神話の陰に―福島原発40年(1)(2)(3)(4)/朝日新聞

2011-05-25 23:12:54 | 社会
東京電力の本社2階に、福島第一原発事故の政府・東電統合対策室(旧統合本部)がある。東電の内部資料に、4月17日午後7時から始まった全体会議のやり取りが記されている。

 「吉田所長 レベル7で発電所の域を越えている。体制の抜本的な整備を」

 「武黒 今までの応急的な事象とは異なった、懐の深い取り組みが必要」

 「武藤 今後の道筋は、大きな方向を二つのステップで記載。大変盛りだくさんで未経験のもの」

 事故収束へ向けた工程表を発表した日だった。発言者は福島第一原発所長の吉田昌郎(56)、副社長で原子力・立地本部長の武藤栄(60)、技術系最高幹部として社長を補佐する「フェロー」の武黒一郎(65)。武黒は武藤の前任者だ。福島の吉田はテレビ会議システムで参加していた。

 チェルノブイリと同じ「レベル7」の大事故への対応に追われる武黒や武藤らは、東電原子力技術陣約3千人の最上部にいる。専門性のベールに覆われた原子力部門は、社内外から「原子力村」と呼ばれる。

 9年前の2002年、村を揺るがす不祥事が起きた。原発の点検記録改ざんや虚偽報告などのトラブル隠しが発覚。原子力本部長の副社長と歴代社長4人が引責辞任に追い込まれた。

 東電は「原子力部門の閉鎖性を打破する」と、再発防止に取り組む。新しい本部長には火力畑の副社長、白ト(トは土の横棒間の右側に「、」)良一(72)が就任。現会長の勝俣恒久(71)は、このとき社長になり、信頼回復を最優先に掲げた。原発の所長には広報部の幹部が就き、一般の見学を増やすなど開放に努めた。

 だが、村の根本はいまも変わっていない。柏崎刈羽原発の所長だった武黒は、トラブル隠しの管理責任を問われて減給処分を受けたが、05年には白トの後任として原子力・立地本部長に就任。村のトップは原子力技術者に戻った。

白トは本部長当時、語っている。「火力と比べると手続きが多い。どこに働きかければいいのだろう。村長のいない『原子力村』に入り込んで迷っている感じだ」。原子力生え抜きの幹部は「他部門の人にはすぐには分からない。問題は17基も抱え、国の検査や説明に追われ、安全設計や事故を考える人がいなくなったことだった」と振り返る。

 07年の新潟県中越沖地震。柏崎刈羽原発では変圧器で火災が発生。その後も火災は相次ぎ、本部長の武黒、副本部長の武藤、原子力設備管理部長の吉田は、減給処分を受ける。社内処分を何度受けようと、村の序列が崩れることはない。

 今回の事故から約2カ月後の5月17日の記者会見。責任を聞かれた原子力本部長の武藤は「結果として大きな事故を起こして申し訳ない」と謝罪した。「結果として」の裏に「事故原因は想定外の地震・津波」との認識が見て取れる。6月に引責辞任するが、顧問として助言するという。

 原子力村には、専門性のベールに加え、身内同士で固める殻で、社長も容易に手出しできない。経済産業省の元幹部は言う。「原子力部門は伏魔殿。そこを東電が支え、経済社会全体が支える構造になっている」。原子力村は東電の外にも広がっている。



産・政・官・学……広大な「村」

 東京電力の原子力部門の始まりは、1955年の原子力発電課発足にさかのぼる。手本は欧米の原子炉。「container(コンテナ)を格納容器と日本語に訳すには苦労した。格納庫では、ぴんと来ないし」。のちに原子力村の「ドン」と呼ばれる元副社長、豊田正敏(87)は懐かしむ。

 課員は5人。60年、福島県への原発建設が決まり、豊田もかかわる。その原発がレベル7の事故を起こした。「非常用電源が津波で使用不能になったのは、設計に携わった米コンサルタント会社の配置がまずかったから。現場は気づかなかったのか。資金がかかるから言い出せなかったのか」。豊田は不思議がる。

東電は71年に運転を始めた福島第一原発1号機を皮切りに、高度成長期の電力需要をまかなおうと、原発建設に邁進(まいしん)。97年に運転を開始した柏崎刈羽原発7号機が17基目で、今年、久々に新規の東通原発1号機を本格着工する予定だった。

 原子力部門は、いまや約3千人の技術者を抱える。原発の運転・維持費用は年間約5千億円。原発をもつ9電力だと、2兆円に迫る。日本原子力産業協会の会員には、重電メーカーや商社など400社以上が名を連ねる。原子力村は、東電内にとどまらず、政界、官界から学界、労働界をも巻き込む広大な世界だ。

 原発は1基あたりの建設費が、3千億円とも5千億円ともいわれる。地域独占体制のもとでの安定した電気料金収入が、巨額の投資を可能にしている。

 東電の元幹部は明かす。

 「いくら費用がかかっても、(コストに一定の利益を上乗せする)総括原価方式で電気代を上げることができる。だから、経営で大事なのは地域独占を守ること。その独占を持続できるように、各方面に働きかけることが本業になった」

 地域独占は、電力会社が送電網を支配しているからこそできた。90年代から2000年代初頭にかけ、この電力の地域独占を崩そうとする動きがあった。

 「東電を筆頭とする9電力は現代の幕藩体制。このままでは日本は高い電気代で競争力を失う」。経済産業省(旧通商産業省)の一部官僚が、電力自由化の旗を振った。旗頭は村田成二(66)。02年に事務次官に就き、今は新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)理事長を務める。

 村田らは、電力会社から送電部門を切り離す「発送電分離」を最終目標に置く。総合資源エネルギー調査会の電気事業分科会を表舞台としつつ、電気事業法の改正案を練った。原発の国有化案もあった。

危機感を強めた電力業界は政治力を使う。「電力族」とされる衆院議員の甘利明(61)や、元東電副社長で参院議員の加納時男(76)=10年に議員引退=らは00年4月、自民党内にエネルギー政策の小委員会を旗揚げし、議員立法によるエネルギー政策基本法の制定を急いだ。

 東電を休職中の秘書らが加納を支えた。法案の「安定供給の確保」という言葉には、発送電分離を阻むねらいが込められた。「原子力」の文字はないが、甘利は国会で「原子力は基本法の方針に即した優秀なエネルギー」と説明。法案の提出者には、後に官房長官になる細田博之(67)も名を連ねた。

 基本法は02年6月に成立。しかし、2カ月後、電力業界で大きな不祥事が発覚する。東電の原発トラブル隠しだ。7月に次官に就いた村田は、会見で「独占供給を認めているのに期待値を裏切る」と憤った。東電は「村田が発送電分離を実現するために仕組んだのでは」といぶかった。

 電力業界は窮地に追い込まれながらも、巻き返しに出る。族議員らが、電気事業分科会の自由化議論と並行して進んでいた政策導入に反対した。温暖化ガス抑制のための新たな石炭課税制度だ。村田らはやむなく、発送電分離を引っ込め、石炭課税を優先した。

 族議員らは、エネルギー基本計画の策定への圧力も強めた。03年10月にできた計画には「原子力を基幹電源と位置づけ」「発電から送配電まで一貫」という文言が盛り込まれた。

 04年夏、村田が退官すると、電力自由化の機運はしぼんでいく。甘利は06年、経産相に就いた。07年1月、電力各社で原発の法定検査データ改ざんが発覚したが、原子力安全・保安院は、経営責任を事実上、不問に付した。

 産業界や族議員は3・11の事故後も、原発推進を声高に唱えている。敬称略(小森敦司)

*朝日新聞2011.5.25朝刊

炉心溶融は、大震災当夜から予見されていた。

 「(3月11日)午後10時50分 燃料露出/午後11時50分 燃料被覆管破損/(12日)午前0時50分 燃料溶融」

 全電源を失った福島第一原発2号機。津波到達から6時間半後の11日午後10時ごろ、経済産業省原子力安全・保安院は早くもこんな予測をはじき出していた。当時は伏せられたが、後に政府資料で公表された。

 東京電力でも同じころ、本店1階の会議室でスーツ姿の社員が緊張した声で報道陣に説明していた。

 「我々で言うシビアアクシデント、いろいろな想定の中で一番激しい想定に近づいている」

 シビアアクシデントとは炉心が大きく壊れる「過酷事故」のことだ。放射能の大量放出につながる。

 東電幹部は14メートルとする津波の高さを「想定外」と強調した。だが、もし全電源喪失が続いたらいずれ冷却機能が失われ、短時間で炉心溶融に至ると熟知する技術者が、東電にも政府にも少なからずいた。

 なぜなら、日本は約20年も前から、過酷事故に備える安全対策「アクシデントマネジメント(AM)」を進めてきたからだ。

 格納容器のベント(排気)設備や消防ポンプによる注水設備など、今回の事故で使われた最終手段は、電力会社が1990年代後半にAMで追加したものだ。


 AMは、事故を想定したうえで原発のリスクを減らそうとする「安全研究」から生まれた。その歩みは、日本では重大な事故は起きないとする「安全神話」との闘いだった。

 草分けの一人、元原子力安全委員長の佐藤一男(77)は「70年代は、産官学全体が『一般の人たちの不安をかきたてるようなことを言うな』という雰囲気だった」と振り返る。佐藤はいま、原子力の安全研究をする公益法人「原子力安全研究協会」の研究参与を務める。

 79年3月、米スリーマイル島原発で炉心溶融が現実になる。事故を科学的に理解しようと、燃料棒を溶かす実験などが各国で繰り返された。ある研究者は「国内で燃料溶融実験を計画したら『燃料は壊れない』と怒られた。『試験体』と言い換えてやっと実現した」と明かす。

 86年4月、チェルノブイリ原発事故発生。米仏独は80年代のうちに、過酷事故対策としてベント設備の追加を決めた。国内でも原子力安全委員会が92年、AMの自主的導入を勧告。電力業界は94年、「今でも十分安全だが、念のため自主的に行う」と渋々受け入れた。

 だが、勧告をまとめた佐藤には懸念があった。「AMが本当に求めるものは、不測の事故に対応できる能力をどう高めるかだった」

 日本原子力研究所に勤務していたころ、日本に「原子の火」をともした原子炉「JRR1」(57年稼働)の運転班長を務め、さまざまな想定外の事態を見てきた。勧告にも「AMは本来、事業者が技術的知見を駆使し、現実の事態に直面して臨機かつ柔軟に行うもの」と盛り込んだ。

 電力業界は2002年までに、ベント設備の設置や手順書の整備などを含むAMを全原発で整備した。業界は「約1千万年に1度の炉心損傷確率がさらに減った」と胸を張った。


 福島第一原発の状況が深刻さを増していた3月末。東京・新橋のビルにある原子力安全研究協会の事務所で、同協会の評議員会長、松浦祥次郎(75)は疑問を募らせていた。松浦は佐藤の後任として原子力安全委員長を務めた。

 「運転員は過酷事故についてどんな教育を受け、どんなイメージを持っていたのか。故障の多い初期の原子炉で苦労した世代は、非常時の動き方を嫌でも思い知らされている。そうした経験に基づく知識は伝承されているのだろうか」

繰り返された水素爆発、3基の炉心溶融、格納容器の破損、放射能の大量放出、高濃度汚染水の発生。いつまでも後手後手に回るのは、最初に最悪のケースを頭に描けなかったからだと映った。佐藤も「AMが形にとらわれたものになっていた」とみる。

 4月1日、松浦は記者会見し、「こうした事態を防ぐために考えを突き詰めなかった。社会に対して申し訳ない」と陳謝した。このとき公表した、事故対応の強化を求める政府への緊急提言には、佐藤も名を連ねていた。

 事故発生から2カ月以上たった5月17日。炉心溶融をめぐる初期の認識の甘さを問われた東電原子力部門トップの副社長、武藤栄(60)は「注水するのに、燃料がどのようになっていようが差がない。冷やす操作に影響はなかった」と言い放った。

 事故が起きてもなお、現状を直視しようとしない。安全神話の病根は深い。=敬称略(安田朋起)

日本では自主的対策

 原発の安全確保は、安全対策を何段重ねにもする「多重防護」の考え方に基づく。原子炉内の大量の放射性物質を外に出さないように、燃料ペレット、燃料被覆管、圧力容器、格納容器、原子炉建屋という「五重の壁」で閉じこめ、非常用の電源や冷却装置もたくさん備える。

 原発は設置許可を受ける前の国の安全審査で、こうした設計上の安全対策が機能するかをチェックされている。

 その対応範囲を上回る事故に備える安全対策がアクシデントマネジメント(AM)。安全審査で十分に低減されたリスクをより小さくする措置とされる。

 日本では、起きる可能性がきわめて小さいとして、電力会社の自主的取り組みにとどめているが、欧米では規制に組み込む動きがある。

 今回の事故の引き金となった全電源喪失はAMの中で考慮されてきたが、原子力安全委員会の班目春樹委員長は19日、安全審査に含める方針を表明している。

*朝日新聞2011.5.26朝刊

「城下町」共栄の末

東京オリンピックの開催を翌年に控え、都心で建設ラッシュが続いていた1963年8月。200キロ余離れた福島県大熊町の常磐線大野駅前にあった豆腐店に、大勢の下宿人が泊まり始めた。2階建ての豆腐店の半分のスペースを借りたのは東京電力。約4キロ離れた福島第一原発の建設に向けた第一歩となる、仮事務所の設置だった。

 豆腐店主の次女、蜂須賀礼子(59)はそのころ、小学5年生。「優しいおじさんたちで、生まれて初めてコーラを飲ませてくれた」。でも、東電社員らとの同居で、家人は我慢することも多い。父親に不満を言うと、「町のためなんだから」と諭されたという。

 東電は64年12月、現在の原発敷地内に「福島調査所」を設置。そこに臨時社員として加わったのが、大熊町民の志賀秀朗(79)だ。高校卒業後、長男として農家を継いでいたが、同町長だった父親の秀正(故人)の勧めで、東電に入った。同町と双葉町にまたがる福島第一原発の建設のため、波の向き、潮の流れなど、海洋調査に当たった。

 「当時は何もない、福島県の中でも貧乏な場所だった」。志賀によると、夏は農作業をして、冬になると男の8割ぐらいが関東に出稼ぎに行っていた地域だった。太平洋に面しているが良港はなく、観光資源も他の産業もなかった。「所得が増える、働く場所もできると、町民の大部分が、原発を歓迎していた」と志賀は振り返る。

 福島県も積極的に原発を誘致した。

 東電の社史によると、当時の県知事・佐藤善一郎(故人)は58年、県庁職員に原発の可能性を研究するよう指示。2年後には、現在の第一原発の敷地を候補地にあげ、東電に打診。東電と合意し、60年11月に誘致計画を発表した。佐藤は県議会で、「最も新しい産業」を「本県の後進郡」に持ってきたいと表明。危険性を問う質問は一切出なかった。

首都圏に比較的近い茨城、福島両県の沿岸部で、広大な用地を購入できる場所との条件で、原発用地を探していた東電にとっても、大熊、双葉両町は条件にぴったりはまった。両町にまたがる土地の中心部は、旧日本軍の航空隊基地跡で、戦後は塩田として用いられていた。このため、多数の地主と交渉する必要はなく、64年には用地取得を完了。反対運動はなかった。

 「大熊町と東京電力の共存共栄の歴史だった」。こう話す志賀は、自身がそれを体現した存在だ。

 臨時社員の後は東電の正社員となり、87年まで1〜6号機を建設する際などの土木関連業務に従事。同年9月には、父親の2代後の町長に当選。2007年までの5期20年、原発立地町の顔としてあり続けた。

 「徐々ににぎやかになった。出稼ぎもなくなったしな」。志賀の言葉を裏づけるように、原発での雇用が生まれ、町の人口は増加の一途をたどった。1965年に7629人だったが、国勢調査のたびに増え、2005年には1・5倍近い1万992人となった。

 豆腐店があった場所で現在は生花店を営む蜂須賀も言う。「今は、生まれた時から原発がそばにあって、父ちゃん母ちゃんも原発で働いているという人がたくさんいる。町にとって、原発は当たり前の存在になった」

 3月11日、東日本大震災による津波は、海岸から約300メートルに住む志賀の自宅も襲った。「バリバリッと、木が倒れる音がした」。辛くも難を逃れた志賀は親族を頼って、福島県葛尾村→福島市→川崎市と転々とし、現在は横浜市の親戚宅に身を寄せている。

 福島第一原発から大量の放射能がもれ出した事態に、「まさか、炉心溶融が起こるとは考えていなかった」。志賀は、「自分の人生上、東電の仕事は勉強になった。だから、今の自分がある」と、今も東電への愛情をにじませる。町民についても、「長年、原発とともに生活をし、いい生活だったと考えている人もいるでしょう」と話した。

だが、「町長として悔いはあるか」と問われ、こう答えをしぼり出した。「私の人生は、3月11日をのぞけばよかった。こういう事態になって残念だ」

=敬称略

(小島寛明、中井大助)

60年代に続々立地計画

 1950年代に国策として原子力の推進を決定した日本では、60年代に各電力会社が相次いで立地を計画し、実行に移した。現在、全国に17ある原子力発電所のうち、10地点では70年代に原子炉が営業運転を始めた。

 一方、70年代に入ると原発に対する反対運動などもあり、新規立地は困難になった。東京電力の場合、2011年1月に青森県東通村で新たな原発立地の建設工事を始めたのは、33年ぶりだった。

 こうした中、電力会社は、既設の原発の敷地内に、新たな原子炉を建てるなどの方策で増設してきたが、近年はこれも難しくなっている。現在、工事中の原子炉は東電の東通1号機のほか、電源開発の大間原発(青森県大間町)と中国電力の島根原発3号機(松江市)の計3基。今後も増設計画は各地にあるが、難航している場所が多い。

*朝日新聞2011.5.27朝刊

増設容認、金の魅力

福島県双葉町長の井戸川克隆(65)は、初当選して登庁した2005年12月8日のことを忘れられない。

 新顔同士の一騎打ちを小差で破った後の晴れがましさは、町長室をたずねてきた総務課長の一言で吹き飛んだ。

 「町長、来年度の予算が組めません」

 多額の借金を抱えているのはわかっていた。だから、住宅設備会社を一代で立ち上げた経営のノウハウを生かして町を再建したい。そう訴えて支持を得たのだ。「でも、そこまでひどいとは思わなかった」

 双葉、大熊両町に福島第一原発、富岡、楢葉両町に第二原発が立地し、東京電力の原子炉10基が集中する。この一帯は「原発銀座」と呼ばれる。

 双葉町の5、6号機が運転開始したのは1978、79年のことだ。当時、人口約8千人の町には巨額の「原発マネー」が奔流のように流れ込んだ。

 原発立地を促すための国の電源3法交付金、東電からは巨額の固定資産税などの税収……。原発関連の固定資産税収だけでもピークの83年度は約18億円。当時の歳入総額33億円の54%に達した。町は下水道や道路整備、ハコ物建設に次々と手をつけた。

 ほかの立地3町も同じだ。大熊町元職員の黒木和美(75)は「どんどん生活が良くなった」。小さな町なら負担の重さにためらうような大規模農地整備事業にも取り組んだ。「原発からまんじゅうとあめ玉をたっぷりもらった」

 だが、双葉町の「原発バブル」は長く続かなかった。施設の老朽化に伴って頼りの固定資産税収は激減。期限のある交付金も減った。それでもいったんタガの緩んだ財政規律は戻らない。温水プールつき健康福祉施設の建設などを続けて借金を膨らませ、予算も組めなくなっていた。

財政状況の悪さは、福島県の原発立地4町の中でも、突出していた。年間収入に占める借金返済額の割合では、07年度の数値で大熊町3.9%、楢葉町11.0%、富岡町17.9%に対し、双葉町は30.1%。財政健全化の計画策定が義務づけられる「早期健全化団体」のラインとなる25%を大きく超え、「危険水域」に入っていた。

 井戸川はまず大型事業を見直した。自らの給料も実質的に手取りをゼロにした。「このままだと第二の夕張になってしまう」。住民に訴え、様々な補助も削減。だが、歳出カットだけでは追いつかない。

 最後に頼ったのは、やはり「原発マネー」だった。

 前町長時代の91年、町議会は原発増設要望決議を可決。その後、東電のトラブル隠しの発覚で決議は凍結された。しかし井戸川は07年6月、町議会で早々と幕引きを宣言する。翌日には町議会が増設容認の決議を賛成多数で可決。賛成した町議の一人は「増設容認は財政再建の切り札だった」と明かす。

 結果、毎年9億8千万円、4年間で39億2千万円に上る7、8号機増設に向けた電源立地等初期対策交付金を手にした。

 今年3月11日、突き上げるような揺れに襲われたとき、井戸川の頭をよぎったのは第一原発のことだった。懸念は現実になり、埼玉県北部・加須市の避難所で町民1050人と寝起きをともにする。「いつ町に戻れるのか」。遠く離れた無人の町には「原子力 郷土の発展 豊かな未来」と書かれた大きなアーチがかかっている。

 原発マネーに財政を依存し、増設を繰り返す。そんな自治体を「麻薬中毒者のようだ」と前福島県知事の佐藤栄佐久(71)は言う。問題意識を持ったきっかけが、91年の双葉町議会の増設決議だった。

 佐藤の指示で、福島県エネルギー政策検討会が02年にまとめた「電源立地県 福島からの問いかけ」という冊子がある。

「発電所以外の産業の集積が進んでいない」「運転年数が経過し、電源3法交付金や固定資産税が大きく減少している」

 しかし、「依存症からの脱皮は容易ではない」と清水修二・福島大副学長(財政学)は言う。「どの地域も初めは原発をてこに地域を発展させたいと願う。しかし、もともと産業の乏しい過疎地に押し寄せる原発マネーはあまりに巨額だ。結局は、依存しきったいびつな経済にならざるをえない」=敬称略

 (編集委員・神田誠司)

■交付金に固定資産税収も

 原発などの発電所立地を進めるために国が用意した「アメ」が電源立地3法交付金だ。「電源開発促進税法」「特別会計に関する法律(旧・電源開発促進対策特別会計法)」「発電用施設周辺地域整備法」の総称だ。かつて公共施設整備などに使途が限られていたが、2003年の法改正でソフト事業にも使えるようになり、複雑な交付金メニューも「電源立地地域対策交付金」に一本化された。

 資源エネルギー庁は、出力135万キロワットの原発を建設した場合、周辺市町村と都道府県に運転開始までの10年間で計481億円、運転開始から40年後までの50年間で計1359億円の交付金がもたらされると試算している。

 さらに、1基数千億円の原子炉建設で生まれる固定資産税収も巨額だ。しかし、設備の価値が落ちるに応じて年々減っていく。このほかに電力会社が利益額や事業所で働く従業員数などに応じて払う法人市町村民税もある。財政規模の小さな市町村の中には、こうした原発マネーが歳入の5割を超す自治体もある。

■福島県双葉町と福島第一原発の動き

1971年 福島第一原発1号機が営業運転開始

1974年 田中角栄内閣のもと電源3法が制定

1978年 5号機が運転開始

1979年 双葉町が地方交付税の不交付団体に。6号機が運転開始

1983年 町の原発関連の固定資産税収がピークの17億9700万円に達する

1990年 町が交付税の交付団体になる

1991年 町議会が原発増設決議可決

2002年 東京電力による原発トラブル隠しが発覚。町議会が増設決議を凍結する決議可決

2005年 井戸川克隆氏が町長初当選

2007年 町議会が増設決議凍結を解除する決議可決

2008年 毎年9億8千万円、4年間の電源立地等初期対策交付金交付はじまる

2009年 自治体財政健全化法の「早期健全化団体」に転落。全国の原発立地自治体として唯一

2011年 東日本大震災。福島第一原発事故で、町役場ごと埼玉県に避難

*朝日新聞2011.5.28朝刊


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