不十分だったリスク・コミュニケーション
43人の犠牲者
1991年6月3日16時すぎ、雲仙岳から発生した火砕流に43人が飲み込まれて死亡しました。犠牲になったのは、報道記者とカメラマン、彼らを乗せていたタクシー運転手、それから地域の消防団員などでした。全身にやけどを負ってよろめきながら歩いて逃げてくる人たちの映像が、夕方のテレビニュースで流れました。それは、直視するに耐えない悲惨な映像でした。
私は、この惨事前の一週間、島原に滞在していました。溶岩ドームから繰り返し発生して日ごとに到達距離を伸ばしていた火砕流のリスクをよくわかっていました。あの火砕流に飲み込まれれば死ぬことを知っていました。
火砕流の映像をとるためと火山監視のために大勢の人が入り込んでいた北上木場の「定点」に火砕流が達するのは、時間の問題でした。夜間は無人だろうが、昼間は誰かが「定点」にいるだろう。したがって、「定点」で人が火砕流に飲み込まれる確率は50%程度であろうと、リスク評価していました。
いまでこそ火砕流の恐ろしさは日本国民が共有する知識となりましたが、あのときは火山学者しか知らない知識でした。火山学者は、火砕流のリスクを事前に認知していたのですが、それを社会にうまく伝達することができませんでした。リスク情報を迅速に正しく伝達するためには、伝達する側と受け取る側の双方が十分なコミュニケーション能力をもっている必要があります。あのときは、双方ともが、その能力を欠いていました。
南東から見た雲仙岳 雲仙岳は島原半島の真ん中にあります。1991年噴火によってできた平成新山(1486メートル)が、普賢岳(1359メートル)を抜いて最高峰になりました。溶岩ドームを取り巻く平滑な崖錐(がいすい)斜面は落石によって生じたものです。その下に、土石流によってつくられた扇状地があります。国土地理院の数値地図50メートルメッシュ(標高)データを用いて、カシミール3Dで作成しました。
溶岩ドームから火砕流へ
雲仙岳は1990年11月に噴煙を上げました。それは1792年の「島原大変肥後迷惑」以来、198年ぶりの噴火でした。
その後の半年間は小さな水蒸気爆発に留まっていましたが、5月20日、山頂に溶岩ドームが出現しました。溶岩ドームは、高温のマグマが地表に届いたことを意味します。このときは、誰もが1792年の新焼溶岩の再来になると思ったようです。
しかし24日、民放テレビ局がその日の朝に撮った溶岩崩落の映像を昼間と夕方のニュースで流しました。これをみて、火山専門家の多くが震撼しました。雲仙岳の過去の噴火では知られていなかった火砕流だったのです。
火砕流は日ごとに到達距離を伸ばしました。26日午前には大きな火砕流が連続発生しました。作業員二人がこれに巻き込まれて腕にやけどを負いました。やけどは死んだも同然。これがよい警鐘になるだろう、以後は近寄らないだろうと私は期待しましたが、現実は逆でした。やけど程度で済むのだから火砕流はたしたことないと人々は思ってしまったのでした。
29日午後にも大きな火砕流が発生して山火事を起こしました。火砕流の高温化は確実に進んでいたのですが、その後は梅雨本番となり、雨が続いて山頂がよく見えない状態で運命の6月3日に至りました。
リスク・コミュニケーション
リスクの軽減は、認知・評価・管理の三段階で行われます。リスク認知は、たとえば「溶岩ドームから火砕流が発生している。これに飲み込まれると死亡する」などの具体的なイメージからなる情報です。リスク評価は、たとえば「いまから24時間以内に火砕流が「定点」に達する確率は○%」などのように数量的に表現された情報です。評価したリスクの特徴や重みに従って、もっとも効率的な対応策を立案することがリスク管理です。
しかしリスク専門家が上記三段階を実行するだけでは、多くの場合、リスクを軽減することができません。リスクにさらされている人にそれを理解してもらうことが必要です。火山リスクの場合は、住民の理解を求めます。それは、専門家が住民に情報を渡すことから始まる双方向のコミュニケーションとして行われます。このリスク・コミュニケーションは、専門家にとって時間がかかるめんどうな仕事です。一方、日々の生活に追われている住民にとっても、予期しなかった余計な負担です。双方が忍耐をもってこれをこなさなければなりません。関心と意欲を欠き、他から与えられるのを待っている姿勢に住民が留まっているあいだは、リスクを軽減することができません。
リスク情報の受け手である住民は、二つのリテラシーを身につけなければなりません。第一は、科学を理解する能力である科学リテラシーです。第二は、マスメディアが情報にどのような加工を加えるのか、そしてマスメディアの伝え方にはどのような特徴があるのかを理解する能力であるメディアリテラシーです。どちらも、事実と意見を区別して認識するために必要です。情報を鵜呑みにせず、それを批判的に読み解く能力を、身につけなければなりません。
火山の麓にすむ住民は、リスクについて次のポイントをよく理解することが必要です。
(1)絶対に安全(ゼロリスク)はありません。日常生活も含めて、すべての行動には多かれ少なかれリスクが伴います。自宅にいても事故死するリスクがあります。
(2)リスクとベネフィット(利益)の両方を考える必要があります。得られるベネフィットが大きいなら、多少のリスクを冒すことは正当な選択です。
(3)リスクについて確実なことを捜し求めてはなりません。リスクを取り扱うとき、あいまいを避けて通ることはできません。
1991年9月15日の火砕流で焼かれた大野木場小学校。校庭に厚さ10センチ足らずの堆積物が残されている(紫色の地層)。
パニック神話
雲仙岳で初めての火砕流が発生した翌日25日の午後、九州大学の島原地震火山観測所に集まった専門家たちは、夕刻に発表する火山情報の中で火砕流という語を使うかどうかを、長い時間かけて議論しました。火砕流の語を使うことによって、パニックが生じることを恐れたのです。
「火砕流を百科事典で引く。1902年にモンプレー火山で2万8000人が焼け死んだ事例がすぐ出てくる。島原は大騒ぎになる。」日本全国に散らばる予知連委員との電話会議の中で、このような意見も出ました。1977年の有珠山噴火のときに、同様のことを恐れて火砕流という言葉を封印した苦い記憶もそこにいた複数の専門家の頭をよぎりました。
パニックが起こるのではないかと恐れて情報を出し渋ることを、心理学ではパニック神話と呼んでいます。情報を出すことによってパニックが生じた例は、じつはほとんどありません。そのような心配は無用です。むしろ専門家が詳しい情報を迅速かつ定期的に出すことによって、専門家と住民の間に信頼関係が生まれ、よりよいリスク・コミュニケーションが生まれます。
あのときは、火山専門家の間にこのような心理学の知識が共有されていませんでした。いかに穏やかに火砕流発生の事実を伝えるかに長時間腐心した結果、火山情報の末尾に次の文が添えられました。「なお、九州大学、地質調査所等の調査によれば24日08時08分頃の崩落現象は小規模な火砕流であったとのことです。」情報発表後に気象庁本庁で行われた記者説明会では、この記述について、深刻な事態でないことが言い添えられたといいます。
正常性バイアス
火山専門家たちの心配はまったくの杞憂でした。住民だけでなくメディアも、火砕流という語の意味する深刻さを理解できなかったのです。
テレビは、火砕流という聞きなれない火山現象を、図解を交えて百科事典に書いてあるとおりにスタジオのアンカーマンが説明しましたが、その一方で「定点」における自社取材を継続しました。カメラマンが撮影した迫真の映像が次から次へと放送され、記者がそこから平然とレポートし続けました。
カメラマンはファインダーをのぞくと人格が変わると言いますから、自分の身に忍び寄るリスクに気付くのが遅れるかもしれません。しかし、冷静に言語でレポートすることが仕事であるはずの記者までもが、みずからの身体に迫っている火砕流のリスクに気付けなかったのです。
この不可解な行動は、正常性バイアスという概念で説明することができます。危機的な状況に立たされたとき、人はそれを日常の延長としてとらえて、それほど危険ではないと歪めて認知したいと思いがちです。この身勝手な楽観視は、自然災害リスクを認知するときに起こりやすいことが知られています。
同じ災害でも、原子力発電所や化学工場などで起こる科学技術の事故すなわち人為災害では正常性バイアスが少なく、むしろ過剰なリスク認知が起こります。人々は自然災害の発生頻度を実際のそれより低く見積る一方で、人為災害の発生頻度を実際のそれより高く見積る傾向にあります。
高温の溶岩ドームから発生した落石。これはごく小規模で、火砕流に至っていない。(1991年12月1日)
集団の意思決定
雲仙岳の惨事を引き起こした心理学的要因は、まだあります。「三人よれば文殊の知恵」ということわざがありますが、組織において、そのようなことはあまり期待できません。集団の意思決定は、その集団の中の有能な個人の決定より優れたものに必ずしもならないことが組織心理学でよく知られています。
集団が意思決定するときに、メンバー個人が持つ批判的な思考能力が集団の話し合いの中で失われてしまい、過度に危険な決定を集団が下してしまう集団浅慮という現象が起こることがめずらしくありません。伝えるべきリスクがあると判断する個人が組織の中にいても、その個人の行動が組織の中で評価されないならば、その個人はリスクを伝えることを控えてしまうでしょう。
集団の意思決定は、個人でする決定よりも時間がかかります。これは、火山危機においてしばしば致命的になります。意思決定するまでに許された時間は短いことがふつうですし、その期限も知らされていません。次の瞬間には爆発するかもしれない恐怖を感じつつ、意思決定することになります。
日本では、内閣府・気象庁・大学など複数の組織が協力して火山防災にあたることになっています。このように誰が責任を取るかはっきりしていない場合は、組織間あるいは組織内個人間で責任の押し付け合いが起こることがあります。これは社会的手抜きと呼ばれる現象です。5月24日の火山情報の末尾に追記された一文に、この実例をみることができるようです。
この原稿は2年前に書いたものです。いま読み返しても内容に直すべきところがみつかりません。文章表現にわずかに手を加えただけで、ここに公開します。