東京電力福島第1原発の事故で計画的避難区域に指定された福島県飯舘村。政府が全村避難完了のめどとする31日を目前に、村人はかけがえのないものを残したまま、古里を去ろうとしている。みんなで知恵を絞って築き上げた村立飯樋(いいとい)小学校(児童数85人)もその一つ。伸び伸び育てと願いを込めた「夢の学校」に、子供たちの歓声はいつ戻るのだろう。【内田久光】
飯樋小の校区は阿武隈高地にある村の南部に位置し、震災前は約2000人が暮らしていた。震災後、村内の学校では授業ができなくなり、飯樋小の児童は4月21日から隣町の中学校を間借りして授業を受けている。校区には現在放射線量が最も高い地区が含まれるが、さまざまな事情でまだ地元にとどまっている世帯も少なくない。
30日朝、中学校へ向かうスクールバスが飯樋小前に到着した。5年生の熊川恵美(めぐみ)さん(10)は「この校舎でみんなと遊ぶのが好きだったのに。早く戻りたい」と、寂しそうにバスに乗り込んだ。スクールバスの運行は6月10日で終わるため、熊川さん一家もその頃までには村を離れるという。
04年に新築した校舎は木材がふんだんに使われ、温かみのある外観だ。「それぞれの発育に合った環境を」と、学年ごとの特性に配慮した教室設計を取り入れ、各地から視察も相次いでいた。「どこの人にも自慢できる日本一の学校。原発事故で失うものがあまりに多過ぎる」。区長の細山利文さん(62)は悔しがる。
学校は1873(明治6)年の創立。耐震化が計画された02年、「21世紀にふさわしい、地域に開かれた学校」をつくろうと、設計業者のほか教職員や児童、住民も加わり話し合いを重ねた。「おらが子供の時と同じように遊ばせてえ」という保護者やお年寄りの思いを受け止め、校舎の中に木登り棒を立てた。教室などには自由に遊べる「隠れ家」を作った。
「村づくりは人づくり、との思いがあった。子供たちが村の希望だった」。そう振り返る細山さんも29日、村が避難先としている猪苗代町のホテルに移った。飯樋小を卒業した次男(34)が東京から村に戻り、1月に家業の美容院を継いでくれたばかりだった。
雨の中、スクールバスを見送った竹之下道子校長(54)は静まり返った校舎で一人、目を潤ませた。「学校を通して地域が一つになっていた。子供たちも、地元のつながりが大好きだった。やるせない思いでいっぱいです」
政府は4月22日、警戒区域の外側にありながら積算放射線量が年間20ミリシーベルトに達する恐れのある福島県内5市町村の全域または一部を「計画的避難区域」に指定。5月下旬をめどに避難するよう自治体に要請した。原発事故直後に風下に位置していた飯舘村は放射線量が高く、全域が指定を受けた。
村はアンケートで村民の意向を集約し、乳幼児や18歳未満の子がいる世帯、放射線量が特に高い地域の村民らから順番に1次避難先を紹介してきた。しかし、村のあっせんと村民の希望との間でミスマッチが続出した。
このため避難は大幅に遅れており、村によると、18歳未満も含め1000人以上が5月31日以降も村にとどまる可能性があるという。【山本将克】
毎日新聞 2011年5月30日 東京夕刊