2011年5月15日(日)、NHK教育テレビで放送された番組「ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2か月~」は福島原発事故後2ヶ月経過する状況を描くドキュメンタリだ。ちなみに再放送は、5月20日(木)午前1:30~(総合テレ ビ)。これを5回にわけて文字に起こしていく。
4回目は、特別な機器を用いて、住人が残る地域の放射線を詳しく調査。また今中哲二氏の京大と広島大による学術調査班による飯舘村土壌汚染調査の悲劇的な結果を伝えている。農家の怒りは東電と国に向けられている。
このエントリーは、以下のエントリーの続きです。
文字おこし(3)『NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」〜福島原発事故から2ヶ月〜』
(文字おこし、続き)
「ないですよ。ただ、ネットで流れてるだけだと思いますけれどもね。例えばこういうふうに文科省から正式な文章で、こういうふうな数値になってますと、いうようなことはないですから、情報を提供はなかったです。うん。なかったです。はい。」
「そのことどう思われますか?」
「うんだから……どうなんですかね、ええ……その……責任の所在がもう寡少にあるのか、経産省にあるのか、あの……安全保安院にあるのか、それが一元化されていない、ですよね」
赤宇木集会所の人たちの中にはスクリーニングを受けた結果、基準値を超え、除染が必要になった人もいました。
文部科学省に取材したところ、地名を伏せていたのは風評が広がることを恐れたからということでした。
しかし、最も危険にさらされていることに、その危険を知らせることは最優先の課題だったはずです。
赤宇木は情報が届かない、穴ぼこのような場所でした。
文字「4月20日」
原発から27キロも離れた赤宇木で、なぜ高濃度の放射能汚染が続くのか。
4月下旬、岡野雅治さんが現地に向かい調査に乗り出すことになりました。
岡野さんが車に持ち込んだのはビデオカメラに撮った映像に、
刻々の放射線量と時間と位置が記録されるシステムです。
画面の下の方にあるバーグラフが放射線量の変化を表します。
更にこの映像には30秒ごとに記録されたスペクトル、つまりどのような放射性核種があるかが上乗せされます。
例えばこの赤い部分はセシウム134と137のピークです。
文字「4月21日」
岡野さんが、まず原発から8キロにある浪江町の中心部に向かいました。赤宇木の集会所にいた人々の自宅がある地区です。
事故後、避難の指示が出され、地震の傷跡もそのままに無人となっています。
驚いたことに映像の中の線量計は、思ったほど触れません。
JR常磐線浪江駅。ここで測定された放射線量は、1時間あたり1マイクロシーベルト、同じ時期の赤宇木地区のおよそ20分の1です。
岡野さんが、アスファルトの多い町中では、放射能が雨などで洗い流され放射線量は下がりやすいと言います。
「大体0.8マイクロから1マイクロの間ですから、かなり線量としては低いですねえ。こんなに近いところでこんなに低くなってるというのは想像してなかったです。」
浪江の中心部と赤宇木地区を結ぶ、国道114号線を走ってみました。
街中では放射線の値は大きく有りません。
やがて道路は緩やかな勾配を登りながら、川に沿ってできた谷間に入っていきます。
20キロ圏を出たあたりから線量が上がり始め、バーグラフは振り切れました。スペクトルは表示されなくなります。
「30マイクロを振り切れましたね。40マイクロから、いや40マイクロですね。先生の、鳴りっ放しということですねえ。」
「ピーっていっちゃってるからこれもうオーバーフローと。バーグラフは生きてるけどねえ。」
「高いですね。やっぱり20キロ圏超えたあたりから40マイクロっていうのはやっぱり高いと思いますよ。」
「原発前が70マイクロマイクロシーベルト、パーアワーですねでその半分以上の地点が、あのー、40マイクロですからねえ。」
20キロ圏内が立ち入り禁止になる前日だったため、荷物を取りに自宅に帰る避難民の車が目立ちます。
これは岡野さんの装置が記録した、この谷の汚染状況です。
20キロにも渡り高濃度の放射能が沈着していることがわかります。
岡野さんは川沿いの谷間では天候の変化が激しいことと関係したのではないかと見ています。
3月12日の1号機の爆発後、風は北向きに吹いていました。
14日の3号機の爆発後南向きに変わり放射能はいわき、東京方面に向かいました。
15日朝6時の2号機の爆発後、風向きは北西に変わり福島市では午後5時に放射線量は急上昇します。赤宇木を襲った放射能はこの風に運ばれたと思われます。
15日、夜半の冷え込みで谷には雪が振りました。狭い谷間に滞留していた放射能は雪に補足されて地表に落ち、土壌や植物に吸着されていきます。
赤宇木の集会所にいた岩倉さんに日記によれば、2週間で4日間、この谷に雨や雪が降っています。
この放射能の流れは、国道114号線が行き着く福島市へと続き、一部は分岐して飯舘村に入りました。
浪江町を貫いた国道114号線から399号線に入り、北上するとやがて峠にさしかかります。
文部科学省のモニタリングポストが点在するこのあたりもホットスポットです。
峠を下ると飯舘村です。人口はおよそ6000人。働き手の3分の1が農業を営んでいます。
ここ飯舘村では、京都大学と広島大学を中心とした学術調査団が3月下旬から汚染状況を調べ始めていました。
「14」
「いくつですか」
「14、14マイクロシーベルトパーアワー」
調査団は村役場の協力のもと村内の汚染状況の全貌をつかもうとしていました。
村内の主要道路から130箇所もの地点を選び、放射線量を測定していきます。
汚染の深刻さは調査団の予想を超えていました。
「30」
「んー、現実とは思えないね、これは」
「私は今ここで起きてる汚染が、どういうものかをきちんと特定して、あのー、測定して記録する。そして歴史に残す。これが僕の仕事です」
村の大半は30キロ圏外にあるため、避難地域に指定されていませんでした。しかし、強い放射線が測定されました。土壌に吸収された放射性物質の種類によっては、汚染が長期化することにもなりかねません。
調査団は、村内5箇所で、放射性物質の種類を特定しました。
4月上旬に公表された報告書です。
30箇所で計測した放射線量から汚染マップが作られました。汚染は村の全域に及んでいました。
測定された線量には幅がありました。
北部に比べ赤宇木地区と接した南部一帯は、大きな値を示しています。土壌からは最出点全てで、半減期30年のセシウム137が検出。汚染の長期化は農業が盛んな飯舘村にとっては死活問題です。
いつもなら農繁期となる4月を迎えても、飯舘村の田畑に人影はありませんでした。
「ごめんくださーい。」
多くの農家が田植えの準備も出来ずに入ると聞き、訪ねてみることにしました。
飯舘村の専業農家菅野宗夫さんです。
土壌汚染が明らかになり、村では今年は農作物の作付を一切行わないことを決めていました。
「今は水に浸している時期なんです。なんにもできなくて」
夫婦にとって田植えができなくなったのは人生で初めてだといいます。
「素もみのままだよね、まだ。種もみには罪はないよねー。ほんとに種もみに罪はない」
「これ全部。これも。目が出るとタラの芽になるんです」
汚染をおそれ、山菜を口にすることもやめました。
「全部駄目」
大地の豊かな恵みを糧に暮らしてきた村でした。放射能がその大地に降り注がれたのです。
「ほんとにあの清流だからヤマメ、イワナがいるわけよ。それで4月の1日(いっぴ)解禁なんだけれども。普通なら解禁。釣り情報か、関係で、ここは、あのー、来るんだよね。ところが今年は全然来ない。」
「ヤマメとイワナがいるんだよ。いっぱいいるんだよ。」
「ここにここにいるの。ここの石ん中に。日中遊んで夕方もどってくる。」
「ほんとにいるんだよ。」
「もうこれがもうだめなんだ。」
河野さんは農薬の使用を減らしたより安全な農作物を都会の消費者へ届けてきました。それももう、できなくなりました。
「自然が全て売り物。まあそういう事でなさけないなさけない、まったく情けないんだ。」
「怒りはもうほんとにどこにぶつけていればわからないんだけれども、やはりあの、国策だから、」
「やっぱり、東電、国、当然、」
「農家はいっつも、よわいねえ。(奥さんの声)」
「うん。」
農家にとって土を奪われることは生活手段を奪われることにほかなりません。
(文字おこし、ここまで。以下のエントリーに続く)
文字おこし(5)『NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」〜福島原発事故から2ヶ月〜』
(関連エントリー)
【動画全まとめ】NHK ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」~福島原発事故から2ヶ月~
(参考動画)
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30箇所
は130箇所だよ
ビデオみながら読ませてもらってる
でもここすごいね!
Great!