24. 仲間の体験をよく聞き、自己の断酒を再確認しよう。 25. 家族、同僚の協力を得るために、絶対呑んではいけない。 26. 断酒会に入会すること。 27. 最初の一杯に口をつけないこと。 28. 時間励行。 29. 仲間に励ましの手紙を書こう。 30. 全国組織の拡大につとめよう。 31. 厳しさのないところに断酒なし。 32. 実践第一。 33. 他力による断酒ではなく、自力、自覚の上に立つ断酒であること。 34. 失敗しても悲観するな、成功への糧とせよ。 35. 消極的だが初心者は酒の席に出ないこと。 36. 姓名を堂々と名乗り、断酒会員であることを明確にせよ。 37. 各人の性格の相違を認め、各人が自らの体験を通じて体得せよ。 38. お互いが欠点や失敗を話し合って、裸のふれ合いが出来るようにつとめること。 39. 酒の奴隷になるな。 40. 断酒会員であることを誇りに思え。 41. どんなことがあっても会から離れるな。 42. 条件をつけて断酒するな。 43. 酒害者を最後の一人までも残すな。 44. 素直な心で話を聞こう。 45. 一年半したら会の運営に参加しよう。 46. 私の屍を乗り越えて断酒会をますます発展さしてください。 47. 一県、一断酒会。 48. 会員は人に疑われるような場所に行くな。 49. 初志貫徹。 50. 君と僕は同じ体質だ。断酒するより他に生きる道はない。 51. 語るは最高の治療。 52. 例会は体験発表に始まり体験発表に終わる。 53. 聞くは最高の治療。 □ 弔辞 松村春繁さんへ 高知アルコール問題研究所 所長 下司孝麿 あなたは高知県断酒新生会と全日本断酒連盟という大きな遺産を残して永遠の旅に立たれました。 思い返しますと、私が松村さんに初めてお目にかかったのはちょうど20年前の事でした。その当時、松村さんは危篤状態でした。 40度以上の熱が出てアルコール中毒の為に譫言叫び、体に蛇が巻き付いていると言ったりしていました。 早速病院に入院していただき、幸い、経過は良好で見事立ち直ったのですが、再々繰り替えしまして昭和32年に至ったのです。 松村さんは非常に誠実な患者さんでした。にもかかわらず松村さんが5回目に入院なさった時に、また来たかというような誠に申し訳ない気持ちを抱きました。 しかし、医者が患者を治療する時に、ただ単なる医療技術だけではなくて、心のふれあいが大事だということが分かって参りました。 松村さんは私の態度を見まして、この医者はつまらぬ奴だとお思いになるかわりに、「私に見放されては大変だ。なんとか立ち直ろう」という大きな決心をなさってあの困難なアルコール中毒の克服を自分自身でみごとに成功なさったのです。 前々から断酒会を作ろうという話しを申し上げておりましたが、昭和32年、ある機会でとうとう踏み切って頂いて自ら会長になって高知県の断酒会を育てて下さったのです。 私達は毎日午前中の診療時間に他の患者さんには30分、時には1時間も待って頂いて断酒の理論と実際について検討をしました。 本当に毎日、何年間も一緒に話し合いました。 そして、お互いに手を携えてこの運動に邁進しました。 あなたはあるとき国立久里浜療養所に一年間通いました。又、あるときは東北の仙台まで、或いは鳥取、九州の方まで骨身を惜しまず断酒行脚を実行しました。瞬時の間がありましたらいつも手紙を書いて断酒運動に一生懸命でした。 私が松村さんに対し非常に尊敬をするのは、松村さんは断酒運動によって一銭の報酬も求めず、しかも全時間と全生命をこの運動にかけていましたことです。この偉大な奉仕、涙なくしては語れないぐらいです。 近頃、アルコール中毒の治療は医者の力だけではなおらないといわれています。昨年の全国精神衛生大会でも司会をなさった国際アルコール中毒及び薬物依存協議会の副会長をしておられる広島大の小沼教授がこのことをはっきり申されました。 又、ワーグバーグという有名なアメリカの医学者が書きました「精神療法と行動科学」という本の中にも「言葉でする精神療法よりも、断酒会の方がもっと効果がある。費用も安くできる。」ということを書いております。 このように致しましてアルコール中毒の治療は、今までの精神科医の治療の他に患者そのものの持つエネルギーと行動によってなおっていくのだということがはっきりして参りました。 日本では松村さん、あなたが始めて全国のアル中にこの力を示して下さったのです。 あなたの温顔、慈愛に満ちた言動、そのバイタリテイ、かくて日本のアルコール中毒の治療が完成されていったのです。 松村さん、ご覧下さい。今日関東から九州まで沢山の同志の方々がご霊前に参っております。 断酒会運動はこれからますます盛んになり新聞雑誌等の単なるトピックではなく、社会一般から本当に認識されようとしています。 これからの日本のアルコール中毒の患者さんとその家族をいれますと何百万、何千万の方々に及ぶと思いますが、その方々を救っていく永遠の燈火であります。 松村さんの残されました大きな力は必ずや、日本の人々を救う太陽になると私は信じて疑いません。 松村さん、どうか安心をしてお眠り下さい。 1970年1月31日 (松村春繁全断連初代会長 1970年1月30日没) □ 弔辞 松村さんの遺志を継いで 全日本断酒連盟 会長代行 大野徹 松村さんの霊に申し上げます。松村さん、貴方がこんなに早くお逝でになってしまうとは夢にも考えませんでした。 この間、1月25日に下司先生の病院に伺いまして、お話に参りましたところが貴方は大変に喜んで下さいまして、元気になって再び全日本断酒連盟や日本のアルコール中毒の問題について一緒にやっていこうという意欲を見せて下さいました。 にも拘らず、30日午後2時にはお逝きになってしまいました。 思えば昭和38年11月、高知駅頭であなたと手を握りあったのが貴方と私の会合の始まりでございました。 以後6年有半アルコール中毒に悩んだ二人はこちらの下司先生のお導き、ご当地の方々と共に全日本断酒連盟を結成致しました。 我々の使命はここにあると、日本中に断酒のかがり火を掲げて罪の償いと申しましょうか、仲間のためにやっていこうと言って固い握手をしました。 よもや貴方が他界なさるとは思いません。この間、27日も貴方と握手しました。 あの力強い握手、私はあの感触をまだ覚えております。 今や、世の指導者の認めるところとなって、我々の運動も貴方の期待に添って進んで参りました。 今まさに、貴方の期待の第一歩は出来た。もう一息で貴方と話し合ったことに出来上がるところまで来た。 もう少し貴方に生きていていてほしかった。しかし、最初に握った握手の力頭よさと、この関の握手とは反比例して我々の運動は伸びていくであろう。 伸ばしていかなければいけないと私達は心の奥底に考えてやっていく考えであります。 全日本断酒連盟の会長代行を貴方から申し付けられまして及ばずながらやって参りました。 貴方は本当にアルコール中毒の問題に生まれて来られ、誰にも出来ない立派な業績を残されました。 我々は微力ではありますけれども貴方のご遺志に添ってやっていこうと思っています。 松村さんの霊、どうぞ我々の運動にお力を下さいますように。 松村さん、どうぞ安らかに眠り下さい。 1970年1月31日 (松村春繁全断連初代会長 1970年1月30日没) □ タング氏より松村哀悼の書簡 下司博士殿 拝啓 松村春繁氏御逝去の悲報に接し哀悼にたえません。全日本断酒連盟の蒙った償うことの出来ない損失に対し国際協議会は心からの同情の意を表します。 シドニーでの会議に貴下が出席されなかったことは誠に残念でした。しかし、小沼教授その他日本の代表の方々にお目にかかる事ができて大変嬉しく存じました。 敬具 1970年2月 国際アルコールおよび薬物依存協議会 事務局長 アーチャー・タング 謹んで哀悼を表します。 全日本断酒連盟初代会長及び功労者 故松村春繁先生の御霊前に 生前の先生は本当に粉骨砕身、断酒救国救世の為御献身なさいました。 先生の崇高なる御功績は歴史と共に燦然たる事を確信致します。不幸にして又生前の御厚顔を拝見出来ません事を本当に悲しく考えます。然し先生の霊化不滅を信じますと共に指導者を失った全日本断酒連盟の上に神様の御加護と慰安共に有らん事を御祈り致します。又先生の御家族の上にも御慰労の言葉を申し上げます。永遠御安眠を御祈り致します。 泣哭 1970年2月5日 オーストラリヤ・シドニー市にて 大韓断酒同盟 会長 崔 栄 煥 □ ―追悼― 活躍のあとを偲ぶ 小林 哲夫 昭和四十五年一月三十日午後二時、貴方は構想半ばとはいえ偉大な足跡を残して遂に不帰の客となられました。当日の高知市は五十数日ぶりの雨で、異常乾燥に悩んでいた市民にとっては久々の恵みの雨でもありました。突然の訃報に集まった会員の一人が、「会長は死の瞬間に迄も、人に潤いをもたらした」とつぶやきました。そうです。貴方は常に己より多数の者の為の利益を追求されて来られました。 青年の頃より農民運動に身を投じ、戦後は社会党県連会長として労仂運動を指導し、教育者適格審査委員、県信用保証協会理事、農地調整委員等も兼任、高い人格、識見によって県民多数の畏敬の標でもあられました。 しかし不幸にもアルコールに関する知識が無く、気が付いた時は心身共に深く酒に侵され、アルコール中毒の治療方法は無いものと絶望し、二度も自殺を計られたと聞きます。 しかし、下司博士に、アメリカに於けるAA活動を示唆されますや直ちに断酒を決意、昭和三十三年高知県断酒新生会を結成されました。この瞬間より全国の酒害者に光明が与えられたといっても過言ではありますまい。過去のエネルギッシュな政治活動に替って、貴方の真摯な断酒活動がこの日より始まりました。アル中は治る=B節酒は出来ないが断酒は出来る=B身をもって得た体験を基に、貴方の全国行脚が始まりました。東奔西走、席の温まる暇も無く、昭和四十二年脳軟化症で倒れられる迄その行動半径は幾千キロいや幾万キロに拡がった事でしょう。 アル中は、最後の一人まで助かる権利がある。自分にはその立直るきっかけを作らねばならぬ義務があるとし、唯一人の酒害者の為に遠く米原まで出向き、一泊して説得された事もありました。貴方の熱意に動かされ、貴方の説得に力を得て、数十人数百人と会員は漸増、遂に現在の如き大規模な組織にまで、断酒会は進展しました。 この間、東京断酒新生会と手を握り全日本断酒連盟が発足、静岡、岡山、広島、香川、北九州と全国各地に断酒会が誕生、貴方は自分個人の生活に使う一分の時間も持てなくなってしまいました。しかし、それは貴方の望むところでした。国会議員候補にまでなった過去の華やかな時代より、現在の断酒一途の生活の方にずっと生甲斐を感じていると申されていました。 また事実、高給をもって迎えに来た某船舶会社の職にも見向きもしませんでした。貴方は無報酬の断酒活動の方を一生の仕事と考えていたからです。貴方はいご松≠ニいう仇名を御存じないでしょう。こうといいだしたら後へは退かぬいごっそうの松村さんという意味で、貴方の近所の方達が付けたものです。しかし断酒会長としての貴方にはいごっそうのイメージは余りありませんでした。 酒害者ならばどんな人でも救わねばならないとしていた為、実に柔軟な態度で酒害相談を受けておられました。馬鹿馬鹿しい話でも敵意を含んだ話でも、何でもにこやかに笑いながら聞いてやり、その人に合った断酒方法を講じてあげました。本当の対話の出来る方でした。 告別式の日、下司顧問が貴方の霊前で語られていた事をお聞きしました。薬餌療法でも、精神療法でも、アル中は治り難い。しかし、断酒会に於ける会員相互の魂の結びつき、人格のふれあいによってこれが出来ると専門医達が認めてくる様になった事、そしてやがては、これが社会通念になっていくだろうとの事を。貴方のやってこられた事には寸分の間違いもありませんでした。全国組織の拡大、全断連の法人化、アルコールセンターの建設等これからの課題は沢山あります。貴方の御厚意に酬いる唯一の方法はこれらの課題を解決し、今後一層の断酒精進以外にはないと考えます。 息をひきとられた日の雨、密葬の日の南国高知にはめずらしい雪、御場骨の日の激しい突風、そして貴方にお別れを告げた日の穏やかな春日和と、私達にとってこの四日間は生涯忘れる事が出来ないでしょう。貴方が今眠っていられる南国市の吾岡山の墓地は南面した実に見晴らしの良いところです。左前方には貴方が東奔する時飛行機に乗られた日章空港が眺められ、真前には果てしない太平洋の碧い拡がりがきらめいています。長い間お疲れ様でした。ぐっすりとおやすみ下さい。そして時にはおめざめになって我々会員の方に目を向けて下さい。貴方は其処に貴方の御遺志通り努力している我々を見つける事が出来ます。(高知県断酒新生会) 昭和45年2月28日 (新聞断酒)第93号 □ 断酒短歌 故松村会長に捧ぐ 東予断酒会々長 岩本博 ○吾が家に光与えし慈父今は永久に眠りぬ勲残して ○これよりは吾酒絶ちてひたすらに父と云う名にふさわしく生きむ ○酒断つと心に決めていとおしく妻という字をくりかえし書く ○吾は今酒断つ決意歌に詠むあやまてる道二度と踏むまじ ○酒呑みと罵りつつも暖かく仕えし君よ妻なればこそ ○ひたすらに歩み貫く断酒道我が家の危機を同志に救わる ○至難なる酒断つ誓、守りつつ 何に生きむかでこぼこの道 ○只二字の断酒はかくも尊くてとざされし道今は拓けり ○酒断ちて過ごす我が家に朝日さす子等喜びて学舎に通う ○誘惑と疲労に克服て飲まざりし昨夜の吾に朝日輝く ○へべれけに酔いて騒ぎし友達も皆妻も子もあり賢き人なり ○いぎたなく酔い痴れ眠る友達を見て呑まざる吾に安らぎのあり ○輝ける朝日に向い口ずさむ断酒の歌は吾を救えり ○徒々に拙き歌を読みつづる断酒の吾にふさわしくあり 《新聞断酒》百号 一九七〇・九・一 □ 飲 酒 考 −酒は両刃の剣− 下司孝麿 下司病院院長 日本アルコール問題連絡協議会理事 (高知県警察機関誌「建依別」1972.8) はじめに 酒は現代の社会生活における必需品であるが、同時に酒によって起こる交通事故、犯罪や疾病は大きな社会問題となっている。 かと言って酒を取り締まり、禁酒時代を再現すると、かつてのアメリカのように犯罪の温床となることは明らかである。 酒は飲むべきもので、飲まれてはいけないと言われる。 この言葉は、酒は良きものであるが度を過ごすと害があるということを示している。 酒の現代における位置は、塩や砂糖と同じ立場であるように思われる。 私は、これを三つのSと言いたい。 塩、砂糖、酒いずれもローマ字で書くと、その頭文字はSである。 英語ではSalt.Sugar.Spiritで、これまた三Sである。塩がなければ人類は生存できない。欧米人に比して倍近く塩をとる日本人に高血圧や脳出血が多いことは周知の通りである。 砂糖を多く食べると糖尿病になることは昔から知られていたが、動脈硬化症を起こし心筋梗塞で突然死亡する原因になることが最近明らかになった。嗜好品としての砂糖を、この世の中から抹消することは不可能であろう。 酒も同じことである。酒の効用は副作用の少ないストレス解消剤であり、社交場有用な嗜好品である。 しかし、これとても大量に摂取すると精神異常になり、体を害し悪い結果を来すのみでなく、一家の不和、破産、離婚、交通事故や傷害事件を引き起こす。 以上のような三Sは、生活必需品だが、大量摂取は有害なことが似ている。 飲酒運転と交通事故 高知県では、飲酒運転で事故を起こした者については、新聞紙上に氏名、職業を載せることで、ある程度の効果を上げているが、相変わらず事故者の氏名が毎日、新聞を賑わせているのは、どうしたことであろう。 飲酒運転の悪いことを知っているが止められない。これだけ社会教育をしてもやまらないのは、酒の魅力が強い場合と、事故不感症となって、自分は事故を起こさないと思っている人もあろう。 アメリカではアル中が700万いると言われている。この数と飲酒運転者が700万いることも無縁のものではない。 酒を飲んだら運転してはならないことを知っていて飲酒運転をする人は、酒から逃れることはできない。 酒に依存した人と言える。 この頃、アルコール中毒を世界保健機構WHOでは「アルコール依存症」と呼ぶことになったが、このように精神的にアルコールからのがれることのできない飲酒運転者は広い意味で、やはりアルコール依存症者=アル中である。 アルコールに依存した人に、単にお説教しただけでは酒はやまらない。アルコールに悩んだ人々が酒をやめるクループ「断酒会」に入ると酒をやめやすい。 飲酒運転でつかまった人々を集めて、お互いの体験を語り合う反省の会を作るとよいと思う。自動車の飲酒運転以外にも自転車の飲酒運転も同罪ではないか。アメリカでは、めいていして歩行しても勾留される。 アル中患者の暴行 アル中患者が家族や隣人を殺し、または、放火する事件は割合多い。また、アメリカでは、大きな声を出して町を歩いているだけで警察に保護される。 私の友人の経験によると警察で床に引いた白線の上を歩かされて、それをそれると、それだけで警察に留置された。 「酒に酔って公衆に迷惑をかける行為の防止などに関する法律」があるが、人権とのかねあいがあって運営が非常にむずかしいことはよくわかる。 また、人を陥れるために 虚偽の訴えをする人もあるので、よけいにむずかしい。 しかし、先日、保護室を出て両親に付き添われ、病院に来た25歳の男は、酒がさめているにもかかわらず、両親を殺すなどと平気で口走っていた。 アルコール中毒になるのは、単に酒好き以外に家族との不和が原因である場合もあるので、その治療はきわめてむずかしい。 もちろん、前夜の狂態ぶりをテープレコーダー、あるいはビデオコーダーなどで見せたり聞かしたりすることも治療的によいことである。 フィンランドでは、警察の保護室にその年三回厄介になると、強制労働に服さねばならない。だから、二回までは失敗しても、三回目には非常に気をつけるので、飲酒による事故の防止に役立っている。 このごろ、精神神経学会その他で精神病者の保安処分について反対意見が多いので、この件については慎重な態度が望ましい。 被害者のアル中への報復 アル中の暴行に耐えられなくなった家族がアル中に報復するこよがよくある。親、兄弟、妻、子などが、アル中患者を殺したり自殺する例が、報道されている。そうなるまでに保健所、心配事相談所、精神科医、断酒会等へ相談していただきたいものである。 アル中と病院 今年の新聞によると、高知市のある病院へ救急車で運ばれたアル中患者が朝の四時頃に外出しようとしてとめに入った看護婦を果物ナイフで傷つけた。 この事件は精神病患者を一般の病院へ入れたために起こったものと考えられる。この場合は精神病院へ入れるか、または、一晩、保護室で保養した方が良かったのではないか。 また、某病院では入院中のアル中が、しばしば酒を飲んで同室の患者に迷惑をかけるので、他の患者が怒って殴り掛かり、興奮の余り数時間後に心臓マヒを起こして死亡した。 アル中の方が直接的には被害者であるが、間接的な殺人と言えないことはない。警察が調べたけれども犯罪にはならなかった。考えさせられる事件ではあった。また、アル中患者は精神病院に入院させられると不等な待遇を受けたように思って、病院の欠点捜しをして悪口をいったり、あるいは他の患者を教唆して逃走、殺人等を図ることもある。 昨年から今年にかけて、大阪府や静岡県の精神病院でアル中患者が病院を占領し、そのために警察が出て鎮圧したことがあった。このようなことがあるので、精神科の医者はアル中患者を嫌い、なるだけ入院させたくない気持ちが起こるのは自然の理である。それでアル中は精神病院でも招かざる客である。 アル中は性格異常者か 六月十三日の日本精神神経学会で精神病質の問題がシンポジウムで取り上げられた。 今度の学会で精神病質(変質者、性格異常者の意)という医学的な診断は間違いであるとまで言われるようになった。 よくアル中は精神病質者だと言われる。しかし、そういうレッテルを貼っただけでは何も解決の道は立たない。 かってアル中であったが、断酒した人の中には、優れた人格者も沢山いることを私たちは知っている。 つまり、性格異常者だからアル中になるのではなくて、性格異常はアル中の為の症状に過ぎないのである。 だから、病気がなおればそういう性格異常が直るケースが多いのである。確かにアル中の中には性格異常者もいる。しかし、それだけではない。 性格異常者だから治療の方法がないと言うのではなくて、性格異常者でも救わなければいけない。アル中患者を一個の人格者として接していけば、治療の道が開ける。 先日、東北地方から某国会議員の紹介で、私の病院に入院してきたアル中があった。 三十年近くもアル中のレッテルを貼られて十四回精神病院に出たり入ったりしていて、財産は取り上げられ、年老いた母親は「アル中だけではない、精神病だ」と、東北地方から、はるばる電話をして来た。 本人に合うと温厚な紳士であって、断酒運動に熱意を燃やしている人であった。 このギャップのかなしさ、私は無実の罪になく人を救わねばならないと思ったことである。 アル中の不慮死 私の病院に来るアル中の中で不慮死を遂げる人が相当ある。また、自分に愛想がつきて首をくくって死んだり、あるいはうつ病になって自殺を図る例もある。 酔っ払って歩いているうちに川へはまりこんだとか、けんかをして殴られてそのまま死んだという人もある。このような時に一番気をつけなくてはならないのは、単なる急性アルコール中毒(泥酔状態)であるのか、あるいは頭をうったり脳卒中のための昏睡状態であるかの区別である。 それにはまず黒い瞳を見てほしい。瞳が右と左で大きさが違っていたり、散大している場合には、直ちに医師に連絡せねばならない。 アル中の中には普通人のごとく話していても、長く話していると幻覚や妄想があって急に飛び出したり、暴行する例がある。 一般の病院では看護婦はアル中の患者は恐ろしくて嫌だ、もしアル中の患者を治療するなら退職するというふうなケースも出ている。 とにかく、アル中は病院にとって招かざる客であり、看護婦確保の上からも困った問題を提起している。病院でアル中が暴れると他の患者の病気を悪化さし、ひどい時には死に至らせることもあるので、警察のご協力をお願いしたい。 断酒会 アル中を直す方法がなくて医者も手をこまねき、皆が跳ねかけあいをしているのがこれまでの日本の現状であった。 本当にアル中をどうしようかという熱意がまだ足りない。 しかし、アル中の対策が全然ないわけではない。断酒会が十数年前に日本に登場して、はなばなしい活躍をしている。アル中の人格を認めて、お互いが励ましあい体験を語り合うということでアル中は意外に治っていく。 しかし、それを応援する社会的な背景がないと成功率が少ない。高知のある営林署の管内では上司も従業員も、みんなが一人のアル中の為に一致協力し、本人と断酒会を援助して成功した例がある。 つまり、職場と家族と本人と断酒会の共同の努力によってアル中がなおった例である。 警官と学校の先生は、アル中になると、なかなかなおらないと言われている。アル中は一種の精神療法によってなおっていくのであるから、先生とか警官とか、平生は一般から尊敬される立場の人は、その優越感を去らないとなおりぬくい。その上、アル中に対する一般人の理解がないと断酒続行は困難となる。 このようにアル中対策は、本人が断酒会に入って酒をやめてゆくことの他に、家族、特に妻の努力及び一般社会の理解、それらが相まって始めて成功していくものである。 おわりに 先日、県警本部、高知署、県交通安全対策室、高知市役所のご理解によって、飲酒運転追放のパレードを高知県断酒会が行った。 白バイ二台と市の広報車に先導していただいて、高知市、土佐山田町、野市町、南国市、伊野町、土佐市をパレード出来た。 アルコール中毒者も自分が酒をやめたうれしさを一般社会に報告し、アル中で悩んでいる人々と、その家族に呼びかけ、また、飲酒運転追放を叫ぶことによって、これまでの迷惑をかけた人々に社会奉仕するという試みであった。各界のご後援に感謝する次第である。 六月初めにも中村市断酒会は警察のパトカーを先導車として街頭行進をした。そのとき聞いた話しによると、中村の保健所ではアル中七十名リストを持っているが名鹿部落四十戸の中で十名のアル中がいることは未調査であった。このように県の把握しているアル中患者の外にリストに載っていない人々がある。 現在、高知県の精神病院に入院しているアル中患者は二百五十名で高知市の中央保健所が持っているアル中リストは約四百五十名であるが、、アル中の実数はもっと多いと推定される。 酒にまつわる事故と警察は非常にかかわり合が深いので、アルコール中毒とは何かということを、よくご理解いただいてアル中の治療と予防にご協力を賜りたい。 ことしは厚生大臣の指示によって、日本のアルコール中毒者の実態調査が始まり、政府もアル中対策に乗り出した感がある。 私ども医師も、できるだけの努力と協力を続けていきたいと思う。 □ 追悼の言葉 松村春先生が逝去されて早や八年の年月が経ちました。 先生の畢生の事業である断酒運動は、高知県は云うに及ばず日本津々浦々に滲透して参り、会員数は三万五千人に達しました。 今年は政府がアルコール中毒対策費に千五百万円を計上し、その中、再発防止に五百万円を考えてくれています。 これは一重に先生の断酒運動にかけた情熱の成果であります。 本日は下司病院断酒自治会の方々が約20名、奥様のお供をしてお墓参りに伺いました。先生のお好きな温いコーヒーをお供えいたします。 ありし日のことを思い浮かべると今にもコップを取って話しかけて下さる思いがします。どうか御安心下さい。私達の断酒会は絶えず前進しています。 今や日本には百五十万人のアル中が居ると云われます。先生の御教訓を体して、今後も断酒運動に邁進することを誓います。 昭和五十二年一月三十日 高知アルコール問題研究所所長 下司孝麿 南四国断酒会会長 高岡一幸 他 会員一同 □ アルコール依存症の今昔 下司孝麿 昭和63年度日本医師会功労者 日本医師会雑誌 第101巻第1号 1989年1月1日「新春随想」 米国ではカリフォルニア州などで1907年、いわゆる断種法が施行され、1939年には29州に及び、そのうちの半分以上はアルコール中毒を「断種すべきもの」として明示している。 近代精神医学の創設者といわれるドイツのクレペリン教授は、アルコール中毒は病的素質の人に発病するので、結婚しないのが最良の方法であると述べた。クレペリン以来、教科書にそう書いてある。 以上は1939年発行の『禁酒日本』に名古屋大学精神科杉田直樹教授の講演要旨として掲載されたものである。 だが一方、吐剤を利用して酒を嫌いにする方法が1850年に始まっていた。ベンジャミン・レッシュはウイスキーに吐酒石を混ぜて大酒飲みの下男の治療を行なった。 アメリカのヴェクトリン博士は、1935年に吐剤であるエメチンを治療に使い好成績をあげた。 また、ハンド博士とヤコブセン博士はアンタブスを用いて1947年から治療を試みている。日本では東大神経科高橋博士と私がアンタブスについて、1951年日本精神神経学会で発表した。 また、私はエメチン療法も同時に発表し、かつ精神療法の必要性を述べたが、アルコール依存症の集団精神療法が健康保険で認められたのは1987年4月のことである。 1935年、アルコール依存症患者の自助団体AAがアメリカに生まれ、日本では1953年にAAを見習った断酒会が発足した。 高知市に断酒会が結成されたのは1958年であり、5年後、高知市で全日本断酒連盟が発足した。 現在会員5万名で、1988年全国大会には6200名が出席した。 断酒を継続するのには、断酒会に加入するのが最良の方法であることは国際的に認められている。1973年に、保健文化賞を私は個人として、1985年には全日本断酒連盟は団体として授与されている。1988年には大阪府断酒会が再度授与されて、賞金500万円をいただいた。 1972年、私が厚生省に提案した酒害者による酒害相談員制度は、1979年から厚生省が実施した。アルコール依存症対策は半世紀の間に飛躍的な発展を遂げたのである。 (高知県医師会) □ 立候補一番槍 社大黨の松村氏(昨日届出) 長岡郡縣議補選 長岡郡縣議補缺選擧は來る二月四日に决定し縣から昨日告示されたが同日午後三時早くも吾川郡長濱町一九七四、社大黨高知縣聯合會書記長松村春繁氏が名乗りをあげ自薦をもつて供託を終り三時三十五分正式に縣地方課に届出でがあつた 松村氏經歴 明治三十八年四月一日高知縣香美郡在所村谷相生、本籍長岡郡大篠村稻吉、現在地吾川郡長濱町、大正拾年大阪逓信局習講所卒業、拾年大阪堀江郵便局勤務、拾五年大篠村年團長、昭和二年長岡郡聯合年團長、三年社會民衆黨入黨、五年社會民衆黨高知縣聯合會書記長、七年社會大衆黨全國委員、八年社會大衆黨高知縣聯合書記長、當年三十三才(寫眞は松村氏) (昭和11年1月16日付 高知日々新聞より) 高知県断酒連合会機関紙『南風』1986年7月15日より再転載 □ 木乃伊(ミイラ)の町 長山瑞巌 後免町(現・南国市)は香長平野の中央に位置し、面積〇・一五平方キロ。なんでも全国でも最小の町であるように聞いている。 昔、稲吉村といっていたが承応元年、ときの土佐藩執政‐野中兼山が、舟入川を通じて市場町を作り、人集めのために租税御免の地としたところから「御免」という地名になったという。その後「後免」という風に変ってきたらしい。 よくやってくる町だが、来るたびに今まで気付かずにいたものに出合っては驚く。舟入川に添って歩くと橋が見える。その橋に向って歩いてゆくと、思わずアッと声をあげた。 勢いをつけて流れて来た水が、ここで二つに流れ、もう一つは鷹揚な流れをつくって西に流れ、もう一つは飛ぶような勢いで、南の町のドテッ腹に流れ込む。川の上に町があり、道が走って電車、バスが行き交う。そして、向いの町並みをくぐりぬけて、漸く顔をのぞかせた川は、陽の光をはねかえしながら、踊るように田園が伸びてゆく。 松村春繁が住んだ後免町十五(現・南国市後免二〜六〜九)は、先程の分岐した川にかかっている宇田橋を渡って、出てきた道筋にある。そこを南にとると下流にかかる宝橋につき当る。橋を渡ると藤栄寺があり、そこから串団子のように、一杯屋、自転車屋、文具店、仕出し屋、化粧品店、肉屋、鮮魚屋、おかず屋、青物屋、風呂屋、散髪屋、洋服屋等といった古い家並みが両側を占めているので、自然に心が落ちついてきて、愛着を覚えてならない町であると共に、古い建物が残っている一画だから、さながら木乃伊のような町だともいえる。 昭和二五年、高知市帯屋町六、下司神経科に入院していた松村春繁は、十月十九日、エメチンによる治療を終了して帰ってきた。 エメチン療法は一日一回、普段飲んでいる酒三勺に、エメチン〇・〇四グラムを入れて服用するのだが、これは大変なもので、エメチンを酒と一緒に飲むと二十分、四十分、一時間とたつうちに、グワッと吐きだす。吐いてはのみ、のんでは吐くといった治療を、十日間連用するものである。吐くたびに、その苦しさに涙も出ようし、鼻汁だって出るだろうと思う。しかし、この条件反射によるエメチン療法さえ、松村春繁には効果のないものに終った。 家は、そっくり残っているが、元々店舗につくられたこともあって、六畳一間があるきりで残りは土間にとられている。裏に廻ってみると右手に三畳の離れがあって、小さい通路を挟んで便所がある。炊事は六畳と、離れの三畳の間にある土間でしたらしく、カマドがあったそうだ。夕昏れになると共同用の井戸から水を汲んで、いそいそと帰ってゆく姿もみかけたが、すっかり今は昔のことになって、その井戸も、いつの頃か埋められてしまった。 黒潮 vol.142 1991.4 土佐断酒会 発行所/高知市潮新町1丁目6‐26 発行/和田多一郎 編集/葛目明治 題字/長山瑞巌 □ 松村のお兄さん 上田 秀美(故人・元教員) 下司病院の玄関をあがると東側に「全日本断酒連盟発祥之地」と書いた碑が刻まれています。 今年は四〇年の節目を迎えていると伺いました。院長先生のご努力は並大抵のものではなかったかと想像されます。下司院長先生のご努力に心より、敬意を表します。 そしてこの碑を見る度に私は、断酒会で先頭にたって活躍された方のことを懐かしく想い出します。 以下、思いつくままに書かしていただきます。 私には女学校時代、誰よりも親しい松村徳恵さんという友達がいました。 何処へ行っても絶えず二人でした。 ある日のこと、徳恵さんが、お姉さん(兄嫁のこと)からご馳走を構えて待っているから、友達を連れてくるようにと云われたと行って誘われました。 私は申し訳なく思ったけれどついて参りました。 確か、日赤病院の近くであったように記憶しています。 お姉さんはお寿司や、いろいろの美味しいものを沢山作って待って居てくれました。 夕方でお腹もひもじくなっていましたので沢山頂きました。 お兄さんは、絶えずお酒をチビリチビリと飲んで、ご馳走は少しも召し上がらずおかしいお話しをしては皆さんを笑わしていました。 お姉さんは、お兄さんよりだいぶ年上のようにお見掛けしました。 その時が、松村春繁さんと私との最初の出合いとなりました。 その時、思ったことですが、お兄さんと徳恵さんは顔が良く似て居るだけでなく、体格もがっしりしていて本当に良く似ていました。 二人は沢山ご馳走を頂いておいとまをしました。 そして、二人ではりまや橋迄来ると、後免行きの電車はもうありませんでした。 さあ、困りました。 その時、私は廿代町に名付け親が居ることを想い出して、そこに行き、二人は一晩泊めてもらって、朝一番の後免行きの電車で帰った思い出があります。 松村春繁さんは、社会党から参議院議員に立候補したことがありました。 トラックのような自動車に乗って、手を振って行かれました。私も下から手を振りました。 そして、春繁さんに一票入れましたが、当選できませんでした。 その頃からお酒が多くなったと思われます。 その後、私は一度松村さんのお家を訪ねたことがありました。 家の南側を二間ぐらいの小川が流れていましたが、水が大変きれいでした。 声をかけますと、お母さんが二階から降りてこられました。 それは上品な方で、例えて云うなれば、乃木将軍の奥方のようなお方でした。 余り、言葉も交わさずお暇いたしました。 あんな立派なお母さんに育てられても、お酒飲みになるのかなあとも、お酒は関係ないのかなあと思ったことでした。 春繁さんは段々と年齢を重ねるにしたがってお酒の量も増えました。 下司先生は、幾度となくご注意されたことでございましょう。 そして、気長に春繁さんの断酒生活が始まりました。それは何年か掛かりましたが、下司先生の気長い説得にやっとお酒を断たれ、全国断酒会の会長となって全国の断酒に取り組まれている方々に、お話しをして廻られたと聞いています。 そして、病気になられてお亡くなりになり南国市の鯨岡山に葬られています。 春繁さんは鯨岡山から太平洋を眺めて、鯨の泳いでいるのをご覧になっていることでございましょう。 毎年、一月三〇日には、断酒会の方々が墓参りに行かれておりますが、いつまでも多くの人に慕われる方であります。 娘さんが二人ありましたが、お一人は東京におられると聞いております。 また、相談員の北村さんの室に二人目の奥さんと一緒に飾られている写真をお見掛け致しました。 最後に、松村春繁さんの御冥福を心よりお祈りいたしまして、終わりといたします。 1999年12月12日 □ 松村さんの思い出 下司病院相談役下司美左穂(2003.7.4病没) あれは、昭和45年1月29日の寒い夜のことでした。私は病院の事務室でただ一人、経理の残務整理をしていました。 当時の下司病院は、病院とは名ばかり、わずか入院室36床の小病院でした。院長である主人は、診療と断酒会とライオンズクラブの奉仕事業に没頭していて、会計は私が全部取り仕切っていました。 夜更けて10時頃だったと思います。事務室に入ってきた人がいました。それが松村春繁さんでした。 すると突然板の間に崩れ折れて、涙を流しながら「今迄、お世話様になりました。院長先生にも奥さんにもお金を出して頂いいて、ありがとう存じます」と言われました。 そしてトボトボと階段を上がって、病室へ帰っていかれました。松村さんの病室は北の事務室の丁度真上に有りました。 これまでに十数年間、断酒会機関紙「新聞断酒」発行費と松村さんや断酒会事務員の給料を累積すると相当な額に上っています。余所の病院は新築をしているのに、うちはいつ迄ボロの木造だろうかと悔しく思っていました。 でも、松村さんのこの言葉を聞いて、これまでの心のわだかまりがすーっと消えてしまいました。 ところが驚いたことにはその翌日、松村さんはお亡くなりになったのです。 虫の知らせというか、松村さんは死期を悟って、最後の別れの挨拶に来られたとしか思えません。 本当に奇しきご縁した。 でも、今になって考えると、断酒会が、政府や国会や学会にまで認められるようになったのは、松村さんの命をかけての献身的な活動のおかげと、改めて尊敬の念を禁じ得ません。 ご冥福を祈ります。 ご命日は、1月30日。今年は丁度没後30周年にあたりました。 南国市吾岡山の墓地には、断酒会の建設した断酒の碑が建っています。 命日には毎年、下司病院従業員と入院中の酒害者や南四国断酒会の会員の方々がお参りして、献花やお供え物をしています。 私達の墓参前に、どなたか参拝された方があり、松村さんを忍ぶ方は多いのです。 改めて松村さんのご遺徳の偉大さを感じている次第でございます。 (平成12年7月7日) □ 松村語録は素晴らしい 高知県断酒新生会会長 小林哲夫 (下司病院「指針と規範」勉強会より 平成13年1月25日) 「一人で止めることは出来ない、無駄な抵抗は止めよう」という断酒語録の標語を黒板に書きました。 自分一人でなんとかなる、やめなければならない程には悪くない、という理解では再入院もやむを得ない。ですから全国の進んだ病院では、断酒会への入会を徹底的にやる。 北村相談員のような酒害者を雇用して実績をあげている。北海道の太田病院では10人も雇用している。それで退院する時には断酒会に入会するのが当たり前でさっさと入る。 アメリカでは当たり前の事だ。アメリカでは入院中にプログラムに参加をしないなら強制退院だ。やめる気のない人をなおす力を我々は持っていない、とスタッフはいう。 保険会社も懐具合を考え、次の患者が待ってますからと、やる気のない患者のだらだら入院を許さない。 AAのメンバーは退院後90日連続例会に同伴出席をして、3者、つまりAA、病院、患者で連係をとる。 断酒を成功さすためには入院中より断酒会の勉強をしてほしい。 アメリカではアルコールが抜けた段階で最短2泊3日、最長20日の入院で、後はAAで勉強をしてくれということです。 病気というものはなる前に戻す治療と思われているが、いい酒を飲んできた元の状態に戻すことは出来ない相談だ。 アメリカでは若いドクターで、25周年のサイクルで断酒療法に対して節酒療法を対峙させて実践をすすめる試みをする医師が登場する。 そのような医師が患者に、自分の力にのみ頼らせて節酒グループを育てているんだが、あるときは節酒グループの会長が飲酒運転で2人をひき殺して、私は節制管理が出来ませんでしたとAAにもどっている。 この場合は医師の責任が大いにある。 可能性としては大都会では何千人に一人、節酒でやれる人はいるだろう。 それをドクターが飲む人権もあるからとか、選択肢に節酒もある、飲んで死ぬのを選ぶのも権利の内、とかいって節酒治療をすすめ、選択の自由をふりかざすのはその人の人生の問題、残された家族の問題を考えると許されぬことだ。 山本副院長も節酒では無理だといっている。 納得の人生を人は歩みたい。家屋敷を失って、気がつく前にまだいろいろなものを持っている段階で断酒会に入ってほしい。 無駄な抵抗をした挙げ句、敷き居が高いからといって、みっともないとかいって人生を失うことはない。 電話帳の「知っておくと便利な電話」の相談電話は以前は下司病院にあったが今は小林の自宅に移っている。病院では夜間の電話に、それもくだくだと長電話や無言電話に対応が出来かねたからだと思う。 わけの分からん電話が自宅へ、眠たい時間にかかってきて大変困るが、それだけに人々の暮らしぶりや苦悩が伝わってくるので自分自身にとっても貴重な電話となっている。 無言電話もあって、初めは腹をたてていたが、どうも違うなーと思っているとぽつりぽつりと話しはじめ、そこで「酒ッ」と聞く。断酒会に来てみませんかという。 ある人が電話をかけてきて、「何故会へ出て来ん」、と聞くと「恥ずかしい、止められん」という。 結局死後一週間で彼は福祉の人に発見されたが、何かあの時に一言を言い添えれなかったかという後悔が残っています。 なんとか、自助団体に繋がった私ですが、ある日、年がいって惚けたら飲むのではと恐れています。500円玉を家族から貰って酒屋にいくのではないかと。 かねがね飲みたい気持ちは皆さん以上、潜在意識でも消すほかないが惚けが介在すると酒との親密な関係は復活するのが大です。 家族には惚けたら精華園に連れて行ってくれ、窓側の仁井田の仕事場が見えるベッドで余生を送りたい。500円も持っていたら惚けたら呑むと、断酒して35年たった今、周囲の者にも言い、自ら肝に銘じております。 □ 片山元総理と松村会長 下司孝麿 44年前の昭和34年8月20日、第18回高知県断酒新生会臨時例会が高知県立図書館文化センターで開催された。 これは元総理大臣片山 哲先生の来高記念に実現したものである。 当時、片山先生は日本禁酒同盟理事長であった。 『東京を出発のときから高知の断酒会に非常な興味を持たれて、日本禁酒同盟本部森崎事務局長を連れて来高されていた。断酒会終了後に、下司病院応接室で午後11時まで歓談され、宿舎の三翠園に帰られた。』と、松村春繁初代断酒会会長が、『新聞断酒』第2号(昭和36年12月2日発行)に書かれている。 片山先生が中沢薬業の中沢虎吉社長の招きで世界連邦に関する講演にこられると聞いた私は、早速断酒会へご出席をお願いしていた。 中沢社長は熱心な禁酒論者であった。また、高知県断酒新生会創立時の支援者の一人で結成以来二年間、例会へ事務員を連れて出席された。 松村春繁会長は、かつて高知県における社会党ナンバー2の立場で、社会党党首片山先生とは熟知の仲であった。 とにかく高知の断酒会は片山先生に励まされて勢いづいた。 片山先生は、全日本断酒連盟全国大会(1966年東京、1967年岡山)に二回出席されている。 松村会長は言うまでもないが、このお二人のご恩を私たちは決して忘れてはならない。 □ 久里浜への訪問 (なだいなだ講演:元横浜断酒新生会 藤田唯さん聞き取り 2005.1.30) 先生が久里浜病院に赴任された頃、アルコール関係の専門医も少なく、医者の間では敬遠されていたそうです。久里浜病院を運営するに当たって、どのような方針で行くか、先生は悩みました。 その頃の風潮としては、酒を止めさせるために閉鎖病棟に閉じ込めるという方法が取られていたのですが、先生は逆に、患者に自由を与えることにしました。何時でも病院から外に出られ、また、酒を買うお金も与える…。勿論、そんなことをしたら、患者が酒を飲んでしまって、アルコール依存症の治療にならないではないかと懸念されました。 ところが、不思議なことに、患者の誰もが入院中酒を飲まなかったというのです。 また、退院後も止め続ける患者が多かったといいます。 病棟に閉じ込められて酒を禁止されていれば、退院したら飲んでやろうと心の中で念じつつ退院を待ち、病院から出た途端に飲んでしまいます。しかし、いつでも飲めると思っていれば、そんな飢餓感を感じることなく、自然に酒を止められます。 先生がおっしゃるには、先生の放任主義が患者の自覚を促し、良い結果を生んだのではないかということです。 そんな時、高知の松村さんと下司先生が、久里浜病院を訪ねてきました。松村さんは、他に類を見ないほどの酒豪で、酒に関して数々の武勇伝の持ち主でした。 『そんな俺でも酒が止められるのだから、誰でも止められる』と情熱のこもった口調で、断酒会設立の話を説いたそうです。 久里浜病院の入院患者さん達も、松村さんや下司先生の話に非常に共感し、神奈川県でも断酒会が創始されました。 やがて、断酒会は全国に広がり、現在に至っています。 (大和つくし断酒会結成35周年記念大会) □ 初代会長 松村春繁の思い出 最高顧問 下司孝麿 私が松村春繁さんに初めてお会いしたのは、南国市の自宅に往診した1950年(昭和25年)4月のことです。40℃の高熱と幻覚で、うわ言を叫び、アルコール性せん妄状態でした。 私は当時「アル中」と言われていたアルコール依存症に日本初のエメチン療法を試みていました。そこで、松村さんにもエメチンを投与しました。しかし、効果は数カ月しか続きませんでした。 4回目の入院の後で、母堂が危篤になりました。枕元に近寄り手を握ろうとしたら拒絶されました。臨終の母堂の態度に反省をして断酒していたのに、また飲みました。 自分に愛想が尽きて自殺を図りますが、父親に見つかり助かりました。 5回目の入院の時は、さすがに私も呆れ果てました。私の態度を見て、私に見捨てられてはいけないと考えて、とうとう断酒に踏み切りました。診療開始後7年目の1957年3月、52歳のことです。 1958年、私は松村さんから年賀状をいただきました。早速「アメリカにAAという断酒組織がある。断酒会を作って、酒害者の救世主にならないか」と手紙を送りました。 その年、高知市の中澤薬業中澤寅吉社長は禁酒同盟小塩専務を招いて、刑務所で世界連邦の講演を開く予定と聞きました。私は二人にお願いして、断酒講演を開催することができました。 私がこれまでに治療した250名の方々に案内状を発送しましたが、出席したのは松村さんと若い小原さんの2人だけでした。 しかし、刑務所関係の保護司が数十名おられたので、なんとか格好がつきました。 講演会終了後に、松村さんが立ち上がって断酒会結成を提案しました。 1958年、下司神経科院長室で高知県断酒新生会が誕生しました。会員は松村会長・小原副会長の2人、顧問は下司・中澤・秦泉寺正一高知大学教授(美術工芸担当)の陣容です。 秦泉寺先生は、断酒会のマーク作成、断酒会の歌作詞、例会の司会、街頭行進とプラカード作成、全断連結成提案など数多くのアドバイスをされました。 街頭行進は県下の注目を集めました。例会は月2回、午後7時〜8時50分でした。 松村さんは、病院内の断酒会専用事務室に出勤し、診察室で私との意見交換が毎朝の日程でした。 断酒会を結成して2年経っても、会員はなかなか増えません。その頃、松村さんに良い就職口が見つかりました。奥様に相談をすると、「貴方は酒を止めるのが仕事、生活費は私が出します」と言って山奥の小学校に赴任し、教員生活を続けられました。 文子夫人のこの一言がなかったら、今日の断酒会は育たなかったと思います。新聞断酒1965年10月号の鉄言に「奥様は最良の治療者」と書いたのは、文子夫人の功績を偲んだからです。 そこで、私は高知アルコール問題研究所を立ち上げ、松村さんを所員として雇い、給料を支給しました。専従電話を取り付け、機関誌「新聞断酒」を発行して厚生省・日本医師会・各大学医学部精神科・主だった精神病院・地元官庁・報道機関・全国断酒会等へ無料で発送しました。 松村さんは、私の活動方針を下司構想といって、新聞断酒に発表しました。私は私の氏名を出さない方針で差し止めましたが、小林哲夫さんの話しでは講演でよく発表をしていたそうです。今から考えると医療機関と断酒会のネットワークのことです。 私は、東京・鳥取・岡山・北海道・仙台・静岡・北九州・大阪・新潟などに医療機関の拠点を作っては、松村さん等を高知アル研の活動費を使って派遣し断酒会を結成してもらいました。 松村さんは昔、労働運動で組織作りはお手のものでしたが、今回は大きい武器がありました。それは社会党高知県連委員長などの華々しい過去の肩書き、「アル中」のドン底生活、そして復活してから断酒会会長としての活躍という浮沈激しい経歴です。 彼が体験を発表すると、こんなひどい「アル中」でも立ち直れるなら、自分も回復可能との自信が生まれます。彼の体験談に、誠実な人柄と爽やかな弁舌が加わって鬼に金棒、断酒会結成と運営の最適リーダーとなりました。 今だから言いますが、私は松村さんの全国行脚の旅費をはじめ全断連づくりのため、巨額の出費をしました。 しかし、日本のアルコール医療に先鞭をつけた私にとって酒害問題の解決は最重要課題でもありましたので、少しも惜しいとは思いませんでした。 断酒会は次第に発展し、新聞全国紙に取り上げられるようになりました。NHKは、2週間の取材で松村の「ある人生」を製作し、1968年12月7日全国に放映しました。 さて、私の妻が病院経理の仕事をしていた夜10時頃、入院中の松村さんが突然入って来られ「長い間、お金のことで大変お世話様になりました」と話された後、へてへたと倒れたとのことです。 その翌日、松村さんご逝去。1970年(昭和45年)1月30日、享年64歳でした。 (初出 全断連機関紙 かがりび・2005.3 生誕百周年記事) □ もっと松村を知りたい 1、『松村春繁会長・知られざる側面』 小林哲夫 第61回松村断酒学校会報・特集 非売品 参加者への配布ほか 高知県断酒新生会(高知市若松町215) п@088(882)2586 2、『新聞断酒』完全復刻版 昭和36〜47年 1987年刊 高知アルコール問題研究所 2000円 解題・元編集人 小林哲夫 高知市本町三丁目5-13 下司病院内 http://www.kochi-al.org 3、『断酒に捧げん』 長山瑞巌(故人) 絶版 1981年刊 高知県断酒連合会 1500円 高知市六泉寺148 п@088(832)0623 4、『或るアル中の栄光の死』 なだいなだ(精神科医・作家・老人党首) 月刊「文芸春秋」誌 昭和45年5月号 5、『松村春繁ー断酒会初代会長』 小林哲夫 1990年初版 2100円 アルコール薬物問題全国市民協会 メール ask@t3.rim.or.jp 〒103-0007 東京都中央区日本橋浜町3-16-7-7F п@03(3249)2551 http://www.ask.or.jp 6、氏原一郎伝(故人・元高知市長・松村の盟友 市長机には酒代をねだりに来る 松村の為に100円札をいつも袖机に入れていた) 氏原一郎伝刊行委員会 飛鳥出版室 1994年 7、全断連機関紙 かがりび・2005.3 松村春繁生誕百年特集 なだいなだ・下司孝麿・鷲山純一・森田一志・岩崎廣明・小林哲夫 全日本断酒連盟HP http://www.dansyu-renmei.or.jp/ 8、本物アル中体験談 岡山大学での松村氏講演要旨(昭和42.12.11) 岡山断酒新生会 機関紙『ともしび』31号(昭和45.4.30) 9、『現代のエスプリ』松村春繁 小林哲夫著/至文堂 11、CD 故松村春繁 断酒行脚 岡山県の巻 慈圭病院の仲間達を訪ねて 院内例会・金曜会 30周年記念制作 なぜ断酒会で酒をやめられるのか http://www.kcb-net.ne.jp/dansyu/naze.htm 高知県断酒新生会 小林哲夫 |