この小説は、角川スニーカー文庫より発刊中の安井健太郎先生の作品「ラグナロク」の二次創作です。
ラグナロクオンラインの二次創作ではありませんので、ご注意ください。
序章
「貴様が、あの忌まわしき男の息子か」
その男が目の前に現れたとき、既に周囲は静寂の闇に染まっていた。
先ほどまで、五月蠅い位に存在を主張し続けていた蟲の声はなりを潜め、狭い路地を駆け抜ける夜風すら、今はない。
まるでそれらが皆、この男を刺激するのを恐れているかのようだ。
「高貴な一族の身でありながら汚らわしい人間如きと交わり、あまつさえ、貴様のような忌むべき存在を産み落とすとは」
月明かりすらない暗闇の中で、男はその紫紺の瞳を赫怒の炎で燃え上がらせていた。
血に濡れたように赤い唇からは鋭い牙が覗き、漆黒のタキシードに包まれた長身から放出される強大な鬼気は、先ほどから俺の肌をちりちりと刺激している。
――≪闇の眷属≫、吸血鬼だ。
≪闇の眷属≫という存在を端的に言い表そうとした場合、人類の敵という表現が一番わかり易いだろう。
その起源は誰も知らず、いつの頃からか歴史の舞台に現れ、≪闇の眷属≫は人類を抹殺していった。
戦闘力と危険度から、下級、中級、上級と分けられているが、下級眷属ですら一般人とはかけ離れた強さを誇り、訓練を積んだ傭兵でも一人では倒せないこともある。
上級ともなれば、殆ど神話に出てくる魔王や鬼神のような存在であり、五千年前の大戦では人類を滅亡寸前にまで追い込んだほどだ。
吸血鬼はその中でも上級眷属に位置し、≪闇夜の魔人≫として人類に最も恐れられている種族だ。
その吸血鬼が、このような場所に現れる理由は一つだけだ。
「俺を、殺しにきたか」
疑念を挟まぬ確信を持った声で、俺はそう言葉を紡いだ。
瞬間、男の身体が俺の視界から消え去った。
それに一瞬の間も置かずして、俺は前方へと身を投げ出している。
――破裂音。
後方から襲い来る、強烈な衝撃をその身に感じながら体勢を立て直す。
腰の刀は、既に抜き放って手の中だ。
振り返れば、先程まで俺のいた位置に先程の男が悠然と立っていた。
その首筋に、斬撃を叩き込む。
脚の筋力を最大限に駆使し、刹那で間合いを潰しきる。
接近の勢いをそのまま首筋を狙った横薙ぎの斬撃は、しかし文字通り空を斬った。
男は、既に俺の懐へと潜り込んでいる。
切り返しの刃では、間に合わない。
替わりに刀の柄を男の脳天めがけて振り下ろすが、それでもまだ遅かった。
腹部に当てられた掌から放たれたのは、強烈な衝撃波だ。
咄嗟に後ろに跳びはしたものの、その威力の三割も下げることはかなわなかった。
内臓に幾つか損傷を受けたか、喉奥から血流が込み上げる。
もんどりうって身体を地面に打ち付けられるが、軋む身体を酷使してどうにか起き上がった。
追撃は――ない。
男は、口の端を吊り上げて俺を見据えている。
「追撃もなしとは、お優しいことだな」
俺の言葉に、返答はない。代わりに、男の紫紺の瞳がぎらりと妖しく輝く。
邪眼(イビル・アイ)だ!
その強烈な眼光は、精神を侵すなどという生易しいものではなく、直接脳へとダメージを与える。
喰らえばただでは済むまい。
俺は咄嗟に、最大限に力を込めた眼光を相手に送り返していた。
ぶつかり合う、不可視のエネルギー。
眼前で相殺し合った二つのエネルギーは、音もなく消滅する。
「……我の邪眼を退ける、か。穢れてもなお、我らが血の威力は収まらぬ。そういうことか」
男は存外に冷静だった。いや、実際はそう見えただけか。
変わらぬ無表情とは裏腹に、その全身から立ち上る鬼気は更に凄絶なものとなっている。
吸血鬼はプライドが高い。邪眼を相殺したのが、余程そのプライドに障ったようだ。
「どうだかな。案外、あんたの力が弱すぎるんじゃないのか?」
だからこそ、それを煽る。冷静さを欠いてくれればそれだけ、この場を切り抜ける公算も上がるというものだ。
口の中に残る血を吐き出しながら、いつでも対応できるように身体中の筋肉を収縮させていく。
「ふん、穢れた半端者如きが、吠えてくれるな」
しかし、男は乗ってこない。静かに俺を見据えてくるだけだ。
逆に、先ほどまで辺りに充満していた肌を刺すような鬼気が、心なしか弱まっているようにすら感じられる。
いや、これは――俺とは別の方へ意識が向いているのか?
「……邪魔が入ったか。今宵はここまでだ。またいずれ、相見えよう」
「……何?」
「我が名はグラント。この名、覚えておけ」
いぶかしむ俺をよそに、名乗りを上げた男――グラントはその場から忽然と消え去った。
来た時と同じ、空間を渡ったのだろう。
上級眷族、特に空間を操る事を得意とする吸血鬼ならば、その程度は造作もないことだ。
ともかく男が消え、周囲には音が帰ってきた。
張り詰めていた緊張が解け、形容しがたい脱力感が押し寄せてくる。
が、しかし、それも一瞬のことに過ぎなかった。
「静かな、良い夜ね」
背後に響いたのは、美しい女の声だ。
突然現れた――訳ではない。ちゃんと、歩いてこの場に現れた。
どうやら、グラントの言った邪魔とはこの女性の事だったようだ。
「こんな時間に、女の一人歩きは危ないぜ?」
土に汚れた着物の裾を払いながら、振り返った俺を迎えたのは、優しく笑う美女だった。
今夜は月は出ていないというのに、この女性を前にすると、辺りに月光が降り注いでいるような錯覚すら覚える。
「優しいのね、でも大丈夫。私、これでも力持ちなのよ?」
その美女は、どう見ても力があるとは思えない細腕を掲げ、典雅な微笑を湛えた。
これが普通の女性ならばどう考えても冗談の類なのだが、ことこの女に関しては、それを冗談と一蹴するのは軽率が過ぎるというものだろう。
月明かりもない闇夜において、そこにいるだけで伝わってくる圧倒的な存在感。
それに加え、闇が力を与えたかのように妖しく輝く、紫紺の双眸。
そして何よりも俺の勘が、その女の正体をまるで警鐘のように告げていた。
――こいつも吸血鬼だ、と。
「心配しないで。私はあなたの敵じゃないわ」
反射的に臨戦態勢を取ろうとした俺に、女は優しく笑いかけた。
敵意の欠片もない、純粋な笑み。
しかし、上級眷族――特に吸血鬼――に対してそれを全面的に信用するには、俺に流れる血は厄介すぎた。
「だったら、こんな所へ何の用だ? まさかただ散歩していただけ、なんてことはないだろう?」
鋭く切り込むように、目の前の女に言葉を返す。
言葉に込めるのは、最大限の警戒だ。
しかし、女はそんな俺の様子を気にした風もなく、優しげな視線を投げかけてくるだけだ。
「ただの散歩だったのだけど、いけなかったかしら?」
瞬間、紫紺に濡れた瞳が間近に迫っていた。
まるでコマ落としのような、急激な接近。至近距離で感じる、強烈な存在感。
迂闊には動けない。
「……別に、いけなくはないがな」
辛うじて絞り出した言葉は、我ながら情けないほどに擦れていた。
今戦って、果たして勝てるか? 望みは薄いと言わざるを得ない。
闇が支配する路地に、静寂が走った。
その静寂を壊すことなく、女が口を開いた。依然として、微笑を浮かべたまま。
「……少し、驚かせすぎたかしらね。大丈夫よ。もう一度言うけど、私はあなたの敵ではないわ」
ゆったりとした足取りで離れていく背中を眼で追いつつ、俺はまだ、答えを出しきれずにいた。
この女に敵意がないのは、おそらく本当だろう。
俺に攻撃するチャンスはいくらでもあったにもかかわらず、この女はそれをしなかった。
だが、それが即ち、この女が敵ではないということにはならない。
俺を油断させておいて、後からバッサリやるつもりかもしれないのだ。
……無論、その必要があるかどうかは別として、だが。
「あの人の子供にしては、少し頑固すぎるわね。用件だけ伝えて、今日はもう帰るわ」
未だ警戒を解かない俺の様子を察したのか、女は振り向くと、まるで駄々子をあやすような調子で言葉を紡いだ。
「明日、≪アイントラート≫本社に来て。レディ・メーヴェが待っているわ」
そう言い残すと、次の瞬間には、女はその場から姿を消していた。
残されたのは、俺一人。
ようやく戻った静寂なる闇夜に身を沈ませつつ、俺は思わず呟いていた。
「……散歩しに来ただけじゃ、なかったじゃないかよ」
――さて、そろそろ自己紹介をしておこう。
俺の名はジュード。ジュード=イスルギ。
人間の母と、≪闇の眷属≫の上級眷属、吸血鬼を父に持つ≪半端者≫。
それが、この俺だ。