憎悪の転写

  • author: kotakotaokota
  • 2011年05月28日

あいつ(等)が憎い、あれ(等)が憎いという人間の憎悪感情は人を動かすエネルギーの中でも相当強力であり、効率的でもあるのですが、この憎悪に突き動かされた行動の結末を考える時、それが個人であれ団体であれ「破滅」を予感するのは筆者だけでしょうか。

筆者が関西の行動する保守運動に身を投じていた間において、最も理解できず、参加者の色々な世代の話しを聴いていても、やはりその生成過程が理屈として、あるいは明確なイメージとして認識できなかったものが、この、「憎悪」でありました。

筆者とて憎いものは沢山あります。それは「サヨク」であり「リベラル」であり「保守リベラル」でもあり、「参政権」実現の為に日本国の政治過程(選挙)に公然と介入した「民団」であり、拉致実行の共謀共同正犯である「総連」でもあります。自らの「核心的利益」の為なら詐欺でも恐喝でも二枚舌でも何でも有りのシナ共産党に至っては言うに及ばず、毎晩中南海に核を撃ち込む想像をするほどです。

日本を貶め、汚し、主権の簒奪さえ厭わない連中に抗議し、出来うるなら鉄槌を加えてやりたいと思うのも無理からぬ所であり、綺麗さっぱり駆除できたらどれ程御国に資することになるかと考えないではいられません。

最近筆者がよく考えている事でもあり、活動に身を置いている若い世代に限定して共に考えて貰いたい事は、自らの行動とその集合である活動=政治的行為が如何なる日本を招来せんとしてなされているのか、という事であり、逆に言えば、愛する祖国に如何なる将来をもたらさんと「今」の行動があるのか、という事です。

以前のエントリーで、在特会桜井会長が、思想と行動は車の両輪と主張されたのに対し、まず思想ありきで、その思想性が貫かれている行動こそ運動として合目的的だと主張いたしました。この場合で言えば、招来すべき社会がまず存在し、その社会の基調が運動に反映されている事が必要なのだと考えています。 

そして、筆者が前回のエントリー「関西行動保守の結節点」で指摘したかった事は、桜井氏の歴史観が必然的「虐殺期」などという「敵への憎しみ」を「憎悪」にまで煽り、その憎悪を様々なものに転写させていく事(筆者は身を以て知りましたが、一つの憎悪が様々な対象に転写していくのは簡単なことなのです)によってしか実現しない極めて危険なものであると言う事です。彼は歴史から一体何を学んだのでしょうか、ヒトラーと突撃隊と比喩したことも、1930年代のドイツでヒトラーが歩んだ政権奪取過程を見れば頷けぬものでもないと思います。

筆者もまた多くの方と同様に、一昨年の総選挙の結果を踏まえて危機感の塊で街頭に出て戦う決意をいたしましたが、行動保守運動との出会いによって成長もしましたし、今となれば年長者としての責務を果たしきれなかった事を悔やんでいる部分もあります。今言える事は、全てが正しかったとは言えず、全てが誤りだったとも言えないという事であり、だからこそ若い世代には私達の身内にある「憎しみ」や「憎悪」を理性的に考えてみようよと呼びかけたいのです。

筆者もまた自らが為した行為、口から飛び出した数々の発言について、いかに責任を取るのか果たしていくのかを考え続けて参ります。同時に残された時間は若い世代に比べて圧倒的に少ないのですが、信念の下にやるべき事を然るべくやり遂げていきたいと考えております。

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