小泉氏はじめ自民党首相も盟主も原爆原発トラスト戦争屋の共同経営者!
2001年から電流投与を小泉氏から開始される前の私の過去
〜キッシンジャ−の前頁からつづきます〜
ましたが、
上記は『三春町1−1』の私の記憶誤りです。
1965年、学生服姿23歳の某学生:小泉純一郎さんは
ペリ−の胸像が立つ【浦賀】ゆき、つまり【三春町の自宅】ゆきの
【品川駅ホーム/京浜急行線】へ毎朝立っていました。
1965年12月14日、私と小泉純一郎さんは『品川デ−ト』
(相互に初デ−ト)
当時の小泉さんはほとんど下向き加減で
声も小さく「頷く」動作を繰り返していたと記憶します。
↑このデ−トの10〜14日後くらいに
私は、小泉さんから
目標に向かって頑張って下さいと
【激励の手紙】を受け取っています.(2011年になって内容を思い出す)が
書簡を受け取る数日前から、私の
【時間の感覚】が不可解にも不自然になっていました.
←母が【自宅郵便受け】から小泉さんの手紙を取り出し私へ寄越しました
非常に朦朧とした感覚で、私はその書簡を読み終えた後
小泉記憶は、私から完全に、失せていました.
私が、2001年小泉さんから【電流を投与】されつづけ
2003年5月迄38年間も小泉記憶は喪失されていました.
1966年【原発、東海村へ初建設の年】
某男性(小泉さん)が、私と
【菩薩峠登山へ同行】し【私の真正面へ数時間座って】いました。
← 列車の中の
ボックスシート
切り株へ腰掛けた
小泉純一郎氏 →
某男性(小泉さん)は大菩薩峠で切り株に座り
(初デ−トで語ったこと)親指の爪が割れたことを
ジェスチャ−を交えて繰り返し語っていました。
大菩薩峠登山リ−ダ−のT教諭(後の愛媛大学教授)は
彼の名前は【小泉純一郎君】【慶応出の慶応ボ−イ】
と
私へ向かって紹介しましたが私にはさっぱり分かりませんでした.
• [1966年]とは日本の東海村へ【原発が初建設】された年です.
•[浦賀] とは、ペリ−が[1854年に和親条約を締結した場]です.
【ペリ−】は [環太平洋市場獲得を目的] として
•1854年に[琉球/沖縄を前線基地としたピュ−リタン的植民地化]
構想をたて[アメリカ政府重要文書ペリ−の日本遠征記】へ記しました.
私の幼児期、1952年、私は茅ヶ崎の海で溺れたのち、
巨大昆布に巻きつかれ、その侭、昆布と共に砂浜へ流れ着きました.
そこで見上げた太陽と大気は溺れた恐怖を忘れさせるほど異様でした
それは
【原爆投下放射能熱風の“温室効果”が海洋上へ遅れて現れた】つまり
温暖化が止まらない理由となる大気状況を目視していた
と私は確信いたします.
それを2030年までに日本人のみならず世界人口が体験するとは...
1981年には
【人格障害精神分裂症洗脳教育を受けたキッシンジャ−】の
【秘書官の娘】へ私は数ヶ月間書の伝授をいたしました。
2003年の春【午前5時半〜6時】には
全天の雲が一列に並び【巨大蛇の形状】をなして
一方向→【見かけの太陽】へ向かぃ
【一斉に吸引】されてゆく大気現象を【一週間目視】し続けました。
幼児期から、如何なる環境(逆境)においても
人の顔や発言を自然に記憶し忘れた事が無ぃ私.
ゆえに
小泉氏についてのみ記憶喪失になった事実は誠に不可解です.
しかし
私の体験と考察の公表後、幼児期から、毎回、
[国内或ぃは世界の、真のオ−ソリティたち]が
発表して下る幸運に心から感謝申し上げる次第です。
自民党公明党政策実施【1966年から原発増設.2010年には70〜80基】
公表されませんが現在100基以上(大学•会社の原子炉を含む)存在.
↑この先は↓地震帯国の島嶼日本のみならず世界の原発が
原子炉時限爆弾:原発震災発生の可能性
昨年の2010年12月に私の子供たちへ郵送したレポ−トと偶然にも
同じ結論となりました【ジャ−ナリスト広瀬隆】氏の正確原発報道
↓
破局は避けられるか――福島原発事故の真相
ご高覧下さいませ. |