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NW9の内部被曝報道 - 避難住民への再検査が必要
このところ、マスコミ報道が脱原発の方向に傾斜しつつある。昨夜(5/25)のNW9のトップで放送された、福島第一の作業員の内部被曝を伝えたニュースも衝撃的な内容だった。それによると、東電の基準値では、1500cpmで再検査、7500cpmで精密検査とされているにもかかわらず、取材映像に登場した作業員は、5000-8000cpmの被曝線量が計測され、中には8万cpmの作業員もいたと言う。このcpm(カウント)という単位は、平素のテレビ報道では耳慣れないもので、通常は専らシーベルト(μsv/h、msv/h)が使われている。NW9はcpm(count per minute)の単位については説明せず、カウントとシーベルトを換算する情報を案内しなかった。ネットの中を見ると、100cpm=0.8μsv/hという情報がある。換算できないという情報もある。仮にこれでシーベルトに変換すると、8000cpmの線量値を計測された者は64μsv/hの内部被曝量ということになる。彼の傍へ行って線量計を近づけると、毎時64マイクロシーベルトの針が振れるという意味だ。彼の体の中に放射性物質が入っていて、体の外に放射線を出しているのである。この内部被曝がどれほど甚大で深刻な値かは、年間20ミリシーベルトの環境が毎時3.8マイクロシーベルトである基準からよくわかる。東電の作業員に対する内部被曝基準も、そしてそれを計測する大型の装置があるのも、今回の報道で初めて知った。3月に福島の避難住民を体育館前で列に並ばせて、白衣の防護服姿の人間が検査していたのは、カウント(cpm)の単位の線量計測なのだ。


このNW9の報道内容にも戦慄を覚えるが、関連してもっと驚いたのは、事故当時、福島県が避難住民に対して適用していた被曝基準の情報である。あのとき、県の担当者がスクリーニング作業をしていたが、そのときの基準値は10万cpmなのである。3/13までは1万3千cpmを適用して、それ以上は除染が必要としていたのを、3/14以降は10万cpmに基準値を引き上げ、それ以下なら問題なしと対処している。この避難住民の放射線被曝計測は、純粋な内部被曝ではなく、避難時の着衣の上からのものだから、東電の作業員への内部被曝基準とは少し意味が違うとは言えるが、それにしても、10万cpmの除染基準には愕然とさせられるし、1万3千cpmでも大丈夫だろうかと首を傾げざるを得ない。何も知らない避難住民を寒い中に並ばせて、担当者がサーベイメーターを頭や喉に翳して調べていたが、そこでの線量値が内部被曝か外部被曝かを、一体どうやって判別できたのだろう。1万cpm以下の線量だったとしても、それが内部被曝によるものであったなら、きわめて重大な健康被害なのである。まして子どもの場合は。もう一度、内部被曝のみを最初から厳密に再検査する必要がある。これは、厚労省がただちに動くべきで、議員は委員会の質疑で取り上げるべきである。再検査した結果、凍りつくような恐怖と絶望の事態が判明するかもしれないが、避難住民の不安を取り除くべく、内部被曝の再検査は避けてはならず、被曝量が多かった被害者には補償措置を講じなければならない。

NW9の報道は、情報としては衝撃的で画期的と言えるが、それに対する解説が全く提供されておらず、その点に大いに問題を残すものだ。放射線医学の専門家が出て、ニュースの意味を解説しなかった。常連である御用学者の口からは解説できない問題なのだろうが、であれば、別の人間を登場させて解説させる必要がある。これまで、NW9の視聴者はカウント(cpm)の単位の説明を受けたことがない。映像に出て来た内部被曝を計測する大型装置は、おそらく東電の保有するものだろうが、いつどのようにして撮影したのか。報道からは、東電が作業員の健康管理に際して、外側に装着した線量計の積算値(シーベルト)ではなく、むしろ内部被曝の線量(カウント)を重視していた内情が窺える。外に付着した放射性物質は洗浄して除染できるけれど、体内に入ってしまえばそれは不可能だからだ。また、放射性物質が体内に入る事故は、大気中から呼吸で取り込まれる経路が大きい点も指摘されていた。これらの内部情報は、従来は明確に伝えられてこなかったもので、報道関係者は東電に記者会見の場で問い質す必要がある。保安院に対しても、避難住民の被曝検査において、外部被曝と内部被曝を識別できていたのかどうか、と言うより、内部被曝を捕捉できる計器や検査が用意されていたのかどうかを確認する必要がある。もし、内部被曝が未検査であるのなら、その早急な実施は急務だろう。避難を指示した政府の責任だ。

広瀬隆や小出裕章が、内部被曝が大事なのだということを口を酸っぱくして言っていたが、ようやくその意味が理解できるようになった。内部被曝については、未だ被災者に対して正確な検査が行われてないという意味だ。除染のためのスクリーニングレベルを1万3千cpmから10万cpmに引き上げたのは、例の年間20ミリシーベルトと同様、やはり原子力安全委員会の決定である。斑目春樹。おそらく、厚労省と官房長官から基準値引き上げの要請が斑目春樹のところに来て、よっしゃと引き上げをオーソライズする決定文書を出したのだろう。根拠はIAEAのマニュアルとなっている。不審なのは、斑目春樹からの文書が3/20付で、厚労省の文書が3/21付で出ている点である。新聞情報では、3/14の時点で福島県がスクリーニングレベルを引き上げていて、「国が派遣した放射線専門家の意見を聞いて決めた」とある。厚労省が正式に文書通達する以前に、県の判断で基準値を引き上げさせている。これは、法的に問題がないのだろうか。無論、県が勝手に独断できるはずがなく、1万3千cpmのままでは基準を超える者が続出して対応できなくなるから、厚労官僚が福島県に先に指示したのである。正式な文書手続を後回しにしたのだ。この件、年間20ミリシーベルトへの基準値引き上げと同じで、中身と形式の両面の妥当性について、あらためて検証しなければいけない問題だろう。もし、IAEAがこの10万cpmの基準を子どもに適用しているとすれば、IAEAの判断そのものが問われることになる。

それにしても、最近のNHKはすっかり放射能恐怖症になった感があるが、3月の報道はどうだったか。あの当時、NW9に出て来た放射線医学の専門家はこう言っていた。体内に入ったヨウ素131は半減期が8日だから影響はどんどん小さくなり、半減期30年のセシウム137は筋肉に溜まった後にすぐに体外に排出されて健康に影響はないと。その「解説」を受けた大越健介は、「なるほど、慌てず落ち着いて、政府や専門家の正しい情報をよく聞いて安心することが大事ですね」と総括していた。それがNHKの国民へのメッセージだった。大越健介や古舘伊知郎は、2か月前に発した自分の言葉を忘れたのだろうか。この二人は、御用学者をスタジオに総動員し、御用学者が吐くデマを「専門家の正しい情報」だと言って信じ込ませ、公共の電波を使ってデマを拡散させていたのである。御用学者と同罪だ。これから事故調査委が始まり、事故の原因や東電と政府の初動対応について検証が始まる。調査の対象は、現在のところ東電と政府(安全委・保安院・閣僚)だが、ぜひここにマスコミを加えるべきで、マスコミが3/11以降に何をどう報道したか、それが正確な情報提供だったかを審問する必要がある。マスコミを免責の対象にしてはいけない。 原発報道に登場した「専門家」や「解説者」の発言内容と、その根拠を明らかにしなくてはならない。放送法の規定を逸脱して、なぜ原発推進派ばかりをテレビに出したのか。広瀬隆が新著を書いた動機は、事故後のマスコミ報道があまりに滅茶苦茶で、黙っていることができなかったからだ。

一昨日(1/24)、東電は3号機の高圧注水系の配管が地震で破損し、炉心冷却が不可能になったとする解析結果を発表した。これまでの「想定外の津波による非常用電源の喪失」を原因とする立場から、一転して地震による配管破損を原因と認める説明に変わった。これは、事故の初発から広瀬隆や田中三彦が指摘していた問題であり、事故をめぐる重大な争点の一つだったが、広瀬隆や田中三彦が正しかったことを東電自身が認めたことになる。東電の立場が変わったのは、IAEAの査察を前にして、嘘をつきとおすことができなくなったからである。賠償スキームで政府が責任を引き受ける落着になり、会社の存続を安堵した点も大きいだろう。メルトダウン、配管破損、格納容器の穴と、次々とこれまで認めてなかった事実を認めている。ここで思い出すべきことは、岡本孝二や山口彰だけではなく、あの水野倫之が、「水素爆発はしたが原子炉の健全性は保たれている」と解説を垂れていたことだ。当時のNHKの事故解説は、東電と官邸の発表をそのままオウム返しするだけで、パネルの圧力容器には穴はあいておらず、核燃料も下に落ちていなかった。それを疑って検証する解説は全くなかった。今、水野倫之は当時の自分を忘れたかのように東電批判に回り、それを大越健介が煽る巧妙な報道になっている。いつの間にか東電を糾弾する「正義の味方」になっているのだ。東電の「解析」発表は、ことごとく広瀬隆や田中三彦や小出裕章の主張の正しさを証明する結果に出て、批判派の説得力と信用度が日を追って高まる状況になっている。



by thessalonike5 | 2011-05-26 23:30 | 東日本大震災 | Trackback | Comments(0)
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