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[28061] 神は『意思よあれ』と宣うた (異世界召喚・トリップ シリアス)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/01 15:13
 初めまして、pisteuoと申します。この作品は他にブログ(ノベルテンプレート使用)でも公開しているのですが、率直な感想を頂きたくてこちらでも公開してみることにしました。短文長文酷評問わずできるだけ参考にしたいと思っておりますので、お気軽に感想を書いていただけたらと存じます。
 それではまだまだ作者が未熟ゆえ拙いとは思いますが、この拙作を少しでも読んでいただければ幸いでございます。

 念の為に追記:ブログでの更新分もこちらと進みは同じですので、こちらで読んでくださった方はあえてそちらにいく必要はございません。


 5/29 感想、アドバイスを元に序章統合。
 5/29 二章(1)を大幅に加筆
 6/1 感想を元に巫女の服装の描写を追加(作者は服に関するセンスがないのでまた修正するかもしれません]



[28061] 序章 召喚
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/01 18:21
「頼む! 出来の善し悪しは問わないし、当然俺も手伝うから!」

 目の前でパンと手を合わせてそう大声で頼み込んできた腐れ縁の幼なじみ、藤堂大和を前にして、どうしたものかと全身黒ずくめの青年――山城冷慈は腕を組んだ。
 場所は二人の通っている大学構内の休憩所で、周りには人が多い。こんな所で大声を出してそんな事をしてしまったものだから、冷慈達はどうにも目立ってしまっていた。冷慈はあまり目立つことを好まないので、そのあたりも勘定に入れての行いなのだろう。相変わらず、見た目はスポーツマン風のくせに妙なところで頭の回る友人に、冷慈は思わずため息を吐いた。

「……分かった。分かったから、もういい加減その悪目立ちする格好はやめてくれ」
「よっしゃ、サンキュー冷慈! 恩に着るぜ!」

 ガッツポーズをして喜んでいる大和に、冷慈は顔を上げジト目で、

「その代わり、明日から昼飯は大学の向かえにあるファミレスで一週間奢りだ。嫌とは言わせないぞ?」
「う……一週間か。三日にまからないか?」

 外食一週間の奢りは、大学生にとってもそれなりに懐への打撃があるのだろう。伺うように目線で訴えてきた大和に、冷慈は再びため息を漏らして仕方なく妥協案を出すことにする。

「仕方ないな……。それなら、学食で一週間だ。それ以上はまけないぞ」

 それが冷慈のできる、最大限の譲歩だった。大学に備え付けの学食は、よくあるイメージ通り味はあまり良くないが、値段は安い。それなら大和の懐へのダメージもそれなりには抑えられるだろう。まあそれでも、痛いことにはかわりないだろうが。

「オッケーわかった。それでいい」

 大和が多少表情を暗くしながらもすぐに頷いたのを見て、冷慈も頷き返す。
 変に渋りもせずすぐに返事が返って来たし、元から大和もただのつもりはなかったのだろう。その様子を考えるにもしかしたら学食にまけなくてもうんと言わせることはできてたかもしれないが、武士の情けで流石にそれはやめておくとしよう。

「それで、具体的にはどこまでやればいいんだ? まさかいちから全部俺だけでやれとは言わないんだろう?」
「ああ、もちろん。さっきも言った通り、俺も手伝うぜ。いくらなんでも初心者相手にそんな無謀なことは言わねえよ」

 冷慈の疑問に、大和は当然とばかりに頷いた。
 大和が冷慈に頼んできたのは、サークル活動の手伝いだった。大和は見た目とは正反対で、その実生粋の文学青年であり、大学でも当然文学部に所属していた。そしてサークルでの活動の一つに、三ヶ月に一度部員の書いた小説を集めた合同誌を出しているのだが、部員の一人がケガで入院してしまって空きができてしまったのだ。ただでさえ少ないのに、これ以上ページ数を減らすわけには行かないのだが、元々部員はぎりぎりで代わりはいないし、誰かが二人分というのも難しい。そこで下っ端である大和が助っ人探しにと最初に声をかけたのが、冷慈だったのだ。

「そうだ、冷慈。お前の今日の最後の講義は何コマ目だ?」
「今日は……、四だな」
「そうか。じゃあそれが終わった後、またここに来てくれ。それまでに俺がプロット……どんな小説を書くかの設定集みたいなもんだけど、それを考えとくから。とりあえずはそれを元にしてどんなヤツにするか考えてくれ。もちろん強制じゃないけどな。嫌だったら自分で考えてくれてもいいし、自分で考えるってんなら俺も煮詰めるの手伝うからさ」
「ん、分かった」

 最後にもう一度頷いて、冷慈は席をたった。それを見て、一拍遅れて大和もその場から立ち去ろうとするが、ふとテーブルの上に飲み終えたジュースの缶が置きっぱなしになっていることに気付く。普段そういうところはきっちりとしている冷慈がゴミをそのままにするなんてことはありえないので、恐らくそれは彼のささやかな抵抗なのだろう。滅多に見せない親友の子どもっぽい行動にくすりと笑いつつ、大和もそれを捨ててその場を後にした。



「むう……」

 大学を終え帰宅後、冷慈は机の前で大和からもらった紙――プロットを前にして、首を唸っていた。

「中世ファンタジー世界での恋愛小説、か……」

 大和の書いたプロットは、魔の森と恐れられている森の中で出会った男女が恋に落ちる、というものだった。なるほど、それは確かにジャンル的にも展開的にも捻ったところのない、言ってしまえばベタな恋愛物であると言えるだろう。その設定から登場人物もほぼ二人に抑えられるし、比較的簡単な部類に入るのかもしれない。
 しかし。しかしだ。冷慈は確かに本こそ読むが、大和とは違ってその内容はもっぱらエッセイや実用書のたぐいであり、あまり小説を読むことはなかった。文を書くこと自体は、現役の大学生だ。それなりにレポートや課題などで慣れている。とはいえとりわけ『小説』と呼ばれる種類の文章は、過去に書いたこともなければ考えたこともない、完全な初心者だった。
 従って、

「どうにも上手くいかないな……」

 と思わず冷慈が頭を抱えてしまうのも、無理からぬ事だろう。
 とはいえ本来、小説や物語を書くのに、経験ややり方の勉強などは必要のないものだ。ただ書くだけならば、子どもだって考える事はできるのだから。出来にこだわらなかったならば、冷慈がこれ程に苦戦することはなかっただろう。
 結局のところ一番の問題は、冷慈の性格的なところが大きい。大和は冷慈が初心者であることは当然知っているし、いきなりの頼みなのだから言葉は悪いが冷慈のことは数合わせ位にしか考えておらず、冷慈もそれは分かっていた。しかし冷慈はやるからには出来る限りきちんとした形になるものを出したかったし、適当にやるのは嫌だと思ってしまう。その真面目な性格が災いして、思いつきこそしてもこれはだめだ、あれはダメだと片っぱしから思いついたモノを却下してしまいまったく進んでいなかったのだ。
 ようするに何が悪いといったら、冷慈の考えすぎが原因なのだ。
 冷慈は初心者なのだから当然ではあるが、大和から頼まれたのはそれ程文字数の多く無い、続きを考えなくていい一話完結の短編小説だ。だから細かい世界観や時代背景、登場人物の過去などはそれほど重要ではなかったし、必ずしも必要なものではない。なのだが冷慈はそもそも物事を順序立てて組み立てていく、少々理屈っぽい性格をしていたので、どうしても深く考えてしまい、なおさらドツボにハマってしまっていた。
 このままでは、頼まれた期限までに完成させることは難しいだろう。もう報酬の約束はしているし、それになにより一度引き受けた以上、途中で反故にしてしまうのは許しがたい。

「少し、考え方を変えてみるか」

 自分の性格は分かっている。何も考えずに書くことができないのなら、いっそのこと設定をこれでもかと細かく考えてみてはどうだろうか。今日は世界観などを煮詰めるだけにして、後は参考になりそうな本を明日大和から借りてみるのもいいかもしれない。
 それならば、と冷慈は組んでいた腕を解き、勢い良く筆を走らせ始める。その作業スピードは、先程まで悩むだけで何もできずにいたのと同一人物とは思えない程には早かった。元々集中力は人一倍ある冷慈だ。作業に没頭してしまうと周りが見えなくなってしまうきらいはあるが、それ故に一度進み始めたらその動きは早い。結局その日冷慈は徹夜をして、大和からもらったプロットが活字で殆ど埋まってしまうまで、その手を止めることはしなかった。



 翌日。冷慈は昨日と同じように昼休みに休憩所へと向かった。夜のうちに連絡はしたので、早ければもう大和が待っているはずだ。
 大和とは普段からよく顔を合わせることが多いが、こうしてきちんと待ち合わせをするのは珍しいな、などと考えながら、視線を巡らせ大和の姿を探した。そして休憩所の真ん中辺りにトレードマークの短く刈り上げた頭を見つけたので近づくと、冷慈に気づいた大和に先に声をかけられた。

「うっす冷慈。ご要望の品はちゃんと持ってきたぜ。それで、調子はどうだ?」
「想像は付いてるだろうが、あまり芳しくはないな。初めてなのもあると思うが、どうやら俺には文を書く才能はないらしい」

 冷慈は大和の反対側の椅子を引いて座りながら返答する。その声には微妙に嘆息の色も混じっていた。

「まあ参考になにか持ってきてくれって言われた時点で進みが良くないのは分かったけどよ、才能がないってことはないと思うぜ。お前の場合はなんでも深く考えすぎなんだと思うけど」
「そんなものか。……ん、これがそうか。すまない、恩に着る」

 話ながらも大和がさし出してきた2冊の本を受け取り、冷慈は小さく礼を言った。

「おいおい、礼はよしてくれよ。元々が俺から頼んだことなんだからさ。こんな事で恩に着せるつもりはないぜ?」

 どこかおどけるように言う大和に、冷慈はふっと小さく笑ってそうかと呟いた。

「ああ、ちなみにその本だけど……片方は冷慈の参考になるようにって選んだ奴だけどさ、もう片方は俺のオススメの本だから、読むのは時間があったらでいいと思うぜ。あれだったら感想もくれると嬉しいけどな。ま、読んでそれじゃあ足りないと思ったら言ってくれよ。また新しいの持ってくるからさ」
「うむ、わかった。さて、そんなに時間があるわけでもないし、そろそろ昼食を食べにいくか。もちろん、約束通り奢りでな」

 ニヤリと笑ってそう切り出した冷慈に、思わず大和は苦笑いを浮かべる。

「う……、わかってるって。それじゃいこうぜ。……お手柔らかにな?」
「さて、どうしようかな?」

 大和の苦笑いに楽しそうな笑みを返し、二人は食堂へと歩いて行った。



 その日の夜、冷慈は机の上の書きかけの小説を前にして、帰り際に大和からアドバイスをもらった時のことを思い出していた。

『そうだ冷慈。上手く書けなくて苦戦してるお前に、モノ書きの先輩として一つアドバイスをしてやろうじゃないか』
『ん? なんだ?』
『まあアドバイスと言っても、技術とかコツとかじゃなくて考え方の話なんだけど……、いいか、冷慈。基本的に小説ってのはな、書き手のできることしかできないもんなんだ』
『書き手のできることしかできない……?』

 大和の言葉の意味が分からず、冷慈はオウム返しをして首を傾げた。恐らくだが、それは言葉通りの意味ではないのだろう。もしもそうなら、世にある現実の世界以外を舞台にした小説は全ておかしなことになってしまうのだから。

『どういうことだ?』

 冷慈が聞き返すと、大和は顎に手を添え少し考えてから答える。

『これはあくまで俺の考え方なんだけど……俺はさ、小説を書くってことは仕事やスポーツと同じで、自己表現の仕方の一つだと思ってる。だから当たり前の話だけど、自己表現は"自己"表現なんだから、当然自分にないものは出せないって話だよ』
『……ああ、うん。なんとなくだが、言いたいことは分かった気がする。……それにしても、相変わらず文章以外だと妙に説明ベタな奴だな。小説ではぜんぜん違うのに、どうして喋るときはそうなるんだか』
『むぐっ。うっせいやい。ほっとけ』

 そこまで思い出したところで冷慈は回想をやめ、組んでいた腕を解いて中断していた作業を再開した。
 ……要するに、だ。
 大和の言いたかったことは、いくら悩んだとしても小説は自分で思いつくことしか書けないんだから、考え過ぎても意味はないということだろう。『山城冷慈』という人間の中にないものは、どうあっても書くことはできない。ならばないものねだりをするのはやめて、自分の中にある物、自分の中の世界を表現するしかないのだ。
 俺はきっと、いいものを作ろうと理想を高く持ち過ぎて、その理想に逆に縛られていたのだろう。そうではなくて、本来はもっと己の身の丈に合ったレベルを目指すべきなのに。そうすることは、別に諦めでも妥協でもない。もっと段階を追って自分と共に目標を高めていくべきだと、そういう事なのだろう。
 冷慈はこれまでとは比べものにならない程に執筆がはかどっていることを自覚しながら、ふっと小さく苦笑いを浮かべた。その笑みと同時に、相変わらず説明は下手くそなくせに、自分にとって必要ななにかを見抜いてくれる奴だな、ともう一度大和との会話を思い返した。
 今回のことで、大和に感謝を返すのは間違えなのかもしれない。事の発端はあの腐れ縁の幼馴染にあるのだから。だけどやっぱり、冷慈は感慨深い何かを感じずにはいれなかった。
 きっと自分たちは、何年経ったとしても、仮に離れることがあったとしても、こうして笑い合ったりお互いに迷惑を掛けあったりしながら、そうして腐れ縁を続けていくのだろうな。



「ふあ……」

 と小さくあくびを上げて、時計をみる。
 冷慈がその日小説を書き始めてからはや数時間。大まかなストーリーの流れは決まり、既に序文を書き終えていた。そこで冷慈は一度手を止めて、合同誌には最初のページにあらすじを載せるのでそっちも考えておいてくれと頼まれていたのを思い出した。

「ふむ」

 だいたいの話の流れはもう決まっているし、先にあらすじを考えてしまってもいいかもしれないな。あらすじを通して全体を見ることで、また何か気になるところが見つかるかもしれないし。
 そう思った冷慈は、本文を書いているのとは別の紙を取り出して、再び筆を走らせた。
 あらすじ、あらすじか。そうだな……

 ――放浪癖のある領主の息子ヤトは、今日も今日とてその好奇心に従い旅に出ていた。今の旅の目的は、かつて魔術師の実験によって魔の森へと変貌したファーヴニル。そこは普通では考えられない恐ろしい化け物たちの闊歩する、恐ろしい場所だった。しかし領主の息子として様々な訓練を受けていたヤトは、若く武勇を誇っていた。それらが彼の自信につながり、若さ故の無謀さもあってか恐れず森に入ってしまう。
 何度も襲い来る異形達。方向感覚を狂わせる木々。初めは順調だったその歩みも、繰り返し続く戦いと、そして道に迷い戻ることもできずに歩き続けた結果だんだんと体力を失っていき、やがて大きな怪我を負ってヤトは倒れてしまう――

 ……そこで魔の森に隠れ住んでいた少女に偶然助けられ、少女の看病を受けながら過ごしていくうちに、やがて二人は恋に落ちる、か?

「むう……」

 どうにもまだ何かが足りないような気がして、冷慈は納得いかないように首を捻った。特に、そう……主人公の方はいいのだが、ヒロインの少女の設定がまだ少し甘いような気がする。やはりなぜ森に隠れていたのかとか、他にも魔の森に隠れていて無事で住む理由なんかは必要だろう。

「やはり、もう少し考えてみるとしよう」

 こうして冷慈の眠れぬ夜は、今日も続いていくのだった。










「……よし。これでひとまず完成だな」

 冷慈が大和から小説の執筆を頼まれてから五日めの朝。まだ推敲などの修正作業はしていないが、とうとう一旦の完成を見た。

「ああ……、もう朝か。今日はもうこのまま寝ないで大学に行ったほうが良さそうだな……」

 徹夜明けでいまいち頭が回っておらず、独り言が多くなってしまっていた。気を抜けば閉じでしまいそうな瞼と格闘しながら、冷慈は部屋を出てまずはシャワーを浴びることにする。

「……、はあ。今日は……たしか午前中だけで講義は終わりだから、昼にこれを渡したらすぐに家に帰って寝るか」

 ぶつぶつと呟きながら、ヌルめのお湯を浴びてどうにか無理やり目を覚ます。そして体を洗い服を着て、朝食を摂ると冷慈はすぐに家をでた。今の状態でのんびりしてしまうとそのあたりで眠ってしまいそうだったので、休むなら取り敢えず大学についてからにしようと思ったのだ。
 冷慈はふらふらとハッキリとしない頭を抱えながら、危なげに道を歩いてどうにかその日初めの講義のある教室へとたどり着いた。しかしそんな状態で真面目に話を聴くことは当然できず、結局うつらうつらと半分以上寝てしまっていた。



「大和は……いないのか?」

 午前の講義をほとんど睡眠時間に費やしてどうにか回復した冷慈は、いつものように休憩室で大和を探す。しかしきょろきょろと幾つかある席に視線を巡らせるが、どこをみてもその姿が見えなかった。
 小説を頼まれてからは昼は毎日ココに来ていたから、今日もいるものだと思っていたのだが……。
 もしかしたら、文学部の部室にいるかも知れない。そう考えた冷慈は、休憩室を出てサークル棟にある部室へと足を向けることにした。サークル棟の手前にある見取り図で場所を確認して、階段を登る。そして文学部と書かれたプレートの下がっている扉を見つけた。
 中に誰かいるといいのだが。そんな事を考えながら、冷慈は人がいるか確認すべくその扉をノックした。

「……? 誰だい? 開いてるから入っていいよ」

 すると中からハリのある女性の声が聞こえてきたので、冷慈はそれに「失礼します」と返事を返して扉を開けた。

「はて、知らない顔だね。入部希望者かい? 名前は?」

 扉をあけてすぐ、真ん中にある大きめな机の奥に座っている、胸元の大きく開いた服を着た気の強そうな女性と目があった。ピンと真っ直ぐに伸びた姿勢と、自信に満ちているその隙の無い佇まいからは、まるでどこかの武道家のような『強い』印象を受けさせられた。
 冷慈は向けられたまっすぐな視線を受けて内心で、大和といいこの女性といい、文学部は見た目とのギャップのある人間が入るのが普通なのだろうか、などと考えながら「いえ」と小さく首を横に振った。

「私はココの部員の大和の友人で、山城というのですが……」

 言いながら部室の中に大和の姿を探してみるが、どうやらここにもいないようだ。もしかして、今日は大学に来ていないのだろうか。

「ああ、あんたがあの。わざわざ来てもらって悪いけど、あいつは今日はまだ来てないよ」
「そうですか……」

 冷慈はすっかり当てが外れてしまったと嘆息する。

「後であいつが来たら、あんたが探してたって言っとくよ。それでいいかい?」
「ああ、はい。そうですね、お願いします」

 そう言って冷慈が小さく頭を下げると、彼女はカカカと笑って「気にしなさんな」と手を振った。

「どっちかっつーと、迷惑かけてんのはうちらの方だしねえ。あんたにゃ今度、きちんと文学部一同で礼をさせてもらうよ。――っとと、あんまり長々と話すのも迷惑か。んじゃ、要件はそれだけかい?」
「ええ、後は特に。ああそれと、大和からもう聞いてるかもしれませんが、報酬はきちんと徴収しましたので改めて礼を貰う必要はないですよ。自分としてはあれで十分なので」
「そうかい。まあ本人が要らないってんのにアタシがグチグチ言うのもなんだし、今は了解しておくよ。……まああれだ、あんたみたいな礼儀正しいのはいつでも歓迎してるから、また来なよ。なんだったら入部してくれてってもいい」
「いや……折角のお誘いですが、止めておきますよ。今のところはどこの部活にも入るつもりはありませんので」

 彼女の勧誘の言葉にそう返すと、彼女は「そうかい。そいつは残念だね」ととても残念そうには見えない態度で言った後、ひらりと手を振って手元に視線を戻した。冷慈はそれを見てもう一度軽く頭を下げてから、踵を返して部室を出る。そしてもう一度休憩室に戻ると適当に自動販売機からジュースを買い、椅子に座って大和を待つことにした。



 冷慈は飲み干したジュースの缶がテーブルに三つ並んだところで、徐に時計を確認する。それを見て、ココに来て大和を待ち始めてからもう一時間も時が経っていたことを理解した。

「……ふむ。今日はもう来そうもないな」

 まだ期限までには時間があるし、渡すのは明日でもいいか。
 冷慈は今日はもう大和を待つのを諦めて、帰ることにした。一応入れ替わりできてしまう可能性も考えて、もう一度文学部の部室へ行き先程の女性に帰る旨を伝える。
 すると彼女は、

「ん、そうかい。わかったよ。伝えておく。……ああそうだ。こっちから頼んだってのにわざわざ何度もご足労願ったんだ。あのバカにはついでにきついお仕置きをしとくから、安心しな」

 などとニヤリと笑いながら言っていたので、冷慈も「お手柔らかにお願いしますよ」と軽く苦笑いを返して大学を後にした。



 ……そうだ。時間も余っていることだし、たまには顔を出しておくか。最近は確かあまり行ってなかったからな。
 冷慈は大学の門をくぐってすぐ、まっすぐ家に帰る前にとある場所に寄ることを決める。そしてくるりと身体の向きを変えると、家とは反対方向へと向かって歩き出した。
 冷慈が今向かっているとある場所というのは、冷慈とは浅からぬ縁のある児童養護施設、さくら園。冷慈はそこに、定期的に通っていた。大学に入学してからはそれなりに忙しくなったために少し足が遠のいてはいたが、しかしそれでも月に一度ほどはいけるようにしていた。
 途中でバスに乗って移動し、およそ三〇分ほど。後は五分も歩けば着くだろう。普段会っていなかった友人たちに久しぶりに会えるだろうと気分の上昇していた冷慈は、いつもより足早に歩いて行く。
 そろそろ見えてくる頃だ……そう思ったところで、なにか様子がおかしいことに気づいた。ピリピリとした緊張感。どうにもあたりの空気がざわついていているような気がする。しかもそのざわつきは、さくら園に近づけば近づくほどに大きくなっていくような気がした。
 なんだか嫌な予感を覚えた冷慈は、逸る気持ちを抑えながら、ほとんど小走りになって歩みを運ぶ。そしてとうとうさくら園に着いたところで、冷慈は愕然として目を大きく見開いた。

「あ……、レイジくん!」
「先生!」

 聞き覚えのある声に慌てて振り向くと、そこにはさくら園の園長の姿があった。

「どうしてこんな……いや、皆は無事なんですか!?」

 冷慈は急いで彼女に駆け寄ると、思わず軽く肩を掴んで声を荒げた。それは常の冷慈にはありえない程に冷静さを欠いた姿だった。しかし、それも無理はないだろう。なにせ冷慈の視線の先には、赤赤と燃えるさくら園の姿があったのだから。

「それが……まだひとり取り残されてる子がいるの……」
「……! 先生、消防には!?」
「もう電話したわっ。でも運悪く近くにいる消防車がいなくて、来るにはもう少しかかるって……」

 そうして二人が話している間にも、火はどんどんと燃え広がっていた。

「これは……、クソッ! 下手したら間に合わんぞ……!」

 悪態をついて、もう一度勢いの収まらない炎を睨みつける。その時偶然、まだ火の手の上がっていない庭の隅に水道の蛇口があるのを見て、あることを決意した。そして冷慈が持っていたカバンを放り投げて蛇口のもとへと駆けていくと、園長は驚きほとんど悲鳴のような声を上げた。

「……っ、レイジくん! 水なんてかぶって何をするつもりなの! 駄目っ、止めなさい!」
「必ず子どもだけでも助けて来ます! 先生は消防車の誘導を!」
「待って……、待ちなさい! レイジくん!」

 振り返った冷慈に園長はもう一度焦って止めるように叫ぶが、しかし冷慈は制止の声を振り切って燃え盛る炎の中へと飛び込んでいった。




<本日未明、〇〇県〇〇市にある児童養護施設『さくら園』にて火災が起こりました。重軽傷者二名。行方不明者一名で、建物はほぼ全焼とのことです。行方不明者は同市の大学生(20)で、最後に助けられたさくら園の児童によりますと崩れる直前に建物内に取り残されたとのことで、現在消防では救助活動が進められております。警察は放火と事故、両方の面で捜査していくと――>



[28061] 二章 世界(1) 05/29 21時 加筆
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/05/29 21:48
 ――シャン、シャン――

 涼やかな鳴子の音。響き渡るはすなわち神鳴。空間を禊ぎ世界を織り成す結界を具現する、その代替行為。
 そこでは今、三人の巫女がそれぞれ別の舞台の上で、神に演舞を捧げていた。彼女達が一つ舞うたびに、この場が神聖であることを表す鳴子が鳴る。
 それは奉納の舞。神に感謝の意を伝え、そして変わらぬ尊敬と、神の子らの太平を伝えるための儀式。
 同時にこれは、召喚の儀式。神に人の世に現れ給えと請い願い、そして歓迎の意を伝える儀式。

 ――シャン、シャン――

 左に舞う巫女が捧げるは三神が一、原理と魔術を司る神デイル。中央にて舞う巫女が捧げるは三神が一、生命と錬丹術を司る禍伏かふく。そして右に舞う巫女が捧げるは三神が一、和と陰陽術を司る神天照てんしょう
 そして全ての者が祈り捧げるは世界全ての母であり父――イクシュン・シリが創造神、イリュン。

 ――シャン、シャン――

 舞い踊り、奉る。鳴り響き、清め給う。
 バラバラだった巫女の舞が、次第に協調し揃い行く。動作が統一されて行き、各舞台の中央に各々が舞い降りた。
 それが最後の舞の予兆。主神に捧げる舞の初め。

 ――パン、パン――

 その場にいた神官達が、全て揃って拍手を叩いた。直後に巫女は一体となりて、扇を抱えて奥義を振る舞う。そして全てが終わった後、巫女たちは扇を地に伏せ頭を垂れた。
 これにて儀式は終りを迎えた。後は主賓が挨拶をし、そして巫女に言葉をかけた後に解散をするのが毎年の通例だった。
 しかし、その時はそれで終わらなかった。
 奥に座っていた主賓が準備を整え立ち上がろうとしたその瞬間――

 ――最奥の舞台。決して何者にも触れることも上がることも許されない不可侵の神前に、明々とした光が満ちた。

 それは強い光だった。その場にいた誰もが光に目を刺され、思わず舞台から視線を逸らす。特に直上にいた巫女たちは、顔ごと光から目を逸らしても、一瞬眩むほどだった。
 そして光が収まって、そこに現れたのは……一人の青年。黒尽くめの、見たこともない不思議な服に身を包んだ、ボロボロの青年だった。

 辺りが騒然と静まり返る・・・・・・・・

 その場にいる誰もが、湧き上がる疑問や驚きを口にしてしまいたいと望んでいるのに、しかし何も言葉を口にすることができない。そして同時に、皆が等しく混乱の極致に陥っていた。
 それは異常な空間だった。誰もが身じろぎ一つ許されない、完全なる静寂が支配する空間。動揺していない者など存在しないのに、皆が己を忘れてしまったかのごとく体を硬直させていた。
 物質的な静寂と、精神的な半狂乱。そんな異常に支配された空間の中で、主賓たるこの世界の最高権力者――神皇は、未だ誰もが冷静さを取り戻すことができずにいる中で、唯一正気を取り戻すことができた。そして同時に今起こった事態を自分なりに分析し、理解すると共に、――胸が震えるほどに戦慄した。
 これはひどく……まずい状況だ。
 神皇は現れた青年に視線を向けるだけで胸のうちに湧き上がってくる歓喜や震えをどうにか強靭な精神力でねじ伏せて、瞬時にこの先の展開を想定し、思考する。自分はこれから何をするのが最善か。イクシュン・シリにとっての最高の結果を導き出すためには、何が必要なのか。
 ……。もはや、覚悟を決める他あるまい。
 すっと鋭く目を細めると、神皇は大きく息を吸った。そしてその場にいる全員に厳かに高く響く声で、

「此度の事は、この場にいる者だけの秘密とし、神皇の名の下に緘口令を敷く。もしもこの事が僅かでも漏れたとしたら、巫女を除いたこの場にいる全ての者・・・・・を厳刑に処す故、各々肝に銘ずるように」

 その瞬間、全員が先ほどとは違う理由で息を呑んだ。しかし神皇はその様子を一顧だにもせずに立ち上がると、今度は巫女たちの方へと向き直る。

「そして、巫女たちよ」
「は、はい!」

 慌てた様子でこちらを向き跪いた三人の巫女に、神皇は鷹揚に頷いて、

「いつもながらに見事な演舞、ご苦労であった。その方らには所用がある故、この後私の私室に来るように。では、これにて解散とする。……皆の者。重ねて言うが、先程の私の言、決して戯れごとではない故に、努々忘れる事のないように」

 そう締めくくった神皇が直後に何事かを小さく呟くと、その瞬間舞台の上にいた青年の姿が掻き消えた。神皇の言葉に何かしらの疑問を、もしくは反論の言葉を口にして事の真偽を追求しようとしていた者達は、神皇が"それ"を使ったことに驚き、動きを止めて口を噤む。そして誰もが何もできずに緊張し硬直している中で、神皇は踵を返して一人厳かに立ち去っていった。



 神皇は儀式を行っていた大広間から離れると、逸る気持ちをどうにか抑えつけて、普段どおりを取り繕くろいながら燭台の並ぶ石造りの廊下を進み私室へと急いだ。その間にも、神皇の頭の中では様々な考えがグルグルと巡りながら、湧き上がる焦燥感を感じていた。
 イクシュン・シリが人の手に委ねられてから幾年月。その間三神いずれかの御方が現れることはあっても、ついぞイリュン様だけはそのお姿を現すことはなかったというのに、何故今この時にご降臨なされたのだろうか。それに現れたときのあの状態。意識もなく横たわり、見にまとう衣服もまるで何者かの攻撃を受けたかのように煤けていた。
 もしかしたら、神話の先の世界。イリュン様のお帰りになられたという世界で、何事か危急の何かがあったのかもしれない。ならばイクシュン・シリに降りられたのは……
 場合によっては、自分の命を支払うだけでは済まないかもしれない。そんな想像をしながらも、神皇は私室の扉の前で巫女の到着を待つために立ち止まった。








「……これでもう、大丈夫です。治療は終わりました……」
「そうか。ご苦労であった」

 冷慈はゆらゆらと水面に浮かんでいるようなまどろみの中で、自信の意識がゆっくりと浮上していくのを感じた。そしてハッキリとは聞こえないが、自分の寝ている横で誰かが喋っている事に気づく。

「それにしても、この感覚。この御方はやはり……?」
「この世界の創造神、イリュン様その人であろう。少なくとも私には、それ以外には考えられぬ」

 ……いりゅ、ん。いりゅん。イリュン……? その名前は確か、俺の考えた小説の世界の神の名前……。どうして……? あれはまだ、大和にも見せていないはずだ……。

「う……」

 冷慈が小さく呻いて身じろぎすると、はっと誰かが息を呑む気配がした。しかし頭が霞がかったように鈍っている冷慈はそれには気づかずに、己の思考に没頭する。
 いや、それより俺はどうなった? あの時、取り残されたさくら園の子どもをどうにか窓から逃がして受け止めてもらって……だけど俺は脱出しそこねて、しかもその後天井が崩れて落ちてきて……。そこから先は、覚えていなかった。感触からして、どこかのベッドに寝ているようだが……ここはどこなのだろうか。
 冷慈は気を抜けばまた眠りに落ちてしまいそうな重い頭を引きずりながら、どうにか体を起こして状況を確認しようと目を開く。

「君たちは……?」

 そして人の気配に顔を横に向けた冷慈の目に飛び込んできたのは、なぜか地面に跪いて頭を垂れる四人の少年少女たちだった。

「何故そんな、こちらに頭を下げて……?」

 その冷慈の疑問を遮るように、先頭にいたまだ十代前半に見える鋭い目をした利発そうな少年が、どこか硬い口調で勢い良く喋りだした。

「お初にお目にかかります、イリュン様。私は今代の神皇でございます。この度は、イリュン様のイクシュン・シリへのご降臨、誠にお慶び申し上げます。この神皇殿の……いえ、この世界の最上の礼を持って、歓迎の意を捧げさせていただきます。それで一つ、イリュン様に私から一つご報告が御座いますゆえ、先に申し上げたく存じます。先程私は、止む終えぬとはいえ御身に授かった力を了承も得ずにイリュン様に対して行使してしまいました。この事実、イリュン様はきっとお怒りになるであろうこととは存じますが、全ての責は直接行使した私のみに御座います。故にもしも罰をお与えくださるというのであれば、その時は私のみをお裁きになられるよう、お願い申し上げます」

 やけに早口に、しかし何故か全て聞き取れるくらいにハッキリとした力のある長口上を聞いて、冷慈は頭がくらくらした。正直に言って、訳が分からない。いや、話されている言葉は当然日本語なのだから聞き取れはするのだが、寝起きで鈍った頭にいきなりまくし立てられて、すっかり混乱してしまって言葉がきちんと頭に入ってこなかった。
 冷慈は思わず軽く頭を抱えながら、

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 と目の前の少年に待ったをかける。

「はっ」

 すると先程までの勢いが嘘のように、少年はピタリと口をつぐんで頷いた。冷慈はその余りにも落ち着いた様子の少年の姿を見て、自身もわずかに冷静さを取り戻した。そして色々と確認するために、声を落ち着かせて少年に問いかける。

「ここはどこで、今がどういう状況なのか……正直俺には何一つ分かっていないんだ。だからすまないけど、一からゆっくり説明をしてくれないか」
「はっ、畏まりました」
「それと……」
「何で御座いましょうか?」

 どこか曖昧な表情を浮かべて呟いた冷慈に、少年はどうしたのだろうかと怪訝そうに聞き返した。

「頼むから、その地面に頭がつかんばかりの低姿勢はやめてくれないか。そのままでは、話しにくくて仕方ない……。もちろん、後ろにいる娘たちも一緒に」

 最後に冷慈は順に四人に視線を向けて、困ったように小さくそう付け加えた。
 まっとうな神経をしていれば、よほど偉い立場にあったとしても、現代日本人が目の前にいる相手に理由もわからず平身低頭されてしまえば、逆に居心地の悪さを感じるだろう。よってただの学生である冷慈が思わずそう懇願してしまったのも、無理も無いことであった。



 自身を神皇だと名乗った少年からは、冷慈がイクシュン・シリ中央にある神皇殿の最深部にて毎年行われていた、神舞の儀と呼ばれる召喚の儀式が終わった直後に光と共に意識を失った状態で現れたので、自分の判断で結界術を使ってあのベッドまで運んだのだと聞かされた。
 そこまで聞いたところで冷慈は色々なものが限界を迎え、少し休ませて欲しいと頼むと今度は異常なほどに豪華な一室へと案内されて、しかもこの部屋は永久的に好きに使っていいなどと伝えられる。

「……冗談だろう」

 正直な所、それが少年からの説明を聞いて、最初に言いたくなった言葉であった。というよりも、話を聞き終えて一人になってからすぐに、冷慈は実際にそう口にしてしまっていた。
 イクシュン・シリ。神皇。神皇殿。結界術。そして創造神イリュン。すべて冷慈にとっては見覚えのある言葉だった。それも最近の、新しい記憶の中にそれらの名前はあった。何故ならそれは全て、つい最近まで書いていた小説の世界の設定の中にある言葉だったからだ。
 それら空想の産物だったはずの全てが、ここでは現実のものとして存在しているのだという。
 つまりそれは、自分が元の世界とは異なる世界に来てしまったのだと……そんな冗談のようなことが起こってしまったのだと、そんな事を言うのだろうか。しかもよりにもよってこの世界は、自分で書いた小説の世界であり、現れた自分は人から神……それも創造神だなんて呼ばれている。そんな事、あらゆる意味で信じたくはなかったし、信じられるものではなかった。
 ……確かに、確かに冷慈の頭の中の冷静な部分では、状況証拠のみとは言えその考えが正しいのだろうという、説得力のある事実が揃っていると認めていた。
 まず、自分の居場所。ここは明らかにさくら園の、というか自分の住んでいた町の中ではないし、どこかの病院でもない。ならば誘拐かと考えるにしても、誘拐する価値があるかも分からない身元不明の意識を失ったボロボロの大人の男を、火災現場から拐って行く人間なんていないだろう。そもそも日本に、こんな大掛かりな神殿……石造の建造物などあるのだろうか。少なくとも冷慈には、自分の住んでいる町の周辺にそんなモノがあるなどとは聞いたことがなかった。
 しかしそれでも、冷慈は信じたくなかった。まさかそんな事が起こりうるなんて。そして自分が知識としては知っているとは言え、着の身着のままで見知らぬ場所に放り投げられてしまっただなんてことは。
 だがいくら信じがたい事態だからといって、ならばいったい誰がこんな事をするというのだ。その辺の大学生が書いたばかりの小説の設定を盗み見て、数日のうちにその通りに配役を決めて人を配置し、その上神殿まで建立したと? それは些か冗談に過ぎる。そんなのは正直に言って、自分が異世界に来てしまったのだと言われるのと同じかそれ以上には、荒唐無稽に過ぎる話だろう。

「はぁ……」

 冷慈は深い深い溜息を吐いて、おかしいくらいに豪華な装飾のついた天蓋付きのベッドにどさりと倒れこんだ。そして呆っと天蓋の裏側を見つめながら、自分で書いた小説の設定を思い出していく。
 世界の名前は、イクシュン・シリ。神からその役目を授けられたという神皇が、この世界唯一の大陸を統治している世界。もっとも統治とはいっても各地域を区分けしてそれぞれの自治に任せている連邦制に近いものがあるので、絶対王政とは違うのだが。ちなみに神皇はその役目を次代に譲るまで不老なので、彼が子どもの姿なのもそのせいだろう。
 そしてかつて神皇に世界を任せたという、創造神イリュン。初めに神の世界、神界を作り、そして最高神であり神界の管理をする三神を生み、世界の維持のために人界と人を生み出すと何処かへと去っていったという始まりの神。さらにはたった今、それが自分だと言われている存在だ。
 とそこまで考えたところで、ふと冷慈の頭の中に一つの疑問が浮かんだ。どうしてあの少年……今代の神皇だという彼は、自分のことをイリュンなのだと思ったのだろうか。自分のことを騙している……ということはないだろう。こと創造神イリュンに関することに限っては、神皇と呼ばれる存在が嘘をつくことなどありえないはず。ということは真実あの少年は、自分のことをイリュンだと思い込んでいるのだ。
 しかし冷慈は設定の中で、誰かをイリュンだと判断するに足る記述をした覚えはなかった。見た目や声どころか、姿形が人型であるかどうかすら書いていなかったのだ。いったいあの少年、神皇は何を以て自分をイリュンだと判断したのか。それが分かれば、何かしら自分のこの世界での立ち位置を決めることができるかもしれない。
 この状況を認めるにしても、認めないにしても。この世界に留まるにしても、帰る手立てを探すにしても。何かを判断するための情報が、余りにも少なかった。慌てている余裕も、混乱している余裕もない。この自分の立ち位置すら不確かな、居場所一つ無い世界で生きるためには、少しでも情報を集めなくてはならないだろう。
 と冷慈はそこまで考えたところで、再び自分に重い睡魔が襲ってきたのを感じた。どうにも体に強い疲労感が残っていて、まだまだ休息を求めているようだ。体だけではなく心まで疲労していた冷慈はそれに抗うことを止め、心地良い感触に身を任せた。
 今はまだ、何も考えたくはない。この状況がなんだったとしても、きっとこれから先楽には行かないだろう。だけど今は、今くらいは、ゆっくりと休みたかった。きっとそれが迂闊なのは分かっている。たった今、ここにいる自分には確かなものは何も無いのだと確認したばかりなのだから。だけどもうしばらくくらいは、甘えることを許して欲しい……。

 やがて、広く静かなその部屋に、小さな寝息が聞こえてきた。それはまるでこれからはるか遠くへと飛び立つ渡り鳥の一時の羽休めのような、静かな静かなやすらぎの姿だった。



[28061] 二章 世界(2)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/05/29 22:14
 ふっと、目が覚めた。そして目に飛び込んでくるのは、普通に生きているだけではとてもではないが一生お目にかかれないであろうことが伺える、豪華で広いベッド。真ん中には大きなテーブル。華美だが嫌味にはならない程度に上品な装飾の施された調度品。そして踝に届こうかというほどに毛の長いフカフカなカーペット。
 それらを目にした冷慈が抱いたのは、『ああ、やはり夢ではなかったか』という失望の思いだった。
 大きく息を吸い、ゆっくりと吐く。そうしてしばらく深呼吸を繰り返してざわついた胸の内を落ち着かせると、冷慈はムクリとベッドから起き上がった。と同時に、ぶるっとわずかに体が震える。きちんと布団を被っていなかったので、少し体が冷えてしまったようだ。
 冷慈が軽く柔軟も兼ねて体を解していると、コンコン、コンコンとノックの音が四度鳴った。そして、

「失礼いたします、イリュン様。お考えを承りたいと存じますが、もう起きていらっしゃいますでしょうか」

 というどこか控えめな声が扉の向こうから聞こえてきた。

「ああ、大丈夫だ。もう起きているから入ってくれて構わない」

 冷慈は自分の立場を忘れないように、迂闊な行動は取らないよう気をつけなければという意識を念頭におきながら、口調に気をつけて返事をした。

「それでは、御意を得させていただきます」

 そうして挨拶の言葉と共に深々と礼をして部屋に入ってきたのは、長い黒髪を後ろで結った、冷慈と同年代の和服姿の女性だった。彼女の声は緊張からか、少しだけ震えていたが、

「お初にお目にかかります、イリュン様。わたくしは神皇陛下からこの度イリュン様のお世話係にとご下命を賜りました、女中のミナカと呼ばれている者でございます」

 と訓練されているであろうことをのぞかせる洗練された動作で跪きながら頭を垂れた。
 その挨拶を聞いて、冷慈は何かを考えるように黙りこんでしまう。そして彼女が何も反応がないことを訝しみ、恐る恐るもう一度声をあげようとした時に、冷慈はそれに被せるように口を開いた。

「君が世話係になったというのは分かった。それは構わないのだが……っと、ああ、もう頭は上げていいから、楽にしてくれ。……それで一つ、聞いていいだろうか。少し気になったことがあるのだが……」

 それを聞いた彼女は、

「あ……は、はい。もちろんでございます」

 と慌てて返事をする。

「そうか、ありがとう。では聞くが……先程の挨拶の時、君はミナカと"呼ばれている"と言っていたと思うが、それは一体どういう意味だ? もしかして他に名前があるのか、それとも神皇殿では仕事に就く者に特別に呼び名をつけるか何かしているのか?」

 彼女の自己紹介の中での、その不思議な言い回し。それが冷慈は気になっていた。別に怒りを感じたりは当然していないが、単純に疑問に思ったのだ。

「私の……名前ですか。……畏まりました。お話、いたします」

 冷慈の疑問を受けて、彼女はどこか悲しげに少しだけ表情を曇らせた。しかしすぐにそれがまるで気のせいであったかのようにその表情は消え失せ、コクリと頷き話し始める。その彼女の様子を見て冷慈は、今の自分の言葉には拒否権など無いことに気がついて、早速迂闊なことをしてしまったかと後悔した。元々話すのが嫌ならば、強制する気などなかったのだ。
 そして彼女は言葉につまらないようにゆっくりと丁寧に、自分のことを話していく。
 ――元々彼女は、自分の名前を持っていなかった。
 この世界には、奴隷制が存在していた。そして彼女は、とある貴人と奴隷の母親との間に偶然出来た子どもだった。奴隷の子どもは、本来親と同じく奴隷となる。そして奴隷には名前の代わりに識別番号がつけられるのだが、彼女にはそれすらもなかった。
 彼女の父親であるその貴人には、本来意図しない子どもを作ることは許されなかった。故に子どもを作ったことすら秘密にし、彼女の母は彼女を連れて隠れ潜んだ。やがて貴人は母親が子をなしたことを知り、その事実を消すために追っ手を出すことになる。
 奴隷の子どもであるのに、奴隷の証であるチョーカーを付けていない子を連れていた母親は僅かな食い扶持を得ることもできず、必死に必死に泥水をすすり、血反吐を吐いて逃げ続けた。しかしその生活も、せいぜい数年が限界であった。やがて体調を崩して倒れた母親と彼女のもとへ、とうとう追っ手の魔の手が届く。
 彼女が今ここにいられるのは、全てを知った今代の神皇が彼女を保護したからだった。道半ばで倒れてしまった母親は助けられなかったが、ぎりぎりのところで彼女だけは助けられ、そして彼女はその後神皇殿の女中として生きることが許された。
 彼女のその生い立ち、出生の秘密は、神皇殿では誰もが口にすることも許されない秘中の秘。そしてそれと同時に、誰もが口にしないだけで知っている"秘密"でもあった。彼女のことはまことしやかに噂され、神皇の覚えがいいと妬み嫉みうけ、さらにその出生の秘密から、敬称である御中をもじってミナカと呼ばれるようになった。もちろんその呼び声に、多大な皮肉を込めて。
 ……。

「イ――ン様。イリュン様? どうされました? 大丈夫ですか。もしかして何か、ご気分がすぐれないのでしょうか」

「あ、ああ、いや、何でもない。……済まなかったな、そんな大事な話を無理に聞き出してしまって。無神経だった」

「そ、そんな、とんでもない! 私の如き卑賎な身に、イリュン様が謝られることなど何もございません! こちらこそ、つまらない話でお耳汚しをしてしまいまして、大変申し訳ありませんでした」

「……いや、そんな事はない。むしろ、非常に興味深い話だった。ああ、本当に……」

 奴隷制度。そうだったな。たしかに自分は、そんな設定を考えていた。ヒロインの設定の一つとして追加するために……


「? イリュン様……?」

 彼女から話を聞いた冷慈は、非常に大きなショックを受けていた。ともすれば、己が異世界に来てしまったのだと理解した、その時以上に。
 その後は彼女に対する受け答えもほぼ上の空で、一度退室した彼女が持ってきた食事も、その献立から味にいたるまで何も覚えていなかった。そして食事を終え彼女がいなくなった後も、その状態は続く。グラグラと瞳を揺らし、唇を真一文字に引き結んだその姿は、見る者全てに弱々しさを感じさせる姿だった。
 冷慈が自分の世界に入り込んで考え込むのを止めたのは、それから随分と時が経ってからのことだった。
 我に返った冷慈がまず始めにしたことは、いつ腰掛けていたのかも思い出せない椅子から立ち上がり、そしてぎちぎちと歯噛みして鋭い呼気を吐きながら、思い切り壁を殴りつけることだった。

「――っ!」

 同時にまるでハンマーでも叩きつけたかのような鈍い音がして、激痛が走り冷慈の額に冷や汗が滲む。冷慈が殴りつけた箇所を見ると、うっすらと血の跡が残っており、拳は腫れ上がり皮は擦り切れ、血が滲んでしまっていた。いや、むしろそれだけで済んで幸運だったというべきか。激情に身を任せて全力で石の壁を殴りつけたというのに骨に異常がなかったのは僥倖であっただろう。

「――。はー……」

 やがてゆっくりと壁から拳を離した冷慈は、天を仰いで大きく息を吐いた。そしてぐっと胸のあたりを掴み一度目を瞑ると、真っ直ぐに前を向いて人を呼ぶべく部屋の外へと向かう。その細められた鋭い瞳の奥には、先程までの弱々しさを微塵も感じさせない、固い固い意志の光が宿っていた。





 自分には……知らなければならないこと、確認しなければならないことが、たくさんある。
 冷慈は胸の内から湧き上がる強い強迫観念のような気持ちに突き動かされて、どこか余裕のない表情を浮かべながら乱暴に扉を閉めた。そして人を探してまるで人気のないガラリとした廊下を歩き始めると、すぐに向かい側から歩いて来る女性――ミナカの姿が現れた。

「イリュン様?」

 ふっとミナカと視線が合い、目の前にいるのが冷慈であることに気づくと彼女はどこか慌てた様子で近づいてきて、前と同じように深々と頭を垂れた。それを見て声を掛けるべく口を開きかけた冷慈は、思わず言葉に詰まってしまうと同時にいたたまれなさを感じてしまい、困ったように眉尻を下げる。
 本音を言うのなら、もっと普通の態度で接して欲しい。しかしもし態度を改めるように言ったとしても、きっと彼女を困らせてしまうだけなのだろう。現状に不満はあるが、それをぶつける相手はいない。ある意味では、自業自得のようなものなのだ。
 冷慈は忸怩たる思いを抱えながら、それらが表に出てしまわないように気をつけつつもう頭を上げていいと彼女に告げて、

「少し頼みがあるのだが、大丈夫だろうか。急ぎではないから、今すぐにとは言わないが……」

 と最後に少し言葉を濁すと、ミナカはまるで嫌味のない綺麗な微笑を浮かべて首を横に振った。

「いえ、問題ございません。わたくしは、イリュン様のお世話係でございます。イリュン様のご命令以上に優先すべきことなど、何もございません。すぐに承りますので、どうぞなんなりとお申し付けください」

 冷慈は流石にそれは少し大げさすぎやしないだろうか、と内心で苦笑しながら相槌を打つ。

「そうか。それなら……、すまないが、神皇に私から少し話があると伝えてきてくれないだろうか」
「畏まりました。場所は……イリュン様の私室でよろしいでしょうか」
「ああ、それでいい。では、よろしく頼む」

 冷慈が頷くと、彼女はもう一度深々と頭を下げた。

「必ずお伝え致します。それでは……」

 失礼いたします、と言葉を続けようとして、しかしミナカは突然黙りこんでしまった。いきなりどうしたのだろうかと思い彼女に視線を向けると、彼女はなぜかジッと冷慈の足元を見つめている。そしてつうと視線を冷慈の手元に移すと、ミナカははっと息を呑んで、

「イリュン様、その手はどうされたのですか……!?」

 と驚きの声を上げた。
 その声を聞いて、冷慈は思わず眉根をよせて心の中で己を罵倒した。普通に考えて、賓客が怪我をしたのを放って置けるわけもなく……それも自分は賓客どころではないのだから、こうなってしまうのは予想してしかるべきだった。

「いや、これはその……。そう、実はさっき部屋で転びかけて壁に手をつこうとした時にぶつけてな。大したことはないから、別に気にしなくとも……」

 どこかバツが悪そうに言い訳をする冷慈に、ミナカは「いけません!」と遮るように声を上げ、

「すぐに手当を! いえ、ここは巫女様をお呼びするべきでしょうか……。イリュン様、少々お待ち下さいませ、すぐに戻ってまいりますので!」

 と早口にまくし立てると、ぱたぱたと何処かへと消えて行ってしまった。

「あ、ちょっとまっ……。……むう。行ってしまった……」

 冷慈は彼女を止めようと上げかけた手をそのまま頬に当ててぽりぽりとかくと、「失敗したな……」と小さく呟いた。



 ミナカが慌てた様子でどこかへ行ってしまってから、冷慈は色々と思い悩んで廊下の真ん中で立ち往生していた。
 俺はこのままここで待っていたほうがいいのだろうか。しかし廊下で待たせたままにしてしまったとなると、彼女が気にするかもしれない。いや、それで済めばいいが、下手をすれば罰を受けることになりかねないかもしれんな……。
 とそこで冷慈はそこから少し先にある角の向こうから、バタバタと慌ただしい足音が聞こえてきたのに気づいてふっと視線を上げる。その足音に、まだあれから少ししか経っていないのにもう来たのかと驚いていると、

「え、あ、あう!?」

 突然小さな少女が飛び出してきて、冷慈に向かってぶつかってきた。

「お、っと。……ふう」

 足音の主が走っているのは分かったので予想していたのが功を奏し、冷慈はそれをどうにか抱き止めると、

「廊下はあまり走らないようにな。特に今みたいに、角を曲がるときは注意した方がいい」

 などとどこかずれた事を言って飛び出してきた少女に注意した。

「え? あ、う、えっと……その、わ、わかりました……」
「うん、いい子だ」

 目を白黒させながら頷く少女に、冷慈は穏やかな笑みを返して頭を撫でて体を離した。

「それで、そんなに慌ててどう――」

 ――したんだ、と言いかけて、冷慈は少女の顔に見覚えがあることに気づいて言葉を切る。その少女は、昨日冷慈が目を覚ましたときに神皇の後ろにいた、三人の巫女のうちの一人だったのだ。それで冷慈は合点がいったように「ああ」と小さく呟きを漏らした。

「もしかして、怪我のことを聞いて治しに?」
「あ、は、はい……。……い、イリュン様がケガをしたと聞いて、わたしは生命の巫女だからそれでその、治しに来ました……」

 冷慈は顔を真赤にしてどもりながらも必死に喋る少女にポンともう一度軽く頭をなで手を離すと同時に、記憶の中から巫女に関する知識を思い出していた。
 この世界における称号を持った三人の巫女と言うのは、すなわち仕える神の司る術の最高の使い手でもある。生命の巫女が使うのは、三神の一人禍伏が司る術、錬丹術。錬丹術は基本的には薬を調合する際に使用して、その効果を高める術だ。ただし熟練者に限っては直接対象に干渉して、怪我や病気を治すことができる。この世界ではほとんどの人間が三つの術のうちのどれかを使うことができるのだが、特に錬丹術を専門にしている者は医術師と呼ばれている、だったか。
 目の前にいる少女は見たところ十代前半、中学生になるかならずかの年頃にしか見えないのだが、まさか嘘をついているということはないだろうし、余程優秀なのだろう。いわゆる神童という奴か。
 とそこまで考えたところで、少女がじっとこちらを見ていたので思考を打ち切り、話を戻す。

「そうか。すまないな、わざわざ来てもらって。怪我はそんな大したものじゃないんだが……そういうことなら、お願いするよ」

 ここで断ったりすれば、むしろ立場が悪くなってしまうのは目の前の少女の方だ。子どもに対しては特に優しい対応を取る冷慈の中にそれを断るという選択肢は初めから存在していなかった。
 少女は差し出された手を真剣な表情で見つめてコクコクと頷くと、小さな手をそっとそこに重ねて目を瞑った。冷慈はその様子を見て少女が酷く集中しているのを悟り、初めて目にする"術"への期待も相まって、口をつぐんで見守ることにした。
 しばらくそのまま見守っていると、少女の指の隙間から淡い光が漏れ出して、次第にズキズキと痛んでいた手の痛みが和らいでいく。熱も痛みも何もないのは、少女の高い技術故かそれとも使われている術……錬丹術の特性か。冷慈が自分の知識と齟齬がないか照らし合わせながら観察しているうちに、ひらひらと宙を舞っていた光は消え、いつの間にか少女は手を離して顔を上げていた。

「こ、これで治療は終わりです……」
「ん……、すっかり痛みもなくなったし、完全に治ったみたいだな。ありがとう。助かったよ」
「い、いえ……」

 冷慈が微笑を浮かべて礼を言うと、少女は再び緊張に顔を真赤にしながら俯いた。

「……そうだ。ところで、君を呼びに行った女の人はどこに行ったか知らないかな。てっきり一緒に来るものだと思っていたのだが……」
「あ、あの人だったら、その……」

 俯いたまま喋る少女に、冷慈は急かさないようにこくりと頷き次の言葉を待っていると、突然少女の後ろの空間がまるで蜃気楼のように歪み始めた。

「! これは……?」
「え? あ……」

 冷慈の反応を見て振り向いた少女と一緒に息を呑んでぐにゃりと歪む空間を見つめていると、突然その場に四人の人影が現れた。

「イリュン様! お怪我をされたというのは本当ですか!」

 そして現れたのは、酷く慌てた様子の神皇と残り二人の巫女、それにミナカだった。

「……」

 ハッキリ言って、反応に困る。まさかおいそれと秘術である結界術を使ってまで急いでくるなんて、一体どんな伝え方をしたのやら。
 冷慈は先ほどミナカが去っていってしまった時と同じように苦笑を漏らしてぽりぽりと頬をかくと、

「いや、怪我と言っても軽いものだったし、この通りもう治ったから大丈夫だ」

 と言って困ったようにミナカを見る。すると彼女はようやく自分が酷く暴走していたことに気づいたのか、羞恥に顔を赤くして俯いてしまった。

「え? あ、もう治った、のですか? えーっと……?」

 あまりといえばあまりな状況に、神皇は目を白黒させて素に戻ってしまっていた。後ろにいた二人の巫女も一方は頭を抱え、もう一方は持っていた扇で口元を隠して苦笑したりと、似たり寄ったりの反応だ。

「あー、まあ神皇に用もあったことだし、丁度良かったということで……取り敢えず、部屋に入ろうか。こんな大人数で立ち話も何だからな」

 このまま黙っていても沈黙が痛いだけだし、特にミナカはいたたまれないだろう。そう思った冷慈がさっさと踵を返して扉を開けると、残りの者も思い思いの反応を見せながらも後に続いて部屋へと入っていった。



[28061] 二章 世界(3)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/01 03:42
「最初に念の為に言っておくが、ミナカに私からのお咎めはなしだ。神皇も、それで文句はないな?」

 こんな普通の人間相手なら、お騒がせしてすいませんでしたと一言謝れば済むであろうことで、万が一にも罰が与えられるようになってしまってはたまらない。しかもそもそもの発端は、自分の迂闊さが原因なのだ。そう思った冷慈が部屋に全員が揃ってすぐに先手を打つと、神皇も元々そのつもりはなかったのかすぐさま頷いて、

「イリュン様がそう仰られるのなら、それでよろしいかと」

 と否応もなく頷く神皇の姿を見て、ミナカは思わず目を丸くした。

「え? あ……、ですが、私は――」
「さて……。どうにも納得がいかなそうな顔をしているが、君は何を気にしているのかな?」

 しどろもどろになって何かを言い募ろうとしたミナカの言葉を遮って、冷慈は至って冷静な様子でくっと口角を持ち上げ人の悪い笑みを浮かべると、どこかわざとらしい口調で話を続ける。

「私が神皇を呼んでくるようにと頼んで、君はその通りにしただけだろう? そのついでに私が怪我をしているのに気づいて生命の巫女を呼んだら、それが気になって他の二人も着いて来た、と。……ふむ。どこかおかしいところはあっただろうか。どう思う、神皇?」
「イリュン様の仰るとおりかと。私にも特に問題があるとは思えませんでした」

 冷慈が言葉の最後に水を向けると、神皇はしれっとした態度で同意した。その表情は微妙に楽しげに歪んでおり、

(イリュン様もお人が悪い)
(何、君も人のことは言えないだろう?)

 と二人は目と目で語り合あっていた。
 それはまるで事前に示し合わせたかのように予定調和な茶番だった。どちらもイイ性格をしている。もちろん悪い意味で。この二人、意外と似ているのかもしれない。

「よし。それではこの話は終わりということで……、ミナカ。すまないが、もしかしたら話が長くなるかもしれないから、お茶か何かを淹れてきてくれないか」
「あ……は、はい。畏まりました」

 冷慈の頼みを聞いて、ミナカはどこか納得がいかなそうに曖昧な表情を浮かべながらも頷いて頭を下げると、部屋から出て行く。こういう時は変に考える時間を与えないのが一番なのだ。そして時間が経てば、変に蒸し返すこともないだろう。
 ……。
 冷慈はミナカの背中を無言で姿が見えなくなるまで見送ると、ふうと小さく息を吐いて急に目を閉じた。
「……?」
 冷慈の脈絡の無い行動に神皇たちは疑問を感じ、訝しみつつも行動を見守っていると、突然冷慈の雰囲気が一変した。それはまるで別人に入れ替わってしまったかのような、文字通りの豹変だった。
 その変貌に目を見張る神皇たちを尻目に、冷慈はかつての自分を思い出しながら仮面を被ったかのような無表情になり、意識を切り替え性格を入れ替えた。
 印象を操作し、感情を制御し、己の善意すらも材料に使い、場を操って自らを守る。そして己が可能とするすべての手段を用いてでも、必ず目的を達成しろ。
 心に冷たい炎を抱け。
 勘違いはするな。緩んだ空気に油断をするな。今の己の足元に、確たる足場など存在しない。もはやこの世界が、イクシュン・シリであることは疑う余地はない。しかし自身が神として降り立ったというのは未だ伝聞でしか証明する方法はなく、またそれが本当だとしても安心しきる材料にはなりえない。むしろ下手に権力を得てしまったことで、危険は増えたかもしれないのだ。自分には、信用していい相手も味方も存在しない。それを見極めるためにも、やはり情報は必須だ。
 己の変化を知り、正しい情報を取捨選択し、誤った情報から推測し、そして何より……この世界を知る必要がある。
 俺にはこの世界に対して、大きな大きな責任があるのだから――

「神皇にはいくつか、尋ねたいことがある。そして巫女たちには、恐らく頼みごとをすることになるだろう」

 冷慈はまるで感情の読めない冷たい瞳で全員を見据え、

「しかしまずはその前に、全員の名前を教えて欲しい。何時までも君やお前では、どうにも話しにくいからな」

 冷慈の問い掛けにいち早く我に帰った神皇は「はっ」と鋭く頷くと、すぐに跪こうとした。しかしそれを予想していた冷慈がすぐさま制止の声をかける。

「いちいちそうやって頭を下げなくてもいい。その程度のことで私が気分を害することはないし、それでは話が進みにくいからな」
「はっ。畏まりました」

 神皇からの相槌に満足気に頷いた冷慈は、ようやく我に帰って慌てて跪こうとしていた三人の巫女へと視線を移して、

「君たちもだ。少なくとも今は必要ないから、楽にしていい」
「は、はいっ」

 冷慈は三人ともが各々頷いたのを確認すると視線を正面に戻して再び口を開いた。

「それではまずは私から……私の名前は、冷慈という。それが自分の世界での私の名前だ」

 何時までもイリュン様と呼ばれるのは正直気分が良くない。こういう言い回しならば各々自分で勝手に解釈してくれるだろうし、問題はないだろう。

「神皇は……確か今はそのまま呼んだほうがいいのだったな」
「はい。どうかそのようにお願いいたします」

 神皇という役割は、イリュンに仕える神子としての側面を持つ。故に神皇とは、人ではないのだ。よって人としての名前は神皇の役目を継ぐときに一度捨て、新たな神皇が継ぐその時まではただ神皇とのみ呼ばれることになる。

「では次は……」

 場の主導権を握るために、冷慈自らが話の進行をしていく。

「和の巫女。君の名前を聞いていいだろうか」
「はい、イリュン様」

 冷慈が初めに名前を聞いたのは、日本の巫女服と同じ緋袴を履いて扇を手に微笑を湛えていた、三神の一人天照に仕える少女だった。彼女はこちらに向かってお辞儀をすると、一歩前に出て自己紹介を始める。

「こうしてお話をさせていただきますのは初めてでございますね。わたくしの名前は槍澤鈴歌うつぎさわすずかと申しますわ。以後、お見知りおきを」
「ああ、こちらこそよろしく頼む」

 冷慈は内心でやはり彼女が和の巫女だったかと確認しながら鈴歌に頷きを返す。
 先程の女の子は生命の巫女だったから……、ということは彼女がデイルに仕える巫女か。
 冷慈の視線に気づいて、鈴歌の隣に立っているゆったりとした淡い青のドレスに似た服に身を包んだブロンドヘアーの少女がスッと裾をつまんで持ち上げ挨拶をする。

「初めまして、イリュン様。わたしの名前は、ミリア・ワイズマン・ミスティリアと申します。すでにご存知とは思いますが、デイル様にお仕えする原理の巫女でございます。どうかミリアとお呼びくださいませ」

 その瞬間、ふわりと上品な花の香りが漂った。恐らくは彼女の付けている香水だろうか。彼女の服には儀礼服故か刺繍などはなかったが、ところどころにあしらわれたフリルがその香りと相まってまるで美しい花のような印象を与えられた。

「ミリアか。分かった。君もよろしく頼む」

 女性に対しては苗字にさん付けが普通だったが、まさか今の自分がさんをつけるわけにも行くまい。そう思った冷慈は彼女の言うとおり名前を呼び捨てにして頷きを返した。

「はい」

 冷慈が頷き返すと、彼女は上品に微笑んだ。
 二人の自己紹介が終わり、最後に冷慈は端で緊張して固まっている中華風の儀礼服を着ている少女に向かって、

「そう緊張しなくても、別に取って食ったりはしないから大丈夫だよ。君も名前を教えてくれないか」

 と優しい声音で問いかける。いくら心構えをしていても、どうしても子どもに対しては甘くなってしまう冷慈であった。

「は、はい……。……わたしの名は、張涼喬ちょうりょうきょうです。字は風癒ふういと言います……」

 名に字、か。この世界の文化は、元の世界の日本、中国、ヨーロッパを参考にしている。基本的には家で三神のいずれかの神を信仰していて、その神に対応した文化圏に住むのが普通だ。この少女は禍伏を信仰しているのだから、普通に考えて中華風文化圏の人間。服装も黄色い帯のシンプルな漢服に似た服なのでそれは間違いないはずだ。つまり相手に許されない限り、字で呼ぶのが礼儀のはず。

「ああ、よろしく、風癒。それとさっきはありがとう。改めてお礼を言うよ」
「い、いえ。わたしは巫女ですから、あれくらい普通です……。それで、あの……」
「ん? なんだ?」

 顔を俯けながら喋る風癒に聞き返すと、相変わらず緊張に顔を赤くして必死な様子で、

「……わたしのことは、その……字じゃなくて、名で呼んでください。……イリュン様に名で呼んでもらわないのは……畏れ多い、ですから」
「ん、分かった。そういうことなら字で呼ぶのはやめておくよ」

 冷慈がもう一度頷き返して全員の自己紹介が終わると、ちょうどお茶を持ってきたミナカのノックの音が部屋の中に響いた。冷慈は一息つくにはちょうどいいかと部屋の真中にあるテーブルの奥に座ると神皇たちにも座るように言って、ミナカの持ってきたお茶をすする。ちなみにミナカはお茶を全員に配った後、冷慈の横で邪魔にならないようにと存在感を消して控えていた。彼女は時折暴走するキライはあるが、基本的には優秀な女中なのである。

「さて。それでは名前も聞き終わったことだし、そろそろ話を始めるとするか」

 お茶から口を離して冷慈がそう言うと、にわかに部屋の空気が緊張した。この時この場を支配していたのは、間違い無く冷慈だった。



「まず始めに聞きたかったことは、私が現れたことを既に知っている者がどれだけいるのかということだ。知られているのは神皇殿内部だけの話なのか、それとももはや世間に公表してしまったのか。どちらにしても咎める気はないが、重要なことだからできるだけ正確に教えて欲しい」

 それが公表されたか否かによって、今後どう動かなくてはならないのかが随分と変わってくる。これは何を置いてもまず最初に確認しなけれなばらないことだった。

「はっ。その件につきましてはイリュン様の指示を仰いでからの方が良いかと存じましたので、まだ神皇殿でも一部の者……神舞の儀に参加した一部の高位神官と、後は我々のみしか知る者はおりません」
「そうか。それはよかった。取り敢えずは一安心というところか……。……念の為に聞いておくが、情報が外に漏れている可能性は?」
「恐らくほぼないかと存じます。あの場にいた者全員に、すぐに神皇の名の下に箝口令を敷きましたゆえ」
「箝口令?」

 あまり馴染みのない物々しい言葉に、思わず確認するようにもう一度聞き返す。それと同時に神皇がすぐに頷いたのを見て、冷慈は静かに腕を組んだ。
 それが本当だとしたら、確かに非常にありがたい。まさか神官が神の代弁者ともされる神皇の直接の命令を無視することも早々ないだろうし、実際情報が外に漏れているということはまず無いだろう。これは冷慈に取って、ほぼベストの状況に近い。これで今後の予定が随分と立てやすくなったと、冷慈はほっと小さく息を吐いた。
 だが、同時に疑問にも思う。冷慈は緩みかけた緊張の糸を張り直し、神皇にまっすぐ向き直りたった今抱いたその疑問を口にする。

「それはありがたいし私としては助かったから問題はないのだが……どうして私が現れたその段階で、すぐに命令まで出して秘密にしたんだ?」
「それは……、その疑問にお答えした場合、もしかしたらイリュン様のご気分を損ねかねないのですが……それでもご説明したほうがよろしいでしょうか?」

 冷慈の疑問にすぐには答えず、神皇は少し間を置いてそう伺ってきた。

「構わない。話してくれ」

 神皇は冷慈の肯定の言葉に静かに頷くと、徐に己の下した命令の理由を話し始めた。

「あの時……神舞の儀の最中にイリュン様が舞台の上に現れられた際、私は……それに恐らく彼女ら巫女たちは、すぐにイリュン様がこの世界にご降臨なされたのだと悟ることができましたが、しかしその他の……あの場にいた神官たちには、それを感じることはできなかったでしょう。……私はそう思い立ったときに、とある危惧を抱いたのです。もしかしたら、彼ら神官が目の前におられる方が誰なのか気づけないままに、大変な無礼を働いてしまうのではないか、という危惧を」

 とそこで神皇が一度喋るのをやめて、確認するように冷慈に視線をむけてきた。その視線には、冷慈が話についてきているのかどうか、そしてここまでで何か疑問はないかどうかを伺う意味があったのだろう。冷慈はその視線の意味にすぐに気づいて、一度頷いてから視線で続きを話すようにと神皇を促す。

「あの奥の舞台はイリュン様だけに許される、絶対不可侵の神域。そこに誰かもわからない者が――実際はイリュン様であった故にもちろん問題はありませんでしたが――踏み入ったとなれば、神官たちは烈火の如く怒り、それを排除しようとしたでしょう。私はそれを止めるために、あの場の主導権を握る一手として、神皇の名の下に強権を揮ったのです。命令の内容はさして重要ではなく、とっさに思いついたものが箝口令だったのですが……それが偶然とは言えイリュン様のご意向に沿う結果になったことは、僥倖でございました」

 神皇の説明は嘘というわけではないが、本当のことをいっていない部分もあった。そもそもこれだけでは、イリュンが気分を害しかねないと言う話にはなっていないだろう。そして冷慈はその事に薄々感づいてはいたが、さすがに何を隠しているのかまでは分からなかった。それを指摘すれば、神皇から話していない部分を聞き出すことはできるのだろうが、しかし冷慈にその心算はない。
 冷慈は昔から、誰かに何かを強要することを非常に嫌っていた。故に余程のことがない限り、冷慈は相手の意志を尊重するようにしていた。とは言え必要であれば――特に今の状況では――それも辞さないつもりだが、神皇が冷慈にとって不利なことをすることはまずないだろうから今回は必要ないだろう。信頼しきることはできないが、ある程度信用することはできる。それが現段階での冷慈の神皇への評価だった。

「なるほど、大体の経緯は理解した。そういう事なら、私のことは今後も継続して機密扱いにしておいて欲しい。その方が色々と都合がいいのでな」
「はっ。畏まりました」
「ん、すまないな。手間を掛ける」

 冷慈は神皇の返答に満足気に頷いた後、

「ところで一つ、前々から疑問に思っていたのだが……」

 と切り出し次の話へと話題を移す。

「? なんでしょうか?」
「先程の話でもでていたが、どうして神皇や巫女たちは現れてすぐに私のことをイリュンなのだと思ったんだ? イリュンのことは神話にも記録にも姿形の記述はなかったはずだし、すぐにそうと判断するにはいささか材料が足りなかったのではないかと思うのだが」
「ああ……それについては、特に難しいことはございません。我々の……身の内に存在する神力が、貴方様を前にする時にざわめくのです。目の前に存在するその御方が、我々の真にお仕えすべき御方なのだと。もちろん生物の内包する神力に明確な意志はないのですから、きちんとした意思や言葉で伝えられたわけではありませんが……あとは状況から考えれば、貴方様がイリュン様であることは自明の理でございました」
「ふむ……」

 神力。世界を構築する前の、方向性の無い力。この世界のあらゆるものはこの神力を内包しており、そして人は比較的その量が多い。特に神皇と称号を持つ三人の巫女は術師として最高峰の力を持っているから、その内包量は人の中でもトップクラスなのだろう。
 この世界の神は、神力が集まって塊となり意志を持ったものを言う。人が内包する程度の量で神力が意志を持つことはありえないが、そういう事があってもおかしくはないか。

「なるほど。大体は納得した。では次の質問……というか神皇に少し頼みたいことがあるのだが、いいだろうか」
「はっ。もちろんでございます」

 その返事は本当にすぐに返って来た。そのあまりの速さに冷慈は思わず苦笑をして、

「自分から言っておいてなんだが、頼みごとの内容を聞く前にそう安請け合いするものじゃないぞ? もし私が君に今すぐ神皇の座を誰かに明け渡せとか、そんな無茶なことを言ったらどうするんだ」

 と苦言を呈してしまう。

「当然イリュン様のお言葉のとおりに致しますが」

 しかし神皇は冷慈に自身の忠誠心を疑われたと思ったのか一瞬心外そうな表情を浮かべ、そしてすぐにさもあたり前のことのように至極真面目な顔でさらりとそう言い放った。その目にも声にもまったくためらいの色は感じられなくて、冷慈はどこか背筋が凍る思いをしてしまう。
 冗談はやめてくれ。そう言いたかった。しかし冷慈の口はまるで石になってしまったかのように上手く開いてくれない。
 もしかしたら、彼は自分が死ねといったらその通りにしてしまうのではないか。そんな普通ならばありえないはずのことが、冷慈の脳裏を冷たくよぎった。
 ……いや。現実逃避はよそう。分かっていたはずだ。自分の世界でだって宗教で……神のためにと、自ら命を捨てた人たちはたくさんいたのだから。
 分かっていたはずだ。自分が実際に神であるかは関係ない。重要なのは人が、神皇が真実自分のことを神であると信じているかどうかなのだと。だから自分は、迂闊なことはしないようにと心がけていたのだから。
 人の精神に、神としての権力。そしてひょっとしたら、能力も得ているのかもしれない。恐ろしい、と素直にそう思う。いつか自分が神としてのそれに溺れて、人として大事なモノを忘れてしまうのではないか。どうしても、そんな事を思わずにはいられなかった。

「……神皇」
「なんでしょうか」
「簡単なものでいい。何か一つ、結界術を私にも分かるように使ってみてくれないか。確認したいことがあるんだ」
「畏まりました。それでは……そうですね。私の私室にあった椅子をこちらの部屋に接続しましょう。それでよろしいでしょうか」
「ああ、それでいい。頼む」

 冷慈が頷くと、神皇は集中するために軽く深呼吸をして、

「術式起動。形状指定。検索>>該当物発見。座標指定>>指標位置。結合、開始。結界>>発動」

 自分の背後を指さしながら、なにか呪文のような物をつぶやいた。
 それを聞いた瞬間、冷慈は理解した。理解してしまった。それは世界を分け、隔て、結び、そして創るすべ。創世神イリュンと、その力を貸し与えられた神皇にしか許されることのない力。この世界で絶対唯一の神秘にして"この世界そのもの"。
 それが、結界術。
 そして神皇が指した先、何もなかったはずの空間に、ふっと何処からか突然椅子が現れた。
 それは、あまりにも自然だった。まるで初めからそこにあったのが当たり前であったかのように。そして同時に、あまりにも不自然だった。そこに何かがあるのは、この世界の現実ではないかのように。
 ――。
 冷慈の指が、自分でも気づかない内に自然に持ち上がり、そして今しがた現れたその椅子に向けられた。それとほぼ同時に、冷慈の口が無意識に神皇の紡いだ"呪文コマンド"を模倣してつぶやいた。

「術式起動。形状指定。検索>>該当空間発見。座標指定>>指標位置。結合、開始。結界>>発動」

 不思議な感覚だった。それは確かに無意識だったのに、それでも自分が自らを認識し制御しているその感覚。まるで眠っているのに意識だけははっきりしている、明晰夢でも見ているような感覚だった。
 この瞬間、冷慈の中の何かが変わったような気がした。それが何かは分からずとも、自分はたしかに変わったのだと、その感覚だけが頭の中に浮かびそして消えていった。

「やはり、使えたか……」

 そして冷慈は誰もが無言でその動向を見守る中、自分にしか聞こえない小さな小さな声で独りごちた。それは大きな諦めが込められた、ひどく虚ろな呟きだった。



 これまで冷慈がここが異世界であると判断した材料は全て客観的……受身のものだった。己のいる場所や建物や伝聞、周りの会話などの状況証拠、涼喬や神皇の使った術もそうだろう。しかし、今回のそれは違う。たった今冷慈は、己の意思で己の体を操って、決定的な異世界の理を操った。それは圧倒的な実感として、冷慈に現実を突きつけてきた。
 人は基本的に記憶や知識、経験において、自身の実体験を最も正しいものとする。「砂糖は甘い」と話に聞くのと、実際に砂糖を舐めて主観で味を確認するのとでは、自分の中での情報の確度が違うのだ。
 冷慈が己自身でイリュンと神皇にしか使えない術である結界術を使ったこの瞬間が、確かに冷慈の認識と現実が完全に一致した瞬間だった。
 もちろんこれまでの注意も心構えも何もかも、冷慈は本気でやっていた。ただそれは、目の前のことに即時対応するために、現状に対する感情を全て先送りにしてのことだった。
 だが冷慈は、この時になってついにかすかな希望も何もかも完膚なきまでに砕かれて、完全に自分が"異世界にやってきて神になった"ことを心から受け入れた。
 それと同時に、冷慈の胸中には様々な思いが襲いかかってくる。
 諦め、恐怖、郷愁、怒り、悲しみ、心配、不安、そして後悔。それは本当に色々なものが混ざり合った、混沌としたものだった。
 しかしそれでも、冷慈の己の意識のイメージである、冷たい炎は揺らがない。冷慈は本当に一瞬で全ての動揺を抑えこみ、そしてそれら全てを飲み込んだ。
 結局のところ、冷慈にとって自分のことは優先順位が低いのだ。自身を軽く見ていると言ってもいい。
 もしもこの世界が、冷慈が自分で考えた小説の中の世界……あるいはそれに準ずる世界ではなかったとしたら、きっと冷慈はみっともなく狼狽し、もっと錯乱していただろう。だが、実際にはそうではなかった。この世界で冷慈には、己が定めたやらねばならないことがある。
 故に冷慈は何があろうと自らを制御して、それを果たすまで心の赴くままに己を殺し続けるだろう。
 感情を行動原理に。しかし行動そのものにはしない。激情ほのおに心を支配されるのではなく、炎を宿して支配する。それが冷慈の二〇年間の人生の中で培ってきた、己の在り方だった。

「そろそろ……」

 冷慈が唐突に、ポツリと小さく呟いた。

「そろそろ、本題に入るとするか」

 その声は本当に小さなものだったが、不思議と部屋全体に響き渡り、その場にいた全員の耳に届いた。そして皆が冷慈の言葉に注目する中、冷慈は一人無表情の中にどこか不敵さを織りまぜて、

「これより皆にはこれからの予定を伝える。神皇は先程の話にも出たとおり、現状の維持を継続。そして巫女たちには……」

 と言葉を続けながら、ぐるりと全体を見回して一人ひとりの顔色をうかがう。すると三人ともが表情を固くして、冷慈の言葉を一言一句聞き漏らさないようにと真剣に耳を傾けていた。

「私は近いうちに、三大都市の何れかに視察に向かうつもりだ。だから君達には、その道案内と護衛を頼みたいと思う。もちろん私の身分を明かす予定はないから、所謂お忍びというやつだな」
「三大都市に、視察に向かわれる……? そんな、イリュン様自らが直々に赴かれずとも、必要なことは教えてくだされば我々が――」

 殆ど反射的に冷慈の提案を否定してきた神皇を、冷慈は目だけが笑っていない微笑で封殺した。

「悪いが直接私が行かなければ意味が無いから、止めるのは無理だ。本来なら私一人で行きたいところだが……いくらなんでもそれでは神皇も了承し難いだろうと思って、ぎりぎりの数である三人という人数で満足な護衛が果たせるはずの、人界"さいこう"の術師である彼女らに頼むことにしたんだからな。……ああ、神皇にもっといい代案があるというのならば当然聞こう。もちろん、視察の中止以外の案でだが」

 冷慈が内心で自分の物言いに苦笑しながらそこまで語ったところで、神皇は諦めたように肩を落とした。中止をする以外でなら、情報の拡散を抑えつつ冷慈の安全を確保するのにこれ以上の案はないのだから仕方ない。もちろん遠巻きの監視等、何らかの対処はするのだろうが、それがお互いの妥協案で落とし所だろうと思うので、それ以上は冷慈も追求する気はなかった。

「ということで事後承諾になってしまったが……もし三人とも問題がなければ、すまないが付き合って欲しい」
「畏まりました。喜んでお勤めさせていただきますわ、イリュン様。わたくしたち巫女は全て、仕える神々に奉仕し、賜るあらゆる命を果たすためにいるのですから」
「もちろん私もお供させていただきます、イリュン様」
「わ、わたしもです」

 冷慈の言葉にいち早く反応した鈴鹿が凛とした声色で頷きを返し、それに続いて二人もすぐに頷いた。

「そうか。感謝する」

 冷慈がそう言うと、三人は恭しく頭を下げた。

「わたくしどもには勿体無きお言葉でございますわ。ところでイリュン様。一つお聞かせ願いたいことがあるのですが、質問してもよろしいでしょうか?」
「ん、構わない。なんだろうか?」

 冷慈が頷くと鈴鹿は軽くお辞儀をして、

「ありがとうございます。それでは……先ほどイリュン様は三大都市の何れかに、と仰られておりましたが、ということはまだどの都市に向かわれるかは決められていないのでしょうか?」
「ああ、まだ三つのうちのどこにするかは決めてないな。詳しいことは知らないから、君達に話を聞いてから決めようと思っていた」
「そういうことでしたらイリュン様、及ばずながらわたくしから一つ、提案がございますわ。三大都市の内、トラスは今現在少々情勢が不安定。そして生命の巫女はまだ担当に成り立てですので、平央の案内は難しいですわ。ということで向かわれるのは、わたくしの担当する前守にされてはいかがでしょうか」
「ふむ……」

 鈴鹿の提案を受けてちらりと残り二人に視線を向けると、ミリアは若干悔しそうにしているが反論する様子はなく、涼喬も沈黙したままだった。

「そうだな。特に反対する理由もないし、そうするとするか。では明日の正午前には出発する予定なので、三人は明日またここにきてくれ」

 冷慈がそう締めくくると、それぞれが頷きながら返事をした。それを見た冷慈は最後にもう一度茶をすすり間をとると全員を見回して、

「よし。それではこれで、私からの話は終わりだ。他になにかある者はいるだろうか」

 と確認を取る。

「いえ、我々からは特にございません」

 この場にいるものを代表して神皇がそう答えると、冷慈はそうかと頷いた。それで用事が全て終わったことを悟り、各々が礼をしながら解散していく。
 とそこで冷慈は全員が部屋の外に出て行く前に、まるで今思い出したかのようなどこかわざとらしい口調で、

「ああ、そうだ。一応言っておくが、これからは私のことは冷慈と呼ぶように。それと敬語をやめろとは言わないが、もう少し砕けた話し方をするようにな。イリュンであることは秘密なのだから、これは命令だ」

 ではな、と最後に付け足して、冷慈は反論する間を与えないためにひらりと手を降った。冷慈の言葉は名前はともかく後半は微妙に矛盾しているように思えるのだが、神皇たちはそれを早く下がれという意味でのジェスチャーだと解釈してしまい、もう一度頭を下げてすぐに部屋から出ていくことしかできなかった。そのため神皇たちはこの後、次に冷慈にあったときどのような口調で喋ればいいのかと頭を悩ませることになる。



[28061] 三章 奴隷(1)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/05/31 14:23
 冷慈が夜更かしもそこそこに眠りにつき、そして少々遅めの朝食を摂り終えてからしばらく。早速集まった三人の巫女と見送りに来た神皇、ミナカ達を前にして、冷慈はおもむろに口を開いた。

「さて、皆準備は万端のようだし、それではそろそろ出発するとしようか」
「畏まりました……い、冷慈様」

 未だに様付けで呼ぶミリアに、無言で視線を送る冷慈。ミリアはその視線の意味にすぐに気づいてあっと声を上げると、

「……冷慈、さん」
「うん、よろしい」

 今度はさん付けで言い直したミリアに、冷慈は満足そうに頷き返した。
 鈴歌は「改めてよろしくお願い致しますね、冷慈さん」と初めにあいさつをした後は完全に意識を切り替えたようで問題はなかったし、涼喬も一度訂正した後はきちんと呼んでくれたのだが、どうにもミリアは冷慈のことをさん付けで呼ぶのは抵抗があるようだった。本人も気をつけているようではあるが、慣れるまでにはまだしばらくかかりそうだ。
 まあその都度訂正すればそのうち慣れるだろうし、最悪イリュンと呼ばれさえしなければ何とでもなるだろう。そう判断した冷慈はそれ以上ミリアになにか言うこともなく、結界術を使って移動するために部屋の真中に立ち巫女たちに自分に近づくようにと告げた。
 その様子を見て神皇は深々と頭を下げ、ミナカもその少し後ろで丁寧にお辞儀をして、

「行ってらっしゃいませ、イリュン様。どうかお怪我のなさらないよう、お気をつけて」

 と見送りの言葉を口にする。
 ちなみにミナカは役職的、身分的に神皇殿にいる人間に礼を尽くすのは当たり前のことであり、かつその職務上冷慈の名前を呼ぶのは二人、もしくは関係者のいる時しか殆どないので、冷慈のことをそのまま『イリュン様』と呼んでいた。命令をすれば止めさせることはできるのだろうが、必要もないのに意思に反することを無理強いするのは冷慈の嫌うところなので、そのままだった。

「ああ、ありがとう。では、行ってくる」

 頭をさげる二人に軽く手を上げて、冷慈は結界術を行使する。

「術式起動。形状指定。検索>>該当空間発見。座標指定>>現在位置。結合、開始。結界>>発動」

 冷慈の体の内側から、何かが込み上げてくるような感覚が走った。その瞬間、冷慈の命令に従い世界は変化し創造される。
 そして何の予兆もなく、冷慈達四人の姿が掻き消えた。同時に発生したそよ風が、神皇たちの髪を微かに靡かせる。それと同時に神皇は小さくため息を吐いて、

「……行ってしまわれたか。何事も無ければいいが……」

 とどこか心配そうに呟いた。
 ……打てる手は打ったし、イリュン様も言うとおり最高位の術師が三人もついているのだ。あまり心配しすぎるのもよくない、か。
 神皇は頭を振って顔を上げるとすぐに気持ちを切り替えて、部屋を出るべく踵を返す。そして未だ頭を下げ続けるミナカをどこか複雑そうな表情で一瞥した後、法衣を翻してその場から去って行った。



 一歩足を踏み出すたびに、カツンと硬い足音がする。神皇は相変わらずシンと耳が痛くなるような静寂に包まれた無人の廊下を無言で歩き、自身の執務室へと向かっていた。グネグネとまるで迷路のようになっている道にももはや慣れたもので、特に迷うこともなく目的地へとたどり着く。そしてガチャリと扉を開けると、自分用に低めに作っている机を一瞬不機嫌そうな目で睨みつけてからそこに腰掛け、早速溜まっていた書類の処理を始めた。
 優先度の高いものから目を通し、サインをしていく。これらは全てに許可を出すわけではないが、神皇のところまで上がってくるものはほとんど既に決定したような物。ハッキリ言ってこの仕事に関しては、ただ名前を書いていくだけの流れ作業のようなものだった。
 神皇は一向に減っていかない書類の山についつい嘆息するのを止められず、同時に自分の吐息で動いてしまった手元の書類を目で追いながら、先ほど前守へと向かった冷慈たちのことを思い返した。
 こういった重要書類の処理などは自分にしかできないのだから仕方がないが、もっと直接的に役に立っている巫女たちを少し羨ましく思ってしまう。とは言えもちろんだからと言って書類仕事をないがしろにしていいわけもなく、神皇はすぐに止めていた手を動かすと作業を再会した。
 それからしばらくして、机の上にそびえ立つ書類の山がだんだんと削れてきた頃、執務室の扉が叩かれノックの音が四度響いた。その音に神皇が書類から目を離し顔を上げると、

「神皇様、今お時間よろしいでしょうか。少々お伺いしたいことがあるのですが」

 と扉の向こうから声がかかる。
 その声の主に心当たりのあった神皇は、思わず今日もまた来たのかとため息を漏らしてしまうのを止められなかった。



「どうして会わせてはくださらないのですか!? 昨日も今日も、神皇様がご面会されていたあのお方に!」

 神舞の儀の時のことには触れず、周りくどい言い回しをすることで緘口令を回避したつもりになっているのだろう。濁った瞳を向け唾を飛ばしながら声を荒げる目の前の神官に、だんだん神皇は自分の目付きが鋭くなっていくのを感じていた。
 こうして騒がしくなってくると、先程まで煩わしいと思っていた紙とペンの音しかしない静けさが恋しくなってくるのだから、我ながら我侭なものだと内心で苦笑してしまう。

「神皇様! どうか納得の行く説明をしてはいただけないでしょうか! どうしてあのお方のことを秘し続けるのか、どうして我々はお会いすることが許されないのかっ」

 これが……神皇が"イリュン"のことを緘口令を敷いてまで隠した、最大の理由だった。
 召喚の儀式である神舞の儀で奥の舞台に光と共に現れた存在。それが創造神イリュンであることは、冷静になって状況を考えれば、誰にでも分かることだ。かつてにも、イリュンではないが三神のいずれかが人界に人の姿で降り立ったという記録はあるのだから、前例もある。そも神舞の儀によって舞台に現れた人物が、創世神イリュン以外のものであっては困るのだ。もしもそうではなくあの時現れたのが只人であったのなら、その時は"然るべき処置"をとらねばならなかっただろう。実際そうはなっていないのだから、それが誰であったのかは推して知るべしというところだ。
 問題があったのは、イリュン……冷慈のイクシュン・シリへと降り立った際の状態だった。いや、もっというのなら、ここに現れたことそれ自体だろうか。これまでこの世界でイリュンが絶対的な存在とされていたのは、もちろん世界を創造した神として崇められていたこともあるが、今まで一度も現れたことがなかったことも重要な要素として存在していた。もし神がそこにある存在として実際に現れてしまったら、そこにはかたちが当てはめられ、イメージが固定される。話すことも出来れば触れることもできるし、騙すこともできるのだ。しかも現れたときの冷慈の状態は、お世辞にも良いものとは言えなかった。それは悪い意味より身近さを感じさせることとなった。
 形なき絶対者ではなく、現実に手の届くものとして現れた、創造神イリュン。それは欲望にとり憑かれた権力の亡者たちにとって、格好の獲物になりかねない。事実がどうであるかは関係ないのだ。そうなるかもしれないと思えてしまった時点で、彼らがその魔手を伸ばす理由には十分だった。
 全ての神官がその理想通り清廉潔白な聖職者であるなどということは、ありえない。それは元の世界の歴史が証明しているだろう。しかもこの世界では、最高権力機関である神皇殿に入るには神官になるのが最も近道。故に権力を求めるものがこの場所にいるのはある意味必然とも言える。もしもイクシュン・シリが各地の自治に任せる連邦制に近い今の形ではなく封建制、絶対王政だったら、時代によっては酷い独裁主義になっていたかもしれない。
 もし冷慈が彼らにいいように利用されてしまったら、イクシュン・シリに生き地獄が生まれかねない。
 冷慈が彼らを上手くあしらったとしても、それに怒りを感じてイクシュン・シリに天罰を与えるかもしれない。
 神皇が今回最も危惧したことは、冷慈と彼らが遭遇してしまうかもしれないということにあった。

「聞いておられるのですか、神皇様!? どうか答えていただきたい!」

 と突然喚き声と共に、バンッと神皇の執務机が叩かれた。その音で思考の世界から我に帰った神皇の目が、スッと細められた。同時に神皇は、これを好奇と内心でほくそ笑む。
 あまり神皇と交流のない者は、今のように時折その幼い容姿から敬意を払うのを忘れてしまうことがあった。しかし実際には神皇は、この世界でイリュンに次ぐ権力の持ち主。当然そのような態度が許されるはずもない。

「君はなにか……勘違いをしているようだね?」

 神皇は自分が不機嫌になった時によく使う口調で、目の前にいる神官を威圧的に睨みつけた。神官はまるで部屋の温度が数度下がってしまったかのようなその威圧感に、ハッと我に帰り自分のしてしまった行いを振り返る。

「君は今、誰に対してそんな偉そうに語っているのか理解しているのかい?」
「は……、はっ! 申し訳ありません、言葉が過ぎました!」

 神皇は慌てて深く頭を下げた神官を細められた目で流し見て、

「ふうん……。まあ、分かればよろしい。――本当に、分かっているよね?」
「は、はい! もちろんでございます! そ、それでは私はこれにて退出させていただきたく存じますっ。失礼いたしました!」

 まるで軍隊か何かのようにきびきびと去って行く男に内心で苦笑しながら、神皇は入ってきた時とは一段小さく見えるその背中に、

「一応言っておくけど、僕は同じことを何度も言うのは嫌いなんだ。……僕が何を言いたいのかは分かるかい? 理解したね?」

 ともう同じ話はしに来ないように念を押す。

「はい! 承知いたしました!」

 慌ててそう返すと、彼は今度こそ脱兎の如く部屋を去って行った。
 神皇はようやく静かになった部屋の中で、どうせ来るのは彼一人ではないのだろうなとまた深い溜息をつく。
 溜息をつくと幸せが逃げるとはよく言うけど、そもそもその逃げる幸せがないから人は溜息をつくんだよなあ……と益体もない事を考えながら、次の訪問者が来るまでに書類を片付けてしまおうと集中して作業に取り掛かった。



[28061] 三章 奴隷(2)
Name: pisteuo◆8a182754 ID:9e6c5819
Date: 2011/06/01 22:48
 所変わってイクシュン・シリに唯一存在する大陸の北西部に位置する三大都市の一つ、前守の端にある人気のない郊外。その草木生い茂る林の中に、何の前触れもなく四人の男女が現れた。その四人とは当然神皇殿から移動してきた冷慈たちである。ちなみに前守は和風文化が主流の土地なので、目立たないようにと冷慈も含めて全員服装は和服であった。

「ふむ……? たしかに人のいない場所という条件で選びはしたが、これはまた随分と緑の多いところに出たな」
「ええ……」

 冷慈の半ば独り言のような呟きに反応しながら、巫女たちはどこか呆けたように嘆息した。
 冷慈はここに現れてすぐ興味深げにきょろきょろとあたりを見回しており、彼女らも疑っていたわけではなかったが本当にこれほどの長距離を一瞬で移動したことに感心と驚きを隠せずにいた。
 しかしだからといって、何時までもこうして惚けているわけにはいかない。自分はイリュン様からこの地の案内を頼まれたのだから。そんな使命感にも似た思いに駆られた鈴歌はすぐにいつものように扇を携えて余裕を取り戻し、朗らかな微笑を浮かべると早速冷慈に向かって説明し始めた。

「ここ前守は、天照神様を信仰する大和の地にある都市の一つですから……特に自然との共存という思想を元に都市の発展を進めておりますの。ですので郊外には、このように自然な形で緑を残しているところが多いのですわ。もちろん自然な形でとはいってもきちんと管理もしておりますので、まったく人の手が入っていないということはありませんが」
「なるほど……」

 彼女を含む天照を信仰する和風文化圏の人間は、陰陽術と呼ばれる術を使うことができる。陰陽術は自然物に方陣を書いて意思の疎通を図り、変化を促す術だ。具体的には火を球形にして飛ばしたり、土を槍のようにして飛ばしたりすることだろうか。恐らくそこから自然との共存という思想が生まれたのだろう。
 ちなみに熟練者は方陣を書く必要はなく、その戦闘における有用性から陰陽術を専門にする者は特に臨戦術師と呼ばれる。つまり彼女が和の巫女と呼ばれているということは、同時に彼女は人界でも最強の臨戦術師であるという意味でもある。
 と冷慈が自身の知識を思い出しながら辺りを観察していると、今度はミリアが、

「前守で最も特徴的なのは西部を流れる大きな川、『道之川』でしょうか。この川はその名の由来を天照神様の通る道というところから取られた川で、この都市の設計段階からその一部として組み込まれ船を交通手段の一つとして確立することに成功しております」

 と補足をする。
 その瞬間、鈴歌が扇で口元を隠しながらミリアに向かって穏やかに微笑んだ。もっともその目はまったく笑っておらず、それを見ていた涼喬がビクリと小動物のように震えていた。

「あら、ミリアさん? 冷慈さんの案内はわたくしがいたしますので、貴女は周りの警戒をされるだけでよろしいのでしてよ? 前守のことは担当官であるわたくしが一番知っているのだと自負しておりますし、わたくしだけでも十分なご説明はできると思いますから」
「いえ、そんな。わたしとて今代の"神の英知"としてそれなりに知識は蓄えていますし、槍澤さまだけでは大変でしょう? わたしにもお手伝いくらいはさせて下さい」

 口調だけは穏やかだが、冷慈は何故か二人の間に走る火花を幻視した。
 まあ本気で嫌い合ってるような薄ら寒さは感じないし、これはどちらかというとライバル同士の対抗心のようなものなのだろう。ギスギスしてはいるが粘着質なものはないし、いわゆる『ケンカするほど仲が良い』という言葉に部類されるもののように思える。
 そう判断した冷慈は無理に仲裁することもなく、

「さて、街の方も見てみたいところだし、そろそろ行くとしようか。俺が先頭を歩くから、道案内は頼む」

 と口にするだけにとどめた。

「あ、は……はいっ。……街はあっちの方向、です。行きましょう……!」

 二人の雰囲気に怯えていた涼喬はこれ幸いとその冷慈の言葉に便乗し、二人もそれを見て顔を見合わせた後慌てて歩き始めた冷慈の後を追った。



「あ、あの……」
「ん?」

 冷慈が後ろの三人が怪我をしないようにと危なそうな草や枝をかき分けながら歩いていると、後ろからおずおずとミリアが話しかけてきた。

「どうした? 何か問題でもあっただろうか? もしかして……街の方向からは逸れてしまったか?」

 周りに草木しかない状況というのは目印――方位磁石など――がないと、わりに方角がズレやすい。ここの土地勘がまったくない自分ではなおさらだろう。
 そう思って聞き返した冷慈に返って来た答えは、「い、いえ」と首を横に振っての否定の言葉だった。

「それは大丈夫なのですが、その……冷慈様は、怒られてはいないのですか?」
「怒ってないのかとは……ああ、さっきの話か。別にあんなのは怒るようなことでもないだろう。まあ強いて言うのなら、君が様ではなくて冷慈さんと呼んでくれると俺としては嬉しいのだけどな?」

 後半をどこかおどけるように冷慈がそう言うと、ミリアは「も、申し訳ありません、冷慈さんっ」と慌てて言い直す。そしてそれに続いてそれまで沈黙し二人の様子を静観していた鈴歌も、

「わたくしも、先ほどはお見苦しいところをお見せしてしまい申し訳ありませんでした、冷慈さん」

 と謝罪の言葉を口にしてペコリと小さく頭を下げる。
 冷慈は何となくその彼女の瞳に不思議な光を見た気がして一瞬小首を傾げるが、まあいいかとすぐに思い直して首を横に振った。

「彼女にも言ったが、別にあんなのはたいしたことじゃないさ。俺は特に気にしてないから、君も気にしなくていい」

 冷慈の答えにくすりと柔らかに微笑むと、鈴歌は眉尻を下げてどこか眩しげに目を細めた。

「お心遣い、感謝いたします。ところで……冷慈
「?」

 先程まではずっとさんづけだったのにあえて様をつけて呼んできた鈴歌に冷慈が首を傾げていると、彼女は柔らかな表情をそのままにゆっくりと屈みこみ地面に手をついて、

「先ほどから、わたくしたちのためにと草木を避けてくださっていたこと、心よりお礼申し上げますわ。それは大変光栄で、感謝の意が尽きないことではございますが……ですがわたくしには、人界最強の『神の槍』に対しては、それは無用の心配であるとお恐れながら進言させていただきます」

 彼女がそう口にした瞬間、まるでその言葉に反応するように、ざあ……と林全体がざわめいた。まるで全ての自然が彼女と共鳴しているかのようなその姿に、もとより彼女の実力を知っていたはずのミリアと涼喬も含め、その場にいた誰もが戦慄を禁じ得なかった。
 冷慈が驚きに目を見張りながらも何も言葉を発せられずにいると、冷慈の正面……進行方向に位置していた茂み全てが彼女のために道を開ける。それはまるで大名の行列に膝をつく民のごとく、畏れを感じさせるものだった。

「ですが、本当にありがとうございました。冷慈さんは紳士でいらっしゃるのですね」

 ほんの少しだけ疲労を滲ませながら、しかし一人だけ平然として鈴歌はそう言葉を締めくくった。

「ひとつだけ聞きたい。今の術で、この場所に何か悪影響がでることはあるだろうか?」
「当然ありませんわ。自然との共存を旨とする前守の巫女が、そのような恥知らずなことをするわけにはいけませんもの」

 冷慈が内心を押さえて疑問を口にすると、鈴歌はさらりとそう口にした。

「そうか。いや、すまなかったな。俺のためにとわざわざやってくれたのに、責めるようなことを言ってしまって……」
「いいえ、お気になさらないでくださいませ。むしろ天照神様に仕える和の巫女としては、イリュン様に前守の地をお気遣いいただけて喜ばしい限りですもの」

 冷慈の心配とは裏腹に、鈴鹿は笑みを深めてそう答えた。

「気を悪くしなかったのならいいが……それにしても、まさか気づかれていたとはな。いやはやなんとも、恥ずかしい限りだよ」

 冷慈が頬をかきながらそう呟くと、鈴歌は扇で口元を隠しながらくすりと上品に笑みを漏らした。

「ふふ、何も恥ずかしがることはないと思いますわ。もっと胸を張られてもよろしいかと」
「いやいや、そんな大したものじゃないさ。これはただの男の意地ってやつで、そういうのは気づかれると気恥ずかしいものなのさ。情けない話だが、男ってやつはどうしてもそういう気持ちだけは捨てられないものでな」

 冷慈が少し早口になりながらも苦笑したその瞬間、

「し、失礼ですが冷慈、さん……少しよろしいでしょうかっ」

 それまで後ろでずっと沈黙していたミリアが、妙に気合の入った様子で会話に参加してきた。

「ん? なんだろうか?」
「あの、わたしも先程のこと、感謝しておりますっ。それでですね、お礼というわけではないのですが、これをその……受け取ってはもらえないでしょうか!」
「これは……」

 ミリアから勢い良く渡されたのは、小さな鎖に指輪を通したネックレスだった。

「これを、俺に?」
「はいっ。それには裏に魔術を施してありまして、冷慈さんの守護にと思いお作りしてまいりました!」

 彼女の言葉通り、きっとこれは今渡そうと思ったのではなく事前に用意していたのだろう。デザインを考えるに男物だし、これだけの出来のものをぱっと用意できるはずもない。恐らくずっとキッカケを探していたのだろうな。
 そんな事を考えながら冷慈が鎖を通された指輪の裏を覗いてみると、そこには淡い光を放つ文字が書かれてあった。これが彼女の言っていた守護の魔術、か。
 魔術。この世界ではデイルの神字と呼ばれているアルファベットに力を込めてものに刻むことで、様々な効果を発揮する術。その性質上他二つの術のように即効性はないが、汎用性に関しては他の追随を許さず、その効果は多岐に渡る。その術形態は元の世界のプログラミングに近く、術者の練度によってずいぶんと個人差の出る術だ。ちなみに魔術はこの世界の機械技術や道具作成などにも生かされていて、魔術を使うものは技術者としての側面を持ちこれを専門とするものは特に魔技師と呼ばれている。

「……ん? 作ってきた? という事はもしかして、これを一から作ってきたのか? 文字を刻んだだけではなく?」
「は、はい。時間がなかったので銀細工ではありますが……」
「そうか……わざわざありがとうな。気に入ったよ。大事にする」

 冷慈が自信なさげにしているミリアに笑みを返してネックレスを自分の首にかけてみせると、ミリアはぱっと顔を輝かせて頭を下げた。

「有難き幸せにございますっ」

 その彼女に口をはさむようにして、鈴歌が扇で口元を隠しながら、

「意外ですわ。堅物の貴女にしては、随分と気がきいていますのね」

 と声をかける。

「そういう槍澤さまこそ……普段男性には興味ない素振りしかしていないのに、今日は随分と積極的なのですね」
「あら、心外ですわね。わたしくしが今までそうしなかったのは、単にそうするだけの殿方がおられなかっただけですわ。まさか貴女は冷慈さんまで、その辺りにいる有象無象の殿方と一緒だと言うのかしら?」
「そ、そんなことありえません!」

 まさに売り言葉に買い言葉。何だか変に褒められている気はするが、まあそれは自分で言ってはなんだが『イリュン補正』とでも言うべきもののせいだろうから気にしないとして……仲がいいのはいいことだが、涼喬がすっかり怯えてしまっているしこのままでは町にいつ着くのか分かったものではないだろう。
 やれやれ、仕方ない。ここは俺が行けば二人とも着いて来るだろうし、もう進んでしまうとするか。折角道もできたことだしな。

「涼喬。道ができたとはいえ、一応足下には気をつけてな?」
「は、はい……。でもあの……槍澤さんたちのことは、いいんですか……?」
「だいじょうぶだいじょうぶ。目的地は一緒だし、俺達がいないことに気づいたらすぐ来るだろう」

 冷慈は涼喬が転ばないように足下に注意しながら苦笑してそう返し、街へ向かって歩を進めて行った。
 ちなみに二人は結局少し進んだところで冷慈が気を使って声をかけるまで言い争いを続けており、その後は二人揃って羞恥に顔を赤くしながら街につくまで無言のままだった。


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