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プロフィール
HN:
運ちゃん
性別:
男性
職業:
リーマン
趣味:
バイクとタバコと読書
自己紹介:
非活になって、早10年。
創価学会の事や公明党の事、そして仏法などを常識目線で考えていく努力をしています。
おかしいものは、おかしいと言えなきゃダメですね。
あと自分の頭で良く考えましょう。
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想学サロン2.0
非活の壮年部が、今の組織についてつづります 
ようこそ!!
「想学サロン2.0」へようこそ。
過去には一生懸命活動に励んでいた時期もありましたが、十年程前に
創価学会っておかしくないかい??
という疑問を持ち始めてかr、少しづつ活動から遠ざかり、今では非活の壮年部となり、組織ではアンタッチャブルな存在となっています。

このブログでは、僕が日常考えている事や感じる事を、僕の目線で綴って行きます。
お時間のある方は、是非ともお立ち寄り下さい。
ついでにコメントを残していただけるとうれしいです。

このブログでは、以下の事は禁止とします。
1)口汚く罵る行為
2)いわゆる「荒し」の行為
3)無意味な「理屈をこねるだけの議論」
僕の方針としては、極力排除はしたくないのですが、ブログ主として「不適切」だと判断した場合には、即刻削除をも辞しませんので、よろしくお願いします。

また、何かご質問やご相談がある場合には、以下のメアドへメールを下さい。

sougaku_salon@yahoo.co.jp

では、よろしくお願いします。

【ツイッターもはじめてみました】
チャットもままなりませんが、ツイッターも試しに開いてみました。
http://twitter.com/sougaku_salon/

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デザインセンスが悪いと言わないで下さいね。

想学サロン-ポータルサイト(Β版)

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(ちなみに通話はNGです)

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以前にHN:希望さんというお方のブログです。
現役大学教職員で、学術部。中央とのパイプのある方のようです。

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こんばんは。

考えてみればこの忍者ブログに移転してから3年半以上経過しました。
その中で様々な事を書いてきましたが、最近ではもう書く事もないかという感じが自分の中でフツフツと出てきています。

そろそろこのブログについても、少し模様替えをしようかと思っています。

過去、記事を書く中で沢山のコメントを頂き、僕自身も様々考えたりしましたし、また多くの方がコメントを書き、参加し、この場から消えていきました。

この消えたというのは、様々な状況もありますので、動きとしては消えたという表現をしていますが・・・・

最近、日蓮さんの御書「立正安国論」について読み始めているという事、このブログでも書きましたし、別の談話室にも書きました。

そうした中で、僕自身は再度、日蓮さんの仏法(というか、御書でしょうか)と向き合っています。

またここ最近では「最澄再考」とか、様々な歴史書などに眼を通しています。

そんな中で日蓮大聖人の仏法(と呼んでいいものかどうか)に対する認識も変わりつつある実感がします。

一応、このブログの今後についてですが。。。。

過去の記事については、一度すべてを削除します。

そしてログ内容については「ポータルサイト」に順次、今までの記録として保存をしていこうと思います。

頂いたコメントも含めてですが、、、、結構大きな量となっていますので、時間がかかりますが、HP上に順次移行します。

そしてこのブログについては、更新頻度はあまりあがらないと思いますが、都度感じた内容について書いていくものにしようと思います。
(内容は創価学会以外の話題を主体にする事を考えています。)

また皆さんの意見交換の場である「談話室」については継続はします。
(僕自身は「管理人」ですから、スレッドの新規立てやコメントの管理を主体で行いますが、内容については参加者の方にお任せしようと思います。まあ現状既にそんな状況ですが・・・・)

そして僕自身は、今後、より教学的な内容に対して進むつもりです。
これは僕のライフワークと考えていますので。

つらつら書いてしまいましたが、ブログのリニューアルはそろそろ着手します。またその時点で過去記事は一旦全削除となります。

それによりブログの露出度は下がると思いますが、それはそれという事で。

以上、よろしくお願いします。
 

こんばんは。
 
一時期にくらべて、ここ最近ではブログの更新がめっきり減ったと感じています。
ブログ左上のカレンダーを見ても、今月は2回しか更新してなかったんですね。
 
いやいやいや・・・・・失礼しました。
 
さて今日は最近考えている事を、漠然と書かせてもらいます。
 
先日の日曜日、近所の図書館に行って幾つか書籍を借用してきました。
 
今読んでいるのは「最澄再考」という本。
 
これは最澄(伝教大師)の事と日本の天台宗について書かれている本ですが、何故これを借りたかと言うと、日蓮さんの御書を読んだりする際、やはり日本の天台宗の概要くらいはつかんでおいた方が良いかと思ったからです。
 
しかし読んでみて思ったのは、創価学会で教学を勉強したといっても、それは仏教の隅っこを少し齧った程度しかないという事ですね。
 
ここからが僕の感じた事なんですけどね。
 
もしかしたら釈迦という人物は、今の仏教の立ち上げ部のエッセンスについて、説いた人物にしか過ぎないのではないかという事。
(いやいや、、、これはこれで大変重要なんですけどね)
 
そしてそこから現在まで3千年近く経過していますが、仏教というのはその間に釈迦の教えに触発され、思考し行動した数多の人が構築した思想の結晶なのではないかと言う事。
 
ネットでもそうですが、やはり法華経の非仏説というのは事実でしょう。
 
いや、法華経ばかりではなく、よくいう原始仏教以外は直説は無いというものなのかもしれません。
 
でもそれから現代に至るまでの間、この釈迦の教えをはじめとして、様々な人師・論師が、釈迦の教説をキッカケに思想を深め、体系化し、作り上げたものが仏教なんでしょうね。
 
何故この様に考えたかと言えば、いま読んでいる「最澄再考」の中で概略として説明されている仏教の内容というか体系というのはとても膨大であり、簡単には全てをつかみきれるものではないという事を肌身に感じて実感しているからなんですね。
 
ある意味で人類の叡智といってもいいかもしれません。
 
学問というか学術というか、、、これは大したものなんですね。
(まあ、当たり前の事ではありますが・・・・)
 
まあ、それはそれとしながらも。
 
そういった思想体系を持つ仏教というか、そこにある仏法を自分の人生の中にいかに取り入れ血肉化していくかというと、これはまたこれで大変なものでして・・・一言でいえば、簡単ではありません。
 
「お題目を唱えて、ひたすら学会活動に励めば、自分の血肉とする事が出来る!直達正観なんだ!」
 
そんなものではないですね。
 
だって、学会活動というのは所詮は政治団体&コミュニティの活動であって、仏教の修行にはなっていないと思うからです。
 
なぜかといえば、、、そうですね。。。。
軸がずれているというか、根っこが違うと感じるからです。
 
所詮は「池田哲学」を基にした「仏教もどき」なのかもしれません。
だって名誉会長のスピーチなんか読んでも、御書の切り文と西洋哲学のパッチワークでしかないでしょう。
内容なんか、仏教哲学の視点から言えば、ものすごく浅いものでしかありません。(何故、世界が賞賛なんて言えるのか??)
 
学んでもあまり得るものはないかなぁ・・・
それを今回の本を読む中で、改めて感じた次第です。
 
僕は学問としての仏法には興味はありません。
やはり人生の中で、自分をより深く掘り下げてみたいし、自分自身もっともっと強くなっていきたい。
 
そういう「個人的な思い」で、今後も仏法については学ぶつもりです。
 
でも仏法を学ぶ上で大事なのは、やはり人生を噛み締めていくという事ではないでしょうか。
 
生きていく上では、人生には様々な苦難というのはある意味で付き物です。
それを避けて行ける人生はないのかもしれません。
 
苦難の度合いというのは、それは人それぞれです。
同じものは無いと思います。
 
ある人は仕事で悩み。
ある人は家庭で悩み。
ある人は地域で悩み。
ある人は病気で悩み。
 
挙げれば切がないと思います。
 
でも「悩み」があるから、自分の人生というものを直視する機会が増えます。
そして直視するからこそ、乗り越えるべきものが見えてくると思うんです。
 
その乗り越えるものが見えた時、仏法というのが大事な「支え」になるのではないでしょうか?
 
けして「人まかせ・他者まかせ」という「他力本願的」なものではなく、自分自身に内在する可能性というのを引き出す「支え」として。
 
それだけの人類の叡智がつまっているのが、実は仏法だったりして。
 
すみません。
 
今日の記事は何か「ダラダラ感満載」なものですが、今の僕が考えているのはそういった内容です。
 
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
 
これからもよろしくお願いします。
 
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こんばんは。

東日本大震災の傷跡がまだまだ癒えぬ中、日本の社会もかなり意識的に変わってきた気もしますが、皆さんはいかがお過ごしですか?

生活パターンが、やはり3.11以降は変化していますよね。

また福島第一原子力発電所の放射能問題に関しては、良くなるところか悪化する一方という感じも否めません。
実際に関東近郊では基準値を超える放射能がお茶や下水処理施設からも検出されたりして・・・・

「本当のところはどうなのか?」

これが一番、皆が知りたい事ではないかとも感じたりします。

さて今日は、最近も聖教の四面座談会にあったフレーズ。
「師とともに○○~」という事について、少し記事を書いてみたいと思います。

しかし・・・・本当に最近の聖教新聞紙面というのは、以前の顕正会新聞といいますか、はたまたオウム真理教の信徒の台詞に似た感じを受けてしまいます。

こんな違和感を感じているのは、僕だけ??と思ったりしますが・・・

そんなに今の創価学会員の活動家は「師匠と同化」したいのでしょうか?
どうも見る視点が違うと思うのは、はたして僕だけですか?

確かに仏法に限らず、世間一般でも「師匠」というのは存在しますし、とても大事な関係ではあります。

でも例えばですが、僕の場合にも「仕事上の師匠」と思っている人は確かにいます。まあ某大学の非常勤講師をしながら、コンサルタントとして結構、世間的に認知をされている御仁です。

先日も仕事の状況を報告したら、即座に携帯電話に連絡が入り、その夜に仕事場の近所で落ち合い、夜遅くまで飲みながら様々なアドバイスを受ける事が出来ました。

つまり何を言いたい課といえば、「師匠」であれば「リアル」な人間関係のの中で触発を受ける関係である必要があるのではないかと言うことです。

恐らく、現場の創価学会員の活動家や幹部が「師匠」と思っているのは、名前は「池田大作」と思い込んでいますが、その実は「人間革命・山本伸一」なのではないでしょうか?

つまり「作り上げられた虚像・山本伸一」を師匠と錯覚していませんか?という事をお聞きしたいです。

創価学会はかなり姑息だなぁ・・・と最近感じるのは、作り上げられた「人間革命」「新・人間革命」という小説の中に、実在の人物を混入させ、さもその小説が「実話」であるかの様に錯覚させながら、そこに求心力を持たせていくという事でしょうか。

過去、人間革命の冒頭には「小説でありフィクションである」という記載もされていましたが、その台詞を今の活動家幹部は忘れてしまったのでしょうか?

そこで活動家に一つお聞きしたいのですが、「山本伸一青年の父親と母親の名前はなんと言うのでしょうか?また山本伸一という人物は、実際に日本のどこに生まれて、今はどこに住んでいるのでしょうか?」

現実にいる「永遠の指導者・池田大作」とは違いますよ?誤解してはいけません。

よく考えてみてくださいね。

「山本伸一」というのは「架空の人物」であり、小説の中でのみ生きている人物なんですよ?

実際の「池田大作」という人物とは「似て非なるモノ」である事を最初に理解をしなければなりません。

その上でもう一つの質問です。

現実の池田大作という人と「対面」して、直に話をして、その人物の人となりや考え方を知る機会がありましたか?

よく組織の中で「池田先生とお会いした」という言葉がありますが、それは往々にして創価大学で「見かけた」とか、創価学会本部で「声をかけられた」という程度のレベルではないでしょうか?

実際に身近に、それこそ呼吸する音を聞きながら、相手のもっている思想・行動パターン・思考パターンを感じた事がありますか?

恐らくというか、創価学会活動家の99.9%以上は、そういった機会に恵まれた(??)事もなく、ひたすら「人間革命」や「スピーチ」などといった媒体でしか「師弟不二」という関係を持つ人物とは触れ合っていないはずです。

そんな状況でよく「師と共に」などと平気で言えるものですね。

「大日如来の父母と生ぜし所と死せし所を委く沙汰し問うべし、一句一偈も大日の父母なし説所なし生死の所なし有名無実の大日如来なり然る間殊に法門せめやすかるべきなり若法門の所詮の理を云はば教主の有無を定めて説教の得不得をば極む可き事なり」(諸宗問答抄 382ページ)

上記の御文は日蓮さんが真言宗を攻める内容ですが、真言宗の大日如来と同じものが「永遠の指導者」ではないですか?
ちなみに「大日如来」も経典の中にしか存在をしていません。

だって、、現場幹部のほぼ全てが新聞や小説でしか見聞きしていない人物なんですよ。「永遠の指導者」というのは。

そう思いませんか?

恐らくは・・・・身近に信心を感じれる人物が少なくなっているんでしょうね。
だから作り上げられた「師匠」にのみ、己が信じる信仰の原点を求めてしまい、また都合よく信濃町界隈から刷り込まれてしまっているんでしょう。

今の組織の弱体化の一因に、そういうがあるんだと思いますよ。

本日はここまでとします。

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こんにちは。

GWも終わりですね。来週からは仕事です。

私事ですが、このGWの期間はバイクでショートツーリングに行ったり、親元へ行ったりしていましたが、逆に疲れがたまった感じもします。(^ ^;)

みなさんは、気分転換できましたか?

談話室のグルニエさんのコメントを見ていて、いまさらながら気づきました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/10986/1286789028/683
(『雑談&つぶやきスレッド』 )

本年の5月3日は、ちょうど10年目だったんですね。

そういえば、今の40代の壮年部・婦人部が未来部時代にはよく言いましたよね。「希望の21世紀」というフレーズ。

あと「青年よ21世紀の広布の山を登れ」で以下の言葉も言われていましたよね。

「二〇〇一年五月三日――
 この日が
 私共の そして君達の
 大いなる
 目標登攀の日であるといってよい
 広布第二幕の勝負は
 この時で決せられることを
 忘れないでほしいのだ」
「その二十一世紀の
 山に登りきったならば
 あとは一切
 君達のものである
 それからは 広宣流布第三章の
 平和と幸福への
 歓喜の法戦を
 全て君達に託したい」

この長編詩ですが、僕が広宣部の時に発表の経緯について先輩から聞きました。それはどういう事かというと、第一次宗門問題当時に宗門から追いやられた池田名誉会長に対して、時の法主であった日顕が詫びを入れてきた事から「勝利宣言」として発表された詩だという事。

まさに僕が未来部から青年部への期間が、この2001年5月3日を目指しての期間であった訳なんですよね。

で、、、結果としてどうだったんでしょうか?
2001年5月3日という日は。

振り返ってみれば2001年4月26日に第一次小泉内閣が発足しているんですね。
この内閣には公明党から坂口氏が厚生労働大臣に就任した他、財務副大臣に谷口氏が就任しています。

まあ公明党の与党入りは1999年の小渕第二次改造内閣からとなっていますので、それから2年は経過しているんですね。

そして2001年9月11日には、アメリカで同時多発テロが発生し、10月7日にはそのテロ行為を理由として、アフガニスタンでタリバンに対しての戦争を始めています。

つまり振り返ってみると「広布第二幕の勝負」というのは、こういった結果であったという訳なんですね。

だから、「二十一世紀の山に登りきったならば」というのは、けして広布第三章の「平和と幸福への歓喜の法戦」ではなかった。

そういう事実をまずは直視しなければなりません。

そしてそれから本年で10年が経過しました。
さて、今の日本はどういう状況でしょう。

◆2010年の自殺率:人口10万人あたりの自殺者数=24.9人
 総自殺者数:31,690人(同年交通事故者数の6.41倍)

◆2010年の失業率:5.1% 300万を超える完全失業者数

これが現実の状況です。

そして先日発生した東日本大震災で1万人を超える死者が出ている状況の中、永遠の指導者の動静は現場の会員の誰もが知らない。

組織の現場を見れば、聖教新聞配達の「無冠の友」が後継者不在のために、高齢になっても交代する事もできない。

また青年部だけでは会館運営も出来ない事から、壮年部で「王城会」を結成して、創価班・牙城会のOBを再度着任させている現実。
でも運営サイドのそういった問題とは別に、全国各地に次々に豪奢な会館が建設ラッシュ。
これじゃ財務にも拍車をかける理由がわかるというモノ。

これが「平和と幸福への歓喜の法戦」の実態です。
そして「全て君たちに託したい」と、当時の未来部や青年部に言っていましたが、本当に託されているのでしょうか?

「10年ひと昔」という言葉がありますが、創価学会で大事な時であった「2001年5月3日」は「ひと昔前」の出来事になっています。

おそらく今の青年部は、この日付を知らないでしょう。
また壮年・婦人部幹部は、この日付を忘れ去っているのでしょう。

でも再度、この日付を思い返し、その結果はどうであったのか?

そこに思いをはせる中に、実は現在の創価学会が置かれている現実と、状況を打開するヒントはあると思えますよ。
(これは活動家の皆さんへの贈り言葉ですが)

まあ10年たって、僕が個人的に思う事ですが。。。。

「宗教法人創価学会」は縮退・解消の方向へ向かえばいいのではないでしょうか。今の職員が食っていけるだけの信徒数は居ますんで、職員が「浄財」で安泰な生活ができれば、職員も悲惨な事にはならないでしょう。
会員は職員を食わせるために奉仕したい人が残るという事。

そして組織が縮退すれば、自民党も民主党も創価学会の事は無視しますので、政治からの距離は嫌でも置く事が可能となります。

で、信仰をバックアップする組織がもし必要なのであれば、NPO法人レベルでボランティアの幹部が居ればいいかもしれません。

機関紙発行なんてなくても、WEBで情報は発信できます。連絡はメーリングリストを利用すれば、そこそこ可能でしょう。

組織活動に主眼をおくのではなく、各個人が社会の中で生きていく事と仏法の研鑽を行う程度の事に主眼をおけば、仰々しい組織や役職なんて必要はありません。

また政治参加は個人個人の考えて進めれば、それで良い話です。

でもまあ、そういう事は難しいかなぁ・・・・
そんな事を考えてしまいました。

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