何も変化のない毎日だった。
 彼女にとって、それは常の範疇の中にある出来事に過ぎなかった。
 寝て、起きて、食べて、遊んで、殺して、死んで。
 偶に行き倒れを見つけ、埋めたり、適当に助けたり、放置したままであったり。
 それは彼女にとって常の範疇の中にある、当たり前の事だった。
 
 ■ ■ ■
 
 駆けて行く。
 夜を駆けて行く。
 追ってくる足音が絶えないから、駆けて行く。
 逃げて行く。
 夜を逃げて行く。
 迫ってくる足音が消えないから、逃げて行く。
 
 傷だらけの体を引き摺って、今にも破裂しそうな心臓を動かして。
 少年は竹林の中を走っていた。
 
 それを追うは五匹の狼。
 狼達の体は見るからに痩せ細っており、数日間ろくな食事にあり付けていないのは明らかだ。
 であれば、その痩身に鞭打ち追う以上、そういう事なのだろう。
 
 走る狼達は捕食者で、走る少年は被食者。
 牙も爪も持たない少年は、ただ走る事しか許されず逃げて行く。
 
 しかし、それも最早限界だった。
 傷だらけの体は徐々に力を喪い失速し、内臓は限界を超えた負荷に強く圧迫され機能を低下させていく。
 腕は重くなり足は痛くなり――少年は、その場に伏せた。
 もう動けない、と。
 
 息も粗く横たわる少年に、狼達は涎を垂らしながら近寄っていく。
 大きく開かれ、ぬらついた剥き出しの牙を見ながら、少年は思った。
 なるべくして、こうなったのか、と。
 これしかなかったのか、と。
 
 数日前までの日々を思い出す。
 それは当たり前の日々だった。
 どこにでも在る、明日も今日と同じだと信じられる、普通の毎日だった。
 寝て、起きて、食べて、一人で遊んで、本を読んで、たまに母親を手伝って。
 けれども、その少年の日々は容易く踏み潰された。
 本当に容易く。
 まるで地を這う蟻が、知られぬまま潰されるように。
 
 まず、天狗達に追われた。
 ただの人が山に棲む事は許さぬと、追われた。
 古きを守る排他的な彼らには、どんな言葉も、どんな背景も関係なかった。
 それまで過ごした少年の家は、無残に焼かれた。
 
 次に、人里の人間達に追われた。
 そんな子供は受け入れられないと、追われた。
 違う物を恐れる排他的な彼らには、どんな言葉も、どんな背景も関係なかった。
 それまで守ってくれた母親は、そこで無残に殺された。
 
 残った少年は、ただ追われた。
 人でもなく、妖怪でもないその少年は、母を喪った悲しみに暮れる暇もなく追われた。
 この世に在る物全てが、無残に少年を追った。
 
 それなのに、これが最後なのかと。
 少年は強く目を瞑り、この世の全てを呪った。
 空を、土を、風を、水を、何も知らず輝く星を、月を。
 何もしてくれなかった人間を、妖怪を、神を。
 少年から全てを奪った人間を、妖怪を、神を。
 
 死を前にした彼を、恐怖が苛み苦しめる。
 自分だけが怖いのは嫌だ。
 自分だけが痛いのは嫌だ。
 自分だけが辛いのは嫌だ。
 
 ――どうして……どうしてッ!! なんで!!
 
 声にならない悲痛な、未成熟な叫びが夜の竹林を震わせた。
 
 そして少年は、辛うじて保たれていたか細い意識を失う。
 最後に思った事が偽らざる本心で在ったのか、それともただの愚痴めいた物だったのか。
 それは『後の彼』にもとんと分からなかった。
 とんと、分からなかったのだ。
 
 
 
 『はんぶんふたつ、えいえんひとつ』
 
 
 
 額に冷たさを、躯に重みを、鼻腔に幽かな花の香りを。
 それらを同時に感じ取った少年は、目蓋を開けようとした。
 が、それは開かない。
 重く重く、鉛の様に重い少年の目蓋は、開けない。
「起きたか?」
 少年は体をぴくりと震わせ、起き上がろうとしたが、これも駄目だった。
 体も目蓋も、指一本少年は自由に出来なかった。
 精々がぴくりと震える程度にしか動かない。
 それを声の主は感じ取ったのだろう。
「無理するな。お前みたいなちっさい奴の体じゃ、まだ起きれやしないよ」
 
「……だれ?」
 どうやら口だけは少年の意に背かなかったらしく、少年は錆びた鉄の様な声で誰何した。
 子供らしさの欠片もない、そんな声で。
「お前を拾った奴」
「……ばかなの?」
「こんがり焼くぞ、お前?」
 少々突き放した、幼さを感じさせるその女性の声は、少年のすぐ傍からした。
 ――近い?
 少年が無意識のうちに体を引き、離れようとするとそれは押さえつけられた。
「だから、動くなって言ってるでしょうが」
 少年の額に置かれた冷たい何かが、強く押し付けられ、少年の動きを封じ込める。
 額に当てられた手のひらは、そう大きな物ではない。
 それだけで動きを全て封じられたというのだから、どれほど少年の体が疲弊していたかを如実に語っていた。
 
 そして少年は、そのひやりと冷たい手のひらに自身の現状が如何なる物であるか、理解し始めた。
 まだ、自分は生きている。
 額に感じる手の冷たさは偽りではないし、体を被う久方ぶりの布団の重みは、確かに本物だ。
 だからそれが不思議だった。
 少年は竹林で狼に襲われ、逃げる事も追い払う事もかなわず、すでに物言わぬ屍――いや、骨だけになっている筈だった。
 だのに、生きている。
 やはりそれは不思議な事だった。
「……ぼくは、どうして?」
「だから、拾ったんだって」
「……ばかなの?」
「真っ黒に焼くぞ、お前?」
 
 何かをかちゃかちゃと鳴らしながら、少々甲高い女性の声は続ける。
「ふー、ふー……ん、こんなモノかな。ほら、口」
「くち?」
「あぁもう、開けて。あーんって」
「……?」
 言われたまま口を開けると、それは口に入ってきた。
 突如口に入ってきた、熱い異物を吐き出そうとする少年を、彼女は叱った。
「こら、飲み込む! お百姓さんに悪い事するな、ばか」
 
 言われるまま、少年は恐る恐るそれを飲み込んだ。
 喉を適度に熱い何かが過ぎていく。
 どうやら粥であったらしい。
「よし、食べられるみたいだな。ほら、もう一回」
 またかちゃかちゃと音を立てながら、彼女は少年に言った。
「……」
 それを数分間繰り返し、食事は終わった。
「水は?」
「……少し、ほしい」
「よし……じゃあ…………あー……どうしよう? このままじゃ飲めないなぁ……」
「?」
「ん、まぁ子供だし、良いか」
 彼女は一人で何かを納得し、隣にある湯飲みを手に取って、それを自分の口に当てた。
 そして――
 
 自分の口に水を含んだまま、少年へ口付けした。
 少年に確証は無い。
 それがお互いの口が触れているという確証は無い。
 無いが、唇に触れる柔らかい感触と、額に掛かる自分以外の髪のさらさらとした肌触り、何より濃厚な香りが、
少年にそれが唇同士の触れ合いだと思わせた。
 水が少年の喉に流れ込まれていく。
 それをこくこくと喉を鳴らしながら飲むと、少年の顔に熱が灯った。
 その行為の詳細を知らない少年であっても、やはり何か思う事があるらしい。
 
「んー……ぷあぁ……ん、まだいる?」
 唇を離して無邪気に聞いて来るその声に、少年はどうにか目を開いて答えた。
「……ほんとばかだろう、君」
「ほんと消し炭にするぞ、お前?」
 言葉は汚かったが、薄呆けた視野に辛うじて見える、その優しく微笑む彼女――少女の顔は、奪われ、
乾き疲れ切った少年には、どうしようもなく綺麗なモノだった。
 目を背けたくなるほどに。
 
「で、お前の名前は? 私は妹紅。藤原妹紅」
「……ぼくは――」
 
 それがその少年――霖之助と、藤原妹紅という少女の出会いだった。
 
 ■ ■ ■
 
 竹林で倒れている者など、真っ当な者ではない。
 まして狼に食われようとしている子供など、本当に真っ当な者ではない。
 それでも妹紅は少年を助けた。
 拾い、家に運び、世話さえした。
 それは別段優しさから起きた行動ではなく、妹紅なりの暇つぶしだった。
 常の通り見捨ててもよかったが、流石に幼い子供を見捨てるのは後味が悪そうだった。
 だから彼女は霖之助を助け、拾った。
 けれどもそれは、永くを生きた彼女なりの時間つぶしに過ぎない。
 
 ――偶には良いだろう。
 
 その程度しかなかった。
 ただ、問題が後々生じた。
 
「霖之助、ごはんだぞ」
「はい」
「霖之助、ちょっと出かけるから留守番頼むね」
「はい」
「霖之助」
「はい」
 
 	――問題が、ある――
 
 狼に襲われ、助けられて、見知らぬ少女に世話をされて。
 それでもあれ以降何も聞かず、自分の事を話さない少年。
 そこに黙然と在るだけの子供。
 でもそれは余りに――。
 それは余りに、やはり真っ当な者ではなかった。
 真っ当ではない妹紅から見ても。
 
 だから妹紅は困った。
 宛がえられた小さな一室で布団に包まれたまま、天井を眺めるだけの少年に。
 
 ■ ■ ■
 
 霖之助の怪我はそれなりの回復を見せたが、妹紅が見る限り、精神は未だ傷だらけの状態だった。
 話しかければ応じるし、笑い話をすれば笑う。
 食事を出せばちゃんと食べるし、世話し過ぎれば真っ赤な顔で慌て出す。
 けれどそれだけだ。
 霖之助は受動的でしかない。
 受ける立場でしかない。
 妹紅が何かをする、という前提でしか、霖之助は何もしない。
 食事さえ必要としなかった。
 妹紅が一緒に食べようといわない限り、霖之助は部屋から出てこようとしないし、何も言わない。
 それは霖之助の、未だ幼い年齢を考えれば少し悲しいことに妹紅は思えた。
 何より、気になる事はある。
 
 ――いつから私はそんな優しくなった。
 竹林の中にある小さな岩に腰掛け、彼女は指先から小さな炎を出しながら思う。
 それを横に小さく振りながら消し、また炎を指先から出す。
 意味は無い。
 それに一切意味は無い。
 無いが、何かしなければ落ち着かなかった。
 ――私はあの子の母親でも姉でもない。そんな事知らない。怪我が治れば、放り出すよ。
 そしてそれは、霖之助も分かっていた。
 一時の休憩の場所だと、霖之助は理解していた。
 出て行けと言われれば、霖之助はそれが今日この瞬間だとしても素直に出て行くだろう。
 怪我の有無など関係なく。
 行く宛て等あろうがあるまいが、関係なく。
 妹紅にはその、霖之助の年不相応な理解が気に入らなかった。
 それが、気になる事だった。
 
 霖之助の、らしからぬ聡明さは一緒に過ごして分かった。
 だが幼い少年だ。
 何かあったにせよ、根っこはまだまだ子供なのだ。
 もっと人に甘え、無邪気に笑っていい筈だ。
 里の人間には在り得ない、紫がかった銀髪も、今は曇った金の瞳も、問わねば何も食さないその性質も。
 恐らくはそういう事なのだろうと、妹紅に思わせるに十分ではあったが、それでも子供は子供だ。
 自身の様に姿だけが幼いと言うならまた別だが、数日共に過ごした限りでは、霖之助は大人びてこそいるが、
ほぼ外見どおりの年齢だろう。
 
 子供だ。
 子供なのに、霖之助は話しかけて笑わせる時以外には、乾いた瞳で全てをただ見ているだけ。
 子供なのに、世に疲れた老人のような、捨てられ余命幾ばくかの痩せ衰えた野犬のような、そんな目。
 それも妹紅には気に入らない。
 
 ――あぁ、そうさ、気に入らない。あいつ子供の癖にもう大人ぶってるもん。
 妹紅は指先に灯した小さな火を大きく振って消し、腰を上げて歩き出す。
 歩む先には自身が住まう小さなあばら家。
 人里からは少し遠く、迷いの竹林からは近い、勝手に彼女が占拠した元廃屋。
 現在は彼女の家であり、彼の休憩場所。
 
 ――霖之助が何もしないって言うなら、私が動かしちゃえば良いんじゃないか。
 霖之助が偶に見せる笑顔を思い出しながら、彼女はそう結論付けた。
 そう、無理矢理動かしてやれば良い。
 体の傷は未だ癒え切っていないが、動くに困るほどではない。
 まずはそう、子供らしく動くべきだ。
 妹紅はそれが解決策だと信じて、歩き出した。
 そんな物、言い訳だと心の中で分かっていても、見て見ない振りをした。
 
 目の前にある自身の棲家の扉を常より大きな動作で開けて、妹紅は口を大きく開いた。
 にんまりと、楽しそうな目で奥に見える一室を見つめて。
 
 彼女は確かに優しくはない。
 けれど酷くもない。
 何より。
 自分の中にある、長い年月が作り出した大きすぎる余白を――
 
「霖之助!」
「はい」
「遊びに行くぞ!!」
「……はい?」
 
 見て見ない振りをした。
 
 ■ ■ ■
 
 そして時は流れていく。
 竹林へ行って竹を取り、それで竹とんぼを作って飛ばしたり。
「ほら、こうだって」
「……こう?」
「……不器用だな、お前」
「……」
 
 川に行って水掛をやったり。
「さぁ来い! ばしゃっと来い!!」
「……いや、来いとか言われても」
「じゃあ私が行く」
「ばしゃっと来たッ!?」
 
 魚を釣って一緒に食べたり。
「美味しいなー、私が釣った魚美味しいなー」
「……」
「あれー、どうしたの霖之助? 一匹も釣れなかった霖之助、どうしたのー?」
「魚の小骨喉に刺され、魚の小骨喉に刺され、魚の小骨喉に刺され、魚の小骨喉に刺され、魚の小骨喉に刺され」
「いや霖之助、そんな一所懸命呪詛こぼされても」
 
 別の部屋で寝ていたのに、いつの間にか一緒の部屋で寝ていたり。
「恥じらいをもちなさい」
「えー、でも」
「恥じらいを、もちなさい」
「はーい……あれ、なんで私が怒られてるの?」
 
 輝夜との喧嘩――殺し合い――で霖之助に心配させたり。
「……何、その血まみれ」
「うん、竹林でちょっと雌狐というか雌狸というか雌豹というかそんなのに出会ったり出会わなかったり?」
「へー、ほー、ふーん?」
「凄い冷たい目で見られてる私!」
 
 黙々と本を読む霖之助を妹紅がくすぐったり。
「邪魔」
「あれ、そこはこう、もっと冷たいながらも優しく」
「邪魔」
「あれー」
 
 どちらかと言うと偏った食事ばかり用意する健康管理皆無の無限生命娘の食事を改善したり。
「ちゃんと野菜も食べる」
「いや、私これ嫌いだもん」
「わがまま言うんじゃありません」
「……あれ、なんか立場逆じゃない? これなんか逆じゃない?」
 
 霖之助にお姉さんと呼ばせようと躍起になったり。
「はい」
「……」
「はい」
「……」
「……泣くよ?」
「……ね、ねぇ……さん」
「……」
「ねぇ、さん?」
「そうか……これが、萌え……なのか」
「……?」
 
 日々は優しく不器用に、二人の絆を少しずつ繕いながら過ぎていった。
 過日を思い出せば、余りに他愛無く終わってしまうそんな日々を、次に在る真っ白な明日を。
 二人は一つの鉛筆で手を取り合って綴り、書き記していった。
 
 空白に黒一色で記されていた文字は、やがて多彩な色を交えて記されていく。
 思い出の数だけ、二人は色鉛筆を手に入れて、それを記していった。
 
 彼女は優しくなかった。
 けれど冷たくもなかった。
 触れ合いの中で生じた感情を無かった事に出来るほど、彼女はやはり冷たくなかった。
 
 少年は一度全てを恨んだ。
 けれど恨み切れなかった。
 触れ合いの中で生じた感情を無かった事に出来るほど、彼はやはり恨み切れなかった。
 
 時は流れていく。
 時は流れていく。
 不器用に、優しく、そして時に冷たく、それでも暖かく。
 
 ■ ■ ■
 
「ここに、子供がおるじゃろう?」
 年老いた男が、ある日妹紅の家にやって来た。
 里の屈強な若者達を数人ほど引き連れて。
「それが?」
 妹紅はそれを軒先で迎えた。
 霖之助に出てくるなと伝えて。
「これ以上の勝手は困るの……わしらは、あんたが此処に住むのを見逃してやった。それを……」
「上から目線とか、すげーむかつくわ」
「事実じゃよ……さて、子供を渡してもらえんかね?」
「断る」
「お前!!」
 老人の後ろに居た若い男が拳を振り上げ、一歩踏み出す。
 それを老人は手を上げるだけで押さえ、言葉を続けた。
 
「あれは雑じり物だ。人ではない。分かるじゃろう?」
 老人言葉に、妹紅はやはりそうかと思った。
 思っただけで、それ以上の事は何一つなかった。
「けれど妖怪でもない。だから分からない」
「これ以上の余所者は必要ない……そういう事じゃ」
「霖之助は私の家族だ」
「……これ以上は、暴力で解決と言う事になるぞ?」
「暴力? いいじゃないか」
 にやっと、妹紅は凶暴に笑う。
 それまでポケットに入れていた手をゆらりと出して。
 その余りの凶相に、若者達が怯え、老人は低く唸った。
 
「やりたいならやれば良い。けれどお前達だって知ってる筈だ。家族を守る者は強いって。
人に子を傷つけられ、殺された獣が、どれだけ凶暴になるか、お前達は知ってる筈だ」
 なら、と妹紅は続ける。
 両の手のひらから紅々と輝き揺らめく炎を出しながら。
 
「私は、真っ当な人間じゃあない。こういう事だって出来る」
「――……」
 最早里の人間達は言葉もなく、ただよろめきながら後ずさっていく事しかできない。
「だから、関わるな。何もしなければ、何もしない。偶には、里に被害を及ぼす妖怪変化だって退治してやっても良い。
だから、私達にはもう、関わるな、何もするな、あいつに――霖之助に、これ以上渇きを与えるなッ!!
そんな事、私が絶対に許さないからな!!」
 
 両の手のひらで揺らめいてた炎は爆発し、大きく四散した。
 それに驚き、恐怖した人間達は我先にと里へ逃げ去ってゆく。
 その背後に、妹紅は叫んだ。
 
「等価交換だ! 私が里をそれなりに守ってやる! だから、傷つけるな!!」
 叫び声が竹林を震わせ、やがていつもの静寂が戻ってくる。
 妹紅は家に入ろうかと振り返ると、がらりと扉が開いた。
「……ねぇ、さん」
「……霖之助」
 妹紅の目の前には霖之助が居た。
「……ごめん、僕のせいで」
 いつか見た、ここに来た頃の、乾いた金色の目で、妹紅を見つめる霖之助が居た。
「やっぱり……僕は、駄目なんだ……居ちゃ、駄目なんだ」
「……なんで?」
「……だって、ねえ、さんまで……巻き込んで……」
「なんで?」
「……僕が……半分……妖怪らしい……から」
 泣きながら、霖之助は語りだした。
 かつて母親から聞いた、自身の父親の事を。
 話にしかしらない父親の事を、勝手に隠れ住んでいた山を、天狗達に追われた事を。
 人に追われ、母親を殺され、一人迷いの竹林へ投げ捨てられた事を。
 霖之助は流れ落ちる滂沱の涙を拭おうともせず、語った。
 
 妹紅は一歩近づいて……まだ自分よりも背の低い霖之助を――
 思い切り叩いた。
「……痛ッ!?」
 目を白黒させ、叩かれた頭を抱える霖之助に、妹紅は人差し指を突きつける。
「子供なんだから、子供らしく甘えてれば良いんだ! お前は変に大人ぶるから、損してるんだばか!」
 そして妹紅は、霖之助を無理矢理引き寄せ、強く抱きしめた。
「お前はもう、私の家族なんだから……そんな事、知ったもんか」
 人をそう抱きしめた事もないのだろう。
 不器用に霖之助を抱きしめながら、妹紅はそう言った。
 霖之助はそれをおずおずと抱き返し……
「……うん、覚悟……しとくよ」
 笑いながら、泣きながらそう答えた。
 その後妹紅に、なんだそれは、と小突かれた。
 
 また、一歩前進。
 そんな日になった。
 
 ■ ■ ■
 
 それからと言うと。
 ごく稀に人里との衝突はあったが、妖怪退治と言う札が効果を発揮したのか、特に事件に至るような事も無く、
妹紅と輝夜がガチンコに過ぎるセメントバトルをやらかして霖之助を心配させる以外、二人は平穏無事に過ごしていた。
 偶にトラブルを起こしながら。
 
「また……血まみれになって……」
「あー……ごめん」
 出かけてくると言い残し出かけていった妹紅が、いつもよりは若干遅く戻ってきたのを出迎えた霖之助は、そこで頭を抱えた。
 妹紅は、また血まみれだった。
「洗濯、誰?」
「……りんのすけ?」
「うん、僕の番の日だね」
「いや、ほんとごめん」
「……」
 
 それが妖怪退治だと言うのなら、仕方ないと思えた。
 が、妹紅は妖怪退治でこんな返り血を浴びる事はまずない。
 霖之助が知る限り、彼女が妖怪相手に下手を打った事など、未だ短い付き合いだが一度も無い。
 
 だから、心配では在った。
 在ったが、それは言えなかった。
 これを毎度繰り返す以上、妹紅には意味のある事なのだろうの霖之助は思っていた。
 ただ、それ以上に心配事があった。
 服にしみこんだその血が、誰のものであるか、だ。
 妹紅を見ても、傷一つ無いのだから、これは誰かの血なのだろう。
 沁みこんでいる血だけでも、夥しい量である。
 これほどの血を流せば、相手も無事では済まないと子供の霖之助でも分かる。
 にしては、死体がどこかで上がったと聞いた事が無い。
 それでも、こんな事が続けばいつかこの生活も壊れるのでないかと、霖之助は不安だった。
 
「大丈夫だって」
「……?」
 そんな霖之助の思いが妹紅には透けて見えたのだろう。
 彼女は霖之助の頭をぽんぽんと軽く叩き、笑った。
「まぁ、相手も真っ当な人間じゃないから、死なないって。っていうか、人間じゃない?」
 それはつまり、目の前の彼女を含めて真っ当ではないと言っている様な物だった。
 それでも、霖之助はどうでも良かった。
 そこはどうでも良かった。
 妹紅さえ無事で、この生活が続くなら、それだけで良かった。
「ちょっと着替えてくる」
「……うん」
 奥にある自室へと向かう妹紅に、霖之助は素直に返事した。
 とりあえず、どうやって染み抜きするかを考えながら。
 
 部屋から出てきた妹紅から衣類一式と、当たり前のように渡された下着を受け取って、霖之助が洗濯籠にそれを投げる様に放り込んだ。
「なんだよ! なんでそんな入れ方するのかな!? おねえちゃんの事嫌いなのかな!?」
「ばかだよ、ねえさんほんとばかだよ!」
「馬鹿じゃないよ! 賢いよ! カッコいいよ! 可愛いよ!」
「だからなおさら困るんじゃあないか!」
 聞くものが聞けば、砂糖を口からこれでもかと吐き出しかねない漫才を局地的に開催し、二人が共に疲れた辺りで食事になった。
 
 
「霖之助ー、おねーちゃんねー、これ嫌いー。おかーさんねー、これ嫌いー」
「ちゃんと食べなさい。あとかあさんなのか、ねえさんなのか、はっきりさせなさい」
「……どっちも」
「どっちか一つにして欲しい」
「……じゃあ、幼妻?」
「ねえさんの無茶振りはどこまで行くの?」
「月まで届くよ?」
 
 一般家庭としてはカウントされない、少々歪な会話の中、それは起きた。
 とんとん、と小さく扉が鳴る。
 風でも吹いてきたかと思った二人だったが、それは再び、更には三度鳴らされた。
 妹紅が霖之助に目配せし、霖之助が腰を上げる。
 いつでも動けるようにと。
 用心深く扉に近づき、妹紅が扉を開けると――
 
「誰?」
「……里の、者です」
 そこには、子供を抱えた二人の男女が居た。
 頼りない星の明かりだけでも、真っ青だと十二分に判る顔で。
 
 ■ ■ ■
 
「つまりこれは、妹紅お母さん奮戦記パート2、か?」
「ねえさん、現実はどうやっても変わらないよ」
「うん、そだね」
「そうだよ」
 二人は頷き合い、布団の中でうなされる、幼い少女を見た。
 
 銀髪の、恐らく将来美人になるであろう少女を。
 
 その夜やって来た若夫婦は、この子供を妹紅に預かって――いや、貰って欲しいと言った。
 何を言われたのか判らなかった妹紅は、一瞬だけ考え込み、そして理解した。
 彼女は激怒し、そんな事を言った男を殴ろうとしたが、男の腕の中でうなされる子供を見て、どうにか自身の激情を押し留めた。
 どういう事だと聞くと、訥々と二人は語りだした。
 
 その子供は普通の子供だった。
 ただの人間だった。
 だが、どこかで歯車が狂った。
 詳細は省くが、事故により怪我を負い、その結果半妖へと転じてしまったらしい。
 今までどうにか隠し通せたが、もう限界は見えている。
 このままでは子供が里の人間達に殺されてしまうと危惧した彼らは、
竹林で半妖の子供を引き取って育てている物好きな少女がいると聞いた事があったらしく、それに縋る一心でここまでやって来たのだという。
 
 このままでは、もう一家全員で死ぬしかないと、ぽつりと零した男の、余りに悲壮な顔に妹紅はため息を吐き、それを承諾した。
 それを泣いて喜ぶ両親に妹紅は、ただし、と続け。
 『この子はもう私の子だ。一生会わない、と誓えるなら構わない』
 そう言った。
 男と女は顔を悲しみに歪めた。
 自分勝手な物だと思うが、それだけ愛していたという証拠だ。
 それを罵る必要は無かった。
 少なくとも、妹紅にも霖之助にもなかった。
 
 男と女は、名前は慧音です、とだけぽつりと呟いて、泣きながら里へ帰って行った。
 その背中を見送りながら、霖之助は思った。
 捨てても、捨てるという選択肢を選んでいても、親は子を想い愛しているのだと。
 例え彼らが自身の親の仇であっても……それは尊い事なのではないかと。
 酷く漠然と、霖之助はそんな事を思った。
 
 そして、時計は回る。
 噛み合うか、噛み合わないのか、判らないまま付け加えられた歯車を伴って。
 
 目を覚ました当初こそ不安に怯え、親に見捨てられたという無慈悲なこの世の仕打ちに泣き暮れる慧音だったが、
妹紅と、更には自身に近いと言う霖之助の献身的な世話により、情緒を崩す事は少なくなっていった。
 一ヶ月も過ぎれば、もう泣くことさえなかった。
 偶に悲しそうな顔をするが、そんなときはいつも霖之助が隣であやした。
 
 未だ半獣の血に馴染まない慧音は、布団の中で過ごす日が多かった。
 それを不憫に思った妹紅と霖之助は、ただひたすら頑張った。
 寂しくないように、悲しくないように、楽しくなるように、嬉しくなるようにと。
 霖之助が本を読んであげたり、霖之助が髪を梳いてあげたり、霖之助が優しく背中を撫でてあげたり、
霖之助が食事を作ってあげたり、霖之助があーんしてあげたり、霖之助が背中を拭いてあげたり、
霖之助が一緒に寝てあげたり、妹紅が慧音ばっかりずるいと邪魔して慧音を笑わせたり。
 霖之助は頑張った。超頑張った。
 同じ様な境遇に陥った慧音が、曲がらず捩じれず真っ直ぐに育つようにと、身を粉にして頑張った。
 妹紅は、文字にすると 妹紅 がんばった 妹紅 つよい あおーん
 くらいには頑張った。
 
 それでも、強すぎる半獣の血に苦しめられる慧音に、霖之助と妹紅がしてやれる事など多くは無かった。
 永遠亭まで薬を貰って来てやれる程度だ。
 そしてそれは、妹紅の役目だった。
 彼女はその日も薬を貰いに行っていた。
 文字通り貰いに。
 留守を守る霖之助には、慧音の面倒はちゃんと見ておく様にと伝えておいた。
 咳き込みだしたら背を擦って、落ち着いてから水を飲ませるようにと。
 無理矢理にでも飲ませるようにと、そう言い付けてから、彼女は永遠亭に向かった。
 辿り着いた診療所で慧音の現在の症状を永琳に伝え、それならそろそろ収まる筈だとお墨付きを貰い、薬を片手に帰路につき――
 
 輝夜に絡まれていた。
「ねぇねぇ、新しい玩具が増えたんですって?」
「玩具言うな、馬鹿姫」
「あらやだ、怖い」
「今日はもう殺し合いはしないぞ。霖之助も心配するし、慧音の事だって心配だし」
「あらあら、まるで母親みたいな顔してるわ、この子供」
「お前だって見た目子供だろうが」
「心はレディ」
「知るか」
「で、妹紅」
「なに?」
「貴方ご自慢の、よく惚気てくれるその男の子、見ても良いかしら?」
「……何もしないなら、良いけど。あと惚気てない」
「知らぬは本人ばかりなり、かしら」
 二人は普段の険悪さもそこそこに、飛んで家へと向かっていった。
 
 
 霖之助が慧音に本を読み聞かしている時の事だった。
 慧音が苦しそうに何度も咳き込み、霖之助は慌てて背中を擦り、落ち着かせた。
 数分もすれば収まったが、慧音はそのまま疲れたのか、横になったまま動かない。
「大丈夫かい?」
「……うん」
 か細い声で返事こそするが、顔色は良い物ではない。
 心配になった霖之助は、水はいるかい? と聞いた。
 そんな事しかできない自分を恥じながら。
「……うん」
 答えども、慧音は腕を伸ばさない。
 霖之助が差し出した湯飲みを受け取れるほどの力も、慧音には無かった。
 先程までは元気だったのに、今はもうそれが出来ない。
 それほどに慧音の中に在る半獣の血は厄介で、凶悪だった。
 
 霖之助は大いに困った。
 欲しいといわれても、飲めないのだからしょうがない。
 しょうがないが、それを無視する事は出来ない。
 彼からすれば、出来るはずも無い。
 自身の分身の様な、分け身が如き少女を、このままには出来なかった。
 彼はいつか自分がそうされたように、湯飲みの中にある水を口に含み、身を屈めて――
 
 扉が開いた。
 
「ただいまー」
「……まるで犬小屋ねぇ」
「お前マジで焼く――」
 見た。
 妹紅は見た。
 そして後ろに居た輝夜も、またそれを見た。
 
 何やら頬を含まらせて、今まさに少女に口付けしようとしている少年の姿を。
 そして霖之助も彼女達に気付いたのだろう。
 妹紅と霖之助が交差した。
「――……」
「あら、これはお邪魔みたいね。妹紅、少し外で待ち――」
 その言葉を、輝夜は最後まで言うことが出来なかった。
 何故なら。
 その首根っこをむんずりと妹紅に掴まれ――
 
「なにやってんの霖之助ー!?」
 投げられたからだ。
「貴方こそなにやってるのー!?」
 自身に向かって飛んでくる、見知らぬ少女を見つめながら、霖之助は思った。
 
 ――余裕あるなぁ、この人。
 そのまま彼は。
 確りと突っ込みを入れて飛んできた輝夜ごと、吹っ飛んだ。
 
 余裕があったのは、霖之助もまた同じだった。
 
 ■ ■ ■
 
「いや、ねーさん霖之助が犯罪者になっちゃったのかと」
「むしろ助ける側だったよ」
「あぁ、うん、ごめんね? 怒ってる? ねーさんの事、怒ってる?」
「むしろいつものねえさんで安心してるよ」
「そっかぁ……良かったぁ……いや、良くない!?」
「ねえさん、うるさい」
「怒られた!?」
「だから、うるさい」
 今は落ち着き、布団の中ですーすーと安らかに眠る慧音を指差して霖之助は言った。
 輝夜は霖之助を眺めるだけ眺め、へー、ほー、ふーん、と呟き、妹紅に。
 『光源氏?』
 と言った後燃やされて帰って行った。
 けたけたと笑いながら。
 
 今はこの家に、この部屋に家族三人だけである。
 
「……慧音」
 妹紅は心配そうに慧音を覗き込み、ひょこっと出てきた手を布団に戻す。
 優しく、ゆっくりと。
 そんな姿を見た霖之助は、無言で立ち上がる。
「霖之助?」
「ご飯、作ってくる」
「あ、うん……」
 すたすたと台所に向かっていく霖之助に、妹紅は何か感じたが、判然としないので口にする事は出来なかった。
 
 台所で、食材を手にして霖之助は考える。
 皮を剥き、米を研ぎ、湯を沸かし、彼は考える。
 ずっと前から考えていた。
 出来る事が少ないと。
 妹紅や慧音の面倒を見ているつもりでも、本当は面倒をみてもらっているだけだと。
 これだけ家事を手伝い、一人で行っても、何一つ妹紅の力に成れていないと思う霖之助は。
 何も出来ず、何も知らない自分を恥じた。
 もっと、何かを。
 こういった家事ではなく、深く強い何かを、彼は求めた。
 
 その夜、妹紅は三人で寝る事を提案した。
「いや、狭いよ?」
「それが良い」
「いや、分からない」
「慧音だってそれが良いよね?」
「うん」
 渋った霖之助だったが、慧音は飛びつくように賛成しそれが決定打となった。
 慧音に甘い彼が、慧音の意見を蹴る筈が無いのだから。
 
 暗い一室で、三人は一緒に眠る。
「親子三人川の字だよ、まさに天国だよ」
 妹紅の言葉に安い天国もあったものだと霖之助は思ったが、確かに彼の胸にも、何か言葉に出来ない安らぎの様な物があった。
「……おや、こ」
 その妹紅の言葉に、慧音が小さく呟いた。
「うん、親子」
「じゃあ……わたしは、なにかな?」
 妹紅と慧音のその会話を聞いて、霖之助ははっとした。
 慧音のこの家での立ち位置が、未だ判然としていない事に気づいたからだ。
 今更になって、彼は気付いたからだ。
 それが悔しく、悲しかった。
 所詮自分は自分の事しか考える事しかできていないと。
 やはり、何も出来てはいないと。
 
 慧音の言葉に、妹紅はにこっと微笑み、優しく言った。
 隣にある、慧音の頭を撫でながら。
「私は慧音のお母さんで、霖之助は慧音のお兄さん。で、霖之助は私の弟」
 何その複雑怪奇な家庭。
 喉下までそんな言葉が出てきたが、霖之助はそれをどうにか飲み込んだ。
 きらきらと瞳を輝かせ、その言葉に聞き入る慧音の邪魔をしたくなかったからだ。
「……おかぁさん?」
「うん」
 慧音の問いかけに、妹紅は本当に母親のような顔で答えた。
「……おにいちゃん?」
「……あぁ、まぁ、うん」
 慧音の問いかけに、霖之助は少し困った顔で答えた。
 慧音が笑う。
 嬉しいと、からから笑う。
 それまで霖之助が見た事もないような、無邪気な笑顔で。
 
 霖之助は、それが嬉しくて。
 少し悔しかった。
 
 自分が何も知らないから、こんな笑顔さえ浮かばせる事が出来なかったと。
 彼は悔しかった。
 そして必要だと痛感した。
 知るという事が。
 人をこうも幸せにする、綺麗な笑顔を作る知識が。
 そう、知識が。
 それを応用する知恵が。
 子供だからと甘えては居られない。
 何故なら、その日彼は妹を持ったのだから。
 
 夜は過ぎていく。
 少女に家族を与え、少年に命題を与え。
 過ぎて行く。
 
 
 翌日。
 彼女はやって来た。
 右手に薬箱らしき物を持って、その女性はやって来た。
「初めまして、八意永琳です」
 扉を開けたまま、霖之助は女性の余りに理知的な瞳の輝きに圧倒された。
 挨拶を忘れるほどに。
 そんな霖之助に微笑みかけ、彼女は優しく問いかけた。
「それで、貴方が……妹紅のいつも言っている、霖之助……くん、かしら?」
「あ、は、はい……そうです」
「そう。それで、妹紅は?」
「あ、今は洗濯物を干しに……」
 と答えると、その当人がやって来た。
 永琳の姿を見た妹紅は視界に並び写る二人の姿に、少し怪訝そうな顔で瞬きし、首を横に振ってからぱたぱたと近づいて来た。
 
「……永琳。なんでここに?」
「なんでもなにも、うちのお姫様がね」
「輝夜が、どうかしたのか?」
「一度直接見て上げなさいって、ね」
「……あいつが、ねぇ」
「あれで結構優しいのよ? 稀に、だけれど」
 どこか不機嫌そうな妹紅と、穏やかな、余裕のある永琳。
 霖之助の前で、二人は会話を続ける。
 置いてけぼりだが、霖之助にとってそんな事はどうでも良かった。
 
「それで、その女の子は?」
「あぁ、奥に居るよ……診て貰える?」
「その為に来たのよ」
 家に上がり、奥へと歩いて行く二人。
 その二人を――正確には永琳を、じっと見つめたまま霖之助は動かなかった。
 そして数分後、彼は慧音の居る部屋に向かっていった。
 瞳に、青白く揺らめく何かを宿して。
 
 診察が終わり、永琳が帰ろうとする際、霖之助は土下座をし、少年らしからぬ真摯な、熱の篭った瞳で永琳の双眸を見つめ、
言葉を静かに奏でた。
 
 	「あなたのそれを、僕に下さい」
 
 静寂が、辺りを包む。
 まだ日も高く、明るいというのに、どこかから烏の鳴き声が響いてきた。
 そして。
 永琳が、あらあら、私もまだまだ行けるのかしら? と俯き呟いて、その首根っこを背後から妹紅が筆舌に尽くし難い形相で掴み――
 
「いきなり求愛とか、なにやってんの霖之助ー!?」
 投げた。
「貴方こそなにしてるのー!?」
 突っ込んだ。
 
 自身に向かって飛んでくる美しい女性を見つめながら、霖之助は思った。
 
 ――余裕あるなぁ、この人も。
 
 霖之助は空高く吹き飛んだ。
 永琳と一緒に。
 
 ――まさか二日連続で人間を投げつけられるとは思わなかった。
 霖之助、後の言葉である。
 
 ■ ■ ■
 
「えーっと、つまり、弟子入りしたい、と言う訳ね?」
「はい」
 霖之助と永琳は居間で正座し、ちゃぶ台を挟んで向かい合っていた。
 お互い、理不尽に襲ってくる鈍痛に耐えながら。
 
「僕に、あなたの持つ物をくだ――」
 そう言い掛けて、彼は言葉を変える。
 視界の隅に写る、永琳の隣で胡坐をかいて座っている妹紅の目が、完全に獣の目になっていたからだ。
 おまけに、妹紅のその震える手が、ちゃぶ台をがっしりと力強く握っていたのが霖之助には確り見えていた。
 総合すると、非常に怖かった。
 随分昔に襲われた狼五匹なんて目じゃないくらい怖かった。
 
「あなたの持つ、知識を教えてください」
 恐怖によって言い直された霖之助の言葉に、永琳は腕を組んで小さく唸った。
 そして数秒考え込み、組んでいた腕を解き、霖之助を薬師、医師の目ではなく、
 一人の教育者としての目で見た。
「知識といっても、貴方はどれ程の、どんな分野の知識を求めているのかしら?」
「あなたのその目にある、全部を」
「――……」
 その言葉に、永琳は眩暈さえ覚えた。
 目の前に居るのは子供だ。
 聡明そうな顔と瞳を持っているし、話す言葉も確りしている。
 が、やはり目の前で正座したまま、真っ直ぐと永琳を見つめる彼は、子供でしかない。
 そんな子供が、ろくに話をした事も無い永琳の姿を見ただけで知識人だと見破り、
 あまつさえその知識を授けてくれと頼んでいる。
 嘘をついているように見えない。
 飽く迄、胸の内を素直に実直に言葉にしているとしか、永琳には思えない。
 
 永琳は、久しく覚えなかった興奮に身を奮わせた。
 彼女はそっと目蓋を閉じる。
 知識を得ようとする者は貴重だ。
 知識を尊ぶ者は貴重だ。
 それが純粋な、まだ幼いといっても過言ではない、目の前の少年が持つ本心なのだから、尚更だ。
 今まさに芽吹こうとしている新たな幼い学徒の命を摘む等、永琳には出来なかった。
 何より、この子供は知性と理性が瞳に宿ると言う事を理解している。
 それが永琳には、妙に嬉しかった。
 
 永琳はぱしんと膝を叩き、閉じていた目を開いた。
「なら、まずそこで不機嫌そうな顔をして居る妹紅を、自分だけで説得しなさい。
 それさえ出来ないのであれば、弟子にする価値もないわ」
 霖之助がそれに頷き返す。
「期限は一週間、その間、可能な限り私はここに来るわ。
 もし来れなかった場合は、その分の一日を延期。
 一週間、私が来るその一週間で、妹紅を説得できなかった場合は……分かるわね?」
「はい」
 霖之助の返事を聞き、永琳は帰っていった。
 次からはちゃんと言葉を出して返事しなさい、と霖之助を叱ってから。
 
 残ったのは、何かを覚悟した霖之助と、奥の一室で眠る慧音。
 そして。
「私は、賛成なんてしないからな」
 頬を膨らませて霖之助を睨む妹紅。
「なんだよ、私じゃなくて、永琳に教えてくれとか。何さそれ」
「ねえさん」
「ねーさんもう霖之助の事なんて知りません」
「ねえさん」
「……知らない、聞こえない」
「ねえさん」
 無視しても、聞こえない振りをしても、その声を妹紅は無視できない。
 長い生の中で、自分の内側に自分から入れた数少ない存在の声だ。
 どうやってもその声は外壁を取り除き、妹紅の心にじかに触れてくる。
 
「ねえさん、僕は」
 だから妹紅は、霖之助から離れた。
 いつかの霖之助のように、無言で立ち上がり、そのまま自室へ行く。
 その後姿を眺めたまま、霖之助は項垂れて頭を抱えた。
「あぁもう……なんでだよ、ねえさん」
 分かるまい。
 彼には、分かるまい。
 
 彼には一生、分かるまい。
 
 ■ ■ ■ 
 
 その日から、永琳は顔を出すようになった。
 霖之助が妹紅からの了承を得られたかどうか、確かめる為。
 そして慧音を診る為。
 忙しい時は用件さえ済めばすぐ帰るのだが、暇な時はそのまま留まり、彼女は話をした。
 自分の知っている事、やっている事、見た事、聞いた事。
 それらを霖之助と慧音に語り、彼女は微笑む。
 
 その子供達二人は、永琳にとって好ましいものだった。
 霖之助は当然のこと、慧音もまた人の話から知識を吸収する事に長けた存在だったからだ。
 慧音は一を聞き十を知る。
 恐らく、生徒としては慧音のほうが優秀だろう。
 が、慧音には貪欲さが全く無い。
 水を受ける土のように、ただ沁み込むに任せる姿勢は、優秀という以上の評価を得る事は出来なかった。
 しかし、霖之助は違う。
 ――この子供は違う。
 永琳は思った。
 ある意味では、この子供のほうが面白いだろうと。
 
 優秀ではない。
 なるほど、知恵はあるだろう。
 年不相応な知恵はあるだろうが、霖之助の面白さは、そんな所ではない。
 彼は、永琳から得た知識を、一度整理し、自身の頭の中でバラし、構成し直す。
 時にちぐはぐに、時に全く逆の方向に、時に永琳さえ考えなかった方向に。
 得られた情報の矛先を向けていく。
 
 それが永琳には面白かった。
 教育係を勤める事数回、現在においても立場的にはそれに近いものだ。
 が、これほど面白そうな素材は、かつてない。
 過去、彼女が教育してきた姫達は、聡明であった。
 聡明であったが故に、彼女達は一個の完成した存在だった。
 彼女達がどれほど優雅に、理知的にあろうと、それは彼女達の地金がそうであったというだけの事。
 永琳の存在意義など、そう多くない。
 すでに輝いていた宝石を幾ら研磨しようと、自身の楽しみは少ない。
 
 だが、この少年はどうだろう。
 聡明とは言えるだろうが、それまでの生徒と比べれば当然質は格段に落ちる。
 その癖、異質で貪欲だ。
 歪な輝きを持つ、くすんだ原石。
 磨く価値は、十分すぎるほどにあるのではないか。
 
 ただ惜しむらくは、妹紅が反対している為、これ以上の事が現状では出来ないという事だ。
 ――彼女も、何を思って反対しているのやら……
 彼女は気付けなかった。
 月の賢者は、気付けなかった。
 久方ぶりの、自身の隙間を埋める出来事に、少々浮かれていた彼女は。
 
 楽しそうに話す三人を寂しそうに眺める、少女の姿に。
 
「……」
 三人の輪に入らず、ただ静かに立ち去り。
 静かに、薄暗い自室で胸を押さえて、涙をこらえる妹紅の胸の内など。
 
 永琳と霖之助と慧音が向かい合って語り合うその姿が。
 銀髪の、成熟した女性が、銀髪の、幼い子供達と向かい合って語り合うその姿が。
 妹紅のその両の目に、どの様に見えたかなど。
 
 彼女をさすその絆の中で作られた愛しい言葉こそが、彼女を今苦しめているなど。
 
 
 
 	――ねぇさん――
 
 
 
 未だ、誰にも分かるまい。
 
 
 
 	――続
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

此処から先、少々危険です。
覚悟してからロールしてください。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
☆
今日のなにか
 永琳は、久しく覚えなかった興奮に身を奮わせた。
 彼女はそっと目蓋を閉じた。
 知識を得ようとする者は貴重だ。
 知識を尊ぶ者は貴重だ。
 それが純粋な、まだ幼いといっても過言ではない、目の前の少年が持つ半ズボンなのだから、尚更だ。
 今まさに芽吹こうとしている新たな膝小僧の輝きを摘む等、永琳には出来なかった。
 何より、この子供は白い太ももとちょっと小さめの靴下が胸キュンと言う事を理解している。
 それが永琳には、妙に嬉しかった。
 
 永琳はぱしんと膝を叩き、鼻血を出しながら霖之助を見た。
「なら、まずそこで不機嫌そうな顔をして居る妹紅を、自分だけで説得しなさい。
 それさえ出来ないのであれば、太ももを撫でたり舐め回したり触らないまま48時間鑑賞したりする価値もないわ」
「帰れ」
ちんちんかゆい?