こんばんは。
一時期にくらべて、ここ最近ではブログの更新がめっきり減ったと感じています。
ブログ左上のカレンダーを見ても、今月は2回しか更新してなかったんですね。
いやいやいや・・・・・失礼しました。
さて今日は最近考えている事を、漠然と書かせてもらいます。
先日の日曜日、近所の図書館に行って幾つか書籍を借用してきました。
今読んでいるのは「最澄再考」という本。
これは最澄(伝教大師)の事と日本の天台宗について書かれている本ですが、何故これを借りたかと言うと、日蓮さんの御書を読んだりする際、やはり日本の天台宗の概要くらいはつかんでおいた方が良いかと思ったからです。
しかし読んでみて思ったのは、創価学会で教学を勉強したといっても、それは仏教の隅っこを少し齧った程度しかないという事ですね。
ここからが僕の感じた事なんですけどね。
もしかしたら釈迦という人物は、今の仏教の立ち上げ部のエッセンスについて、説いた人物にしか過ぎないのではないかという事。
(いやいや、、、これはこれで大変重要なんですけどね)
そしてそこから現在まで3千年近く経過していますが、仏教というのはその間に釈迦の教えに触発され、思考し行動した数多の人が構築した思想の結晶なのではないかと言う事。
ネットでもそうですが、やはり法華経の非仏説というのは事実でしょう。
いや、法華経ばかりではなく、よくいう原始仏教以外は直説は無いというものなのかもしれません。
でもそれから現代に至るまでの間、この釈迦の教えをはじめとして、様々な人師・論師が、釈迦の教説をキッカケに思想を深め、体系化し、作り上げたものが仏教なんでしょうね。
何故この様に考えたかと言えば、いま読んでいる「最澄再考」の中で概略として説明されている仏教の内容というか体系というのはとても膨大であり、簡単には全てをつかみきれるものではないという事を肌身に感じて実感しているからなんですね。
ある意味で人類の叡智といってもいいかもしれません。
学問というか学術というか、、、これは大したものなんですね。
(まあ、当たり前の事ではありますが・・・・)
まあ、それはそれとしながらも。
そういった思想体系を持つ仏教というか、そこにある仏法を自分の人生の中にいかに取り入れ血肉化していくかというと、これはまたこれで大変なものでして・・・一言でいえば、簡単ではありません。
「お題目を唱えて、ひたすら学会活動に励めば、自分の血肉とする事が出来る!直達正観なんだ!」
そんなものではないですね。
だって、学会活動というのは所詮は政治団体&コミュニティの活動であって、仏教の修行にはなっていないと思うからです。
なぜかといえば、、、そうですね。。。。
軸がずれているというか、根っこが違うと感じるからです。
所詮は「池田哲学」を基にした「仏教もどき」なのかもしれません。
だって名誉会長のスピーチなんか読んでも、御書の切り文と西洋哲学のパッチワークでしかないでしょう。
内容なんか、仏教哲学の視点から言えば、ものすごく浅いものでしかありません。(何故、世界が賞賛なんて言えるのか??)
学んでもあまり得るものはないかなぁ・・・
それを今回の本を読む中で、改めて感じた次第です。
僕は学問としての仏法には興味はありません。
やはり人生の中で、自分をより深く掘り下げてみたいし、自分自身もっともっと強くなっていきたい。
そういう「個人的な思い」で、今後も仏法については学ぶつもりです。
でも仏法を学ぶ上で大事なのは、やはり人生を噛み締めていくという事ではないでしょうか。
生きていく上では、人生には様々な苦難というのはある意味で付き物です。
それを避けて行ける人生はないのかもしれません。
苦難の度合いというのは、それは人それぞれです。
同じものは無いと思います。
ある人は仕事で悩み。
ある人は家庭で悩み。
ある人は地域で悩み。
ある人は病気で悩み。
挙げれば切がないと思います。
でも「悩み」があるから、自分の人生というものを直視する機会が増えます。
そして直視するからこそ、乗り越えるべきものが見えてくると思うんです。
その乗り越えるものが見えた時、仏法というのが大事な「支え」になるのではないでしょうか?
けして「人まかせ・他者まかせ」という「他力本願的」なものではなく、自分自身に内在する可能性というのを引き出す「支え」として。
それだけの人類の叡智がつまっているのが、実は仏法だったりして。
すみません。
今日の記事は何か「ダラダラ感満載」なものですが、今の僕が考えているのはそういった内容です。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。

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