東京大学大学院
人文社会系研究科教授
激動の昭和、なぜ日本は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と戦線を拡大させ、戦争を長期化させていったのか。その歴史をさかのぼりながらたどると、第1次世界大戦で戦勝国になって以来、アメリカやソ連との来るべき戦争に向けて着々と準備を進めてきた日本の主体的な選択を底流にしながら、時代の転換点での戦局の見込み違いや軍部統制・外交戦略の誤算が積み重なって、徐々に追い込まれていった構図が見えてくる。
番組では、様々な史料を読み解きながら、天皇や為政者、軍人のみならず庶民を含めた当時の日本人が、戦争をどのようにとらえ、どのような論理で継続していったのかに迫る。
- 1945
- 東京大空襲
沖縄戦
広島に原爆投下
ソ連参戦
長崎に原爆投下
ポツダム宣言受諾(敗戦)
- 1944
-
マリアナ沖海戦
サイパン陥落
東条内閣総辞職
- 1943
- ガダルカナル撤退
- 1942
- ミッドウェー海戦
- 1941
- 南部仏印進駐
東条英機内閣成立
太平洋戦争始まる
(日米開戦)
1941年の日米開戦以来、快進撃を続けてきた日本軍は、ミッドウェー海戦を境に防戦一方となる。そして、1944年6月マリアナ沖海戦で惨敗、7月サイパン陥落。日本本土を守る太平洋上の最重要拠点を失う。開戦責任者だった東条英機内閣は総辞職。しかし、その後も、いつどのような条件で降伏するのか、指導者たちは迷走し、戦争を続けることになる。10月からは必死の特攻作戦が始まり、11月になると、米軍に占領されたサイパンなどマリアナ諸島の基地から飛来する爆撃機によって本土空襲を受けるようになる。1945年の沖縄戦、原爆投下を経てようやくポツダム宣言の受諾に至った。太平洋戦争の戦死者の実に9割が、最後の1年半に集中した。
サイパンの戦跡を巡りながら、なぜ戦争を終わらせることができなかったのかを考える。
東京の下町が猛火に包まれたのは66年前のことでした。1945年3月10日、東京大空襲。アメリカ軍の爆撃機B29が300機以上来襲し、大量の焼夷弾を投下。100万を超える人が被災し、約10万の人が亡くなったと言われています。毎年、東京の各所では追悼行事が営まれています。そのひとつ、台東区の隅田公園で行われた追悼集会を取材しました。
大空襲の直後、隅田川の畔にあるこの公園には、周辺で亡くなった人々の遺体が集められ、仮埋葬所となっていたそうです。集会では、空襲を生き延びた方々の体験談が紹介されました。ある80代の女性は、避難する途中で見た光景を語りました。「母親がお乳を飲ませてそのままの格好で焼け死んでいました。いまだに目に焼き付いて離れません。」この日の参加者、約180人の大半が高齢者。石碑の前で、花を手向け、祈る人々の手には、深い皺が刻まれていました。悲しみ、怒り、願いながら戦後を生きてこられたのでしょう。
いま隅田公園の対岸では、東京スカイツリーの建設が進んでいます。
(番組ディレクター)
サイパン島の北西部、タナパグ海岸は、美しい砂浜が続く、静かな海岸です。1944年7月7日、サイパンの守備隊およそ4000人が、「バンザイ」と叫びながらアメリカ軍に突撃し、玉砕した場所がここでした。当時の写真には、夥しい数の日本兵の遺体が海岸に横たわっている様子が記録されています。碧い海は、血で真っ赤に染まったとも言われています。実は、このバンザイ突撃の前日、守備隊の司令官は全員自決していました。「司令官が、俘虜になるなという戦陣訓と共に、玉砕攻撃命令を出し、諸君等の玉砕は見届けられないけど、自分は先に死ぬと訓辞する。これはやはり異常な事態です」と加藤陽子さんは語ります。
- 1941
- 南部仏印進駐
東条英機内閣成立
太平洋戦争始まる
(日米開戦)
- 1940
- 北部仏印進駐
日独伊三国同盟
- 1938
- 近衛声明
国家総動員法
- 1937
- 日中戦争始まる
1941年、なぜ日本は圧倒的な国力差のあるアメリカとの戦争を決断したのか。加藤さんは、天皇、軍部、政府指導者に共通する日露戦争の記憶に注目する。日露戦争当時、3~4歳だった昭和天皇が、兄弟で戦争ごっこに興じていたことが侍従の日記に記録されている。また硫黄島指揮官・栗林忠道が少年時代、詳細に記録した日露戦争のスケッチや戦地の兄に送った手紙も近年発見された。開戦の最大の推進力となった陸軍や海軍の中堅エリートたちはみな、36年前の日露戦争勝利の興奮と熱狂という共通の世代体験をもつ。
日露戦争時、日本とロシアとの国力差は10倍ほど。同じく10倍ほどの国力差のあるアメリカとの戦争でも、日露戦争と同じ持久戦ではなく短期決戦なら勝機があるとの見込みで開戦に向かったと加藤さんは考える。
長野市松代にある栗林忠道の生家から、数々の遺品が発見されたのは、今から5年前のことでした。少年時代に日露戦争について詳細に記したスケッチ、出征した兄に送った葉書や日記。絵であれ文章であれ、12~3才の子どもが描いたとは信じられない見事な筆致です。いかに聡明な少年であったか、よく伝わってきます。そんな少年が、軍人を志しました。陸軍大学校を2番の成績で卒業し、天皇から恩賜の軍刀を授かり、将校の道を歩みました。1920年代の後半から、米国留学を経験し、欧米諸国を旅しています。その時、兄に送った絵葉書も、遺品から大量に見つかりました。街に立ち並ぶビル群や、車の数を目の当たりにし、「全く驚きます」と素直な感想が綴られています。栗林忠道は、アメリカと日本の圧倒的な国力差を熟知していました。実のところ、アメリカとの戦争をどう考えていたのでしょうか。知識と経験があればこそ、思いは複雑だったはずです。忠道の遺品は、激動の昭和を生きた男の葛藤を物語る貴重な史料でした。
(番組ディレクター)
太平洋戦争の歴史を伝えるアメリカの国立公園です。園内には、サイパンなどマリアナ諸島の戦いで亡くなった米軍兵士を追悼する碑があります。また、園内の少し離れた場所には、サイパン戦で亡くなった先住民チャモロ人とカロリニア人を追悼する碑もあります。そこには、日本語と英語で次のような言葉が刻まれています。「自分の運命は、自分で決めることができない」。日米開戦によって、日本は、アメリカと太平洋の戦略拠点で激しい戦闘を繰り広げることになりました。戦場となった島々には、日本ともアメリカとも異なる固有の文化があり、歴史がありましたが、戦争がそれを破壊し断絶しました。碑文は、日米両国に、その重い責任を問いかけています。
- 1937
- 日中戦争始まる
- 1936
- 二・二六事件
- 1933
- 熱河省侵攻
国際連盟脱退通告
- 1932
- 満州国建国宣言
五・一五事件
- 1931
- 満州事変始まる
1937年の廬溝橋事件から始まった中国との全面戦争。日本軍は、中国との戦いを「報償(日本製品のボイコットなど違法行為への制裁)」と認識し、軍事力に勝る日本が早期決着できると考えていた。その一方で、中国軍は、内戦を続けていた国民党と共産党が抗日で団結し、ドイツの軍事技術の支援を受けていたため、予想以上に強く、戦いは長期化する。実は、中国は当初から、持久戦に持ち込み、米ソの参戦を待つシナリオを描いていた。
日中戦争は、日本も中国も、宣戦布告をせず、「事変」と称した奇妙な“戦争”だった。「戦争」になると、日中双方ともアメリカとの経済的関係を断絶せざるを得なくなり、それを回避したかったからだと加藤さんは分析する。日本は、宣戦布告をしなかったことで、結果的に戦争の長期化を招くジレンマに陥った。
「日本はなぜ中国で戦争をしているのだろうか?」福手豊丸さん(95)は、一兵卒として日中戦争に従軍しているうちに、疑問が膨らんできました。そして、ある日、勇気をもって上官に尋ねると、即座に答えが返ってきました。「中国という国は、いつも内輪騒動をしている。中国人は自分で自分の国を治める力がない。日本は天皇の徳のおかげで世界一の国だ。だから、中国人にも天皇の徳を教えてやり、日本が代わりに国を治めてあげるのだ。」福手さんは、その時点では、「なるほど」と妙に納得したと言います。この体験談は、「戦争とは何か」を知り、考える上で、極めて示唆に富むものではないでしょうか。
加藤陽子さんは言います。「昭和の初め、日本はなぜ戦争を続け、終わらせることができないまま惨禍を拡大させたのか。そこには、どのような論理やレトリックがあったのか。当時の人々の考え方をたどることが重要です。」
(番組ディレクター)
- 1933
- 熱河省侵攻
国際連盟脱退通告
- 1932
- 満州国建国宣言
五・一五事件
- 1931
- 満州事変始まる
- 1928
- 三・一五事件
張作霖爆殺事件
再放送:5月31日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分、22時00分~22時25分
6月 7日(火)5時10分~5時35分、13時05分~13時30分
1931年の満州事変は、中国東北部での勢力拡大を狙う関東軍が起こした謀略事件だった。当時の内閣には、若槻礼次郎や犬養毅など軍部の拡大に反対の立場を唱える政治家が、日本と中国との間での外交交渉で、解決できると考えていた。しかし、頻発するクーデター未遂事件やテロ事件の影響があり、内閣は軍部をコントロールできなくなっていった。
翌年には、日本の傀儡国家・満州国が建国される。中国国民政府主席の蒋介石は、内乱が続く国内での立場を守るため、問題解決を国際連盟に持ち込む。日本と中国の対立が深まり、日本は国際連盟を脱退する道を選ぶ。
満州事変以降、拡大を続ける軍部に苦悩する昭和天皇の姿が、侍従武官長の日記に残されている。新たな軍事作戦、熱河侵攻に一度は裁可を与えたが、直後に、「これを取り消したし」「中止せしめざるや」と後悔。しかし、天皇の権威失墜や陸軍の反抗を恐れた元老らは、作戦中止という天皇の翻意に消極的だった。ここから戦争は拡大長期化の道を歩んでいく。
4月10日、桜ヶ丘公園で、満州開拓団の犠牲者の慰霊祭が営まれました。桜がちょうど見頃となった日曜日。供養と花見を兼ねて、お弁当を持参してきた遺族や関係者もいました。満州とはどんな所だったのか、日本の敗戦とともに何が起こったのか、何人もの方々から話を伺いました。「父親が役人で、開拓団の団長だった。国策で行かされて、敗戦後、国に捨てられた。家族、親戚15人近く亡くなった。」「開拓団で集団自決することになり、みんなに青酸カリが配られた。私も口に入れたけど、子どもだったから、苦くて吐き出してしまった。それで今こうして私だけが生きている。(1945年9月17日、満州国北安省瑞穂村開拓団は集団自決し、495人が亡くなったとされている)」…次から次へと、壮絶な体験談を聞いているうちに、この場に集まっているのは、「生き残った人たちなのだ」と思い知らされました。なかには、子どもや孫を連れてきている人もいました。命は、確実につながっているのです。だからこそ、私たちは、歴史をさかのぼることができるのではないでしょうか。
(番組ディレクター)