1994年3月16日にNHKが放送した、「現代史スクープドキュメント 原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~」を3回に分けて文字に起こした。今回は第2回目。ビキニ水爆実験で被ばくした第五福竜丸の船長が放射能症で死亡。世界に先駆けて商業用原発を開発したソビエトが勢力を強める中、日本でも共産や社会主義が勢力を増した。そんな中、読売新聞の柴田と正力は、アメリカの軍需産業の社長を、核の平和利用のために民間施設団として招くことにした。
このエントリーは、以下のエントリーからの続きである。
原発導入のシナリオ〜冷戦下の対日原子力戦略〜|現代史スクープドキュメント(NHK)文字おこし(1)
(文字起こし、始め)
ワトソンによれば、会談は第五福竜丸事件の起きる前からすでに行われていたという。
字幕「ダニエル・ワトソン」
「正力は実に鋭い男で、的確な質問をしてきました。私はすぐに本題に入り、原子力の平和利用について話をしました。日本は原子力の平和利用にうってつけの国である。なぜなら国内にエネルギー源がほとんどない。それが私の話のポイントでした。すると私の話を聞いていた正力は目を輝かせたのです。」
なぜこのとき正力は、原子力にそれほどの興味を示したのだろうか。
字幕「経産省工業技術院 初代原子力課長 堀純郎さん」
「日本が非常に貧乏してると。ってこれはこの非常に貧困、貧困の結果、共産化するかもしれないと。特にエネルギーが不足してると。そのために貧乏して共産化する恐れがあると。これをなんとか防がなくちゃいかんと。」
「それには、あー、将来原子力というものが、エネルギーとして将来有能だと聞いてると。だから、これを開発して、エネルギーを豊富にして、貧乏を救済し、ひいては共産化を防ぎたいと。」
アメリカの水爆実験から半年後、第五福竜丸の船長だった久保山愛吉さんが死亡。
字幕「久保山愛吉さんが死亡(1954年8月23日)」
死因は放射能症とされた。
アメリカを避難する世論は更に高まった。水爆実験に対する日本人の強い反発にどう対処すべきか。
アメリカの方針が列記されたホワイトハウスの文書には次のような一説がある。
「漁民の病気の原因は放射能ではなく、飛び散った珊瑚礁の化学作用によるものであるとせよ。」
水爆実験の責任をとろうとしないアメリカに対し抗議運動が広まっていった。
社会党や共産党など左翼勢力はアメリカを戦争精力と位置づけ、アメリカと結びついた保守勢力に対して攻撃を強めていった。
アメリカは日本の政治情勢に神経を尖らせていた。極東での反共の砦となるべき日本の政治基盤が安定しないことを懸念していたのである。
字幕「アメリカ国務省」字幕「元 国務省日本課 リチャード・フィン」
「アメリカに対して友好的だった吉田政権は弱体化する一方でした。これに対しアメリカの核実験を非難することにより勢力を増し、日本を乗っ取る危険さえ生まれていました。」
ソビエトもまたこうした日本の情勢に注目していた。日ソの国交の回復を果たし、日本をアメリカから引き離す好機と捉えていたのである。
当時のフルシチョフ書記長はソビエトの対日政策について次のような証言を残している。
字幕「声 フルシチョフ書記長」
「日本には、米に対する大きな不満があった。」
「広島と長崎に原爆を落としたのは、他ならぬアメリカだ」
「被爆者やその家族、政治家は強い不満を持っていたのだ」
「もし、わがソビエトの大使館が東京に出来ればー」
「日本の政治に不満を持つこれらの人々が」
「我々の大使館に接触してくるようになるだろう」
内外の政治情勢が緊迫する中、柴田はワトソンと銀座で会い、ひとつの計画を持ちかけた。
それは民間使節の形をとった原子力平和使節団をアメリカから招き、原子力の平和利用を広く一般国民のPRしようというものであった。
字幕「原子力平和利用使節団」
字幕「ダニエル・ワトソン」
「柴田にカネはあるのかと尋ねると十分にあると答えました。ではプロデュースをこちらでやろうかというとそれも自分たちでやるというのです。私もそれに賛成でした。そこで私はジェネラルダイナミクス社と連絡をとり始めたのです。」
その年1月、アメリカは世界に先駆けて原子力潜水艦ノーチラスを完成させた。
字幕「ノーチラス進水式 (1954年1月21日)」
ゼネラルダイナミクス社はその開発メーカーであった。
ゼネラル・ダイナミクス社の社長、ジョン・ホプキンスは、原子力平和利用計画に熱心で、海外での市場開拓を財界で提唱している人物であった。
柴田はアメリカのテレビ関係者などを通じて、ホプキンスと連絡を取り、平和使節として来日するよう正力の意向を伝えた。
「原子力平和利用の先覚者たる貴下の訪日こそは、この際、期せずしてアメリカ側からする最も効果的な反撃となることは、小生の深く確信するところであります。」
明けて1955年、読売新聞は元日の朝刊にアメリカ原子力平和使節団の招聘を告げる社告を掲載した。これ以後5ヶ月にわたり原子力平和利用のキャンペーン記事が、度々読売新聞紙上に登場することになる。
字幕「柴田秀利の手記より」
「読売も日本テレビも共に特別調査班を作り、両社を上げて、使節団を受け入れる世論づくりに邁進した。私は新聞とテレビの両メディアを相呼応させて活用する本格的な大キャンペーン開始の時が来たことを確信。精魂を傾けていった。」
字幕「オブニンスク原発(ソビエト)」
このころソビエトは世界初商業用原子力発電所の稼働に成功し、アメリカを驚かせた。そして諸外国に対し原子力平和利用の技術援助を行う容易があることを明らかにした。
アメリカではまだ最初の商業用原発の建設が始まったばかりだった。アメリカは大きな政策転換をはかった。アイゼンハワーは原子力の国際管理案を、いったん棚上げする。そして西側友好国に対し、アメリカが個別に2国間で協定を結ぶという方針を打ち出したのである。
アメリカは協定締結国に対し、濃縮ウランや原子力の技術情報を供与することになった。アメリカは濃縮ウランを外交カードとして各国をアメリカの勢力下におこうとしたのである。
アメリカ原子力委員会は日本政府とも原子力協定を結ぼうと、ワシントンで日本側に対する打診を行っていた。
字幕「元 原子力委員会 国際部長 ジョン・ホール」
当時の原子力委員会国際部長ジョンホールは、日本政府と公式な交渉を始める時期を模索していた。
「第五福竜丸事件のせいで日本人が神経過敏になっていることはよくわかっていました。第五福竜丸事件の決着と原子力協定の公式交渉の時期が重なることは避けるべきだ思いました。そこで交渉の時期を遅らせて、春にすべきだと私は提案しました。春ならば交渉妥結後、すぐに議会の承認を得ることもできるからです。」
昭和29年、日本政府は2億3500万円の原子力研究予算を成立させていた。しかし学会には原子力に対する反発が根強くウラン入手のめどすら立たない状態が続いていた。
アメリカからの提案はこうした状況に突破口を開くものだった。
(続く)
(文字おこし、ここまで)
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1. NHK現代史スクープ『原発導入のシナリオ~冷戦下の対日原子力戦略~』
- [nakao312EXblog ★明日死ぬと思って生きろ! 永遠に生きると思って学べ!!★]
- 2011年05月30日 20:50
- 3分割されてるが、これ見ると原発が導入された当時の状況が非常に良く理解できる。 時間がない人は、文字起こし1・2・3を是非ご覧あれ!