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2011-05-29

「私」を発明したデカルト


 現世的社会は教会によって形作られ、組織されていたもので、それ自身の合理的生命を持つものではありませんでした。民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです。近代の歴史が始まったのは、日増しに多くの民衆が社会的政治的な意識を持つようになり、過去と未来とを持つ歴史的実体としてその各自のグループを自覚するようになり、完全に歴史に登場して来た時です。社会的、政治的、歴史的意識が民族の大部分に広がり始めるなどというようなことは、僅かな先進諸国においてさえ、精々、最近200年間のことでした。


【『歴史とは何か』E・H・カー/清水幾太郎〈しみず・いくたろう〉訳(岩波新書、1962年)】


 驚愕の指摘である。つまり、「私」を発明したのはデカルトだったってわけだよ。「歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです」――今年最大の衝撃だ。民衆は動物、あるいは草木のような存在だった。まとまりとしての人間、群集、群れ……。


「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(日蓮)/日蓮の我とデカルトの我は違う可能性がある。致命的なことに、我々は現在という地点からしか歴史を見つめることができない。つまり「現代バイアス」が掛かってしまうのだ。


歴史とは何か (岩波新書)

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