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プロフィール
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運ちゃん
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職業:
リーマン
趣味:
バイクとタバコと読書
自己紹介:
非活になって、早10年。
創価学会の事や公明党の事、そして仏法などを常識目線で考えていく努力をしています。
おかしいものは、おかしいと言えなきゃダメですね。
あと自分の頭で良く考えましょう。
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想学サロン2.0
非活の壮年部が、今の組織についてつづります 
こんばんは。
 
一時期にくらべて、ここ最近ではブログの更新がめっきり減ったと感じています。
ブログ左上のカレンダーを見ても、今月は2回しか更新してなかったんですね。
 
いやいやいや・・・・・失礼しました。
 
さて今日は最近考えている事を、漠然と書かせてもらいます。
 
先日の日曜日、近所の図書館に行って幾つか書籍を借用してきました。
 
今読んでいるのは「最澄再考」という本。
 
これは最澄(伝教大師)の事と日本の天台宗について書かれている本ですが、何故これを借りたかと言うと、日蓮さんの御書を読んだりする際、やはり日本の天台宗の概要くらいはつかんでおいた方が良いかと思ったからです。
 
しかし読んでみて思ったのは、創価学会で教学を勉強したといっても、それは仏教の隅っこを少し齧った程度しかないという事ですね。
 
ここからが僕の感じた事なんですけどね。
 
もしかしたら釈迦という人物は、今の仏教の立ち上げ部のエッセンスについて、説いた人物にしか過ぎないのではないかという事。
(いやいや、、、これはこれで大変重要なんですけどね)
 
そしてそこから現在まで3千年近く経過していますが、仏教というのはその間に釈迦の教えに触発され、思考し行動した数多の人が構築した思想の結晶なのではないかと言う事。
 
ネットでもそうですが、やはり法華経の非仏説というのは事実でしょう。
 
いや、法華経ばかりではなく、よくいう原始仏教以外は直説は無いというものなのかもしれません。
 
でもそれから現代に至るまでの間、この釈迦の教えをはじめとして、様々な人師・論師が、釈迦の教説をキッカケに思想を深め、体系化し、作り上げたものが仏教なんでしょうね。
 
何故この様に考えたかと言えば、いま読んでいる「最澄再考」の中で概略として説明されている仏教の内容というか体系というのはとても膨大であり、簡単には全てをつかみきれるものではないという事を肌身に感じて実感しているからなんですね。
 
ある意味で人類の叡智といってもいいかもしれません。
 
学問というか学術というか、、、これは大したものなんですね。
(まあ、当たり前の事ではありますが・・・・)
 
まあ、それはそれとしながらも。
 
そういった思想体系を持つ仏教というか、そこにある仏法を自分の人生の中にいかに取り入れ血肉化していくかというと、これはまたこれで大変なものでして・・・一言でいえば、簡単ではありません。
 
「お題目を唱えて、ひたすら学会活動に励めば、自分の血肉とする事が出来る!直達正観なんだ!」
 
そんなものではないですね。
 
だって、学会活動というのは所詮は政治団体&コミュニティの活動であって、仏教の修行にはなっていないと思うからです。
 
なぜかといえば、、、そうですね。。。。
軸がずれているというか、根っこが違うと感じるからです。
 
所詮は「池田哲学」を基にした「仏教もどき」なのかもしれません。
だって名誉会長のスピーチなんか読んでも、御書の切り文と西洋哲学のパッチワークでしかないでしょう。
内容なんか、仏教哲学の視点から言えば、ものすごく浅いものでしかありません。(何故、世界が賞賛なんて言えるのか??)
 
学んでもあまり得るものはないかなぁ・・・
それを今回の本を読む中で、改めて感じた次第です。
 
僕は学問としての仏法には興味はありません。
やはり人生の中で、自分をより深く掘り下げてみたいし、自分自身もっともっと強くなっていきたい。
 
そういう「個人的な思い」で、今後も仏法については学ぶつもりです。
 
でも仏法を学ぶ上で大事なのは、やはり人生を噛み締めていくという事ではないでしょうか。
 
生きていく上では、人生には様々な苦難というのはある意味で付き物です。
それを避けて行ける人生はないのかもしれません。
 
苦難の度合いというのは、それは人それぞれです。
同じものは無いと思います。
 
ある人は仕事で悩み。
ある人は家庭で悩み。
ある人は地域で悩み。
ある人は病気で悩み。
 
挙げれば切がないと思います。
 
でも「悩み」があるから、自分の人生というものを直視する機会が増えます。
そして直視するからこそ、乗り越えるべきものが見えてくると思うんです。
 
その乗り越えるものが見えた時、仏法というのが大事な「支え」になるのではないでしょうか?
 
けして「人まかせ・他者まかせ」という「他力本願的」なものではなく、自分自身に内在する可能性というのを引き出す「支え」として。
 
それだけの人類の叡智がつまっているのが、実は仏法だったりして。
 
すみません。
 
今日の記事は何か「ダラダラ感満載」なものですが、今の僕が考えているのはそういった内容です。
 
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
 
これからもよろしくお願いします。
 
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無題 
私も創価学会を退会した前後に、天台小止観や摩訶止観などの天台関係の書籍を読みました。理由は、やはり天台教学が日蓮教学のベースであるからです。

また、学会員時代は、小説人間革命において戸田城聖が法華経講義を天台流で行ったことで罰が当たったという一節や、日興遺誡置文の一部の文言が影響して心にブレーキがかかってしまって(洗脳?ただ単に意思が弱いだけ?)天台宗関係の書籍などが読めなかった反動も大きかったですが。いま考えると誠にバカバカしい限りです(^_^;)



2011.05.24 13:13 Posted by 主任 | Edit
他力本願 
他宗にも触れてみると結構面白くて、親鸞や蓮如を読んだときに気付いたのですが・・・

「他力本願」と言うと学会教学では劣るものとされますが、真宗系ではなかなか奥深い意味があり、仏の力用を指しているようですね。
自力で出来ることはすべてやり切りました、後は全部お任せします。
吉と出ようが凶と出ようが、すべて受け入れます・・・みたいな。
私的にはちょっと格好いいじゃん!という感覚です。

真宗系に言わせれば「人まかせ」の意は誤用なわけですね。

運ちゃんさんはちゃんと「他力本願的」と仰っている。
さっすが~!
2011.05.24 18:48 Posted by 河童 | Edit
今、他に学ぶこと 
 ブログの内容によっては、参加し辛いものを感じ、少し距離を・・・とも考えたのですが・・・・。
 
 2年ほど前から仏教に関心を持ったばかりで、稚拙な者で、気後れを感じるのでが・・・。 ここに参加の方々の誠実な姿勢に魅力を感じて・・・・・。

 私は、外部の者で、仏教徒ではありません。若い頃から寧ろ宗教は胡散臭いものとして遠ざけて生きてきたと言っていいと思います。宗派宗教に執着がありません。寧ろ、警戒心を持ってさえいます。

 宗教が政治に利用されたり利用したりが歴史的事実であり、また戦争の陰に宗教が絡んでいたこともあり、一方では、時には宗教が個人の生活や家庭を破壊したりということもあっての警戒心かと思われます。
 
 定年退職後、人並みに人生の意味づけを考えざるを得ない年齢となり、宗教に関心を持つようになってきました。しかし、決して苦難な問題の解決を宗教にすがるという考えはありません。自分が抱えた苦難な問題の原因は自分にあり、その結果は自分が引き受けざるを得ないからです。

 <・・・・、そこにある仏法を自分の人生の中にいかに取り入れ血肉化していくかというと、これまた大変なものでして・・・。>

 仏教徒ではない自分ではありますが、身近な肉親や知人の多くを失うような年齢となると、正に学問としての仏教ではなく、それがどんなに稚拙なものであっても、自分の生き方に繋がり、自分のものにしたいと考えるのは、誰においても自然のことかと考えます。

 < 僕は学問としての仏法には興味はありません>
 
 人それぞれの生きざまに適った信仰が得られたら、それはそれとして認められねばならないことであり、
この仏法でなければ成仏できない、幸せになれないなんぞという押し付けは、最早宗教の域を超えていると考えざるを得ません。それは、その当人のもの本当のものにならないと考えるのが自然だと、私は思うからです。 

 仏法のために人生があるのではなく、人生のために仏法があるのだ、と思うからです。
 
 この意味において、嘗て「 折伏教本」の元に強引に創価学会に入会を図った厳しい事実に対して、どのように総括をされているのだろうかと、一般人からすればぜひともお聞きしたいところです。
 昭和38年、私が高校生の時、両親から創価学会はとんでもない宗教だから絶対に関わってはならないと、教えられてきたのです。

 他の世界宗教の場合は、キリスト教にしてもイスラム教にしても、とにかく人を改宗させるということに力をいれているように思われます。近年、世界で仏教の良さが大きくとりざたされているのは、仏教ではあまり改宗を強いるということをやらないからであると、言われています。                      
 良いものは改宗を求めなくても、自ずと「自分もああいうようになりたい」と思って、他の人もついてくるものだからでしょう。他の世界宗教のように信者を獲得することに躍起になるというのは、お釈迦様の本当の教えではないと、思われますが・・・。
 
 自分の生き方の足りないことに思いを馳せず、自分の苦難にとことん対決もせず、自分の周りの人々の苦難の歩みに深く学ぶ経験も経ずして、20歳そこそこの青年が、仏法を振り回して、他の若者を折伏するという、なんというおぞましいことではないかと、一般人は考えますが・・・・。

 法華経=日蓮仏法=創価学会=折伏=入会 でいいんでしょうか?
 
 信仰は自由であり、何を信仰するのも、何も信仰しないのも自由である、ということから考えてみると、
組織からの脱会に圧力をかけたり、判断力の未だついてない幼い子供を入信させるなんぞは、狂気の沙汰であると、私は考えます。

 閉じられた社会のような学会の人達の世界、一般人には見えない部分だけに尚更のこと不信感・拒否感を覚えるのです。開かれたものになっていないということです。

 良いものには 「自ずからついてくる」 というのが大変大事だと思うのですが・・・。

 日蓮聖人さんは、「法華経」 を愛する余りに「釈迦仏教」を狭く解釈してしまったのではないでしょうか?

さらに、創価学会は、現代ではそっくりそのままは適用できないと考えられる日蓮聖人さんの教義を、しかも都合のよいところはそのまま、都合の悪いところは創価流に変えて利用しているのではないかと思えるのですが・・・。

 五時八教にしても、五重の相対にしてもこのような独善的な排他的な宗教観が今でも通用するのでしょうか?
信仰とはそんなものなんでしょうか?

 日蓮さんの熱い人間性、迫害に耐えながら孤独に思索を進めた思想家について、よいところは良いとして認めながらも、日本最大の宗教団体となった創価学会は、数の勢い・金の勢いをたのんで政治に進出したり、権力にすり寄ったりすることなく、一歩も二歩も退いて、日蓮聖人の教えがどこまで現代世界の要請に応え得るか、核戦争の恐怖の時代の世界宗教になりうるのかを、真剣に思索すべきではないかと、強く願うものです。、

 西洋思想だけで人類の救済ができるという考え方は崩壊しています。西洋思想だけが唯一正しい訳ではないでしょう。                     世界において平和への脅威を与えているのは様々な排他的精神、とりわけ宗教的な排他的精神でしょう。今現在でも、宗教原理主義の果てしない戦争が終わることはないかのように感じられます。

 創価学会はこうした状勢に答えるには余りにも宗教的でなく、政治的であり、排他的すぎると思われるのですが・・・・。
 
 法戦と称して一票を取りに走らせるのが、日蓮仏法なんですか?
 財務・寄付と多くのお金を納めることで功徳があるというのが日蓮仏法なんですか。
 功徳・罰論を使い、組織の批判を許さず、組織から自由になることを許さず、唯指導者に盲信することを求めるのが、日蓮仏法なんですか・

 私は仏教的でない仏教を認めることができません。

世界平和のため、人類すべての幸福のために、今一度、大乗仏教の精神に返って仏教再生の道を考えていただきたいと願うものです。
 
 < 仏法を学ぶ上で大事なのは、人生を噛み締めていくということではないでしょうか。 >

 < 人類の叡智がつまっているのが実は仏法だ>

 この二つのことを大切にして学びたいものです。  

             長々とすみませんでした。   
 
2011.05.25 03:06 Posted by 桃太郎 | Edit
桃太郎さん 
> 日蓮聖人さんは、「法華経」 を愛する余りに
> 「釈迦仏教」を狭く解釈してしまったのではないでしょうか?

一応弁明しておきますがそんな事はありません。
日蓮教学のベースは天台教学にあります。
五時八教はそのまま天台教学であり
五重の相対にしても天台教学をベースとしてあります。

また、五時八教、五重の相対は教義の浅深を示したもので
教義の正邪を示したものではありません。

これを正邪と判断し排他的教義を取り入れたのは
日蓮ではなく日蓮亡き後の日蓮教団の教学となります。

これは天台教学をよく読めば理解できる話なのですが
読ませないようにしているのが創価思想というものであると言えます。

主任さんが指摘されているように
> 小説人間革命において戸田城聖が法華経講義を
> 天台流で行ったことで罰が当たったという一節

これは明らかに的外れな内容であり
これに翻弄されて創価学会では天台教学に触れる事が
罪であると強く教え込まれたという事があります。
2011.05.25 06:49 Posted by 堅皇 | Edit
堅皇さん、ありがとうございます 
 堅皇さん、おはようございます。

 早速に、ご返事を有難うございました。

 仏教、宗教について全く分からない者が、自分の感じているままに書き連ねたに過ぎないことに対してさえ、ご指導・ご援助を下さるとは誠に光栄に存じます。

 私は、法華経、立正安国論、御書等々の原典、さらに仏教専門書を読んでいる者ではなく、簡単に解説した書籍、ブログ上で様々な方が述べられているものを読んでのことですから、浅い知識・誤解、単なる憶測の過ちをも侵していることと心配もしております。

 しかし、現在の気持ちとして、どうしても述べたかったのです。生意気かも知れませんが、現在或いは過去において創価会員の方に大変失礼なことを述べることになっても、一般の者が感じているままを提供する方が、大切なことではないかと考えております。

 今後も何かとご指導をいただきたいと思います。     本当ににありがとうございました。
2011.05.25 08:01 Posted by 桃太郎 | Edit
無題 
桃太郎さんの文章に引き込まれました。
深く考えさせられました。
2011.05.25 15:09 Posted by いち読者 | Edit
今日のセイキョー 
また会館建設の記事

どうすんの?

会員減るのに箱物ばかりで

その後の私はやっと職員トップ幹部と話ができるようになりました

無駄かもしれませんが
最後までやります

憚りながらの後藤さんは筋が通る発言してますよ
2011.05.26 22:37 Posted by あめのちはれ | Edit
桃太郎さんへ 
コメントありがとうございます。
とても興味深く拝見させて頂きました。

最近の僕は「最澄再考」を読んでいるのですが、昔から権力者側は宗教を利用して、己が権勢の維持や強化を図っていました。これは最澄(伝教大師)の時代においてもそうでしたし、どうやら最澄は「官僧」としてそういった枠内に存在していたようです。

そういう面では、創価学会は「政治を監視せよ」という言葉を言っていましたが、宗教それ自体も監視をしなければいけないかもしれません。

桃太郎さんご指摘の折伏の件ですが、創価学会の組織では折伏という名目で改宗を迫る(というか、最近では改宗ではなく入会という事かもしれませんが)活動が今でも散見されています。

前にも拙ブログで書きましたが、強引に折伏をして入会をさせるというのは、日蓮さんの御書に照らしても本来の姿ではありません。

例えば日興上人(第二祖)の手紙にも、御本尊授与を無闇にする事を禁じている位でした。

では何故その様な行動を続けるのかは、やはり創価学会としての独自の仏教解釈を会員に教え、会員はその指導に従い動き続けたという事であり、それは現在でも続いています。

つまり宗教というのは、信じるがゆえに「盲目的」になってしまう側面が強くあるという事かもしれません。

本来の弘教という姿であれば、桃太郎さんの仰るように、<自ずと「自分もああいうようになりたい」と思って、他の人もついてくるものだからでしょう。>というものかと思います。

実際に僕がお世話になった学会員ご夫妻の弘教の姿はそういった姿でしたので、それを見て僕は深く感銘を受けた事を今でも覚えています。
しかし残念な事に、その夫妻は組織の中では「変わり者」という扱いをされていました。。。。理由はあまりに常識人で、意見を率直に述べる人だったからでしょうか。

今現在、創価学会が長年続けてきた指導の結果、現場の会員が日蓮さんの御書に触れる機会は着実に減少し、それよりも「永遠の指導者」(代筆によるもの)のスピーチや人間革命などの小説を重んじる雰囲気が強くなっています。

また師弟不二というヘンチクリンな教義により、日蓮仏法の教団というよりは池田思想の団体へと変質をしている状態です。

僕自身の思いとしては、長年にわたり活動を創価学会の活動を続けてきていましたが、この時に、再度原点に立ち返り、日蓮さんの志や仏教の奥をのぞいて確認したいと思っています。

とりとめの無いコメントで申し訳ありません。
今後もよろしくお願いします。
2011.05.26 23:01 Posted by 運ちゃん | Edit
運ちゃんさん 
運ちゃんさん  ご返事ありがとうございます。  

 仏教・宗教についてよく分からないまま、普段思っていることを書かせてもらっています。

 外部の者であるがゆえに書きづらいところもあって、皆さんに対して失礼なことや傷つけてしまうことを書いているかもしれませんが、お許しください。

 ご返事で教えて下さったことをゆっくり考え、またの機会に私の感じたところをお届けできればと思っています。

 ありがとうございました。

2011.05.27 10:41 Posted by 桃太郎 | Edit
無題 
桃太郎さん
桃太郎さんの書き込みは、読んでいると何故かホッとしますよ。。
なんか。。故郷を想い出す感じかなあ~。。

ここに来る人のほとんどは、創価で傷つき疲れた人が多いと思うから
桃太郎さんの視点から見られた創価のお話は、一服の清涼感のように思います。。

ほんと。。なんなんでしょね。。? いまの創価。。
もう末期的症状炸裂ですね。。
2011.05.28 02:57 Posted by 流れ星 | Edit
無題 
あめのちはれさん
くれぐれも気をつけつつ頑張ってくださいね。。
あめのちはれさんの行動が、小さな光となりますように。。
2011.05.28 02:59 Posted by 流れ星 | Edit
無題 
あめのちはれさん
くれぐれも気をつけつつ頑張ってくださいね。。
あめのちはれさんの行動が、すこしでも光となりますように。。
2011.05.28 03:50 Posted by 流れ星 | Edit
日蓮本仏論は後世の創作? 
日蓮正宗の教義では日蓮は末法の本仏ということですが、これは後世の創作という説もあるそうです。
どうなんですか?
そういえば創価学会も池田本仏論というのが、かつては大真面目に流通していたそうです。創価は必死に打ち消しているそうですが、公然たる事実だそうです。
いずれにせよ、こういう一方的は崇拝が宗教を駄目にしてきた最大の原因ではないでしょうか?
2011.05.28 08:45 Posted by 通行人 | Edit
無題 
運ちゃんさん、お邪魔します。

先ほど、ふとこんな事を考えていました。

あの永遠さんは、一体何のために地球に生まれて来たのでしょう。一体、何が彼のこの世の使命だったのでしょう。

人間は誰しも、魂を向上させる為に、魂のふるさとである「大きな光」を離れ、ばらばらな一つ一つの魂に分かれた上で、それぞれの使命を全うするために誕生するー私は、そう信じています。

永遠さんは、軌道修正が不可能なほど、大きく道を踏み外してしまいましたね。人生という魂の成長過程において、心を悪に食い尽くされてしまったのでしょうか。

それとも彼の魂は、最初から最強の「悪役」をかって出て、この世に誕生する事に合意していたのでしょうか。

どちらにしても、彼が今まで一生懸命築き上げてきた虚飾や嘘に塗りたくられた人生は、今や、庶民の正義の怒りと真実の声によって、凄まじい勢いで、そのメッキを剥がされています。

もうこの勢いが止まる事はないでしょう。

あの人の虚飾城・相加の終焉もそう遠くはないのではないでしょうか。

なんて可哀想な人なのでしょう。
なんて哀れな人生なのでしょう。

一度は、「人生の師」だと信じていたあの人にかけられる事はは、それぐらいしかありません。

もしも、善の対極にある悪というものを、これでもかというほど見せつけてくれた彼に対して出来る最後の「恩返し」というものがあるとすれば、それは、彼の「真実の姿」を世間に対して、すべて明らかにしてあげる事だと思います。

ぎらぎらに飾り立てた着ぐるみは、重すぎますよ、センセイ。もうお脱ぎになった方がいいのではないですか。。。

2011.05.28 11:01 Posted by 星屑のひかり(改名) | Edit
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