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[27529] 町に佇み(現代伝奇モノ、R15相当)
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/25 10:10
~はじめに~


 皆様、初めまして。
初投稿させていただきます、わたくし、Phyche(さいけ)と申す者です。
稚拙な文章を上げて、お目汚しをすることも多々あると思いますが、そういった点はどんどん指摘していただければ幸いです。
以後よろしくお願いいたします。


 本作「町に佇み」は「現代伝奇ファンタジー」テイストな内容となっております。
Arcadia様に投稿させていただくべく、作者が高校生の時に少し書いていたものを全面的にアレンジし、一から書き直しました。そのため、話の流れ自体は単純だと思います。
無駄に設定が膨らんでいる箇所もあるため、外伝をたくさん書けそうなのですが、とりあえず本編は短くシンプルにまとめ、一旦完結させようと思っております。
最初は魔物退治ばかりですが、そのうち超魔術バトルみたいになるかも……ある程度設定は練ってあるので、強さのインフレは起きないはずですが……どうなることやら、作者自身にもわかりません。
グロテスクな描写や、ちょっとエロい描写があるので、R15です。
必要以上にエロくするつもりはありませんが、話の流れ上、そういう描写を入れざるを得ませんでした。申し訳ないです。


 1話の長さはどのくらいにすればいいのか、行間は空いた方が読みやすいのか否か、色々と手探りではありますが、どうかお付き合いいただければ幸いです。
 とりあえず、最初の時点(2011/5/2)では、1話1話がメモ帳で50kb~100kbほどのものを、ドドーンと一括アップしていこうとしていたのですが、早速読みにくいとの指摘をいただきまして、慌てて分割&段落、会話文ごとにスペースを入れてみました。まだ読みにくいようでしたら、遠慮なく言っていただければと思います。


とにかく文量多いです。
多いので、書くのも大変ですが、読み返すのも大変です。
誤字や矛盾や説明不足の箇所もあちこちから噴出してくるかもしれません。
気づいた都度、修正するよう心がけて参りたいと思います。


第零話:2011/5/25 UP
第一話:2011/5/2 UP
第二話:2011/5/3 UP
第三話:2011/5/3 UP
第四話:2011/5/9 UP
第五話:2011/5/19 UP
閑話:2011/5/22 UP
設定:2011/5/22 設置


~以下、余談(長いので、読まなくてもいいです)~


 さて、この作品を書くに辺り、作者は実に多くの作品の影響を受けました。
(以下、作家さんやサイトさんなどの敬称は略させていただきますが……)
まず、ラノベ大好きだった高校生の私は吉田直の「トリニティブラッド」や冲方丁の「カオスレギオン」などのヒロイックファンタジーを読む中で「魔物を斃しながら、成長していく主人公を書きたい」と思い、真っ白な状態から「町に佇み」というタイトルと、メインキャラクターだけを生み出しました。
その設定をどう活かしていくか考えているところに出会ったのが、奈須きのこの「空の境界」でした。魔術の解釈の仕方かっこよすぎだろ! と思い、その解釈を自分なりに噛み砕いて、設定に反映させたりしました。
次に、これはマンガですが、矢野健太郎の「邪神伝説シリーズ」も外せないところです。神話的な要素も入れたい、とこのマンガをクトゥルー神話の神々を見て思ったのでした。
高校生の頃は、陰鬱とした自分と町に佇みという作品を重ねて、「灰色の物語」を書こうとしていましたが、その後、大学生となり、社会人となり、趣味や嗜好するものも少しズレました。


転機は、18禁ゲームになるのですが、ライアーソフトの「スチームパンクシリーズ(シナリオ:桜井光)」です。
それまで、自分の書きたいものがなかなか見つからずに迷走し続けていた私はこの作品で「テンプレ美」というものに出会い、「自分も文章を書きたい」と改めて意欲をかき立てられました。
私の意欲をもっともかき立てたのは、このArcadiaのその他板に投稿されていた「聖なるかな」の2次創作、PINO様(敬称を略せなかった)の「THE FOOL」です。私が読みだしたときにはすでに完結していて、かなりの文量があったのですが、面白すぎて2日間で読破してしまいました。こんなに夢中になって文字を読んだのは、本当に久々の経験でした。
「THE FOOL」に感動しすぎて、勝手に3次創作を書き始めてしまったり……結局途中で放置してしまいましたが、執筆から遠ざかっていた私にとっては、よいリハビリになりました。
3次創作を放置してしまった理由は、主に「オリジナルが書きたい」という欲求を抑えきれなくなったためです。
小野不由美の「十二国記シリーズ」や上橋菜穂子の「獣の奏者」「精霊の守り人シリーズ」などに触れ、「今の自分の趣味に合うのはこれだ」と確信した私は、「今の自分が読んでて面白いと思える作品」を目指し、今までにないような勢いで執筆を始めたのでした。


今、恥ずかしながら仕事をリタイアして専門学校生です。国家試験合格を目指しての勉強があるため、かなり遅筆になると思います。
しかし、自分に鞭打ち、何としてでも書き上げるという意気込みでこの作品の執筆に臨む所存であります。
下読みしてくれる友人Hくん、凸くんや、このオリジナル板に投稿されているむちむちぷりりん様(やはり敬称は略せない)の「オーバーロード」の更新(わたくし、ファンです)などを励みに、頑張ってまいります!
(オーバーロード面白すぎて、鬱だ死のうって思ってしまう今日この頃……)

以上、作者の決意表明でありました。



[27529] 町に佇み 第零話『始まりの詩』
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/25 10:07
第零話『始まりの詩』



「ウィオラ、ヤツらが来たわ。今のうちに、早く逃げて!」

 一人の女が、親友を庇って叫ぶ。

「でも……」

 庇われた女――ウィオラは逡巡する。逃げることなど、出来るはずがない。

「イーリスを置いて私だけ逃げるなんて、できないわ」

「今のあなたは、足手まといでしかないわ。だったら、ここに残っても無駄死にするだけよ」

 ウィオラからイーリスと呼ばれた女は、ウィオラを突き放すように冷たく告げる。それは愛情からくる優しさの裏返しなのだと、ウィオラには痛いほどわかってしまう。

「囮になることくらいなら、できるかもしれない」

「バカ言わないで!」

 イーリスの手が、ウィオラの肩に置かれる。その勢いの強さに、ウィオラは瞠目する。

「親友にそんなちっぽけな死に方させたら、末代までの恥だわ」

 イーリスの目に、涙が溜まる。

「大丈夫、私なら大丈夫だから。ヤツらになんか、負けたりしない」

 嘘ばっかりだと、ウィオラは思う。なぜなら、ヤツらを相手にして生き残った仲間は、一人もいないのだから。だからイーリスは目に涙を溜める。生き残れないのを知っているから。これが、今生の別れとなるから。

「……そうだね。落ちこぼれの私と違って、優等生のイーリスなら勝てるかもしれないね」

 ウィオラは、イーリスの嘘を指摘できずに、嘘で返す。

「じゃあ、早く行きなさい。もう、時間がないわ」

「イーリス……」

 目の前のイーリスの顔がぼやけていくのを感じながら、ウィオラはイーリスへと抱きつく。

「イーリス……今まで、ありがとう」

「何よそれ。まるで私が死ぬのを確信してるみたいな物言いじゃない」

 嗚呼、イーリス、あなたはなんて強いのだろう。ウィオラは、心の中で讃辞を送る。

「イーリスは強いね。やっぱり、勝てるよ」

「そうだよ。私は、強いんだから……」

 二人が次の言葉を探している時、遠くから男の悲鳴が響く。

「今の悲鳴……アウィスの声だわ。もう時間がない、早く行って!」

 強く突き放され、ウィオラはよろめく。

「早く、遠くへ逃げるのよ!」

「絶対無事でいてね、イーリス……」

 そして歯を食いしばり、ウィオラは駆け出す。近くの草むらで一旦身を隠し、次に身を隠せる場所を探す。と、その時――背後で爆音が響いた。

 思わず振り返った先には、全身に暴風を纏うイーリスと、法衣の男が対峙していた。

 噂には何度も聞いていた。でも、彼女が実物を見るのは初めてだ。白と黒の法衣を纏い、胸には二重十字(ダブルクロス)が光る。ウィオラをはじめとする全ての半鳥人(セイレーン)たちが恐れてきた、殺戮者がそこにいた。

「忌々しい魔物め。その所業を恥じて、歪みの彼方へと消えよ」

 法衣の男は、右手を前へ上げる。口の中で素早く呪文が囁かれ、そこに光が生じた。その光が動き出すより早く、イーリスが動く。

「おぞましい殺戮者。お前たちに正義はない。その報い、体で受けてみよ」

 イーリスが吼えるように言うと同時に、彼女の全身を取り巻いていた暴風が法衣の男へ向かって無数の鎌鼬を繰り出す。概念さえをも切り裂いて見せる、奇跡の刃――半鳥人の持つ、詩の力だ。普通の人間ならば、まず間違いなく即死するであろう一撃だった。しかし、法衣の男はそれを全身で受け止めてなお、健在である。

「我々に、詩の力は通用せん」

 そして、男の右手に溜まっていた光が弾けた。上下左右から、無数の光の球がイーリスに迫る。イーリスは身に纏う鎌鼬を強化して、これを何とか耐えしのごうとするが――まるで鎌鼬など最初からなかったかのように、光の球はイーリスの体へと達する。身体能力と勘を駆使して半分ほどを回避するが、残り半分は次々と彼女の体に突き刺さっていく。そこから血が流れ出し、イーリスの全身は赤く染まっていく。

 その様子を遠くで見ていたウィオラにも、法衣の男の強さが身にしみて感じられた。あれは、私たちが敵う相手じゃない、と。

「噂には聞いていたけど、本当に通用しないとはね」

 イーリスの声に、苦悶と恐怖が混じる。付き合いの長いウィオラには、そのことがはっきりとわかってしまう。

「即死しなかっただけ、褒めてやろう」

 勝者の余裕で、法衣の男は薄く笑う。あれは、悪魔だ。遠くから見ているはずなのに、ウィオラの背中を寒気が走り抜けた。親友の背中に祈る。逃げてくれ、と。

「しかし、二度目はない」

 再び、男の右手に光が集い出す。イーリスは自らに近づく死を予期しつつも、詠うことをやめない。一縷の望みを託し、再び法衣の男へ向かって鎌鼬を飛ばす。

「効かぬと言っておろうが」

 意に介す様子もなく、男は悠然と構える。鎌鼬は男へと迫り、弾ける。しかし、男にぶつかって弾けたのではない。男にぶつかる寸前で、自ら弾けた。その手並みは鮮やかで、法衣の男をもってしても反応しきれなかったほどだ。

「何!?」

「詩の力を、舐めないことね」

 鎌鼬は男にぶつかる寸前で弾けて、イーリスとの間の直線の空間を根こそぎ消し去ったのだ。その消え去った空間を均等に戻すべく、周囲の空間が吸い寄せられて、二人の距離は瞬く間に詰まった。元々イーリス自身が加速し出していたこともあり、彼女の腕が男へと到達するのには、時間にして一秒も要さなかった。

 男の胸から、鮮血が吹き出す。イーリスの右腕が、男の胸板を突き破って背中へと突き出ていた。

「これで、一矢報いることができたかしら?」

 イーリスは、弱々しく微笑む。普通の人間ならば、これで死んでいるだろう。しかし、ヤツらは普通の人間ではない。そのことをわかっているからこそ、イーリスは確信を持って自らの死を理解する。

「……やってくれるではないか、半鳥人。しかし――」

 男は胸板を貫かれながらも、右手に宿った光を解放した。ゼロ距離で弾けた光は、全てイーリスの体へと吸い込まれる。次の瞬間、無数の肉片が飛び散った。まるでスイカを割るように、呆気なく、弾け散る。誰よりも強く、誰よりも優しく、誰よりも美しかった親友は、一瞬にしてカタチを失って、この世界から消え去った。

 直後、ウィオラの足は弾けるように地面を蹴っていた。彼女は逃げる。ヤツらから逃げるのではない。親友の死から、逃げたのだ。親友が死ぬ瞬間を前にして、何も出来なかった自分が情けない。ウィオラの視界は涙でぼやける。何度も涙をぬぐい、嗚咽を噛み殺し、遠くへ駆ける。

 どれだけ走っても、後悔は追ってくる。しかし、ヤツらが追ってくる気配はなかった。全ての現実から逃げるようにして、ウィオラはその後も走り続けた。



 この日を最後に、半鳥人は地上から姿を消した。たった一人の例外を除いて――。





※2011/5/25 冒頭に零話追加



[27529] 町に佇み 第一話『鏡面の真似師』 Part1
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/04 20:26
 W大学の学生楢橋瞳(ならはし ひとみ)は、その日もいつものように自室の鏡を見ていた。正確には、鏡に映る自分の姿を見ていた。見惚れていたと言ってもいい。全身がすっぽりと収まるロングミラー。彼女が自身で稼いだバイト代で初めて買ったのが、この鏡である。それほどに気にいった鏡。ピカピカに磨かれたお気に入りの鏡に、自身の姿が映る。なんて自分は美しいのだろうか、この美しさは罪ではないか、とさえ思う。

「あ、また汚れてる」

 鏡面の一部に、埃がついている。それをクロスですっと払い落し、再び鏡を見つめる行為に耽る。この光景を第三者が見れば、おそらく顔を顰めるに違いない。この女は一体何をやっているだ、と。無論、誰かに見られたらそう思われてしまうことを本人も承知している。だからこうして、自室でひっそりと一人のモデルショーを行う。モデルは自分一人、観客も自分一人。だから、どんな大胆な服もポーズも試すことができる。

「これはさすがに恥ずかしいな」

 と、自分で照れながら、日々色んなコーディネートを楽しむ。雑誌の服を真似るのはいいのだが、ポーズまで真似ると、色気が足りずにかえって間抜けになることもある。もっといい女になりたい、と思う。今でもなかなかに綺麗な自信はあるが、どうしても子どもっぽさが抜けない。彼女の不満は、その一点を置いて他にない。

 もっと大人っぽくなりたい。彼女の美への執念は、そこに集約される。その執念が、鏡を歪ませる。

「あれ?」

 彼女の目がおかしくなったのかもしれない。あるいは、彼女の認識がズレたのかもしれない。いや、両方とも違う。

「私、こんなに色っぽかったっけ?」

 彼女は気づいてしまった。自分の姿が、正しく鏡に映っていないことを。それに気づいてはいけない。

「あれ、胸大きくなってる?」

 ありえないことだった。急激にバストが大きくなり、ブラジャーが皮膚に食い込んで窮屈さを訴える。鏡に映った自分の姿が、今の自分の姿へと置き換えられた。それに気づいてはいけない。

「あれ、何これ……おかしい、おかしい……」

 嬉しさなど感じなかった。彼女は自身の急激な変化に戸惑い、程なく恐怖する。自分の身に、異常な力が働きかけている。その事を悟った瞬間、彼女の心は壊れた。まるで、ガラスが砕け散るように、粉々に。

「あ、ああ……あああああああああああああ」

 そして彼女は見てしまった。鏡の中の自分が、笑っているところを。戸惑いや焦りの表情を浮かべていたはずの自分の顔は、無邪気に笑っていた。恐怖に顔を引き攣らせているはずのこの瞬間も、鏡の中の自分は笑っている。

「くすくすくす」

 まるで無邪気な子どものような笑みを浮かべながら――それでいてどこか無機質な印象を与える笑みを浮かべながら、鏡の中の彼女は手を伸ばす。それ以上伸びないはずの空間へ――鏡の手前側の空間へと、手を伸ばす。まるで手品のように、鏡の中から現れた手が、本物の彼女の肩を掴む。優しく、傷つけないように触れる紛い物の手……しかし、逃れることのできない拘束の力を持っていた。

「や、いやああああああああああああああああああああああああああああああ――」

 それは、人が恐怖の内に絶命する際の、最期の叫びだった。掴まれた肩から、彼女は鏡の中へと吸い込まれる。その姿が消え、部屋の中には静寂が訪れる。鏡には、部屋の内装が映るのみ。

 楢橋瞳は、姿を消した。翌週に友人たちと計画した小旅行の約束を残して、姿を消した。



 一人の男がいた。若い男だ。一つの惨劇を、ビルの屋上からじっと見守っていたその男は、左手に持っていた本を広げる。そして、静かに謳う。

二〇一一年、五月二〇日、午後一一時一三分。
その惨劇を記録しよう。
遍く歴史を綴る本は、ここに在る。
歴史の闇など存在しない。
我々が、光照らし続ける限り。

 それは美しき歴史書。救われぬ人々に、埋もれ消え去る人々に、光を与えるモノ。
 一人の女性が魔物によって殺されたことを記し、男は静かに本を閉じる。

「それは誰が言ったか――」

 大国の王か、違う。探求する科学者たちか、違う。神秘を求めた魔女か、違う。誰かだ。名もなき誰かが、それを言った。

「誰かがそれを言った。曰く――」

曰く、鏡の中には魔物が棲むという。
鏡の中に映る自分は、本当の自分の姿ではなく、鏡の中の魔物がそういう風に見せているだけなのだ。
故に、鏡の中の魔物に気にいられ過ぎたり、嫌われ過ぎたりすると、現実との齟齬が生じる。
現実との齟齬が大きくなりすぎた時、鏡の中の魔物は、その人の存在を己の中へと取り込み、その人の存在を消してしまうという。
誰かがそれを、真似師(ミミック)と呼びだした。
曰く、鏡の中には真似師が棲むという。
それは、新たな都市伝説――
誰かが叫んだ、都市伝説――



……



 近頃、魔物の姿を頻繁に見かけるようになった。原因は不明。しかし、異常事態であることは確かだ。人間に害を及ぼす魔物が、少なからず増えている。現に、俺の目の前には魔物が立っていた。

 見た目だけで言うならば、幽霊――いや、怨霊だろうか。生に執着し、「生きている者の生命力を吸って集めれば、再び蘇ることができる」と信じているモノたち。<執着者(スティル・デッド)>。死ぬ直前の服装で街中を漂い、生命力の強い者に憑依しては少しずつ生命力を吸い取り、その憑依対象者が弱ってくると次の対象へと移る、という行為を繰り返す。これは何も、憑依対象者を気づかってのことではない。単純に、生命力を吸い取る効率を考えてのことだ。もはや、彼らに人間的な理性はない。怨念と執念の塊だ。

「うおりゃああ、消し飛べえええええええ」

 俺は叫びながら、渾身の力を込めて右拳を振り抜く。その拳が執着者の体に接触した箇所に、俺は自身の能力『詩』をぶち込む。それは、メロディを伴うような優美なものではなく、たとえば今のように、声を出している最中に破壊の力を乗せるだけのシンプルなものだ。それを俺と<半女鳥(セイレーネス)>は『詩』と呼んでいる。

 次の瞬間には、可聴域ギリギリの高い悲鳴を上げて執着者が消し飛んだ。それは、執着者となってまで生き返ろうとしたが失敗した、無念の声か。それとも、執着者となった自らの存在を哀しんでの声か。

 有害な魔物なので、見つけたからには斃さざるを得ないが、正直あまり気持ちの良いものではない。同情はしないが、少なからず憐憫の情にかられる。

「うーん、まだまだスマートさに欠けるわね」

 セイレーネスが、俺の背後で酷評を垂れる。

「余計なお世話だよ」

 振り返った俺の目の前には、二十代半ばほどの外見年齢を持つ女性が立っていた。身長は一七〇センチ以上あり、小さな顔に長い脚は、まさにモデル体型と言える。一見すれば、綺麗なお姉さん。しかし、騙されてはいけない。彼女は、人間の姿を模しているだけの、立派な魔物だ。

「素手で触れないと『詩』を使えないっていうのは、リスクが高すぎるんじゃないかしら?」

「これが俺の精一杯なんだよ、悪かったな」

 いつもふらふらと気ままに遊びまわっており、こうしてたまに俺の所にやってくる(本当は「帰ってくる」と言った方が正確なのだが、あまりにも不在の期間が長いためか、そういう感覚はない)。そのたびに、俺の能力の低さを貶していくわけだ。

「本当の『詩』っていうのは、手を動かさなくても行使できる。たとえば、『砕けろ』と一言いってみるだけでいいのよ」

「俺も練習はしてるんだけどな」

 『詩』の理屈だけなら、俺も知っている。

 『詩』――それは、破壊の力。破壊しかできないが、ありとあらゆるものを破壊することが可能な力を秘めている。その破壊の力は、『共鳴』によって起こる。

 あらゆる物体は、固有振動数をもっている。物理的な法則でいう『共鳴』とは、この〝物質が持つ固有振動数〟と波長の合う音がぶつかると、その物体が音につられて振動し出すことをいう。超音波のような甲高い音と波長が合った時にガラスが粉々にくだける映像を、誰しも一度は見たことがあるのではないだろうか。あれが、『共鳴』である。この共鳴を起こすためには、対象の固有振動数に合う周波数のチューニングが必要となる。

 周波数のチューニングができなければ、『共鳴』を引き起こすことは不可能だ。そのためには、二点のことが必要となってくる。第一に、対象の固有振動数を把握すること。第二に、思い通りの高さの音を生み出す能力である。

 第一の点は、何ヘルツで物体が振動するかを調べることで解決する。そして第二の点は、何ヘルツにでも調節できる高性能な音波出力装置があれば対応できるだろう。この二つを、今度は『詩』の能力に置き換えて考えてみる。

 第一の点は、破壊したい対象の構成概念(水でできている、タンパク質でできている、カレーが好きだ、ピーマンが嫌いだ等々)などを把握することで解決する。そして第二の点は、第一の点で把握した、破壊したい対象の構成概念を頭の中でイメージし、それを正しく理解しながら『詩』の能力を解放(つまり詠う)ことで対応できる。この際、「水の性質はどういったものか、カレーとは何か」などを正しく理解していなければならない。

 『詩』の力とはつまり、破壊対象の存在要素を把握すれば、物理的な共鳴など関係なく、全てを破壊することができる比類なき力なのだ。

 ――と、ここまで聞けば、反則的な力を持っているように聞こえるだろう。しかし、反則的であるが故に、扱いこなせない。

 俺の場合は、無理やり物理的な共鳴点をつくりだすことによってのみ、『詩』の力を行使することができる。だから、魔物を殴る必要がある。俺はまだ、自分のパンチやキックの共鳴点しか見つけることができていないのだ。もし、物理的接触が不可能な敵と出会った場合には、逃げるしかない。幸いにして、今のところはそんな相手に出会ったことはない。常人が触ることのできない魔物たちであっても、魔力を込めた俺の拳はしっかりと届く。だから、先ほどの怨念を難なく斃すことができたのだ。

 セイレーネスの場合は、『詩』を真に使いこなす。標的となる魔物が、例えば先ほどの<執着者(スティル・デッド)>だったとしよう。彼らを構成しているものは生命への執着と、生きた人から奪った生命力の二つだ。これがわかっていれば、破壊は容易い。標的となる執着者の核に向けて、生命という概念を『詩』に乗せてぶつければいいのだ。彼女の場合は、手足を動かさずにそれをやってのけてしまう。

「相変わらず共鳴点を見つけられないわけか。共鳴点なんて、いくらでもあるのに……それをわざわざ作らないといけないなんて、徒労も甚だしいわね」

「結果的に倒せるんだったら、徒労じゃないだろうが」

「走り幅跳びの助走に一〇〇メーター使ってるみたいなもんじゃないの。見てるこっちがダルくなるわ」

「だったら見んな」

 このように、俺とセイレーネスはそれほど仲がいいというわけではない。向こうが俺をどう思っているのか知らないが、少なくとも俺は彼女のことをそれほど気にいっていない。嫌いではないのだが、苦手だ。一緒にいる時は何かと積極的に会話をしている自分がいるが、これは少しでも彼女への耐性を付け、彼女を苦手とする自分を克服したいと思ってのことだ。仲良くなれるならば、なりたいのだが……。適切な距離の取り方を試行錯誤している、といった状況だ。短い付き合いではないのだが、未だに彼女には慣れない。猫のような性格の彼女に、翻弄されっぱなしである。

「まぁ、制御できずに自壊されても困るから、背伸びしろとは言わないけど。何せ――」

 彼女は、わざとらしく一呼吸置いてから続けた。

「何せ、私とあなたは、魂の契約者なんだから」

 俺が彼女を苦手意識する、その最たるところが、この『魂の契約』という言葉である。契約――それは、縛りつけるモノ。

「俺は好き好んでお前みたいなヤツと契約してない」

 そう、俺自身は契約など交わしていない。彼女と契約を交わしたのは、俺の遠い先祖だ。その遠い先祖の魂の中に、セイレーネスが組み込まれ、宿主が死んでもその子孫に魂ごと生まれ変わり続けてきた。俺は、その犠牲者にすぎない。

「怨むなら、先祖を怨むことね」

 先祖など、俺の中では想像上の人物に等しい。そんな虚像を怨むくらいなら、今、目の前の対象を怨んだ方が賢明というものだ。

「俺の先祖だけを悪者にしようたって、そうはいかねぇ」

「あらあら、こわいこわい」

 ちっとも怖がる様子もなく、セイレーネスは言う。この彼女の性格が、きっと今の状況を作り出したのだろう。こんなに軽いから、『歌声』を奪われてしまったに違いない。

「ところで、お前が帰って来たってことは、アレか」

「そう、アレ」

 つまり、アレなのだ。

「聖(さとる)のご飯、楽しみにしてるから」

 所持金が尽き、俺におこづかいをもらいに来たのだ。

「いい加減バイトしろよ」

「えー、いやよ。労せずして生きる、これが幸せってヤツでしょう?」

 これではまるで、ダメな姉貴の面倒を見ている弟だ。

「恥を知れ、恥を」

「恥じゃお腹は膨れませーん」

 屁理屈を捏ねるガキだ。見た目はいい大人だが、こいつの中身はガキなのだ。

「せめてさ、俺が大学卒業して就職するまでくらいは我慢してバイトできないのか?」

「だから、我慢してるじゃないの。これでも節制してるんだから」

「嘘を言え! 服を衝動買いして、連日こづかいねだりに来るくせに」

「てへ」

「その舌出しながら頭を叩くポーズ、キモイからやめろ。反吐が出るわ」

 経済的にゆとりがあるから許容できてしまう辺り、何とも情けないものである。普通なら、こんなカス、臓器売買くらいしか利用価値がない。

「反吐は出さなくてもいいからお小遣いを出してよ」

 どんな悪口を言っても、完全にスルーして自分のペースを押し通すあたりが、たまらなく苦手だ。おかげで、いつもいいようにあしらわれている。

「わかった、わかったよ。その代わり、洗い物くらいは手伝ってくれよな」

「イェッサー」

 こうして俺は、困った姉の様な契約者と過ごしている。実際に会っている時間はそれほど多くないのだが、今の自分の生活の主たるところと、彼女は非常に密接な関係にある。だから、ここから語ることとしよう。俺の怠惰な日常から――。



第一話『鏡面の真似師(ミミック)』



『おはようございます。五月二八日、朝七時のニュースです』

 小さく、テレビから漏れてくる音声がある。しかし、俺はニュースを全く聞いていない。そもそも、テレビを点けた記憶がないのだから。きっと、セイレーネスが夜更かししてテレビを見て、電源を落とさずに眠ってしまったに違いない。電源を落とすのも面倒なので、放置しておくことにしよう。

 ニュースを読み上げるアナウンサーの声をBGMにしながら、俺は朝のトレーニングを開始する。

「爆ぜろ、爆ぜろ、爆ぜろ」

 まん丸のノド飴を手のひらに乗せながら、ひたすら念じる。

「爆ぜろ爆ぜろ爆ぜろ爆ぜろ爆ぜろ爆ぜろ」

 決して、頭がおかしくなったわけではない。

「爆ぜろおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 断じて、頭がおかしくなったわけではない。

「……だめか」

 俺は諦め、そのノド飴を口の中に放り込んだ。この方が、ノド飴にとっては幸せだったに違いない。

「どうしたの、朝から大声出して」

 俺の声に目を覚ましたのか、セイレーネスがのっそりと起きあがった。ひどくラフな恰好だ。上半身はちゃんと服を着ているように見えて、白のハーフトップのみ。おまけに、ローライズのジーンズがローになり過ぎて、パンツが丸見えの状態ときている。何を狙ってか、真っ黒なレースのパンツだ。

 その描写だけを見れば、ちょっとセクシーに思えるかもしれない。世の男性諸君は、それを羨むのだろうか。しかし、騙されてはいけない。右手で寝ぼけ眼、左手で寝癖頭を同時にゴシゴシやっている所作のせいで、色気は微塵もないのだ。そして、ここは俺の部屋であるはずなのに、何となく居心地が悪くなるというデメリットまで付属してくる。学生向けのワンルームマンションなので、個室なんていう気の利いたものはない。

「トレーニングに決まってんだろうが」

 俺は少し憮然としながら答える。こう答えてしまえば、その後のセイレーネスの反応は決まってくる。しかし、適当な言いわけを思いつかなかったのだから仕方ない。

「え、今のが、トレーニング……」

 次の瞬間、セイレーネスが腹を抱えて笑い出す。

「そ、そのマヌケな行為が、トレーニング?」

 息も絶え絶えに、俺をバカにする。

「笑ってろよ。ってか、笑うなら効率的なトレーニングを教えてくれよ」

「そんなの、わかるわけないじゃない。生まれつき当たり前のように『詩』を使えるのに、それを誰かに教えるとか無理でしょう?」

 確かに、努力して得た力ならまだしも、元から持っていた力の会得方法など、本人が知る由もない。

「魚に肺呼吸教えるみたいなものよ」

「そこまで言いますか」

 つまり、お前にはムリだ諦めろ、と?

「まぁ、努力してるのは素晴らしいことだと思うけど……朝一から爆ぜろはないでしょう? 笑い過ぎて、私の腹筋が爆ぜるわ」

「人のプライベートに土足で上がり込んだ上に、それを笑い飛ばすのかお前は。よーし、わかった。出てけ」

 そりゃ、俺だって、さっきの行動がまともだと思ってやっていない。だが、自分の力を引き出すための努力は、何らかの形で行いたい。強くなって、害ある魔物をぶっ潰さなければならない。そう、アイツらは――人の幸せを平気で壊すのだから。

「ご飯食べて、おこづかいもらったらすぐに出ていくから」

「今すぐ出てけ」

「じゃあ、早急にご飯食べて、おこづかいもらって出ていく」

「お前が出ていくまで、俺は朝食を用意しない」

「ちょーしょくが用意されないとか、ちょーショック!」

「俺の部屋を北極にするつもりか!」

 俺が叫んだ瞬間、口の中にあったドロップが爆ぜた。しかし、もはやそんなことはどうでもいい。

「せめて服を着る時間くらいはいてもいいわよね?」

「魔物に恥じらいもくそもないだろう!」

「確かに、見られても減るもんじゃないし?」

「なら、今すぐ出てけ」

「下着姿の女性を追い出しますか、普通?」

「お前に普通という言葉は似合わない」

「この鬼畜!」

 魔物に鬼畜と言われて、妙な気分になる。しかし、俺は何を言われようとも引き下がるつもりはない。

「さぁ、出てけ」

 俺はセイレーネスのジーンズのベルト通しに指を引っかけ、彼女を引っ張っていこうとするが、彼女の抵抗に遭う。

「朝食食べるまで出ないいいいいいいい」

「出てけえええええええ」

 ドア横の壁の出っ張りにしがみつくセイレーネスと、その腰を掴んで引っぺがそうとする俺。人外の握力と、男の腕力、意地と意地のぶつかり合い――って、朝から何やってるんだろうな、俺。

 しかも、こんなドタドタをやっているタイミングでインターホンが鳴る。

「ひじりちゃーん、入るよー」

 勝手にドアを開けて入って来たのは、同級生で幼馴染の山ノ井精華(やまのいせいか)。朝食を一緒に採ろうと、こうして朝早くに俺の部屋にやってくることがある。施錠されていたはずのドアが開いたのは、彼女が合鍵を持っているためだ。彼女に合鍵を渡しておくと、気づけば食事が用意されているという特典が付いてくる。ちなみに、俺のことを「ひじりちゃん」と呼ぶのは彼女しかいない。俺の名前は海詩聖(うなたさとる)だ。聖の漢字を訓読みして「ひじり」ということらしい。しかも、かなり幼い頃からそう呼ばれている。一体何がどうなってこう呼ばれ出したのか、俺にもさっぱりだ。

「精華もこいつを追い出すのを手伝ってくれ」

「精華ちゃん、早くこのレディの肌を触る汚らわしい手を解いて」

「朝一から何やってるの、あなたたち」

 精華は呆れるのみで、介入してこようとはしない。

「台所借りるから、朝食できるまでに和解しときなさいよ」

 そして、俺たち二人を無視して精華は調理に取りかかる。少し腰を曲げて水場の下の棚からフライパンを取り出す際、長く伸びた彼女の黒髪がさらりと流れる。縮れは微塵も見受けられない。これでストレートパーマをかけていないというのだから、大したものだ。生まれ育ちの良さは、こういうところにも出てくるのか。

「精華、朝食は二人分でいいぞ」

「私の分もお願いよ、精華ちゃん」

「はいはい、ちゃんと四人分作るから」

 四人分? 一人分多いのではなかろうか。あ、いや、ちょうどだ。彼女の連れの分が必要だ。

「そうそう、ちゃんとあたしの分も作ってよね」

 女の子の声がする。小学生くらいの、幼い声だ。しかし、姿はどこにもない。これが、精華の連れである<不可視(インビジブル)>の魔物だ。俺が見えないのはまだしも、セイレーネスにすら見えないのだから、なかなかのツワモノであることがわかる。精華の元に居着いているのは、彼女には<不可視>の姿が見えるからだ。これは力の強さ云々ではなく、相性の問題らしい。俺や精華より強い能力を持つ人でさえ、<不可視>の魔物を見ることは敵わないのだから。

「姿が見えないから、忘れてた。ごめんな」

「仕方ないよ、あたしは高貴すぎて、愚者には見えないんだからねー」

 彼女は、自分が高位の魔物であることを自負しているし、それはどうやら本当らしいのだが、それにしても高飛車でウザい。ガキの声でバカにされると、俺が辛うじて持つちっぽけなプライドさえ傷つけられた気分になる。

「フラウ、言い過ぎよ」

「はーい」

 そして高飛車だが、精華に対しては素直だ。姉を絶対的に慕う妹といったところか。ちなみに、フラウがその名前である。

「四人の朝食とはまた、賑やかなことだな」

「新婚夫婦と、小姑二人に見えたりして?」

 精華がそんな冗談を言うと、魔物たち二人がプンスカ怒りだす。

「小姑って、なんかイヤな響きよね」

「精華にこんな男は不釣り合いだよぅ。もっと、かっこいい男を引っかけようよぅ」

「何故か、俺まで不愉快な気分になったぞ」

「大丈夫、私はひじりちゃん大好きだから」

 それが冗談でも、それを言ったのが幼馴染でも、さらりと言われると照れてしまうものだ。少し、きゅんとしてしまった。そのせいで腕の力が弱まり、セイレーネスに振りほどかれてしまう。

「ちょっと聖、何照れてるわけ? 小姑はいやよ?」

「精華、あたしは認めないんだからねっ」

「いや、健全な男子なら照れるだろ。ってか、精華もやめてくれよ。こいつらの俺に対するヘイトが上がる」

「はーいはい、仕方ないなぁもう」

 精華は、こういうキワドイ冗談が好きで、俺は結構試されている。俺が素直に照れてしまうものだから、彼女が調子に乗っているのかもしれない。小悪魔のような彼女の笑顔から視線を逃がす。

「精華、何か手伝おうか?」

 (もう手遅れではあるが)照れ隠しも兼ねて、朝食作りの手伝いを名乗り出る。四人分の朝食が用意されることとなった今、もはやセイレーネスを追い出す理由もなくなってしまったし、さすがに何も手伝わないのは悪い。

「じゃあ、サラダ的なものをお願い。フラウは食器並べておいて。お姉さんは、トーストを焼いてくれるかしら」

 スクランブルエッグを作りながら、精華はみんなに指示を出す。これだけ分業すれば、一瞬で準備が整うだろう。ちなみに、お姉さんと呼ばれたのはセイレーネスだ。

「はーい」

 元気の良い返事とともに、食器がひとりでに宙を舞いながら卓袱台へと降り立つ。見たままの状況を言うならば、ポルターガイストだ(無論、それはフラウが食器を運んでいるためだが)。

「カットレタスとプチトマトがあるから、それでいいか?」

「ドレッシングが胡麻だったら最高」

「あいにくと、胡麻ドレッシングしか買ってない」

「さすが、わかっていらっしゃる」

 俺の好みと精華の好みは近い。正確には、俺が精華の家の味に慣れ親しんでいる。というのも、両親嫌いの俺が、常に精華の家に入り浸りだったためだ。俺は精華の両親を本当の親だと思っている。

「トースターじゃ一度に二枚しか焼けないのよね、もどかしいわ」

「じゃあ、火の魔術であぶってみよっかなぁ?」

 向こうの方で、魔物二人が何やら危険なことをしようとしている。

「頼むからトースターを使ってくれ。俺の部屋全体をグリルするのだけは勘弁してくれ。ゴキブリ退治ならバルサンで間に合ってるから!」

 朝から、どうしてこんなに賑やかにしなければならないのだろうか。実に疲れる。その様子を見て、精華がくすりと笑った。

「こんなに楽しいなら、毎日これでもいいかな」

 精華はご機嫌だが、俺はこれだと身がもたない。

「俺はもう少し静かな方が嬉しいんだが……」

「若者がそんなことでどうするのよ。もっと人生を謳歌しないと」

「そうそう、もっと快楽的に生きないとね」

 精華の言葉に悪ノリするセイレーネス。無論、俺が透かさずツッコミを入れる。

「お前は黙ってろ。そしてもっと謙虚に生きろ」

 こういうのをツッコミと言っていいのかは知らないが、とりあえずセイレーネス(と書いて『ボケっぱなし自堕落お姉さん』と読む)には何か言っておかなければならない。

「そんなことより、早くゴハンー」

 フラウの無邪気な声が聞こえた。こういう時だけ、高飛車な魔物ではなく、年相応の女の子になるらしい。虚空でバターナイフとフォークが踊っている。

「はいはい、今サラダを持っていきますよっと」

 程なくしてスクランブルエッグにベーコン、トーストが揃い、洋風の朝食となった。さして大きくもない卓袱台に四人分の朝食が乗ると、かなり狭苦しい。

「さぁて、ジャムジャム……あれ、もうない」

 セイレーネスが、空になったイチゴジャムの壜を不思議そうに覗き込む。そして、顔を上げた彼女の目の前には、虚空に踊るトースト。そのトーストの上に、ドンと盛られた大量のイチゴジャム。それを見た瞬間、セイレーネスにスイッチが入る。

「おい、ガキ。私のイチゴジャム返せよ」

 いつものお姉さんキャラはどこへ行ったのやら、急に不良口調へと変わる。

「やーだよーだ」

「返せっつってんだろうが」

 普段なら、セイレーネスが不可視の魔物に触れることなど敵わない。しかし、トーストがある今は別だ。少なくとも、トーストには実体があるわけだから、セイレーネスがそれを掴み取ることも可能だ。彼女の右手が、トーストをしっかりと掴む。

「ちょっとおばさん、子ども相手にムキになんないでよ」

「私はガキが嫌いなんだよ」

 そして、セイレーネスはフラウのトーストの半分を強引にもぎ取って、有無を言わさず口の中に放り込んだ。盛られていたイチゴジャムに至っては、その八割ほどがセイレーネスの体内へと消えていった。

「あああ、あたしのイチゴジャムぅぅぅぅぅぅぅ」

 そして次の瞬間、号泣し出すフラウ。嘘泣きかもしれないが、少なくともジャムを奪われたことを嘆いていることだけは間違いない。

「うわぁぁぁぁぁぁぁん、イチゴジャムぅぅぅぅぅぅぅ」

 仮に嘘泣きだとしても、やはり子どもの泣き声には力がある。俺はその光景を見た瞬間、ゲームソフト発売日に小学生からゲームソフトを強奪して逮捕された大学生の話を思い出していた。

「お前、ホント大人げないな。恥を知れよ」

「な、何よ……元はと言えば、この子が悪いんだから」

 さすがに少しバツの悪そうな様子のセイレーネス。少しは罪や反省の意識も持ち合わせているものと見える。しかし、謝罪する気のないあたり、なかなかの曲者だ。

「確かに、少し大人げないけど……フラウ、あなたも悪いのよ? ちゃんと他の人の分も残してあげてね」

「うぅ、うん……ぐすっ……」

 精華がフラウを諭す。姉妹というよりは、母子に見えなくもない。しかしまぁ、何故魔物というのはこんなに子どもなんだろうか。

「やれやれ……快楽的に生きるんだったら、周囲に迷惑かけないように気をつけてくれよ」

「お、お姉さんに向かってお説教するつもりかしら?」

「中身はガキだろうが」

 いつもは揶揄されてばかりだが、たまには立場が逆になってもいいだろう。セイレーネスはしょぼくれているが、俺の機嫌はすこぶる良くなる。

「あーあ、かわいい弟とのささやかな朝食の席が、まさかこんなことになっちゃうなんてね……もういらないわ。ごちそうさま」

 そして柄にもなく、セイレーネスは拗ねてしまった。

「せっかく精華が用意してくれたんだから、ちゃんと食ってけよ」

「あんたねぇ、食べるなって言ったり、食べろって言ったり、支離滅裂なのよ」

「それはお前の事だよアホウが。そもそも、メシたかりに来たんだろう?」

「……言われてみればそうだったわ」

 俺と二人だけの時は、まずこんなことにはならない。貴重なものが見れた。精華には感謝しなければならない。

「聖に丸めこまれるなんて……くそぉ」

 そして、ぶつくさ言いながらも結局セイレーネスは完食した。

「じゃあ、約束だぞ、セイレーネス。食器洗っていけ」

 そう言った瞬間、彼女の顔が豹変する。この男が何を言っているのか理解できない。それ日本語? 頭にヘンな蟲でも湧いてるんじゃないの? 死ねばいいのに。その顔には、そう言った罵詈雑言が浮かぶ。

「昨日俺は言ったぞ。洗い物をしていけって」

 そして、俺の言葉にやっと約束を想い出したのか、セイレーネスが沈黙する。何かを考えているらしい。彼女が考えることはただ一つ。どうすれば、ラクができるか。

「聖、ちょっと体貸して」

「いやだ」

「食器洗うだけだから」

「俺の体を使わずにやれよ」

「えー、『詩』で汚れを壊せば一発なのに」

「能力使わずに洗剤とスポンジを使えよ」

「手が荒れるのよ」

「魔物が何言ってんだよ」

「この珠の肌が荒れるのよ?」

「そんなの修復するくらい屁でもないだろうが」

「一度荒れた、という事実が残るのがイヤなのよ」

 彼女は『詩』を使う魔物だが、今はとある事情からその『詩』が使えない。彼女が『詩』の能力を行使するためには、俺の体を借りなければならないわけだが……俺は、とある事件以降、彼女に体を預けることをやめた。それら諸々のことは、また後日改めて語ることとしよう。今は、その時ではない。なんと云うか……朝に語る内容ではない。

「わかった、俺も手伝う。俺が泡を擦りつけるから、お前がその泡を洗い流す係な」

「それならやってもいいわ」

 どうしてこうも譲歩してやらなければならないのか。いや、俺が譲歩してしまう理由は簡単、その方が物事がスムースに片付くからだ。屁理屈をこね続ける彼女に付き合っていては、時間がいくらあっても足りない。それに……こう見えて、セイレーネスは以前よりも協力的になっている。以前なら、本当に何もしてくれなかった。それだけでも、よしとしようではないか。



[27529] 町に佇み 第一話『鏡面の真似師』 Part2
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/04 20:28
 朝食を終えた後、精華とフラウは自分の部屋へと帰って行った。彼女は近場の女性向けアパートに住んでいる。セキュリティも完璧で、ビル自体に入るためのドアがある。カードキーの挿入及び暗証番号の入力が必要だ。部屋はロフト付き。かなり広い。まさに、お金持ちのお嬢様に相応しい部屋だ。

 対する俺の居城は、八畳一間、築二〇年のボロアパートだ。比べるだけで、惨めな気分になる。しかし、これは俺があえて選んだ道であって、こうせざるを得ないほど経済的に圧迫されているわけではない。金持ちの精華と幼馴染である理由は、実に単純。俺の実家も、金持ちなのだ。

 ……とは云うものの、俺は自分を大金持ちだと思ったことはない。なぜなら、両親が嫌いだからだ。

 金持ちの両親が嫌いだから、俺は贅沢も嫌いだ。大好きな精華の両親は、金持ちだが日常生活は非常に庶民的だったため(といっても、お手伝いさんがいたが)、なおさら俺は贅沢が嫌いだ。毎月家賃抜きで五十万円の仕送りがあるが、これは「息子に金がないというのでは悪い風評が立つ」と信じ込んでいる両親の一方的な押し付けなのだ。まぁ、捨てるには忍びないから、大事に貯金させてもらっている。

 俺には「なるべく自分の金で生活したい」という願望があり、月五十万円の収入を約束された身分でありながら、さらにバイトをやっている。バイト代だけではまかないきれない分だけ、仕送りを使わせてもらっているのが現状だ。

「これで我が軍は後半年は戦える」

 俺が手渡した一万円札三枚を大事そうに財布に収めながら、セイレーネスは何かのアニメのセリフを真似ているようであった。

「半日でなくなりそうだな」

「大丈夫よ、半月くらい我慢して見せるから」

 食事以外に余計な出費を抑えれば、独り身に三万円という金は半月生活するには充分な金額である。月五万円もあれば、新しい服も買った上でお釣りがくる。俺の庶民的な金銭感覚からいくと、自分よりもセイレーネスの方がよほど御曹司のような金の使い方をしているように思える。

「なんならもう帰ってこなくてもいいぞ」

「お姉さん、たまには可愛い弟の顔も見ないと寂しくて死んじゃう」

「はいはい」

 大して思ってもいないくせに、よくもまぁ恥ずかしげもなく言えるものだ。

「信じてもらえなくて寂しいわー」

 ――寂しい。その言葉を繰り返し聞いた瞬間、俺の中のスイッチが入ってしまう。こういう何でもない平穏な朝にこそ、意識してしまう。油断しているのだろうか。それとも、他に悩み事や考え事がないからだろうか。別に、「寂しい」という言葉が特別というわけではない。時たま、ぬるま湯のような平和に慣れた瞬間、ネガティブな単語に反応してしまうのだ。そして、急激に心が沈んでいく。

「――寂しさなんて感情は、三年前に置き忘れてきたさ」

 つい、口にしてしまう。自分で絶対に触れまいと思っていても、つい触れてしまう古傷。忘れることなんて出来ない、あの出来事――。

「――じゃあ、今日からも楽しく生きましょう」

 セイレーネスの顔に、明らかな陰りが見えた。それをごまかすように笑顔を作る彼女。俺は、セイレーネスにさえ気づかわれている。未だに、だ。彼女がボケっぱなしなのは、本当に昔からだろうか――いや、違う。確かに元から破天荒に明るい性格ではあったが、三年前のあの日以降、明らかに彼女は陽気さを増した。そうすることで、俺の心の闇を覆い隠そうとしてくれているような――そんな気すらする。考え過ぎだろうか。

「……そうだな」

 俺は三年前、人生の全てを得て、そして全てを失った。今の自分は、その抜け殻ないしは燃え滓のようなものかもしれない。でも、未だ燃え尽きてはいない。俺には、まだやらなければならないことがある。愛した女性を護れなかった俺に、果たしてその力はあるのだろうか。果たして、その資格はあるのだろうか。正直、あるとは思えない。でも、それでも――どんなに無様に這いつくばってでも、俺は護らなければならない――今を。

「朝っぱらからなんて顔してるんだか、まったく」

 なんとなく、セイレーネスの声がぼんやりと遠くに聞こえる。まるで、水中でその声を聞いているような感覚。

「ほら、ちゃんと目を覚ましなよ」

「うおっ――!!」

 股間に強烈な痛みを覚え、思考の全てが吹き飛んだ。押さえてどうこうなるものでもないが、そこに手を当てて蹲ってしまう。

「ちゃんと大学遅れずにいけよ」

 そう言い残し、彼女は玄関から出て行こうとする。

「おい、こら待て痴女、何しやがる!」

「大したもんじゃないんだから、偉そうなこと言わない。じゃねーバイバイ」

 俺の大事なフグリを鷲掴みにして、痴女は去って行った。これで一週間は帰ってこないだろう。しかし、先ほどの行為は侮辱なのか恥辱なのか、わけがわからない。まぁ、彼女の意図はわかるのだが――もう少し別の方法もあったのではないか。この傷みのせいで大学に遅刻する危険性が出てきた。早めに準備を始めることにする。

 股間の傷みに耐えて両足をもぞもぞしながら、俺は今日必要なものを考え、それをカバンの中に詰める作業に入る。といっても、それは筆記具とテキストくらいだ。あとは、ヤカンで沸かしたお茶を入れた五〇〇ミリリットル容量の水筒くらいか。

 火の元よし、消灯よし、それを確認して、俺はスニーカーに足を突っ込んだ。その感触が、一日の行動の開始を告げる。

「今日もよろしくな、絵里」

 俺は、かつての恋人に呼びかける。この靴をプレゼントしてくれた、大切だった彼女に――。毎朝、必ず彼女の笑顔を思い出し、元気をもらう。そこにあるのは、いつも笑顔の彼女だ。彼女はもういないという事実は、ここでは襲ってこない。俺の脳は、何とも不可思議な構造をしているらしい。先ほどは彼女に会えない事実に直面して落ち込んでいたというのに……不可解だ。

 これは俺の浅ましい自慰行為なのかもしれない。彼女は俺の中では生きている、死んでいない、という現実逃避か。だから、彼女がすでにこの世にいないことを意識してしまうと、気が触れそうなくらいの悲しさに襲われるのか。俺はまだ、彼女が死んだことを認識できていないのか。

 俺は、狂っているのか。

 そうなのかもしれない。どこか、狂ってしまっている。

 でも、どんなに狂ったとしても、俺は前に進んで行かなくてはならない。そして、大事なものを二度と失わないために、彼女のことを忘れてはならないのだ。そのために俺は彼女の笑顔とともに生きているのだと、そう思いたい。そこに悲しみは不要なのだと、そう思いたい。

「ひじりちゃん、やっほー」

 ぼーっと考え事をしているうちに、マンションから出て少し歩いていた。後ろから精華に声をかけられなければ、ひょっとすると大学に着くまでその調子だったかもしれない。

「おう」

 朝食の席で一度顔を合わせているはずなのに、まるで仕切り直しといった感じだ。妙なものだと思う。

「どうしたの、何か顔色が悪いみたいだけど?」

「ああ、セイレーネスに股間をやられたせいだ」

 とっさに言いわけが思い浮かばず、先ほどの出来事をそのままを口にする。下品ではあるが、本当の理由が別にあることは隠せるから、この方がいい。

「うわ、えげつない」

 精華が痛々しそうな顔をしながら俺の股間をちらりと見る。ちなみに俺は、三年前のことを誰にも話していない。俺の恋人絵里――彼女の死は、対外的には病死ということになっている。ホントの死因を知っているのは、セイレーネスだけだ。俺は、何故かその時のことを殆ど思い出せない。俺ですらはっきり覚えてないんだから、高校が別だった精華は当然何も知らない。

「私さぁ、ずっと不思議に思ってたんだけど、どうして雄に限って弱点が体の表面にあるのかなーって」

「そりゃお前、精子が低温じゃないと作れないからだろ。膣内の高温である程度死んでくれないと、強い子孫が残らないってことじゃね?」

 朝から何という話をしているのだろうか。

「そりゃそうなんだけどさ。だったら、もっと工夫の余地もあったんじゃないかなーって思うわけ。どっか、体内の一部が魔法瓶みたいになってればいいじゃない?」

「そりゃ無理だろ。冷え性どころの騒ぎじゃねーよ」

「……それもそうか」

 でも、どうも機能的だとは思えないんだよねぇ、それ。そう言いながら、精華は俺の股間を無遠慮に見る。いくら慣れ親しんだ仲とは言え、少し恥ずかしい。意識した瞬間に勃起するほどヤワではないが、朝の眠気が取れない時間帯は、欠伸なんかの後に生理現象として勃起することが稀にある。それを見られたら、結構恥ずかしい。幸い、今は何ともないが。

「朝から下品だよー、あなたたち」

 突然、第三者の声がかかる。いや、精華にとっては突然でも何でもないだろう。不可視の魔物――フラウの姿を見ることができない俺にとって、その声は突然のものだ。

「フラウ、これは哲学なの」

「レベルの低い哲学だねー」

「ちょっと、私までバカにする気? バカにするのは、セイレーネスくらいにしときなさいよ」

「おい……」

 今、聞いてはいけない発言が精華の口から飛び出した気がする。

「案外、お前も腹黒なんだな。陰口か?」

「別に本人の前でも文句言うよ、私は。隠しごとは嫌いだから。でも、いちいち言わなくてもアレはバカでしょ、バカ。そんなわかりきったことはいちいち言わないのが普通だと思わない?」

「はい、思います」

 何故か、気圧されたような気分になったが、実に正論だと思った。そして、これこそが哲学ではないか、とも思う。

「せっかくの大学生なんだからさー、もっと高尚な話でもしたら? 歳とって脳細胞が死滅する前じゃないと、そういうのできないと思うよぉ?」

「講義は真面目に受けてるんだから、いいじゃない」

 ちょっとした言い合いになる精華とフラウ。しかし、彼女たちが喧嘩をすることはほとんどない。というか、俺はまだ見たことがない。

「講義の途中でも、何か思い出したら聖とペチャクチャおしゃべりし出すくせにぃ」

「あれは、ちゃんと講義内容にからんでる疑問を質問してるだけじゃない」

「質問なら先生にすればいいじゃん」

「講義の流れを止めちゃまずいでしょ」

「おしゃべりもまずいと思うよぉ?」

 そして、ちょっとした言い合いはフラウの勝利で終わる。

「うーん、フラウの方が正論ね」

「よっし、あたしの勝ち点プラスいちー」

 どうやら彼女たちは、日常を通じてディベート勝負をしているらしい。毎日のように、このやり取りを聞いているような気がする。酔狂なことだ。

「あーあー、あんまりゆっくり歩いてると、時間ギリギリになっちゃうかも」

 腕時計を見た精華が、歩みを速める。下宿から五分ほど歩いたところで視界に入る時計塔。これが、俺たちが通うW大学の目印でありシンボルだ。

「ひじりちゃん、走ろう」

「ダッシュー」

「おい、ちょっと待てよ」

 走り出す精華と、それの後をついて行っているであろうフラウ。俺も仕方なく走ることにする。個人的には、五分や一〇分程度の遅れは遅刻ではないと思っているので、わざわざ走ってまで講義の始業時間に間に合わそうとは思わないのだが――。

 走った甲斐あって講義には間に合ったが、朝一のちょっとした運動に体が疲労を訴える。

「疲れた、寝る」

「はぁ? おじいちゃんか!」

 講義室に入り、適当な席に突っ伏した直後、精華がバシンと音がなるほどに俺の背中を強く叩いた。痛みで眠気が弱まる。

「おじいちゃんは、朝起きるのが早いから、今くらいの時間帯になると眠気がくるんじゃよ」

 しかし、俺は懲りずに、おじいちゃんっぽく声をしゃがれさせて机に突っ伏す。

「あーもう、ほら、講師の先生来たから、起きなさい」

「あとでレジュメとノートのコピー頼む」

「学費がもったいないでしょうが、起きなさい」

 俺は、精華と違って優等生タイプではない。大学の講義も、面白い話はたくさん聞けるのだが、基本的に学業と名のつくものに興味は湧かない。

「精華、ほっときなよ。このダメダメ君が寝てる分は、あたしが講義ちゃんと聞いてるからプラマイゼロだよ」

「そういうこった」

「もー。私は毎日デート感覚なのに……」

 ぷくっと頬を膨らます精華。かなり嬉しい発言ではあるが、しかし――こんなガリ勉風のデートはいやだ。

「精華、もっとイケメンな優等生探そうよー」

「ひじりちゃんが優等生になってくれさえすれば、私は満足なの」

「えー、ジャニーズ系がいいよぅ」

「悪かったな、ジャニーズ系じゃなくて」

 そして、何だかんだで二人の会話に入ってしまう自分がいる。

「はい、みなさん、おはようございます」

 そして、講義室の前で講師が挨拶をしたことによって、一限目の講義が始まった。社会学概論だ。人文学部の俺と精華にとって、この講義は必須単位群の一つとなる。俺は寝るタイミングを逸し、結果真面目に講義を聞くこととなってしまう。まぁ、寝ようが講義を聞こうが、時間が経つという点では平等で、どちらでもいいと思うが――。

「うわ、ちゃんと起きた。よっぽどジャニーズ系じゃないのが悔しかったんだねぇ」

 フラウの一言に、起きたことを若干後悔した。



……



 高校の時と比べ、時間が経つのが早いように感じる。高校での一限五十分は、地獄のような長さに感じられたが、大学の一コマ九十分は、それほど長く感じない。不思議なものだ。あっという間に昼休憩となり、俺と精華は学食へと向かう。二限目で同じプレゼミの連中と合流し、六人の集団を形成していた。女子は精華ともう一人、あとは男子だ。

「聖と山ノ井さんは、ホント仲良いよな」

「いいなぁ、俺も山ノ井さんみたいな可愛い幼馴染ほしいよ」

 先に発言したのが三宅早世(みやけそうせい)、後で発言したのが田中孝太。二人とも、精華目当てで俺に近づき、仲良くなろうとしたというツワモノだ。俺と精華の仲が良すぎるせいで、二人ともすぐに精華のことを諦めたらしい。代わりに、精華の横を歩く女子――安藤法子(あんどうのりこ)を狙っているようだ。

「私も海詩くんみたいな幼馴染ほしいなぁ」

 と、発言する辺り、安藤さんもなかなかのものだと思う。

「ノッコ、やめとけ。聖が幼馴染だと、色々と苦労するぞ。山ノ井さん見てたらわからないか?」

 そう発言するのは、今井紀次(いまいのりつぐ)。彼は、俺の高校時代からの悪友で、高校時代は二人で色々とやらかした仲だ。大学に入っても付き合いがあるというのは、なかなかに感慨深い。ちなみに、彼にノッコというあだ名で呼ばれたのは、安藤さんである。

「今井くん、これはロマンスの話だから、勘違いしちゃダメだよ?」

「つまりアレか、他人の子どもは可愛いけど、自分の子どもがほしいとは思わない的な?」

「うんうん、それに近い」

 つまり、俺は世話が焼けるってことか。なかなかに言ってくれる。まぁ、事実だと思うけど。

「安心しろノッコ、俺がお前の幼馴染になってやるよ」

「はぁ? 何言ってんだ。ノッコは俺の嫁だし」

「それはこっちのセリフだ、ちょっと表でろや」

「おうおう上等、どっちがノッコに相応しいか、レッドドラゴンの狩猟タイムで勝負な」

「え、私何も言ってない……」

 そして、安藤さんを勝手に嫁にしようとする早世と孝太。多分、この調子でホントにどっちかが安藤さんのハートを射止めるのではないだろうか。ちなみに、レッドドラゴンというのは、今流行りの携帯ゲーム機の人気タイトル『ドラゴンハンター』に出てくるボスモンスターの名前だ。ゲーム機の通信機能を利用して、二人が楽しそうに協力プレイしているのを、横から何度か見物させてもらったことがある。映像も音声も鮮明で、すでに俺の知っているゲームとは次元が違う。確かに、これは大人でもハマるだろう。俺の中のゲームは、スーパーファミコンで時代が止まっている。ゲームといえども、最近のゲームはバカにできない、ということか。

「安藤さん、今のは怒ってもいいタイミングだと思うぞ」

「えーと、怒ろうにも、何に怒ればいいのかわからなくて……」

 安藤さんは、怒るという行為とは無縁のように思う。いつも陽だまりのようにニコニコしていて、敵を作らない。きっと、早世や孝太以外にも、彼女を狙う存在はいることだろう。だから、早世と孝太の二人は、大げさなパフォーマンスで周囲にアピールしているのかもしれない。それが安藤さんにとって幸か不幸か、なかなか難しいところだ。確かに、早世も孝太も悪いヤツではないのだが、華やかさに欠けることは否めない。それこそ、フラウの言い分ではないがジャニーズ系の兄ちゃんと勝負すれば、惨敗するだろう。健気なものだと思う。

「おい、聖。お前もアイツら見習って、ちっとは男気見せてやれよ」

 食堂に着いたタイミングで、紀次が耳打ちしてくる。

「余計な御世話だバカヤロウ」

「まぁ、お前にはヴァルハラで待ってる恋人がいるもんな」

 そうだった。彼は俺と最愛の彼女――絵里のことを知っている。俺と彼女の横にいつもいた彼にとって、彼女の死は海詩聖一人の問題ではないのだ。

「俺も、アレはショックだったよ。絵里とお前は、ホントに似合いのカップルだったからな」

「ノリ、精華のいる前でそれ以上は――」

「ああ、すまない。口が滑った」

 俺は紀次のことをノリと呼ぶ。そして、彼が絵里のことを話すことを、俺は許容している。本来なら、古傷を抉るようなデリカシーのない行為とも取れる紀次の発言だが、俺は彼がたまに口にしてくれることをむしろ嬉しく思う。彼女は、俺以外の中でも生きている――その事実を認識できることが、嬉しい。ただ、紀次にも釘をさしている。精華にだけは、内緒にしてくれ、と。

「山ノ井さんはノッコと喋ってて聞いてないから、大丈夫だな」

 精華の方をちらりと見やった紀次は、安堵の息をつく。

「まぁ、な」

 しかし、精華には聞かれていなくても、フラウに聞かれている可能性がある。一応彼女には「たまたま盗み聞きをしたとしても、精華には口外しない」と守秘義務を約束してもらっているのだが、彼女は俺の質問に対して知らぬ存ぜぬの一点張りだから、それもどこまで守られているか、確認しようがない。一般人である紀次にフラウのことを説明するのも難しい。非常に困難な問題だと言える。

「おやおや、相変わらず楽しそうにやってるね」

 そして、俺たちが食券を買うための列に並んだ直後、現れるべくして現れる、我らがプレゼミの担当――石影威(いしかげたけし)教授。専攻は文化人類学だ。まだ三〇代のはずだが、すでに教授としての地位を持っている辺り、かなりの実力者だ。見た目もなかなかに知的だと思う。サラリと伸びた髪は手入れが行き届き、肩より下に伸びていても全く嫌味にならない。いつも伊達眼鏡をかけており、ダメージパンツを穿いている日もある。やけにスタイリッシュだ。韓流スターに、これと似たような人がいたな、と思う。学部の女子生徒は、口をそろえてヨン様と呼んでいたか。しかし、そんな見た目とは裏腹に、聞かされる彼の研究テーマは馬鹿げたものが多いように感じる。

「僕も、一緒にいいかい?」

「ええ、別にいいっすけど――」

 多分、この後の昼食の席は、石影教授の特別講演会となることだろう。そして案の定、席に着いた瞬間、彼は自身の研究についてベラベラと喋り出す。

「僕は最近、言葉の変遷に興味を持っていてね。たとえば、関西ではマクドナルドのことをマクドと言うだろう? この原因が、関西弁の特徴や関西人の気質に隠されていると思ってね。
 きっと、マックドナルドと表記されていたとしても、マクドとしか略されなかったに違いない。関西弁には促音便が少ないからね。促音便は音を伸ばすことで代替するパターンがある。「言って」が「言うて」といった感じだね。
 それと、撥音や濁音が多いように思う。マクドも「なんぼ」とか「まいど」っていう言葉に象徴される略し方じゃないかな。
 それと少しおふざけになるんだけど、僕はこれに加え、ミスタードーナッツに注目してる。ミスタードーナツの日本一号店は大阪の箕面市に一九七一年四月にオープンした。対するマクドナルドの日本一号店は、それから遅れること三ヶ月、一九七一年七月に渋谷に出店した。先に大阪でミスドが流行っていたから、関西にマクドナルドという外資のフードチェーン店が流れ込んで来た際、ミスドのノリでマクドと呼ばれたのではないか、とね。
 関西弁の語感とそういった俗っぽい説も絡めて考察することで一つ論文を書いてみようと思うんだけど、諸君はどう思う?」

「どうと言われましても……」

「ええ、まあ……頑張ってください」

 一同、どうコメントしていいか、わからない。

「斬新だとは思うな。需要あるかしらんけど……」

 俺も、そうコメントを返すのが精一杯だ。ちなみに、俺は石影威なる人物に対し、敬語を使うことはほとんどない。気づけば俺はタメ口だったし、彼もそのことを咎める気配が全くない。

「うーん、そうか、微妙か。僕は最高に面白い研究課題が見つかったと思ったんだけどなぁ……」

 少し残念そうにしながら、彼はそこでやっと食事に手をつける。すでに早世や孝太は定食の半分以上を食べている。

「……うむ、不味いな。学校の給食や学食のメニューが不味いのは、何故だ。海外の不味い食事と絡めて、考察できないものか……」

 そして、世の中の全てが彼の興味の対象であり、研究テーマとなる。彼ほど学者に向いている人間はいないだろう。これは病気の域かもしれないと俺には思えるが――。

「先生、今日の放課後、空いてます? 研究のことで相談があるんですけど」

「ああ、いいよ」

 そして、優等生の精華は、ヒマがあれば彼のところへ研究の相談に行く。

 ――いや、それだけではないだろう。おそらく、自身の能力について、相談しに行っているのだ。

 俺の『詩』の能力と同じように、彼女も『光』の能力を持っている。そして石影教授――以後、めんどうだから威とだけ呼ぶ――は、名前の通り『石』の力を持っている。加えて、俺のセイレーネスや精華のフラウと同じように、契約している魔物もいる。魔物の名は<黒貂(ふるき)>、個体名は『百合花(ゆりか)』だ。

 実は、俺と精華がこの大学に入ったこと――更には威のゼミに入ったこと――は決して偶然ではない。全ては「信頼できる能力者の元に、自分たちの娘を保護してもらう」という精華の両親の計らいだ。このW大学は、学力的にも申し分なく、威を置いて娘を預けるのに最適な者は他にいなかった。どうやって威に辿り着いたのかは不明だが、金持ちには金持ちのコネがあるのだろう。ともかく、俺はそのおこぼれを預かるようにして、今ここにいる。

「聖くんも来るかい?」

「いや、俺はバイトがあるから無理だ」

「そうか、残念だよ」

 そう言いながら、威の顔には笑みが浮かぶ。この笑顔の意味は、よくわかる。俺と精華の関係を観察して楽しんでいるのだ。あまりいい趣味とは思えないが、彼の興味から逃れることも不可能だとわかっているので、このことについては諦めている。

「ところで聖くん、君は何か感じてるかい?」

 唐突に、威は身を乗り出して俺に耳打ちしてくる。

「え、何を……?」

 そうか、感じないのか。彼はそういうと、少し考え込むように顎を右手で摘む。

「魔物の気配がある。しかも、これまでにいなかったような、強力なヤツの」

「何っ!?」

 俺は咄嗟に周囲の様子を探る。威が言うからには、いるのだろう。俺が気づけていないだけで、この近くに潜んでいるのだ。

「ああ、いやいや、言葉が足りなかったな。ここ最近、って意味で言ったんだ。今は大丈夫だよ」

「……おい」

 瞬間、脱力していた。

「でも、身近に強力なヤツがいるってのは間違いないからね。くれぐれも注意するように」

「ああ、わかった」

 あまりにも周囲のヤツらは平和で、俺もその中に入ると警戒心が緩む。だから、こうして威が釘をさしてくれることは、非常にありがたいことだ。緩んでいた心の中のネジを、少し締め直す。

「はー、食った食った」

「ごちそうさま。今後一週間は食べたくないな、この味」

 早世と孝太が、食器を返すために席を立つ。俺も彼らに続いて食べ終わる。精華や安藤さんも女子とは言え食べざかり、もうすぐ昼食タイムは終わりを迎えるようだ。といっても、昼休憩はまだまだ残っている。

「早世先輩に孝太先輩、俺も一緒にドラゴン狩りに連れて行ってくださいっす」

「おう、新人紀次くん」

「我々に任せたまえ」

 昼食が早めに終わるのは、主にゲームをやるためだ。あまりゲームをやらないタイプの紀次だったが、早世と孝太の二人に勧められて、最近ドラゴンハンターを始めたらしい。

「ノッコも買おうぜ、ドラゴンハンター」

「えー、うーん、どうしよっかな……」

 安藤さんは悩んでいる。彼女はゲーム好きというタイプではないが、自分がゲームをやっていないことに疎外感を感じ出しているのだろう。最初は興味なさそうに振舞っていた紀次でさえ手を出したのだ。若干興味も湧いているのかもしれない。

「ノッコが始めたら、俺たちでガンガンサポートするぜ」

「ううう、おこづかいが……」

「ノッコの知り合いの子もやってたじゃん。瞳さんだっけ? 彼女も連れてこれば賑やかになっていいな」

「うん、そうなんだけど……そういや最近瞳さん見かけないなぁ。何してるんだろう」

「ゲーム廃人になってたりしてな。ドラハンは依存性が高いから」

「なるほど、彼女だったらあり得るかも」

 そんなやり取りを見ていると、なんだか微笑ましい。早世も孝太も、まるで無邪気な小学生だ。俺も小学生の頃はテレビゲームに夢中になったな、と思い返す。精華の部屋で一日中ボンバーマンをやっていたのはいい思い出だ。リモート爆弾を使って精華を閉じ込めた後、ハンドのアイテムを使って爆弾を精華に投げつけてイジメ続け、癇癪を起した精華にコントローラーで頭頂部を叩かれたこともある。あのコブは一週間経ってもなくならなかった。

「先生、お先に失礼します。ひじりちゃんも、行こっ」

「ああ」

 昔の幼い少女の笑顔と、現在の精華の笑顔が俺の中で重なる。今はすっかり大人になったが、その天真爛漫な笑顔だけは、昔も今も変わらないな、と思う。

「じゃあ、俺も先に行くわ」

 俺は威に軽く手を振って、席を立つ。直後、彼の囁き声が俺の耳にはっきりと届いた。

「僕の予想だと、この大学の関係者が被害に遭うよ。すでに遭ってるかもしれないね」

 威の顔は、暗く笑っていた。そこには、憐憫も戦慄もない。心底楽しみだ、と顔に書かれている。

「なんだか楽しそうだな」

「そうかな。僕はこれでも平和主義者でね」

「悪魔は笑う、されど踊らずってか?」

「お、なかなか上手いこと言うじゃないか。それ使わせてもらうよ」

「ご勝手に」

 ついつい腹を探りに行こうとする俺を、威は軽々といなす。一筋縄ではいかないな、この男は。俺はドラゴンハンター一行に続いて、食堂を出た。



[27529] 町に佇み 第一話『鏡面の真似師』 Part3
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/04 20:28
 昼食後も三コマみっちりと講義があった。五限目の講義が終わると同時に、俺は精華たちと別れてバイト先へと直行する。下宿からほど近い、ローカルスーパーだ。俺は品だしの応援その他雑務を任されている。夕方四時半以降の買い物ラッシュが始まっているせいで、六時すぎに店に入った時にはすでに棚の一部が歯抜けのようになっている。今日のチラシは食パンだったか。

「聖くん、平台に食パン積むの手伝ってくれる?」

「了解です」

 パンとお菓子の発注を担当しているパートの藤森さんに声をかけられ、俺は食パンのバッカンの山を押して売り場へと向かうことにする。バッカンの乗っている台車が古いせいか、キャスターが耳障りな高音を鳴らす。まるで魔物の悲鳴だ。魔物が通ります、ご注意ください。

「すみません、後ろ通ります。申し訳ございません、失礼します」

 ごった返す人の中を、声を張り上げながら無理やり進む。決して本心から「申し訳ありません」などと言っているわけではなく、「頼むから道を開けてくれ」という懇願の気持ちを込めて声を張り上げているにすぎない。お客様優先で道を譲り、少し作業をしては隅に退く。なかなかスムーズに作業をさせてもらえない。この我慢が、働く人々のストレスとなっているのであろうことが予想できる。バイトをやらなければ、それを身をもって体感することは難しいだろう。そう言った意味で、俺のバイト生活は充実している。もし、両親に気にいられる優等生として勉強に励み、学業成績に応じておこづかいをもらう、といった貴族気分に浸っていれば、一生理解できなかったかもしれない感覚だ。雇われる側、扱き使われる側の感覚。この感覚を知らない者に、人を扱き使う資格はないなと、断言できる。もっとも、今後扱き使う側に回る予定は一切ないわけだが。

「いらっしゃいませ、失礼します」

 パンを陳列する際も、声出しは怠らない。邪魔にならないよう、隅っこにバッカンを置いて、なるべく迅速に作業を行う。陳列する際にパンを積み重ねるのは二段まで。三段以上積むと下段のパンが潰れて固くなってしまう危険性があるため、品出しはマメに行わなくてはならない。よく売れるが、管理が面倒なのがチラシの食パンの特徴か。

「聖くん、手が空いたら次はお菓子積んでくれない? インプロのおかきがあるの」

「またおかきっすか。先週やったばっかじゃないですか」

「本部の送り込みなのよ」

「オッケーです、何とかやってみます」

 再び藤森さんから声をかけられ、俺はおかきの陳列作業に入る。彼女は明日と明後日が連休であるため、今日は発注作業で手一杯なのだそうだ。おかきの入っている段ボールの上半分と前面をカッターで斬り抜き、それを陳列のための土台とする。既に並んでいたお菓子の列数を減らし、高く積み上げる。そして、空いた場所におかきの段ボールを積み重ねる。先ほど用意した切り取った段ボールを上段に乗せて、そこからさらに一箱分のおかきを箱から出して袋の状態で積み重ねる。崩れないギリギリの高さだ。

「聖くんの陳列はホント綺麗ねぇ。私がやるより上手だし、もうお菓子の担当は聖くんでいいんじゃない?」

「そんな、俺にはムリですよ」

 パートのおばさん一人に褒められただけだが、それは俺にとっては働きがいである。誰かに信頼されたり、称賛されたり――その喜びを全身で享受する。これは、俺の生きがいであり、そして――この生きがいを一緒に経験するはずであった、最愛の彼女――その分も、俺はバイトを頑張る。このやる気を大学の講義の時も発揮すればよいのだが、まぁ、勉強はつまらないのだから赦してほしい。苦笑する彼女の顔が、浮かぶ。彼女と一緒にバイトをしているような気分になり、時間はあっという間に過ぎて行く。



……



 気づけば、夜の八時過ぎになっていた。俺はバイトを上がり、下宿への帰路に就く。惣菜部の作った弁当の売れ残りをもらって帰ってくるので、いつも晩飯には困らない。下宿に向かうための僅かな道中、ビニール袋に入った弁当をぷらぷらさせながら歩いていると、ふと、視界の隅に蠢く気配があった。俺はその気配の正体を確信し、横町へと逸れる。

「やっぱり、お前らか」

 長屋建ての集合住宅が密集する狭い路地の奥、暗闇で二、三体の小さな影が揺れる。それは<矮小悪魔(インプ)>、もっとも身近でありふれた魔物だ。彼らは非力で、人間を殴り殺すには遠く及ばない。その代わり、人の精神に毒を撒く。すぐに死に至るような強力なものではなく、もっとささやかで、しかし悪質な毒だ。彼らは人々の心の闇に住まう。人間の心の闇に生まれ、影のように人々のすぐ後ろで生活している。種族を反映させるため、人々の心に入り込み、その闇を故意に広げる。たとえ体躯は小さくとも、れっきとした悪魔だ。

「ちょうどいい練習台だ」

 俺は弁当を地面に置き、無造作にインプへと近寄る。やつらなど、警戒するにも値しない雑魚だ。俺の体に触れた瞬間、ダメージを受けて苦しむほどに弱い。魔物の存在にすら気づかない無警戒な一般人ならともかく、魔物をはっきりと目視する能力者たちの敵愾心に触れれば、たいていの魔物はダメージは受けずとも不快感を覚えるなり怯むなりするものだ。そのことを感じ取ったのか、インプたちは逃げようと動きだす。しかし、遅い。

「消えろおおおおおおおおおおお」

 一度の跳躍で追いつき、逃げるインプのうちの一体を右手の握りこぶしで殴り飛ばす。そして、殴り飛ばしたインプが、その奥にいたもう一体のインプを巻き込んで吹っ飛ぶ。その刹那、俺は強く念じた。インプとインプがぶつかった瞬間に生じる衝撃を利用して、『詩』の力を行使できないか――という試みだったのだが――インプは消滅せず、五体満足のまま転けつまろびつ逃げて行った。衝突振り子がエネルギーを伝える瞬間をイメージしてみたのだが、やっぱりダメか。全く感覚が掴めない。自身が生み出した力が間接的なインパクトを与える瞬間に共鳴点を見つけようと必死で探ったが、ものの見事に失敗した。セイレーネスが見ていたら、何と言っただろう。いや、想像するとホントに腹が立ちそうなのでやめておこう。

 弁当の入っているビニール袋を拾い上げ、大人しく帰宅することにする。

 数百メートルほど歩いたところで、部屋へと辿り着いた。

「あー、疲れた」

 思わず声が出る。声に出すことで、体の余計な力が抜ける気がする。気のせいだとは思うが、声を出さないと落ち着かないのだ。

 とりあえず、疲れた体にアルコールを注ぐことにする。冷蔵庫にストックしてあるビールを煽りながら、弁当を食べる。やや食べ飽きてきたが、栄養のバランスは悪くないので、我慢して食べることができる。無音の部屋の中、自分の咀嚼の音がやけに大きく響く。妙に耳障りだ。特に見たい番組もないが、テレビを付ける。NHK総合にチャンネルを変える。今の時間帯だと、地方放送局が地元の話題を取り扱っているはずだ。俺の目当ては、主にその後のニュースなのだが。

『続いてはこちらのリポートです。みなさん、水族館というと、普段は日中に訪れる場所ですよね。今、夜の水族館がひそかな人気を呼んでいるんです』

 テレビでは、夜の水族館を巡るツアーが紹介されている。手暗がりにならない程度に照明を落とした館内は、大水槽の前でやや明るくなっている程度で、かなり暗そうに見えた。大水槽の水を通して、青色の光が館内を濃く照らす。その光景を見ていると、不意に頭痛がした。

 唐突な痛みだった。頭の奥の方から外側に向かって、全方向に圧迫する力がかかっているような感覚。たまらず、目を閉じて頭を押さえる。

 程なくして頭痛は収まった。それと同時に目を開けると、水族館のレポートはすでに終わった後だった。これは、一体何だったのか。身体的な問題だと考えるにしては、あまりにも呆気ない。おそらく、精神的な問題に属するものなのだろう。では、俺は何を嫌ったのか。水族館か、水か、魚か。いや、違う。直感的に俺は青色を嫌ったのだと理解する。では何故、俺はこの青を嫌っているのだろうか。

 青色に対する悪い印象と言えば、何があるだろうか。差し当たって、思い浮かぶものがない。頭痛を伴うほどなのに、心当たりがないというのは、妙なものだ。記憶にないほど幼い頃のトラウマ体験か何かだろうか。まぁ、考えても思い浮かばないものは仕方がない、一過性のものかもしれないし。また同じようなことを経験するなら、その時に考えても遅くはないだろう。

 弁当を全部口に詰め込むと、俺は課題に取り組むことにした。パソコンの電源を入れ、立ち上がるのを待つ間だけ、ニュースを見る。パソコンが立ち上がったのを確認してテレビを切り、ワードを開く。

 明日提出しなければならない課題は、心理学概論と国文学史Ⅰのレポートくらいか。ああ、大嫌いな英語Ⅲもあった、やれやれ……。デスクの隅に積み上げたプリント類から、それらを抜き出して並べる。一通り目を通し、心理学概論から手を付けることにする。課題内容は「条件反射と条件付けの違いについて述べよ」である。これは自由記述のため、三〇分とかからずに終了する。授業を真面目に聞いていなくてもごまかしが利くのが、自由記述の課題の利点だ。教授陣側でも、自由記述の課題は問題を作る手間がなくて便利であることだろう。採点もそれほど真面目にやるとは思えないし。

 続いて国文学史Ⅰの課題と英語Ⅲの宿題のプリントも一気にこなし、俺は思いっきり背伸びをした。時計を見ると、一時間半が経過している。

「あー、やってらんねー。終わり終わり」

 これ以上勉強なんてものは真面目にやるもんじゃない。俺は寝る準備を始めることにする。といっても、すぐに寝るわけではない。日付がかわるくらいまでは起きている。特に何をやるわけでもないが、早く寝ると一日を損したような気分になるのだ。寝床を整え、歯を磨く。そして、風呂に入る前に、パソコンの前に座り、成人コンテンツを閲覧する。精力が有り余っている身分だから、これは仕方ない。AV女優の胸が上下に激しく揺れるのを見ながら、俺は自慰に耽る。ただ、音声は切っている。女優の顔も見ない。女の肉が目の前で揺れている、その情報さえあれば、後は何もいらない。

 俺の脳内で、かつての恋人――絵里が、眉間に皺をつくりながら、妖しく喘ぐ。彼女の息遣いが聞こえる。肌と肌が擦れ合う音、弾力のある胸や太股の感触、掻き抱く彼女の髪の甘い香り――全ては、色褪せずに俺の中に留まり続けている。あまりにも若く、未熟な心と身体の触れ合いは、しかし本物だった。あれは一生揺らぐことのない、本物の愛だった。俺たち二人は、感極まって泣き合った。あの気持ちは、もう二度と味わえないだろう。

 快感のピークを迎え、滾る想いを体外に解き放った後、俺はそこで自分が泣いていることに気づいた。俺には、この自分の涙の意味が理解できない。彼女への愛しさがそうさせるのか、彼女を失った悲しさがそうさせるのか、あるいはその双方ともなのか。何となく居心地が悪くなり、風呂場に向かう。シャワーで涙を洗い流し、俺は一日の全てをリセットする。いかなる疲れも、ここまでだと自己暗示をかける。

 風呂から上がった後は、布団に寝転がりながら読書をする時間だ。精華や紀次が薦めてくれる本を読むのがもっぱらだが、自分で買い求めることもある。最近のマイブームは冒険小説、特にハードボイルドなものだ。藤原伊織や大沢在昌、逢坂剛などを読んだ。彼らの作品には、必ず魅力的なヒロインが登場する。人格云々というよりは、性的な魅力が強いように感じる。作家が描く以上のエロスが、そこにはある。俺は、時に涙しながらこれらの作家の小説を読む。主人公は海詩聖という名の俺となり、ヒロインは白葉絵里という名の彼女となる。特に、逢坂剛の『カディスの赤い星』を読み終わった時、俺は涙を止めることができなかった。冒険小説で、あそこまで泣くのは異常なのかもしれない。

 俺は、かつての恋人、白葉絵里の残像に囚われ続けている。一人の時は、常に彼女のことを意識してしまう。これは、病気だ。きっと俺は、狂っている。この病気を緩和してくれるのは、セイレーネスやプレゼミの連中、そして精華。今の俺の全ては絵里であるともいえるし、精華をはじめとする周囲の人々とのつながりが今の俺の全てともいえる。俺は、俺を正常な世界に引きとめてくれるみんなに恩返しをしなければならない。それまでは、完全に狂いきってしまうわけにはいかない。誓ったのだ。二度と自分の大事なもの失わない――精華は俺が護る、と。

 精華――それは不思議な存在だ。俺の双子の姉か、あるいは妹のような存在だった。小学生の頃は、常に一緒にいた。中学生になって、互いに時間の擦れ違いが多くなり、高校が別になると完全に疎遠になった。幼い頃をともにした、家族のような存在。しかし、三年の年月をはさんで再会を果たした時、彼女は幼馴染ではなく、一人の女としてそこにいた。俺の知らないものを持った、家族ではない一人の女として俺の前に現れた。俺は、彼女に惚れたのだろうか。それすらもよくわからない。しかし、彼女を護るという想いだけは、確かなものになった。精華を見ている時だけは、絵里のことが頭の中から抜け落ちる。俺が考えるべきは護れなかった過去ではなく、護るべき今である、と。彼女は俺の前に立っているだけで、そのことを教えてくれるのだ。

 宗教的な思想はあまり好きではないが、「人は生かされて、生きている」というのは真理だと思う。今の俺は、まさにその状態だ。周囲の人々には、感謝しなければならない。俺には、過去だけじゃなくて今がある。幸せを噛み締め、小説を閉じた。そして、胸の熱が消えないうちに、俺は眠りに就いた。いつもより早いが、寝付くのに五分とかからなかった。



……



 朝の目覚めは、心地の良いものなのだろうか。精華は朝が好きだと言うが、俺はどちらかと言えば嫌いだ。朝は、鏡と向かい合わなければならない。今まさに、朝の身嗜みを整えるために、鏡の前に立っている。

 俺は鏡が嫌いだ。鏡に限らず、自分を映し出すモノ全てが嫌いだ。窓ガラス然り、水面然り、写真然り、特に写真は形が残るという点では最悪だ。昔書いた自分の字を読み返すとヘタクソすぎて嫌気がさしてくるように、昔の自分の写真など見た日には、正気を保っていられる自信がない。俺は、俺が嫌いなのだ。――などということを、洗面台で顔を洗いながら考える。

 鏡に映る、自分という人間。顔の造りは、確かにフラウの言う通り、ジャニーズ系とは程遠い。これでもかというくらい平凡な顔をしている。早世や孝太の顔のことをどうこう言える立場ではない。その点、紀次はイイ線をいっている。何もしなくても女子の方から寄ってくる。判官贔屓という要素を考慮せずとも、彼はイケメンだ。事実、高校の時は常に女の子をとっかえひっかえしていた。大学生になってからは色恋沙汰に興味がなくなったのか、女の子を連れているところは見たことがない。

「お前は絵里一筋だからわからんだろうが……女って生き物はロクなもんじゃない」

 高校生の頃、彼はそんなことを俺に言っていた。すでに何かを悟りきっていたらしい。俺には理解できない感覚なのだろう。

 洗顔が終わり、鏡の前から立ち去ろうとして、昨晩のうちに髭を剃り忘れていたことに気づく。一日くらいなら大して目立たないのだが、精華やフラウがやれ不潔だの、やれダサいだのと言ってくるので、渋々毎日剃ることにしている。たまに剃刀負けして出血するのがたまらなく不快だ。ただでさえ冴えない顔に、更なるくすみが加わる。鏡の前にいると、ろくなことがない。

 今日は剃刀負けすることなく、髭を剃り終わる。無精髭が生えていた方がかっこいいのは、もっと歳をとってからだろうか。幼さが残る顔に髭は似合わない。

「……あれ?」

 気づけば、俺は声を出していた。確かに剃り残すことなく髭を剃ったはずなのに、鏡に映る俺の顎下には剃り残しがある。触れてみると、確かにザラザラとした感触があった。おかしいと思いながらも、俺はもう一度髭剃りをやり直す。確かに、顎下を綺麗に剃った。これで完璧だ。そう思って鏡をよく見てみると、今度は揉み上げの下に剃り残しがあることに気づいた。

 いや、これはおかしい。顎下はまだしも、揉み上げの下は手で触って確認する癖がある。いくら漫然と髭を剃っていても、さすがに気づくはずだ。

「一体何だって言うんだよ……」

 何かの悪意を感じる。髭を故意に伸ばすという、非常にささやかな悪意。しかし、はっきりと自分に向けられている悪意。そう、今この瞬間にも悪意が向けられている。俺は全身の感覚を研ぎ澄まし、何らかの気配が周囲にないか、探る。いつも感じる隣人たちの気配の他に、何かがいるはずだ。目を閉じ、余計な視覚情報を遮断して集中力を高める。

 しかし、何も感じ取ることはできなかった。止む無く諦め、目を開いた俺は、鏡を見て思わず叫んでいた。

「なんじゃこりゃあああああああああ」

 髭が仙人かというくらいに伸びている。今の一瞬で、触覚に何の応えもなく髭が伸びることなど、あり得るのか。普通はありえない。しかし、現実に今、あり得ている。いよいよ、俺に大して悪意が働いていることが決定的になった。

「誰だ、こそこそ隠れてないで、出てきやがれ!」

 朝の静かな部屋の中、一人で叫ぶ俺。客観的に見れば狂ったとしか思えない行為だが、俺としては必死で、形振り構っている場合ではない。

 ふと、鏡に移る自分の姿に違和感を感じる。あまりまじまじと見たくはないが、その違和感は、顔の造形によるものではない。表情だ。鏡の中の俺は、微笑している。おかしい、そんなはずはない。怒りや不安が顔に出る場面で、微笑むことなどできるものか。この鏡に映っている俺は、俺ではない。

「そこかああああああああああああああ」

 俺は確信とともに渾身の力を込めて、右拳を鏡へと叩きこむ。鏡と俺の拳がぶつかった瞬間に『詩』の力が発動して、鏡は粉々に砕け散る――はずであった。しかし、鏡は砕けない。それどころか、俺の右腕をすっぽりと吸い込む。慌てて腕を引っこ抜こうとするが、鏡の向こう側の世界からも引っ張られている。力比べで負け、俺の体は徐々に鏡の中へと取り込まれる。これは、マズい。命の危機を感じる。そして、俺が命の危機を感じると同時に、俺の魂は助けを呼ぶ。

「ちょっと、聖、お姉さん今から寝るところだったのに――って、何をやっているの? 付け髭なんかつけちゃって」

 魂の契約者たるセイレーネスは、俺からの召還に強制的に応じさせられる。物理的な距離は一切無視し、魂を経由することで瞬間移動することが可能なのだ。魂の契約の一番の利点がこれだろう。

「見たらわかるだろ、鏡に吸い込まれてるんだ! とりあえず引っ張ってくれ」

「もう少し早いタイミングで呼んでくれればよかったのに、全く……」

 セイレーネスが緊迫感の欠片も見せずに、俺の腰を両手で引っ張る。しかし、俺の体はどんどん鏡へと埋まっていく。

「ちょっと、何て力なのよ、これ」

 セイレーネスが、そこで初めて焦りを見せる。これでは鏡に吸い込まれきるのも時間の問題だろう。咄嗟に穿いているジーパンのポケットからケータイを取り出し、左手だけで操作してアドレス帳を呼び出す。山ノ井精華よりも、石影威の方が早く出てくる。何とか発信ボタンを押すが、それまでだった。

 俺とセイレーネスは、鏡の中へと吸い込まれる。

「仕方ないか……地獄まで付き合うわ」

 セイレーネスが諦めの溜め息をつく。彼女が諦めたことによって、俺は自分の現状が絶望的なものであることを悟る。セイレーネスなら、何とかしてくれると思ったのだが……他力本願はよくないか。

 呆気なく、俺という人間はこの世界から姿を消した。コール中のケータイだけを残して……。



[27529] 町に佇み 第一話『鏡面の真似師』 Part4
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/04 20:29
「ほら、いい加減起きなさいよ、ひじりちゃん。精華ちゃんが心配してるぞー」

 混濁した意識の中、聞きなれたセイレーネスの声が届く。俺は一体今どこにいて、何をしているんだ? セイレーネスの声が聞こえたということは、学校ではないのか。ゆっくりとした思考が、徐々にまとまっていき、俺は先ほどの出来事を思い出す。そうだった、俺は鏡に吸い込まれて――。そのことに思い至ると同時に、完全に意識が覚醒し、目が覚める。

「やっと目が覚めたか。まったく、大学生はこれだから――」

「お前にだけは言われたくないわ」

 セイレーネスの軽口に言葉を返し、俺は仰向けになっていた体を起こす。同時に、視界一面に広がる違和感。天井も床も壁も、全てが鏡張りの通路の中に俺とセイレーネスは置かれている。目算で、通路は前頭断面として捉えると縦横三メーターほどの正方形だろうと見る。動きまわるには狭いが、通路としては十二分にゆったりとした空間が確保されていた。視認できる範囲には分かれ道は一切なく、一直線に伸びている。

 そして、もう一つの違和感。全面鏡張りで光源が見当たらないにも関わらず、空間全体が仄かに明るい。何か不思議な力が働きかけているのだろうか。鏡の中に吸い込まれる前に仙人のようになっていた顎髭も、今はなかったことになっている。それどころか剃り残しもない。となると、俺は髭を剃り終わった直後から、幻覚を見せられていたということか。

「セイレーネスは、この空間が何かわかるか?」

「これは亜空間ね」

「亜空間?」

 俺は思わずオウム返しをしていた。亜空間というからには、通常の空間とは違うということなのだろう。

「魔物の中には、特定の環境下でしか能力を発揮できないモノもいるのよ。私たちに悪意を向けてる子は、そのタイプね」

 つまり、アウェーではなく、ホームで試合をする、といった感じか。俺は大雑把にそう解釈する。

「あと、亜空間を作る能力を持ってる時点で、結構高位の魔物だと予想されるわね」

 俺は今まで、高位の魔物に出会ったことがない。恒常的にホイホイと高位の魔物が出現するわけがないし、もしそうであったなら、俺や精華は幼い頃に死んでいたかもしれない。そして、俺の中で疑問が膨れ上がる。何故、今生きているのか。

「そんな高位の魔物に捕まったはずなのに、どうして俺とセイレーネスは無事なんだ?」

「急いで害する意味がないからじゃないかしら」

「よく意味がわからんのだが……」

「聖は根本的に魔物を勘違いしているのね」

 いいこと? 彼女は出来の悪い生徒に諭すかのように、俺に話を聞く準備を求める。これから、講釈が始まるようだ。しかし、こんなに余裕があるものなのか。セイレーネスを信用しないわけではないが、酷く場違いな行為であるように思える。

「ほとんどの魔物は普通の生物と同じように、何らかのエネルギーを吸収しなければならないわけだけど、それは魔力と一言で片づけられるほど単純じゃないわ。私たちは、存在意義によって生きているのよ」

「存在意義って言われてもピンとこないな」

「そうね。たとえば、私は詩を歌うために生きてる。そして、それに付随する活動を行う。今の私は歌声をとり戻すために生きてるわけ。そして、その行動を取らなければ、私たち魔物は存在を維持できなくなって消滅するの。人間みたいに、体が残ることはないわ。ほとんどの魔物は、謂わばエーテル体――魂の存在だから」

「つまり、何だ……俺は今から、その存在意義を果たすための道具としてここに引きずり込まれたわけか。単なる捕食目的ではない、と」

「そーゆーことになるわね」

 詳しいことは全くわからないけど、と彼女は笑う。彼女の笑顔を見ていると、不思議と緊張感が緩む。

「私も歌声を失くした直後は嘆き続けて、危うく消えかかったりしたものよ。あの頃は若かったわ」

 そう言って遠くを見つめるように目を細めるセイレーネス。そういえば、彼女は何歳なのだろうか。気持ちが緩和しすぎてそんな疑問が浮かぶが、今は余計な質問は控えておこう。考えなければならないことはたくさんある。

「俺たちは、今から何をするべきだと思う?」

「さぁ? 向こうからのリアクションがあるまでは、適当にぶらぶらしてればいいんじゃないかしら?」

「いや、何か対策を練っておくとか……」

「じゃあ、歩きながら考えましょうか。その方が考えがまとまるかもしれないし」

 反論する術を持たない俺は、勝手に歩き出してしまったセイレーネスに止む無くついて行く。

 現実には存在し得ないような一枚ものの鏡が天井床壁、上下左右に一枚ずつ、計四枚。それが、一〇〇メートル以上続いている。途中に継ぎ目のようなものは見受けられない。俺の周囲に俺が四人と、セイレーネスが五人歩いている。不思議な空間だ。いや、不思議すぎる。普通なら、合わせ鏡になって何人も俺とセイレーネスがいなければおかしい。なのに、天井にも床にも壁にも、俺とセイレーネスは一人ずつしか映っていない。通常空間での常識は、この亜空間では通用しない、ということか。

「こんなに無警戒でいいのか? じっとしてた方が安全だったと思うけどな」

「それは情報を収集できる範囲内での話でしょう。得られる情報なんて、あの場所にはもう何もなかったわ。それに、情報収集をしてるのは私たちだけじゃない」

「つまり、この瞬間も監視されてる、と」

「そう考えるのが自然ね。なら、じっとしてると、かえって狙いを付けやすい的になっちゃうでしょう。こうやって行動を起こした方が、相手の行動を阻害できる可能性が上がる。とまぁ、私もそこまで深く考えてないけど」

 あはは、と陽気に笑って見せるセイレーネス。まるで街中を歩いているのと変わらない。所作があまりにも自然体だ。彼女にしてみれば、普段から身近に危険が潜んでいるのだから、このくらいどうということはない、と思える程度のことなのか。俺が日常を安全なものだと思い過ぎているだけで、いくらでも危惧すべき敵が近くに潜んでいるのかもしれない。

 セイレーネスが緊張した素振りを見せないことは、俺にとって非常にプラスとなる。彼女に感化されるように、俺もまるで街中を歩いているような気分になる。体から余計な力みが取れ、心身ともに平静を取り戻す。まるで、いつも自分の部屋で話しているかのように、セイレーネスへと話しかける。

「亜空間に引き込まれる時点で殺される心配はなかったのか?」

「亜空間自体に殺傷能力はないわ。もし、亜空間そのものを標的ごと壊そうとするなら、空間全体を圧壊させるしかない。空間を全方位から均等な力で圧迫した時のみ、空間の圧壊は成立する。そうでなければ、水や空気と同じように空間はするりと逃げ出して圧壊をまぬがれてしまう。圧壊のイメージとしては、膨らませたゴム風船の空気を抜いた時の萎み方がピッタリかな。風船を萎ませるように、空間を圧迫して小さくしていって、その風船が点になってゼロへと還るまで、力をかけ続ける。これが、圧壊よ。でも、これは私たちにとっては脅威とはならない。詩で力の均衡を崩す点を作れば、圧壊は成立しないのだから」

 たしかに、詩の能力をもってすれば、空間を圧壊しようとする存在、またはその力を相殺することは困難であった場合でも、圧壊自体は防ぐことができる。力が均一にかからないように、空間の一部を歪めてやるでいいのだから。

「いざとなったら、聖の体を乗っ取って詩の力を使うつもりだったし」

「……おい」

 だから彼女は、常に落ち着き払っていたのか。いつもの彼女を見ていると、すっかり忘れてしまう。彼女は単なる自堕落お姉さんではなく、れっきとした高位の魔物なのだということを。

「こういうのは信頼関係が大事だってことはわかってるわ、これでも。だから、非常時以外は常に聖の意思を尊重してるつもりよ」

「それは俺もわかってるさ」

 わかってはいる。彼女が俺の意思を尊重してくれていることは承知済みだ。彼女は常に俺と対等に接する。しかし、まるでセイレーネスに全てを掌握された上で生かされているような感覚は拭いきれない。それが不快だ。

「聖は、私が簡単にあなたをどうこうできると思ってるみたいだけど、そんなことはないのよ? 乗っ取る対象の全てを抑えつけながら、身体に制動をかけていかなきゃいけない。あなたみたいに多少なりとも力を持った子を制御するのは疲れるから、できればやりたくないのよ」

「結局は信頼関係じゃないよな、それ」

「そうかもしれないわね」

 彼女は、とても素直だ。嘘や世辞の類をまるで用いない。その点は俺も信用できる。しかし、彼女の全てを盲目的に信用することは出来ない。彼女を信用しきった瞬間、俺はあっさりと彼女に取り込まれてしまうかもしれないのだから。俺は、自分の力の弱さを知っているし、だから自分の力も信用していない。だから、彼女のことも信用できない。俺は自分を信用できるようになって初めて、彼女のことも信用できるようになるのだろう。



……



 どのくらい歩いただろう。行く手に果てが見えた。距離的には数百メートル程先、真正面に鏡の壁が立ちはだかる。歩くたび、遠くの方から歩いてくる俺とセイレーネスの姿も徐々に大きく映る。

「ありゃ行き止まりか?」

「さぁ? そうかもしれないし、そうでないかもしれない」

「全ては魔物の気分次第、か」

「あの行き止まりに辿り着いた瞬間に、何かが始まるわ」

 何か、とセイレーネスは断定をさけるが、それはほぼ確実に戦闘行為だ。ただ、一方的な虐殺になった場合、それは戦闘とは言えない。だから、彼女は戦闘という言葉を使わない。今まで、ずっとそうだった。俺が弱い魔物を殴り斃す時は、いつもそう言っていた。そして、今回も同じように言う。ただ、今までのようにはいかないだろう。俺が一方的に虐殺される可能性もある。

「いよいよか」

 確実に目の前に行き止まりが近づく。引き返す、という選択肢もあるのかもしれないが、それは取らない。おそらく、引き返した先も、すでに行き止まりになっているのだから。だから、俺は前へと進む。あと一〇〇メーターほどか。走れば二〇秒もかからない距離。俺の中の緊張が高まっていく。今まで相手にしたことがないような、高位の魔物を相手にする。ひょっとしたら、ここで死ぬことになるかもしれない。僅かばかり、胸の奥に恐怖心が芽生える。しかし、それに呑まれたりはしない。なぜなら、俺はこんなところで死ぬつもりはないのだから。死ぬわけがないのだから。だから、恐れる必要はない。それに――俺の隣には、セイレーネスがいる。

「聖、死んじゃダメだからね」

「ああ、そのつもりはないさ」

 セイレーネスの言葉に返事をして、俺は息苦しさに気づいた。声を出して息を吸った瞬間に、呼吸が乱れていることに初めて気づいたのだ。心は冷静でいるつもりだが、身体の方はすでに恐怖で竦んでいる。空間に満ちる害意の気配が徐々に濃くなり、皮膚がチリチリと焦げる。

 あと五〇メーターを切った。俺はいつ襲われてもいいように、全身の神経を活性化させて周囲を警戒する。身体は自然と熱を持つ。体温は三七度くらいまで上がっているかもしれない。そして己の熱を感じ、俺は自身の覚醒を確認する。これで、身体が竦んで動かなくなることもない。この熱がある限り、俺の身体は俺の意思のままに動く。

 あと一〇メーターほどと迫ったところで、俺は違和感を感じて、後ろを振り返った。すると、背後五メーターほどの位置に鏡の壁が出来ていた。今まで歩いてきた通路は、既に封鎖され、まるで最初から通路などなかったかのようだ。おそらく、押し潰すために迫って来た壁ではなく、単に俺たちを狭い空間に閉じ込めるための壁だろう。徐々に迫ってきていたのなら、もっと早いタイミングで俺とセイレーネスのどちらかが気づいたはずだ。この壁は、急に現れたものに違いない。鏡の壁が背後に一枚増え、俺とセイレーネスが、また一人ずつ増える。

「やっぱり、閉じ込められたな」

「閉じ込められてるのは、最初からでしょう?」

「ああ、そうだったな」

 そう、今さら閉じ込められたと騒ぎ立てるまでもない。すでに亜空間に閉じ込められているのだ。単に、目の前の景色が変化したにすぎない。

「さて、そろそろ出てきてもらおうか」

 正面の鏡が五メーターほどの一まで迫ったところで、俺は立ち止まってそう告げる。その言葉に応えるように、空間に満ちていた害意が纏まり出す。その害意は、上下前後左右、鏡の中に六体ずつ存在する俺とセイレーネスの中へと収まっていく。次に起きることが、だいたい予想できる。この鏡の中の俺たちが、襲いかかって来るに違いない。セイレーネスもそのことを感じ取ったのか、余裕の表情を崩して空間を睨んでいる。

「聖、あなたの中に入るわよ」

 唐突に、彼女はそう宣言した。

「おい、ちょっと待て――」

 俺は、彼女に身体を預けないと決めた。どんな状況であろうとも、それを簡単に許すわけにはいかない。しかし――。

「大丈夫、乗っ取りはしないわ。入るだけ」

 そして、彼女は俺の承諾の言葉も待たずに、俺の身体の中へと無造作にその身体を沈めてきた。物理的な接触は一切ない。まるで立体映像(ホログラム)が実体と重なったように、何の抵抗もなく俺の中へと入り込み、彼女の姿は消え去る。

 懐かしい感覚だった。彼女が己の中にいるのは、三年前のあの日以来だ。異物感のようなものは全くない。ただ、俺は自分自身が一回り膨らんだような感覚に包まれる。実際に、彼女の力のサポートを受けることができるのだから。

「一体何だって言うんだ」

『聖、周囲を見て御覧なさい』

 戸惑う俺の内側から、セイレーネスの声が響く。この声は、空間の振動によって伝わってくるものではなく、脳内に直接響く類のものだ。

「なるほど、俺だけになってるな」

 彼女に言われて周囲を見回した俺は、鏡の壁に映るセイレーネスの姿が消えていることに気づく。

『この亜空間を支配している魔物の正体は、おそらく真似師(ミミック)よ』

 ミミックと聞くと、俺が思い出すのはテレビゲームに出てくるモンスターだ。ロールプレイングゲームに出てくる、宝箱の姿を模したモンスター。

「ミミックって、宝箱に擬態してるモンスターのことじゃないのか?」

『ミミックという言葉は、真似る、ということ全般を指す言葉よ。そういった意味で、その宝箱もミミックなだけ。でも、真の真似師は違う。いかなる対象でも、その姿形を真似ることができる』

「厄介な相手だな」

『でも、彼ら真似師は、相手の姿形を真似しなければならない。それが、彼らの存在理由だから』

 だから、鏡面からセイレーネスがいなくなった。いるのは、六人の俺のみ。

『それと、真似師は鏡の中から飛び出すこともできる。真似た対象の姿を借りることで』

「つまり、俺の分身が六体、今から俺に襲いかかってくるってことで間違いないわけか。鏡から飛び出して」

『ええ、そうよ。彼らは姿形は真似ても、行為までは完全に真似てこないわ。気を付けて』

 次に起こることがわかっているのは大きい。余裕をもって対処することができるはずだから。しかし、問題は鏡の中の俺が六体存在している点だ。上下前後左右、どこから襲われるかわからない。前後左右ならまだしも、上下は普段意識しないだけに、特に警戒が必要だろう。それに、何も律儀に一体ずつ襲ってくるとは限らない。束になって襲われると、少々厳しいかもしれない。

 俺は目を閉じ、出来得る限り精神を集中させる。視覚情報は、脳内への伝達速度が遅い。それよりも、聴覚や、もっと別の第六感を頼った方が賢明だ。俺もセイレーネスも、一切の音を立てずに佇む。無音の空間が広がり、聴覚神経が軋む。基底膜の振動はない。しかし、緊張に耐えかねた内有毛細胞の不動毛は震顫し、イオンチャンネルを開いて細胞を電気的に興奮させ、内耳神経へと虚偽の高音が伝えられる。強烈な耳鳴りに、痛みすら覚える。その痛みは心臓の鼓動に合わすように脈打ち、俺の全てのリズムが脈動と重なる。俺が、周囲の感覚と解け込み、飽和していくような感覚。今なら、いかなる方向からの奇襲にも反応できる。

『聖、後ろ!』

 セイレーネスの声を聞くのが早いか否か、背後に均衡の崩れを感じる。俺は振り返った場所に右拳を突き出していた。

「消えろおおおおおおお」

 その右拳は、背後の鏡の中から飛び出して来た俺の分身の左拳とぶつかり合う。もし、真似師が姿形だけでなく技まで真似できるのだとしたら、俺は相打ちで大ダメージを被ったに違いない。しかし、俺はダメージを受けていない。俺の分身が、俺の『詩』を受けて、一方的に消し飛ぶ。これで、あと五体か。

 次に、上から害意が近づく。握り合わせた両拳を振り被りながら降ってくる俺の分身。その脇腹へと、右拳を揮う。俺へと反撃が届く前に、分身は消滅する。これで、あと四体か。しかし、周囲を見回した俺は、絶望する。全ての鏡面に俺の姿が映っている。俺の分身が六体。その数は変わっていない。

「え……ちょっと待てよ! 反則だろ!」

 俺はあまりの理不尽に抗議の声を上げていた。鏡から飛び出し、二回斃されたはずの俺の分身。それが、なかったことになっている。つまり、斃されると同時に、鏡の中に新たな分身が生み出されたのだ。

「こんなの、どうやって斃せってんだよ」

『相手が分身を作りだす力が尽きるまで、かもしれないわね』

 セイレーネスが、俺を絶望に叩き落とすかのような発言をする。

「んな無茶な――」

『下!』

 完全に油断していた。今度はセイレーネスの声にすら反応できず、足元から伸びてきた腕に両足首を掴まれる。そして、その腕は俺の足首をそのまま勢いよく真横に引っ張った。俺は棒立ちの恰好でうつ伏せに地面へと倒れる。咄嗟に手をつき、地面と激突することを避けるが、真似師からの攻撃が矢継ぎ早に飛んでくる。

『上!』

 振り返る余裕すらなく、俺は腕の力だけで右真横へと飛ぶ。直後、俺がいた場所は上から降って来た俺の分身の踵落としに見舞われていた。直撃していれば、意識が飛んでいただろう。

『右!』

 俺が飛んで転がった先の鏡面から、俺の分身が飛び出し、俺の脇腹を蹴り上げる。避けるにはあまりにも姿勢が悪かったが、辛うじて腕で防御する。

「いっ――!」

 渾身の一蹴りを受け、俺は声を失うほどの傷みに襲われる。脇腹を庇った右の前腕が一瞬にして熱を持つ。内出血を起こしたのは間違いない。脈動に合わせ、じんじんと傷みが響く。骨にヒビが入っていてもおかしくない。

「まずいな……」

『でも、鏡の中のあなたも腕をケガしてるわ』

 セイレーネスに言われ、俺は全面と左右の鏡を見た。鏡面に映る俺は、みな左腕の前腕を右手で押さえていた。どうやら、俺がケガをした姿まで真似るらしい。これでは、俺と引き分けてしまうのではないか。一瞬そう思ったが、鏡の中の俺の表情を見て、そうではないなと直感する。鏡の中の俺は、みんな嗤っていた。今の俺は、右前腕の傷みに顔を顰めているはずだ。あんなに余裕を持って、邪悪に嗤っているはずがない。

「嗤ってやがるぞ」

『いっそ、嗤い返してやればいいじゃない』

「簡単に言ってくれるよな」

 セイレーネスは余裕を崩さない。しかし、俺にはそんな余裕はない。右前腕の傷みのせいで、思考が上手く纏まらない。間違いなく、反応速度も落ちている。長期戦になれば、間違いなく俺の方が負ける。何か、作戦を立てなければ……。

『聖、身体を貸してくれたら、腕の傷みを消すおまじないをかけてあげるわ』

「それは遠慮する」

『……そう』

 セイレーネスの力を借りた方がいいのは間違いない。しかし、俺は自分自身の力で戦いたい。こんなところで負けているようじゃ、この先精華を護っていくなんて不可能だ。俺は、こんなことで負けるわけにはいかない。負けているようでは、ダメなのだ。

「俺は、俺の力で勝ちたい。勝っていかなきゃいけないんだよ」

『でも、死んだら終わりよ?』

「こんなとこで死ぬようじゃ、生き延びたところで次に死ぬさ」

『でも、死んだら次すらないわ』

「今を全力で生きれないヤツが、明日もまともに生き残れるもんかよ!」

 俺ははっきりと意志を込めて、屹然としてセイレーネスの差し伸べる手を拒んだ。彼女が息を呑むような気配が、俺の内側に伝わる。

『……わかったわ。やれるところまでやってみなさい、聖』

 まるで弟子を見守る師匠か、あるいは弟を見守る姉のように、セイレーネスの声が俺の背中を押してくれた。彼女は自堕落お姉さんのはずなのに、何故か俺の心は熱く熱く、滾っていく。

「悪いな、頑固な弟で」

『何言ってんのよ、あなたは――』

 彼女は苦笑している。苦笑する意味は、肯定か。それとも、否定か。俺はふとそんなことを思ったが、答えを考える前に、真似師の次の一手が繰り出された。

 正面の鏡から、俺の分身が飛び出し、ゆっくりと俺の方に歩いてくる。今までの攻撃とは少し毛色が違うようだ。その身体はまるで無防備で、隙だらけであるように見える。それ故に、不気味だ。俺は気圧され、一歩たじろぐ。俺が竦んでいると見て取ったのか、その瞬間に俺の分身は駆け出した。一気に俺へと肉薄する。俺の分身が右腕を振り被ったのに合わせ、俺も左腕を振り被る。そして、同時に腕は突き出され――。

「何っ――!?」

 俺の左腕は、宙を薙いでいた。その理由は単純。俺の分身は、俺を殴ると見せかけて、下の鏡面へと沈みこんでいったのだから。そして、それと入れ替わるように、俺の真下から分身が飛び出し、強烈なアッパーを俺の鳩尾へと打ち込んだ。

「かはっ――」

 声にならない声が出た。今まで、鳩尾を殴られた経験など一度もなかったため、その痛みは一入だ。肺の空気が一気に押し出され、一瞬の真空状態に肺が悲鳴を上げる。地面に転がると同時に、肺の中に一気に空気が入り込み、横隔膜に圧迫された胃が、ダメージを受けていることを主張するかのごとく胃液の逆流を起こす。開きっぱなしだった俺の口から、勢いよく黄色い胃液が飛び出した。朝食前だったので、吐瀉物はなかったが、嘔吐感は止まない。もう一度嘔吐(えず)き、噎せる。溢れはしないが、目一杯に涙が溜まっていた。傷みと息苦しさに、意識が遠のく。



……



 これは気絶後の夢か。あるいは、一秒を無限に切り刻んで生じた、思考の海か。

 俺は、大学入学直後に受けた講義の内容を思い出していた。自然科学Ⅰの講義で、数学を勉強していた時の記憶だ。教授の名前も顔も朧だが、鏡について蘊蓄を垂れていたことだけは覚えている。

「諸君、鏡は我々の姿を正しく映し出しているだろうか?」

 普段、誰も意識していないような事象に対する問いかけ。この問いかけに関して瞬間的に答えるなら、「自分の姿がちゃんと映っています」となってしまうのかもしれない。

 前列の生徒何人かに講義用のマイクを向けたところで、教授の期待する答えがあった。

「左右が逆に映っているのではないでしょうか」

 この答えに対して、教授は食いついた。

「そう、確かにそう見える。一見すれば、鏡は左右を逆にしている」

 だが――と、教授は少し間を溜めてから話を続ける。

「だが、考えても見てほしい。我々が右手を上げた時、鏡の中の自分は右手を上げているかどうか。鏡の中の自分が上げている手は左手ということになりはしないか。その現象は何故起こりうるか」

 左右を逆に映す、という仮定の下では論理がなりたたない。鏡の中の自分も右手を上げていた方が自然なのか、左手にあたる手を上げていた方が自然なのか――いや、両方不自然だ。入れ替わっているのは左右ではない。

「答えは簡単だ。鏡は前後を逆に映し出している」

 そう、これが答え。鏡の魔物を倒すための、答え。鏡は前後を逆に映している。

 もし、左右を逆に映すというのなら、前後を逆にせずに線対象に移らなければならない。前後を逆にせずとはどういうことか――これはつまり、鏡の中の自分と向かい合わない、ということである。要するに、鏡を覗き込んだ時、自分の後頭部が映っていなければならないのだ。



……



『聖っ!』

 セイレーネスの緊迫した声に、意識を取り戻す。彼女のこんな声を聞くのは、ひょっとすると初めてかもしれない。いや、あるいは過去に一度だけ聞いているのか。三年前の、あの時に――。

「だ、大丈夫……まだやれる」

 精一杯の強がりで、俺は立ち上がる。いや、強がりだけではない。俺は、真似師を斃すためのカギを得たのだ。

『ダメよ、聖。何とかなると思った私も、どうにかしてたわ。今のあなたの実力じゃ、真似師とやり合うには早すぎる』

「いや、俺はやれる……」

『やれるじゃなくて、やられちゃうの! 私があなたの身体能力を補強していなければ、今頃気絶してるわ』

 確かに、そうだ。さっきの一撃を受けて、立ち上がることができるのはセイレーネスのおかげだ。俺一人じゃ、何もできない。

「だが、俺はやる。そう決めたんだ」

『ホントに頑固ね、あなた』

「何を今さら言ってんだよ」

『……死んでも知らないんだから』

「悪いな、転移するための子どもを遺せなくて」

『縁起でもないこと言ってんじゃないわよ』

 そんなはずはないと思うのだが、セイレーネスの声が震えているように聞こえた。俺の意識にガタが来ているせいで、そう聞こえたのかもしれない。

「さぁ、俺はまだやれるぞ。来やがれ!」

 俺は自分を奮い立たせるように、吼える。限界を迎えるには、まだ早すぎる。

 俺の声に応えるかのようなタイミングで、再び鏡の中から俺の分身が飛び出す。今度は、左側から。はっきりと動きが見え、反応できる。殴りかかって来た分身の拳を左手で受け止め、反対側へと受け流し、腹のあたりに膝蹴りをお見舞いする。一体が消滅し、次の一体が来る。次は、下だ。最初こそ不意を取られたが、今度はそうはいかない。重力の類を無視した勢いで飛び出してくる。まるで、トランポリンでも使って遥か下方から襲来したかのような拳の一撃。再度鳩尾を狙われたようだが、今回は後ろに飛び退き、しっかりと避ける。そして、次はおそらく後ろ。

「うおおおおおおおおおおおおお」

 確認することすらしなかった。直感を信じ、俺は背後の鏡面に向かって――いかなかった。俺が向かう先は、正面。拳を振り上げ、突進する。負傷し、本来なら傷みを訴えているはずの右前腕は、今は熱を持つのみだ。余計な傷みは感じていない。俺の脳が、全身の痛覚を遮断する。身体の悲鳴には耳を傾けない。

 俺の直感は当たっていた。鏡から飛び出していない正面の分身の映像を、俺の左拳が砕く。その瞬間、甲高い悲鳴のような音が亜空間に木霊した。後ろから迫っていた分身の気配も、まるで何事もなかったかのように消え失せる。

 初めて、真似師に怯えの気配が現れる。空間全体が、何となく萎縮したように感じた。

『聖、今のは……』

「ああ、鏡の特質を思い出したんだ。鏡は前後が逆に映るものだってことをな」

 詳しく説明する余裕はなかった。ただ、目の前で起きた現象と今の言葉を聞けば、彼女ならわかってくれると信じての最低限の説明だ。

『なるほど、そういうものなのね』

 無事、セイレーネスも理解してくれたようだ。俺はこれ以上、思考に体力を割くわけにはいかない。強がってはみたが、すでに体の方は限界が近い。

 少し殴られたくらいで、この有り様だ。情けないが、自分が弱いことはわかりきっているのだから、仕方ない。その屈辱には、いくらでも耐えて見せよう。

『聖、また来るわよ』

 少しは休憩する時間を与えてくれるのかと期待したが、そう上手くはいかなかった。まるで怯えを覆い隠すように、周囲を満たす真似師の殺意が膨れ上がる。

『左!』

 そのセイレーネスの言葉をそのままの意味と信じ、俺は左を無視して右に映る俺の映像を殴る。これによって、さらに真似師がダメージを負うはずだった。

 しかし、今度は手ごたえがなかった。鏡面に触れた、その瞬間――ドクン、と体の中を悪寒が駆け抜けていった。同時に、どろりと鏡面が溶け、俺は亜空間に取り込まれた時を再現するかのように、再び鏡の中へと沈み込む。一瞬の意識の空白――しかし、すぐに意識も視界も晴れる。おそらく、意識に空白が出来たと感じたのは、視界の空白があったから。実時間では一秒も経っていないはずだ。

 鏡を潜った先にあったのは、再び鏡の空間。上下前後左右、六面の鏡張りの密室。しかし、先ほどよりも狭くなっている。二メーターほどの正方形だろうか。

『上!』

「くそっ」

 狭くなったせいで、身動きが取れない。しかも、反応が間に合わない。俺は頭上からの踵落としを後頭部にまともに食らい、下の鏡面へと激突するかたちで倒れ伏した。

 思考が回らない。体もまともに動かせない。まるで爆弾でも埋め込まれたかのような首の奥からの激痛に、全身が支配される。

 俺は何とか起きあがろうとするが、真似師は待ってくれない。うつ伏せに倒れ、無防備な俺へと次々に打撃を打ちこむ。

 何度殴られたかわからない。途中で一度、意識が飛んだ。意識を回復したのは、最後の一撃をもらい、中空を舞っている時だった。背中から、無造作に下へと激突する。全身を襲う傷みに思わず咳き込むと、血を吐いていた。どこからの出血だろうか。肺や心臓だったら死ぬな、これは。

『聖、あなたは良くやったわ。あとはゆっくり休んでなさい』

「何言ってんだ。俺は、まだ……」

『これ以上動くと死んじゃうわ。大丈夫、お姉さんに任せなさい』

 まだ俺はやれる。まだ、強がる余裕すらあるじゃないか。どんなに血反吐を吐こうとも、まだ俺は、やらなきゃいけない。やれなきゃいけない。勝利は目の前にあったじゃないか。こんなところで、立ち止まるわけには――くたばるわけには――。

 しかし、俺の意識と記憶はそこで途絶えてしまった。目蓋を閉じるより早く、意識に暗闇が訪れ、俺は気を失う――。



[27529] 町に佇み 第一話『鏡面の真似師』 Part5
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/04 20:39
『ここに一人の男がいる。彼は、どうしようもなく愚か。自分の力量も顧みず、愚直に立ち向かっていく根性しか持ち合わせたもののない、非力な男』

 セイレーネスは詠う。一人の男の物語を、愚か者の物語を紡ぐ。

『頭でっかちなばかりで、実力が伴わない。でも、彼は立ち向かう。彼は戦う。なぜなら――』

 そして、傷つき倒れ伏し、もはや動かすことも叶わないほどにボロボロになった身体が、今一度、大きく脈を打つ。

『彼は戦うと決めたから。全ての理不尽を斬り払う力を手にすると、己に誓ったから。それが――』

 そして――。力尽きたはずの彼の指が、腕が、足が、再び動く。

「それが、彼(うなた さとる)の存在理由なのだから」

 聖の口から、セイレーネスの言葉が漏れる。いや、言葉だけでなく声すらも彼のものではない。彼女の声だ。

「私は紡ごう。己の存在意義のため、彼の存在意義のため。彼の歴史を紡ごう」

 そして、その声に応えるように、〝傷が壊れる〟。体中の傷の大半が、壊れ、治る。内出血によって赤く腫れ上がっていた右前腕の色が、腫れが一瞬にしてひいていく。損傷部位の周囲の空間を破壊、筋細胞を強制的に付着させ、活性化した治癒能力をもって一瞬にして傷口を治していく。荒療治のため、応急処置にしかならないが、こうでもしなければ聖の身体はまともに動かないほどにまで傷ついていた。

「さぁ、来なさい。己を持たぬ、憐れなるモノ」

 セイレーネスが静かに挑発する。それに応え、鏡の中から飛び出してくる、聖の分身。今までなら、殴り斃すことで迎撃されていた、それらの存在。しかし、今度は互いが触れ合うことすらない。

「真似師の存在意義は、姿形を似せること。でも、残念ながら――今の聖は、あなたの似せる聖とは、すでに違う存在に支配されている」

 彼女の『詩』が、周囲の空間を支配する。聖の体の周囲、半径一メートルの範囲に鎌鼬が巻き起こる。それに触れた瞬間、周囲の鏡が崩壊する。粉々に砕け散る。そして、砕けると同時に鏡は再生する。無限の破壊と再生の繰り返し。セイレーネスの破壊と真似師の再生の力が一時的に拮抗する。

「その鏡は、対象の姿を映す。でも、正しく映せない。その鏡に映るのは、真似師――あなたの映したい姿にすぎない」

 詠う。セイレーネスは、静かに詠う。

「あなたが生みだす、その粗末な分身も、あなたの勝手な想像にすぎない」

 鏡と同じようにして、鎌鼬に触れた聖の分身も崩壊する。個体を構成する要素を瞬時に見抜かれ、固有振動数にチューニングされ、一瞬のうちに崩壊する。カタチを保つことができない。

「滅びの詩を詠いましょう。黎明の彼方、夜と朝、世界の狭間より、風は吹く」

 やがて詩は、歌へと変わる。堂々とした――でも、どこか切ない響きを含む歌声。

「偽りの翼を羽ばたかせ、夜の鳥は往く。朝の訪れぬ空を目指して、闇の中から溶けださぬように」

 偽りの翼――それは、真似ること。

 何度も何度も、聖の分身が鏡面から飛び出し、聖に襲いかかる。しかし、セイレーネスの敷いた風の防御壁の前に、次々と砕けていく。それは、何度繰り返されても変わらない。

「朝の鳥は夜を追う、世界に光もたらすため」

 朝の鳥は、光をもたらすためだけに飛ぶのではない。

「偽りの翼、照らすため」

 それは、英雄を讃える歌。不正を訴え、立ち上がった、かつての英雄に捧げられた讃歌。

 偽りの翼――例えば音。例えば声。例えば言葉。例えば歌。それらカタチ無きものを、真似師は真似ることができない。故に――。

「今、その翼の偽りを暴こう」

 セイレーネスは静かに宣言する。その翼は偽りであると。

 聖が鏡の特質を彼女に伝えていなければ、彼女は真似師を斃すのに多少の時間を要したかもしれない。分身を砕くことは容易くても、本体の所在が掴めない限り勝利することはできないからだ。だが、今は本体の所在を把握している。

 鏡は前後が入れ替わる。つまり――。

「偽るな、前後を!」

 彼女の歌声が、真似師の崩壊を招く。前から飛び出す聖の分身――そして、後ろの鏡が砕ける。鏡を砕くは鎌鼬。ありとあらゆる物質の崩壊を導く、風に似て風に非ざるもの。彼女を――聖の体にまとわりつき、絶対的な防御を見せる半鳥人の力。それが攻撃に転じた時、全ては決する。

 悲鳴のようなものが聞こえた。後ろの鏡が砕けると同時に、前方から飛び出していた聖の分身も消え去る。前方の鏡も呼応するかのように崩壊し、消滅する。

 次に来たのは上。後頭部目がけて、聖の分身が急襲する。しかし、本物の聖の体に触れることは敵わない。下の鏡が、一瞬にして崩壊する。それと同時に、襲いかかってきた分身も消え去り、上の鏡も砕け散る。大雑把な欠片は微塵も残らない。キラキラと、一瞬だけ光って見せて、鏡だったものは砕かれると同時に消滅する。虚無へと還る。

 再度、悲鳴。残された左右の鏡に映る聖が、初めて怯えを見せる。いつも余裕に歪んでいた顔が、心なしか引き攣って見える。

 姿形は真似しても、行為は真似しない真似師。故に、其れは逃げ出す。圧倒的な破壊の力を持つ者に怯え、恐れ、逃げ出す。背中を向けて、走りだす。鏡の奥の世界へと。

「朝日の速さに、偽りの翼ではかなわぬ。照らされよ、夜の鳥!」

 セイレーネスは嗤った。それは戦いを愉しむ顔か。それは殺しを嗜好とする顔か。それとも――。

「それには、はじめから翼など、なかった」

 嗤顔は、己の詩に酔いしれるためか。彼女が詠うと、最後に残った左右の鏡が砕け、左の鏡の奥に、実体を持つ聖の分身が取り残された。それが、この空間における真似師の正体。

 這這の体で、なお逃げようと試みる真似師。しかし、もはや手遅れだった。

 普段は破壊しすぎないように気を使う彼女だが、この亜空間なら、遠慮なく削り取れる。

「消えろ、夜の空」

 セイレーネスの声に応え、鎌鼬が荒れ狂う。物理的な距離や大きさは一切無視し、真似師と自身の間にあった空間を全て削り取る。その結果、足を動かすことなく、彼女は真似師を捕える。

「消えろ、偽りの翼」

 無慈悲に、残酷に、聖の体を模った真似師の首を、セイレーネスが左腕一本で締め上げる。聖の体をもって、聖の体を模したものを締め上げる。

「誰かを真似し続けなければ存在を維持できないなんて、本当に憐れね、あなたは」

 一瞬だけ、セイレーネスは歌うことを中断した。

 真似師の顔に浮かぶのは、恐怖。そして、セイレーネスが手繰る本物の聖の表情は、嗤い。立場が逆転する。

「でも、その呪いから解放してあげる。永遠に」

 そして、最後のフレーズが歌われた。

「墜ちよ、夜の鳥」

 歌が、終わった。同時に、首が砕け、全身が砕け、真似師は消滅する。

 直後、主のいなくなった亜空間は軋み、崩れ出した。均衡を保つ亜空間からの脱出は困難だが、崩れ出せば話は簡単だ。

「じゃあね、憐れな子、真似師」

 彼女は詩の力で目の前の空間を切り崩し、脱出口を作る。そこに聖の体が消えてから数刻のち、亜空間は完全に崩壊し、消滅した。



……



 俺は、夢の中にいた。自分でもはっきりと、夢と認識している。なぜなら、そこには絵里がいたから。あるいは、あの世というヤツか。

「聖……」

 少し離れたところにいる絵里が、俺の名を呼ぶ。俺は懸命に返事をするが、何故か声が出ない。夢だからか。あるいは、あの世に行く途中で声を失くしたのか。案外、セイレーネスに奪われたのかもしれない。彼女なら、

「死ぬのは勝ってだけど、声くらいは置いて行ってね」

 と言いながら俺の声を奪っていても不思議ではない。だとしたら、してやられてしまったわけだ。

「聖……」

 彼女の声が俺に届く。だが、俺の声は彼女には届かない。絵里、俺も今から、そっちに行くからな。そうすれば、いくらでも語らうことができる。

「ひじりちゃん!」

 ふと、背後から呼び止められる。強い語気の、精華の声。

「ひじりちゃん!」

 絵里の元へ行こう。そう思っていたはずなのに、俺の心は精華の声に引っ張られる。

「ひじりちゃん!」

 そうだ、俺は誓った。精華を護ると誓った。二度と、大切な存在を失ったりしない。そう誓ったのだ。

「聖……」

 寂しそうに呟く絵里。俺の名前を読んだ後、何かを呟いている。彼女は何と呟いているのか。唇の動きを追う。

「……ったげて」

 確かに俺は、読みとった。彼女の唇の動き、言葉を。

「聖……精華さんを護ったげて」

 わかったよ、絵里。お前に会いに行くのは、もっと後にするよ。

「ひじりちゃん!」

 そして、俺は精華の声に応えるように、光の中へと吸い込まれる。それが意識の覚醒なのだと、直感的に悟る。

「ひじりちゃん!」

 今度の声は、確かに現実の声だった。俺の鼓膜を震わせる、精華の声だ。

「精華……か」

 目を開けると、見慣れた天井と、泣き顔の精華。そうか、確か俺は、鏡の中の亜空間で、真似師にボッコボコにやられて……気絶してしまったのか。

「よ、よかった……よかったよ、ひじりちゃんが無事で……」

 そして、ボロボロと無遠慮に涙が零れおちる。俺の服が、濡れていく。

「何だ何だ……泣き虫精華か。懐かしいな」

 泣き顔の精華を見るのは、何年ぶりだろう。中学生以降、一度も見たことがない。少なくともここ七年以上は見ていない。気丈な彼女が涙を流すなど、異常事態だ。

「映画でも観たのか、そんなに涙流して……」

「バカ! そんなわけ、ないじゃない……」

 軽口ではぐらかそうとしたが、彼女は取り合う気がないらしい。

「一体どれだけ心配したか……ひじりちゃん、わかってないでしょ!」

 涙を止めぬままに、彼女は怒りを訴える。器用だな、と思う。

「悪いな、心配かけさせて……」

 もう大丈夫だ。俺はそう言いかけて、体中の違和感に気づいた。体が鉛のように重く、梃子でも動きそうにない。加えて、先ほどから意識に靄がかかり、現実感に乏しい。確かに現実であるはずなのに、まるで夢を見ているかのような、意識の浮遊感がある。その原因が何か……探りかけて、俺の意識は浮遊感を強める。

「悪い、すんげぇ眠いわ……」

 辛うじて、それだけ告げて、俺は再び眠りの中へと落ちていく。その夢から目覚めない不安も、ないとは言えないが、俺は安心して眠りの中へと落ちる。俺は、現実へと帰ってくる道標を見つけた。だから、もう一度戻って来れる。その自信に包まれて、俺の意識は落ちていく。



……



「大丈夫、ホントに眠っているだけよ」

 精華を落ち着かせるように、セイレーネスが優しく声をかける。

「もう、ひじりちゃんったら……」

 精華は頬を膨らませるが、その表情には笑顔が戻っていた。確かに瀕死の重体ではあるが、セイレーネスが大丈夫だと言ってくれている。なら、大丈夫だ。それに、彼がこんなところで死ぬはずがない。彼女は自分にそう言い聞かせ、心を落ち着かせる。そんな彼女の目に残った涙を、フラウがハンカチを使って拭いていた。もっとも、精華以外には、虚空でハンカチが踊っているようにしか見えていないのだが。

「何はともあれ、聖くんが無事でよかったよ」

 威が安堵の息をつくような素振りをしてみせるが、使い魔の百合花はその背後で「心にもないことを」と毒づいている。

「あ、先生……情けないところを見せてしまって、すみません……」

 精華は背後へと振り返り、プレゼミの教授へと頭を下げる。

「いや、構わないよ。君たちの美しい愛情を前に、僕も涙していたところさ」

 威が涙を拭うような素振りをしてみせるが、使い魔の百合花はその背後で再度「心にもないことを」と毒づいている。

 聖が鏡の中から出てきたのは、数刻前。部屋の中を探索していた精華と威の目の前に、聖を負ぶったセイレーネスが突然現れ、今回の神隠し事件は幕を降ろした。

 聖を布団に寝かせた後、セイレーネスから一連の話を聞いた精華は、それまでの不安げな顔を泣き顔へと変えて、ずっと聖の顔を覗き込んでいた。目覚めても大変だが、目覚めなかったらもっと大変だ……主に精華が。威以外の全員が、精華が錯乱しないかどうか心配しながら見守っていたが、どうやら杞憂で終わったようである。

「救急車が到着したみたいだよ。僕が負ぶって連れて行こう」

「いえ、それは姉の役目ですから」

「お姉さんはお疲れなんだし、ここは私が――」

 などという不毛な聖の取り合いもあったり、なかったり。セイレーネスは聖の中へ、百合花は威の影の中へ隠れることによって、救急車に全員が同乗し、病院へと向かった。

 そして、最寄りの大学病院へと到着し、救急隊の人が救急車の外へ飛び出すと同時に、聖の中からセイレーネスが飛び出す。一人、女性が増えたことに、救急隊員は気づかない。だから、医師たちや看護師たちも「救急車に大勢乗っていたな」程度にしか思わない。百合花は威の後ろに張り付くような恰好で、彼の影から出てくる。それに気づく者も、セイレーネスと同様に誰もいない。その様子を、精華ただ一人が感心しながら見る。

 集中治療室に担ぎ込まれた聖を見届け、一行はロビーのベンチに腰を降ろしていた。フラウは少し離れたところに置いてある水槽の前に立ち、興味津々といった様子で魚が泳ぐのを眺めている。

「ところで、聖の怪我は病院側には何て説明したの?」

 セイレーネスが疑問を口にする。そういえば、と精華も思う。彼の怪我の程度は、尋常ではないほどに重い。車に轢かれたにせよ、誰かに殴られたにせよ、事件性が見えてしまう。その後始末を、どう付けるつもりなのか。

「ここはW大学付属病院だよ? 何とでもなるのさ。加えて、ここの院長と僕は知己でね。説明など何もいらないんだよ」

「ふーん、そういうものなのね」

 自分から訊いておきながら、威の回答に興味なさげなセイレーネス。精華と百合花が僅かにイラつく気配を見せるが、それに気づくものは誰もいない。

「先生、私からも質問いいですか?」

「うん、どうぞ」

 セイレーネスとは違い、精華は至極丁寧に質問する。何故か、その様子を見ながら百合花が満足げに頷いている。

「ひじりちゃ――聖が襲われた理由って、何かあるんでしょうか?」

「そうだねぇ。真似師は、愛憎どちらかの感情が極まった時に標的を襲う。聖くんの性格からすると、嫌われすぎて襲われたんじゃないかな」

 威の言葉に、精華は聖のことを思い返してみる。鏡をまじまじと見つめる彼の姿など、見た記憶がないし、及びもつかない。

「その、具体的に、どうすれば好かれたり嫌われたりするんでしょうか?」

「対象が自分を好いているか、それとも嫌っているか。彼らはそれを瞬時に理解できるからね。鏡に対して、ある一定以上の好き嫌いの感情を抱いたらいいんだよ」

 それを聞いて、精華はドキりとする。自分が鏡の前に経つ時間は、お世辞にも短いとはいえない。毎日必ず、身嗜みをチェックしている。その程度なら、誰でもやっているとは思ってみるものの、やはり彼女は不安になる。

「じゃあ、鏡見過ぎたらヤバいんですね……」

「まぁ、気にしなくても大丈夫だよ。本来、真似師は大人しい魔物なのだから。今回が特別だったんだ」

 本来、真似師という魔物は、モノマネをして自分だけで楽しんでいるだけの非常に無害な存在だ。威はそう説明する。

「その大人しいはずの真似師が、どうして襲って来たんでしょうか? その特別な事態が起きたのは、偶然なのでしょうか?」

 不運だった。偶然だった。世の中の出来事の事故は、こう説明してしまえば気楽でいい。もし原因が存在しない事態の場合は、それで上手くいく。でも、もしも原因があったら? 

「最近魔物の数が増えてることと、何か関連があるかもしれないね。今までは安全な魔物とされていたモノですら、凶暴化してるかもしれない。ここ半年ほどで『歪み』が目立って大きくなってきたからね」

 近頃、魔力を生み出す空間と空間の摩擦『歪(ひず)み』が増えている。それはつまり、魔力を持つ者の力が増幅されていることにつながる。

「これからは、魔物による犠牲者がどんどん増えることだろうね。僕たちの知り合いがいつ殺されても、不思議ではないよ」

 冷徹に、威は述べる。これからの世の中がどうなっていくのか。その言葉を聞き、精華は暗澹たる気持ちになり顔を伏せた。

「魔物が増えてくるとなれば、人間だけが被害に遭うというわけにもいかないんでしょうね」

 セイレーネスが言いながら苦笑する。自分のような高位の魔物であっても安心できない世の中になっていくことを思っての苦笑だ。

「今まで見られなかったような強力な魔物が登場してくるかもしれない。とすれば、僕たちも無事である保証はない」

 百合花、君だってそうだよ? と威が自らの使い魔に視線を向ける。百合花は「わかっておる」と面倒くさそうに返事をする。彼女は余裕然としているようで、しかし、少しピリピリとしている。誰もが、これからの戦いを意識せざるを得ない。

 そんな一同の顔は日中の病院のロビーには不似合いなほどに緊迫した表情を浮かべていた。それを見た威は、明るく笑って見せる。

「僕の方から煽っておいて何だけど、ともかく、今は明るく笑っていよう。聖くんが目覚めた時に、今みたいな表情をしてると悪いじゃないか」

 威の言葉に、精華とセイレーネスが頷き、微笑む。百合花は「柄にもないことを」と苦笑していた。







二話へと続く……






※2011/5/2 UP

※何箇所か、加筆、修正しました(2011/5/4)
・冒頭の『詩』の能力についての説明を変更
・朝食後の描写をところどころ変更、余計な描写を削除
・宿題時の余計な描写を削除
・セイレーネスのバトルシーンを変更



[27529] 町に佇み 第二話『町に差す影法師』 Part1
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 09:33
「一体どうなってやがるんだ!」

 会社員高木勉(たかぎ つとむ)は、自分の身に起こっている怪奇を理解できずにいた。

「一体誰なんだよ!」

 数日前から、自分になりかわって周囲に出没している男がいる。自分の同僚たちが、口を揃えて言うのだ。

「高木、お前声かけたのに無視しただろう」

「高木くん、昼間っから会社サボって何してたの?」

 ここ数日、友人から声をかけられて無視した覚えはないし、会社にも出勤し続けている。ここまでならば、そっくりさんがいる、ということで全て片付く。しかし――。

「高木、差し入れのクッキーありがとうな」

「高木くんってダンス上手かったのね。習ってたの? 今度の忘年会でやりなよー」

 気の利かない自分が無意識のうちに差し入れをするということは考えにくいし、ダンスに至っては習うどころかやったこともない。そもそも、人前で何かを披露するような度胸は持ち合わせていないのだ。これは一体どういうことなのか。昼間から酒に酔い潰れて意識が飛んだわけでもなく、ヘンな催眠術をかけられたわけでもなく、白昼夢を見ていたわけでもない。ここ数日のうちに記憶の欠如を意識したことはない。

「何だよ、一体これは何なんだよ!」

 パニックに陥りそうになりながらも、彼は考える。何故、今走り続けなければならないのか。

 彼は走り続けている。その理由は一つ……〝自分〟から、逃げている。迫りくる〝自分〟の気配から、逃げている。ここ数日、確実に自分がもう一人存在しているのだ。

「来るな! 来るなよ!」

 姿も、足音もない。真夜中のオフィス街には、自分の走る靴音以外に音らしい音はない。だが、気配は近い。職場を出てからこちら、どんどん距離が縮まっているように感じる。

 真っ直ぐ走ることに耐え切れなくなった彼は、道を横に逸れる。背後の気配は、より濃厚になっていく。

(こんなことなら、残業なんてするんじゃなかった!)

 彼は目に涙をいっぱいに溜めながら、自分の不運を呪う。しかし、真に呪うべき不運は、今まさにやってくる。

「ひぃ――!」

 リズムを乱して吸われた空気は、咽喉を小さく鳴らした。更に道を横へと取った彼の前に、一つの影が立ち塞がったからである。

「おかえり。そしてさようなら」

 彼は影へと取り込まれる。あっけなく、それまでの人生を全て否定されて――。

 彼を取り込んだ影は、こうして唯一の高木勉となった。

 翌日からも、高木勉は存在し続ける。しかし、今までの彼とは、全く違う彼として。
 彼の変化に誰も気づかない。彼の変化を意識しない。
 それもそのはず、影のことなど、誰も意識しないのだから――。



 一人の男がいた。若い男だ。一つの惨劇を、ビルの屋上からじっと見守っていたその男は、左手に持っていた本を広げる。そして、静かに謳う。

二〇一一年、六月三日、午後一一時一七分。
その惨劇を記録しよう。
遍く歴史を綴る本は、ここに在る。
歴史の闇など存在しない。
我々が、光照らし続ける限り。

 それは美しき歴史書。救われぬ人々に、埋もれ消え去る人々に、光を与えるモノ。
 一人の男性が魔物によって殺されたことを記し、男は静かに本を閉じる。
「それは誰が言ったか――」
 大国の王か、違う。探求する科学者たちか、違う。神秘を求めた魔女か、違う。誰かだ。名もなき誰かが、それを言った。
「誰かがそれを言った。曰く――」

曰く、影の中には魔物が棲むという。
影とは遍在し、しかし人々が意識しないもの。
故に、違和感すらも意識されない。
意識されないものを影とするならば、意識されるものは光だ。
意識されるものと、されないもの――劣っているのはどちらだろうか。
では、意識されるものとされないもの――力が強いのはどちらだろうか。
力ある影は、影の中に留まるのだろうか。
力ある影は、光を求め、光になろうとするのではないだろうか。
誰かがそれを、影法師(シルエット)と呼びだした。
曰く、影の中には影法師が棲むという。
それは、新たな都市伝説――
誰かが叫んだ、都市伝説――



第二話『町に差す影法師(シルエット)』



 ひじりちゃんが真似師に襲われ、瀕死になって入院してから一週間ほど経った。今ではすっかり回復したけど、あの時はどうなるかと思った。ひじりちゃんの部屋で、私とフラウ、それに後から来てくださった石影先生や使い魔の百合花さんと一緒になって、ひじりちゃんが消えた手がかりを探して……でも、あの時、ホントにちゃんと捜索できていたのかな。よくわかんない。ひじりちゃんが死んじゃったら、二度と会えなくなったら――そう思うばかりで、実際は何もできていなかったのかも。

 だから、ひじりちゃんを背負ったセイレーネスが部屋の中に急に現れた時は、一瞬意識が飛びかけた。ひじりちゃんが帰って来た、よかった。でも、あれ、大ケガしてる、どうしよう。強烈な喜びと不安の板挟み。立っていられたのが不思議なほどだった。

「あら、みなさんお揃いで家探し? アダルトビデオなら、押入れの中だと思うけど……あれ、そうじゃないの?」

 彼女がすっとぼけているのか、冗談を言っているのか、それすら判別できなかったし、どうでもよかった。私はただ、ひじりちゃんが生きていたという事実しか見ることができなくて。

「ひじりちゃん! ひじりちゃん!」

 私はセイレーネスに飛びかからんばかりの勢いで、彼女の背中でぐったりとして動かないひじりちゃんに声をかけていた。叫んでいたかもしれない。

 布団に寝かされたひじりちゃんの体は、打身だらけだった。服のあちらこちらに、摩擦熱で擦り切れたように黒くなっている箇所があった。Tシャツには、血も付いていた。

「これでもだいぶ治しておいたんだけど」

 と、セイレーネスが私を気づかったつもりで言った。でも、それって、もっと酷かったってことでしょ? ヤバイってことでしょ? 私は余計に不安になってしまった。

「やだ……こんなにボロボロになって……」

 セイレーネス、先生に百合花さん――周囲のみんなが、私のことをどう思って見ていたか……今思うと、少し恥ずかしい。でも、あの時は必死だった。

「ひじりちゃん、絶対目を覚ましてね。お願いだから」

 私は、懇願していた。神様とか、そんな得体の知れないものには願わない。私は、ひじりちゃんに願った。幼馴染に、たった一人の、唯一無二の、私の大切な彼に――。

 彼は無事に目を覚まし、今では回復した姿を見せてくれる。私の願いは、彼に届いた。

 今日は今から、彼の病室へとお見舞いに行く。

「精華、ご機嫌だねぇ。鼻歌なんか歌っちゃって」

「ふっふふー……あれ、鼻歌なんて歌ってた?」

「えぇー!? 無自覚!? たった今、歌ってたよー」

 お見舞いに行くだけなのに、無意識のうちに鼻歌を歌っていたらしい私。フラウに指摘されなかったら、気づかなかった。ヘンな私。

「音痴な鼻歌でごめんね」

「いや、別に責めたわけじゃないけどさー」

「音痴なのは否定してくれないんだ」

「だって、精華音痴だもん」

 はっきりと言われてしまう。私は、すごく音痴なのだ。カラオケに行くたびに、みんなに笑われてしまう。「精華さん、歌上手そうなのに」と、初めて私の歌を聞いた誰もが口を揃えて言う。ひじりちゃんが私の分の音感も持って行ってしまったに違いない。ひじりちゃんは、みんなから「意外と歌上手いね」と言われている。きっと、アレは私の音感を吸い取ったからなんだ。でも、まぁ、ひじりちゃんに盗まれたのなら赦してあげよう。色々とおあいこさまだし。

「ヘタすると雑音、ってか騒音、ってか公害?」

「忌憚なきご意見をどうも」

「えへへー」

「誉めてない!」

 私はフラウを捕まえてこめかみを両拳でグリグリする。でも、全然力を入れていない。多分、くすぐったいくらいだと思う。

「うわわわわ、暴力はんたーい!」

 深紅を基調に、たくさんの白とピンクがちりばめられたドレスの、フランス人形。一言でフラウの容姿を説明するとしたら、それ以上の言葉は見つからない。ブロンドのソバージュが肩より下まで伸びていて、その人形っぷりに磨きがかかる。日本人の子どもがこの恰好をしても、なかなか似合う子は少ない。でも、スラヴ系とラテン系の間を取ったような端正で可愛らしい顔の彼女とこの服の相性はばっちり。蒼穹を想わせるほどに澄んだ青い瞳が、人懐っこい視線を送ってくる。彼女と初めて出会った時も、この視線に瞬殺されてしまった。胸キュンだ。こんな可愛い子に慕われる私は、本当に幸せだと思う。断じてロリコンじゃないけど、でも、フラウは本当に可愛い。

「暴力がダメなら、くすぐりの刑」

「ぎゃああああああ事態が悪化したあああああああ」

 悲鳴を上げながら笑い崩れるフラウ。こんなに可愛い女の子が、周囲の人には見えないなんて、もったいない。彼女は不可視の魔物『インビジブル』だから、どうしようもないのだけれど。

「ギブギブ! 精華、ギブ!」

 口では勝てないのに、実力行使だとあっさり勝ってしまう。小さい子を相手に口で勝てないから手を出すなんて、ちょっと大人げない。でも、これくらいならいいよね?

「はい、じゃあ私の勝ち点プラスいち」

「えええーっ!? そんなのずるいよぉ」

 ちなみに、「勝ち点」というのは、私とフラウが日常四六時中通してささやかな優劣を競う『ゲーム』ともいうべき催しの勝者に与えられる特別な点数のことを指す。たいていの場合はディベート合戦で優劣を競う。たまに、紙飛行機の滑空距離だとか、あっちむいてほいだとか、そういう童心に帰るような遊びで競うこともある。その点数を得たところで、何があるわけでもないけど、とりあえず勝ち点を貯めている。報酬や罰ゲームの類は一切設けられていない。貯めて、愉しむだけ。貯めることに意義がある。どんなカタチを取るにせよ、遊びというのは無意味なものなのだ。

 と、偉そうに言ってみたけど、今回の場合、私は明らかにルール違反の発言をした。一方的に擽るという行為は、どう考えてもフェアじゃないから。

 普通の子どもだったら、私に掴みかかって抗議してくるかもしれない。でも、彼女はそんなことはしない。これは、私と彼女が契約者だからだ。

 契約――それは、魔物と繋がるということ。魔物というのは、基本的に不自然な存在(エントロピーの増大が著しい存在、と石影先生は説明していたけど)だから、この世界に存在し続けるだけで膨大なエネルギーを必要とする。その維持コストを賄うため、魔物は誰かと契約する必要がある。年金や国民健康保険料を払うために、働かなきゃいけないのと同じ。

 時には望まれぬ契約が交される場合もある。でも、私とフラウは違う。フラウが私を求めたから、私がそれに応えた。互いの同意の上の、ちゃんとした契約。そして、魔物は契約者を労わる。死なれたら困るから。だから、フラウは私に対して暴力を振るうことは一切しない。彼女の力は強すぎて、制御できるか彼女自身にもわからないから。だから、ポンと軽く肩を叩く動作すら、フラウは控える。私は大丈夫だと思うのだけど……彼女は「万一の事があったら大変だから」と言って極力ボディタッチをしてこない。私が一方的に彼女に触れるだけ。彼女が私に触れられない分、私は彼女にたくさん触れる。すっかり姉気どりなんだね、私って。

「勝ち点は嘘だけどね」

「嘘じゃなかったらゼッコーだったんだからねっ」

 外見の年齢相応に振舞って見せる彼女。確かに彼女は純粋で、無垢で、好奇心旺盛で――でも、時折憂いの表情を見せる。今の笑顔が嘘みたいな表情。それは到底、子どもの表情には見えなくて……。

「ゼッコーしたら、あなたが困るでしょ、フラウ」

「え……精華は、困らないの?」

「どうして私が困る必要があるの?」

「え、だって……こんな可愛い妹が行方不明になったら、心配すぎて警察に捜索願とか出すでしょー?」

「自分で言いますか、あなたは」

 いつも見せる無邪気な表情を見ていると、ついつい忘れてしまう。彼女が背負うもの……そして、彼女と一緒に私が背負ったもの……その重さを。

「そんなことより、あのチンチクリンのお見舞いに行ってあげるんでしょ? さっさと行こうよー」

 チンチクリンと呼ばれたのは、もちろんひじりちゃんのことだ。フラウはいつもひじりちゃんを小馬鹿にする。私たち二人の仲が良いことをあまりよく思っていないような素振りを見せるけど、ホントは彼女もひじりちゃんのことを気に入っている。恥ずかしがり屋さんなのだ、彼女は。

「そんな急に話題変えて……まさか、自分で言っといて照れ隠し?」

「ちち、違うよぉ」

「図星だ」

「もぅ、とにかく早く行こうよ。今日はショッピングでしょ?」

 フラウに急かされ、私は洗面台の前で身嗜みをチェックする。

 白のフレアチュニックに、スキニージーンズ、この組み合わせがお気に入り。これには、不動の可愛さがあると思う。先日購入したミュールも合わせると完璧だけど、ミュールは動きにくいから履けない。ミュールのせいで魔物に襲われた際に転んで死にました、じゃ洒落にならない。じゃあ、なんで買ったの、ミュールなんて? それは、まぁ……仕方ないじゃない、可愛かったんだし。

「うんうん、今日も可愛いよ、精華」

 自分の方がもっと可愛いくせに、私を褒めてくれるフラウ。思わず頭を撫で撫でしてしまう。

「フラウも可愛いよ」

「えへへー」

 こうして無邪気に笑うフラウを見ていると、彼女が魔物であることをすっかり忘れそうになる。

「じゃあ、真似師さんに気にいられちゃう前に、行こっか」

「しゅっぱーつ!」

 スニーカーを履いて、部屋を出る。雨が降っているので、傘は必須だ。日傘兼雨傘の銀色の傘を広げる。フラウは魔力を使って撥水しているので傘要らず。撥水のためにわざわざ魔力を使うなんて……と思われてしまいそうだけど、もしフラウが傘をさしていたら、どんなことになるか。虚空で踊る傘……怪談になってしまう。

「雨かー」

 呟きながら、フラウが頭をピッタリと私の胸の横にくっ付けてくる。きっと、彼女も無意識のうちにこうしている。雨は、あの日のことを思い出させるから。

「雨だね」

 私も呟いて、空を見上げる。空一面を、薄い灰色の雲が覆っている。あの日は、もっと雲は分厚かったし、どしゃ降りだった。

 あの日――それは、フラウと私が出会った日。下宿のエントランスを抜けて、病院へと向かう道中、私はあの日のことを思い出す。



[27529] 町に佇み 第二話『町に差す影法師』 Part2
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 09:35
 あれは、ちょうど一年ほど前。週間予報が雨のマークで埋め尽くされていた、そんな時期。学校帰り、一六時頃。水溜まりが酷いかもしれないと危惧しながらも、少しだけ近道しようと通った駅前の裏路地。大通りと大通りの間を縫うように結ぶ、慣れた人しか通らないような狭い路地。たいていの場合はサラリーマンが通勤と帰宅の時間に通るために利用され、日中に人通りはない。人通りがないとは言っても、仕事帰りのサラリーマンを狙った個人経営の飲み屋がたくさん立ち並んでいるから、治安はそれほど悪くない。そんな裏路地――そこで、彼女は雨に濡れながら伏し目がちに佇んでいた。

「どうしたの、こんなところで」

 私は思わず声をかけていた。開店前の居酒屋の赤提灯が、強風を受けて揺れている。その提灯の赤が霞むほどに、深く赤いドレス。モンゴロイドではありえないような、白い肌。ブロンドのソバージュ。フランス人形のようだと思った。でも、彼女の容姿や服装が常人離れしていることよりもまず、一人でずぶ濡れになっていることの異様さにしか意識がいかなかった。

「えっ……」

 そのフランス人形のような少女は、私に声をかけられたことに心底驚いたと言った様子で、私の顔を大きな青い瞳で凝視する。

「あたしが……見えるの?」

 不思議なことを言う子だ、と思った。見えないわけがない。日本語を喋っていることに関しては、あまり不思議とは思わなかったけど。日本育ちだったら、それも普通かなと思った程度。

 彼女の横まで歩いていき、傘の下に入れる。身長は一三〇センチほどかな。私の身長は一六五センチ。私の脇の位置に、彼女の頭頂部が来ていた。

「見えるわよ。こうやって裏路地でかくれんぼしてても、寂しいだけよ? 何があったの?」

 私は自分で言いながら、この子が人間ではないことに、薄々勘付いていた。こんなに目立つ恰好の女の子が、ここまで一人でやってきて、誰も保護していないというのは異様な話だ。あるいは、バイオリンのレッスンに嫌気がさして逃げ出して来たどこかのお嬢様なのだろうか。私も少しバイオリンをやったことがあるけど、あれは苦痛以外の何物でもなかった。まともに音が鳴らないし、音を鳴らすだけで大げさに褒められて、とても惨めな気分になったことを覚えている。

 私は彼女の言葉を待った。しばらく、口を開きかけては閉じるという行為を繰り返していた女の子は、ついに意を決したように私の目を真っ直ぐ見据えながら言った。

「……あたしが魔物だって言ったら、お姉さん、驚く?」

 やはり、彼女は魔物だと名乗る。貴族のお嬢様が突拍子もなくそんなことを言い出すとは思えないし、やはり彼女は魔物なのだ。あまり魔力を感じないから、確信が持てなかったけど、常人よりは遥かに強い魔力を彼女の中に感じていた。

「いいえ、驚かないわ。私、能力者だもの。魔物は見慣れている方よ、他の人よりは」

 私のその言葉に、女の子が息を呑む気配があった。何かに、緊張した様子だった。魔物に慣れていることに、何か問題でもあったのだろうか。彼女の緊張が伝播し、周囲の空気がピンと張りつめていくような気がした。私もその空気にあてられて、体が強張った。

「じゃあ、魔物が言うことを、お姉さんは信じてくれる?」

「それは、人でも魔物でも関係ないわ。真実を語ってくれる時、その目を見ればわかるもの」

 人は嘘を付くとき――後ろめたいことがある時、相手の目を見続けることができない。必ず、自分の方から目をそらす。だから、嘘はすぐにわかる。でも、魔物にもそれが当てはまるという保証はない。

「お姉さんはすでに、あたしの魔力によって騙されてる可能性だってあるんだよ? それでも、あたしを信用できる?」

 やけに矛盾した質問だと思った。強制的に騙している相手に「信用できるか」と訊くことの無意味さ。つまり、私は彼女の魔力で騙されてなどいない――彼女がよほどのバカでない限り、今の質問は出てこないだろう。見たところ、彼女の知能はかなり高い。これは、彼女が私を信頼させるために選んだ言葉に違いない。

「ええ、信用できるわ。可愛い魔物さん」

 大きな青い瞳は、今にも泣き出しそうなほどに潤んでいた。やがて、先ほどから一度も外れなかった視線が外れ、一呼吸置き、彼女は俯きながら話し始めた。

「あたしは、不可視の魔物なの。インビジブルって呼ばれてる」

 不可視――目には見えないということ。どうりで、雨の中ずぶ濡れになっている彼女を誰も保護しなかったわけだ。そして、その不可視の魔物を私は視ている。

「インビジブルはね、己の姿を視た者と契約を結ぶの。そうじゃないと、この世界じゃ長くカタチを保てないから」

 彼女曰く、インビジブルと契約できる適正を持つものは滅多におらず、その者との契約を逃せば、物質世界ではカタチを保てず、精神世界へと帰らなければならない。

「精神世界へ帰ることは、別に死ぬっていうことじゃないの。ただ、もう一度この世界に戻ってくるのは難しいっていうだけで」

 彼女が顔を上げ、視線が再び合う。

「つまり、あなたはこの世界に留まりたいわけね。留まって、何かを成そうとしている」

「……うん」

 彼女の声は、どこか重々しい。背負っているものが、それだけ重いのだろう。見た目は子どもだけど、一つの決意を胸に秘めた、強い子だ。

「もしよければ、話してくれないかしら」

 私は彼女の目を真っ直ぐ見つめる。嘘はついてほしくないから、正直に話してほしいから、真っ直ぐに見つめる。これ以上深入りすると、抜き差しならない事態になることは見えている。でも、私は躊躇わずに訊いていた。何もなかったことにして立ち去ることなんて、できないから。

 彼女は私の視線に耐えかねてか、再度俯く。どこから話せばよいのか、考えていたのかもしれない。

「あたしにはね、姉がいるの」

 訥々と、彼女は話し始める。彼女が真実を話してくれる保証はどこにもない。でも、私は彼女の言葉を全て信じることにする。

「あたしと姉は、二人で一つだったの。いつも一緒だった。でも、あの男に捕まってしまって。それで……姉は、あたしを逃がすことを交換条件にして、あの男と契約してしまった」

 私は、彼女の小さな拳が強く握りしめられているのを見る。強い怒りの感情の表れ。

「あたしは、あの男を倒して、姉を助けたい。だから、この世界にカタチを保ちたい。でも、でもね……」

 そこで言葉を区切り、彼女は私を見上げる。言い淀む気配があった。でも、今度は私から視線を逸らさずに、彼女は告げる。

「あの男は、すごく強い。だから、あたしと契約した人は、殺されちゃうかもしれない」

 殺される、というリスク。私は今まで、そういった経験をしてきたことがあるだろうか。思い返してみると、一度だけあった。

 強い魔物に襲われて、ひじりちゃんと二人で食い殺されそうになったことがある。あの時は、ひじりちゃんの中にいたセイレーネスが力を使ってくれたおかげで助かった。あの時、セイレーネスが助けてくれなければ、私たちはその時に死んでいたかもしれない。当時は、ひじりちゃんの力が覚醒したと思い込んでいたけど、そうじゃないことが後々わかった。つまり、私やひじりちゃんが自分で死地を脱した経験は、一度もない。

「そんなリスクを背負ってまで、あたしと契約したい人なんて、いないと思うんだ。お姉さん、すごいイイ人みたいだから……あたし、巻き込めないよ」

 彼女は、笑顔を作る。無理やり作った、泣きそうな笑顔。その顔を見た瞬間、私は思わず彼女を抱きしめていた。ひんやりとした感触とともに、水をたっぷりと吸った彼女のドレスから私の服へと水分が移動する。

「あなたみたいな可愛い子、見捨てて逃げるなんて、できるわけないじゃない……」

 私は、泣いていた。人間とか、魔物とか、そんなのは瑣末なことだ。目の前にいる子を悲しませる誰かがいる、苦しませる誰かがいるということが許せない。そんな自分の気持ちに嘘をついて、死にたくないからと逃げ出して、女の子も見捨てて……そんなことをして、あとの人生幸せに生きられると思う? 私にはムリだ。一生後悔し続けてしまう。

「私、もうあなたに無関係ではいられない」

「でも……」

 反論しようとする唇を、私は右手の人差指で優しく押さえて閉ざす。

「あなたと契約するわ」

 彼女の顔と二〇センチほどの位置に、私は自分の顔を寄せる。青い瞳を間近で見て、私の本気を教える。

「そんな……ダメだよ! 契約は、一度結んだら簡単には解除できないし……簡単に決めちゃダメだよ!」

「そうなの?」

「うん、もっと慎重にならなきゃいけないの!」

 お姉さん無防備過ぎだよ、と女の子は怒る。先ほどまで、姉のように一方的に慰めていたような関係だったのが、一瞬逆転したようなやりとり。私は思わず、小さく声に出して笑っていた。

 何故、この女の人は笑っているのか。今は笑うようなシーンじゃないのに。真剣な話をしてるはずなのに。そんなことが少女の顔には書いてあった。私は、その答えを教えてあげることにする。

「契約するかどうか、それは後々決めるとして……今日から私が姉で、あなたが妹。家族、屋根の下で一緒に暮らす。これなら今すぐ決めても問題ないでしょ?」

「あたしが、お姉さんの、妹?」

「そう、妹」

 一瞬、何を言われたのか、理解できなかったようだ。まさか、人間と魔物が姉妹だなんて、そんな近しい関係になれるわけがない――と、その時の彼女は混乱したそうだ。彼女のイメージする人と魔物の関係は、契約者の関係以外に想定されていなかったらしい。後で聞いて知った。

「部屋とか、食べ物とか、気に入ってもらえるかどうかわからないけど」

「それってつまり、一緒に住むってことだよね?」

「うん」

 彼女の質問に、私は優しく首肯することで応えた。

「本当に、いいの?」

「ええ、いいわ」

「あたし、魔物だよ? 本当の、本当に、いいの?」

「大丈夫、私を信じて」

 彼女の目に、涙が溜まっていくのがわかった。思うより早く、私は更に強く彼女を抱きしめる。息苦しくないかとか、痛くないかとか、そんな気遣いも忘れるほどに、強く、強く、胸の中に彼女を抱いていた。ほどなく、彼女の号泣する声が周囲に響き渡り、私の服はますます濡れていった。こんなに涙と泣き声を溜め込んでいたのだ。姉を失って、一人で彷徨い……いくら魔物だからって、寂しくないわけがない。私は、彼女の寂しさの全てを包み込み、消し去るつもりで彼女を強く、強く抱きしめた。

 それから後は、どういう感じだっただろう。確か、風邪をひいてはいけないからと、まず自分の部屋に帰って、お風呂に入ったんだ。私は、小さい頃にメイドの冴子さんにしてもらったのを思い出しながら、彼女の体を洗ってあげた。彼女は擽ったそうに笑い声を上げていた。まるで子猫みたいだった。拾ってきた捨て猫をお風呂に入れてる感覚。そんなこと言うと、彼女は怒るかな。愛おしくて仕方ない、っていう意味なんだけどね。

「そういえば、自己紹介してなかったわね。私は山ノ井精華よ。精華でいいわ」

 狭い浴室でも、声が反響して聞こえる。声が聞き取りにくいけど、この感じは嫌いじゃない。一人でお風呂に入るようになってからは、味わうことのなくなった感覚――それを思い出すようで、なんだか懐かしい気分になるから。

「セイカ……綺麗な響きだね」

「おべっか言うなんて、おしゃまさんね」

「むぅ……ホントに綺麗だと思うよ?」

 ぷくっと頬を膨らます彼女。先ほどまでの暗く沈んだ顔が、嘘のようだった。これが、本来の彼女の表情なんだろうな、と思う。自然と、私の頬も緩んでいた。

「じゃあ、あなたの綺麗な名前も聞かせてくれるかしら?」

 私は、優しく言ったつもりだった。でも、途端に彼女は困惑したような表情になる。

「……あれ、どうしたの?」

 名前を訊いてはいけなかったのか。私は不安になって声を出していた。でも、とりあえず彼女のことを名前で呼べなければ、色々と不便だ。仮名でも構わないのだけれど……。

「あたしね、名前ないんだ」

 名前が、ない。人の身であれば、およそありえないこと。でも、魔物ならば、それも珍しいことではないのかな、とも思う。

「あたしと姉の二人で、ユングフラウ姉妹。でも、姉にもあたしにも個体名はないわ。今まで、二人が離れ離れになったことなんてなかったから」

 どこかで聞いたことのある響きだった。ドイツ語っぽい? どこかの地名だったかな。

「そっか……じゃあ、お姉さんの方がユングで、あなたはフラウ。これでいいでしょ?」

 私は思い付きのままに、そう言っていた。何の深慮もなかった。それなのに、彼女の顔――フラウの顔には、驚きの色があった。

「あたしの……名前?」

「そう、名前。あなた、今日からフラウね」

「うわぁ……簡単に決められちゃったぁ……」

 彼女の顔には、驚き以外の色んな感情が浮かんでいた。照れとか、喜びとか、そういう悪くない感情が。そりゃそうだよね、お姉さんと一緒に使ってた、大事な名前の半分だもの。それ以上に良い名前なんて、あるはずない。

「文句ないでしょ?」

「う、うん……」

 フラウの頬が上気しているのがわかる。シャワーのせいじゃなくて、きっと名前が決まったことに対する喜び。

「さぁさぁ、今日は湯船にお湯張っておいたから、今からゆっくり温まりましょ」

 そんな調子で、私とフラウは湯船に浸かりながら、自分のことや周囲の人たちの話をして……気づけば、二人仲良くのぼせていた。

「うぅー熱いー。ねぇ、しばらく服着なくてもいい?」

 脱衣所で体を拭きながら、彼女は上目遣いにこちらを見てくる。大きな青い瞳が、私の顔を映して揺れていた。上気した張りのある頬は採れたての瑞々しい果実を彷彿とさせる。殺人的な破壊力だった。キュンキュンしてしまう。でも、この詐欺に騙されてはいけない。きっと、彼女の姉――ユングさんは、この視線で騙されていたのだ。私は、この手にはひっかからない。

「また体冷えちゃうじゃない。ダメよ」

「うぅー」

「私の部屋着貸してあげるから、ちょっと待ってね」

 彼女のドレスはしっかりと水分を吸いこみ、しばらくは再起不能な状態。とりあえず、ドレスが乾くまでは私の服を着てもらうしかない。サイズが合わないのは申し訳ないな、と思いながら、私はバスタオルを巻いた恰好で衣装ケースを漁った。チュニックだったら、何とか着れるかなと思い、着替えを選んで脱衣所に戻った。その私の目に、信じられない光景が映る。

「ちょっと、そのドレス」

「うん、新しく出したの。このドレス、髪の毛とか皮膚みたいなもんだから。いくらでも新しいの出せるの」

 リビングで吊り下げて干しているはずの、彼女の深紅のドレス。それを、彼女は身に纏っていた。

「え、どういうこと? まだ濡れてるんじゃないの? それに、いつの間に取りに行ったの?」

「だから、新しいの出したの。ずっとココにいたもん」

 どういう原理かわからないけど、どうやら何もないところからドレスを出すことができるらしい。魔物だから、もはや何でもありなのか。

「……めちゃくちゃ便利ね」

「えへへーいいでしょー。ドレスは使い捨て出来るんだよー」

 すごく羨ましい。洗濯しなくていいというのが、一人暮らしの身分にとっては最高に羨ましい。あんな乾きにくそうなドレス、どうすればいいんだろうと心配してたけど、どうやらその心配は不要のようだ。

「それはそれとして、使い捨てされるとゴミが大変なことになるんだけど……それはどう処理するつもり?」

 やけに生活感のあることを気にしてしまう。でも、事実、使い捨てされると困る。

「精神世界の方に仕舞うことにするからだいじょーぶ!」

 彼女は胸を張りながら答えた。

「すんごく便利なのね、精神世界って。どんなところなの?」

 私は、彼女から精神世界に関する説明を受けた。曰く、神秘学でいうところのエーテル体のみで全てが存在している世界なのだという。エーテル体――つまりは感覚や情動を司るもの、魂。その魂が世界の全てを創り上げている。彼女は、その精神世界と、今私たちがいる物質世界の間を自由に行き来することができる存在なのだ。

「セイカはピンとこないと思うけど、精神世界では、全てに魂があるんだよ。だから、テーブルだって、石ころだって、みんな魂を持ってる。魂がないってことは、存在できないってことだから。魂イコール物質体なの」

 たしかにピンとこない。でも、理解はできる。肉体がなくても、精神そのものが一つのカタチを持って存在し、他と溶け合うことなく独立して存在している世界――それが、精神世界なのだろう。でも、彼女の言葉がひっかかる。動物のようなカタチを呈するものはともかく、テーブルや石ころまで子孫を残すなんてことはしないだろう。何か、生命の循環に法則はあるのだろうか。それとも、二台のテーブルが寄り添い重なって交尾するとか? ……シュールにもほどがある。あるいは、循環そのものがないのかもしれない。ブラックホール的に全てが死んでいき、ホワイトホール的に全てが生まれてくるとか?

「その世界は、今私たちがいる物質世界みたいな物質の循環はあるの? それとも循環なんてなかったりするの?」

 露骨すぎる質問を避けて、私は大雑把な質問をする。こう訊いておけば、自ずとテーブルの交尾があるかどうかもわかるはず。

「あると言えばあるけど、かなり質が違うかも」

 彼女の話によると、全てのエーテル体は耐久年数を超えて朽ちた際、世界の中心にある概念体にプールされるのだという。

「そして、概念体という混沌の塊の中で、概念同士がぶつかり合って、新しい魂が生まれるの。概念体こそが全ての始まりであり、終わりであるんだよ」

 つまり、完全なる輪廻転生。全ての魂は一つに還り、そこから新たな命が生まれる。どうやら、テーブルの交尾はないらしい。

「何となくわかるんだけど、その概念体ってどういったものなの?」

 概念体、それは表象(つまりはイメージ)そのもの。概念体の内部には表象の嵐が吹き荒れており、その中で表象がぶつかって反応を起こし、新しい存在を生み出す。

「たとえば、『目には見えないもの』と『力あるもの』っていう表象がぶつかると、私みたいなのが生まれるんだよ。ホントはもっと、数えきれないくらいの表象がぶつかってるはずだけど」

「じゃあ、交尾とかないの?」

 私は訊いてから、口を押さえていた。小さな女の子相手に、何を訊こうとしているのだ、自分は。でも、その、気になって仕方なかったんです、こういうこと。

「ああ、そういうのもあるよ。特殊な例だけどね。概念体を通さず生まれてくる命もある。交尾もいわば、表象のぶつかり合いだから」

 フラウは何でもないことのように答えてくれた。どうやら、セクハラにはならなかったらしい。性のあり方が、物質世界と精神世界では随分と違うようだ。ホッと胸を撫で下ろす。それとも、彼女がおしゃまさんなためだろうか。まぁ、そのへんは追々探っていくことにしよう。このタイミングで訊くと、彼女の私に対する印象がセクハラお姉さんで固まってしまう。

「なんか、こっちの世界と比べて、仕組みが単純なのね、精神世界って」

「そうなのかな。あたしは、どっちも大差ないと思うけど」

 概念体という一つの塊の中に還っていくというのはイメージしやすかったから、私は単純でわかりやすいと一瞬思った。でも、大差ないと言われると、そういう気もしてくる。概念に還るか、原子に還るかだけの違い。一か所にプールされるか、バラバラに散らばるかだけの違い。確かに、大差ない。

「言われてみれば、大差ない気もしてきた。それよりも、本題に入る前にもう一つだけ質問していい?」

「はい、残念でしたー。ここから先は会員様限定配信サービスだからね」

「何の会員よ、それ」

「ファンクラブ」

「なら、もう入ってる」

 その答えに彼女は満足したらしく、「どうぞ」と質問を促してくれた。私たちはリビングに向かいながら、会話を続ける。

「私ね、ずっと疑問に思ってたんだ、魔物がどこから来てるんだろうって。この物質世界に流れ込んで来る魔物って、精神世界からのものなの?」

 私のずっと抱え続けている疑問。魔物がどこから来ているのか。当然、石影先生にも質問したことはある。でも、その時の先生の回答は「そのあたりのことは僕の専門じゃないから、僕も正直よくは知らないんだ。知らないことは教えられない、申し訳ないけど」というものだった。

 先生は魔物を召還する『魔導師』ではなく、魔法を操る『魔術師』だ。だから、魔物に関する知識は殆ど持ち合わせていないのだという。でも、彼には使い魔がいるじゃないか――ということになってしまうのだけど、使い魔の百合花さんは特別らしい。どう特別かは、全く聞かされていない。「百合花は恥ずかしがり屋だから、彼女から口止めされていてね。どうしても気になるなら、本人に直接訊いてみるといいよ」と笑う石影先生の横で「恥ずかしがり屋とは少し違うぞ」と百合花さんが唇を尖らせていた。私はダメ元で彼女に質問して……結果、百合花さんは何もしゃべってくれなかったわけだけども。閑話休題。

「うーん、色んなところから来てるんじゃないかな。多分、精神世界と外宇宙からが半分ずつだと思うけど」

 外宇宙。また、聞きなれない単語が飛び出す。意味は字面の通りだと思うけど。

「外宇宙っていうと、この太陽系が存在する宇宙とは違う宇宙ってことよね。精神世界も外宇宙の一部になるの?」

「外宇宙の解釈はそれでいいんだけど、精神世界は外宇宙じゃないよ。私が生まれた精神世界は、この宇宙に内在している世界だから」

 彼女曰く、精神世界と物質世界とは不可分の、二つで一つの世界なのだという。

「物質世界でアストラル体(つまり存在そのもの)を形成するためには、物質体としての器(つまり肉体)とエーテル体(つまり魂)がないといけない。物質体は物質世界に起因するし、エーテル体は精神世界に起因する。だから、不可分なの」

「じゃあ、精神世界で生まれた魔物が物質世界にやってくる方法は?」

「それも色々。召還されて無理やり連れて来られる場合もあるし、歪みに巻き込まれてやってくる場合もあるかな」

 歪(ひず)み――それは私も知っている。ありとあらゆる空間に存在する、時空の摩擦点――それが歪み。この歪みの摩擦のエネルギーが魔力の源となる。何故、歪んでいるか――それは簡単。大気が地球の表面を移動し、気圧を一定に保たないのと同じ。空間も、質量を一定に保てないから、気圧差ならぬ質量差によって歪みを抱えるのだ。

「つまり、物質世界と精神世界は歪みでつながってるわけだ」

「そういうことだね」

 魔物について、今まで不思議に思ってきたけど、なかなか知識を得ることができなかった。ここまで詳しく知ったのは初めてのことだった。

「不思議だわ。何で、魔物は生まれてきて、人間ばっかり害するんだろう」

「さぁ、何でだろうねぇ」

 魔物は植物や一般の動物は襲わない。襲うのは、人間ばかり。

「でも、これだけは言えるよ」

 そして彼女は、自信たっぷりにこう続けた。

「生きてることに意味はあるけど、生まれたことに意味はないんだよ。たまたま生まれて、生まれたからには自分たちの生きる意味を求める。それが、たまたま人間を害することだっただけ」

「生きるっていうことは、生まれただけの無意味な自分に意味づけをする行為ってわけね。すんごい哲学的。あなた、おしゃまさんじゃなくて、ホントに頭いいのね」

「えへへー」

 その時見せた彼女の笑顔が、私の中で彼女のトレードマークになった。頭でっかちで、でも子どものように照れて見せる可愛い子、それがフラウ。私の大事な妹、フラウ。

「回答ありがとうね。じゃあ、そろそろ本題に入ろうかな。今から晩御飯の支度するから、ご飯できるまでに契約の仕方について教えてよ」

「うん、いいよー」

 そして、いよいよ本題に入る。契約の方法。

「契約の方法自体は簡単。お互いの手のひらを合わせて、魔力を交換するだけでいいんだよ」

「え、それだけ?」

「うん、それだけ」

 何と、簡単なんだろう。あまりにもあっけないので、少し呆けてしまった。

「だから、いつでも契約できるんだよ。セイカが私と契約しても大丈夫だっていう自信が持てたら、その時テキトーに契約すれば大丈夫」

「でも、魔力の供給がないと、存在を維持できないんじゃ――」

「美味しいご飯食べたら、当分はもつよぉ」

「ホントなの、それ」

 そんなこんなで、私と彼女の生活は始まった。ようやく大学生活に慣れ出した頃だったから、色々と苦戦することもあったけど、そのたびにフラウに励ましてもらいながら頑張った。彼女と契約を交わしたのは、出会ってからちょうど一週間経った日だった。



[27529] 町に佇み 第二話『町に差す影法師』 Part3
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 09:36
 フラウとの出会いを思い出しているうちに、ひじりちゃんの入院している病室へと着いていた。

「ひじりちゃーん、元気してる?」

 扉を開けながら、私は大声で彼の名を呼ぶ。ちなみに個室なので、他の入院してる人たちの迷惑になるようなことはない……はず(壁の分厚さまでは知らない)。

 ひじりちゃんの入院している個室はW大学付属病院の三階にある。病室の空きに余裕があるようには見えないけど、ケガが回復してもひじりちゃんが相部屋に移ることはなかった。これは院長の知り合いである石影先生の力なのか、それとも海詩財閥の威光がそうさせるのか、微妙なところだ。

「おう、元気してるぞ」

 右手を軽く上げながら、ベッドの上で上体を起こしたひじりちゃんが声を返してくれる。彼の元気な姿を見ただけで、私は幸福感に包まれる。

「何か、やけに嬉しそうだな。何かあったのか?」

「んー別に何もないけど」

「そうなのか?」

 こうやってひじりちゃんの元気な姿を見るだけで、私は幸せを感じる。彼に感じるのは家族愛――だと、よかったんだけど……困ったことに、私は彼を異性として意識してしまっている。愛してしまっている。

 その滑稽さは自分でもわかってる。だって、幼馴染って……きょうだいとか、家族とか、そういうものだもの。異性として意識できるなんて、ありえない。私にはわかってしまう……彼の、私の扱いに困る瞬間が。

「私はひじりちゃんが元気になってくれただけで嬉しいの。他には特にないよ」

「ああ……悪いな、心配かけて」

 私は、露骨すぎるのだろうか。ひじりちゃんは、私の顔を見ないことが多くなった。視線が合っても、すぐに逸らしてしまうことがよくある。今だってそうだった。私がじっと彼の目を見つめると、彼はひょいと視線を逸らしてしまう。ひょっとして、すでに私の恋心は悟られてしまったのだろうか。

 大学生になってひじりちゃんと再会してから今まで、家族愛のそれとして捉えてもらえる範囲内で彼を愛してきたつもりだ。過度に異性を意識させるような素振りはしてこなかった。冗談めかして、色々話題を振ったことはあるけど……彼がそれを冗談以外に捉えた様子はない。

 でも、結局は私の思いこみ。私の主観的な尺度にすぎない。自制できているつもりでいて、客観的には全く出来ていないのかも。私は彼に擦り寄り過ぎているのだろうか。彼は私の本心に勘付いて、私と少し距離を置こうとしているのだろうか。彼に〝その気〟がないのだとしたら、私は常に空回りし続けているだけになる。いや、空回りどころか、迷惑をかけまくっている。家族のような存在から異性としての愛情を向けられたら、誰だって困惑するだろう。私は、どうしようもない女だ。自分がどうしようもないことを自覚しておきながら、まるでストーカーのように彼のことを想い続けている。恋と執着は紙一重――ひょっとすると同義なのかもしれない。

「精華に心配かけさせるなんて、ホントいい根性してるよね、聖は」

「そうよ。私だけじゃなくて、フラウも心配してくれてたんだから」

「え、ちょっと、精華……なんであたしがこの下男の心配をしなきゃいけないの!?」

「おい、下男はねーだろ」

「ああ、そっか。むしろ精華に世話されてるもんね、あんた」

 フラウの毒舌が、ひじりちゃんを攻撃する。でも、私にはひじりちゃんが攻撃されているようには聞こえない。暗に「精華は世話焼き過ぎなんだよ」と私を責めている。考え過ぎなのかもしれないけど、そう聞こえる。

「それはお前も一緒だろーが」

「私は子どもだからいいの」

「俺も心は少年だからいいんだよ」

「うわっ、出た! アダルトチルドレンを自ら宣言!」

「マセガキのお前と、対等な立場だろ」

「ちょっと、聞いた精華? ダメ人間発言来ましたよ! この男ダメだよ」

「はいはい、そこまで。そんなことより、ケガは大丈夫? まだ痛む?」

 雑念を振り払うように、私は二人の言い合いに割って入る。

「今のところ至って順調に回復中だ。傷みも引いてきたし、予定通りにいけばあと一〇日ほどで退院だ」

「じゃあ、その日は退院パーティーしようね」

 ノッコ、今井くん、三宅くん、田中くん、もっと呼んだ方がいいかな。いや、ひじりちゃんは人が多いのをあまり好まないから、きっとこのメンバーだけでやった方がいい。

「パーティーとか、恥ずかしいからやめてくれよ」

「一緒に晩御飯食べるだけだし、いいでしょ? いつもの六人だけでやるつもりだし」

 大学近くの、ノッコと二人でよく行く、行きつけの居酒屋。びっくりドンキーみたく木を前面に押し出した内装と、やけにおしゃれなカクテルグラスがミスマッチで、そこを気に入っている。今では店を切り盛りするご夫婦ともすっかり仲良しだし、私のキャンパスライフには欠かせない場所になっている。

 私は世に言うところのお嬢様だけど、小さい頃からファミレスにも何度か行ったことがあるし、結構庶民派だと思っている。それでも「マクドナルドのハンバーガーを食べたことがない」というと、みんなから驚かれる。びっくりドンキーだって、大学生になってから初めて行った。機能美皆無のドデカイ観音開きのメニューがあまりにも衝撃的で、以来すっかり気に入って事あるごとに食べに行く。プレゼミの友だちがバイトをしてるのも大きな要因になっているのかもしれない。先日は店舗間ランキングの集計期間中にデザートをやけに勧められて食べた。値段の割には量も味も申し分なかったけど、どうも舌が肥え過ぎているみたいで、最近は大量生産のクリームでは満足できなくなってきた。……色々考えてみると、やっぱり私は贅沢な暮らしをしてきたような気がする。

 食べ物を考え出すと、ついつい余計なことまで思いだしてしまう。結構食いしん坊なんです、こう見えて。と、それはともかく……今から居酒屋に六人で予約を入れておこうかな。

「まぁ、任せる」

「お店はプロージットでいいよね」

「ああ、あそこか」

 ドイツ語で「乾杯」という意味の単語「プロージット」、これが件の居酒屋の名前だ。その名前を出した瞬間、ひじりちゃんの表情がふっと明るくなったのがわかる。ひじりちゃんも、あのお店を気にいっている証拠だ。三回ほど、ひじりちゃんと二人でお店に行ったことがあり、その時にひじりちゃんはマスターと意気投合していた。スポーツとか漫画の話題じゃなくて、株価がどうとか、FXがどうとか、経済の話をしていた気がする。ホントは経済学部に行きたかったのかな、ひじりちゃん。

「まーたマスターと株の話でもするんでしょ」

「もちろん」

「株の話とかわからないからつまんない」

「株は難しくねーよ。簡単だって」

「興味湧かないから理解できない」

 金持ちの子どものくせに経済に疎いっていうのは、まずいのかな。実家のことを毛嫌いしまくりのひじりちゃんですら、経済の話に興味を持っているのにね。

「社長令嬢がそれでいいのか?」

「うちの会社はひじりちゃんが継いでくれるから、問題ないの」

「おいおい……」

 また、言ってしまった。冗談めかして、大胆なことを言ってしまう私の悪癖。「ひじりちゃんと私が結婚すれば、問題ないでしょ?」と、私は想いを忍び込ませる。でも、そのニュアンスにひじりちゃんが気づいた様子はないようで――。

「俺が精華の家を乗っ取るみたいで嫌だな、それ。俺と養子縁組なんてしたら、山ノ井製薬も海詩グループの傘下になっちまうぞ」

 養子縁組――そういう健全な捉え方もある。婿養子、とは捉えない。ひじりちゃんは、必ず健全な解釈をするのだ。どれだけ露骨に言ってみても、ひじりちゃんの方からそれらしいリアクションが返ってくることはない。むしろ、迷惑そうに眉を寄せる時さえある。やっぱり、私は空回りしているのだ。

 でも、ひじりちゃんが悪いんだよ。はっきりと私に好きも嫌いも何も言ってくれないから。私をずっとその気にさせ続けている、ひじりちゃんが悪いんだよ。

「その時は、ひじりちゃんが海詩グループを操作して、山ノ井製薬の地位を向上させてくれるんでしょ?」

「いや、どう考えても俺にそんな権力はないだろ」

「軟弱者め」

「軟弱だから、こうやってベッドの上で寝てる」

「……」

 言ってはいけないセリフを言ってしまったのだろうか。ひじりちゃんの顔に影が差すのがわかった。自分の力だけで真似師に勝てなかったことが、かなりショックだったのかもしれない。勝てなくて当然だった相手に負けたくらいで落ち込んでいては、今後同じような相手に負けた時、二度と立ち上がれなくなるんじゃないだろうか。彼の、そんな精神的な脆さ……そして、それと矛盾するほどの気迫……。

 セイレーネスから話を聞いた限り、ひじりちゃんは十二分に頑張ったと思う。むしろ、頑張り過ぎだ。満身創痍で入院するはめになったのだから。頑張るのと無茶するのとは、違うんだよ、ひじりちゃん。

「ひじりちゃん、無理しないでね」

「ああ……」

 生返事を返して、ひじりちゃんは窓の外を向く。何てわかりやすい反応なんだろう。絶対に、今後も無理をするつもりなのだ。

「私、本気で心配してるんだよ? それでも……無茶しちゃうんだね、ひじりちゃんは」

 ひじりちゃんは窓の外を見たまま、返事をしてくれない。一体何故、何のために、命を危険に晒してまで無茶しようとしてるの?

「今度無茶したら、私、本気で怒るわよ……」

 理由を訊くなんて無骨なことはしない。話したくないような理由があるから、彼は何も語ってくれないに違いない。なら私は、彼が語ってくれるまで、辛抱強く待つしかないじゃないか。

「でもどうせ、無茶しちゃうんでしょ。わかってる。だから、これだけは忘れないで」

 私はわざとらしく一呼吸置いて、続ける。

「ひじりちゃんの体は、ひじりちゃん一人のモノじゃないってこと」

 ひじりちゃんは、私のその言葉に反応して、顔をこちらに向けた。

「……ああ、そうだな。どれだけ心配するなって言っても精華が心配しちまうもんな」

 ひじりちゃんは、少し悪戯っぽく笑みを浮かべてみせる。その笑顔につられて、私も薄く笑みを作った。

「うん、そうだよ……」

 まだ大丈夫。まだひじりちゃんは、ちゃんとここにいる。私の声の届かないところに行ったりはしない。ちゃんと、私の言葉に答えてくれる。どこにも行かないでね。ちゃんと、私やみんなの声の届くところにいてね、ひじりちゃん。



……



 その後、他愛もない話をして時間を過ごし、一一時頃に病室を出た。病院に到着したのが午前一〇時だったから、かれこれ一時間ほどひじりちゃんの病室にいたことになる。

「時間が経つのって早いわね」

「あたしには遅かった! お腹も減った!」

「ごめんね、フラウ」

 私がひじりちゃんと話している間、フラウは途中で会話に飽きて病室内を跳ねまわっていた。そんなに跳ねると埃が舞う云々と注意したい気持ちにも駆られたけど、そもそも彼女を退屈させている私が悪いのだから、そんなことは言えなかった。

「今から美味しいランチを食べに行くから許してね」

「許したげるー」

 現金なヤツめ。でも、これがまた子どもらしくて愛らしくもある。

「何食べたい?」

「うーんとねー……オムライス!」

 オムライス、という単語とともに、目的地が決定する。

「じゃあ、エトワールに行こっか」

 グルメ雑誌に何度も紹介されるほどの超有名店、エトワール。オムライスとパスタの専門店で、ランチタイムは常に満員だ。今からだったら、何とか滑り込みセーフといったところかな。

「やったー!」

 フラウと二人っきりで店に行くと、窓際の一人掛け席が一つ空いてさえいれば事足りる。みんなにはフラウの姿が見えないおかげで、彼女は私の膝の上に座るなり、荷物置きの上に座るなり、好き勝手できるからだ。その代わり、二人分頼むと私が「この女の人、こんなに食べるの?」という目で見られてしまうため、いつも大盛りを二人で分け合って食べている。満腹には少し足りないけど、許容範囲内だ。

「エトワールに行くんだったら、今日は裏技使えないわね」

 裏技……それは、ノッコこと安藤法子さんを呼び出すこと。ノッコと二人で大盛りを頼めば、フラウと三等分できて量的にイイ感じになるのだ。あんまりいっつもいっつも我儘に付き合ってもらうのも悪いけど、呼んだらすぐに来てくれるものだから、ついつい甘えてしまう。でも、今日は店が混んでるだろうから、その裏技は使えない。

「うー、残念ー」

 フラウが落胆の声を上げていた、その時だった。

「ノッコ?」

 私たちの目の前数十メートル先を、ノッコが横切っていったのだ。噂をすれば影がさすとは、まさにこの事。

「ノッコー!」

 私はノッコに声をかける。そこそこの距離があったので、わりと大きな声で呼んでしまった。

「……あれ?」

 普段なら、絶対に気づいてもらえるはずだった。でも、ノッコは気づかない。イアホンをしていなかったから、携帯プレイヤーで音楽を聴いていたわけでもなさそうだ。

「ノッコー! おーい!」

 もう一度声をかけてみるけど、やはり返事はない。何か考え事でもしているのだろうか。

「気づいてないのかな?」

「精華を無視するなんていい度胸だ! 追いついて、後ろからドロップキックお見舞いしてくる」

「ちょっと、フラウ、乱暴はダメよ!」

 私の制止も無視し、フラウがノッコ目がけて走っていってしまう。もちろん、私も後を追う。

 フラウと私が追いつく前に、ノッコは建物の陰に消えてしまう。その建物の後ろ側に回り込んだ時、ノッコの姿は既になかった。

「あれー、もういないよ」

 フラウがきょろきょろと辺りを見回している。私も一緒になって周囲を見回したけど、ノッコは完全にどこかへ消えてしまった。道沿いにあったコンビニや本屋も覗いてみたけど、そこにもノッコの姿はなかった。

「おっかしーなぁ」

 納得いかない、という顔のフラウ。それも無理はない。何せ、ノッコが私たちのいた場所から死角になった時間は、一〇秒もなかったのだから。

「ノッコ、こんなに足速いはずないんだけどなぁ」

 次の交差点の角まで目測で五〇メートル強――彼女の運動能力からして、一〇秒足らずで走っていけるとは思えない。彼女はスポーツが苦手なタイプなのだから。何度か彼女の走る姿を見たことがあるけど、小走りになっているかどうかも怪しいほどの速度しか出ていなかった。

「フラウと私が二人揃って幻覚を見たっていうのもヘンな話だし……」

「ひょっとすると、これも魔物の仕業かもねー」

「そんなまさか……」

 私はフラウの言葉を笑い飛ばそうとしながらも、考えてしまう。

 魔物の行為は、何も「わかりやすい悪意」として表面化するだけのものに限らない。私たち人間の常識で推し量ってしまっては、何も語れなくなってしまう。

「誰かのマネっこする魔物なのかもしれないよぉ? 鏡の中でマネっこする子もいたし、それに石影先生の使い魔の使い魔が『影人形』とか言って分身になれるし」

「つまり、百合花さんの使い魔と似たような存在がいるってこと? 石影先生や百合花さんの性格からして、悪戯好きっていうわけではないはずだし……ってことは、野生の魔物なのかしら」

「でも、可能性の話だよ、かのーせー! 単なる人違いかもしれないし」

「うん、可能性ね」

 私はフラウの言葉に相槌を打ちながら、ある一つのことに思い至った。ノッコに電話してみればいいのだ。ノッコも悪戯好きというタイプではないから、現状の報告を求めれば素直に答えてくれるはず。

「ちょっとノッコに電話かけてみる」

 私はケータイを取り出し、アドレス帳のア行を下へと辿る。安藤法子の名前を見つけ、コールすると、六回目で応答があった。

『……もしもし。精華、どうしたの? またレストランに出動命令? そうくると思ってまだお昼食べてなかったんだよ』

 私が口を開くよりも早く、ノッコに捲し立てられてしまう。

「ああ、違う違う。今日は出勤はないの。それより、今どこにいる?」

『え、今? 今は自分の部屋にいるけど?』

 自分の部屋――つまり、自分の下宿部屋にいるということ。

「ホントに、自分の部屋にいるんだよね?」

『うん、そうだよ』

 ノッコの声の背後で、「ピーちゃん、あそぼー、ピーちゃん」という濁声がギャーギャーと喚いている。そう、それはノッコが飼っているキバタン(オウムの仲間)のピーちゃんの鳴き声だ。

「ああ、ホントに部屋にいるのね」

 オウムの仲間は神経質で、とてもじゃないけど街中を連れて歩き回れたもんじゃない。つまり、ノッコは本当に自分の部屋にいるのだ。あるいは、ボイスレコーダーにピーちゃんの声を録音していれば、そういう風に偽装できるのかもしれないけど……たかがイタズラにノッコがそこまで手の込んだことをするとは思えない。

『え、ひょっとして部屋にいちゃマズかった?』

「ううん、そういうわけじゃないの。ただ、街中でノッコのそっくりさんがいたから、ちょっと気になっただけ」

『えー、精華が見間違えるくらいのそっくりさんがいたの!? アイデンティティのピンチだよ、それ』

「声かけたけど無視されちゃったから、多分別人なんだろうって思ったけど。見た目だけなら、まんまノッコだったわ」

『うー、そっくりさんかぁ……何か怖いなぁ』

「別に怖がらなくてもいいじゃない」

 私はノッコの言葉に苦笑しながらも、頭の片隅では彼女の言葉を反芻していた。

(アイデンティティのピンチ……怖い……)

 ただの人違いだと思いたいけど、魔物の仕業だという可能性も充分にある。先日から魔物の動きが活発化しているみたいだし、「なりすまし」の魔物がいるつもりで警戒しておいた方がいいのかもしれない。

「今度そっくりさん見つけたら、メアド交換しておくね」

『えー、恥ずかしいからいいよお』

「ひょっとしたら、生き別れの双子の姉かもしれないじゃない」

『うちは一人っ子なんです!』

「はいはい、知ってますよ。あー……別にノッコをからかおうと思って電話したんじゃないけど、結果的にそんな感じになっちゃったわね」

『精華はイジメっ子タイプだもんね』

「私はイジメっ子からイジメられっ子を孤軍奮闘して守る騎士タイプですよーだ」

『相変わらず男前だねぇ、惚れ直しちゃうよ』

「女の子からモテるタイプって、男の子にはモテないんだよね……溜め息出てくるわ」

『男前は大変だね。可愛い養子までいるし』

 お互いをからかい合いながら、私たちはしばらくの間会話をした後、電話を切った。

「ノッコは自室にいたのかぁ」

「ええ、ピーちゃんが一人のど自慢してたから、間違いないわ」

「単なるそっくりさんだといいねぇ」

「そうね」

 フラウの声は、真心からノッコを気づかう響きを持っていた。だからこそ、不吉な気配を私は感じてしまう。

「何もなければ、いいのだけれど……」

 見上げた空の先――太陽が、分厚い雲に隠れた。



[27529] 町に佇み 第二話『町に差す影法師』 Part4
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 09:37
 安藤法子は、最近一つの厄介事を抱えていた。はじまりは、親友の山ノ井精華の電話だった。

「ノッコのそっくりさんがいた」

 そう言われた時、彼女は何故か怖いと感じた。理由も根拠もはっきりとしたものは何もなかったが、漠然と恐怖を感じたのだ。しかし、理由を考えてみると、一つの可能性に辿り着いた。

 今までの彼女の人生の中で、自分が動物に譬(たと)えられることは多々あったが、有名人に譬えられたことは一度としてなかった。だから彼女は、自身の外見に強いアイデンティティを感じていた。

 別に、自分自身のことを美人だと思ってアイデンティティを感じていたのではない。ただ純粋に、自分自身を周囲が認識してくれるという安心感を自身の外見に感じていただけだ。しかし、それが脆くも崩れ去った。

「気にしすぎなのかなぁ」

 彼女は頭を抱える。そっくりさんの情報は、その後も様々な知り合いから寄せられる。

「ノッコ、昨日ジム行った? 行ってない? ああ、そうだよな。たまたま通りがかりにノッコにそっくりな子を見つけてな。運動嫌いのノッコがジムに入って行くなんて、おかしいと思ったんだ」

 二番目の目撃証言は、プレゼミの友人三宅早世からもたらされた。以降、毎日のように様々な報告を受けた。

「駅前でノッコ見かけたから声かけたんだけど、気づいてもらえなくて悲しかったよ」

 同じくプレゼミの友人田中孝太からの報告もあった。他にも、様々な目撃情報が入る。

「今日は一限目休講だった? あれ、講義あったのか。一限目やってる時間帯に海岸通り歩いてなかった?」

「すごいスピードで国道沿いの沿道をノッコが走ってるの見て、私ビックリしちゃった」

 いずれの報告にも、決定的な二つの共通点があった。一つは、法子自身が目撃されたことに対して無自覚であることに加え、目撃された場所に足を運んだ記憶もない点。もう一つは、自分と近しい者を含む全ての目撃者が、外見では本人かどうか判別できなかった点だ。つまり、生き別れの双子の姉か妹かというレベルで自分にそっくりの人間が身近にいるということだ。

 人によっては、それを喜ぶのかもしれない。しかし、彼女の場合は恐怖が先に立った。

 もし、自分になりすまして色々な悪事を働かれたら、それを弁解することは可能なのだろうか。もし、性格までそっくりだったら、親しい友人たちでさえ、自分とそっくりさんとを区別することができなくなるのではないか。そんな不安が、彼女の胸を占める。

 彼女は常に、一つのコンプレックスを抱え続けてきた。それは、自分には目立った特技も特徴もなく、ふとした瞬間に世界中の誰からも認識されなくなるのではないか、という漠然とした不安を常に持っていることであった。それが強迫的な思考である自覚は常にあったし、それを周囲に悟らせぬよう何気ない振舞いで平素を装い続けてきた。しかし彼女は、事あるごとに、日常の些細なことからいつも不安を覚える。

 小学生時代、出席番号が一番なのに、何度か呼び飛ばされるという経験をした。当時担任だった教諭が、表を見たり読書をしたりという作業が単に不得手であっただけかもしれない。あるいは、それまでの教師生活の中で「あ」から始まる名字の子どもと無縁であったから、「安藤」という名字がなかなか意識に浮かび上がらなかったのかもしれない。しかし、彼女にはそうは思えなかった。自分の名前に特徴がないから、呼び飛ばされてしまった。そう思いこんでしまった。

 音楽会の楽器担当を決める時に、気づけば鍵盤ハーモニカをやることになっていた。彼女は周囲の子よりも自分の音楽性が少し優れているのを知っていたが、いざ楽器を決めるという段になると、適性者とは思えない子たちに次々と花形の楽器を取られ、自分のやりたい楽器を主張する前に鍵盤ハーモニカしか残っていないという状況になっていた。この頃の彼女は典型的な引っ込み思案で、人前で発言することを極度に苦手とした。この事件で、彼女は自身の音楽性を否定されたような気分になり、小さな矜持を大きく傷つけた。

 そんな細かな出来事が幾重にも塗り重ねられ、彼女の強迫的思考はもはや摘出不可能なほどに根深く、彼女の人格と融合してしまった。

 しかし、彼女はこの狂気に完全に呑まれはしていない。それは、常に強迫的な思考に自覚を持ち続けてきたためだ。彼女は、正常な思考というものを常識として知っていながら、それを自分の意見として採用できない。

「そっくりさんがいるだけで存在が否定されるわけがないじゃない。バカだなぁ、ノッコは」

 彼女は頭を抱えながら、自分自身に囁く。必死で、自分自身に言い聞かせる。不安で不安でどうしようもなくなった時、彼女はこうして自分で自分を励まして来た。

「ノッコー」

 不意に、声がかかる。視線を上げた彼女の瞳に、こちら側に歩いてくる親友の姿が映る。

「どうしたの、頭なんか抱えて。恋のお悩み?」

「恋少なき乙女ですから」

「あら、恋に恋するお年頃?」

 シャンプーのコマーシャルに登場する女優を彷彿とさせるキメ細かな黒髪が、ふわりと宙を舞って、法子の座っていたキャンパス中央広場のベンチへと降り立つ。この黒髪の持ち主は、山ノ井精華だ。

「精華はいいなー美人さんで。おまけに幼馴染っていう保険まであってさ」

「保険か……なるほど、そういう風に見える?」

「うん」

 法子は精華の全てを羨んでいる。山ノ井精華は、人が持ち得る美点の全てを持っているとさえ映る。彼女は容姿、器量の良さ、学力、運動能力、人間関係、全てにおいて安藤法子という人間を凌駕しているのだ。人は生まれながらにして平等だと云うが、ここに不公平を体現した存在がいる。

 羨望はやがて嫉妬へと変わり、それは次第に悪化していき、一方的に憎悪を向けるに至る。多くの場合、非凡な人間は自覚もなく敵を作るものだ。しかし、精華の場合は例外だろう。不思議と彼女は、敵を作らない。人心を掌握するカリスマでも持っているかのようだと、法子は常々感心している。

 敵を作るどころか、周囲からは軽く崇拝されている。普段は自分の仲間のことを陰で罵り合う女子連中も、精華へは称賛を惜しまない。法子は、そういった崇拝の声を幾度となく耳にしてきた。しかし、そうした崇拝の声が直接本人に届いたことは今までない。本人がいない隙に、褒め称えるのだ。おそらく、褒める側に回ることが癪なのだろうと法子は推測している。女子とは、そういう生き物である、と。

 崇拝、という意味では、法子はもっとも敬虔な信者だ。自分の大学生活が精華のおかげで華やいでいることを彼女は知っている。精華が光を放ち過ぎていて、自分が陰の存在になってしまうという心配すらない。彼女の中で、山ノ井精華という人間は違う次元に属している。比較することすらおこがましい、もはや憧れるしかない存在だ。

「私はこう見えても生まれてこの方、海詩聖一筋二〇年なんだよ?」

「あれ、初めて出会ったのは四歳の時って言ってなかったっけ?」

「あー、じゃあ一六年か」

「しかも、高校の時にボーイフレンドいたって言ってたよね?」

「えーと、それはアレよ……ひじりちゃんの良さを理解するために、他の殿方とも仲良くしてみただけよ。ほら、良く言うじゃない、外国に行って改めて日本の良さを知ったって」

「その理屈だと、浮気し放題だよ?」

「愛にも色んなカタチがあるのよ」

「屁理屈の塗り重ねですか」

 人前に出ると常に利発な印象を与える精華だが、日常会話となると油断しっぱなしで、叩けば叩くほどボロが出てくる。きっと、こうして自然体でいられるから、妬みから来る悪意とは無縁でいられるのだろう。法子は精華のことをそう分析している。

「もう……私のことはどうでもいいの。それより、いっつもポワーっとしてるノッコが悩んでるなんて珍しいじゃない。何か相談に乗れることなら、話してみてよ」

 法子自身は、特別のんびりと振舞っているつもりはない。しかし、周囲にはのんびりとしているように映っているようで、友人一同から異口同音に指摘される。暗い顔をしていると思われるよりは百倍マシだと思っているが、褒められているわけでもなさそうなので、彼女はいつもそれを意識する度微妙な気分になる。

(全く自覚がないけど、これって、アイデンティティって言えるのかな)

 のんびりしていることは、果たして良い点であると言えるのか。むしろ、欠点ではないのか。欠点は、アイデンティティと考えてしまってもいいものなのか。法子にはわからない。

「ちょっと、ノッコ、大丈夫?」

「……ああ、うん、大丈夫。のんびり屋だから、思考ものんびりなの」

 どうやら精華に言葉を返すまでに不自然な間が空いてしまったようで、法子は心配されてしまう。

「結構深刻な悩みなの?」

 精華は、それまでの笑顔を消して、真剣な表情で法子を見つめてくる。もはや言い逃れることは難しそうだと、彼女は腹を括る。

「精華……笑わずに聞いてね」

「うん、多分大丈夫」

「……この前、『ノッコのそっくりさんがいた』って電話くれたでしょ?」

「ええ、したわね」

「あの電話の後にも、みんなから同じような報告何回も聞いてて、ホントに怖くなっちゃって……」

 そっくりさんがいるかもしれない、というだけで恐怖を感じるなんて、考え過ぎだ。法子は自分自身でそう思っていたし、精華からもそういう答えが返ってくるものだと思っていた。しかし、精華は笑うどころか、真剣な表情すら崩さずに訊ねる。

「どうして、怖いと感じるの?」

 恥ずかしがらなくていいよ。精華の瞳は、法子に対してそう訴えかけていた。

 全てを正直に話してしまおうか。法子は、そんな衝動に駆られる。しかし、自分が幼少期から抱えてきた強迫的思考のことだけは、どうしても告白する勇気が出なかった。しばらく考えた挙句、彼女はそれを隠しながら言葉を探す。

「私のそっくりさんが、もし、私になりすまして色んな悪事を働いたら、どうすればいいと思う?」

 法子がおそるおそる訊くと、精華はしばらくキョトンと目を見開いていたが、次の瞬間にはふっと微笑みを浮かべて、法子の手を握った。

「大丈夫、そっくりさんがいたって、ノッコはノッコだよ。何も心配しなくていいの。みんなだって、もう一度そっくりさん見かけても、絶対にノッコじゃないって、気づいてくれるよ」

「……うん、ありがとう」

 法子は、嬉しさで胸がいっぱいになった。根拠のない、無責任な励ましではあったけれども、強く断言してくれることが、彼女にはたまらなくありがたかった。本当の悩みを親友にすら告げられぬ己の弱さに嫌気がさすが、今は精華の言葉があるだけで、彼女には充分なのであった。



……



 ノッコには隠しごとをする必要がない。私は何故か、直感的にそれを知っていた。だから、フラウの存在をバラしたタイミングも早かった。フラウと出会ってから、ひと月ほど経った頃だっただろうか。五限目の講義が終わってから、一緒に夕食を食べに行こうと言う話になって、プロージットに行った。

「ノッコは、魔物が実在するとしたら信じる?」

 席に着いて、最初の注文を終えた後の私の第一声がそれだった。私のあまりにも突飛な質問に、彼女は目をしばしばさせた後、こう答えた。

「科学じゃ説明しきれないことは、幽霊とかUFOの仕業かなーって思ってたし、精華が言うなら信じるよ」

 そうは言っても、実際の魔物を目の当たりにすると、気が動転するものだろう。でも、ノッコは違った。

「実は私、目には見えない魔物を飼っててね」

「ちょっと精華、飼うって何っ!? あたしはペットなの?」

「え? 今、女の子の声が……」

「この声の主が、目には見えない魔物なの」

 私はフラウの頭をポンポンと叩きながら言った。無論、ノッコには虚空を撫でているようにしか見えなかっただろう。

 突如、降って湧いた女の子の声にノッコは戸惑っていたが、すぐに納得したように頷いた。

「なるほど、そういう子もいるんだね」

「初めまして、ノッコさん。あたしは、フラウ。ペットじゃないんだからね!」

「初めまして、フラウさん。私は安藤法子です。ノッコはあだ名だからね!」

 フラウのことを気味悪がる様子もなく、ノッコは笑って見せた。だからフラウも、ノッコのことを甚(いた)く気に入り、以来事あるごとにノッコをからかっている(これがフラウの不器用な愛情表現であることは言うまでもない)。

「ノッコ、あなたすごいわね。ひじりちゃんでも、初めてフラウ紹介した時は机の下覗き込んだり、私の手の中を見せろって言ってきたり、すんごい疑心暗鬼だったのに」

「だって、そういうのがいるって精華が言うんだから、いるんでしょ? フラウちゃんの声も、どう聞いても目の前で発せられてるし」

「ああ、そっか。ノッコは耳がいいのよね」

 それにしても、と私は思った。目の前の虚空から声が生まれているのは確かな事実としてあったとしても、それが不可視の魔物のものだと断言することなどできない。一個人を信用するだけで、果たして不可視の魔物の存在を信じることができるのだろうか、と。

「ノッコは今まで、魔物に出会ったことってあるの?」

「え、多分ないよ?」

「そっか、ないのか……」

 私の疑問は深くなる。少しノッコを驚かしてやろうと私とフラウで企画した暴露会だったのに、ノッコはほとんど驚く素振りを見せなかった。フラウも同様の感想を抱いていたようで、私に「この人ヘンだよぉ」と耳打ちしてきた。

「でも、神様ならたくさん見てきたかな」

「え、神様?」

「精霊っていうのかな……多分、神様」

 そう言って、ノッコは幼少期の実家での体験を色々と語って聞かせてくれた。

 実家で飼っていた猫がしきりに走りまわるから何事かと思って見てみると、小さな綿帽子のお化けが猫に追いかけられていたこと。父方の祖父の法事で、祖父の幽霊が自分自身の慰霊に手を合わせていたこと。横断歩道を渡ろうとして足を踏み出しかけたところで後ろから引っ張られて尻もちをつき、その直後に目の前すれすれを車が走り去っていったこと。

「車が走り去った後、茫然としてた。『死にかけたんだ』って思うと、怖くて怖くてしばらく動けなかった。で、誰かが助けてくれたならお礼言わなきゃと思って振り返ったら、誰もいなかったの。あの時は神様に助けてもらったって思ったよ」

「それ、夢じゃないの?」

「夢じゃないよ。尻もちついた時、痛かったもん」

「寝相が悪かったせいじゃないの? あるいはそれが夢じゃなかったとして、正面から強風が吹いたとか?」

「あー! 精華、信じてくれないの? ひどーい!」

「だいたい、自分の慰霊に手を合わすバカがどこにいるのよ……」

「私、確かに見たんだから! あと、おじいちゃんは確かにバカだった」

「おじいちゃん、孫にバカ呼ばわりされてかわいそうだねぇ」

 三人でケラケラと笑い合って、その後深く話を聞くことはなかったけど、ノッコが信心深い性質であることはよくわかった。



……



 信心深ければ、日常のちょっとしたことも縁起だとか日ごろの行いだとか、そういうことに繋げて考えやすい。そういうのが悪いとは思わないけど、ノッコはそのせいでそっくりさんに対して怯えてしまっている。

「ノッコ大丈夫かなぁ」

 フラウが、心配そうに眉をひそめる。

「私も心配だけど……今のところ、どうしようもないわね」

 怖がるノッコを励まし、次の講義に出るために別れた後、私とフラウはノッコを心配し合う。探偵の真似事をして、ノッコのそっくりさんを探し出すことも考えてみてもいいかもしれない。

「ノッコは思いこんだらなかなか抜け出せないタイプだもんねぇ。何とかして納得させてあげたいけどぉ……」

「じゃあ、探偵ごっこでもしますか」

「そんな時間あるの?」

「いくらでもあるじゃない」

 恥ずかしいけど、私は短期のバイトしかしたことがなく、したがって学業のある期間は学校と下宿の往復でほぼ動線が固定されている。放課後であれば、いくらでも時間が空いているのだった。

「石影先生の補講もしばらくお休みするつもりよ」

 放課後、私は石影先生のところへ赴き、魔物や魔術理論について特別講義を受けている。生徒一人に構っているヒマなどないはずなのに、いつも石影先生は丁寧に教えてくださるのだ。

「魔術のことを語れる人がいなくて、僕も随分寂しい思いをしてきたんだ」

 と先生自身が言う通り、石影先生は実に愉しそうに魔術について教えてくださる。

「先生、精華が来てくれなかったら張り合いないんじゃないかなぁ? 今回のことも、一度相談してみたら?」

「先生だって、たまには自分の学問に集中できる時間がほしいはずよ。それに、魔物のせいかどうかもわからないのに相談するなんて、気が進まない」

 論点が定まりきらないのに討議を行なうのは、何となくスマートじゃない。時間がもったいない、と思えてしまう。自分だけの時間ならそれでもいいけど、石影先生を巻き込むのは気が引けた。

「チンチクリンのお見舞いも行ってるヒマなくなるかもよぉ?」

「それは、お詫びメール入れておくから、大丈夫」

 本当は、毎日でもお見舞いに行きたい。彼の顔が、いつも脳裡をチラつく。でも、今は彼を一人にして、ゆっくりと一人で物思いに耽る時間を与えてあげたい。今回の事件は、私がひじりちゃんから遠ざかる理由を与えてくれる、絶好の材料なのだろう。

「じゃあ、探偵をやるとしてだよぉ、まず何からやればいいの?」

「うーん、そうね……まずは、ノッコに目撃情報を寄せた人たちへの聞きこみから始めましょうか」



 法子が精華に相談した日から一週間が経った。この一週間、精華がまるで探偵のように聞きこみを続け、自分のそっくりさんを探してくれていることを法子はありがたく思う反面、それを手伝う勇気のない自分への嫌悪も同時に抱いてしまう。

 精華は、単にそっくりさんを探すだけでなく、目撃情報を全て法子にではなく自分の方に集めるようにしてくれと、友人知人にお願いして回っていた。そのお蔭で、法子の生活は表面上の平穏を取り戻している。彼女と精華が至って真剣であることは、幸いにして周囲には伝わっておらず、プレゼミの早世や孝太、紀次らには「法子のそっくりさんを探し出す物好きな試み」と映っている。

 今日は、精華から法子へと経過報告があることになっている。四限目の後、キャンパス内の喫茶店で、彼女は一足先にレモンティーを飲みながら精華の到着を待っていた。何を考えるでもなく、ぼんやりとしていると、却って色んなことが彼女の頭の中へと浮かぶ。

 まず最初に、今日の星座占いの結果を思い出していた。彼女の誕生座である獅子座は、朝の情報番組内での星座占いで最下位だったため、今日は妙に落ち着かない。何か、悪いことの前兆なのではないか、と思わされてしまう。そのマイナス思考を頭を振ることで払い、彼女は別のことを考えることに努めた。

 そういえば、と法子は思う。精華は、目には見えない魔物「フラウ」を飼っている。フラウは、周囲に認知されない。彼女のアイデンティティなど、あってないようなものだ。それに比べれば、自分の何と恵まれていることかと。姿カタチが周囲に認識されるだけでも、それは非常にありがたいことなのかもしれない。

 人は皆、何らかのコンプレックスを抱えて生きている。それぞれにコンプレックスは違ったカタチを取り、「周囲に理解されないのではないか」という不安と戦い、それを隠しながら生きている。それは、法子も頭では理解している。しかし、だからこそ、自分だけがコンプレックスを周囲に晒すことを怖く感じるのもまた事実だ。弱い人間だと思われるのは、怖い。かと言って、強い人間と見られても、それはそれで困るわけだが――。

「ノッコ、お待たせ」

 机を挟んだ席に精華がバッグを置く。

「お茶だけ注文してくるね」

 そう言い残してレジの方へと向かう親友の後ろ姿を見ながら、法子は親友の美しさを思う。頭脳明晰、容姿端麗、いつも周囲への気遣いを忘れない――まるで女神だ。本人は自覚があるのかないのか、頭の良さや器量の良さをひけらかす素振りは見せないし、仮に見せたとしても自分自身で照れてしまうものだから、全く嫌味にならない。自分もこういう人間になれたらいいのにと、何度思ったことか彼女にはわからない。

 自分が精華を尊敬する一方で、黒々とした感情を抱いていることも法子は自覚している。燦然と輝く精華の横で、惨めにくすむ己を自覚する度、彼女は言いようのない葛藤に苛まれる。親友を誇らしく思う感情と、疎ましく思う感情が、ぶつかり、せめぎ合う。

 頭ではわかっているのだが、心が、魂が、精華の完璧さを認めることができない。自分の全ては精華よりも劣っていると思い込む心を、打ち消すことができない。精華ならば「そんなことはない」と言ってくれるだろう。しかし、そう言えてしまう彼女がまた、憎くて仕方ない。そして、屈折した自分の心が何よりも憎い。

「ごめんね、遅くなって。結構待った?」

「ううん、全然。私もさっき着いたばっかりだよ」

 ミルクティーを注文して帰って来た精華に、法子はパタパタと手を振りながら応じる。

「嘘ばっかり。ジュース半分しか残ってないじゃない」

「ちょっとノドが乾いてただけです!」

 精華の洞察力に、法子は舌を巻く。この女は完璧超人か、と。

「待たせてごめんね。でも、それに見合うだけの情報を持ってきたから」

 口調は、至って軽かった。しかし、それまであった精華の笑顔が、潮が引くようにさっと消えていく。法子の全身を、脈動に合わせるようなリズムで疼きが巡る。嫌な予感がした。

「ここ数日、目撃情報だけじゃなくて、接触したって情報が増えてるの」

「接触……」

 その言葉だけでは、まだ話の詳細は掴めない。しかし、事態が楽観できるものではなくなったことは明らかだった。

「そう、直接会話したって言う人もいる。で、みんな口を揃えて言うの。『安藤さんって、こんなに賑やかな人だったんだね』って」

 自分は、賑やかな人間ではない。どちらかというと、静かなタイプに属する。そのことは、法子本人だけでなく、精華ですら把握している事実だ。しかし、複数人から口を揃えて、賑やかだ、と言われている。法子の心を、混乱と不安――そして恐怖が満たす。自分が「強迫的すぎる」と思っていた想像が、現実のものとなりつつある。

「プレゼミの宮下さん、三日前にスタバでノッコと会ったんだって。めちゃくちゃ元気に話しかけてくるノッコと、すっかり意気投合して、また会いたいって言ってた」

 その言葉を聞いた瞬間、法子の意識は世界と孤立して深い闇の中へと吸い込まれていった。この一週間、学外で宮下さんに会った覚えもなく、スターバックスに行った覚えもなく、何より宮下さんと気が合いそうだとは到底思えなかったのだ。宮下さんは、どちらかと言うとおしゃれで賑やかなコギャル系で、法子とはかなりタイプの違う人間である。

「それに、リーダー――大内くんね。彼も、ショッピングモールでノッコと会ったんだって。ノッコは、見てる傍から次々と洋服店を渡り歩いてたそうよ」

 学科全体のまとめ役、人望厚い大内くんとは、何度か一般教養の講義で一緒になったことがある。法子はまじめな優等生タイプだから、同じ優等生タイプの大内くんとは自然座る席が近くなるのだ。格別親しいわけでもないが、疎遠なわけでもない。

「宮内さんだけじゃなくて、リーダーもノッコとそっくりさんを見間違ってるんだよね」

 調査を始めてから今日まで、法子は精華に対して自身の一日の行動をメールで連絡してきた。そのメールの中に、スターバックスもショッピングモールも登場していない。つまり、ここから推察される事実は一つ――法子のそっくりさんが、完全に意図して、法子になりかわって生活しているのだ。その事実が、法子を恐怖のどん底へと叩き落とす。

「ちょっと、ノッコ、大丈夫!? ノッコ!!」

 精華がただならぬ形相で自分を眺めているのをぼんやりと自覚しながら、法子は何も言えずに、ただひたすら震えた。



……



 まさか、ノッコがここまで脆い面を持っているとは知らなかった。「人様になりすますなんて、とんでもないヤツだ。一緒にとっちめてやろう!」と言うつもりで、私はノッコにこの一週間のうちにあったことを話したのだ。しかし、話し出してすぐ、彼女の様子は急変した。焦点の定まらない目を見開いて、上下に小刻みに体を震わし始めて、私は慌てて彼女を脇から抱えるようにして喫茶店を出た。どこに連れていこうか迷ったけど、結局ピーちゃんの待つ彼女の自宅へと向かったのだ。そして今、何とかノッコを部屋の中へと運んで、腰を降ろした。

「ノッコ……」

 折った膝の上に頭を乗せて、蹲る様な恰好になってしまった彼女に、私は何と声をかけていいのかわからず、言葉に詰まった。そんな私に代わって、フラウが言葉を探してくれている。

「ノッコは知らないんだろうけど、あたしはすごーく強いの。だから、ノッコのそっくりさんなんて、ちょちょいのちょいなんだから、安心しなよ」

「まだ魔物と決まったわけじゃないわよ。一般人だったら、どうするの?」

「でもぉ……」

 陽気に言うフラウを、私は窘める。しかし、彼女がノッコを労わる気持ちは痛いほど伝わってきた。

「――でも、そうね。魔物の可能性だってあるし、早く解決しないといけない」

「作戦はあるのぉ?」

 作戦は一つだけ、思いついていた。格別困難な作戦というわけではない。今すぐにでも実行可能だ。私はケータイを取り出し、メールを作成し始めた。用件は端的に、最低限の文章で……。

「よし、メール送信完了。あとは、返信を待つのみ」

「え、それだけで終了? どんなメール送ったのぉ?」

 小首を傾げるフラウに微笑み、私はノッコの顔を覗き込むようにしながら、言った。

「メールの返信があるまで、ちょっと時間があるだろうから、その間に説明するわね」



……



 メールの返信があったのを機に、精華は法子を部屋に残して出ていった。

「絶対にここを動かないでね」

 と精華から念を押されたのにはわけがある。彼女が、知り合い一同に『ノッコを探してるから、見つけ次第連絡ください』という旨のメールを送信したからだ。これは無論、偽物と接触するための作戦だが、もし本物の法子が出歩いてしまったら情報が混同して混乱する。それを回避するためだ。

 加えて、精華以外の人物からの電話にもメールにも応答しないように指示された。これは、法子に連絡がつかない理由を「おそらくケータイを部屋に置き忘れたのだろう」ということにしているためだ。もし法子が誰かのメールや電話に応答してしまえば、精華のメールが不自然になる。

 そのため、法子は部屋の中に軟禁状態となっていた。何をするでもなく、彼女は精華からの連絡を待つ。

 精華はメールを受信すると同時に部屋を飛び出して行ってしまったため、彼女のケータイに誰からどんな返信メールが入ったのかはわからない。しかし、そっくりさんの目撃情報が入ったことは確実だ。そうでなければ、精華が部屋を出ていくことはなかっただろう。

 ポツリと取り残された部屋の中、キバタンのピーちゃんが落ち着かない様子で鳥かごの中を飛び回る音だけが響く。マンションであるにも関わらず、夕暮れ時はただひたすらに静かで、多くの人々の営みが身近にあることすら感じさせない。その不気味なまでの静けさの中で、法子は夕日をぼんやりと眺めていた。

 テレビをつけてみて、面白い番組が見つからず何度もチャンネルを回していたが、それにも飽きて、テレビの電源を切ると同時に法子は仰向けに寝転がった。何も考えたくなかった。

 天井の不規則的な模様がいくつものグループを形成しては解散していく様をぼんやりと追って行くうちに、日はどんどん傾き、部屋の中へと差しこんでいた西日の朱が引いていく。世界と時間の流れと己が溶け合うような、曖昧な時間を過ごしていた。

 一体どれだけの時間が経ったのだろう。不意に、ピーちゃんがけたたましく騒ぎ始めた。遠くから届く電車の音に混じって、マンションの階段を歩く音が法子の耳へと届く。それを、精華が帰って来たのだと思った彼女は、床から起き上がって玄関へと向かった。法子と無関係の人間にピーちゃんは反応しないため、精華が帰って来たと思い込んでしまったのだ。そのため、自分の部屋へと向かってくる何者かが誰であるか疑うことを、彼女はしなかった。

「精華、早かったね」

 日常から危機管理意識を持って生活していれば、どこかで疑いを持ったはずだ。ピーちゃんの反応は、見慣れたものだったのか。足音の感覚は、いつもの精華よりも短かったのではないか。覗き窓から外は確認したのか。それら全てを、彼女は怠った。そしてそれは、彼女が精華という人物を信用しすぎているが故に起こった事態でもあったのだろう。

 疑う余地もなく精華が扉の向こうに立っていると考えた彼女が、鍵を開けてドアを開いた先には――〝もう一人の彼女〟が立っていた。

「ただいま。そして、さようなら」

 〝もう一人の彼女〟はたちまち黒い影となり、本物の彼女を呑み込まんと迫った。



[27529] 町に佇み 第二話『町に差す影法師』 Part5
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 09:37
 ノッコのそっくりさんの目撃情報が入ったのは、ノッコの下宿しているマンションからほど近いJR沿線のコンビニ店内からだった。同じプレゼミの友人がノッコと出会い、ノッコに対して「精華が探している」ということを伝えてくれたのだという。私は擦れ違いになるのを避けるため、本物のノッコへの説明もすっぽかして、彼女の下宿の部屋から飛び出してきた。

 私は部屋を出て走りながら、メールをくれた子に電話をかけた。その子に確認を取ったところ、確かにノッコとして振舞っていたことが確認でき、これで今回の事件の犯人が確定した。そっくりさんなのか、魔物なのか、まだわからない。でも、悪意めいたものだけは感じる。このまま、捨て置くわけにはいかない。

 全速力に近い速度で走り、私は情報にあったコンビニへと駆け込んだ。息を整えながら、店内をゆっくりと見回す。ノッコのそっくりさんの姿は、そこにはなかった。でも、メールを寄こしてくれたプレゼミの友人は雑誌を読みながら私の到着を待っていてくれたようだ。

「ノッコはいないのね……」

「あれ、安藤さんに会わなかったの?」

 雑誌から顔を上げ、プレゼミの友人中田さんは、怪訝そうに眉を顰めた。

「え?」

「安藤さん、部屋にケータイ取りに帰ったんだよ? 山ノ井さんも、安藤さんの部屋からこっちに来たなら、擦れ違うわけないんだけど……」

 そう、私は中田さんに対して電話をかけた際、作り話をしていた。ノッコの部屋の扉前にいるということ、ノッコのケータイに試しに電話をかけてみると、室内から着信音が聞こえたこと、そう言った事情説明をしていたのだ。

「私の方から行くから、ノッコには待ってるように言って」

 とも言っておいたのだけど、さすがにこれは相手が聞き入れてくれないと思っていた。だから、到着した時にノッコがいなかったのは想定内だ。ただ、擦れ違いになったことは想定外だった。

「そっか、ごめんね。迷惑かけて」

 礼もそこそこに、私は急いでコンビニを飛び出した。一体、どちらに行けばそっくりさんに追いつけるのか、手がかりを掴んだつもりで、全く掴めていないのだった。ただ、そんなに遠くには行っていないだろうから、今ならまだ追いつく可能性がある。もし、今から向かうとすれば、どこに向かうのがいいのだろう。

 商店街の方向か、それとも駅の方向か、それとも当人が言った通り、ノッコの部屋なのか……いや、それはない。だって、それなら擦れ違っているはず――。

 唐突に、頭の奥を針で刺されたような感覚が奔った。このコンビニまで来る途中、夢中で走る視界の隅に、黒猫が歩いていたことを思い出したのだ。このタイミングで黒猫だなんて、不気味だな――なんてことすら思わなかった。でも、よくよく考えてみると、あの黒猫は怪しい。首輪をしていなかった――つまり野良だ。過去にこの一帯は、野良犬や野良猫を減らす運動を住民が一丸となって行ったこともあり、猫を外に放す場合は去勢しているのが当たり前だ。そのため野良猫が殆どいない。

 石影先生の使い魔、影人形を操る百合花さんは、本来は黒い獣の姿をしてるのだという。その百合花さんと似たような魔物がいた場合、やはり黒い獣の姿を取るのではないか。推測の域を出ないけど、私もフラウも今回の事件の犯人に人外の性質を感じ取っていた。あの黒猫こそ、私が探していた犯人ではなかったのか。

 まさかとは思うけど、あの黒猫はノッコを害しに行ったのではないか。冷やりとしたものを感じながら、私はノッコの部屋へと向かって再び走りだした。今度は全速力だ。

 魔物の仕業であるはずがない。何でも魔物と結び付けて考えるなんて、バカじゃないか。そういう楽観的な声が頭の中に響く。でも、常に最悪のことを想定して行動を起こさなければ、取り返しのつかないことになることを私は知っている。まさか、そんなことあるわけがない――という思考は、身を滅ぼすのだから。

 何事もありませんように――そう祈りながら、ノッコのマンションへと辿りついた時、耳元で声が弾けた。

『精華、早く帰ってきて! ノッコの部屋に出たよ!』

 魂を媒介として、フラウの声が届く。念のために、彼女をノッコの部屋に残して出てきたのだ。その彼女からの声が、大気を震わすことなく直接私の脳内へと響く。

「待ってて、すぐ下まできてるから!」

 ノッコの部屋は四階にある。マンションの細く急な階段を、一段飛ばしで一気に駆け上がった。それまでの全速力で息が上がっていたけど、身体はいくらでも動く。

『相手は黒い魔物だよ。自由にカタチを変えることができるみたい。今、ノッコを呑み込もうとしてる。私が守ってるから、何とかセーフだけど』

 フラウの報告を聞きながら、私は自分の勘がおそらく正しかったであろうことを知る。そして、その性質が、影人形のようなものであることも予測する。影人形であれば、私の能力とは頗る相性が良い。

「それ、影人形じゃない?」

『多分、そうだと思う』

 四階に着いて廊下に出ると、途端に異様な気配が漂い出した。どうやら相手は、己の気配を隠す能力を持っているらしい。でなければ、もっと早い段階から気配に気づいたはずだ。

 廊下を走りながら体中の魔力を活性化させ、臨戦態勢を整える。自分の戦闘能力は正直あまり期待していないけど、ノッコの部屋に入った瞬間に返り討ちにされるようでは話にならない。ここは、殴り込むしかないのだ。

 ノッコの部屋は角部屋の四〇一号室で、階段からはもっとも遠い。その部屋の扉が開いたままになっているのが、少し離れた地点からでも見えた。部屋はぐんぐん迫り、そして私は中を確認するより早く、右手の先に光を宿した。

「<発光(ルミナス)!>」

 中を確認することはしなかった。フラウが私の行動を予測し、敵を誘導してくれていることを信じたからだ。私は右手に凝集した光の塊を、ノッコの部屋に着くと同時に、その中へと撃ち込んだ。直後に聞こえたのは、可聴域ギリギリの高い悲鳴だったか。何らかの手ごたえを残して、玄関一面を覆っていた漆黒が部屋の奥へと逃げていく。

「精華!」

 漆黒の壁が取り払われた後には、フラウとノッコがいた。ノッコは床に倒れていたけど、フラウの声を聞き、その声の調子でノッコが無事であることを悟る。

「フラウ、ノッコは!?」

「だいじょうーぶ! ちゃんと無事だよ。ただ、今は気絶しちゃってるけどね」

 ノッコが無事であることを聞いて、一瞬気が抜けそうになった。でも、それはまだ早い。部屋の中には、依然として敵の姿があるのだから。

「アレは、影法師(かげ)?」

「多分、そうだね。最初、ノッコの姿をしてたし、襲いかかってきたら黒い不定形の塊になったし」

 私とフラウの視線の先で、黒い塊が蠢いている。流動性は高いようだけど、しっかりと一つのカタチを保つことができるようだ。見覚えがある。これは、百合花さんが使う影人形と同じ性質を持つものだ。一般的には「シルエット」と呼ばれ、百合花さんが「かげ」と呼ぶ存在。

「人に害をなすなら、どんな状況にせよ許すわけにはいかないけど……親友に手を出されちゃ、なおさら黙ってられないわね」

 私は、目の前で蠢く黒の敵を排除するべく、力を解き放つ。私の体を中心とした半径二メートルほどの範囲が、眩いばかりの光に包まれた。この光は、レーザー光線のごとく、触れた対象を焼き切る力を持っている。光自体が熱を持っているのではなく、粒子の運動によって熱量を持たすにすぎない。故に、私が念じない限り、これはただの光である。そのため、私やフラウの体を害することも一切ないのだ。これが私の持つ<光(ルーチェ)>の能力。

 光の塊となった私を目前に控え、影法師はたじろぐように後退する。予想した通り、光と影では、さすがに光の方が有利なのだろう。影法師が後退する先には、ベランダがあった。外に逃げるつもりか。

「フラウ、結界を張って!」

「了解っ」

 直後、ノッコの部屋の内側に、透明の壁が広がった。壁面だけでなく、天井や床も覆われる。影法師はその壁を突き破ろうと体を鋭い棘に変化させてベランダへと突撃するが、ベランダと部屋を隔てるガラス戸は結界の外側で守られているため、びくともしない。

「あたしの結界を破ろうなんて、百年早いんだよ」

 そんな影法師の様子を見ながら、フラウが得意げに鼻を鳴らす。

「さぁ精華、やっちゃえー」

「ええ、任せておいて」

 フラウにお膳立てをしてもらったんだから、後は鮮やかに敵を仕留めるのみ。私は、イメージする――私を覆う光が散開して無数の小さな球体となることを。そのイメージ通りに、光が広がり、無数の球体となって中空に留まる。それは燐火の大軍ともいうべき、空間の覇者。

「強襲!」

 私の号令を受けて、光の軍団が上下左右から影法師に飛びかかった。ネズミの這い出る隙間も与えず、敵の姿は光の中へと消える。確実な全弾命中、勝利は成ったと思った。でも……影法師は健在だった。

「ウソ、まだ生きてるの?」

 影法師が意外としぶといのか、それとも私の力が不足しているのか――多分、後者だ。石影先生の指導の下、光の能力の扱いを訓練してきた私だったけど、いかに小手先の技術を身に付けようが、パワー不足は補えない。

「精華、もう一発!」

 フラウに言われ、私は慌てて光を再召集する。でも、それは遅すぎた。影法師が、弾けるようにして私の方へと飛びかかってきたのだ。私の自力での防御が間に合わないことを悟ったフラウが、私の前に盾となって立ち塞がる。

「<歪珠防壁(バロックフィールド)!>」

 フラウが一喝すると同時に、目の前の空間が白く輝き、歪む。空間自体を歪め、そこに触れた力の一切を弾く、最強の盾。影法師がいかに強力な攻撃手段を持っていたとしても、この防壁に触れれば何も成せなかったに違いない。そう、私を狙っていれば、何も成せなかった。でも、影法師は最初から私を狙っていなかったのだ。

 しまった、と思った時には遅かった。影法師は私に攻撃すると見せかけて、私の頭上を飛び越して行ったのだ。そして、私の背後――玄関先で気絶し倒れているノッコへと飛びかかる。絶対的な迎撃の力を持つフラウでも、私の護りを優先したため、これには反応できなかった。

 咄嗟に再召集した光を影法師へと放つが、それは上に飛び退かれてかわされる。影法師が飛び去った後に、床に倒れていたはずのノッコの姿はなかった。



 私の頭の中を、ノッコが殺されたという思いが満たす。ノッコへと飛びかかった影法師は、完全に彼女の体を取り込んでいたのだ。その光景を見ながら、私の胸の中を様々な思いが往来する。



……



 大学入学直後のオリエンテーションでたまたま隣同士の席になり、この大学にきて初めてできた友人がノッコだった。ひじりちゃんや、彼の高校の時の友人である今井くんと合流するより早く、私とノッコはすでに友人になっていた。自分でカリキュラムを組まなければならない大学のシステムや、慣れない一人暮らしにあくせくしながら、私は濃厚なオリエンテーション期間を過ごした。その隣には、いつもノッコがいた。

 私は何故か、完璧超人に見られてしまうことが多い。

「精華さんなら、言わなくても知ってると思ってた」

 と言われたことは数えきれないほどある。クラスメートだけでなく、先生にすら言われたほどだ。教えてもらえなければ、何も知ることはできないのに、どうしてみんなは私を特別視するのか……私には理解できなかった。人一倍勉強して、テストの成績が良くなれば、読心術の能力を神様が授けてくれるとでもいうのか。まさか……。学業成績が優秀であるだけで、どうして特別扱いされてしまうのだろう。私は、その原因を知ることなく、生きてきた。

 それを初めて教えてくれたのは、ノッコだった。

「精華は何でも人並み以上にできちゃうから、みんな怖いんだよ。自分の意見が精華と違ったら、自分の意見の正しさは信じられなくなる。だから、精華には何も言えないんだよ」

 そんなことを教えてくれる人は、今まで一人もいなかった。だから私は、ノッコがそう思っていなくても、彼女のことを親友だと言える。胸を張って、誇ることができる。

 私は自分のことを完璧人間だと思ったことは一度もない。欠点は人並みにあるはずだ。なのに、周囲は私のことを実力以上に評価してくれる。等身大の私を見てくれる人は、殆ど出会ったことがない。それをしてくれるのは、ひじりちゃんと、ノッコくらいだ。

「精華って、完璧っぽく見えて、結構ドジだよね」

「計算よ、計算」

「うわ、魔性の女か」

 こんな風に軽口を叩くまで仲良くなったのは、ひじりちゃんを除けばノッコが初めてだ。それまでの友人付き合いといえば、お上品に、お淑やかに……まるで周囲の人たちが勝手に作り上げた山ノ井精華という役を演じる役者のように、本当の自分を出しきれないことが殆どだった。

 ノッコと仲良くなったお蔭で、同じ講義を取って知り合った人やプレゼミのメンバーなど、周囲の人たちもノッコを介して本当の私を見てくれるようになった。ノッコといることは、私の自己表現へと繋がったのだ。だから私は、一生ノッコのシンパでありたいと思うし、ノッコにもそうあってほしいと願う。ノッコと会えなくなることなんて、考えることもできなかった。

 それなのに……それなのに……。

「ノッコ……うそ、でしょ……」

 ただただ、私は混乱していた。ノッコは殺された、と思い込んでいるはずなのに、何の感情も浮かばない。事実の認識と理解がズレている。

「精華!」

 フラウの声が、私の頬を叩くような勢いで耳元に届く。

「ちゃんと見て! ノッコはまだ、死んでない!」

「え……」

 見つめる先で蠢く影法師の、その黒色の塊が急速にしぼんでいく。しぼみ始めてから三秒と待たず、そこには倒れたノッコの体だけが残った。

「ノッコ!」

 私は思わず、駆け寄ろうとした。でも、身体は前へと進まない。フラウが目の前に立ち塞がり、私に向かって防壁を張っていたからだ。

「精華、冷静になって! 今のノッコの中には、影法師がいる。近寄るのは危険だよ!」

 でも、それでも……私は彼女に駆け寄りたくてならなかった。

「ノッコ、大丈夫!? ノッコ!」

「せい……か……?」

 私の声に応えるようにして、ノッコが小さく動いた。よかった、生きている――そう思って安堵しかけた私に、彼女から予期せぬ言葉が投げかけられた。

「ダメ……精華、わた……し……あなたを……ころ……しちゃう」

 一体何故、どうしてそんなことを言うの? 私の頭の中は、疑問でいっぱいになる。

「精華、ちゃんと状況を把握して! ノッコは死んでない、まだ生きてる。でも、影法師に操られてるんだよ」

 人は時として、判断を誤ることがある。それは冷静さを欠くことはもちろん、願望が事実を歪める場合でも起こり得る。今の私は、その両方の状態にあった。フラウの声を聞いて、私の脳は何とか正常な思考を始める。

「……つまり、ノッコの中から影法師を追い出せばいいのね」

 私の言葉を受けて、安堵したようにフラウが大きく頷く。

「ノッコがどこまで操られてるかによるけど、まだ彼女の意識は表面に出てるみたい。精華がノッコを説得することで、彼女の中から影法師を追い出すこともできるはずだよ。今、影法師はノッコの心の闇を握っているんだから」

 フラウは語る。影法師とは、物理的な影だけでなく、心の影をも支配できる存在であると。ノッコの心の闇――彼女の心の闇とは何なのだろうか。

「早くにげ……だめだよ……ころしちゃ……う!」

 苦しげに呻いていたノッコの語尾が唐突に跳ねあがった。それに呼応するように、彼女の体も跳ねあがり、人間らしい予備動作を無視して私に殴りかかって来る。フラウが防壁を張ってくれているお蔭で、彼女は私に近づくことすら叶わず、弾かれた。でも――。

「精華……そうやって……私を拒む……の?」

 私と距離を取り、前傾姿勢で立つノッコの口から、異様な台詞が漏れた。つい先ほどまで、自分が影法師に操られていることを自覚していたはずの彼女の口から出た言葉とは思えない。

「精華、マズイよ。ノッコの精神が影法師に完全に呑まれつつある」

 私は奥歯をきつく噛んでいた。

「ノッコ……あなたは、逃げろと言ってくれた。でも、あなたを見捨てて逃げるなんて、ありえない」

「私のことを拒むくせに!」

 再び、無造作な動きでノッコが殴りかかってくる。影法師によって強化されたノッコの拳は、フラウの防壁を小さく揺らす程度の威力を持っていた。でも、フラウの防壁はあまりにも硬く、故に強烈な反作用を引き起こす。再び私に近づくこと叶わず飛び退いたノッコの右手は、皮膚が裂けてしまったのか、血が滲んでいた。これを繰り返せば、彼女は自壊してしまう。

「フラウ、防壁を切って! ノッコの体が壊れちゃう」

「でも、精華、あなたの体が――」

「何とかするから、お願い!」

「精華……滅茶苦茶だよぉ」

 フラウは非難がましく口を窄めながらも、素直に防壁を切ってくれた。これで、私は無防備そのものだ。

「精華、肉体強化するよ! でも、防御力はあんまり期待しないでね」

 そして、防壁を切った代わりに、フラウは私の体の中へと入り込み、私の身体能力を強化してくれる。彼女は一時的に自身の物質体を捨てて魂のみの存在となることで、私の体内に入り込むことが可能なのだ。これによって、反応速度、筋力などの肉体能力はほぼ倍化する。

「さぁ、ノッコ、防壁を切ったわよ。もう、あなたを拒みはしない」

 私は、ノッコの瞳を真っ直ぐ見つめる。その瞳の奥にいる、本物のノッコに訴えかけるつもりで。

「う……嘘はよくないんだよ、精華」

 その言葉を言うと同時に、ノッコの様子が少し変わる。影法師に呑まれ、狂気を湛えていた瞳の色が薄れたのだ。でも――。

「精華、いくらあなたでも、嘘を真実にはできないんだよ」

 瞳には、確かに理性の色が戻ってきていた。ノッコの意思が、再び表面に出てきたように見える。でも、私を拒み続けていることでは変わらない。

『ノッコの心が、影法師と同化しちゃったみたいだね。ヤバイなぁ』

 大気を震わすことなく、体内から脳内に直接フラウの声が届く。

「同化ってことは、今のノッコは、半分は本人の意思で動いてる状態ってこと?」

『うん。影法師にたきつけられて、正常な思考が働かない状態にあるはずだけどね』

 これが、影法師という魔物が持つ力。憑依した人の心の闇を広げ、思考をねじ曲げる能力。ありふれた魔物である<矮小悪魔(インプ)>もこの能力を持っているけど、彼らはその心の闇を食する存在にすぎない。影法師は、広げた心の闇を利用して、その人を操ってしまう。

「精華は私を受け入れてくれない。だって、あなたは私を利用することしか考えてないんだから。利用できなくなったら、捨てるんでしょう?」

 ノッコの口から、痛烈な批判が飛び出す。この言葉は、本物なのだろうか。ノッコが日ごろから抱えてきた、本当の心の闇なのだろうか。

「ノッコ、あなた、そんな風に思ってたの?」

「うん、そうだよ。私は、利用されてることを割り切って、精華と付き合ってきたんだから」

「どうしてなの……私、そんな風に思ったことなんて――」

「そうやって、綺麗なままでいようとするの、やめようよ。人間は、自分の幸せのために他者を利用するだけの生き物なんだからさ」

 いつもの温かな笑顔が嘘のような、冷たく鋭い目で、彼女は私を睨む。

「私だって、精華を利用しただけだし」

 それが、本心からの言葉でないことはわかる。ノッコには、ここまでの攻撃性はないはずなのだから。でも、やはり言われるとショックな言葉というのはある。

「私はね、劣等感の塊なんだよ。いつも誰かと自分を比べて、いつも自分の劣っているところばかり気になってさ……。だから、比べる必要もないくらい優れてる存在がいてくれると、かえって気が楽になれるんだよ。精華は羨ましいぐらい完璧でさ……だから、私が精華より劣っていても、誰も気にしないでしょう? 私がパッとしないのは、精華の横にいるせいだって、みんな思い込んでくれるでしょう? だから、私はずっとあなたと一緒にいたんだよ」

「ノッコ、何でそんな風に思うの? あなたが私に劣ってる証拠なんて、どこにあるの?」

「うるさい!」

 感情の爆発に耐え切れなくなったかのように、ノッコの体が跳ねる。その動きは人間の身体能力を超え、まるで弾丸のような勢いで私へと肉迫した。

「何がわかるっていうのよ! 私の、何がわかるっていうのよ!」

 顔面へと向けられた彼女の右拳をすれすれの位置でかわし、私はその伸びきった腕を掴む。

「わかるわけないじゃない! 言ってくれなきゃ、わからないわよ!」

 そして、何故か私も声を荒げて彼女に言い返していた。操られている彼女に腹を立てても仕方ないというのに、身体の奥から湧き上がる熱のようなものを飲み下すことができない。ほとんど衝動的に、そのままの勢いで一本背負いに持っていこうした。その意図を察したノッコの左膝が、私の右脇腹を蹴りあげる。鈍い痛みが走り、私は動きを止めてしまった。その隙にノッコは再び私と距離を取る。

「言えるわけないじゃない! 言ったら、自分が崩れちゃうもの!」

「本当に、自分が崩れる証拠なんてあるの?」

「本当の自分を晒したら、それまでと同じように生活できなくなっちゃうじゃない!」

「だったら、新しい生き方を探せばいいでしょう?」

「そういう生き方ができるほど、私は強くもないし器用でもないんだよ!」

 まるで、獣だった。己の心の闇を叫ぶ、獣だ。そんなノッコの姿を見て、私も叫ぶことを決心する。

「そうやって逃げる人間は、嫌いよ!」

「う、うわああああああああああああああああああ」

 もはや、影法師に支配されている状態とはいえない。私へと殴りかかってくる彼女は、激情に支配されていた。

「悩みを打ち明けてくれないノッコは、嫌い!」

 今までの比ではない激しさで、拳や蹴りが飛んでくる。反撃することもままならず、私はひたすらにそれを避け続けてしのぐ。

「そして、ノッコに相談してもらえない自分自身も、私は嫌い!」

 大振りな右拳を外し、ノッコの体がガラ空きになる。その腹部に、思いっきりアッパーを叩きこんだ。彼女の体は吹っ飛び、床にごろごろと転がるが、すぐさま起き上がって臨戦態勢を取る。

「今のは、脇腹蹴った分のお返しね」

 赤い怒りの炎はピークに達し、青い静かな怒りへと変わる。私は、冷静な感情を取り戻しつつあった。対するノッコは、怒り狂ったままだ。また、飛びかかってくる。

「でもね、ノッコ。私、あなたのいない生活が、想像できないよ」

 もう一発、何か大きな攻撃を受けること覚悟で、私は彼女の正面へと飛び込んだ。彼女の右拳が顔面に近づくのを感じ、私は首を小さく横に振ることでそれをかわす。そして――。

「利用するんじゃないんだよ、ノッコ。人は、頼り、頼られるんだよ。私はあなたを頼りにしてるし、頼りにしてほしい。もし、それがエゴだというのなら、そんなの関係ないって笑い飛ばせばいい。だって、そういうのを気にしない仲を、親友っていうんだから」

 私は、彼女の体を強く抱き止めていた。彼女の動きも、ピタリと止まる。時が止まったように、私も彼女も動かなかった。

「いくらでも、相談してよ。いくらでも、迷惑かけてよ。私は、ノッコに頼られることで、幸せを実感できるんだからさ」

 そして、私は光(ルミナス)を周囲に展開する。皓伯の輝きが、私とノッコを――彼女を包み込む闇を照らす尽くした。

「ノッコが思う完璧な私は、ノッコなしでは完成しないんだよ。私が完璧な人間でいるために、ずっとそばにいてあげてよ」

 その時、ノッコの体の中から悲鳴が上がった。ノッコの声ではない。可聴域ギリギリの、耳鳴りのような断末魔の叫び。

「仕方ないな、精華は」

 そして、抱きしめていたノッコの体に力が戻り、私を抱きしめ返してきた。



[27529] 町に佇み 第二話『町に差す影法師』 Part6
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 09:38
「残念、失敗しちゃったか」

 マンションの屋上、そこに登るための階段も落下防止柵の設置もなされていないはずのそこに、一人の男が立っていた。外見年齢は三〇歳前後。黒のスーツに、赤のネクタイが映える。サングラスの下に隠された瞳を見ることはできないが、おそらく眼光は鋭い。明るく言い放った声には、隠しきれない闇の気配が漂っていた。

「なかなかどうして、人間も雑魚ばかりじゃないじゃーないか」

 スーツの内ポケットから煙草とライターを取り出し、煙を燻らせた。煙を吐き出しながら、眼下に望む家々を見て、彼はそのちっぽけさを嘲笑する。

「だが、所詮は人間。力あるものですら、俺の使い魔一つを斃すのがやっとだ」

「しかし、人間でなければ、そなたを斃すことも容易い」

 不意に、背後で女の声がした。自分が気配を察知できなかったことに驚くと同時に、彼はその女が人ではないことを悟る。振り返った視線の先に、鮮血を想わせるような真っ赤な着物を纏う美女の姿を認めた。右手に煙管、左手の扇子で口元を覆い、頭の上で大きく結った黒髪には、鬼百合の簪――まるで芸者のような出で立ちである。

「誰だい、君は」

「そなたこそ、何者じゃ? ここはワシの縄張りぞ。それを侵した無作法者に、名乗る口など持たぬ」

 地主だと宣言する着物姿の女に、男はやや気圧される。その堂々たる立ち振る舞いや気品は、その女が並みの人外ではないことを示していたためだ。しかし、いくら内心で動揺しようとも、それを外に出すような愚は犯さない。極めて平素を装い、相手と対等の立場であるよう振舞わなければ、とって喰われるのが弱肉強食の世界だ。それに、まだ互いの力量差がいかほどなのか、計りようもない。

「これは失礼。私はヤシャブシと申します」

「ワシは百合花じゃ。もっとも、覚えずともよい。覚える努力はムダとなるであろうからの」

 声は酷く穏やかで、敵意は微塵も浮かばなかった。しかし、その女は何と言ったのか。

「覚える時間は与えてしもうたじゃろうが、その保持と想起の機会は与えぬ。すわ、滅せよ」

 予備動作もなく、女の体から周囲の空間に向かって、見えざる手が伸びる。それはカタチらしいカタチを取らぬものではあったが、空間の全てが掌握される、という点に置いて、それは手と表現するしかない代物であった。

「ぐ……き、貴様……」

 スーツ姿の男は、一瞬にして女の伸ばした〝手〟に絡み取られる。男だけではない。空気も光も小鳥も全て、女の伸ばした〝手〟によって絡めとられ、一切の時間を止める。

「そなた、ワシを相手にはったりをかまそうと思ったのであろう? 笑止、笑止じゃ。ワシとそなたが、比較の対象になるとでも? その小さな身の丈で、どうやってワシの尺を測るつもりだったのじゃ?」

 男は、笑う女に対し、反撃を試みるべくもがく。しかし、身体は痙攣を繰り返すばかりで、これっぽっちも動かせやしない。

「ワシと出会い、すぐに逃げる姿勢を見せなかった時点で、そなたが死ぬことは決まっていたのじゃ」

 そして、おもむろに右手の煙管が持ち上げられ、腕が地面と水平になる。さらに、少し上に腕を持ち上げたところで、女は静かに宣言した。

「さらばじゃ」

 すっと小さく、素早く、腕が水平になる位置まで煙管が振り下ろされた。それに応え、彼女の見えざる〝手〟によって周囲の空間からありとあらゆるエネルギーが奪われ、奪われたエネルギーの全てが男の体へと凝集する。刹那、スーツ姿の男の体は送り込まれたエネルギーを溜め込み切れずに膨張し、音すらなく破裂し、破片どころか塵一つ残さずに消滅した。それと同時にエネルギーが周囲の空間に散らばり、まるで何事もなかったかのように、大気も光も小鳥も時間を取り戻す。

「もっとも、逃げる姿勢を見せていたとしても、逃がす気など毛頭なかったが」

 小さく笑い、女は扇子を畳んで帯へとさした。



……



「お、おはよう」

「う、うん……おはよう」

 影法師との戦いから一夜明け、私はノッコの部屋で目覚めを迎えた。もちろん、ノッコを一人にするのが心配だったからだ。影法師を斃した後、程なくして百合花さんが私たちのところへやってきて「影法師を操っていた大本は斃しておいたから安心しろ」と言ってくれたけど、ノッコのメンタル面を考慮して部屋に泊まることにした。

 ノッコは右拳を負傷していたはずだけど、影法師の肉体強化が働いていたお蔭か、傷口はすっかり塞がっていた。そのため、百合花さんが立ち去った後、私とノッコはゆっくりと本音で話し合う時間を持てたのだ。本音で話し合ううちに、私は彼女の抱えていた悩みを聞くことができた。

 アイデンティティが不足している、という強迫観念に捕らわれている――それが、彼女の悩み。

「ヘンだと思うよね。私自身、ヘンだと思うし……」

「何言ってんのよ、ノッコ。ヘンなところがないと、アイデンティティも生まれないじゃない。いいんだよ、それで」

「でも、これ病気だよ? それも、アイデンティティなの?」

「苦しんだことのある人にしかわからないことって、たくさんあると思う。病気自体はよくないことかもしれないけど、病気を抱えたからこそ見えることもあるでしょう? それって、アイデンティティって言えないのかな」

「でも私、苦しんでばっかりで、何も見えてないよ」

 これ以上無責任なことを言う気になれなかった私は、お茶を濁すことにした。

「でも私は、ノッコが苦しんでることが何なのか、見えてよかったよ。きっと、私はノッコの最高の相談役になれるはず!」

「もう、他人事だと思ってー」

 ノッコがぷくっと頬を膨らまし、それから二人で笑った。

「ノッコのことばかり詮索するのもフェアじゃないから、私のことも話すね。聞いてくれる?」

「もちろん」

 そして私も、ノッコに心の内側を晒した。彼女に対しては隠しごとをしていないつもりだったけど、話しだしてみると色々と隠しごとをしていたことに気づく。

 完璧人間だと周囲に思われていることに、あまり関心がないようなフリをして、実はかなり気にしてきたこと。ノッコは何でも頼みごとを聞いてくれると、甘え切っていたこと。いつも気取ってコーヒーを飲むけど、実はそれほど好きじゃないこと。

「なんで無理してコーヒー飲むの?」

「いや、ほら……何となく絵になるかなーと思って。それに、大人って感じがするじゃない?」

「誰も気にしてないよ、そんなの」

 そう、誰も気にしてない。それが、答え。

「そうなんだよね。他の人は、そんなこと全然気にも留めてないんだよね。でも、どうしても気になってしまう。私の悩みもノッコの悩みも、他者にとってみればつまらないことなんだよ、きっと」

「そっか。価値ある人間、ない人間が、もし仮に存在するとしても、その人の悩みにまで価値は付けられないもんね」

「アイデンティティは、持とうとしなくても、持っちゃうんだよ。理想通りの自分になれないから、現実とのギャップから悩んでしまう」

「きっと、そうだね」

 それが、悩みの正体。打ち明けてしまえば、何てことはない、つまらないことだ。

「でも、願わくば、私はノッコに『山ノ井精華の親友』っていうアイデンティティも持っていてほしい。そしたら、一生甘えることができるし」

「何かこの子、利己的だー」

「マズローの欲求五段階説……だっけ? 人間の最高次の欲求は自己実現だ、って」

 自己実現と、他者の利益がぶつかり合わなければいいのだ。それが相互関係となれば、何の問題もない。

「だから私は、『山ノ井精華の親友』が恥ずかしくないように、自己実現を目指す輝かしい人間として生きていく」

「私と二人きりとはいえ、そう言えちゃう精華は、やっぱり完璧超人だね。うわー眩しいー目が潰れるー」

「ノッコ、あたしも一応いるんだからねっ!」

 私に向かって手を翳してリアクションを取るノッコと、存在を忘れられて憮然とするフラウ。私は、そんな二人があまりにも愛おしくて、思わず両腕を使って抱き寄せていた。

「これからも、ずっと一緒にいてね。約束だよ」

 その後、三人で笑い合いながら、夜遅くまで色んなことを語り合った。眠るのが惜しかったけど、私もノッコも布団の上に寝転がると、一日の疲れが一気に押し寄せてきて、一瞬で眠りについてしまった。ノッコは、寝付くのに一分と要さなかった。

 一夜明け、お互いの顔を見た時、真っ先に浮かんだ感情は照れくささだった。お互いに、ぎこちない挨拶をかわす。

「昨日のテンションって、特別だったのね。今になってみると、昨日の会話がちょっと恥ずかしい」

「精華もそう思う? 私も恥ずかしい」

「おあいこさまだし、気にするなー」

 フラウがぴょんぴょん飛び跳ねながら、私たちの間に入る。

「フラウの言う通りなんだけど、やっぱ恥ずかしいわ」

 人は、裸になることを恥ずかしがる。服を着て、その羞恥心から逃げる。それは、心も一緒なのではないか。

「こう言うと、ヘンに聞こえるかもしれないけど、まるで裸で立ってるみたいにスースーする感じ」

「わかるわかる、何だかスースーする」

「あたしにはわからないよぉ」

 フラウが口を尖らせるのを見て、照れ隠しの手段を探していた私の悪戯心に火がつく。

「これは女と女の友情の証だから、フラウにはまだ早いわね」

「えー何それずるいよぉー」

「でも、教えてあげられる方法はあるわ」

「え、ホント?」

「そう、それは……こうだ!」

 そして私は、フラウのドレスを脱がしにかかる。

「うわわわわわわわ、精華がご乱心だああああああああ」

 フラウは慌てて私から飛び退き、私はそれを追う。

「朝風呂に入るだけじゃー。ほれ、もっと近こう寄れー」

「エロ殿が出たあああああああああ」

「ノッコ姫、お主も手伝うのじゃ」

「え、ええ!? 私も!?」

 こうして、一つの事件は幕を降ろした。ノッコの命が危険に晒されたことは好ましいことではないし、もし今後もこういった事件に巻き込まれる危険性があることを考慮するなら、この一件は悪い出来事だったのかもしれない。でも、無事に終わった今、必ずしも悪い出来事ではなかったのではないかと私には思える。私とノッコは、きっと真の親友になれたのだから。



 研究室でパソコンに向かい論文を執筆していた威の耳に、扉をノックする音が届く。しかし、彼は黙々と論文の執筆を続け、返事をする様子はない。

「入るぞ」

 そこは相手も勝手知ったる者、返事を聞かずに入室してきた。

「麗しきパートナーが帰って来たのじゃ。おかえりの一言くらいは言えぬのか?」

「ああ、おかえり」

 モニターから目を離すことなく、いかにも気のない返事をする威に、女性は眉を顰めることで講義の意を示す。が、見てもらえないのだから、それも伝わらない。仕方なく、女性は口を開く。

「労いの言葉もないのか?」

「御苦労さま」

 視線を合わせることなく、しかも適当な一言であしらわれて、女性のプライドは大いに傷つけられる。

「お主という男は……一度死ねばよいのじゃ」

「やだね」

「ここで一度殺してやろう」

 そして、部屋の中の空気が一変する。女性以外の周囲の全ての時間が止まり、ありとあらゆるエネルギーが奪われた。そして、集められたエネルギーは威の体内へと送り込まれ――。

「お、何だか元気が湧いてきたよ。ありがとう、百合花」

 威の体は、そのエネルギーの全てを吸い込み、健在である。それを見て、女性は溜め息をついた。

「全く――どうしてお主にはワシの力が及ばんのじゃ。不公平ではないか」

「何を言ってるんだい? 一度僕を殺した気分になれただろう? 充分じゃないか」

「それでは足りぬ。ああ、口惜しい」

 口ではそう言いながらも、最初から己の力が及ばぬことを知っていた彼女は、気分を立て直して先ほどの事件の結果を報告する。

「口惜しいが、今のワシは頗る機嫌がよいのじゃ。同属を屠ってきたからの。それに免じて、怒りの刃は鞘に納めることとしよう」

 彼女は矜持高い魔物であり、己の力に自信を持っている。同属を斃すことではっきりとそれを確認できた今回の一件は、彼女を満足させるに足る出来事であったのだ。

「やっぱり、<黒貂(ふるき)>の仕業だったみたいだね」

「ヤシャブシと名乗っておったから、日本生まれの黒貂で間違いなかろう。じゃが、あまりにも弱かった。同属と呼ぶのも恥ずかしいほど弱かったぞ」

「百合花が強すぎるんだよ。君ほど長く生きた黒貂は存在してないよ、多分。僕の一〇倍――いや、二〇倍くらいかい?」

「悪かったのぉ、年増で」

「君の年齢と僕のそれを比べるなんて、おこがましいにもほどがあるけどね。長生きは尊敬してるよ」

「嫌味にしか聞こえぬ」

「とんでもない。僕は真剣さ」

「そうじゃろうな。お主は、そういうことに無頓着じゃからな」

 やれやれ、と女性は溜め息をつく。この男といると、自分ばかりがいつも感情的になっている滑稽さに気づき、更に溜め息をついてしまう。

「ところで威。お主、親友なるものは信じるか?」

「へぇ、君もそういうのを気にするんだね。ほしいのかい?」

 さりげなさを装い、そう発した彼女に、威は無遠慮に訊き返した。

「な、何故そうなるのじゃ!」

「なるほど、ほしいわけだ」

「黙れ! どうしてそうもお主は無神経で無遠慮なのじゃ!」

「無遠慮に接することができるのが、親友なんだよ、百合花」

 その言葉を聞いた瞬間、怒鳴り立てていた女性の勢いが止まる。そして俯き、小さく呟くように言った。

「……そういうものなのか?」

「そういうものなんだよ」

「うむむ……お主に言われると納得できぬ」

「信じてもらえないとは、悲しいね」

 威は苦笑しながら、再びモニターと向き合って論文の執筆を再開する。

「やれやれ、柄にもないことを訊いてしもうたわ。これ以上、短き人の営みを邪魔せぬよう、ワシは退散するとしよう」

 言いながら、女性は威の影の中へと帰ろうとする。その前に、もう一言だけ、威が口を開いた。

「百合花。孤独なのは、何も君だけに限ったことじゃないさ」

「……わかっておる」

 そして、女性の姿は威の影の中へと消え、部屋の中には彼がキーボードを打つ音だけが響く。






三話へと続く……



[27529] 町に佇み 第三話『悪夢の猩々』 Part1
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 19:49
「猿夢って知ってる?」

「え、何それ」

 ホラーやオカルトの類が大好きな友人に声をかけられ、OL木村由佳(きむら ゆか)は「また始まったか」と内心でごちた。

「夢の中で、猿の車掌がいる電車に乗ってるの。で、自分の隣に何人も客が座ってるんだけど、端にいる人から順番に殺されていくんだって」

 しかも、その殺され方が怖いのよ、と友人はもったいぶったように間を溜めてから続ける。

「その人が一番恐れているもので、殺されるんだって。猿の車掌がアナウンスで『次はー八つ裂きー』って言ったら、端に座ってる人が八つ裂きにされるんだよ。その夢が毎晩続いて、乗客が順番に殺されて、だんだん自分の番が近づいていく……」

 猿の車掌、というあたりが何とも不可解な設定だと由佳は思いつつも、なかなかによくできたホラーだと感嘆する。電車内という逃げ場のない密室、夢から逃れられないという恐怖、そして殺される順番がわかってしまう残酷さ――確かに、本当にそんな夢を見れば、恐怖するだろう。正気を保っておける自信はない。しかし、それは所詮作り話だ。恐るるに足らない。

「ばかばかしい」

 そう一蹴した彼女だったが、その夜、奇しくも猿の夢を見る。夢の中、真っ暗な闇の中で、いかにも獰猛な獣の叫び声を聞いた。たちまち恐慌状態に陥った彼女の耳に、奇妙な声が投げかけられた。

「見てはいけないよ」

 それは、猿の声。

「聞いてはいけないよ」

 それは、別の猿の声。

「しゃべってはいけないよ」

 それは、三匹目の猿の声。三匹の猿が、楽しそうな口調で囃し立てる。恐怖しろと、囃し立てる。

 更なる獣の叫び声。その声が先ほどよりも大きくなっていることを感じ、由佳は耳を塞いで走った。そうすることで恐怖を和らげようとしたが、獣と自分の距離が縮まっているのか開いているのか判断できず、かえって不安が増す。猿の声も、次第に大きくなっているようだった。

 耐え切れず、彼女は後ろを振り向く。すると、そこには――。

「あああああああああああああああああ」

 恐怖の余り、悲鳴が漏れた。その声に反応し、雪男と見紛うごとき巨大な猿は、由佳に向かって飛びかかり、そして、彼女を頭から呑み込んだ。

「……夢か」

 彼女は全身に、びっしょりと汗をかいていた。巨大な猿に呑み込まれ、死んだと思ったところで悪夢から覚めたのだ。

「こんな夢見るなんて、私もまだまだかな」

 昼間の友人の話を聞いて、潜在的に怖がっている自分がいたのだろう。彼女は、悪夢を見たことをそう解釈した。しかし、悪夢はこの日だけでは終わらなかったのである。

 毎夜毎夜、巨大な猿に殺される夢を見る。その夢を見ない日は無く、彼女は毎日夢の中で死に続けた。そして、慣れとは恐ろしいもので、最初は悲鳴を上げて、目覚めれば汗をかいているという具合だったのが、夢を見る都度だんだん恐怖を感じないようになってきたのだ。

 そして、現実でも、彼女は恐怖を感じないようになってくる。高いところから下を見下ろしても、足がすくむことはなくなった。テレビで重傷を負った痛々しい体験談を聞いても、顔を歪めることもない。それどころか、色んな自殺の仕方について考えるようになってきた。

 ビルの屋上にいると「ここから飛び降りたら、どうなるんだろう。鳥になるのかな」と思ってみたり、料理をするために包丁を握っていると「手首を切ったらどんな風に血が出るだろう」と思ってみたりと、妙な興味を持ち始めてしまった。そして、夢を見れば見るほど、それを実践したらどうなるか、という想像にまで思考が及ぶようになる。

 その日の朝は、何もない静かな朝だった。駅のホームで、通勤のための電車を待っている時、不意に「ホームに入ってくる電車の前に飛び込んだらどうなるか」という思考が頭をもたげる。それは痛いのか、意識はどの時点で断絶するのか、周囲の人々の反応はどういったものになるのか。それを確かめたくて、仕方がなくなってしまった。

 いや、そんなことはどうでもよかった。全てがどうでもよかったのだ。しかし、ぼんやりとした黒い感情が、胸の中心にあって、それが堪らなくつらく、故に電車に飛び込みたくなっていることに彼女は気づく。

 だから彼女は、いつも乗りこむ電車がホームに入って来た時、いつも電車に乗り込むように足を踏み出し、電車の前へと躍り出る。それは、彼女にとっては、電車の中へと足を踏み出すか、電車の前へと足を踏み出すかの差でしかなかった。

 背後で悲鳴が上がったのを聞いた直後、彼女の意識は断絶した。呼吸をするのと同じくらい当たり前の動作で、当たり前のことをしたまでだ。こうするしかないほどつらかったから、飛び込んだ。

 それは、全てに恐怖しなくなった自分への恐怖だったのだ。こうして、彼女は自分の胸の中にある黒い感情が何であるのかを知らずに逝った。



 一人の男がいた。若い男だ。一つの惨劇を、ビルの屋上からじっと見守っていたその男は、左手に持っていた本を広げる。そして、静かに謳う。

二〇一一年、五月二六日、午前七時五四分。
その惨劇を記録しよう。
遍く歴史を綴る本は、ここに在る。
歴史の闇など存在しない。
我々が、光照らし続ける限り。

 それは美しき歴史書。救われぬ人々に、埋もれ消え去る人々に、光を与えるモノ。
 一人の女性が魔物によって殺されたことを記し、男は静かに本を閉じる。
「それは誰が言ったか――」
 大国の王か、違う。探求する科学者たちか、違う。神秘を求めた魔女か、違う。誰かだ。名もなき誰かが、それを言った。
「誰かがそれを言った。曰く――」

曰く、夢の中には魔物が棲むという。
人がもっとも無防備になり、その精神に干渉しやすいのが、夢である。
故に、夢の中は魔物にとって恰好の狩り場となりうる。
過去、多くの魔物が人の夢へと干渉し、人々を手玉に取ろうとした。
しかし、多くの魔物は、それを成せなかった。
人の夢はあまりにも取りとめなく、手玉に取るどころか翻弄されたからである。
そんな中、人の記憶を呼び起こし、恐怖を食らう魔物が現れた。
標的自体が持つ記憶を介在させることで、夢を秩序立てて操作することに成功したのだ。
誰かがそれを、猩々(しょうじょう)と呼びだした。
曰く、夢の中には猩々が棲むという。
それは、新たな都市伝説――
誰かが叫んだ、都市伝説――



第三話『悪夢の猩々』



 今は、鏡の中に棲む魔物<真似師(ミミック)>との戦いから、一夜明けた朝なのか。だとすれば、五月二八日だ。それとも、もっと時が経ってしまったのだろうか。よくわからない。

 俺は、病院の白い天井を見上げながら目を覚ました。ぼんやりとした意識の中、様々なイメージが頭の中に流れ込んでくる。鏡の前から、真似師の用意した亜空間へと取り込まれ、その中で戦い、敗れ、意識を失い――気づくと自分の部屋へと帰ってきていた。涙を流しながら、俺が生きていることを喜んでいる精華を見て、俺はセイレーネスが真似師を斃したことを直感した。そうでなければ、俺はすでに死んでいたはずなのだから。

「やっとお目覚めのようね。今、朝だと思ったでしょう? ブー、ハズレ! もう一一時を過ぎています」

 ベッドサイドで声がして、俺はそちらの方を向く。首を少し動かしただけなのに、全身が酷く傷んだ。思わず仰け反った拍子に、全身がギプスで固定されていることを感じる。呻き声を噛み殺し、じわっと滲んだ汗が引くのを待ってから、更に首をひねった。俺の視線の先には、椅子に座ってファッション雑誌を読むセイレーネスの姿がある。

「き……」

 声を出そうとして、ひどく痰がつまっていることに気づく。何度か咳払いをしてから、俺は口を開いた。

「今日は、五月二八日か?」

「そうよ。何日も昏睡したりなんかしてないから、安心なさい。あと、ここはW大学付属病院で、あなたは海詩聖。『ひじり』はニックネームで、正しい名前は『さとる』」

「記憶喪失じゃねーよ」

 俺が小さな声で、しかし、しっかりとツッコんだのを聞いて、セイレーネスの表情が少し和らいだように見えた。

「真似師は……お前が斃しちまったんだな」

「ええ、かわいい弟を護るためですもの。当然のことをしたまでだわ」

「悪いな、弱い弟で」

「いいのよ、気にしないで。久々にいい運動になったし」

 どこまでが本音で、どこからが気遣いなのか、てんでわからない。努めて平素を装う彼女に、俺はそれ以上返す言葉が見つからずに沈黙する。俺が沈黙したのを確認するかのように、ひとしきり間を置いた後、彼女はファッション雑誌を脇に置いて俺の方へと向き直った。

「聖、わかったでしょう。あなた、弱いくせに無茶して、結局私に頼るしかなかった上に、精華ちゃんを散々心配させて――少しは身の丈が理解できたかしら?」

 説教を始めた彼女に、俺は返す言葉が見つからなかった。小馬鹿にされても、仕方がない。俺は、どうしようもない雑魚なのだ。

「素直に私の力をもっと使っていれば、こんな無様なことにはならずに済んだのよ。……でもまぁ、いい教訓になったでしょう。私も、いい機会になったと思って満足してるし」

 彼女はそう言うが、しかし、俺にとってはいい機会などとは言えそうにもなかった。自分の無力を実感し、絶望的な気分に陥っている。魔物と対峙するために、ただ一つ持っていると思っていた武器も、ただの気休めでしかなかったのだ。

「ああ。俺は、セイレーネスの力に頼らなければ、何もできない」

 俺は、思うより早く、そう口にしていた。そして、それを聞いたセイレーネスが、珍しく声を張り上げて怒鳴り出したのだ。

「聖、あなたちっともわかってないのね! いい、よく聞きなさい。<詩>の力が使えるかどうかなんて、この際反省しなくてもいいのよ。今、あなたが一番考えないといけないのは、考えてあげないといけないのは、精華ちゃんなのよ」

「精華の……こと……」

 俺はセイレーネスの言葉の意味がよくわからず、鸚鵡返しに呟いた。

「そう、精華ちゃんのこと! 彼女、ずっとあなたのこと心配して、泣いてたのよ? あなたも見たでしょう?」

 確かに、泣いている精華は見た。しかし、俺はセイレーネスが怒っている理由が理解できない。そうならないために、俺は今ある力を使いこなし、さらなる力を得るために精進していかなければならないのではないか。今からやるべきは、そういうことではないのか。

「大事なのはね、聖――あなたの体なのよ。あなたの体は、あなた一人のモノじゃないの。あなたのことを心配してくれる人がいるんだから、そのことを第一に考えなきゃダメよ。オトコ失格ね。本物のオトコなら、精華ちゃんのことも考えてあげて。彼女にとってのあなたが、どれだけ大事かも、考えてあげて」

 セイレーネスの言葉に、胸を抉られたような気がした。いや、正確には、掘り返されたのかもしれない。

 俺は今まで、自分にとっての誰か、ということは考えてきた。俺にとっての精華は掛けがえのない幼馴染だし、感謝してもしきれないほどの恩がある。その恩に報いるために、俺は努力しなければならないと、そう思ってきた。しかし、その逆は考えたことがなかった。つまり、精華にとっての俺、ということだ。

 何故、今までそれを考えてみたことがなかったのか。俺が我儘な人間だから、と説明すれば簡単だが、何か理由がある気もする。小学生や中学生の頃にある人格形成の段階で、そういう思考を覚える過程を飛ばしてしまったか。とにかく、セイレーネスに言われるまで、そういう考え方をしたことがなかった。

「あなた、何でもかんでも自分が犠牲になれば上手くいくと思っているでしょう? 違うわ。誰かの一方的な犠牲が、望ましいものであるはずがないのよ」

「アルマゲドンで、ブルース・ウィリス演じる主人公が犠牲になってみんなを助けたみたいにか?」

「ええ、アレは、良くないわ」

 一人の犠牲で、他の全員が助かるならば、進んでその犠牲になる――そんな自己犠牲精神は、称賛されるべきではないのだろうか。その人自身に栄誉を与えずとも、その精神の在り方は尊いものではないのか。

「私はね、聖……あなたに死んでもらったら、個人的にも悲しいし、あなたの死を嘆く精華ちゃんを見るのもつらいのよ。死ぬまではいかなくても、それは変わらないわ」

「理屈はわかる。だが、理解はできないな、正直。大事な誰かを護れずに生き残っても仕方ないし、大事な誰かを護るためなら必死で体を張っていきたい。それは、単なる身勝手なのか? 傲慢の一言で片づけてしまえるのか?」

「だったら、死ぬ時は、一緒に死んでしまえばいいのよ」

 唐突に、ドキリとするほどセイレーネスが冷たく言い放った。

「『俺が死ぬなら、一緒に死んでくれ』ってね。それくらい、我儘に生きればいいのよ。お互いにそう思えるのなら、もっともフェアじゃないかしら?」

「極論だな」

「ええ、そうね。……でも、仕方ないじゃない? 私はいつも、死んでも死にきれずに、男たちを見送ってきた女ですから」

 哀しみは、声にも顔にもない。しかし、セイレーネスの哀しみは、俺の魂へと伝わってしまう。彼女の哀しみを感じ、俺は初めて、当たり前のことに気づいた。

「そうか……そうだよな。俺、お前の哀しみがわかるんだな。魂が繋がってるんだから。逆に、俺の哀しみも、お前はわかっちまうんだな」

「ええ、そうよ。やっと気づいたの?」

 彼女と出会ってから今まで、それに気づいたことはなかった。俺は、とてつもなく鈍い男のようだ。

「心は、誰かとの関わりなしには存在し得ないのよ。覚えておくといいわ」

 そして、彼女はファッション雑誌を手にとって立ちあがる。

「あなたには、考える時間が必要ね。ゆっくりベッドの上で寝て、しばらく頭を冷やすといいわ」

 どうやら、病室を出ていくつもりらしい。ということは、いつもの放浪生活が始まるのだろうか。俺がそう思っているところへ、彼女の手の中から俺の財布が現れる。

「はい、財布返しておくわね。入院の一時金はカードで支払っておいたから」

「おう、助かっ――」

 俺はセイレーネスに礼を言いかけて、財布の中身の異常に気づく。

「――おい、札が一枚も入ってないんだが?」

「ああ、私が軍資金として抜いたから。あなたにはカードがあるし、問題ないわよね」

「お前ってやつは――」

「聖が生きてるのは、ひとえに私のお蔭なんだし、命の値段だと思えば、安いもんでしょう?」

「安すぎて逆にヘコむわ!」

「じゃあ、もっと徴収しといた方がよかったのか」

「俺からの徴収に頼らずに、自分で働けよ」

「考えとくわ」

 じゃあねーと手を振りながら、セイレーネスは病室を出ていってしまった。途端に、病室の中を静寂が包む。相部屋ではなく、完全な個室が用意されているのは、威の計らいなのだろうか。それとも、偶然なのだろうか。

「落ちつかねーな」

 呟いてみると、尚更落ち着かない気分になって来た。携帯音楽機器が手元にあれば、音楽を聞いて気を紛らわすこともできるのだが、生憎と用意されていない。ケータイが枕元に置いてあるが、イヤフォンを持ち歩いていなかったため、FMラジオや着うたを聞くこともできない。メールで誰かをお遣いに走らせることも可能だが、友人は全員大学で講義を受講している最中のはずだ。くだらないお遣いで学業を阻害するのは気が引けた。

 静寂の中にあると、自然と思考が働きだす。それも、普段持ち得ないような長時間の静寂の中に置かれると、普段は思わないようなことに思考が及んだり、すっかり忘れていた昔のことを唐突に思い出したりと、日常的な思考ルーチンから逸脱していくものだ。俺は、セイレーネスのことを思い出していた。



……



 セイレーネスとの出会いは、俺の人生の転機だったのかもしれない。高校に進学する際、下宿を始めることとなった、その初日――<半女鳥(セイレーネス)>を名乗る女性が、俺の前へと現れた。

「こんにちは」

 荷物の整理をしていた俺の部屋の中に、突如知らない女性が上がり込んできた。下宿の管理人さんか、学校の関係者の人かと思った俺は、間抜けにも「こんにちは」と挨拶を返していた。しかし、すぐに事態の異常に気づく。インターフォンの音はなかったし、扉の開閉の音もなかった。それなのに、女性が目の前にいる。

「あなた、誰ですか?」

 俺の背中に、寒気が貼り付いた。目の前の女性は、おそらく人ではないと、直感的に悟る。

「さぁて、誰でしょう?」

 女性は悪戯っぽく笑う。そこに害意はなかったが、底知れぬ恐怖を感じ、俺は思わず能力を解放した。頭の片隅がカチリと音を立てたように組み替わる感覚。想い、言葉にすることで対象を破壊する<詩>の力の行使するための安全バーを取っ払った状態だ。

「やけに怖い顔しちゃって――ああ、詩の力なら使えないわよ、多分」

「え……」

 その女性は、何と言ったのか。俺の能力の名前を言い当て、その能力を使うことはできないと言った。一体どういうことなのか――俺は理解できず、凍りつく。一瞬にして、相手の能力を看破する力を持った者――そんな強敵と出遭ったことなど、今までない。圧倒的な力の差を感じる。殺される――そう思った。数秒前まで色鮮やかだった世界から全てが褪せて、意味を失くす。

「あなたが今まで詩の能力を使えたのはね、私のお蔭なの」

 滅茶苦茶なことを言っているな、としか思わなかった。ただ、それらの言葉には意味はない。なぜなら、俺はもうすぐ殺されるのだろうから。

「あれ、何か反応してよ。独り言しゃべってるみたいで寂しいじゃない」

 勝者の余裕を見せながら、女性が俺に近づいてくる。

「ひょっとして、脅かし過ぎちゃったかしら?」

 俺の両肩をポンと叩き、真正面から女性が俺の顔を覗き込んでくる。俺は、最後の抵抗を試みようと、口を開きかけた。しかし、俺の声は、次に女性がとった行動によって発せられることなく終わる。

「怯える顔も可愛い!」

 そう言うと同時に、女性は俺を思いっきりハグしてきた。豊満な胸の谷間に、顔を埋めるような恰好になる。声が出せなかった。

「怯えなくても大丈夫よ。私は、あなたの能力そのものなの」

 そう言われても、俺は混乱しすぎて全く理解できなかった。徐々に落ち着きを取り戻して、やっと彼女の話を理解することができるようになるには、半時間ほどの時間を要しただろうか。

「あなたにとっては初めましてね。私は詩の能力を行使する魔物<半女鳥(セイレーネス)>よ。色々と話しておきたいことがあるんだけど、どこから話そうかしら」

 それから彼女は、休む間もなく次々と色んな話を聞かせてくれた。俺と彼女は<魂の契約>という遺伝性の契約で結ばれており、俺が生まれた時から彼女は俺の中に潜んでいたこと。俺が使っていた能力は、俺本来の能力ではなく、全て彼女の能力を借りているにすぎなかったこと。いつでも実体化することができたが、俺が一人暮らしを始めるまでは自身の存在を隠しておこうと決めていたこと。

「海詩の家系は常に能力者を輩出していたから、能力を使っても問題ないって思ったの。だから、あなたが小さな頃に、ご両親にアピールするつもりで何度かデモンストレーションをして見せたんだけど――」

 海詩の家系は、セイレーネスと魂の契約を交わしているため、宿主となった人が死ぬと次の世代へと契約が引き継がれる。新たな宿主をアピールするため、セイレーネスは力を披露して見せるようにしてきたのだ。しかし、俺の両親は、今までの海詩の一族とは違った。能力者やセイレーネスのことについて、何も知らなかったのだ。

「あなたの親の代から、知識を伝承されなくなったみたいね。そんなことになってるとは思わなかったわ。おかげで、あなたは呪われた子どもだと思われて、何度もお祓いされたのよ。私も悪いことしたと思って、実体化はしばらくしないことにしたの。もし実体化してたら、あなたの立場がますます危うくなっただろうから」

「つまり、俺は――お前のせいで、家族から除け者にされたってわけか」

「ええ、そうよ」

 その瞬間、俺の中に広がった感情は、彼女への恨みではなかった。滑稽な自分への、嘲り。

「俺は今まで、自分の力のせいで家族に除け者にされてきたと思ってきたが――自分の力のせいじゃなかったのか。俺は第三者に翻弄されてきただけだったのか。笑っちまうな」

「聖……」

「謝罪の言葉ならいらないぞ。悪いのは、お前だけじゃないからな」

 両親に知識を伝えなかった祖父母、そのことを知らなかったセイレーネス、俺を呪われた子どもと断じた両親、何も知らなかった自分自身――全てが、煩わしく思った。

「謝らせてもらえないか。困ったわ」

 あまり困った調子もなく、セイレーネスが苦笑する。その態度に、少し苛立ちを覚えた。

「魂の契約っていうのは、解約できないのか?」

「クーリングオフの適用期間は過ぎてるわね」

「バカにしてんのか?」

 彼女の言葉はあまりにも不誠実で、俺はまずます苛立つ。しかし、彼女の次の一言で立場が急転する。

「でも、契約解除しても大丈夫かしら? 契約者じゃなかったら、私はあなたを簡単に殺せる」

 何でもないことのように、彼女はさらりと言ってのける。それがまるで「あなたを殺すことくらい、息をするのと同じくらい些細なことだ」と宣言したように聞こえて、寒気が奔った。心臓を鷲掴みされたような気分になった俺は、慎重に言葉を選ぶ。

「……そうするメリットはあるのか?」

「何となく殺したくなったから殺す、っていうこともあるかもしれないわよ?」

 やけに曖昧な物言いだった。真意を掴みかねて何も言えない俺に、彼女は微笑む。

「つまり、私を信用できないなら、なおのこと解約はしない方がいいってことよ」

 それとも、信用できるの? と問いかけてくる彼女に、俺は首を横に振ることで応えた。

「それに、あなたには能力を扱うための特訓と、師匠が必要よ。だから、今日からよろしくね」

 こうして彼女と俺の関係は、圧倒的強者と、その足元を飛び回る猩々蠅のようにして始まった。救いであったのは、彼女が権威に無頓着で、常に俺と対等に接してくれたことだ。

「ああ、ダメダメ。もっとイメージしないと」

「してるつもりなんだけどな」

「才能ないのかもね」

「くそー」

 しかし、彼女は全般的にいい加減で、師匠をやると宣言しておきながら、ほとんど俺をほったらかしだった。おかげで俺は、自分一人で根性練習をするハメになったが――能力を使える兆しはなかなか見えてこなかった。俺は<詩>の能力を使う能力者から、魔力の強い一般人へとランクダウンしたのだ。

「自分の身も護れないなんて、情けない」

「でも、魔力が減ったわけじゃないわ。素質はあるんだから、後は技術さえ身につければ大丈夫よ。まぁ、死ぬまでにその技術を会得できるか、甚だ怪しいところではあるけど」

 無責任に励ましたり貶したりするセイレーネスに、何度腹を立てたかわからない。

 憂慮すべきは、他にもあった。

「聖、お腹減ったー、ご飯作ってー」

「聖、トイレ汚いわよ。掃除しないと」

「聖、お菓子なくなったから、何か買ってきて」

 俺は、盛大にパシられた。それについて文句を言うと、彼女は「年長者をたてるのが自然でしょう?」とか「若い時の苦労は買ってでもしろって言うでしょう?」とか「あなた、昔一度死にかけたでしょう? あの時は私が助けてあげたから、死なずに済んだのよ。命の恩人には尽くして当然じゃないかしら?」とか、いろんな理由をつけて撥ね退けられるのが常だ。何もしない彼女への対抗手段として、俺自身も何もしないことにした。食事の準備だけは、サボるわけにはいかなかったが、その他のことは彼女の要望を一切無視した。結果、俺の部屋はひと月と経たないうちにゴミ捨て場のように荒れ果てていくこととなる。

 好き勝手やっていたセイレーネスだったが、今のように豪遊することはなかった。

「純朴な高校生男子が、月に何十万円も使いこむのは不自然よね」

 高校生当時から、毎月数十万単位のお小遣いが俺名義の口座に振り込まれていた。経済的には不自由のない環境にあったが、セイレーネスはそれを使いこむことはせず、ひたすら留守番をして時間を過ごしていた。そのせいでヒマを持て余しすぎて、部屋の掃除をしてくれていることもあった。

「明日は雪か槍でも降るのか」

「寝転ぶスペースが確保できなかったから片づけただけよ」

「あれ、ここに置いてた車雑誌はどこにやった?」

「ああ、それなら古雑誌の束の中に入れて括っておいたわよ」

「バカヤロウ! あれは借り物なんだよ」

「知らないわよ、そんなの」

「誰も頼んでないんだから、余計なことはしてくれるな」

「大事な借り物くらい、ちゃんと管理しときなさいよ」

 まるで、母親と子どものようなやり取りだ。俺とセイレーネスは、互いが保護者だった。



[27529] 町に佇み 第三話『悪夢の猩々』 Part2
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 19:50
 どれだけ時間が経ったのか。全身の傷みに悩まされ、疲労感があるわりには昼食後に一睡も出来ず、いつの間にか夕方を迎えていた。便の吸引は恥ずかしいので、何とか自力で用を足すために一度ベッドから起き上がったが、たったそれだけのことが酷く重労働だった。

 カーテンの開け放たれた窓から見える西日は朱く、朝日のように眩しい。今頃、大学も終わってみんな思い思いの時間を過ごしているのだろうと思っている、その時だった。

「ひじりちゃん、大丈夫?」

 病室の扉が開くと同時に、精華の声が聞こえた。その声を聞いた瞬間、体の痛みが半減していくような感覚に囚われる。精華の声を聞いて、俺は嬉しくなったのだ――思い思いの時間を、わざわざ見舞いに使ってくれる存在のいてくれることに、感謝して。

「ああ、酷い有り様だけどな」

「よかった、命に別状ないみたいで」

 遠慮がちに、精華が部屋の中へと入ってくる。

「意識は鮮明? もう会話しても大丈夫だよね?」

「ああ」

 俺が頷くと、彼女はストールを畳みながら、ベッド脇の椅子へと腰を降ろした。

「でも、セイレーネスが力を貸してくれたら、もっとケガの治りって早いんじゃないの?」

「これ、わざとらしい。頭冷やせって、叱られたんだよ」

 俺の返答を聞いた瞬間、精華が目を丸くする。

「え、叱られたって、あのセイレーネスに?」

「そうだよ」

 信じられないと呟きながら、精華は目をぱちぱちさせる。

「ああ見えて、俺の保護者気どりなんだよ、あいつは」

「ひじりちゃんからお金もらってるくせに、ヘンなの」

 精華は感心した様子もなく、セイレーネスの行為を「ヘンなの」の一言でバッサリと斬り捨てる。精華は、大学に入ってからの彼女しか見ていないから、特にそう感じるのだろう。高校の頃は、あれで結構保護者代わりに色々とやってくれたものなのだが――それを説明するメリットを見出せないので、俺はセイレーネスの弁護は行わない。彼女は、他者からの評価に無頓着なのだ。弁護したところで、彼女は大して喜ばないに違いない。

「セイレーネスから、どんな叱られ方をしたの? 無茶するなって?」

「だいたいそんなところだな」

 精華のことを気づかってやれ、と言われたことなど、恥ずかしくて白状できるはずもない。

「日ごろのグータラっぷりで、よくもまぁ説教なんてできたものね。その神経を疑うわ。そういう子いるのよね、自分もできてないくせに、そのことは棚上げで、他人に説教できちゃうタイプ」

 あーヤダヤダ、と精華は首を大きく横に振る。さしものセイレーネスも、この場にいれば怒っていたかもしれない。

「俺が悪かったのは間違いないし、仕方ないさ。誰かが怒ってくれなきゃ、悪いところも直せないからな」

「じゃあ、私からも怒ってあげよっか?」

「二度手間だからいい」

「残念、美味しいトコをセイレーネスに取られちゃったか」

 心底残念そうに肩で息をついてみせる精華。ここまで足を運んできたのだから、言っておきたいことも山積のはずだ。

「どうしても言っときたいことがあるなら、言ってくれていいぞ」

「多分セイレーネスが言ってくれてるから、いいわ。それに、今のひじりちゃんにこれ以上肉体的負荷だけじゃなくて精神的負荷までかけるのは、気が引けるし」

「俺の体のことなら大丈夫だ。気にするな」

「ほら、ひじりちゃん、今のセリフだめだよ」

 わかってないなー、と精華は眉を顰める。

「セイレーネスにも言われたんじゃない? もっと自分の体大事にしろって」

 図星だった。どう答えたものか考えあぐねていると、精華は微笑しながら席を立った。

「無理させたら悪いし、もう帰るね」

「おい、もっとゆっくりしていってもいいんだぞ?」

 あまりにも早い彼女の退室に、俺は待ったをかける。わざわざ見舞いに来て、五分と滞在しないのはいかがなものかと思ったからだ。ここまで足を運ぶ労力と時間に見合う成果は充分に上がったのだろうか。

「今日の目的はひじりちゃんの姿を見ることだったから、もう達成してるのよ」

 それとも――そう言って、彼女は真顔になって俺の瞳を真っ直ぐに見つめてきた。

「もっと傍にいてほしい?」

 彼女が、俺を本気で心配してくれていることが伝わる。疲れた俺の心を気づかっての、真摯な眼差しだった。

「いや、精華にも予定があるんだろう? 忙しいのにわざわざ来てくれてありがとうな」

「そんなに多忙な生活は送ってないよ」

 そう言いながら、彼女は何故か悲しげに微笑んでいた。

「でも、ひじりちゃんが一人でゆっくり反省する時間を邪魔するのは悪いし、忙しいってことにしとこうかな」

「忙しいっていうのは、嫌味じゃないからな?」

「わかってるよ」

 彼女の微笑みから、悲しげな気配は消えていた。先ほどの表情は俺の勘違いだったのではないかと思わせるほど、あっさりと。

「あ、そうだ。忘れるところだった」

 精華はポンと手を打つ仕草をした後、担いでいたショルダーバッグから雑誌を取り出して俺に手渡して来た。俺はその雑誌の内容を把握すると同時に、凍りついてしまう。

「男の子のことはよくわからないけど、多分必要かなと思って」

 それは、成人雑誌だった。

「何だよ、これは」

「見舞い品」

 そんなことはわかってる、と言おうとして、恥ずかしさのあまり咄嗟に口が開かなかった。一方の彼女は、さも当然のような顔をしている。彼女の方が、俺より何枚も上手なようだ。

「反応に困る見舞い品だな。でもまぁ、ありがとうな」

「使えるほど体が自由にならないかもしれないけど。無理してシコっちゃだめよ?」

「そういう言葉、平然と言うなよ。聞いてるこっちが恥ずかしい」

「ひじりちゃんったら、初心なんだから。かわいいー」

「うるせー」

 酷く小馬鹿にされてしまったが、彼女の笑顔を見ていると、反撃する気にはなれなかった。俺には彼女を心配させ、泣かせた前科があるのだ。しばらくは、罪滅ぼしの期間が必要なのではないか。

「かわいいひじりちゃんの姿も拝ませてもらったし、私の目的は全部達成したかな。あとは、ひじりちゃんが一人でしっかりと反省してくれれば完璧」

「努力するわ」

 無理してやっちゃダメよ、と念を押してから、彼女は病室を出ていった。彼女の白いストールが、やけに脳裡をちらつく。彼女がいなくなった後もしばらく、残滓のように温かさが胸の中にあった。その温かさに触れているうちに、再び思考の海へと落ちていく。

 最初は、真似師にやられた後、意識が戻った際の精華の泣き顔を思い出していた。そのうち、彼女の子どもの頃の泣き顔を思い出し、彼女との幼少期の思い出を順に思い出すに至る。



 俺と精華の初めての出会いは、四歳の時だった。海詩の豪邸のすぐ隣に新しい豪邸が建ち、一人娘を連れた若い夫婦が移り住んできたのだ。その一人娘が、山ノ井精華だった。

 俺の家に精華の両親が挨拶に来た時、その背後に隠れるようにして立っていたのが、初めて見る彼女の姿だった。その時の俺は、彼女のことを気の弱そうな子だと思ったことを覚えている。しかし、それは間違いであることに、間もなく気づかされることとなった。

「ひじりちゃん、こんにちは」

 彼女の両親に招待され、初めて山ノ井家に遊びに行った時、すでに俺は何故か「ひじりちゃん」と呼ばれていた。後々になって精華の母親から聞いたところによると、引っ越し直後、海詩家に挨拶に行った日の夕食の席で、彼女が「『聖』っていう漢字で『さとる』って読むのね。いい名前ね」と言ったのに対し、夫が「『ひじり』とも読めるな」と言ったのが原因なのだろうと言う。

「多分、その時の私の趣味に、『ひじり』っていう響きが合ったんじゃないかしら?」

 と、精華本人すらきっかけを忘れているから、原因となった出来事はこの一時しか考えられないらしい。しかし、

「だったら、何で未だに『ひじり』なんだ?」

「だって、ひじりちゃんはひじりちゃんだし」

 と今でも真顔で言う辺り、彼女も困ったもんである。初対面の時から、ずっとこうなのだ。

「俺の名前、ひじりじゃないし。さとるだよ」

「ええーひじりちゃんがいい」

「イイとかワルいとかじゃなくて、さとるなの」

「ひじりちゃんはひじりちゃん」

「さとるだって言ってるだろ」

「ううう、ひじりちゃん、怖い」

「おい、なんで泣くんだよ。わけわんねーよ」

「どなんないでよ」

「どなってない!」

 とまぁ、こんな調子で最初は精華のことが苦手だった。何なんだコイツ、としか思えなかったのが正直なところだ。精華は、わけのわからないくらい頑固で、しかも俺が好意を寄せる素振りを見せなくても、毎日のようにすり寄ってきて、ラブラブ攻撃を仕掛けてくるのだった。最初は照れて本気で嫌がっていたが、途中から折れたのか、あるいは満更でもなかったのか、気づけば二人で仲良く遊んでいることが増えた。

 幼稚園でも自宅でも、ままごとやお人形さん遊びのようなことばかりやっていた気がする。いや、純粋なままごともあまり行われなかった。ままごとの包丁を刀に見立て、チャンバラごっこを始めた俺に、精華も合わせて人参で鍔迫り合いをしていたこともある。他の園児たちも巻き込んで、人情劇の様相を呈することすらあった。

 小学校に上がると、抱きついてくることはなくなったが、それでもいつも一緒に遊んでいた気がする。よく「ラブラブだー」と男子連中にからかわれたが、その頃の俺は多少なりとも打たれ強くなっていたらしく、「あーそうさ。モテないお前らには、うらやましいだろー」と逆にからかい返していたことを何となく覚えている。今思えば、それは精華に余計な気を使わせないための、精一杯の気づかいだったのだろう。俺の努力の甲斐あって、小学生の間は常に一緒にいることができた。

 転機は、中学生の時だった。クラスが別になり、違う部活に所属し、登校時間も合わなくなっていった結果、自然と疎遠になっていったのだ。互いに避けていたわけではない。ただ単に、合う時間が減っていっただけだ。どうしてもクラスの連中や部活の仲間と一緒に過ごすことを優先してしまい、精華と一緒にいることが難しくなった。それでも、彼女の方から俺に会いに来てくれることは何度もあった。

 その頃から精華と自分が性別の異なる存在であることを意識し始めたのかもしれない。彼女が髪をかき上げる仕草を見て、妙にドキりとした。それと同時に、俺はこうも思った。

「俺と一緒にいると、精華のためにならないんじゃないか」

 と。この頃の精華はどんどん色っぽく成長していたが、誰かと付き合っているとか、告白されたという話は全く入って来なかった。つまり、そろそろ恋愛の一つや二つがあってもいいようなものを、俺といるために他の男子が近づいてこないのではないか。俺は、そういう風に考え始める。彼女とは、一度距離を置いた方がいいのではないか、と。

 そのことは、高校進学と同時に実現する。両親から少しでも離れて暮らしたかった俺は、遠方の学校に下宿を探して通うことになった。九年間同じ学び舎で過ごしてきた二人が、初めて離れ離れになる瞬間だった。

 俺が遠方の高校に進学することを告げた時、彼女は今にも泣き出しそうな顔をしながらも、俺を励ますように言ってくれた。

「お互い、頑張ろうね」

 彼女は、自宅から通うことのできる学校へと進学を決めていたので、俺についてくることはできなかったのだ。まるで、自分の半身のようにして共に生きてきた九年間を想い、卒業式の日はお互いに泣きまくった。

「今生の別れってわけじゃないんだから、泣き過ぎだろ」

「ひじりちゃんも、泣いてるじゃない」

「目薬点したんだよ」

「いくらなんでも点しすぎだよ」

 俺は、小さな頃から家庭内では孤立していた。俺に<詩>の力があることがわかってからというもの、両親は俺のことを不吉な子だとして、恐れるように接して来たためだ。年の離れた兄は、将来を期待できる有能な子だとして、両親の愛情を独占するカタチになった。俺は両親に愛情を注いでもらえないと思い、兄に嫉妬し、両親を憎み、親からの愛情を精華の両親へと求めた。そして、俺のことをもっともよく理解してくれたのが、精華だった。

「ひじりちゃん、私がいなくても大丈夫? 寂しくて死んじゃわない?」

「精華こそ、俺以外の男子とも仲良くしてやれよ」

 俺たちは、互いが最高の理解者だった。お互いに、そのことを自負していた。だが、高校という三年間のブランクが空いてから再開した今は、どうだろう。俺は、正直彼女のことがわからなくなった。今でも、最高の理解者である自負はある。しかし、彼女のことが、わからなくなっているのだ。自然と掴んでいた互いの距離の取り方も、今はわからない。

 近頃の精華は、まるで俺を誘うかのように、視線を送ってきたり、冗談を言ってきたりする。それは、おそらく俺の思い込みで、格別意味はない所作なのだろう。すっかり大人の色っぽさを備えた精華に、俺が一方的にドキドキしているだけなのだ。しかし、もしも――と思う。

 もしも、彼女が本当に俺に対して色目を使っているのだとしたら、俺はどうすればいいのだろう。彼女の想いに答えてしまっていいのだろうか。

「いやいや、その『もしも』は、ないな」

 俺は、首を振って膨らみ始めた妄想を振り払う。でも、ひょっとすると――俺が勘違いして彼女に告白したとしても、彼女は俺を拒まないのではないか。本意ではなくても、俺との関係が壊れることを怖れて、拒めないのではないか。俺と彼女の関係には、そんな危うさがあるような気がする。きっと、俺たちは互いに依存しすぎているのだ。

 依存といえば、俺にはもう一人――そうできる存在がいた。高校に進学するまで精華しかいなかった理解者が、二人に増えたのだ。



[27529] 町に佇み 第三話『悪夢の猩々』 Part3
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 19:52
 白葉絵里という女の子は、まるで空気のように存在していた。確かにそこにいるが、そこにいてもいなくても変わらない。彼女が欠けても、クラスの営みはおそらく変化しないだろう。それは、彼女自身が故意にそう振舞っているために起こる現象だった。

 高校に進学し、オリエンテーション期間の一週間が終わろうとしていた頃だった。俺はふとしたきっかけから、彼女の存在に注目した。

 古来、日本では忍者が得意としてきたであろう気配を消す業――その業を会得し、日常生活全般に応用している。能力者として勘の鋭い俺は、彼女のその能力を見抜き、常に観察していた。思えば、精華以外で意識した同世代の異性は彼女が初めてだったのかもしれない。

 出会いは、まるで漫画のワンシーンのようだった。教室の外側からドアをスライドさせて開けようとした俺の動きと、教室の内側からドアをスライドさせて開けようとした彼女の動きとが、寸分の狂いもなく一致したのだ。その結果、俺と彼女は正面衝突した。俺が下を向いていたので、ちょうどおでこ同士をコツンとぶつける格好となった。彼女が「きゃっ」と小さく悲鳴を上げたのに対し、俺は大いに驚き、教室中に響くくらい大きな声を出してしまい、みんなから笑いものにされてしまった。そして、その時、彼女の気配の薄さに気づいたのだ。常に周囲の流れを感じ取っている俺にとって、ただの人間の女の子の気配の一つや二つ、造作もなく把握できる。それができなかったということは、つまり、彼女は普通の人間ではないということに他ならない。

 その出来事以来、俺は彼女のことを目で追うことが多くなった。彼女のことが気になって仕方ない。もっと、彼女のことが知りたかった。しかし、どうやれば自然に声をかけることができるのか、俺はなかなかきっかけを掴めずにいた。だから、彼女から俺に声がかかったのは、渡りに船だった。

 放課後の教室、部活に行く準備をする生徒たちの会話が洪水となって教室を満たし出した瞬間を狙って、彼女が俺に近づいてきた。

「どうして私を見てるんですか?」

 こんなに頑張って気配を消しているのに――という続きの言葉が聞こえてきそうだった。口調は穏やかだったが、トゲが混じっている。彼女が警戒心や不快感を抱いていることは間違いようがなかった。どう返答したものか、俺は悩んだが、間が空くと余計に彼女の警戒心を刺激しそうだったので、正直に告げることにする。

「どうして気配を消しているのか、気になるからだよ」

 そう言った瞬間の彼女の顔には、くっきりとこう書いてあった。

「私を気にする人なんて、今までいなかった」

 と。驚きと恐れの色が、彼女の顔に浮かぶ。

「どうしてなんだ?」

「教える必要を認めません」

 クラスメートのくせに、随分よそよそしい口調だと思った。この辺りも、彼女の特徴なのだろうか――自分と他者の境界線をきっちりと引いてしまうところ。

「もっとみんなと仲良くやっても、バチは当たらないと思うんだが」

「そういうのは、あなただけでやってください。私には必要ありません」

 にべもなく言う。どう声をかけたものか、俺は言葉に詰まって彼女の顔を見つめた。大きな瞳が、俺を見つめ返してくる。いや、睨まれていた。ただ、睨まれていようと、その瞳に惹かれずにはいられなかった。

「綺麗な瞳だな」

 普段なら、こんなにストレートに相手を評価することなどしない。しかし、気づけば俺はポロリと漏らしていた。そうするのが自然であるかのように思えたからだ。客観的に見ても彼女の瞳は大きく、鼻立ちもくっきりとしている。クラスの女子の中ではかなりかわいい部類に入った。

「お世辞なら、他の女の子に言ってあげてください。私には必要ありません」

「君以外の子に言ったら嘘になるから、言わない」

 あの時の俺は、どうにかしていた。こういうのを、一目惚れというのだろうか。大して相手のことを知らないくせに、いきなり告白めいたことを口走っていた。

「何なんですか、あなた。私を口説いてるんですか?」

「そういうつもりはなかったんだけど、気づいたらそうなってた」

「冗談なら、もうやめてください。もっとかわいい女の子はたくさんいると思いますから、どうぞそういった女の子たちに言ってあげてください。私には必要ありません」

 私には必要ありません――彼女の口から、頻繁に漏れる言葉。その言葉を繰り返し聞けば聞くほど、遣る瀬無い気持ちになっていく自分がいた。

「君さぁ、さっきから何度も『私には必要ありません』って言うけどさ……本当にそうなの? 何でもかんでもそうやって撥ね退けるんじゃないの?」

「だったら何か問題でもあるんですか? 私の人生に口出しする権利が、あなたにはあるんですか?」

 普段は空気と同化することに徹している彼女が、少しずつ声を荒げ出した。周囲にいるクラスメートが、何事かと一瞬こちらを振り向く気配があったが、彼女がそれに気づく様子はない。

「そう言われると、何も言えなくなるな。でもさ、俺には君が色んなことを我慢してるようにしか見えない。そんなに我慢してて楽しいの?」

 俺がそう言った瞬間、彼女は黙り込んでしまった。核心を突いたのだと思い、俺は更に畳みかける。

「楽しくないんだろ?」

「楽しめるわけないじゃないですか、生きてることなんて!」

 それまで何とか押し殺していたであろう感情が、急に膨んだ。直後、教室中にいた全ての生徒の視線が自分に集まったことに気づいた彼女は、逃げ出すように廊下へと走り出していた。このままにしておけば、完全に彼女の居場所もなくなるし、俺の立場もなくなる。やれやれと思いながら、俺は彼女の後を追った。

 彼女の俊足はなかなかのもので、男の俺でもいったん見失ってしまうほどだった。しかし、使用されていない視聴覚室へと逃げ込んだ彼女の僅かな気配に気づいた俺は、遠慮がちにゆっくりとその中へ入った。怯え、後ずさる彼女に、俺は出来得る限り真摯に呼びかけた。

「待ってくれ。別に俺は君を傷つけようなんて思ってない。ただ、俺自身が能力者だから……君みたいな能力者が気になったんだ」

「あなたも、能力者なんですか?」

 そして俺は、彼女の警戒を解こうと必死で自身のことについて説明した。<詩>の能力を持っていること、契約していた魔物が力を貸してくれないため、今は能力を使えないこと、子どもが能力者であることをおそれた両親から充分な愛情を注いでもらえなかったこと、唯一の理解者は幼馴染だったこと。

「俺は、幼馴染の精華がいて、彼女の両親がいてくれたから、ここまでやってこれた。もし、精華と出会えてなかったら、俺も君みたいな生き方を選んでいたかもしれない。だから、ほっとけない」

 それは余計なお節介であるとか、偽善であるとか、そういった類の反論を呼びやすい行為である自覚はあった。でも、俺は彼女にそう告げずにはいられなかったのだ。他人事とは、思えなかったから。

「……私は、そんなに危なっかしく見えますか?」

「見えるよ」

 釈然としないように、顔を顰めたままの彼女。この場をどう切り抜けたものか、思案しているようだった。かく言う俺も、勢いで彼女に話しかけていたが、一通り話し終わると、途端に迷子になってしまう。

「私は、今の生活を変えようと思ってませんし、あなたに助けてもらうつもりもありません。でも、少しは私の生い立ちも話しておきます」

 そして彼女は、躊躇いがちに語り出した。

「私は、魔力を吸い取る妖怪<白妖(はくよう)>の血を引いています。白葉(しらは)という名字も、ここから来ています。とは言っても、今ではすっかり血も薄くなり、一族に能力者も殆どいません。地味な能力ですから、能力者でない者たちは――両親ですら私が能力者であることを知りません。そのことを知っているのは、父方の祖母だけです。祖母も、能力者ですから」

 今まで、誰にも話したことがなかったのだろう。声は硬く、緊張しているのが手に取るようにわかった。

「祖母には、慎ましく生きるように諭されました。その祖母も私が小学四年の年に亡くなり、私は能力者として孤立しました。誰にも迷惑をかけずに生きよう――そう思った私は、なるべく人と関わらずに生きる道を選びました」

「だから、そんなに人を避けるようにして生きてるのか」

「そうです、ご理解いただけました? だから、私の生き方を邪魔しないでください。静かにしておいてください」

 俺は最初、彼女が心を開いてくれたから、話をしてくれたのだと思った。しかし、そうではなかった。彼女は、俺を拒絶するために、わざわざ生い立ちを暴露したのだ。

「静かに生きなきゃいけないなんて、誰が決めた? 君が勝手に作ったルールだろ? どうして、そんな楽しくないルールを作ったんだ?」

「慎ましく生きるためです。全ての禍を遠ざけるためです」

「そんな人生、間違ってる」

 他人の人生をとかく言えるほど、俺は立派な人間じゃないし、いかに立派な人間であろうとも、それを言う権利はない。しかし、俺はきっぱりと言い放っていた。それも、自信満々に。

「あなた、何様なんですか?」

「禍を怖れてるなら、今日からその必要はない。どんな禍が来たって、俺が一緒にぶつかっていってやる」

 それはどう聞いても、告白どころかプロポーズだった。その言葉に、彼女の怒りが色濃くなる。

「そうする力が、あなたにはあると、そう言うんですか?」

 言いながら、彼女が俺へと近づいてくる。先ほどまで俺に怯えていたはずの彼女から、その気配は消え去っていた。代わりに、殺意にも似たオーラを身に纏いながら――。俺は逃げることもできず、その場で棒立ちになる。その俺の右肩に、彼女の右手が乗っかった。

 直後、俺の体内から急激に魔力が失われていくのがわかった。堪らず膝を追って崩れるように地面に手をついた俺に、彼女は冷ややかに笑いかける。

「その程度の力で、私と一緒に生きていけるんですか? 身に降りかかる火の粉すら振り払えないんじゃないですか?」

 その瞬間、熱く滾っていた俺の心は一気に凍りついた。戦力外通告を受けたプロスポーツ選手も、こういう気持ちになるのだろうか。まとまらない思考の中で、そんなことを思いながら、俺は茫然とその場に崩れたままの姿勢でいた。絵里が部屋を出ていくのを感じながらも、それを追う気力は湧いてこなかった。俺は、彼女にフラれたのだ。その日以来、俺の特訓が本格化した。

 彼女に振り向いてもらうため、必死だった。何も教えてくれないセイレーネスは当てにならないため、一から自分で考える必要がある。まず<詩>の力だが、これは物体の固有振動数にチューニングして共振による崩壊を導き出すことが基本となる能力だ。発展型として、概念レベルでの破壊があるが、今の俺には到底マネできるものではない。まずは、共振を効率的に引き起こす練習をする必要があった。

 最初は、イメージし、次に言葉に発してみるということを繰り返し、空き缶や枯れ枝などの破壊を試みたが、全く上手くいかなかった。傷をつけることすらできなかったのだから、絶望的だ。方向転換の必要性に気づいた俺は、単純な物理衝撃に共振の力を加えるという方法を思いつく。つまり、パンチやキックの衝撃に<詩>の力を上乗せすることで、破壊の力を増幅するという方法だ。

 これは大成功だった。実際にモノを殴るという行為を必要とするため、かえってイメージが湧きやすかったのだ。学校の裏山に生える木を一本選び、幹に薄いマットレスを巻き付け、マットレスの上から幹を殴り続けた。最初は手を痛めるだけで終わっていたが、だんだん感覚を掴めるようになってきた。木を殴った瞬間に生じる衝撃――それが、俺の頭の中で短く跳ね上がる波としてイメージされ刻み込まれる。その波をイメージしながら、俺は木の幹を殴り続けた。それまで抉れる様子すらなかった木の幹はどんどんへこんでいき、二週間後には木の幹に穴を空けることに成功したのだった。

 このことに手ごたえを感じた俺は、空き缶でも練習を重ね、木端微塵に吹き飛ばすまでに力を伸ばした。そして俺は絵里を呼び出し、それを実演してみせた。

「君のことを守れるように、特訓したんだ」

 誇らしげに宣言した俺に、彼女は呆けた顔で一言呟いた。

「バカじゃないの?」

 彼女は、本気で俺のことをバカだと思っていたのだろうし、心を開いたつもりも全くなかったのだと思う。しかし、俺は気づいた。彼女の口調が、タメになっていることに。

 この日を境に、俺と絵里の付き合いは始まった。とは言っても、最初は一方的に俺が絵里に振り向いてもらおうと頑張っていただけだった。彼女はそんな俺を迷惑そうにあしらうばかりで、全く相手にしてくれなかった。でも、俺のあまりのしつこさに折れたのか、次第に会話をすることが多くなっていった。そして、彼女から告白の返事をもらうこともなく、自然発生的に俺たちは恋人関係へと発展して行ったのだった。

「聖って、すんごい忍耐強いね。私、かなり酷いことしてきたと思うけど」

「そういうのも、絵里が俺に与えた試験だと思うと、頑張れた」

「ああ、単にバカなんだ」

「バカな男の方が御しやすくていいだろ?」

「あなたが御しやすいわけないっしょ」

 部活帰り、俺たちはいつも二人で話しながら歩いた。

「聖は、本当に私のことが好き? 異性として?」

「もちろん」

 彼女の目を見つめながら即答した俺に、あからさまに照れた様子で彼女は顔を逸らして――右手を、俺の左手へと絡めてきた。

「こういうの、やってみたかったんだ」

 彼女の華奢な指は、ほんのりと温かかった。その温かさを壊さないように、そっと握り返す。ずっと、二人で歩んでいける――その時の俺には、すでに確信があった。



……



 絵里のことを思い出す度、俺の心は空っぽになる。彼女は、死んだ。彼女と歩むはずだった未来は、訪れない、永遠に。

「絵里……」

 呟いて、俺は左手を握りしめた。その華奢な温もりの残滓を感じたくて、ゆっくりと、何度も。しかし、温もりは戻らない。

 すっかり夜になり、孤独が増す。病室は空調によって温度も湿度も徹底管理されているはずだが、心なしか肌寒く感じた。布団の中に潜り、俺は押し寄せてくる孤独に必死で耐える。この孤独を癒してくれるのは、死んだ絵里なのか、それとも精華や紀次、プレゼミの仲間たちなのか。

「絵里……」

 今の生活を支えてくれているみんな――特に精華には申し訳ないが、俺の心は未だに絵里との思い出によって成り立っている。己の全てを擲(なげう)ってでも共に生きようと思えた、唯一の存在が彼女なのだ。簡単に忘れ去れるはずがない。とは言え、死者のことを生者よりも大事に考えることへの罪悪感も大きい。満たしきれない孤独と、恩知らずの自分への叱責。心が弱くなった時、そんな夜には、いつも繰り返す――卑しい思考だ。

 早く眠りたい。早く眠ってしまって、この思考から抜け出したいと思った。そうしないと、いつか俺は壊れてしまうから。強張った全身の筋肉を意図的に弛緩させ、努めて楽な姿勢を心がける。そうしているうちに、いつの間にか眠りに落ちていることを期待して――。



[27529] 町に佇み 第三話『悪夢の猩々』 Part4
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 19:52
 そこは、青い部屋の中だった。青いだけで、何もない部屋。

「見てはいけないよ」

 姿はどこにもないが、猿の声が聞こえる。人を食ったような、嘲りの声。その声は甚だ不愉快なものだったが、部屋の青色がそれにも増して不愉快な色だったので、不承不承俺は目を閉じる。

「聞いてはいけないよ」

 また猿の声がする。しかし、少し声色が違った。最初の猿とは、別の猿だろうか。今度は聞くなと云う。しかし、部屋の中では何も聞こえない。猿の声以外、何か聞こえるというのだろうか。しばらく目を閉じた状態で黙っていると、さらに猿の声が聞こえた。

「しゃべってはいけないよ」

 目の前で声をかけられたような気がして、俺は目を開けてその姿を見てやろうとした。しかし、猿の姿はどこにもない。青い不愉快な部屋の中には、俺一人。しゃべろうにも、しゃべる相手すらいない。

「わけわ――」

 わけわからん――そう言おうとして、俺はそれ以上言えなくなった。声を発した瞬間、ノドの周囲に焼けるような痛みを覚えたからだ。まるで、鋭利な刃物で切り裂かれたような――。

――ポタリ

――ポタリ

 水滴の垂れる音が、無音の部屋の中に生まれた。

――ポタリ

――ポタリ

 その音は、俺の足元でしていた。何だ、雨漏りでもしているのか――そう思いながらも、俺はノドに右手をあてがう。ぬめりとした感触があった。流動性の高い、液体。青い部屋の中で、俺の右手は紫に染まっていた。正しい色に映らずとも、それが赤色であることは想像がつく。

――ポタリ

――ポタリ

 足元を見下ろすと、そこは血の水溜まりだった。その血は、俺のノドから零れ出た、生命の証。まさか俺、死ぬのか? こんな脈絡のない、意味不明な死に方をするのか?

「ヤダ……」

――ボタッ

――ボタッ

「イヤダ……」

――ボチャッ

――ボチャッ

「イヤダァァァァァァァ」

 次の瞬間、ノドから噴水のような勢いで血が噴き出し、俺の視覚を赤く染め上げた。嗅覚はマヒし、聴覚は一つの音のみを拾い続ける。それは、死の音にしてはあまりにも軽く、不自然で――故に、死の恐怖を強く感じさせた。



……



 目覚めると、俺は真っ先にノド元を押さえていた。大丈夫、どうもなっていない。それもそのはず、先ほどの青い部屋での出来事は、夢だったのだから。

「何だったんだ、あの夢は」

 昨晩は孤独に震えながらも、気づけば眠りに落ちていた。しかし、逃げ込んだ夢の内容はどうだったか。最悪そのものだ。何なんだ、あの猿は。

 夢には諸説あるが、一般的には記憶の整理がなされる時間だと言われている。もしそうなのだとしたら、夢に猿が登場した場合、最近猿に触れ合った記憶があっても不思議ではないということだ。しかし、そんな記憶はまったくない。しかも、大量失血死なんて、最悪だ。夢の中くらい、平和にあってほしいものなのだが……。

 時刻を確認すると、朝の七時半。ちょうど朝食が用意されるころだろう。再び寝直す必要のないことが救いだ。さすがに、あんな夢を見た直後で二度寝をする勇気はない。

 朝食を食べながらも、食べ終わってからも、その夢の内容は頭の中に残り続けた。不自然な夢だったが、脈絡がない割には強烈な恐怖を伴ったことが、妙に引っかかる。潜在的に抱えている恐怖が、俺にあの夢を見させたのだろうか。小さな頃、動物園の猿に襲われた経験があったとしても不思議はない。そういうトラウマ体験が、忘れた頃になって蘇ることもあるのだという。生活が不安定な間は思い出さず、安定してくるとトラウマが蘇る。これは、心理学概論の講義で聞いた知識だ。そういう可能性もある。過去のトラウマを克服するために、思い出しているという可能性。

「猿……猿ねぇ……猿……いや、思い浮かばんなぁ」

 俺はその日、ひたすら猿について考え続けた。しかし、結局思い浮かばず、再び夜を迎える。また猿の夢を見そうな気がしてならないが、寝ないわけにもいかず、俺はベッドの上で頭をからっぽにして全身の力を抜いた。



……



 俺は、真っ暗な空間の中にいた。果てはわからない。故に、その空間全体が、俺を閉じ込める檻なのだと理解する。

「聞いてはいけないよ」

 まただ。また、あの人を食ったような猿の声がする。しかし、何を聞くなというのか。何も聞こえないじゃ――いや、聞こえる。かすかに、赤ん坊の鳴き声が聞こえる。俺はその声のする方へと歩き出した。

「クライヨ」

 近づけば近づくほど、赤ん坊の泣き声は声になる。苦しみを訴える、嬰児の声。

「セマイヨ」

 小さく、その姿が闇に浮かびあがる。その時、再び猿の声が聞こえた。

「見てはいけないよ」

 最初の猿とは、違う猿の声。一体、何だと言うのだ。偉そうに忠告しやがって――少し腹が立って、猿の忠告は完全に無視することにする。

「ダシテヨ」

 頻りに苦痛を訴える赤ん坊。まるで、生まれたいのに生まれることができない、そんな苦痛を母親の胎の中で叫んでいるような。

「しゃべってはいけないよ」

 三度、猿の声。俺はもう、お前らみたいなふざけた猿の言うことは聞かないぞ。

「タスケテヨ」

 声も姿も、はっきりと確認できる距離まで近づいた。その赤ん坊の声が、不意に歪んだ。そして、赤ん坊の声は、女の声になる。

「助けてよ」

 その声を聞いた瞬間、俺は動けなくなった。聞き違えることはない、絵里の声。

「絵里!?」

 俺は思わず叫んでいた。直後、赤ん坊の視線がこちらを向く。そして、悲鳴。

「ああああああああああああああああああああ」

 絵里の、悲鳴。続いて、赤ん坊の頭頂部から赤色が広がる。赤い液体、血。

「タスケテヨオオオオオオオオオオオオ」

 そして、血塗れの嬰児――文字通りの赤子が、襲いかかってくる。どういう力が働いてそうなっているのか不明だが、中空に飛びあがり、地面と平行に飛びかかって来た。俺は咄嗟にそれをかわそうとするが――しかし、身体の自由が利かない。夢の中の俺も、怪我をしたままなのだ。

「ぅがあああっ」

 恐怖のあまり、悲鳴が漏れてしまう。飛びかかってきた赤子は、俺の左肩の肉を噛み千切ったのだ。飛びかかった勢いを殺さぬまま赤子はいったん俺から離れ、Uターンして再び俺に飛びかかる。そうして、俺の全身は少しずつ赤子に貪られていく。骨だけになるまで――いや、骨すらも食い尽されるのだろうか。肉が食い千切られる度、その空洞に恐怖が入り込んでいった。



……



 目覚めると同時に、布団をめくって自分の全身が無事であることを確認する。大丈夫、あれは夢だ。赤ん坊に襲われるというふざけた夢だったが、なまじっか魔物を知っているものだから、かえって夢の内容を拭い去ることができない。恐怖や不快感を引きずりながら、俺は昨日と同じように夢の内容について考察する。

 猿――これについては、もはや意味不明としか言いようがない。昨日の夢を見たせいで、今日の夢にも出てきてしまったのだとしたら、今後ますます夢に見易くなる。何度も夢の中で見ることが増えていけば、現実の世界で猿に触れ合った経験がどんどん存在感を失くしていきそうだし――そもそも最初からそんな経験など覚えていないのだが。

 次に、赤ん坊だ。これの方が、いくらか心当たりが見つかりそうな気がしたが……やはり思い浮かばない。だいたい、自分の赤ん坊がいるわけでもないのに――。そこまで思ったところで、急に頭痛が襲ってきた。鉄の棒を打ちこまれたような、頭の芯から全方位に広がる様な痛み。あまりの痛みに、思考が止まる。しばらく動けずじっとしていると、徐々に痛みは引いていき、最終的には余韻すら残さず痛みは消え去った。こういう経験は、最近あった気がする。何日か前、確かテレビを見ている時、頭痛がして――。

 ひょっとして、脳内出血でも起こしているのだろうか。だったら、入院しているこの時期に、ついでに検査してもらった方がいいかもしれない。次に看護師さんが巡回に来た時に、頼んでみよう。そして俺は、頭痛から遠ざかるように、考え事をやめる。ひらすら、頭の中をからっぽにしようと努めた。その時、俺の脳内に響いたのは、絵里の悲鳴だった。夢の中で聞いた悲鳴は、不思議と俺を懐かしい気分にさせる。あれだけ怖い夢の中で聞こえた声なのに、その声だけは危機迫る印象を俺に与えなかった。多分、お化け屋敷を死ぬほど怖がっていた、彼女の姿を思い出すからだ。



……



「あああああああああああああ」

「おいおいおい、そんなにビビることないだろ」

 学校外での初めてのデートは、定番中の定番、遊園地だった。一学期の期末考査が終わった直後だったから、七月の頭だったと思う。互いに薄着のため、抱きつかれた時の密着度も一入だった。

「だって、怖いんだもん」

 絵里に抱きついてきてほしい、という下心はもちろんあった。しかし、左腕が痛いと感じるほどに強く抱きつかれることまでは予想してなかった。能力者である彼女のことだ、お化け屋敷ごとき、どうせ整然と通り抜けて終了だろうと、半ば諦めていたのだ。それが、予想外の収穫をもたらした。

「魔物にビビらなくて、人の作った蝋人形にビビるのか?」

「だって、蝋人形は私の能力じゃ退治できないもん」

 低位の魔物相手ならば怯えるどころか、魔力を吸い取って退散させてしまう彼女が、どうして何の害もないお化け屋敷の造り物相手にビビりまくるのか。いまいち理屈がわからなかったが、とにかく俺はいい気になって宣言した。

「蝋人形ならいくらでもぶっ壊せる。安心してくれよな」

「施設の備品を壊しちゃダメっしょってうわあああああああああああああああ」

 言ってる端から、新たなお化けの登場に悲鳴を上げて抱きついてくる彼女。俺はどう振舞ったらいいかわからず、彼女に抱きつかせるままに、ゆっくりとお化け屋敷を通り抜けたのだった。クーラーの効いたお化け屋敷の中を通り抜けたはずなのに、左腕はポカポカしていた。

 お化け屋敷の後も、彼女は叫びっぱなしだった。ジェットコースターでもボロボロ泣きながら叫んでいたし、動物のショースペースでは玉乗りをして見せる犬ころ相手にキャーキャー声を上げていた。

「そんなにはしゃぐほどかわいいのか?」

「えー、かわいいっしょ、ワンちゃん。あー、それとも、焼き餅?」

「何で俺が犬ころ相手に焼き餅焼かないといけないんだよ」

「……焼いてくれないんだ」

 急に拗ね出す彼女に、俺がどう対応したものか迷っていると、彼女が急にニッと笑って口を開く。

「なーんてね。うそうそ、拗ねるわけないっしょ」

「うおーめんどくせえことしやがってー」

 悔しさに悶絶する俺を見て、絵里は屈託なく笑う。その笑顔を見ていると、全てを許せてしまう気がしたのだから不思議だ。あばたもえくぼとは、よく言ったものだと思う。

 一通りのアトラクションを経験し、コーンのアイスクリームを買ってからベンチに座り、休憩した。俺はバニラ、絵里はチョコミント。彼女は子犬のようにチロチロと舌を出して、まめまめしくアイスを舐めていた。

「遊園地なんて来たの、何年ぶりだろ。私ね、今後一生遊園地には来ることはないだろうって思ってたんだ」

 何故、と訊くと、彼女は笑って答える。

「恋人なんて、作るつもりなかったから」

 彼女は、最低限の人付き合いの中で、静かに人生を送るつもりだった。つまり、恋人や家庭とも無縁の生活を送ろうとしていたのだ。

「それが、聖のせいで人生設計ぶち壊しだよ」

「悪いことしたな」

 全然悪びれたニュアンスを挟まずに、俺はコーンをバリバリと齧ってアイスを食べきる。絵里はまだコーンの上にアイスが飛び出している状態だった。

「あんまり食べるの遅いと、コーンの下から溶けたアイスが漏れるぞ」

「えーそれやだなぁ。頑張るっ」

 気合いは充分だったが、チロチロ舐めるというスタンスは変えなかったため、いよいよ制限時間が近づく。

「あー、もう先の方が湿ってきてるぞ」

「ああああああああどうすればいいのおおおおおお?」

「コーンの下から食えばいい」

「おお……なるほど」

 アイスクリームを食べるだけでも、大騒ぎだった。そして、楽しかった。今まで、必死で自分を隠して静かな人間を演じ続けてきた反動なのか、彼女はやけに賑やかだったし、隠すべき部分まで曝け出してしまうような無防備さを兼ね備えていた。

「最後に、観覧車乗りたい」

 その彼女の提案に乗ったフリをしたが、これは俺の策略だった。最後まで観覧車に乗らずに遊びつくし、観覧車前のベンチで休憩し、自然な流れで最後に観覧車に乗るという、俺のデートプランの締めだ。俺はなるべく下心を悟られないように、何でもないフリをして、絵里ともに観覧車へと乗り込んだ。互いに向かい合うかたちで座る。

「今日はありがとうね。お世辞抜きで、こんなに楽しい経験、生まれて初めてだよ」

「大げさだな」

「ホントだよ? あーそれと、私うるさかったよね。叫びまくってたっしょ」

「お化け屋敷の時はかわいかったな。左腕がわりとマジで痛かったけど」

「えー、そういうのその場で言ってよー」

「だって、抱きついててほしかったし」

 会話に詰まって、気まずい静寂が訪れるかと思いきや、逆に会話が止まらなくてきっかけを掴めない危険性が出てきた。俺のデートの最終プランは、言わずもがな――キスすること。

「じゃあ、もっと抱きついたげる」

 そして、自然な流れで、彼女は俺の隣へと座り直す。ここまで順調に進むと、逆に怖くなる。肝心のところで失敗するんじゃないかと、そんな不安が広がった。

「あんまりくっつきすぎても、暑苦しいかな?」

「いや、気にならないよ」

 俺にしなだれかかるような恰好で、彼女は俺の左胸に抱きついてきた。左腕を肩に回し、俺も彼女を抱き寄せる。その姿勢のまま、彼女と俺は今日の遊園地のアトラクションについて一つ一つ品評していった。二人の意見はあまり合わなかったが、衝突して口論するということはなかった。お互いが、それぞれの意見にも納得していたからか。いや、そんな会話は、じつはどうでもよかったのだ。俺にとって――そして、彼女にとっても。

 観覧車が一番高い場所に来るタイミングを見計らって、俺は彼女の顔を覗き込んだ。すると、彼女の方から、顔を近づけてきた。彼女も、そのつもりだったのだろう。俺たちは、優しく唇と唇を重ねた。俺はソフトキスで済ますつもりだったのだが、彼女が舌を押しこんできたのには焦った。

「バニラ味だ」

 彼女はそう言って、大声で笑った。俺も照れ隠しを兼ねて、大声で笑った。俺のファーストキスは、チョコミント味だった。



……



 思えば、俺たちはロマンチスト同士だった。だから、ベタベタのデートプランでも、満足できたのだろう。絵里の悲鳴を聞いても嫌な感じがせず、むしろ落ち着くような気分になるのは、きっとこの初デートのせいだ。怯えた時はだんまり、興奮すると叫ぶのが彼女、絵里という人間だった。

 彼女がいなくなっても、その愛しさは消えきらない。いっそ消え去ってくれたら、どれほど楽になれるか。でも、忘れるなんてありえない。俺は誓ったのだ。彼女の分も生きると。彼女の笑顔とともに、生きていくと。彼女を守れなかった分、精華を守っていくと。

 とすると、やはり俺は絵里の代わりを精華に求めているのだろうか。幼馴染ではなく、恋人としての精華を、俺は求めているのだろうか。……いや、ダメだ。俺は、求めてはいけない。絵里は、俺と付き合ったせいで死んだのだから。それは、本当に? どうして俺と付き合ったせいで死んだ? 一体何があった? おかしい、思いだせない。何故だ、何故思いだせない?

「くっそおおおおおおおおおおおおお」

 マットレスを拳で叩き、俺はベッドから跳ね起きた。全身には鈍い痛みが残り、満足に動く状態ではなかったが、俺はトイレに籠り、日中から自慰に耽る。全ての苛立ちも、絵里への未練も、押し出してしまいたかった。しかし、どれだけ陰茎をしごいても射精感は訪れない。諦めてベッドへと戻り、無力感に浸りながら天井を見上げた。

 俺の記憶はところどころ欠如している。特に、絵里の死の前後は、めちゃくちゃだ。絵里の死ぬ瞬間に居合わせたはずなのに、死因を覚えていない。対外的には病死ということになっているが、それが本当の死因でないことは何となくわかる。彼女が死んだという事実だけが、記憶の代わりにそこにあり、本当の記憶は封印されているのだ。それを思い出すことはできない。思いだそうとしても、何も浮かんでこないのだ。

 無茶苦茶だ。俺は、無茶苦茶だ。正しくあるはずの記憶ですら、作り替えた偽りの記憶なのではないか、と疑いたくなってくる。そもそも、絵里という女の子は本当に実在したのだろうか。それを証明する術は、どこにある? 紀次か? 彼が俺の妄想話に調子を合わせているだけだったらどうする? 結局、人間の記憶なんていうのは、曖昧で、頼りなげなものでしかない。でも、それでも――。

「聖」

 脳裡には、絵里の声が貼り付いて離れない。いつも左手が冷たいのは、かつてあったぬくもりが失われたせいだ。絵里は、確かに俺の隣に存在していた。それは、紛れもない事実だ。

 記憶という曖昧なものに縋りついている自分が、時たま滑稽に見えることがある。しかし、自分を自分たらしめているのは、記憶なのだ。記憶がなければ、その人はその人として生きられない。生きると云うことは、記憶と云う名の薄氷の上を歩いていく活動なのだろう。

 笑っちまうよな、絵里。お前との思い出を生きる糧にしておきながら、お前の全てを思い出せないなんて。それどころか、お前の存在自体を疑っちまうなんてさ。ふざけてるよな。



……



 俺と絵里が付き合っていることは、同学年では周知の事実となっていた。というのも、俺が悪友の紀次とあれこれ無茶をするのに、絵里を巻き込んでいたためだ。有名人にくっついて行動していれば、自然と顔も売れる。ちなみに無茶と言っても、それほど危険なことをしたわけじゃない。おバカなことをしたのだ。たとえば、俺と紀次で、どちらが多くのネクタイを巻けるか競争したり、ヤクルトの大飲み競争をしたり、絵里のブラジャーを頭上で振りまわしながら先生に見つからずにどこまで走れるか競争したり――最後のヤツは、見つかって絵里込みでこっぴどく叱られた。

「どうして私まで叱られないといけないわけ? おかしいっしょ」

「サイズが大きすぎたんじゃね? 何たるバスト、けしからん!」

 頬を膨らす絵里に、紀次が悪戯っぽく笑いかける。

「なるほど、Aカップだったらセーフだったのか。そりゃ叱られて当然だわ。エロい体でごめんね、先生」

「Aカップだったら先生は納得しても俺が怒る。夜の俺が怒る」

 三人で笑い合い、叱られたこともすぐに吹き飛んだ。反省なんて言葉、俺たちの辞書にはなかった。

「次は何すっかなー」

「今度はもっと大規模にやりたいな」

「あんま私巻き込まないでよ?」

 そんな三人の目の前に、掲示板が現れる。階段横の、クラブ紹介とか課外講座の紹介とか雑多な情報が並ぶ、普段はあまり見ない場所。

「ああ、もうすぐ文化祭か」

 その掲示の中に、第三三回文化祭五月一二日とあった。文化祭は毎年五月の中旬、中間考査の前にそそくさと行われる。一年生は、オリエンテーションの延長で文化祭の準備をするのだ。一年生は教室展示を担当。三年生は出店担当。二年生になっていた俺たちは、舞台を担当することになっている。

「舞台だったよな。だったら、演劇でもするか」

 ポツりと呟いた紀次の言葉に、俺の脳内は紫電を散らす勢いで想像を膨らましていく。

「よし、やろう、演劇。主役が俺で、ヒロインが絵里な」

「うっそー、それだけはありえないっしょ」

 最初は、絵里だけでなく紀次ですら冗談だと思っていたらしい。しかし、文化祭で何をやるかクラスで相談する段になって、俺が本気であることを知ると、途端に絵里がうろたえ出した。

「聖、私、ほんとに目立つのダメなんだって。裏方とかで問題ないっしょ。お願いだから」

 と、彼女は懇願してきたが、俺は受け付けなかった。

「俺と一緒だったら、どんなことでもできるって、証明するんだよ。絵里自身に」

「そんな証明いらないから。もう充分だから」

 絵里がなかなか折れてくれそうになかったので、俺はクラスのみんなに同意を求めた。

「お前らお似合いのカップルだし、思い出作りにやってやりゃいいじゃん」

「絵里さんかわいいから、ヒロイン役ぴったりだよ」

 クラス全体が、俺と絵里の関係を祝福してくれていた(おそらく、みんな文化祭が面倒だから、それを押しつけるためにいくらでも煽ててくれたのだろう)。こうして退路を断って、俺と絵里は主役として演劇の舞台に立った。

 演目は白雪姫。オリジナルの脚本や、最近の大衆文学を題材にすることも考えたが、結局みんなが知ってる作品でやるのがわかりやすくていいだろうという結論に達し、このメジャーな物語に落ち着いた。ちなみにグリム童話ではなく、ディズニー映画の白雪姫を参考にした。原作では、王子様のキスで目を覚ますというくだりがないのだ。

「白雪姫って……完璧私が主役じゃん。聖が主役じゃないとか、おかしいっしょ」

 最初のうち、彼女はかなり文句を言っていたが、一緒に練習するうちに、だんだん演技を楽しむようになってきた。俺は王子役だったが、あまりにも出番が少ないため、猟師役や小人役もやることにした。学校だけでなく、公園や俺の部屋でも二人で練習した。こうして、目まぐるしくも充実した日々はすぎていった。

 準備は充分とは言えなかったが、それなりに稽古を積んで本番を迎えた。絵里の熱演に、会場となった体育館の中は静まり返っていた。途中で出てきた魔女の奇妙なキャラクターに、会場から笑いが起こる。魔女役は、紀次だった。物語はいよいよ佳境に入り、王子のキスで白雪姫が目覚める段になった。

 会場の誰もが、本当にキスをするはずがないと思っていただろう。どうやってごまかし、それらしく見せるのか。みんなの興味は、そこに向いていたはずだ。俺はその期待を裏切ってやりたくて、当初から本当にキスをするつもりでいた。舞台と平行に絵里を寝かせ、彼女を挟んで俺は客の方を向く。

「何と美しいのだろう。死んでいるとは信じがたい。今にも息を吹き返しそうだ」

 そして俺の唇は、しっかりと絵里の唇を捉えた。会場からざわめきが起こる。ヒューヒューという男子の囃し立てる声が上がった。してやったり、と俺は有頂天になった。演劇は盛大な拍手のうちに終わり、幕を閉じた。舞台の成功を祝してクラスのみんなで焼き肉屋に行こうという話になったが、俺や絵里を含めた肝心の役者たちは文化祭の実行委員に呼び出されて叱られた。

「風紀にそぐわない行為があった」

 と、彼らはまるで昭和の硬派人間のように俺たちを頭ごなしに責めまくって来た。水を注されて昂揚感が半減したが、それでも実行委員から解放されて焼き肉屋に行くと、大はしゃぎして盛り上がった。俺たちは、青春ど真ん中だった。



……



 あの頃の記憶が、全部偽物なわけがない。毎日練習に励んだ演劇、一年前まで人目につくことを怖れて生きてきた絵里が、主役を熱演した、あの日々。人は望めば、いくらでも自分の思い描く未来を切り開いていくことができる。それを確信できる日々が、確かにあった。

「聖、元気かー」

 遠慮する様子なく、紀次が病室へと入ってくる。

「大学帰りか?」

「おう、土産はなんもないけどな」

 紀次は茶色のショルダーバッグを背負ったまま、ドカッと椅子に腰を下ろすと、俺の体を固定しているギプスをペタペタと触り出した。

「全身カッチカチに固められてんな。こりゃ治るのに時間かかるわ」

「そんなにペタペタ触んなよ。きもちわるい」

「悪かったな、精華さんじゃなくて」

 紀次は悪戯っぽく笑い――次の瞬間には、その笑みを引っ込めて真顔に戻っていた。

「それとも、絵里のことを思い出したか?」

 紀次には、隠しごとができない。その人の顔や仕草を見るだけで、思考を読み取ってしまうのだ。だから彼は、女の子にモテる。加えて、ファッションに無頓着な俺と違って彼は様々な服を着こなすため、同じようなおしゃれで可愛い女の子をあっさりと引っかける。彼とは気が合うが、その点は正反対だ。

「そうだな。今日、ずっと絵里のことを思い出してたよ。デートの時とか、文化祭の白雪姫とか。ノリの魔女は最高だったな」

「そんなこともあったな。もう、あれから三年なんだな」

 こうして紀次と一緒にいると、俺だけの時間が止まり、紀次をはじめとする周囲の時間だけが流れていっているような錯覚に囚われることがある。

「なぁ、俺っておかしいか?」

「何が? 絵里のことを引きずってることか?」

 俺が小さく頷くと、紀次は溜め息をつきながらも微笑む。

「お前ら、あのまま結婚する勢いだったじゃねーか。そりゃ、三年じゃ無理だぜ。一生引きずってもしゃーねーんじゃね? でもさ――」

 彼はそこで少し間を置き、続ける。

「でもさ――俺以外の人間は、絵里のこと知らないから、そんな風には思ってくれないだろーな。おかしいって思われても、言い訳はできんかもな」

「そうだよな」

 いつまでも、絵里のことに囚われ続けていてはいけない。

「いい加減、精華さんのことも考えてやれよ。彼女、どう見てもお前に惚れてるぞ」

「それはないだろ」

 何でもないことのように否定して見せる。それを肯定することは、できるはずがないのだから。

「こと恋愛に関しては百戦錬磨の俺の言うことが信用できないのか?」

「俺と精華がいかに濃い幼馴染かってのを、誰も知らないからな。ノリ、お前も込みで」

 絵里と俺の関係を誰も知らないのと同じように。それに――。

「それに、俺が信用できないのは、お前じゃなくて俺自身だよ」

 もし、紀次の言う通り、精華が俺に惚れているとしても、俺はそれに応える資格がない。俺は絵里の面影を求めずにはいられないだろうから。

「……なら、しゃーねーか」

 紀次は苦笑して、それから違う話題を振ってくる。ゲームの話、サッカーの話、テレビの話。

「そういや、精華は元気にやってるのか?」

 話が一段落したタイミングで、俺は質問する。

「わりと気楽にやってる感じだぞ。この調子だと、お前のこと忘れて別の男と付き合いだすな」

 胸の奥が、チクリと痛む。それが表情に出てしまったのか、紀次が大声で笑い出した。

「嘘だよ、嘘。ノッコとよくつるんでるし、何かと忙しそうにしてるけど、心ここにあらずって感じだ。安心しろ」

「俺って、やっぱ最低だな」

「まぁ、そんだけ悩んでるってことは、真剣だってことだから、俺は最低だとは思わんが――」

「ノリ以外の人間は、そういう風には思ってくれない」

「だな」

 いいタイミングで見舞いに来てくれたものだと思う。もやもやした気持ちを少し整理できたような気がして、俺は心の中で紀次に感謝した。

「じゃあ、そろそろ帰るわ」

「ああ、みんなによろしく頼む」

 紀次が病室を後にし、静寂が戻ってくる。人が他者を求めるのは、きっとこの静寂がいかに寂しいかを知ってしまうせいなのだろう。昔の絵里のように、一人で生きれば、その寂しさを知ることなく生きられるのだろうか。あるいは、忘れ去ることができるのか。静寂の寂しさを知らないのは、ある意味もっとも無敵の生き方なのかもしれない。俺は彼女に、そんな生き方を間違っていると指摘したが、苦しみを苦しみと感じずに済む人生も、それはそれで一つなのだと、今になって思える。

 人は、他者を巻きこまずには生きられない。だから、他者を巻きこまない生き方というのは、いかにも非人間的で、不自然だ。俺が彼女の人生を変えたいと思ったのは、当然のことだったのかもしれない。能力者として、気配を消した彼女の存在を把握できてしまったから、俺は決めてしまったのだ。彼女の人生を変えていくのは、自分だ――自分しか、彼女の人生を変えていける存在はいない、と。

「傲慢だよな」

 その傲慢の果てに、俺はこうして絵里に置いて行かれた。彼女の死の前には、どんな理屈も意味をなさない。全ての理屈は、自分の心を慰めるための浅ましい言い訳にしかならないのだ。彼女には、もう、声も、想いも、何も届かない。

 夜が深まっていき、眠りに就くまで、俺の頭の中は虚しい慰めで埋まり続けた。



[27529] 町に佇み 第三話『悪夢の猩々』 Part5
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 19:53
 俺は、自分の部屋にいる。ただし、この部屋は、今の下宿ではない。高校時代の下宿だ。雨の夕暮れ時、窓の外は青白い。

「聖、卵とってよ」

 キッチンに、制服の上からエプロンをつけた姿の絵里がいる。俺と絵里は、一年生の一二月に、半ば同棲生活を始めた。彼女の実家と俺の下宿が近いこともあって、彼女は何日か俺の家に泊まりっぱなしでも不自由しなかったほどだ。それほどに、俺と彼女は親しくなっていた。二人で一緒に食事をして、宿題をして、英語の予習をして、毎晩のように肌と肌を重ね合って――新婚カップル気分だったのだろう。その熱に中てられてか、この頃からセイレーネスは放蕩することを覚えて、いつも家にいなかった。

「今日は何作るんだ?」

「目玉焼き」

「それは朝食のメニューだろ」

 俺は笑いながら冷蔵庫を開けて卵を取り出す。冷蔵庫の扉を閉めた途端、やけに周囲の蒸し暑さが気になりだした。その蒸し暑さがたまらなく不快で、俺は暖房を効かせていたエアコンのスイッチを切る。

「えー、エアコン止めちゃうの?」

 彼女の批難の声は無視し、俺はフライパンを見つめる。

「見てはいけないよ」

 何故、その声が聞こえるのか。俺の悪夢に現れる、人を食ったような猿の声。

「そんな見ないでよ。緊張するじゃない」

 猿の声は彼女には聞こえないらしく、戸惑う様子を見せない。

「どうしても見たいなら、見ててもいいけどさ」

 そして彼女は、卵を割る。フライパンの上に落とされたのは、黄身と白身……ではなく、ヒヨコ。

「聞いてはいけないよ」

 再度、猿の声。直後、フライパンの上のヒヨコが叫び出す。その小さな体から、どうやってそんな大声が出るのか。防犯ブザーのような、壮絶な声。

「絵里、そのヒヨコ……」

「ヒヨコ? 何言ってるの?」

 何故、絵里は気づかないのか。それがヒヨコであることに。そのヒヨコの叫び声に。

「しゃべってはいけないよ」

 三度、猿の声。お前たちの警告は、一体何の役に立つというのか。

「それ、卵じゃなくてヒヨコだぞ?」

「さっきから聖何言ってるの? ああ、ひょっとしてもっと卵食べたいの? ちょっと待ってて」

 そう言ってから、彼女は急にその場でパンツを脱いでいきみ始める。それが何をしているかを訊ねる間もなく、彼女は赤ん坊を出産した。そして、生まれたばかりの赤ん坊を拾い上げ、フライパンの中に放り込んだ。途端に黒煙が上がり、部屋中を異臭が満たす。

「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 俺は絶叫し、部屋の外へと逃げ出した。しかし、玄関だと思ったのはベランダで、俺は勢い余って中空に飛び出す。そのまま落下していく中で――これが鳥の気分かと思いながら、地面が近づき、視界が暗転した。



……



 思い出と、猿の悪夢が混じる。ケガは順調に回復しているが、それと反比例するかのように夢の内容は悪化の一途を辿っていた。毎夜のように悪夢を見続け、一週間ほど経ったか。うるさい猿、怖い内容、最後は俺が死んで終わり。必ず、そういう夢を見るのだ。ひょっとして、これも魔物の仕業なのだろうか。夢の中で、俺の心を食らっている魔物がいるのだとしたら、随分と厄介な魔物に憑かれてしまったものだと思う。退治しようにも、夢の中ではどうしようもないではないか。

 先日、脳の病気を心配してMRIを撮ってもらったり、簡単な検診を受けたりしたが、全て異常なしだと言われた。たまに襲ってくる頭痛は、脳内出血のような身体の問題が原因ではないということだ。そして、同じく悪夢も。

 特に命の危険は感じていないが……ここ数日、夢の内容に慣れてきた弊害か、恐怖を感じなくなってきた。夢の中ではもちろんのこと、現実でも恐怖を感じない。窓の外を覗き込んで地面をどれだけ見つめても、足が竦むような感覚は襲ってこないし、食事中に「もしこのスプーンを呑み込んだらどれだけ苦しむか」と想像を膨らましてリアルな嘔吐(えず)きの感覚や映像を思い描いても、特別な感情は湧いてこないのだ。

 夢のせいで、だんだん感覚が狂っている。記憶だけじゃなくて感覚まで狂いだしたとなれば、もはや何が正常なのか、わからないのではないか。俺はこのまま、狂ってしまうかもしれない。

「ひじりちゃーん、元気してる?」

 午前一〇時ピッタリに、精華が俺の見舞いに来た。こんな時間からどうして――と思いかけて、今日が土曜日であることに気づく。寝てばかりいると、どうしても曜日の感覚が薄くなるらしい。曜日の重要性など、寝ていれば皆無に等しいのだ。

「おう、元気してるぞ」

 俺が右手を上げながら答えると、不自然なほどににやける精華が俺の方へと近づいてくる。

「何か、やけに嬉しそうだな。何かあったのか?」

 何か悪戯を仕掛けてきそうな勢いだったので、少し警戒しながら訊いてみる。

「んー別に何もないけど」

「そうなのか?」

「私はひじりちゃんが元気になってくれただけで嬉しいの。他には特にないよ」

 さすがに、この歳になってまで悪戯を仕掛けてくるほど、彼女も子どもではないか。小学生の頃なら、病気の最中でもお構いなしだった気がするが……むしろ、こういう発想に至る俺自身の方が、よっぽど子どもだ。

「ああ……悪いな、心配かけて」

 俺が足を投げ出す先まで彼女は来て、椅子に座るでもなく俺を真っ直ぐに見つめてくる。その瞳に吸い込まれそうになって、俺は思わず目を逸らした。

「精華に心配かけさせるなんて、ホントいい根性してるよね、聖は」

 唐突に精華の立っている空間から元気な女の子の声が生まれる。不可視の魔物、フラウだ。

「そうよ。私だけじゃなくて、フラウも心配してくれてたんだから」

「え、ちょっと、精華……なんであたしがこの下男の心配をしなきゃいけないの!?」

「おい、下男はねーだろ」

 どうしてこのガキは、こんなに口が悪いのか。精華の躾がなってないのか、甘やかし過ぎているのか、どうしようもないほど性根が粗野なのか――全部か?

 フラウと言い張り合い、それから退院パーティーをしたいと精華が言いだし、プロージットという店名が飛び出す。

「まーたマスターと株の話でもするんでしょ」

「もちろん」

「株の話とかわからないからつまんない」

 精華は文系人間を自負しており、数学を毛嫌いしている。数学というよりも、数字が嫌いなのか。株は数字がたくさん並ぶから、彼女的にはアウトらしい。そのくせ、理科は好きなのだとか。理科も数字がかなり出てくると思うのだが――俺にはよくわからない。

「株は難しくねーよ。簡単だって」

「興味湧かないから理解できない」

「社長令嬢がそれでいいのか?」

 俺は時々、自分や精華の立場を忘れる。俺は海詩海運の御曹司(と言っても期待度ゼロの次席ではあるが)で、精華は山ノ井製薬の社長令嬢なのに、まるで普通の中流階級の家庭で育ってきて、貴族的な生活とは無縁で過ごしてきたような錯覚。日常生活では畏まって一挙手一投足に気を使う必要はないから、そういう錯覚に陥るのも、別に不思議なことではないのかもしれない。しかし、公式の場に出ると言葉選びから足の運び方まで別人のように気品溢れ出す彼女のことを想うと、こういう会話が冗談のように思えてならない。

「うちの会社はひじりちゃんが継いでくれるから、問題ないの」

「おいおい……」

 それはひょっとして、俺が婿養子になるということだろうか。精華はホントにそれでいいのか? こんなくだらない人間に自分の人生を預けてしまっていいのか?

「俺が精華の家を乗っ取るみたいで嫌だな、それ。俺と養子縁組なんてしたら、山ノ井製薬も海詩グループの傘下になっちまうぞ」

 俺は慎重に言葉を選んで、返す。俺に期待しないでくれ、精華。俺を期待させないでくれ、精華。

「その時は、ひじりちゃんが海詩グループを操作して、山ノ井製薬の地位を向上させてくれるんでしょ?」

「いや、どう考えても俺にそんな権力はないだろ」

「軟弱者め」

「軟弱だから、こうやってベッドの上で寝てる」

 かわいらしく言う彼女の調子に合わせて、俺もふざけた調子で言ったつもりだった。しかし、彼女が「しまった」という顔をしたのを見て、俺も同じ気持ちになる。

 少しの間、沈黙が下りた。

「ひじりちゃん、無理しないでね」

「ああ……」

 俺は、反射的に返事をしていた。しかし、それは合意の意思表示ではない。ウソをつかずに会話を流す、姑息な手法だ。俺はどんなに精華に望まれようが、無理をし続けるに違いないのだから。

「私、本気で心配してるんだよ? それでも……無茶しちゃうんだね、ひじりちゃんは」

 当然、俺の本音は精華にバレバレだ。隠せるわけがない、長い付き合いなのだから。今にも泣き出しそうな表情の彼女を見ていると、先ほどまで見えていたはずの答えが見えなくなってくる。窓ガラスに映る男を見ると、何とも頼りない顔をしていた。この頼りなく見える男が、外から見た俺なのだ。

「今度無茶したら、私、本気で怒るわよ……」

 絵里を守れなかった分、精華を守っていくのだとしたら、そのための無茶はしなければならない。しかし、俺がこうして大人しく寝ていることで、彼女が安心できるのだとすれば、俺は一体どうすればいい?

「でもどうせ、無茶しちゃうんでしょ。わかってる。だから、これだけは忘れないで」

 改まって言う気配があって、俺は精華の方を見た。彼女の揺れる大きな瞳が、絵里の瞳と重なる。こういう時はどうすればいいのか――壁にぶつかる度、不安げな表情で俺の方を見てくる絵里の、儚げな瞳。いつもは強い光を湛える精華の瞳が、まるで絵里のもののように儚げに揺れていた。

「ひじりちゃんの体は、ひじりちゃん一人のモノじゃないってこと」

 彼女の言葉を聞いた瞬間、セイレーネスの言葉が蘇る。

「あなたの体は、あなた一人のモノじゃないの。――彼女にとってのあなたが、どれだけ大事かも、考えてあげて」

 彼女の言う通りだ。精華は、俺が精華のことを心配するのと同じように、俺のことを心配してくれている。その気持ちを反故にすることは、俺自身の気持ちを裏切るのと同義なのではないか。

「……ああ、そうだな。どれだけ心配するなって言っても精華が心配しちまうもんな」

 俺が心配し続ける限り、彼女も俺を心配し続けてくれるのだろう。互いが最高の理解者であろうと努力するために生まれる、柵。逃げられない想いの鎖。

「うん、そうだよ……」

 でも、その鎖は、たとえお互いを束縛するとしても、決して悪いものだとは思わない。その証拠に、彼女の笑顔があるじゃないか。彼女の笑顔を見ることのできる、今があるじゃないか。これもきっと、魂の契約――切っても切れぬ関係だ。

 時に息苦しく感じ、煩わしくなることもある。それでも、たとえ強制力を持った関係であったとしても、笑顔でいられるなら――。

「あ、そういえば、雑誌は役に立った?」

「雑誌?」

「エロ雑誌」

「おい……」

 そして、この話題の急転っぷりである。真剣に考えていたことが、急にどうでもよくなってしまった。

「やっぱ、そういう余裕はなかったか。そう思って、今日は小説を持ってきたんだけど」

 彼女のバッグの中から飛び出す文庫本――十冊ほど。さぞ、重かったことだろう。というか、先にこっちを試すだろ、普通。何故小説よりも成人雑誌が先に来てしまったのか。

「上橋菜穂子さんのと、こっちは道尾秀介さんのでしょ。で、こっちは角田光代さんの」

「魔法の鞄か。よくもまぁ、わんさかと出てきたもんだ。入院中には読み切れんぞ」

「だって、どれも面白くて、選びきれなかったんだもん。お蔭で肩凝っちゃったけど」

「もう歳なんだから、無茶すんなよ」

「同い年のくせに、そーゆーこと言いますか」

 それから、文学談義で盛り上がった。文学から徐々に話題が逸れ、気づけば魚の話をしていたりするのだから滑稽だ。自分のこと、精華のこと、絵里のこと、悪夢のこと――それらを考え続け、パンク寸前だった頭の腫れが、すーっとひいていくような気がした。

 話は留まる事を知らず、その後しばらく続いた。一時間ほどで彼女たちは昼食に出ていき、病室は静寂に包まれる。精華がいなくなった後の病室は、土曜日だというのに孤独が増したように静かだった。頭の中を、入院してからのルーティンワークとなりつつある思考が満たし出す。しかし――。

 絵里のことを考えるのも、精華のことを考えるのも、何だかいけないことのような気がして、俺は頭をからっぽにするべく、精華が持ってきてくれた小説を手に取った。角田光代の空中庭園――隠しごとをなしにしようというモットーを掲げながらも、秘密だらけの家族の姿が描かれている作品だ。

 少なくとも俺の場合、隠しごとを無しにするなんて、絶対に不可能だ。精華に絵里のことを話したら、どうなるのだろう。最高の理解者を自負し合う俺たちの関係は、崩れてしまうのではないか。

「ひじりちゃんは、私よりも死んだ人の方が大事なんだ」

 冷たく言い放つ彼女を想像する度、俺は恐怖に震える。いかな強大な魔物に襲われようとも、この恐怖には勝る感情は湧いてこないに違いない。精華に見捨てられるということは、生きる標を失くすのと同義だ。だから、精華に絵里のことを話すなんて、論外だ。

 実際の彼女なら、俺を完全に見捨てることはしないだろう。きっと俺は、彼女の寛大さに平伏し、罪悪感と戦いながら生きていく――いや、黙っていても、罪悪感との戦いは終わらない。絵里のことを、忘れ去れないのだから。

 でも、俺にはどうしても、精華に失礼だという理由だけで、絵里のことを忘れることができない。俺は、彼女の分も生きて、彼女の分も人生を楽しまなければならないのだから。彼女のことを忘れることは、俺自身を否定することになってしまうのだから。

 ああ、ダメだ――絵里のことも精華のことも考えないようにしようとしている矢先から、これだ。小説は、まだ一〇〇ページも読んでいない。小説では、思考を止めることはできないのか。何とも難儀なものである。

 いっそ、精華と絵里以外のことを思い出すようにすればいい。誰のことだろうか。自分のことか、セイレーネスのことか――あるいは、二人に関わることか。一つ、真っ先に思い出してしまう記憶があった。思い出すだけでも耳から蒸気が出るほど恥ずかしいが、気を紛らわすにはそれくらいの方がちょうどイイのかもしれない。



……



 それは、俺と絵里が付き合い出してから、しばらく経った頃のはずだ。夜、リビングで二人並んでゴロゴロとだらしなく寝転びながらテレビを見ていた時、むっくとセイレーネスが起き上がり、俺の顔を覗き込んできた。

「ねぇ、セックスしよっか」

 唐突に、セイレーネスが提案してきた。何かの聞き間違いかと思い、無視する。

「放置プレイは好みじゃないのよ、ねぇ」

 やけに甘えた声を出しながら、彼女が擦り寄ってくる。

「寄るなよ暑苦しい」

「こんなに綺麗なお姉さんが『やろうよ』って言ってるのに、なんでがっついてこないのかしら?」

 そう言いながら、セイレーネスは俺の股間を人差し指ですっと撫で上げた。たまらず飛び起き、俺は彼女との間合いを取る。

「何しやがるんだ痴女!」

「可愛い彼女もできたんだし、お姉さんがセックスのイロハを教えてあげるわよ」

「いらん、そんなもんはいらん!」

「イイじゃない、初めてよりも、経験済みの方が、女の子をリードできていいでしょう? それくらいの男気を持ちなさいな」

「それは、俺を犯したいがための口実だろうが!」

「恥ずかしがるのはわかるけど、いざ絵里ちゃんとのセックスでコンドームの付け方がわかりませんじゃ、嫌われちゃうじゃない」

「それくらい知ってるわい!」

 強がりを言ってみせるが、実際に付けてみた経験はなかった。生まれてからこの方、俺を観察し続けてきた彼女にも、そのことは筒抜けだ。

「ちゃんと正しい付け方をお姉さんが教えてあげるから、ほらほら」

 絵里という名前を出されてしまったからだろうか。その後、どういった流れでセイレーネスに体を預けることになってしまったか、まるで覚えていない。俺の体の中に入って来た彼女が、正しいコンドームの付け方とやらを実演して見せた。おそらく、口で説明したり外からやるとやりにくいから、身体を貸せと言われたのだろう。だが、一旦体を預けた後の俺の記憶は飛んでいる。気づけば、俺の童貞は彼女に奪われていた。

「人間の精子ごときじゃ妊娠しないから、安心してね」

 彼女の膣内は、自在に変化した。<半女鳥>である彼女には体を意図的に変化させる能力があり、両手も本来は翼であるところを変化させて使っているのだという。それは、性器でも同じなのだと彼女は云うが――本当かどうかは知らない。しかし、俺の陰茎のカタチに合わせ、凄まじい脈動を見せたことは確かだ。あまりの快感に、俺の初めては一分ともたなかった。

「ちょっといくらなんでも――これは訓練が必要そうね」

「いらねーよ! 二度とごめんだ!」

 その日以降、俺は一度もセイレーネスとこのような行為に及んだことはない。彼女に体を預けると、記憶が飛ぶという恐怖を植えつけられたのも、この時だ。



……



 これが、俺がセイレーネスに体を貸さなくなった理由だ。恥ずかしいことこの上ない理由だが――でも、本当に? こんなにくだらない理由で、彼女を拒んだのか。改めて思い出してみると、何となく違う気がしてくる。そういう風に、思い込んでいるだけのような――きっと、欠落した記憶の穴埋めをするための、後付けの記憶だ。そういう確信が、俺の中に生まれてくる。

 入院してから、これまで思い出さないようにしてきた記憶が、次々と溢れ出てきた。蓋をしていた過去の体験が、頭の中に甦ろうとしている。良い記憶も悪い記憶も、そうして一つの記憶へと繋がっていくのだろう。全ての終わり、絵里の死の記憶へと。

 俺が今まで、深く考えずに避けてきた記憶が、掘り返される。その時は、間近だ。計らずも悪夢を見せる三猿のおかげで、ここまでやってきてしまった。これがなければ、もっと後回しになっていただろう。猿どもに好き勝手されるのは癪だが、俺は、悪夢の果てを見なければならない。それが今なら、望むところだ。

 三猿自体は憎い。おそらく、あいつらは魔物だ。あいつらを、俺の夢の中から追い出さなければならない。そして、そのためにも、今度は悪夢を見ることを自ら望み、夜の訪れを待った。



……



 俺は、真っ青な空間の中にいた。果てはわからない。その空間は、以前どこかでみたことがあるような感じを与えた。

「聞いてはいけないよ」

 今ではすっかり聴きなれた、人を食ったような猿の声。直後、ケータイが鳴り始める。電話に出ると、弱々しい声で絵里が呟く。

「助けて……」

 電話越しに、絵里が助けを求めている。

「助けて……」

 一体どこで助けを求めているのか、わからない。だが、俺は走り出していた。早く行かなければ……早く行かなければ、彼女が死んでしまう。

 息を切らして、重たい足を地面に擦るようにして前へと運び、走り続ける。すると、視界の中心、遥か遠方に小さく影が見え出した。

「見てはいけないよ」

 最初の猿とは、違う猿の声。お前の声を聞いている場合じゃない。俺は、少しでも早く、絵里の元へ行かねばならない。

「助け……がっ――」

 バカみたいに不自然な声が、受話器に入る。声を上げながら息を吸うと、こんな声が出るのだろうか。細く甲高い奇声は、確かに絵里の声だ。次の瞬間、電話が切れる。ツーツーという場違いに落ち着いた電子音が、やけに耳障りだった。

「しゃべってはいけないよ」

 三度、猿の声。こいつらは、明らかな害意を持って俺の夢の中に住まい、俺の精神を侵食している。俺の夢を弄ぶのが趣味なのか、夢というよりは記憶なのか、それとも――俺の感情を弄ぶのか。

「俺の夢から、出ていけよ、クソ猿が!」

 俺は走り、人影へと近づく。遠くからでも、その凄惨な光景は把握できた。どういう力が働いているかは不明だが、絵里は中空に浮いている。その腹部に大きく穿たれた空洞から、大量の血が滴っていた。そして、血塗れの嬰児――文字通りの赤子が、絵里に襲いかかる。赤子は絵里と同じように中空に浮かび、絵里の腹部の穴を広げていく――その肉を貪ることで。

「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 俺はそれを阻止しようと必死で足を前へと出す。俺の声に、赤子が反応して振り向いた。そして、標的を絵里から俺へと変える。

「いい加減にしろおおおおおおおおおおおおおお」

 人様の夢や感情を好き勝手にするなんて、最低な猿だ。そして、もっと許せないのは、絵里を侮辱すること。

「ぎゃああああああああああああああああああああああ」

 矢のように飛んできた赤子を、俺は右拳で打ち砕いた。<詩>の力は、夢の中でも健在だったらしく、赤子は壮絶な悲鳴を上げて崩れ去る。そして、悪夢も崩れた。



[27529] 町に佇み 第三話『悪夢の猩々』 Part6
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/03 19:53
 確かに今は、現実であるという実感がある。俺は経った今、悪夢から目覚めたのだ。いつも目覚めれば朝だが、今日に限って外はまだ薄暗い。時計を見ると、午前五時だった。

「見てはいけないよ」

 しかし、猿の声が聞こえる。

「何なんだよ、くたばってないのかよ」

 まだ夢の中か。先ほど、夢の中で斃したつもりになっていたが、三猿はまだ健在らしい。もうたくさんだ。ちょちょいと死んでやれば、この悪夢から目覚めるのだろうか。

 何度も続く夢にうんざりした俺は、窓を開けて身を乗り出しかける――その時、視界いっぱいに青白い空が広がった。青――俺が、見たくない色。

「あ……ああ……」

 バチっと頭の中で青色が弾ける。次の瞬間、激しい頭痛が襲ってきて、俺は思わず窓から身を引っ込めてその場にしゃがみ込んだ。大声で叫んで助けを呼びたいのだが、あまりの痛みに息が吸えず、声が出ない。

 バチバチと、何度も青色が弾ける。その青色が、次第にカタチを作っていく――青い、部屋。俺の、かつての下宿。



 青い部屋――絵里――蒸しかえす熱さの中――血の海――助けを呼ぶ声――赤ん坊――その全てが繋がり、一つの記憶を呼び起こす。



……



 その夜、俺は紀次たち男子数名のグループで花火大会を行なっていた。絵里も連れていくつもりだったのだが、気分が優れないから留守番しておくと言って、俺の部屋で寛いでいる。彼女を一人にしておくのがイヤで、俺は早めに花火大会を抜け出して、自分の部屋へと向かっていた。その俺のケータイに、絵里からの電話がかかってくる。

「どうしたんだ? 今部屋に戻る途中だけど……」

 何かお遣いでも頼まれるのか、という予想の下、応答する。しかし――。

「さと……助け、て」

 今にも消え入りそうな、苦しそうな絵里の声。ただごとではないと、瞬時にわかる。思うより早く、駆け出していた。

「今、俺の部屋にいるんだな?」

「うん……助け……早……」

 苦しそうとか、そういうレベルではなかった。今にも、息絶えそうだ。一刻の猶予もない。

「救急車呼ぶからな、いいか、そこにじっとしてろよ」

 俺は電話を切り、一一九をコールする。住所と、死にかけているから助けてくれとだけ伝え、電話を切った。救急車が来るまで、どれくらいかかるのだろうと不安になりながらも、こんなところで絵里を失ってたまるかと気持ちに活を入れて、絵里にコールする。九回目のコールで、やっと彼女が出る。

「絵里、救急車を呼んだぞ」

「……」

 しかし、電話はつながっても彼女の声はなかった。もう、声を出す余裕もないのか。

「絵里、待っててくれよ!」

 下宿のあるマンションへと辿り着き、六階まで駆け上がる。どうして一階の部屋を選んでおかなかったのか、悔やまれて仕方なかった。階段の一段一段が、やけに重くのしかかる。そうしている間も、俺は常に受話器に向かって声をかけ続けていた。

「絵里!」

 扉を力任せに開き、玄関に立ったところで、俺はケータイを切る。そして、靴を脱ぎすてて部屋の中へ一歩踏み出す――直前で、俺の体は凍ったように動かなくなった。

 早く、絵里のもとに行ってやらなければならない。そのために、息急き切って走ってきたのだから。なのに俺は、玄関に立ち尽くしていた。噎せかえるように熱い部屋には、夜半の月が青白い光を投げかける。カーテン越しだが、その光は部屋の中を充分に照らしていた。青い部屋。部屋の中にあるものは、肩で息をする俺の呼吸音、噎せかえるような暑さ、そして――。

「見てはいけないよ」

 ここでも、俺の記憶に猿が干渉してくる。違う、猿などいなかった。その部屋にあったのは――鉄錆のような臭いと、水溜まり。そして――。

「聖……」

 お腹から赤ん坊の頭を生やし、生気のない目で俺を見る、血まみれの絵里。赤ん坊には眼球がなく、眼窩は暗く淀む。一目見て、それがまともな赤ん坊でないことはわかった。

「何なんだよ、それ……」

 俺は、茫然と呟く。絵里が妊娠したのは、俺も知っていた。そして、お互いにその赤ん坊を育てていこうと誓ったのだ。だから、絵里のお腹の中には、赤ん坊がいた。しかし、彼女の腹を突き破って出てきたそれは、まともな赤ん坊の姿をしていないではないか。しかも、彼女はまだ妊娠三ヶ月だった。それにしては赤ん坊の大きさも不自然なほどデカイ。

「聞いてはいけないよ」

 再度、猿の声。過去の俺は、おぞましい言葉を彼女の口から聞いた。

「私たちの赤ちゃん、だよね……」

 絵里は、血まみれで、立っているのが不思議なほどの体で――己の腹から突き出た赤ん坊を愛おしそうに見つめる。

「絵里、それは――そいつは――」

「やめて……」

 絵里が拒絶する。真実を告げようとする、俺を拒んだのだ。

「しゃべってはいけないよ」

 三度、猿の声が干渉してくる。しかし、記憶の中の俺は、猿がどう言おうが止まらない。

「そいつは――もう俺たちの赤ん坊じゃなくなってる」

「そんなことないよ!」

 彼女が叫ぶと同時に、部屋中の魔力が急激に減少し出した。その魔力の行く先は、彼女の体の中。俺の体からも、大量の魔力が奪われていく。足の踏ん張りが利かなくなって、俺は棒のように床へと倒れた。辛うじて手を先につく。

「絵里、お前――」

「私たちの愛の証だよ、赤ちゃんだよ? どうして、そんなこと言うの?」

 絵里は明らかに、正気じゃなかった。彼女が勝手に狂ったとは思わない。おそらく、あの赤ん坊か、あるいは姿の見えない他の存在に操られているのだ。

「あなたもこの子に触れば、きっと可愛さがわかるよ」

 そして、微笑みながら、血まみれの絵里が近づいてくる。俺は辛うじて上体を起こすが、立ちあがるまではいかない。そんなフラフラの俺の目の前に、彼女の腹部が――そこから生えた、赤ん坊の暗い眼窩が来た。その深く落ち込んだ眼窩を見た瞬間、凄まじい量の精神毒が俺の体の中に送り込まれる。

「あ……ああ……」

 情けない声が漏れた。全てのまともな思考が、侵食されていく。絵里がいて――俺たちの赤ん坊がいて――ずっと二人で、笑って、笑顔で――。そんな幸せが、目の前に広がる。そう、何もおかしなことはないのだ。目の前に絵里がいるなら、後はどうだっていい。俺は――俺は――。

 俺の全てが、狂気に呑み込まれる――その刹那、<詩>が弾けた。

『聖、現実を見なさい!』

 俺の体は、気づけばセイレーネスに乗っ取られていた。体中を巡っていた毒は、彼女の詩でほぼ消え去る。契約者が助けを求めた時、どれだけ離れたところにいようと瞬時に契約者の下へと召還される――<魂の契約>の力。

『もう絵里ちゃんは、手遅れよ……』

 次の瞬間、セイレーネスが何をしようとしているのかを悟り、俺は必死で止めようとした。しかし、俺が彼女に抵抗するよりも早く、周囲の空間を<詩>の鎌鼬が舞う。

『おぞましい怨念、赤子に取り憑く恥知らず――消えろ、嫉妬女!』

 そして、俺の体を、声を使って、セイレーネスは絵里の体に巣食った魔物を一撃のうちに屠った。可聴域ギリギリの甲高い悲鳴が上がり、絵里の体は崩れ落ちる。

「絵里!」

 俺はセイレーネスに体を乗っ取られている状態のまま、叫んでいた。

『待って、今、傷口を壊すから』

 そして、彼女が詠うと同時に、大きく開いていた絵里の腹部の穴は塞がる。しかし、完全に組織がくっついたわけではない。血は、次から次へと、止めどなく流れ出ていた。

「絵里! 絵里!」

 セイレーネスの支配から解放された俺は、彼女を抱きかかえた。彼女の生温かい血が、全身にしみ込んでくる。

「さと……る?」

 薄目を開き、彼女は俺を見つめてくる。そして、次の瞬間には泣き出していた。

「ごめんね。聖、ごめんね」

 俺の体を傷つけたことに対する謝罪か、赤ん坊を産めなかったことへの謝罪か、それとも――俺を残して死ぬことへの謝罪か。

「何で謝るんだよ。絵里は何も、悪くないじゃないか」

 俺も、涙を堪えることができなかった。笑って、彼女を安心させて、救急車に乗せて病院に運んでもらって――そんな風に思っているはずなのに、心のどこかで彼女が助からないことを知っている冷静な自分がいて、その冷静な自分こそが、涙を流しているのだ。

 何度も謝る彼女の口を、俺は口づけで塞いだ。彼女は、ピタリと動かなくなった。俺が舌を絡めると、彼女も弱々しく絡め返してきた。そして、何も言えなくなる。残された時間は、多くないはずなのに――想いが溢れすぎて、ノドにつっかえてしまったのか。

「聖、寒いよ……」

 今は夏なのに、彼女は寒さを訴える。失血による、体温の低下。

「ねぇ、ぎゅって抱いて」

 か細い声で、しっかり甘えて見せる彼女の体を、俺はしっかりと抱きしめた。これ以上触れあう面積は広がらないと思えるほど、広く、深く。

「あったかい……」

 そうして笑って、彼女は目を細め、そのまま閉じ――穏やかな表情のまま、永遠の眠りについた。遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえる。俺は指一本動かせずに、彼女の体を抱き続けた。

――その日、俺は掛け替えのない存在を永遠に失った。



……



 視界から青色が消え、意識が再び病室に戻ってくる。俺は、全てを思い出した。

「絵里……ああ、くそっ――」

 俺は床を拳で殴り付けた。鈍く小さな音を上げるだけで、床はびくともしない。どうしてあの日、絵里を一人にして花火大会に行ったのだ。どうして、あの日に限って、魔物は絵里の体を壊したのだ。理不尽すぎるじゃないか。彼女の死は、とても納得のできるものじゃなかった。

「聖」

 不意に、声がかかった。そこにあるはずのない声だったので、最初は幻聴だと思ったが――振り返った先に、絵里がいる。

「絵里……」

 しかし、愛しさは感じなかった。何故なら、彼女は血まみれで、腹から赤ん坊の顔を生やしていたのだから。これは、本物の彼女ではないのだろう。

「聖、あなた、後悔してるんでしょ?」

 血まみれなのに、腹から赤ん坊を生やしているはずなのに、彼女は穏やかに微笑みかけてくる。

「私と一緒にいられなかったこと、新しい命を消してしまったこと――でもね、まだやり直せるんだよ」

 そう言いながら、彼女は地面にしゃがみ込む俺へと近づいてくる。まるで、全てが似ていた。あの日の再現が、病室で行われようとしている。これは、俺の願望なのか。やり直したいという俺の願望が、こうさせているのか。俺はそんなに、やり直したいのか。

「拒むことはないんだよ。ほら、かわいいっしょ、赤ちゃん」

 暗い眼窩を持った赤ん坊の顔が、俺の目の前に来る。この赤ん坊を愛でるなど、どだい無理な話だ。しかし――。

「そうだな、かわいいな」

 俺は、赤ん坊を愛でていた。触りはしないが、その赤ん坊を見て、笑顔を作る。こうすることで、絵里が笑ってくれるなら――。

「そうでしょう? 聖に似て、男前になるよ、きっと」

 絵里は会心の笑みを見せる。そう、きっとあの時――こう言ってやれば、彼女は笑ってくれたのだろう。そして、俺たちはずっと一緒にいられたのだ。

「絵里、ずっと一緒にいよう」

 俺は、血まみれの絵里をぎゅっと抱きしめた。赤ん坊の顔が下腹部に当たるが、そんなことはお構いなしだ。俺は、彼女の温もりを全身で感じた。

「愛してる、絵里」

 たとえ二人一緒に狂ってしまうとしても、こうして彼女と抱き合っておけば、よかったのかもしれない。

 しかし――全ては過ぎ去った。もう遅い。

「でも――俺はもう、選んじまったんだよな」

 後悔は、後悔でしかない。やり直した気分になれたこの瞬間は、幸福感さえあった。それでも、それを受け入れるわけにはいかない。

「俺は、絵里の笑顔とともに生きると決めた。だから、ここで死ぬわけにはいかないんだよ!」

 抱きしめていた力を、必要以上に強める。おそらく、激しい痛みを感じるほどに。

「お前が本物の絵里だと言うのなら、俺の魔力を吸い取ってみろ! 俺がお前を絞め殺す前に、俺の魔力を吸い取ってみろおおおおおおおおおおおおおお」

 俺は絶叫とともに、<詩>の力を発動した。俺の締め付ける力によって生じた力の波が、詩と重なって共振を生み、物質の崩壊を招く。可聴域ギリギリの甲高い悲鳴を上げて、絵里の体は消滅した。直後、辺りの景色が歪み始める。おそらく、今の絵里の体が猿の本体だったのだろう。やはり、ここはまだ夢の世界だった。

 もう猿は斃した――そう思ったのだが、歪む視界の隅で小さく動く影がある。まるで<矮小悪魔(インプ)>のように小さく見にくい、毛むくじゃらの猿。俺と視線が合った瞬間に飛び上がって走り出した。

「逃がすかよ!」

 後はもう、普段のインプ狩りと同じだった。俺は毛むくじゃらの猿に向かって飛びかかり、右拳を体の中心にお見舞いする。それと同時に、やはり可聴域ギリギリの甲高い悲鳴を上げて猿は消滅した。それが引き金となって、全てのまやかしが解かれる。視界も、平衡感覚も、全てが戻って来た。悪夢は、終わったのだ。

 しかし、次の瞬間、俺の体は中空に放り出されていた。浮遊感や現実感を伴わない夢の中とは違う――風を切り、確かに落下している。どうやら、猿に飛びかかった際、現実世界では病室の窓を飛び越えていたらしい。俺の病室は三階だが、それでもかなりの高さがある上、俺は頭から地面に向かっていた。

(やばい、鳥にならないと、地面にぶつかって生卵だ――)

 俺がピンチを訴えた瞬間、俺の隣に気配が生じる。魂の契約によって、物理的な距離を無視して使い魔を召還する力。

「何よ聖、またピンチなの――って、あら、ヒモなしバンジーか何か?」

 俺に召還されたセイレーネスは、俺を抱えて地面へと降り立った。見れば、俺を抱えた両手を残したまま、彼女は肩甲骨の辺りから巨大な翼を生やしている。

「あれ? お前の翼って、両手じゃなかったのか? それじゃあまるで、天使様じゃねーか」

「ああ、これね。練習したら、肩甲骨を翼に変化させられるようになっちゃったの」

「お前、ホントに何でもありだな」

 俺は、セイレーネスが実際に翼を生やして飛んでいるところを見たことがなかった。ただ話で聞いていただけだったので、このことは全く知らなかったのだ。彼女は、本来の翼を両腕に変化させているだけでなく、肩甲骨まで翼に変化させることができるという。

「つまり、四つの翼を持つわけか。そういう天使、いそうだな」

「あら、珍しいわね。お姉さんを持ち上げる気になったの?」

「今、持ち上げられてるのは俺だけどな」

「上手いこと言うわね」

 俺とセイレーネスは、窓から病室へと戻った。

「一体、何があったのかしら? 自殺未遂……にしちゃ、助け呼んだものね」

 そして、今までに見た夢の内容と、絵里にまつわる記憶喪失のことを彼女に話して聞かせた。

「絵里が死んだ時のこと、全部思いだした。お前、黙ってくれてたんだな」

「しゃべっても、聖が頭抱えて悶えるだけじゃない。誰がしゃべったりするもんですか、めんどくさい」

 セイレーネスは苦笑していた。彼女も、扱いに困って来た話題だ。今の心境をどう説明すればいいのか、俺と一緒で彼女もわからないのかもしれない。

「俺がお前を避けてる理由も、絵里が死んだ時のせいだったんだな。今、やっと自分でわかった」

「そうね。あなた、あの日から何にもやらなくなっちゃったものね。無視されながらも、聖のために炊事洗濯全部やってあげてたなんて、私自身、信じられないわ」

 彼女はそれから、口を半開きにして黙り込んだ。それまでの微笑みが、剥落していく。続きを言うべきか、迷っているように見えた。彼女にしては珍しい。俺は、じっと彼女を見つめて続きを待った。やがて観念したように、彼女は溜め息まじりに言う。

「聖は――今でも私を怨む? 絵里ちゃんを犠牲にして、あなたを護ったこと――あなたは怨むかしら?」

 すっきりするような回答が返って来ないことを、彼女は知っている。俺の魂は、哀しみに震えているのだから。

「よくわからん。きっと、怨んだことはない。でも、お前と一緒にいると、不幸になるような気がしてな」

「そうよね。やっぱり、そうなのよね」

 だから俺は彼女が苦手だし、彼女も俺から離れて放浪の旅に出ていく。

「俺は、お前のこと苦手だよ。お前は、俺のことどう思ってるんだ?」

「私も苦手だって言った方が、フェアかしら?」

「本音を言えよ。それこそ、フェアじゃない」

「そうね」

 彼女は笑った。そして、この世の全てがおかしいのだ、という顔をしながら続ける。

「私は聖のこと好きよ。好きだけど、苦手。というか、もう全部苦手よ。ぜーんぶ」

 両手をいっぱいに広げて、彼女は笑う。

「どんなに長生きしたって、どんな優れた能力を持っていたって、なーんにも思い通りにならない。『私は高位の魔物です』って、偉そうな顔してて、かわいい弟のために何かやってやれたの? 嫌われ役にすらなれないじゃない。情けないったら、ありゃしないわ」

 深い哀しみの感情――そして、それが行き着いた先の、虚無。それが、魂を通じて俺にも伝わる。何も、言えなくなった。

「あーダメダメ。こんなくだらないこと言ってるくらいなら、もっと嫌われ役熱演しないとね。聖、お小遣いちょうだい。散財してくるから」

「もう使い切ったのか、はえーよ」

「服買ったら一発よ」

 まるでスイッチが切りかわったように、彼女の哀しみが霧消する。俺もそれに調子を合わせようとするが、合わせきれない。

「そんな嫌われ役頑張るくらいなら、好かれ役頑張れよ。もっとあれこれ手伝いしてくれ」

「疲れるからやだ」

「疲れるのは、一緒にいるせいだろ?」

「……」

 俺とセイレーネスの間に、沈黙が降りる。一瞬、孤独な人間の女が、そこにいるように見えた。

「お前といると、確かに疲れるわ。でも、疲れるってのも、いいんじゃないか? 余計なこと考えなくて済むし」

「それが、この入院生活で聖が得た教訓ってわけかしら?」

「ああ、そうだな。余計なこと考え過ぎて、疲れたわ。もうこりごりだ」

 そして、気づけば俺は笑っていた。肩を小さく揺らす程度だが、笑っていた。こんな風に笑ったのは、ひどく久々な気がする。

「あなたが笑うなんて珍しい。よっぽど、今回の入院生活が楽しかったのね。私も入院してみようかしら」

 セイレーネスが的外れなことを言っている。

「やめとけ。ストレスで羽が全部抜け落ちるから」

「あら、だとしたら、腕が骨だけになっちゃうわね」

「マジかよ……グロテスクだな」

「やっぱ遊びに行ってくる。聖、カード貸して。あと、暗証番号も教えて」

「そうすることによるメリットはあるのか?」

「ない」

「じゃあ貸せないな。第一、お前に貸したら残高マイナスになるわ」

 こうしてセイレーネスと会話しながら、再び日常が戻ってくることを予感した。







四話へと続く……







※出し惜しみせずに、3話まで一挙アップしてみました。
現在、4話を執筆中です。来週末くらいにはアップできるといいなぁ・・・

あと、章分けするのをすっかり忘れていましたが、5話まででとりあえず一段落。
閑話を挟み、6話以降からガラッと流れが変わる予定です。
上手く描けるかわかりませんが、敵さんのスペック的に、バトルシーンがかなり派手なものになる予定です。
早くそちらの執筆に取りかかりたいのですが・・・先は長いです・・・



[27529] 町に佇み 第四話『心病みの籠女』 Part1
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:26
 私、白葉絵里(しらは えり)が海詩聖という男の子に出会ったのは、高校に入学した直後だった。

 誰にも迷惑をかけたくない、かけられたくない。そう思っていた私は、彼に会うまで自分を曝け出した経験がなかった。だから、彼が私の全てを受け入れてくれたあの日、私の全ては報われた。だから、私は後悔していない。彼に二度と会うことがないのだとしても、私は構わない。彼には、生きている喜びの全てをもらったのだから――。



第四話『心病みの籠女(かごめ)』



 私は物心ついたころから、すでに常人ならざる魔力を有していた。私が腕を振るうだけで、周囲に寄ってくる幽霊の類は私に食べられてしまう。私は全身がブラックホールのようになっていた。光ならぬ、魔力を吸い続ける存在。その自分の力を怖れ、私は目立たないように生きることを決意する。

 私の生き方を強く決定づけたのは、祖母だった。三姉妹の末っ子だった私は、昔から「あまり両親に構ってもらえていない」という感覚を持ち続けてきた。四歳上に二歳上、二人の姉はともに優秀で、私はいくら努力しようとその年月の差を埋めることができないと悟っていた。だから、何となく、家に居場所がなかった。除け者にされたわけではない。みんなにはよくしてもらった。でも、気を使われるのが何となく窮屈で、我が家が苦手だった。そんな私は、たまの休みに遊びに行く祖母のことが大好きだった。祖母の横にいる時が、一番居心地がよかった。

「絵里ちゃんは、白妖の血を引いとるね」

 私が五歳だったその年の夏休み、お盆に里帰りした際、祖母が私の頭を撫でながら言った。

「はくよう?」

「絵里ちゃん、幽霊とか妖怪とか、そういうの見えとるっしょ?」

 私が頷くのを見ると、祖母は続けた。

「幽霊や妖怪が寄ってくると、絵里ちゃんの体に吸い込まれてしまう。そうじゃないかい?」

 私はもう一度頷く。祖母が、何か難しいことを言おうとしているんだな、ということが感覚的にわかった。

「そりゃあね、絵里ちゃんに白妖っていう妖怪の血が流れとるからだよ」

 祖母は平易な言葉を選びながら、ゆっくりと説明してくれた。まるで、広く知られた昔話を語って聞かせるように、淀みなく――。

「これは、白葉の家に伝わる物語。

 ――むかしむかし、あるところに魔力を食べることで生きている、真っ白な妖怪がいました。魔力というのは、魔法の力の源です。その力を食べ、強い力を持つその白い妖怪は、白妖(はくよう)と呼ばれていました。
 白妖は様々な生き物の魔力を食べていましたが、もっとも美味しい魔力を持つのが人間だったので、よく人間を襲いました。襲うといっても、命を取るわけではありません。こっそりと、少しずつ魔力を奪うのです。生かしておけば、殺すよりもはるかに長い間、人間から魔力を奪えた。だから、人を殺すだけの力を持ちながら、白妖は人を殺しませんでした。
 白妖は、人を自分たちの持ち物だと思っていたので、他の魔物から人々を守りました。そのため、人々からは感謝され、喜んで魔力を差し出す人も多かったのです。
 しかし、白妖のことをよく思う人ばかりではありませんでした。白妖のことを嫌う人々が、力ある人々に頼んで、白妖を退治しようとしたのです。
 力ある人とは、陰陽師や退魔師と呼ばれる人々でした。彼らは、白妖を次々と殺していきました。白妖も抵抗しようとしましたが、力ある人たちは強く、歯が立ちません。追い詰められた白妖たちは、人と交わり、完全には種族が残せなくても、密かに自分たちの力が人々の間で受け継がれていくことを望みました。そうして、半分白妖、半分人間という人々が生まれました。その数は時が経つごとに減りましたが、いくつかの一族は長く残り続けました。その一族のうちの一つは、白葉と名乗っているのです――。

 これが、白葉の家に伝わる物語」

 最初、幼すぎたこともあって、私はなかなか祖母の語ってくれる話の内容が理解できなかった。しかし、何度も繰り返し祖母に物語を語ってもらい、質問し、説明してもらううちに、理解できるようになった。ちゃんと私が物語の内容を理解したのは、八歳の夏だった。その年の冬、祖母は帰らぬ人となってしまったのだけど――。

 白葉の一族は、白妖と人間の混血の一族だということ。徐々に血が薄くなり、私はおそらく最後の白妖となるだろうと、祖母が語っていたこと。

「絵里ちゃん、絶対誰にもこのことを話しちゃいけないよ。話して大丈夫だと自分で判断できる歳になるまでは、家族にも話しちゃならんからね」

 普段柔らかだった祖母の、やけに真剣な声が、今でも脳裡に硬く響いている。祖母の言葉を忠実に守り、私は自分の力のことをひたすら隠して生きるようにした。

 祖母が生きている間は、祖母に話せるからよかったのだけど、祖母が死んでしまうと、耐えがたい苦痛に襲われた。誰にも打ち明けられない、相談できないというのは、不安である以上に、喉元や胸を掻き毟りたくなる衝動を引き起こした。ついうっかり、しゃべってしまいそうになる。そのたびに、冷や汗をかくような思いをした。この衝動から逃れるにはどうすればいいか、いつもそればかり考えていた。そして、一つの答えに辿り着く。誰ともしゃべらなければいい。

 その答えを見つけた日から、私は口数の少ない女の子になった。もともとは口数が多い性質だったから、最初の方は口を塞ぐのが大変だったけど、その苦労も多くの人と関わって口に気をつけることと比べれば、遥かにマシだった。私は自覚している以上に、孤独に強い人間だったのかもしれない。

 小学生の頃は、私の役者としての力量不足で、なかなか他の子たちと関わらないで生きることはできなかった。何かと巻き込まれた。それが中学になると、だんだん私は空気のように生きる術を覚え出す。多感な年ごろは、周囲の変化に敏感になり、一方で鈍感になる。空気のように生きようとしている私のような人間の存在を把握する子は、小学校のころと比べて格段に減った。それでも、まだ不十分だった。だから、出身校からただ一人の進学を決めた高校は、自分を完全な空気にできる、絶好の機会を与えてくれることとなるはずだったのだ。この頃にはもう、孤独であることが日常になっており、そんな穏やかな日常を送ることに満足していた。そんな私の前に、彼は現れたのだった。

 彼――海詩聖は、いかにも学校生活を楽しんでいるという賑やかな男の子だった。いつも一番賑やかのグループの中心で騒いでいたのが彼だ。彼は、私にとってはあまりにも眩しく、目障りだった。視界から消えてくれないかな、と最初の方は思っていたほどだ。そんな彼が、何故か私の方に視線を送って来た。

 最初は、気のせいだと思った。忍者顔負けに気配を消している私を意識できる人間など、いるはずがないと思っていたからだ。でも、彼は明らかに私を見ていた。

 いたたまらなくなって、私の方から声をかけてしまった。どうして私を見ているのか、と喧嘩腰に問うた私に対する彼の答えは、今でも忘れられない。

「どうして気配を消しているのか、気になるからだよ」

 私は、心臓が大きく脈打つのを感じた。衝撃波を受けた気分だ。ついに、語るべき時が来たのか――そんな直感があった。意図的に気配を消した私をわざわざ気にする存在の登場。彼には、強い魔力を感じた。彼ならば、私の話を聞いても信じてくれるのかもしれない。これまで、大勢の人々を拒み続けてきた心が、無警戒に彼を許容しかけている。私は慌てて、自分で自分を叱った。それがそのまま外にも反映され、私は噛みつくように彼を弾き返す。でも、彼は少しも折れなかった。それどころか、ますます私に興味を持ってしまったようで――。

 気づけば、彼から告白めいたことを言われていた。私は、どうすればいいのか、わからず、苛立ち、ますます噛みつく。私が犬だったら、まず間違いなく噛みついていただろう。

 私の心をメチャメチャにしないでよ――私を静かな女の子のままにしておいてよ――たくさん怒鳴り散らしてやりたかった。こんな気分になったのは、本当に久々だったのかもしれない。私はどうすればよいかわからず、気づけば一言怒鳴りつけて走り出していた。

 私は、逃げた。逃げ切れないことはわかっていたけど、どうすればいいかわからなくて、とりあえず逃げた。だから、逃げ込んだ無人の視聴覚室に彼が追いついて入って来た時は、たまらなく怖かった。彼のことが怖いのではなく、全てを曝け出したくなっている自分が、怖かった。

 まるで、テレビドラマを見ているようだった。自分の意識は体と乖離し、体が勝手に動いているような気分だった。自分が白妖であることを告げている間も「この女の子は、大して親しくもない男の子を相手に、どこまで打ち明けるつもりなのか」と、まるで他人事のように冷静に見ていた。これまで必死で秘匿してきた過去が、こんなにあっさりと白日の下に曝されてしまう日が来るなんて、夢にも思わなかった。

 その日から、二人の日々は始まった。私は、なるべく彼のことを意識しないようにしたけど、彼の方からいくらでも近寄ってくるから、それにも限界がある。

「おはよう。昼飯用意してないから、今日一緒に食べない?」
「あー疲れた。やっぱ英語はだりーなぁ。日本人なら日本語ちゃんとしゃべれたら充分だろ」
「部活って何入ってる? やっぱ帰宅部か?」
「お、まだいたか。よかったよかった。今日部活休みだから、一緒に帰ろうぜ」

 最初は、どれだけ話しかけられても無視していた。でも、彼もそんな私を無視して一方的に話しかけてきた。そのチグハグなやり取りが何だか気持ち悪くて、うん、とか、そうね、とか、短く相槌を打つようになったのは、わりとすぐだった気もする。

「ねぇ、私なんかと話してて、楽しいの?」

「楽しいっていうよりは、嬉しいな」

「どういうこと?」

「似た者同士の女の子と一緒にいられるのが嬉しいんだよ」

「何それ。私とあなた、全然似てないっしょ」

 前にも少し話したけど、と前置きしてから、彼は説明してくれた。

「俺も絵里も、能力者であることによって、周囲と自分との間にある隔たりを埋められずに生きてきた。まぁ、俺の場合は家族だけだったけどな」

「それだけ?」

 私の言葉に、彼は首を振った。

「性格も似てる、多分」

「いや、真逆っしょ、どう見ても」

 即否定した私に、彼は気を殺がれた風でもなく、大真面目な顔をして口を開く。

「思い込んだら一直線なところとか、頑固なところとか……そういう保守的っていうか、排他的っていうか、そんなところがそっくりだと思うんだけどな、俺は」

 私はドキッとして、彼を見つめる。頭ごなしに短所を挙げられると誰でも気を悪くするものだと思うが、彼は私の短所を挙げるために自分を巻き込んでいた。あるいは、自分の短所に私を巻き込んだのか。ずるい男だな、とその時思った。私の性格は、彼の言葉によって「二人そっくり」ということにされてしまったのだ。悪い気はしなかった。何故なら、彼は私にとって眩しかったから。目障りだけど、眩しかったから。

「私のこと、何も知らないくせに、決めつけるのね」

「決めつけられるのがイヤなら、もっと教えてくれよ、絵里のこと」

 彼は、今この瞬間も一直線で、頑固で――それは私と似ているなんてレベルじゃなかった。私は、ここまでの頑固さは持てなかったのだから。彼の頑固に負けて、私は彼の声に次々と答えを返す。

「静かな美少女も悪くはないけど、やっぱり、女の子はしゃべってくれないとな」

「それは女の子に限らないっしょ」

「いやいや、男はしゃべらなくていい。うるさいから」

「私たちのクラスで一番うるさいの、聖だと思うけど」

「声がいいのが取り柄なもんでな」

 八歳から私が築き上げてきた七年間の沈黙の月日は、全て否定された。その代わり、彼は今ある私の全てを肯定してくれた。そして、いつも彼のことを考えている自分に気づいて、もう引き返せないところまで来てしまっているのだと悟る。だから、私も彼を肯定した。

 それでも最初は、友人の範疇で付き合っていくつもりでいた。今まで色恋沙汰どころか友人関係も希薄だった私が、彼の恋人になれるとは思えなかったからだ。それなのに彼は、私の心の奥にぐいぐいと入ってきて――そして私は、どうしようもないくらいに恋をする。

 自分でも呆れてしまうほど、恋の炎は激しく燃え上がった。今まで抑えつけてきた分、燃料も溜まっていたに違いない。彼と話し、彼を感じ、彼に感化されていくうちに、私はかつての自分に戻っていくような感覚を味わった。おしゃべりで、何でもかんでもすぐに口に出してしまう八歳の女の子、絵里――沈黙を友に生きてきた一五歳の私は、心の中で彼女と再会したのかもしれない。

 どこかで自分にも彼にも遠慮しながらの胸が詰まる日々は、彼と手を繋いだ日で終わった。自分の左手に、車道側を歩く彼の右手が重なった、初夏の帰り道――あの日、私の全ては終わり、彼と私の全てが始まった。

「聖の手って、男の子のくせに柔らかいね。私の手の方が硬い」

「そりゃ気のせいだろ。指を絡めてがっちり手を組んだら、お互いの感覚が溶け合って、一つの手になるんだから」

 そう言ってみてから、彼は照れくさそうに「ちょっとくさすぎるか」と笑った。「くさいね」と私も笑う。彼は、お世辞にも口が上手い方ではなかったけど、ロマンチストなところは魅力だった。夢見ることが好きだった――そうすることでしか自分を慰めることのできなかった私は、根っからのロマンチストだったのだから、当然相性が良かった。

 思い返すと、私ははっきりと彼に返事をせず、なし崩し的に恋愛関係を結んでしまった。そのことは、少し心残りかもしれない。告白と、その返事――こういう儀式めいたことは、やっぱりみんなやった方がいいと思っているから、いつの世にもある。そういうのは、大事にした方がいいと思う。もしあの頃に戻れるなら、高々と宣言してみたい。「付き合ってあげてもいいよ」と。

 でも、それはもう叶わぬ夢。過去にはもう、帰れない。



[27529] 町に佇み 第四話『心病みの籠女』 Part2
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:26
 毎日が、デートだった。登校日で会わなかった日は一日だってない。会えない日(大概は休日)には、必ず電話やメールのやりとりをした。宿題や予習の相談もしたけど、たいていの場合は雑談だった。

「聖って、小説読む?」

『そう見えるか?』

「見えない」

『だろ?』

 孤独で狭い世界に生きることを選んだ私の世界は、小説の中だけで広がった。私が同い年の子たちと比べて自慢できることがあるとしたら、読書量くらいのものだったかもしれない。だから私は、彼に色んな小説を薦めた。それくらいしか、話題が思い浮かばなかったから。
 週明けに会えば、本の貸し借りが行われる。もっぱら、私が聖に貸してばかりいたけど。

「川上弘美読んだぞ」

「どうだった?」

「読みやすいし、飽きずに読めたけど、今の俺じゃ理解しきれねーなって思うことがいっぱいで、なんか歯がゆいな。「何となくわかる」以上に理解が進まないんだよな。もっと読書してくればよかったわ」

「私も結構読書してる方だけど、理解しきれないなーって思うことは数えきれないくらいあるよ。だって、筆者と私は全く違う感性を持ってるんだし。そういう色んな感性に触れることが大事なんじゃないかな」

「理解できないことの言い訳みたいに聞こえるけどな」

「自分の世界が広がったと思えれば、理解できなくても充分読書した価値があると思わない?」

「まぁ、一冊読み切ったっていう達成感なら、充分あるわ」

 読書を全くしてこなかったという割には、彼の文学性は優れていた。読書のスピードも速いし、いつも私と文学の話をすると議論が熱を持ってくるのだった。

「何で今まで読書してこなかったんだろうな。いい趣味が見つかったぜ、サンクス」

「いいってこと!」

 と言い合いながら、互いの拳を小さくぶつけ合ってみたり――何をしても楽しくて、「青春してる」という実感を持てた。

「ねぇ、私に合わせるために、無理に読書したりしてないよね?」

「最初の一冊を読み始める時は、そうだったけどな。今は絵里に薦められなくても次が読みたくて仕方ない。早く絵里の読書量に追いつきてー」

「やっぱ私に合わせてるっしょ、それ。第一、読書は聖のイメージにあんまり合ってないし」

「おいおい、自分から読書勧めておいて、そりゃねーだろ」

 彼がどこまで本気で文学を好きになったのかはわからない。本気で好きになってくれていれば、もちろんうれしいけど……そうじゃなかったなら、それは私の罪だ。彼にそうせざるを得ない状況を与えてしまった、私の落ち度だと思う。でも、たとえ気づかわれただけだとしても、彼の優しさに触れられたのだから、私は満足してる。嘘は嘘でも、優しい嘘は悪くないもんだね、聖。

「聖の趣味って、何?」

 彼は、私の趣味を全面的に受け入れてくれた。でも、その逆を全く求めてくれなかった。だから私は、彼が自ら語ってくれるのを待たずに訊いていた。もっと私を巻き込んでほしい――もっと聖の色に染め上げてほしい――その想いが、私の胸の内を焦がしていた。彼に近づききれないことに罪悪感を覚えはじめてしまったほどだ。

「俺の趣味? 趣味ねぇ……趣味……」

 彼は困ったように手をこまねいて眉を寄せた。まさか、何もないと言うつもりなのか。だとしたら、私はどうすればいいのか――私が不安になりかけた時、彼が右手で後頭部を掻きながら私の方を向いた。

「人様に自慢できるような趣味は一つもない。だが、くだらないのが一つだけある」

「何?」

「笑うなよ?」

「何よ、早く言ってよ。焦らされたら笑っちゃうじゃん」

 彼は言うのをためらっている。それは、自信のなさの顕れなのだろう。こんなこと、趣味として分類できるわけがない――彼の顔には、そう書いてあった。

「バカ騒ぎすることだよ。楽しいことを考えて、それを実行に移す」

 彼のその言葉を聞いた瞬間、私の中の何かがすっと落ち着いていくような感覚があった。そうか、だから彼は賑やかだったのか。趣味と言えるほどに、そうすることが好きだったのだ。

「な、ヘンだろ?」

「どこがヘンなの? 聖らしすぎると思うけど」

「読書みたく蓄積していくもんなんて、なーんにもないぜ? 刹那的で、快楽的で、非合理的で――」

「でも、思い出は残るっしょ。内的な財産ってやつじゃないかな」

 淀みなく、私は切り返していた。楽しく生きられることを――眩しく生きられることを、否定してほしくなかったから。

「あー、そう考えると、趣味なのか」

 納得したようで、でも、どこか腑に落ちない様子で宙を仰ぎながら首を傾げる彼に、私は畳みかける。

「納得しきれないなら、写真撮影とか、アルバム作りとか、そういう趣味を複合しちゃえば?」

「俺に、そんなマメさがあるように見えるか?」

「悪いけど、あんまり見えない」

「だろ? だから、趣味と言えるかどうか、自信がねーんだよな」

「気が向いたら写真撮って、アルバム作ればいいんだよ。いっつもやると、それが義務みたいになって窮屈になるっしょ」

「たまに、か……。毎回やらないと、そもそも忘れそうだけどな」

 彼が自分の趣味を肯定的に捉えてくれた気配を感じて、私は次のステップへと移る。

「私も、その趣味一緒にやらせてよ」

 私がそう言った瞬間の彼の顔ときたら、今でも忘れられない。どう表現すべきか――顎が落ちて、目が大きく見開かれて――マンガ的な表情だった。

「え、マジかよ。正気の沙汰とは思えん」

「その言葉、そっくりそのまま聖にも当てはまっちゃうけど」

 特にその顔――と、私は心の中で付け足す。

「いや、俺はいいんだよ。元々コレだし。でも、絵里はそういうの慣れてないだろ」

 当然、慣れているわけがない。人と関わらないように生きてきた私が、そういうのを得意とできる道理はないのだから。でも、私は決めていた。私と歩んでいくと言ってくれた彼――聖とともに、自分も歩幅を合わせて歩んでいきたい。そのためには、何だってやってみる、と。

「うん、もちろんそうだよ。でもさ……一緒に歩いて行きたいよ。聖に合わせてもらうばかりじゃなくて、私も合わせていきたいの」

 彼の目をまっすぐに見つめながら、私は訴えた。真摯な気持ちは確かにあったはずだけど、次の瞬間には可愛い子ぶろうとする計算高い自分が現れて、上目遣いになっていた。彼が見事に引っかかってしまう。でも、彼はただでは落ちない。

「……やばい、胸キュンした。苦しい、胸が苦しい。息が吸えない」

 彼は突然呻きながら手をバタバタさせる。

「酸欠酸欠、早く、人工呼吸を……死ぬ……うう……うう……」

 オーバーリアクションで苦しがってみせる彼。やけに唇を尖らせているので、勘が鋭いとは言えない私にもその意図がわかった。彼の唇に、私はそっと――ハンカチを押しあててみる。

「ああ、柔らかいな。どの柔軟剤使ってるの――って、なんでやねん!」

 関西人のような、見事なノリツッコミだった。

「こういうことでよかったの?」

「ああ、第一課題はクリアだな」

 その日から、私の人生は変わるどころか、一八〇度回転することになった。

「でもまぁ、ホントにキスしてくれるかなと期待したんだが……」

「私の唇はそんなに安くないから」

「お、言うねぇ」

「五千円くれるならいいよ」

「リアルな金額だな、おい」



……



「はいはーい、ネクタイ回収しまーす」

 昼休み、聖がクラスの男子全員から制服のネクタイを回収し出す。これは、以前から何度も行われて恒例行事となっている、ネクタイ巻き競争の準備だ。

 同じクラスの今井くん――通称ノリと二人でネクタイ巻きの本数を競う。巻いて良い場所は首のみ。制限時間は三分。結んだ際、ネクタイ裏側に伸びる遊び部分が通し用の耳に通り、表面より長くなりすぎないようになっていなければ、そのネクタイはカウントせず無効。ネクタイの山からネクタイを取っていき、無くなった場合は隣のクラスにかけ込んでネクタイを回収すると同時に巻いていくという、無駄に忙しいルールとなっている。あまりにも頻繁に行われるので、みんなのネクタイには名前が書いてあるほどだ。だいたい一五本が限度といったところか。

 彼らに付いた通り名は「ネクタイ結びのプロフェッショナル」、その速度と正確さは老練の域に達している。

「一分経過。聖は六本目、ノリは六本目を……結び終わった! 聖、遅れてるよー」

 私は、そんなバカどもを見守る実況者であり、審判だ。

「おっと、ノリが痛恨の長さ調節ミス! 聖が逆転か……あーっと、聖も同時にミス!」

 何故か、無駄に熱い勝負が展開される。残り一分三〇秒を残して、ネクタイが無くなったの期に、二人はネクタイを結びながらも隣の教室に移動する。私もそれを追って移動する。

「聖は一〇本目に突入! ノリは……ネクタイの提供を拒否されて一一本目になかなか突入できない! そうこうしているうちに、聖も一〇本目を結び終わったー!」

 聖よりは、ノリの方が若干ネクタイを結ぶのが上手い。だから、ノリの勝率は六割ほどある。

「今日こそいいとこ見せてよー」

 私は聖にエールを送る。たかだか遊び――されど勝負。

「今日勝ったら、絵里とデートできるんだろ?」

「そんな約束してねーよ!」

 ノリが勝手に私を景品にした。それならいっそと思い、私も悪ノリする。

「ノリに負けたら、今日一日は私の召使いやってね」

「何させる気だよ、くそー」

 そうこうしているうちに制限時間を迎え、ネクタイのカウントを行う段となった。私が二人のネクタイを一本ずつ、ちゃんと結べているか確認しながら解いていく。

「一二……一三! ノリの勝ちだね」

「くそー、マジか! ……申し訳ございません、お嬢様」

 そして結局、聖は私の召使いとなった。ノリには別の彼女がいるため、デートの話は自然消滅する。

「ささ、お嬢様、お荷物を持たせていただきます」
「お嬢様、この先階段でございます。足元にお気を付け下さい」
「お嬢様、お疲れではございませんか? 負ぶって差し上げます」

 最後のはさすがに却下した。

 ……とまぁ、こんな感じで、私は根暗の陰キャラから根明の陽キャラへと華麗に転身してしまったのだ。私自身は殆ど何もせずに調子を合わすばかりだったけど、聖やノリとその仲間連中――彼らと一緒に行動しているうちに、私の周りには自然と人が集まるようになった。

 聖だけに夢中になっていたはずなのに、何故か女の子友だちも増えていた。彼女たちの思惑は様々で、一番陽気に騒いでいる私に近づけばコミュニティが広がると計算していた子もいれば、学年切ってのイケメンであるノリに近づくために私に接近してきた子もいる。いずれにせよ、私は多くの仲間に囲まれることとなった。

 まともな友だち付き合いをしてこなかった私は、男の子相手よりも女の子相手の付き合いで苦労した。どんな風に付き合っていけばいいのかわからず、気疲れすることも多かった。その中で、それとなく、色んな子から情報を訊き出す術を身に付けた。

 たとえば、「もっとかわいいメールの打ち方とかないかなー、私あんまりメールしたことがなくて」という質問。この質問だけで、私はメールの打ち方を覚えるだけでなく、メールのやり取りから日常会話の糸口を見つけたのだ。直接顔を突き合わせての会話はボロが出るんじゃないかとヒヤヒヤの連続だったけど、メールだと慎重にやり取り出来るし、顔を見られないで済むのも疲れなくてラクだった。

 もちろん、メールにはメールの難しさもあったけど、それは「メールに不慣れだから」と最初に断わっておくことで何も問題にならなかった。陰では色々言われていたかもしれないけど、少なくとも見えている範囲では平和だった。正直、聖さえ私の味方でいてくれるなら、世界中が敵に回っても構わないと思っていたから、あまり気を使う必要はなかったのかもしれないけど。聖に裏切られることなんて、想定すらしていなかった。



……



 こうした生活の変化に伴って、高校に上がった瞬間にケータイ代が跳ね上がったから、母から何事かと訊かれた。親にいかに心配をかけないか――これは、親に信頼してもらえるかどうか、という点に直接かかわってくる。信頼してもらわなければ、後々聖との付き合いの障害となる危険性があった。

「ずっと基本料しか払ってこなかったのに、急に友だちでも増えたの? それとも、ケータイの使い方でも覚えちゃったのかしら?」

「うん、友だち増えたの」

 親に信頼してもらえるよう、丁寧に受け答えする必要がある――頭ではわかっていたのに、いざ顔を向き合わせると、何となく投げやりになってしまう。

「絵里は今まで友だちの話あまりしなかったものね。あなた自身が不満そうにしてるわけじゃなかったから、あまり言わなかったけど……お母さん、正直心配してたのよ」

「余計なお世話よ」

 言いながらも、私は自己嫌悪に陥っていた。みんなに余計な心配をかけさせない、大人しい子を演じていたつもりだったのに、結局は心配ばかりかけるダメな子だった自分。そんな自分に無自覚だったことが、情けなかった。学校の成績がそこそこ優秀で、非行に走るでもなく大人しく生活していれば心配をかける要素なんてないだろうと高を括っていたのだから。

「ごめんなさいね、余計なこと言って。あなたが友だち増えたのかと思うと嬉しくて、安心したから、つい――」

「何で?」

 私は思わず口にしていた。母が小さく驚きの声を上げる。

「何で、お母さんが謝るの? 謝らなきゃいけないのは、私の方だよ。さんざん心配かけさせてたんだから」

 ここでやっと、私は母の顔を見る。母を無視しようとしている自分がいることにすら、無自覚だった。

「私、お姉ちゃんたちみたいに、優秀になれないよ。何やっても、ダメなんだよ」

「そんなことないわ」

「ダメなんだよ!」

 私は、怒鳴っていた。母の顔には驚愕の色が浮かび、次に泣きそうな顔になる。

「絵里、そんなに私たちが嫌いなの? どんな育ち方がよかったの? お母さん、あなたのことがわからないわ」

 母は、唇を震わせていた。これではまるで、反抗期の母子の喧嘩ではないか。私は、反抗するつもりなんてないのに。

「お父さんやお母さんだけじゃなくて、菜摘も心配してるのよ? どうして、何も話してくれないの?」

 菜摘とは、上の姉の名だ。面倒見がよく、学校でもつねにクラスの中心にいるらしい。私とは正反対の道を歩んできた人だ。

「菜摘ちゃんには、理解できないよ、絶対に」

 とても優しい姉、菜摘。まるで母のように接してくれるけど、私は彼女に心を開いたことはない。あなたにわかってたまるか、といつも心の中で毒づいてきた。

「何でなのよ、絵里。教えてよ」

 母がかわいそうなので、全てを話してやりたい気分になったけど、さすがにそれはできない。娘に超能力があるなんて知ったら、余計に心配するだろうから。

「ごめん、教えられない」

「どうして……」

 母の目から、涙が溢れた。何をどうやっても、心配をかけさせる。どうするのが最善の手立てなのか全くわからなかった。



……



 悩み事は、一人で抱え込むものだった。秘密は誰にも打ち明けてはならない――そう決め込んでいた私は、聖と出会って、初めて色んな悩みを打ち明けることができた。自分の一番の秘密――魔力を吸い取る能力のことを教えてしまった彼になら、他の秘密はほとんど意味をなさないのだった。

 学校の帰り道、いつも別れる郊外の交差点に差し掛かった時、私は彼の顔を覗き込むようにしながら口を開く。

「聖、悩み事訊いてくれる?」

「ああ、どんどん言ってくれ」

 私は彼に、家族との関係を詳しく話した。私にどう接すればいいのかわからないといった様子の父。泣き出してしまった母。面倒見のいい長姉の菜摘。あの子ならなんとかする、と私に対して無関心な次姉の梨佳。話しながらも何となく恥ずかしさがこみ上げてきて、途中から私は聖の顔を見れなくなってしまった。次々と流れ去る車の列をぼんやりと見る。自動車の音が私たちの会話とぶつかって、周囲に会話内容が漏れないように隔壁を張ってくれているようだ。

「私、どうすればいいのかわからない。私の能力のこと話したら、それこそ心配するだろうし……でも、本当のこと言えないままでも、何で教えてくれないのかって心配されちゃうし。ウソついてでも、何か理由を話した方がいいのかな?」

 家族に能力のことを知られ、腫れものに触るように扱われてきた聖。私の祖母も、私が彼のような境遇に立たされることを心配して「誰にも言うな」と言ってくれたのだろう。

「なるほどなぁ」

 彼なら、一体どんなアドバイスをくれるのか、私は息を止めるようにして彼の言葉を待った。彼は地面を見つめながらしばらく黙りこんでいたけど、しばらくしてから顔を上げて私と視線を合わせた。

「自信はないけど、言っても大丈夫なんじゃないか?」

 それは、あまり予想していなかった答えだった。

「どうして?」

「絵里が無視し続けても必死で心配してくれてる家族なんだろ? だったら、今さら絵里が能力者だって知ったところで、逃げ出さないんじゃないかな」

 そうなのだろうか。私には、何もわからない。家族が私のことをどんな風に思っているのか。家族の全てが、わからない。

「逃げてばかりだった私が、相手には逃げないで待ってもらうなんて、できるのかな」

 いくらなんでも、虫が良すぎる話だ。

「正直、俺にはよくわからないけどさ……でも、家族愛ってヤツがあるんじゃないかな、絵里の家の場合は」

 俺の家にはなかったよ、そういうヤツは。聖は淋しげに笑う。

「血のつながった家族に、世話を焼いてくれる人なんていなかったよ。そういうのをやってくれたのは、幼馴染の両親だったな」

 そして私は、聖に女の子の幼馴染がいることを知る。彼といつも一緒にいた女の子、精華。その女の子は聖に好意を寄せていて、でも気づいてもらえないまま来てしまった――何となく、私は頭の中でそんなストーリーを組み立てる。失礼だと思いつつも、それは案外当たっている気がした。

「精華の両親はいっつも俺の世話を焼いてくれた。この人たちになら、何でも打ち明けられると思ったよ。実際、何でも打ち明けた」

「本当の家族じゃないから、却って上手くいったのかもしれないっしょ? ずっと同じ屋根の下で暮らしてると、話せないことって、あると思うし」

「そういうのもあるのかもしれないな。でもさ、本当の家族にしか言えないことっていうのも、あるんじゃないか? 赤の他人よりも、家族の方がまだ信頼できるだろ?」

 それに――彼は少し間をおいて、続ける。

「それに、もう答えは出てるぜ。今まで秘密にしてきたけど、もう限界が来てる。だから俺に相談しようと思った。限界超えてまで、隠し通せるわけないだろ?」

 まるで、私よりも私のことを知っているような口調で、彼は笑う。

「気取ったこと言ってくれちゃってー」

 私はふざけたように彼の肩を叩きながらも、それは正解なのだろうという気がした。

「言ってみろよ、思いきってさ」

「……うん」

 どんな結末になったって構わない。聖がいてくれるのだから、どんな失敗も恐れなくていいのだ。



……



 悩みに悩んだ。どんな風に切りだすか、家族はどんな反応をするか、家族を信頼させるためにはどうすればいいのか。煮詰まるには時間が必要だったけど、このことに煩わされ続けるのも嫌だったので、当たって砕けろの精神で行動を起こすことにした。

「私ね、能力者なの」

 家族全員が集合した食卓の席で、私は勇気を振り絞って告白した。みんな、ポカンとしている。いつもは私に対して無関心な梨佳ですら、私の方を凝視していた。次に私が何を言うのか、みんな黙って待っている。

「私はね、魔力を吸い取る能力を持ってるの。私が八歳の時に死んだおばあちゃんも、同じ能力を持ってたらしいんだけど」

 私は口だけでは理解してもらえないと思い、周囲の空間から魔力を吸収することにした。体の中心――胃の辺りにある力の源のような部分に意識を集中させ、全てを吸いこもうと渇望する黒い力を解放する。束縛していたヒモを緩めるようにして、徐々に周囲の空間から魔力を吸収していった。途端、みんなの表情が一変する。

「みんな、ちょっと体がだるくなってきたっしょ? これは、私が周囲の空間から魔力を吸収してるからなんだよ」

 みんなの顔に、怯えの色が浮かぶ。やはり、能力は隠し通すべきだったのかもしれない。でも、もはや引き返せないのだ。このまま続けるしかない。

「別にこの力で悪いことをしようとか、そういうことは考えてない。でも、不気味っしょ? だから、今まで黙ってきたの。だから、余計なことをしゃべらないようにって、静かな子でいたの」

 これが、私の秘密、その全て。最初、口から心臓が飛び出るかと思うほどに緊張したのに、いざ話してしまうと、その緊張が嘘だったような呆気なさがあった。これっぽっちの秘密を重大なものだと考えて、今まで話せずに来たのか――何故かそう思えてくる。バカみたいだった。私は笑い出すのを止めることができない。

「笑っちゃうよね」

 でも、涙が出てきた。

「笑っちゃう。何でこんなヘンな能力持ってんだろう」

 私の人生のことごとくに影を落として来た白妖の力。何を変えるでもない、ちっぽけな力なのに、それは実力以上に私を苦しませ続けてきた。

「絵里……あなた、それで今までずっと――」

 母が、震える声で言った。

「ずっと一人で抱え込んで、苦しかったでしょう?」

 長姉の菜摘の声も震えていた。

「大丈夫だ。私たちはみんな、絵里の味方だ。誰も、絵里を見捨てたりはしない」

 父が、力強い口調で言った。みんなの言葉が芝居じみたように感じられて、笑えてくる。

「みんな、ありがとう」

 何だか全てが間抜けなようで、でも、温かかった。そんな中で、次姉の梨佳だけが不安そうな表情で私を見ているのに気づく。

「絵里のその能力って、誰かを殺せたりするの?」

 梨佳は、私を信用していない。私が簡単に人を殺せるなら、そんな危ないヤツの近くにはいたくない――多分、そういうことなのだろう。でも、そんなことを心配する必要はない。

「もし、簡単に殺せるなら、とっくにやってみてるんじゃないかな。梨佳で試したかどうかはわからないけど」

「ああ、なるほど。それもそうか」

 梨佳は笑う。細かいことを気にすることが苦手だと豪語する彼女らしい、屈託のない笑みだった。

「ごめんね、絵里。私、だいぶ酷い姉だったよね。まさか、そこまで重大な秘密を抱えて悩んでるとは思わなかった」

 そして、梨佳の笑顔は消えて泣き顔になる。

「何か、ヘンな感じ。みんな泣いてる」

 私のせいで、みんな泣いてる。泣いてくれている。涙っていうのは、こんなに熱く、温かいものだったのか。一五年間生きてきて、初めて知った。

「ごめん、せっかくの食卓を、ヘンな感じにしちゃって」

 涙を拭いながら、私たちは笑った。



[27529] 町に佇み 第四話『心病みの籠女』 Part3
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:27
 家族との関係が上手くいくようになり、私の人生は順風満帆を極めた。陰鬱な灰色の道を歩き続けてきた私にとって、日々の全ては色鮮やかで眩しく、楽しかった。全力で日々を生きて、毎晩泥のように眠った。寝付きの悪かった私は、寝付きがよくなったおかげで、目覚めもよくなって、吹出物も減った。それをみんなに言われる度に嬉しくなって、私はますます綺麗になっていくような感覚に包まれた。

 楽しい思い出はいっぱいある。遊園地でのデートは最高にロマンチックだったし、それ以降の日々も輝きを増して私を迎えた。聖と会うことしか考えられず、彼と会う時間が私の人生の全てだった。中でも一番印象深いのが、彼と初めて行為に及んだ時だ。

 付き合いだした当初は、性交については全く意識していなかった。当然、知識はある程度持っていたし、そうなるかもしれないという心積もりもあった。けど、性交にまで発展しない可能性の方が高いんじゃないかなと、たかをくくっていた。

 でも、恋というのは想像以上に激しく燃え上がるものだった。私が初めて聖の部屋に行った時、どちらが言うとでもなく、互いを求め合った。いや、違うか。私が無言で誘ったんだ。

「聖の部屋みてみたい」

「ダメだ。散らかってるからダメだ」

 と、なかなか彼は私を部屋に上げてくれなかった。本当は、もっと別の理由があって、私を部屋に上げなかったのだと思う。セイレーネスに引き合わせたくなかったのか、それとも、私を犯したくなる衝動を抑える自信がなかったのか。後者だとしたら、私の方が心配するべきだったのかもしれない。初めて彼の部屋に上がった私は、妙に緊張してしまって、ヘンな沈黙が訪れて――その時、私は彼を誘ってしまったのだ。あの時は、殆どしゃべらなかった。

「ねぇ、こっち来てよ」

 私に近寄って来た彼が一瞬戸惑う素振りを見せたので、ただ一言、「いいよ」とだけ言った。それから私たちは、互いを貪り合った。

 雑誌やアダルトビデオでの知識しかなかった私は、静かな性交に思わず笑ってしまった。

「なんか、黙々とセックスしてると、獣みたいだね」

 だから、ヘンなタイミングで、ヘンなことを口走ってしまった。

「ハードル上げんなよ。緊張して、何しゃべったらいいかわからないんだからさ」

 彼も、笑顔を返してくれた。言葉がないことが、少し寂しくもあったけど、彼の乱れる息を聴いているだけで、どんどん胸が苦しくなっていった。気持ち良すぎて、呼吸が追いつかなかった。そういう時に初めて、わざとらしい声を上げてみせたりするのだった。

 その日を境に、私は彼の家に泊まり込むようになった。一二月の二四日――忘れもしない、クリスマスイヴの日だ。それ以降、一週間のうちの半分ほどを彼の部屋で過ごすようになった。最高のクリスマスプレゼントだった。



……



 最高の喜びとともに、私は一つの恐怖も手に入れてしまった。能力のことに匹敵する、大きな秘密。女子高生の娘が、男の子の部屋に泊まりに行っているということ。それが両親にバレたら、絶対に許してもらえないと思った。しかも、セックスだって経験済みだ。黙って赦してもらえるはずがない。だから私は、ひたすら「友人の女の子の部屋に泊ってくる」と嘘を付き続けていた。でも、そんなのはバレバレだったらしい。ある日、部屋で宿題をやっていると長姉の菜摘に声をかけられた。

「女の子じゃなくて、彼氏の家に泊まりに行ってるんでしょう?」

 その言葉を聞いた時、私の世界は暗転した。全てが終わってしまう。そう思った。だから、何も言葉を返せなかった。

 ひたすら沈黙を守り、俯き続ける妹の姿を見た姉は、それを肯定だとみなし、一度肩で息をついてから、そっと言葉を紡いだ。

「……高校生ともなれば、半分大人なんだから。ちゃんと自分で責任を取れるんだったら、お父さんもお母さんも、何も言わないよ。私だって、彼氏とのこと話したけど、『好きなようにやりなさい』って言ってもらったし。だから、これからは嘘は言わずに、ちゃんと話してね。お母さんに言うのがイヤなら、私に言ってくれればいいから」

「菜摘ちゃん……」

 心配をかけさせたくないと思うが故に、家族に何も話してこなかった自分がいた。そんな自分を、両親や菜摘はいつも見守っていてくれたのだ。自分が知らないところで、とても心配してくれていたのだ。能力のことを明かしただけじゃ足りない。もっと、色んなことを発信していかなければならないのだ。

「女の子が急に色っぽくなったら誰だって気づくものよ」

 それからというもの、姉は時折避妊グッズを買ってきてくれた。たまにローターみたいなものもくれたあたり、相当協力的だったと思う。自分の体験談を交えながら、色々なことを教えてくれたのだった。

「騎乗位は上下っていうより、前後に動くと気持ちいいって言ってた。今度試してあげなよ」

 大学生の姉の話はやけに生々しかったけど、参考になったことは間違いないし、何より心の距離が縮まったことが嬉しかった。どうせ私のことはわかってくれない――そういう思い込みは、何も能力のことに端を発するわけではない。私は、自分を知られないようにするのと同時に、他者を知ろうとすることを放棄していたのだ。わかろうとしない者が、一方的にわかってもらえるはずがない。

「絵里もまた何か教えてよ」

「約束はできないけど」

 姉と笑顔を交わす自分がいる――まるで夢のようだった。



……



 聖が私のブラジャーを勝手に持ち出していた時は、本当に参った。二年生になりたての時期、私は彼の部屋に泊まり込み状態だったから、下着の替えも彼の部屋にたくさん置いていた。だから、盗み放題だったのだけど――とにかく、私は彼を信用しすぎていた。まさか、ブラジャーを学校で暴露されてしまうなんて……。

 ブラジャーを振り回して駆け抜ける聖とノリを見ながら、「またバカなことしてるなー」と他人事のように見ていたけど、その柄が私の持っているモノとよく似ていることに気づくと、急に冷や汗が出てきた。

「ちょっと、何やってんのよ!」

 私は必死で彼らの後を追った。

「見たらわかるだろ。ブラジャー振りまわしながら走ってんの」

 何でそんなことを訊くのか理解できない、という表情を作るノリ。聖が悪戯っぽく笑いながら続ける。

「先公にどこまで見つからずに行けるか勝負してんだよ」

「そんなことよりそのブラジャー!」

「ああ、絵里の借りてるぞ」

「何やってくれちゃってんのよ!」

「後で返すから、心配すんなって」

「そういう問題じゃないっしょ!」

 顔から火が出そうなほど、恥ずかしかった。誰も、私のブラジャーだと思ってみていないのかもしれないけど――むしろ、ここで必死になって彼らを追い回すことによってバレてしまうのだろうか。そう思いながらも、私は彼らと一緒に走った。

「前に俺やノリのパンツでやってるんだし、絵里もいいだろ?」

「男と女じゃわけが違うっしょ!」

 確かに、恥ずかしかった。でも、それに負けないくらい、おかしかった。何でこんなバカなことやってるんだろう。恥ずかしさしか残らないのに、彼らを追い回して――。そんな滑稽な自分がいることがたまらなくおかしく、楽しかった。バカなことをしている自分は、確かにここにいて、聖と一緒に生きている。

「ブラジャーなら振りまわしても減らないし、問題ないよな」

「ああ、そんなに振り回したら伸びちゃうっしょ!」

 口では不満を漏らしつつ、私は笑っていた。

「お前ら何やっとるんじゃー!」

「げ、やっべ。先公に見つかった」

 そして、聖とノリは学年主任の体育教師に捕まってこっぴどく叱られた。ブラジャーを盗まれたということにすると大問題なので、私が提供したという風に嘘をついた。そのせいで、私まで叱られるハメになったわけだけども。

「どうして私まで叱られないといけないわけ? おかしいっしょ」

 いまいち、釈然としない。でも、これはこれで面白いのかもしれない、と思えてしまう自分がいた。

「これで絵里もヘンタイの仲間入りってわけだ」

「清純派ってガラじゃないけど、ヘンタイは酷いよ」

「いいじゃないか。ヘンタイトリオ」

「な?」

 両脇から、ガッチリと肩を組まれてしまう。聖とノリは、本当に仲がいいんだな――そう思った。

 彼らが私を同じフィールドに連れていこうとしてくれているのは、とても嬉しい。私も聖に近づく以上、それを望んでいるのだから。でも――。

「私はヘンタイになりきれないよ。この三人しかいないなら、なれるけどさ」

 私は、聖に近づききれない。彼に近づいても、その前に立つ勇気までは持ち合わせていないのだから。

「私はオマケでいいよ。ヘンタイコンビとそのオマケ」

「自分だけ綺麗なままいようったって、そうはいかねぇ」

「運命共同体で行こうぜ」

 思えばこの時、彼らは私の内面を見抜ききっていたのかもしれない。変わりたいと思いながらも変われない、情けない自分――私がそれに悩んでいることを知っていたからこそ、彼らは私を表舞台に引きずり出そうとしていたのだ。だから、文化祭で演劇をやるという発想が生まれたのだろう。

 演劇の内容はディズニー調の白雪姫。主人公の白雪姫役には、なんと私、白葉絵里に白羽の矢が立ってしまった。本気で嫌がったけど、強引に決められてしまった。

「じゃあ、脚本が出来次第、練習開始な」

 聖のリーダーシップの下、演劇の練習が始まった。皆の都合も考慮し、昼休みや放課後に三〇分ほどの短期集中方式で行われた。

 キャストは私を除いて全員男。聖やノリたちと一緒にはしゃいでいる連中だ。女不足のため、魔女役はノリがやることとなった。頑張って演技するノリを見ていると、みんなが笑いをこらえずにぷっと吹き出す。

「あら何よ。何も面白いこと言ってないのに、失礼しちゃうわね!」

「魔女っつーより、銀座二丁目のママさんって感じだな」

「脚本書き換えて、魔女をママさんにするか」

「毒リンゴじゃなくて、毒薬入りのカクテルか?」

「いや、まずママさんだったら女に嫉妬しないんじゃね?」

「するだろ」

「え、するのか? 詳しいヤツいる?」

「いるわけねーだろ」

「いたらビビるわ」

 ノリが言ったのを皮切りに次々とみんなが発言をかぶせ、爆笑が起こる。

「話題膨らますのは勝手だけど、脚本変えすぎるとスベっちゃうんじゃない?」

「確かに、絵里の言う通りかもな。お笑いの極意は自分が笑わないことって言うし」

「まぁ、真面目にやりますか」

 ちなみに脚本とは、私と聖の二人でディズニーの白雪姫を観ながら重要なシーンのセリフを書き起こしたものだ。かなり大雑把なので、演技練習とともに脚本も次々と修正が入る。長々と演技が続いてもダレるし、かと言って短すぎても何の話だったかわからない。最低限のシーンで演技を行う必要があった。

 まず、魔女に白雪姫暗殺を命じられた狩人が、白雪姫を庇って逃がすシーンから物語は始まる。魔女の登場は、後ほどのお楽しみだ。正直、ウケを狙いにいけるシーンがそこぐらいしかない。後は、真面目に演技しようとしてる姿を見てもらうのみ。演劇部でもない人間が集まって必死で演技をしている姿は、さぞかし滑稽なことだろうと思う。

 次いで森の中に迷い込んだ白雪姫は、小人たちと出遭う。原作では七人いるけど、キャスト不足なので四人に減らした。クラスの出し物なのにキャスト不足はおかしいんじゃないかと思われてしまうけど、聖の仲間連中だけでやった方が、練習し易いし、統率も執れる。クラスの連中には舞台装置とか、衣装を担当してもらうことになっているのだ。正直、大勢で舞台に立っても短時間じゃ個性を活かしきれないし。

 そして、お待ちかねの魔女の登場シーン。白雪姫が生きていることを知った魔女が、小人の留守を狙って白雪姫に毒リンゴを食べさせる。昏睡状態に陥った白雪姫を見て嘆き悲しむ小人たち。そこに、聖が扮する王子様の登場。王子様のキスで白雪姫は目を覚まし、ハッピーエンド。

 どこまで省略しても大丈夫なのか、どこまで原作を無視しても大丈夫なのか、私と聖で煮詰めた結果、そのように決まった。しかし、真面目にやろうと最初のうちは言っていたものの、いざ練習が始まるとどんどんおふざけが混じり、喜劇の様相を呈してくるのは、若さゆえの過ちというヤツだろうか。

「このリンゴを食べると、ふわふわーっと身体が軽くなって、気持ち良くなるよ」

「まぁおばあさん、それはリンゴじゃなくて麻薬ですよね?」

「騙されたと思って食べてごらんよ。気持ち良くなるから」

「リンゴは興味ないけど、麻薬はちょっと興味あるかも」

「そうだろうそうだろう」

 って、こんな内容でいいのだろうか。P○Aから苦情来ないよね?
 最後のシーンも、最初は王子様のキスで目覚めた白雪姫が「愛の力って素敵」と囁く小人たちに囲まれて終了、としか考えていなかったけど、よくよく考えてみると魔女を懲らしめてないということに気づいてしまった。どんな風に片付けるかみんなで話し合ううちに、「ナイフを手に実力行使に出てきた魔女を王子が蹴り飛ばてやっつける」ということになった。魔女なのにナイフかよ、ってな話だけど、これもウケ狙いの一環なのだ。

 こうしてぐだぐだな脚本を元に、演劇『白雪姫』はコント『白雪姫』へと生まれ変わっていく。それでも、私たちは真剣に練習した。どうやったら面白いか、真剣に考えながらの練習――最初の方は和気藹々とやっていたのに、本番が近づくに連れて段々みんな笑わなくなっていった。みんな楽しんで練習しているけど、余裕がなくなっていったのだと思う。一番余裕がなくなっていたのは、間違いなく私だった。

「純情な白雪姫演じても面白くないよね? もっと擦れてた方がいいかな?」

「『私がこの世で一番美しい白雪姫よ、何か文句ある?』みたいなキャラとか?」

「おいおい、醜すぎるだろ。鏡も見る目なさすぎるわ」

「話の根本が崩壊するな」

「ウケを狙いにいきすぎて失敗するパターンか」

 ああでもない、こうでもない、そんなやり取りが続く。本番の日が迫ってきているというのに、白雪姫の性格自体を急遽変更してみたり――演技力のない私が、それに対応できるはずもなかったけど、出来得る限りのことはしたかった。みんなで、少しでもいいものを創り上げたい。失敗したら、その時はその時だ。

 本番で緊張してセリフが飛んだりしないように、とにかく明けても暮れても劇のことだけを考え続けた。練習は本番のように、本番は練習のように。練習しすぎて若干飽きる程、何度も通し稽古を行った。こうなると、さすがに楽しむ段階を通り越して、義務感のようなものが勝つようになってきた。

「こんなんで、ウケなんて狙えるのかな。だんだんマヒしてきたんだけど」

「一度クラスのみんなに見てもらうしかないな」

 そうして、義務感に苛まれ、じわじわと下がってきていたモチベーションを上げるべく、クラスメートの前で小発表会を行うことになった。それまで、二、三人の少数で練習風景を見に来る人たちはいたけど、三〇人もの大人数を前にして演技をするのは初めてのことだった。観客が一〇倍になると、緊張の度合いも比例して跳ね上がった。

 緊張で、内臓が上へ上へと押しやられるような感覚。それを必死で沈めようとするのだけど、他のメンバーの緊張が伝わってきて、緊張は解けない。私たちの緊張が伝わったせいか、観客のクラスメートたちも固唾を呑むようにして私たちの演技に注視している。ウケを狙いにいったシーンで、全く笑いが起きなかったり、緊張しすぎて吃ったシーンで思いがけず笑いが起きてしまったり――恥ずかしさやら情けなさやらで、爆発してしまいそうだった。

 何とか演技を終えた後、がっくりと落ち込んでいた私に、クラスのみんなから声がかかる。

「セリフ多いけど、ちゃんと全部覚えてるなんて、白葉さんすごい」

「緊張しすぎてて演技が硬かったけど、もっとリラックスして演技できたらイイ感じになると思う」

「俺たちも頑張って大道具作らないといけないな」

「衣装は服飾学科志望の梓が作ってるから、絶対かわいいやつになるし」

「えー、プレッシャーじゃん」

 すごい、すごい――異口同音に、その言葉が漏れる。その声を制するように、聖が一歩前へと出た。みんなの声が、潮が引くように収まる。

「今の演技見て、バカバカしいって思ったヤツもいたかもしれない。でも、わかってほしい。どんだけ完成度は高くなくても、みんなで頑張ることに意義があるんだってことに。高校二年生は、人生のうちで一度しかないからさ……もうすぐ本番だし、それまで後ちょっとだけ、付き合ってほしい。俺たちみんなで、最高のものを創ろうぜ!」

 その言葉に、クラスのみんなから歓声と拍手が巻き起こる。

「よっ、男前!」

「頑張ろう、みんな頑張ろう」

 そして私は、声を出すことも忘れて、聖を見ていた。あまりにもかっこよくて、眩しくて――まるで自分のことのように、彼の眩しさが誇らしかった。

 練習は校内に留まらない。自宅はもちろんのこと、公園で子どもたちに見てもらいながら練習したこともある。子どもの反応は素直で、つまらないところはばっさりと斬られた。

「お兄ちゃん、演技ヘタクソだね」

「……ちくしょー」

 そう言われて悔しがっていたのは、私でもノリでもなく、聖だ。リーダーシップは取るくせに、肝心の演技は素人目に見てもからっきしだった。

「絵里、演技のコツ教えてくれ」

「無理。自分のことで精一杯だもん。他の人に訊いてよ」

「酷い、酷いよ、うわああああん」

 聖が嘘泣きしながら泣きついてきたり――。

「じゃーん、ついに完成、白雪姫のドレス!」

「うわー、すごい再現度だね。私が着ちゃっていいのかな」

「白葉さんになら似合う、絶対に似合うよ」

 服飾学科志望の子が作ってくれたドレスを着て、クラスの女子全員から写メを撮られたり――。

「痛ぇ」

「あ、すまん、大丈夫か」

「腰が……腰が……」

 練習中に、王子役の聖に蹴飛ばされた魔女役のノリが負傷したり――。

 本当に、色んな事があった。



……



 本番のことは、緊張しすぎて断片的にしか覚えていない。緊張してわけがわからなくなっている自分とは別の、もう一人の自分がいて、その二人目の自分が完璧に演技をこなしていくのを他人事のように眺めていた。

 真っ暗な体育館で、所狭しと犇めく観客の熱気が、舞台照明の熱気と混ざる。うっすらと汗をかきながら、演技は進んでいく。

「あら、あなたたちは……」

「ごらんのとおり、僕たちは小人です」

「なるほど、小人さんですか。でも、その割には体が大きいですね」

「比較的大きな小人なんですよ」

「なるほど。でも、私より身長が高いように見えるのですけど、本当に小人さんなんですか?」

「それはあなたの目が悪いからだ。このドクが視力検査をしてあげよう」

 そして、小人のリーダー格、ドク役の子がスケッチブックに大きく書かれた漢字を見せる。難しい漢字ばかりが並ぶ。

「じゃあ、これは?」

「読めません」

「じゃあ、これも?」

「読めません」

「ふむ、やはり君は目が悪いようだね」

「ちょっと、ずるくないですか!?」

 会場から微笑が起こる。それを聞いて、緊張が和らぐ。大丈夫、ちゃんとウケている。

 ほとんどのシーンで白雪姫役の私は舞台の上に立っていたけど、魔女の登場シーンでは舞台裏にひっこんだ。舞台脇から見るノリの演技は、なかなかのもので、自分が舞台の主役であることを忘れそうになった。

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰だい?」

「黒木メイサです」

「ああ、なるほど確かにねぇ――って、私じゃないの?」

「嘘です、黒木メイサじゃなくて堀北真希です」

「それも嘘でしょうが、このダメ鏡!」

「パリイイイイイイイン」

 魔女に殴られ、吹っ飛びながら割れた時の効果音を自分で発する鏡。

「白雪姫ね、絶対そうだわ。白雪姫が生きているのね」

 そして、崩れ落ちた鏡の首根っこを掴んで揺する魔女。鏡は揺すられる度に「パリンパリン」と言っている。

「パリン、そうです……白雪姫です……パリンパリン」

 そして投げ捨てられた鏡は最期に「がしゃああああああん」と叫んで動かなくなった。暗くてよく見えないけど、客席の反応は悪くない。

 その後、毒リンゴを食べるシーンが挟まり、最後のシーンへと移る。王子のキスで白雪姫が目覚めるシーンだ。ここで私たちは、かなり思い切ったことをすることにしていた。王子役の聖と私が、本当にキスをすること。

「ただでさえ人前で演技するのが恥ずかしいのに、そりゃないっしょ」

 もちろん、私も最初は断固拒否した。でも、聖にゴリ押しされて、結局私の方が折れた。

「そんなに俺とキスするのが嫌か?」

 なんて言い出すもんだから、思い切り頭を叩いてやった。

「聖には羞恥心ってもんがないの?」

「ある。恥ずかしくないわけがない」

「じゃあ、どうしてそこまで無茶するわけ?」

「いや、面白かったら何でもいいだろ」

 そこまでやるのか、この男は。そこまでして、楽しいことにこだわるのか。これは本物だ。本物のバカだ。

「聖って、本当にバカなのね」

「そんな俺に付き合ってくれる絵里も、最高にバカだな」

 これが本当のバカップルなのかもしれない。そのバカップルは、文化祭の演劇の舞台で、本当にキスをした。わざと客席に見えやすいように角度を考えてのキス。客席からヒューヒューと歓声が上がる。客席からだけではない。演技をするメインのメンバー以外のクラスメートたちも、この演出は知らなかったため、舞台裏からも声が上がる。ああ、ついにやってしまった……頭を抱えたくなったけど、同時に満足感もあった。確かに私は、今を生きている。そのことを、実感できたから。

 緞帳が下り、会場から割れんばかりの拍手が起こる。私たちの舞台は、大成功だった。体育館から外へと出て、私と聖は劇の衣装のまま胴上げされた。ここでも写メの嵐。こんなに自分が注目される日が来るなんて、夢にも思わなかった。恥ずかしいったらないけど、どこか誇らしい気分にもなる。

「青春してるね、私たち」

 私は、聖に笑いかけた。そのはずだったのに、泣いていた。そんな私を見た彼も、何故だか慌て出す。

「やっぱ人前でキスはキツかったよな、マジですまん」

「違う、違うよ」

 私は泣きながら笑った。小学校でも中学校でも、卒業式で文化祭で、どうしてみんなあんなに泣けるんだろうと不思議に思ってみてきたけど、その謎がやっとわかった気がする。涙が、止まらないのだ。だから、泣いてしまうのだと。



……



 その後、クラスのみんなで打ち上げをしようという話になり、文化祭が終わり次第焼き肉屋に集合することが決まった。でも、私や聖やノリの役者組は文化祭の実行委員に呼び出されて、小一時間ほど説教を食らってしまった。風紀にそぐわない行為があったとか言うけど、いいじゃない、キスくらい。

 最初は実行委員に対して反論していた聖やノリだったけど、彼らは異様な興奮状態にあって、何を言っても聞く耳持たない状態だった。そのため、最終的には彼らの気が済むまで黙って説教されるハメになってしまった。

「あいつら何様なんだよ」

「自分たちが一番頑張ってるって思いこんでるんだよ」

「あいつらより俺たちの方が頑張ったっつーの」

 説教から解放された後、私たちは好き勝手愚痴って、焼き肉をお腹いっぱい食べて、騒いだ。他の客の迷惑になるから、もう少し静かに――と、引率のようにしてついてきていた担任の先生に窘められたけど、それを素直に聞き入れる私たちじゃなかった。私たちを止めることができるものなんて、何もなかった。

 あまり遅くなるといけないからと焼き肉屋での打ち上げは早々と解散してしまったけど、その後私たちはカラオケボックスに行った。嵐、EXILE、GReeeeN、KAT-TUN、倖田來未、羞恥心、ポニョなどなど――みんなが知ってて盛り上がる曲が連打され、どの曲も大合唱になる。マラカスの音が思いのほかウルサく、曲が終わると耳の中の空気がぐわんぐわんと揺れた。

 二二時を回った頃、カラオケ大会も解散した。手拍子を打ち過ぎて痒くなった手のひらを押さえるようにしながら、私と聖は帰路に就く。

「最初さ、主役やれって言われた時は、世界が終わったかと思った」

「そんなにか」

「うん」

 日中の日差しはかなりきつくなってきていたが、夜風はまだ肌寒い。腕を組んで、私と聖は密着しながら歩く。

「でも、やってよかった。この一ヶ月、ホントに色んなことがあって――言葉にできないくらい、たくさんの思い出ができたよ」

 今までの人生で、こんなに頑張ったことはなかった。こんなに大勢の人に注目されることはなかった。主役になったことなんて、なかった。

「俺も楽しかった。けど、アレだな……もう、終わっちまったんだな」

 どんな苦労も、どんな悦楽も、過ぎてしまえば一日の夢――二度と返ってこない。諸行無常の寂寥感。

「終わっちゃったね」

 よく言う、大好きだったドラマの最終回を観た後の気持ち。観終わったという達成感、満足感、そして終わってしまったことに対する寂しさ。その後に続く未来はないよと宣言されてしまったような、息苦しさすら感じる。でも、ドラマと自分の経験は少し違う。自分の経験は、自分の視点から世界を見ているから。自分が主役のドラマは、まだまだ続いて行くから。それに――。

「でも、私たちの人生は始まったばかりだし」

 ただ続いていくのではない。聖がいる。彼と一緒に、歩いて行ける。

「こういうのって、男の子に言ってもらうべきなのかもしれないけど、私ガマンできそうにないから言っちゃうね」

 そして私は彼の前に回り込み、両手を繋ぐ。

「結婚できる年齢になったら、結婚しよ。たくさん赤ちゃん作って、楽しい家庭を創ろう!」

「お、おう」

 目を見開いて足を止めてしまった彼は、ひっくり返ったような声を出しながら言う。

「いや、まいったな。いつか俺から言うつもりだったのに、早ぇよ」

「じゃあ、高校を卒業したら入籍しようよ。その時は、聖からプロポーズしてくれればいいから」

 交際から一年――私は、温めていた気持ちを彼に伝えた。不思議と、結婚を断られるかもしれないという不安は微塵もなかった。さも当然のように、私たちは婚約した。世間から見れば、高校生の浅はかな選択に見えてしまうのだろうか。そんな世間に、私は胸を張って反論する。聖は私の人生そのものなんだと。

「わかった。なるべくロマンチックなプロポーズを考えとくわ」

「期待しとくね」

 家庭を持つことへの憧れじゃなかった。単に、聖と自分を繋ぎとめておきたいだけだった。そういうところは、やっぱり浅はかだったのかもしれない。でも、彼への愛情だけは本物だった。それが一方通行な独占欲でないことの確信が、確かにあった。



[27529] 町に佇み 第四話『心病みの籠女』 Part4
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:27
 文化祭の余韻も冷め止まぬ五月末、私は生理が止まっていることに気づいた。まさかと思い、こっそり産科で診てもらうと、妊娠を告げられたのだった。まだ妊娠初期だから中絶が間に合うと言われ、私は聖に相談することにした。家族には、その後で相談するつもりだった。

「聖、あなたはどうしたい?」

 こうやって質問することが、いかに酷なことなのか、ちゃんと自覚はあった。

「わざわざ俺に相談するってことは、つまり産みたいってことだよな」

 私が頷くと、彼は表情を硬くする。

「まだ高校生だぞ、俺たち。俺はともかく、絵里の人生はどうなる? いくら口止めしたところで、絵里が妊娠したことはいずれバレる。高校での居場所もなくなるんじゃないか? しかも、俺が絵里を妊娠させちまったせいで――」

 すまない、そう言いながら彼は俯く。

「ううん、気にしないで、聖。私ね、すっごく嬉しいの」

 実のところ、私は焦りなど感じていなかった。高校なんてどうでもいいのだから。ただ、聖との赤ちゃんを孕んだという事実だけが、明るく目の前を照らしているように感じていた。

「私が不安に思ってたのは、聖が怖気づいちゃうかもしれないってことだから」

「誰が怖気づくだって?」

 間髪いれずに、聖が言葉を返してくる。

「絵里がいいってんなら、俺が反対する理由は何もない。結婚するって約束したしな。一生面倒見てやるぜ。まぁ、今はまだ学生だけどな」

 ますます、聖との絆が深まったように感じたし、実際そうだったのかもしれない。

「期待してるからね」

 そう言って笑いながら、私は一つの懸念に思い至って彼に質問する。

「そういえば、聖って、お金持ちの御曹司なんだよね? 私みたいな平民の娘との結婚は認めてもらえるの?」

 以前、テレビでそういう話を聞いたことがある。お金持ちの貴族的な人々は、やはりお金持ちと結婚するのが普通なのだと。大昔の話ではなく、未だにその流れは続いているのだと。

「ああ、兄貴は期待されてるから、自由な結婚もできんだろうが、俺は全く期待されてないからな。多分何も言われないんじゃねーかな」

 あっさりと答える彼を見ながら、そりゃそうか、と思う。もし、結婚できない可能性があるなら、先日結婚するという話が出た時に、彼の方から教えてくれたはずなのだから。

「俺の両親は気にすんな。それより、絵里の両親を説得する方が難しいんじゃないか?」

「確かに、そうかもね」

 この道には、障害がたくさんある。その第一の障害が、私の両親の説得だ。できちゃった結婚なんて、体裁が悪い――そう言われるに違いない。それを、どう説得すればいいのか。

「よし、挨拶に行くか」

「え、それってまさか――」

「ああ、全部話す」

 思えば、聖を我が家に招いたことはなかった。家族には彼の写真を見せたり、彼とのノロケ話をしたことはあったけど、彼自身と私たち家族はまだ赤の他人なのだ。私を家の前まで送ってくれた時に、母がちらっと顔を見てるくらいだと思う。

 初対面が「娘さんを僕にください」っていうのも、何だかあまり好印象ではない気がする。それでも、聖が本気だということが私には伝わって来たし、それはきっと両親にも伝わるだろう。

「絵里の両親に、俺のこと紹介してくれ。責任は、全部俺が取るって」

 そして、聖と一緒に帰宅した後、夕食の前に家族全員を集めて彼のことを紹介した。その時点では、みんな「話に聞いてた通りの、感じの良い子じゃない」と和気藹々とした空気が流れていたのだが、聖が真剣な顔をして私の妊娠を告げた瞬間、場の空気が一瞬にして固まった。

 私の方からも改めて家族に妊娠を告げ、産む決意も伝えた。みんな、言葉を探している。私と聖を値踏みするように、母の視線が左右に揺れる。

 表立って反対はされなかったけど、両親は難色を示していた。

「産みたいって気持ちはわかるけど、急がなくてもいいのよ。あなたはまだ若いんだから」

 遠回しに、母は反対の意思を伝えてくる。父がそれに頷く。梨佳も、母と同じような表情をしていた。そんな中、菜摘が笑顔でこう言ってくれた。

「産みなよ、絵里。あなた、毎日輝いてるもん。高校生で母親になるってことは、きっと社会的に色々と不利を抱え込むことになると思うけど……聖くんと絵里なら、きっと乗り越えられるよ」

 その言葉に、菜摘以外の全員が驚く。賛意を示すとは、誰も予想だにしなかったのだから。

「菜摘、あなた、そんな無責任なこと言って……」

「無責任じゃないよ、お母さん。絵里は、私に聖くんとのことたくさん話してくれたんだから。私にはわかる。二人は絶対上手くいくって」

 私は、菜摘という心強い味方を得た。両親に信頼されている彼女が味方してくれるなら、きっと大丈夫だ。私は嬉しさで、涙を流しそうになった。

 その日だけでは当然結論は出なかったけど、その後話し合う中で、結局両親も私たちを全面的に支援してくれることとなった。

「まず、第一の関門突破だね」

 第二の関門は、聖が出産まで、私との肉体関係を我慢して浮気に耐えるか……といったところだろうか。そんな心配、するだけ無駄だからしないけど。

「次は、高校生活をどうするか、だな。お腹の膨らみが目立つまでは、黙ってても問題ないだろうけどなぁ」

「ああ、そっちの方が問題か」

「ん、他に何か心配事でもあるのか?」

「ううん、ないよ、別に」

 聖の勘の鈍さに、私は思わず笑ってしまった。何故私が笑っているのか理解できず、彼は不満そうに「一人で笑ってないで教えろよ」と頬を膨らませていた。比喩ではなく、本当に膨らませていた。その顔に、更に笑ってしまう。

「ヘンな顔。マンガみたい」

「え、そんなにヘンな顔か?」

 どうやら、ウケ狙いではなかったらしい。また、笑ってしまう。希望と幸せのピークは、この時、この瞬間だったのかもしれない。

 その日の夜から、私は妙な夢を見始める。



……



 どこかのお寺の境内で、子どもたちが輪になって遊んでいる。

「かーごめかごめー」

 歌が聴こえる。数人の子どもの、どことなく暗く響く声で、歌がうたわれる。

 それは、有名な童謡。本当は怖い、わらべうた。

「かーごのなーかのとーりーはーいーつーいーつーでーやーるー」

 輪になって遊ぶ子どもたちの声を借りて、暗いところから白日の下へと現れる。

 それは、無邪気な子どもたちの声だ。籠の中の、無邪気な子どもたちの声。

「よーあーけーのーばーんーにーつーるとかーめがすーべったー」

 生まれるその日の晩に、めでたいことの逆が起こる。

「うしろのしょーめんだーあれー」

 後ろの正面は、誰だ……お前を赦さぬ、誰かだ。

 音がピタっと鳴り止んで、最後に小さく、こう聞こえた。

「おかあさん」



……



 目が覚めると、私は全身にびっしょりと汗をかいていた。パジャマはしみ込んだ汗の重みをしっかりと感じさせる。

 時計を見ると、まだ朝の五時半だった。普段の起床よりも一時間早い。夢にうなされて、目が覚めてしまったらしい。元々、あまり夢の内容を覚えている性質ではないので、異常事態なのだと悟る。

「お腹の中の赤ちゃん、大丈夫かな……」

 一度不安になり出すと、キリがない。私はその日の学校を休み、産科を訪ねた。見てもらった結果、赤ちゃんには異常なし。

「マタニティブルーの一環かもしれませんね。やはり妊娠するとみなさん神経質になりますから、悩みは抱え込まないことです。ご家族の方に相談するか、それが無理なようでしたら、遠慮なく病院にお越しください」

 夢についても、そのように片付けられた。その時の私は、その医師の説明で満足できたし、そうだと信じた。

 ついでに妊娠届をもらい、病院からその足で役所まで行って母子手帳をもらった。母子手帳を受け取ると、母親になるのだという実感が湧いてきて、とても温かい気持ちになるのを感じる。まだまだお腹の中にホントにいるのか怪しいような、小さな命だけど、それは私と聖の愛の証だ。

 その命は、私たち二人だけのものではない。もっと大きな規模で、その命は尊さを持って生まれてくる。私たち二人だけでなく、その生まれてくる赤ちゃんは、多くの人々の世話になり、多くの人々に影響を与えられ、そして与える存在へと育っていく。そういう流れの中に、今、自分は立っている。そのことが、とてつもなく美しいことのように感じられて、涙が滲んでくるのだった。

「私、生きてるよ。母親になっちゃうよ、すごい」

 あまりの感動に耐えられず聖に電話したら、本気で心配された。

『おい、大丈夫か! 何かあったのか!』

 その声が緊迫した響きを持っていて、私はやはり笑ってしまう。

「うん、母子手帳もらったら、何だか嬉しくて、いても立ってもいられなくなって」

『ああ、なるほど、そういうことか。俺はてっきり絵里が狂ったのかと思った』

「なんかもう、狂っちゃってるかも。やばい。嬉しすぎてどうにかなりそう」

 放課後、彼は私の家に駆けつけてくれ、一緒に母子手帳を見て、母に色々と質問をした。

「もう昔のことだから、私も忘れちゃったわ。どうだったかしら」

 そう言いながら、母は白葉家三姉妹の母子手帳を棚の奥の方から取り出してくる。

「ああ、そうだったそうだった。懐かしいわぁ」

 途中から話の主役が完全に母になる。大学から帰って来た梨佳も交えて、思い出話に花が咲く。

「梨佳ちゃんには苦労させられたわ。物静かで全然しゃべってくれないもんだから、三歳児検診で聴力検査に引っかかっちゃって」

「ごめんね、母さん。意思表示がヘタで」

「お母さん、私の手帳、真っ白じゃない」

「三人目になると、書くこともなくなってきちゃったのよ」

「うわ、ひどーい」

 娘の妊娠を期に、また家族の絆が強まる。そういうイベントが存在することなど、想像すらできなかった。

 聖との関係だけじゃない。家族との関係も、どんどん深くなっている。生きている喜びを実感できた。



……



「にくい……」

 暗闇の中、女の声が聞こえる。低く、微かに震えた声。その声が震えているのは何故か。

「にくい……」

 その女は、何故震え、何を憎んでいるのか。

「にくい……にくいにくいにくいにくい憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い」

 その声は、徐々に呪詛の言葉へと変わる。

「どうしてなの……どうして私はダメで、みんなは幸せなの……許せない、赦せない」

 それは、逆怨みの声。恐るべき女の怨念。

「終わってしまえ、壊れてしまえ……そんな幸せ、壊れてしまえ」

 そして、暗闇の中から気配が現れる。

「死ね……壊れろ……終われ……」

 着物姿の女が、そこにいた。その生気のない顔に一層の不気味さを与えるのは、目。眼球が、なかった。暗く深い眼窩が、無限の怨みを湛えて、こちらを見ていた。

 眼窩を見てしまった瞬間から、全身が痺れたような感覚に襲われる。この感覚は、何度か味わったことのある感覚に似ている。まるで、魔力を吸い過ぎてしまった後の感覚に、似ている。

 これは、魔力によるものではない。瘴気だ。魔力に付着している、怨念、害意が、瘴気となって人の感覚を麻痺させる。

「来ないで!」

 私は、一歩下がった。しかし、その程度では何の意味もない。滑るようにして、着物姿の女がどんどん近づいてくる。

 恐怖が限界に達した時、私は叫びながら自らの能力を解放した。

「来ないでよ!」

 胸の中の黒い靄を解き放つと、周囲の空間ごと、私はその着物女の魔力を――いや、その存在そのものを吸い込んだ。

 後に残るのは、無音の暗闇と――。

「ぅ……」

 小さな呻き声。あまりの苦しさに、それが自分自身の呻き声であると認識するのに時間を要した。

 苦しい――吸い込んでしまった瘴気の、あまりの強さに、私はのたうちまわった。



……



 目が覚めると、熱が出ていた。夢の中で感じたほどの苦しみはなかったけど、何となく体の中に痺れたような感覚がある。

 とりあえず学校を休むことにして、私はベッドの中で考える。さっきの夢は、何だったのだろうかと。確かに夢だったはずなのに、体に痺れを残している。夢の内容が、現実に反映されているということなのか。不気味な夢を見てしまったものだ。

 母子手帳をもらってから、一ヶ月ほど経ったこの日、私はいつになくホラーな夢を見た。これまで、何度か「かごめかごめ」と子どもたちが歌う夢を見ていたけど、その夢は無害だったのですでに気にならなくなっていた。奇妙な夢を見るなー、くらいにしか思っていなかったのだ。それが、今日の夢で、一気に眠ることが怖くなってしまった。

 ベッドの上でずっと目を閉じていたけど、眠気は全くやってこなかった。あまりにも心細いので、ラジオの音を少し大きめにしてかけておく。

 母に夢のことを相談しようにも、どう説明したらいいのかわからず、結局学校が終わってから聖が見舞いに来てくれるまで耐えることとなった。

「絵里、大丈夫か」

「ああ、聖……」

 私は安堵のあまり、彼に抱きつく。しばらくそうして、彼の温もりを感じていた。

「どうしたんだ、ただの風邪じゃないのか」

「うん、実は――」

 私は、夢の中のことを彼に説明した。

「随分と、後味の悪い夢だな」

「ねぇ、今晩一緒に眠って」

 まるで小学生のように、ダダをこねる子どものように、私は彼の腕をぎゅっと掴む。妊娠の不安は、自覚している以上に私にストレスを与えているのかもしれない。

「俺の部屋だったら話は簡単なんだが……」

 彼は困惑しながらも、私の母たちと相談してくれて、一日だけ私の部屋に泊っていくことになった。わざわざ着替えを取りに帰って、再び私の部屋へと戻ってきてくれる。

「ごめんね、わがまま言って」

「病人と妊婦の特権かもな、わがまま聞いてもらえるのは」

 疲れたぜーと言いながら、彼は私に覆いかぶさってくる。

「そんなくっついたら、風邪移っちゃうっしょ」

「あいにくと、身体が頑健なのが取り柄でな」

 そのまま朝が来るまで、彼は私にぴったりと寄り添っていてくれた。眠れない私に付き合って、彼も一睡もせずに朝を迎えてしまう。

「結局眠れなかったか」

「ごめんね、付き合わせちゃって」

「いいや、いいさ。俺は睡眠学習が得意だからな」

 彼は今にも寝てしまいそうな声で、私を気づかってくれる。

「それより、絵里は大丈夫か?」

「うん、大丈夫。どっちかっていうと、赤ちゃんの方が心配だけど」

「そうか……」

 その直後、安らかな寝息が聞こえ出した。まるで気絶したように、聖は一瞬のうちに睡魔にのされていた。

「え、寝ちゃったの?」

 私は少し大きめの声で呟いてみたが、彼は全く反応しなかった。彼の寝顔を覗き込む。その無防備さや、幼さを残す口元が、とってもかわいかった。

「ありがとうね」

 私は彼のおでこに小さくキスをして、彼と密着する形で寝転ぶ。彼がずっといてくれる安心感と、熱と徹夜による疲労感が手伝い、私も間もなく意識を失った。

 その後、母が空気を読んで私たちをそのままにしてくれた。そのせいで、彼は一日学校を欠席してしまったわけだけど。

「ホントごめんね」

「だから気にすんなって。俺が学校の出席日数気にしてるように見えるか?」

「見える」

「おい」

 私たち二人の目が覚めたのは、昼の一時過ぎだった。お粥を持ってきてくれた母が、起こしてくれたのだ。お粥を冷ましながら、私たちは笑い合う。

「うそうそ、ノリたちが寂しがってるだろうなーって思ってさ」

「むしろ、俺がいないことに気づかないかもしれねーぞ」

「あれ、やかましいのが一人足りない気がするけど、気のせいか……とか言われちゃって?」

「ノリなら言いそうだ」



……



 その後、悪夢は止んだ。私たちの日常は順調に流れ、悪夢を見ていたこともすっかり忘れた頃――期末考査が終わり、待ちに待った夏休みへと突入する。その頃の私は徐々に体調を崩していたが、何となくだるいという程度のレベルだったので、妊娠に伴う疲労だろうと思って、あまり深く気にしていなかった。

「アウトドアが無理なのは、ちょっと物足りんけど……絵里と一緒にいられるなら何でもいいや」

 そう言って、聖はずっとそばにいてくれた。ノリたち男連中は毎日のように遊びまわっていたらしいけど、「妊娠中の絵里を一人にするとか、男のすることじゃない」と言って、どんな天気のいい日も家の中で私と一緒に宿題をしたりテレビゲームをしたりしながら過ごしてくれた。何て男前なんだろう、この男は――と、私は改めて聖に惚れ直す想いだった。彼の方が私に惚れ直すような機会を作れないのが何とも残念だったけど、それは赤ちゃんを産んだ後で考えればいいか、と自分を納得させる。

 ただ、私たちの意見が真っ向から対立するものが一つだけあった。赤ちゃんの名前だ。

「男の子なら聖司、女の子なら芹にしよう」

「ええー、聖司ってちょっと古臭いよ」

「いい名前だろーが、聖司」

「しかも、芹ってあんまり名前っぽくないし」

「いや、かわいいだろう、芹」

 これは、飛んだ夏休みの宿題を抱えてしまったものだ。最後まで残るのは、数学の問題集でも英語の冊子でもなく、間違いなく子どもの名前をどうするか、に違いない。

「このわからず屋め」

「絵里こそ、どの名前も全部却下するくせに」

「それは聖も一緒でしょ」

「お前の考える名前は、時代を先取りしすぎてるんだよ」

「何言ってるのよ。かっこいいっしょ、隼くん」

「だったら隼人でいいじゃねーかよ。ハヤブサはねーよ」

 こんな調子で、ずっと平行線のままだった。どうやら、しばらくは「赤ちゃん」としか呼べない日が続くみたいです。ごめんね、赤ちゃん。



[27529] 町に佇み 第四話『心病みの籠女』 Part5
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:28
 日々は、緩慢に過ぎていった。体調が良い日は、私の方から聖の部屋へと遊びに行く。その日も、朝の体調が良かったので、私は彼の部屋へと行った。たまにセイレーネスが寝ていることがあったけど、殆どは私と聖の二人きりだった。

 八月の七日、もうすぐお盆という時期。お盆を過ぎれば涼しくなるけど、過ぎてないからとにかく熱い。日差しは容赦なく照り付け、地表の全てを溶かさんばかりの勢いだ。

「あー、何もやる気起きねー」

「とりあえず、アイス食べよ」

 二人だけの部屋の中、私たちは扇風機前の床にへばり付いて、ぺろぺろとアイスキャンディーを舐めながら過ごしていた。

「これでまだ午前中ってのがなぁ」

「こういう日は扇風機の前でアイスに限るよ」

 私と聖は、右手に団扇、左手にアイスキャンデーを持って、互いを煽ぎ合っていた。そんな時、聖のケータイにメールが入る。

「誰から?」

「ああ、ちょっと浮気相手からな」

 彼がそう言う時、いつもノリからメールが入っている。

「今日の夜、海浜公園で花火大会やろうってさ」

 絵里、行けそうか。続けてそう訊く彼に、私は曖昧に笑いながら答えた。

「多分、このまま体調が崩れなければ」

「よし、じゃあ絵里も参加で返信しとくわ」

 思えば、彼は遊び回りたくて仕方がなかったのだろう。私も、たまには彼に合わせてあげたいと思った。

 だから、午後から私の体調が崩れた時、自分の体のことを呪った。

「聖だけでも行ってきなよ」

「でも、体調の悪い絵里を残して行くわけには――」

「いっつも気づかってくれてるんだから、たまには自分のこと優先して遊んできてよ。その方が、私も気が楽だし」

 私は本心から、そう思った。彼と離れるのは寂しいけど、それも一瞬のことだし。

「いや、でもなぁ……」

 と、彼はさんざん渋ったので、私も負けじと遊びに行くことを勧めた。最後の方は、まるで懇願するようなニュアンスになっていたかもしれない。本来なら、一緒にいてくれなきゃイヤだ、と懇願する方が自然なのかもしれないけれど。

「まぁ、絵里がそこまで言うなら、ありがたく行ってくることにするわ。でも、早めに帰ってくるからな」

「いいよ、気にしないで、気の済むまで遊んできなよ」

「いや、でもなぁ……」

 と、ここでも再び押し問答のようになってしまう。そのめんどくささが気にならない辺り、私は本当にバカだった。バカみたいに、彼を愛していた。

 夜になって彼が出て段になっても、同じようなやり取りをした。

「じゃあ、行ってくる」

「うん、いってらっしゃい」

 互いに小さく手を振って、ドアの向こうに彼が消える。いつもの、何でもない別れ方と同じだった。だからその時は、彼との別れが近づいているなんて、夢にも思わなかった。



……



 彼を見送ってから、私はボーっとしながらテレビを観ていた。いや、内容はあまり頭の中に入ってきていなかった。テレビの中の、ちょっとしたフレーズをきっかけにして、私は彼との思い出を思い起こす。今まで、一年ちょっとの間しかないけど、本当に色んなことがあった。

 初めての遊園地デート、お化け屋敷で必要以上に怖がってみせて彼の腕に抱きついてみた。緊張している彼の姿がかわいくて、私はますます強く彼に抱きついてみたりした。

 初めて彼の部屋に行った時、二人で行為に及んだあと、裸で抱き合っていたところを、何も知らずに帰って来たセイレーネスと鉢合わせしてしまったり。あの時は、顔から火が出るほど恥ずかしかった。彼女はあまり気にしてない様子だったけど、それ以降私は彼女の目をまともに見れなくなってしまった。

 初めて彼のためにお弁当を作ってみた時、焦げてパサパサになった卵焼きを美味しいと言いながら食べてくれた彼。次の日、どこまで愛情パワーが通じるのかと悪戯心が働いて、タバスコを混ぜてみたら、さすがに怒られた。

 そして、忘れもしない文化祭での演劇。何であんなバカバカしい寸劇のために、みんな一致団結して頑張れたのだろう。あの時は無我夢中で、そんなことを思う余裕はなかったけど、三ヶ月ほど経った今になって思い返してみると、何ともバカバカしいことをしていたものだと思えてしまう。でも、あの演劇の舞台ほど、これまでの人生の中で私が輝いたと思える瞬間は存在しない。バカバカしいけど、最高に楽しかった。

 気づくと、テレビはニュースに切り替わっていた。重く暗いニュースが流れている前で、私は幸せに包まれながら笑顔を作る。今の自分は何て幸せなんだろう。幸せすぎて、怖くなるほどだ。すぐにでも、壊れてしまうんじゃないかと心配になるほどに、幸せだった。

 だからだろうか。私が幸せすぎたが故に、怨念の引き金を引いてしまったのだろうか。

「にくい……」

 唐突に、いつか夢で見た呪詛の声を聞いた。最初、それは空耳かと思った。でも、よく耳を澄ますと、再び聞こえてくる。

「にくい……」

 それは、空耳ではなかった。確かに、テレビの前で体操座りをしている私の背後で、その声は聞こえた。

 心臓を針で刺されたような、ズキリとした痛み――恐怖によって、私の体は異常な反応の示していた。背中から後頭部にかけての皮膚が、チリチリと焼ける。

 声を出すことはできなかった。振り返りたくない。聞かなかったことにしたい。そう思いつつも、私はゆっくりと、背後を振り返っていた。その先にいたのは――。

「ひっ――」

 引き攣ったような、情けない声が聞こえた。それは、どうやら私のノドから出たらしい。いや、そんな些細なことはどうでもいい。大事なのは、目の前の状況を把握することだ。

 振り返った視線の先には、着物を着た女性が立っていた。その肌は病的に白く、それが生者でないことを物語っている。死者ならば、急に背後に現れることも可能か。でも、仮にも霊感のある私に気づかれずに、背後に立つなんて、並の幽霊じゃない。それだけでも、恐怖を感じるには充分すぎた。

 でも、その女性が私の恐怖を誘った一番の理由は、もっと別のところにある。その眼――本来眼球が入っていなければおかしい場所に、目がないのだ。眼窩は暗く窪み、無限の闇を湛える。その暗い窪みから、無限の闇の中から、無限の呪詛が溢れだしていた。

「にくい……」

 その三文字には、言葉以上の怨念が凝縮されていた。

「にくい……」

 その三文字が呟かれるたび、私の体の中に毒が回る。体が恐怖で痺れて、動かなくなっていく。

 それと同時に、私の脳内に映像が流れ込む。きっと、この着物の女の幽霊の、生前の記憶の断片。



……



 男に乱暴に犯されて、もがき苦しむ女性の姿。男の姿形が次々と別人に入れ替わっても、乱暴に犯されていることだけは変わらない。女の心はいつも固く閉じていて、それが男たちをより一層苛立たせ、乱暴にさせるらしかった。そんな中、ただ一人だけ、女が心を開く男がいた。女は、その男を愛していた。そして、その男の赤ん坊を身籠る。

 女は幸せだった。その男と駆け落ちして、赤ん坊を生むつもりだった。しかし、駆け落ちする前に妊娠がバレてしまい、男と引き離されてしまう。その後、男がどうなったのかを、女は知らない。ただ、その後の女が辿った道は、悲惨の一言であった。

 腹を散々蹴られ、流産させられ、目を抉られ、女は全ての光を失った。二度と妊娠できない体となり、二度と愛する男の顔を見れなくなり、それでも穴に棒を差し込まれ続け――女は程なくして絶望のうちに死んだ。

 子どもを身籠れる幸せ、愛する者と添い遂げられる幸せ、その後に存在するこの世の幸せの全てを妬み、怨みながら、女は死んでいった。



……



 恐怖とともに、着物の女の記憶も流れ込む。その女の体験自体もおぞましく、私はますます戦慄した。でも、恐怖を感じる一方で、少し憐憫の情にも駆られた。

「そりゃ、そんだけメチャクチャされたら、世の中を怨みたくだってなるでしょうね」

 震える声で、私は着物の女と対峙する。この声の震えは、恐怖のため――それだけじゃない。

「でもね……私にその恨みをぶつけるのは、筋違いっしょ!」

 流れ込む恐怖と同じくらい、私の内側から怒りが湧いて出てくる。確かに、目の前の女はかわいそうな女だ。でも、だからって、私の幸せを憎む権利があるの?

「大人しく成仏しなさいよ!」

 私は、自身の能力を解放した。全ての魔力を吸い込む、恐るべきブラックホールのような力。普通の魔物ならば、魔力を吸い取られてあっさりと消滅する。しかし、着物の女はしぶとかった。

「何て魔力量なの……」

 それは、魔力ではなかったのかもしれない。どす黒い、怨念の塊か。とにかく、女は一向に消滅する気配を見せなかった。それどころか、私は着物の女の怨念を吸い過ぎて、ますます体の自由が利かなくなっていった。

 まずいと思った時には、遅かった。すでに、私は自分自身の能力を制御することすらできなくなっていたのだ。咄嗟に手をつくことすら叶わず、私は体操座りの姿勢から無造作に床へと倒れた。

「にくい……」

 女の声が、目の前からだけでなく、体内からも響く。私は、身体を乗っ取られようとしているのか。嫌だ、それだけは、絶対に嫌だ。だって、私のお腹の中には、聖との大事な赤ちゃんがいるんだから。

「にくい……」

 女の声が響くたび、私の下腹部で何かが脈動する。それは、赤ちゃん? 赤ちゃんが、必死で着物の女に抵抗している?

「にくい……」

 私の力の暴走のせいか、着物の女の力のためか、テレビも蛍光灯も扇風機も、部屋中の電気の全てが落ちる。部屋の中は、カーテン越しの青い月の光によって、薄く照らされるのみとなった。

 脈動はどんどん強さを増す。まずい、このままでは、いずれ私は痛みの余りに気を失うだろう。何とか、それまでに聖に連絡を取らなくては――。

 私は体に残った力を必死に振り絞って、穿いていたジャージのポケットに入れていたケータイを取り出して彼にコールする。辛うじて、ケータイの電池は生きていた。

 花火大会に夢中で、ひょっとしたら気づいてもらえないかもしれないと不安になったけど、彼はすぐに電話に出てくれた。

『どうしたんだ? 今部屋に戻る途中だけど……』

 彼の、優しい声。安堵で、涙が出そうになる。私は必死で、彼に助けを求めた。何を言っていたかは、自分でもよく覚えていない。ただ、彼が部屋に駆けつけてくれることだけはわかった。

『救急車呼ぶからな、いいか、そこにじっとしてろよ』

 叫ぶように言って、彼は電話を切る。それを待っていたかのように、これまでとは比べ物にならないほどの恐怖と傷みが、全身を支配した。

「ぁ……ぁぁ……」

 苦しくて、息が吸えない。お腹の中で、赤ちゃんが暴れ回っている。今にも、お腹を突き破ってしまいそうなほどに、激しく。

 いや、これは本当に――そう思った直後、私の腹部は、ぱっくりと避けた。大量の血が心臓の脈拍に合わせて、ドクドクと流れ出る。瞬く間に、床に赤い水たまりができる。何て量の失血だろう……これでは、長く持たないじゃないか。私は、ここで死んでしまうのだろうか。

 嫌だ。絶対に嫌だ。聖と離れたくない。彼と一緒にいたい。今後五〇年でも八〇年でも、老衰で死ぬまで一緒にいるつもりだったのに、何でたったの一年で離れ離れにならなきゃいけないの? 絶対に、そんなのは嫌だ。

「にくい……」

 何で、私が怨まれなきゃいけないの。こんな理不尽、赦せない。

 痛みで全身が破裂しそうなのに、全身は痺れて痙攣するばかりで、悶えることすらできない。だから、ケータイを握ったままになっていたことも偶然だったし、コールが来た時に電話を受け取ることができたのも奇跡だった。

『絵里、救急車を呼んだぞ』

 遠くの方で、彼が何かを言っている。でも、私はケータイを顔の方へ持ってくるも、声を出すことも叶わず、ただ聖の声を聞き続けた。

 痛みと恐怖に、憎しみの感情が加わる。着物の女の仕打ちに対する、憎しみ。

「にくい……」

 女の声が聞こえた。それは、弱々しく、私の口元から溢れていた。

 直後、腹部の赤ちゃんが大きく動いた。痛みが酷過ぎたのか、それとも失血しすぎていたのか、今度は痛みを感じなかった。気づけば、全身を苛んでいた痛みも痺れも、どんどん薄れていく。ああ、このまま死んでしまうのかな。そう思いながら血の海を眺めていると、腹部の裂け目をこじ開けて、赤ちゃんが頭を外界へと突き出して来た。

 ああ、何て強いんだろう、この赤ちゃんは。私が死のうとしてのに、一人で生まれ出ようとしているのか。何て、美しいんだろう。

 完全に顔を外に出した赤ちゃんと、目が合う。綺麗な綺麗な、黒い瞳。白眼が見当たらないほどに大きな、黒くて大きな瞳。

「赤ちゃん、私と聖の、赤ちゃん……」

 私はこの時、完全に狂っていた。眼球を持たない、暗い窪みを二つ持つ血まみれの赤ちゃんの顔を見て、のんきにかわいいなんて思っていたんだから。しかも、自分の腹部を突き破って頭を出した赤ちゃんを、である。

「かわいいね、赤ちゃん」

 私は体を起こし、その頭を撫でる。柔らかく、弾力があった。撫でれば撫でるほど、頭の中痺れて、愛おしさがこみ上げてくる。

「絵里!」

 そんな時だった、乱暴にドアが開かれて、聖が帰って来たのは。

「聖……」

 ほら見て、これがあなたのパパよ、赤ちゃん。聖もよく見てあげてね、これがあなたの私の赤ちゃんだよ。

「何なんだよ、それ……」

 聖は、困惑している。ああ、そりゃそうか。普通赤ちゃんは病院で産むものね。家で産むなんて、想定していなかったに違いない。それとも、嬉しすぎて、頭がパニックになっているのかな。

「私たちの赤ちゃん、だよね……」

 聖の不安げな表情に、私の感じている幸せが揺らぐ。何かがおかしい。でも、私は今、疑いようもないほど幸せで――。

「絵里、それは――そいつは――」

「やめて……」

 それ以上言わないで、聖。だって、私たちは今、疑いようもないほどに幸せじゃない。どうして、それを壊そうとするの、やめてよ……。

 でも、どんなに私が願っても、彼は冷たく宣言してしまう。

「そいつは――もう俺たちの赤ん坊じゃなくなってる」

「そんなことないよ!」

 私は、彼の言葉を拒絶する。叫ぶと同時に、能力が発動してしまったらしく、部屋中の魔力が急激に減少し出した。私の体の中に全ての魔力が流れ込む。とても心地よかった。赤ちゃんが、ますます元気になっていくのがわかる。

 聖が床に倒れた。そうか、今吸った魔力の大半は、彼の魔力だったのか。だったら、ちょうど良かった。ほら、あなたの魔力で、赤ちゃんも元気になったよ。

「絵里、お前――」

 それに、ちょっとした罰だよ。私たちの赤ちゃんを認めないなんて、男じゃないもの。

「私たちの愛の証だよ、赤ちゃんだよ? どうして、そんなこと言うの? あなたもこの子に触れば、きっと可愛さがわかるよ」

 私は、彼にも赤ちゃんのかわいさを知ってほしくて仕方なかった。床に倒れて動けない彼のために、私の方から彼に近づく。

 彼の目の前に、赤ちゃんの顔を持っていく。ほら、かわいいっしょ、あなたの赤ちゃんなのよ。

「あ……ああ……」

 恍惚の声が漏れた。ね、やっぱりかわいいっしょ。このまま一緒に、ずっとずっと一緒にいようね。家族三人……もっともっと増えるといいな。四人くらい子どもほしいんだけど、いいよね? 私の目の前に、幸せな未来の光景が浮かぶ。きっとそれは、彼も同じだろう。私と一緒に、楽しい未来を――。

「……!?」

 私は、激しい違和感を感じて聖を見た。それまで、確かに目の前にいたのは私の大好きな、愛しい聖だったはずだ。なのに、今の一瞬のうちに、彼は別の存在へと変わってしまった。私への愛おしさが少しも伝わって来ない。誰、聖と私を引き離そうとする、あなたは誰?

 愛おしさの代わりに、私の全てを打ち砕かんとする意思が伝わってくる。とてつもない魔力量、実力の差――それを感じてしまって、私は慄いた。

 私の全てを刈り取るべく、風が起こる。それは、聖の体を中心として生じた風の刃。逃れる術もなく、私は風の刃によって刈り取られていく。そして、赤ちゃんも――。

 やめて、と叫ぶ間すら与えられなかった。赤ちゃんは、風に刈り取られて消滅する。ウソみたいに、まるで最初からそこにいなかったかのように。私たちの愛の証が、消えていく。高い悲鳴のような声が聞こえた。ああ、全て終わってしまったのか。

「絵里!」

 気づくと、私は地面に崩れ落ちていた。着物の女の瘴気が消え去ってしまったのか、私の思考は正常さを取り戻す。とは言っても、失血が酷過ぎて、ろくな思考が働かない。歯ががちがちと震えて、音が鳴った。あれ、おかしいな、今は夏のはずなのに、何でこんなに寒いんだろう。

「絵里! 絵里!」

 彼に抱きかかえられる。

「さと……る?」

 視界はぼやけていた。私は、泣いていた。泣きながら、必死に謝った。

「ごめんね。聖、ごめんね」

 とにかく、謝らなければならない。でも、何から謝ったらいいのか、わからない。謝らなきゃいけないことが多すぎて、ただ一言、ごめんねと繰り返すことしかできない。

「何で謝るんだよ。絵里は何も、悪くないじゃないか」

 聖も泣いていた。そう、私も、彼も、理解しているのだ。私が間もなく死んで、二人は永遠の別れを迎えることに。

「ごめんね、何から謝らなきゃいけないのか、わからない。ごめんね」

 溢れる想いを肩代わりするかのように、涙と血が、止めどなく溢れて、彼の腕を、服を濡らしていく。

「そんなに謝らなくていいよ」

 そして彼は、私の唇に優しくキスをしてくれた。何度も何度も、謝ろうとする私の口を塞いで。きっと、言葉は要らないのだろう。私も彼も、何も言わなくても想うことは一緒だから。

「聖、寒いよ……ねぇ、ぎゅって抱いて」

 だから、少しでも彼に触れていたかった。死んでからも思い出は残るかもしれないけど、互いの体が触れ合うことは、きっと今しかできないから。だから私は言葉を求めず、彼の腕の中に抱かれることを望んだ。

「あったかい……」

 最高に、幸せだった。この温かさが、願わくば永遠に続くことを――。

 全身で彼を感じていた私の体は、眠りに入っていく。二度と目覚めることのない、永遠の眠りに。苦しさはなかった。ただ、彼への愛しさと、少しばかりの後悔が、そこにはあった。

 愛しさは、無限にこみ上げてくる。

私に声をかけてくれて、ありがとう。
私と手を繋いでくれて、ありがとう。
私とデートしてくれて、ありがとう。
いつも一緒にいてくれて、ありがとう。
私を変えてくれて、ありがとう。

 後悔、それは、謝りきれなかったこと。

ごめんね、あなたを傷つけて。
ごめんね、赤ちゃんを残せなくて。
ごめんね、先に死んじゃいそうで。
ごめんね、最期に何も言えなくて。

 私の、一番の後悔――彼に「ありがとう」って、言い損ねたこと。

ごめんね、ありがとうって、言えなくて。
ごめんね……



 ――そうして私は、永久の虚無の中へと沈んでいった。



……



 一人の男がいた。少年ともいうべきか。一つの惨劇を、ビルの屋上からじっと見守っていたその少年は、左手に持っていた本を広げる。そして、静かに謳う。

二〇〇八年、八月七日、午後一一時二五分。
その惨劇を記録しよう。
遍く歴史を綴る本は、ここに在る。
歴史の闇など存在しない。
我々が、光照らし続ける限り。

 それは美しき歴史書。救われぬ人々に、埋もれ消え去る人々に、光を与えるモノ。

 一人の少女が魔物によって殺されたことを記し、少年は静かに、静かに、本を閉じる。

「それは誰が言ったか――」

 大国の王か、違う。探求する科学者たちか、違う。神秘を求めた魔女か、違う。誰かだ。名もなき誰かが、それを言った。

「誰かがそれを言った。曰く――」

曰く、健康な胎児には魔物が憑くという。
子どもを欲すれども妊娠しない。
妊娠したのに、流産してしまう。
子どもに恵まれない女は、子どもに恵まれる女たちを怨んだ。
そして、その怨念が、本来起こるべきではない流産を招く。
誰かがそれを、籠女(かごめ)の仕業だと叫んだ。
曰く、健康な胎児には籠女が憑くという。
それは、新たな都市伝説――
誰かが叫んだ、都市伝説――





五話へと続く……





※2011/5/9 UP

※3話では絵里が小学四年の時に祖母が死んだと言っていましたが、小学二年生の間違いです。
四話では八歳の時って言ってるよね、絵里さん。
細かすぎて、どうでもいいような訂正。

※2011/5/19 誤字修正



[27529] 町に佇み 第五話『忘我の淫魔』 Part1
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:14
 虚無の中から、一人の少女の魂が掬い上げられた。生前の姿を与えられ、彼女は再び大地を踏みしめる。

(ここは、どこだろう)

 少女はそう想いつつも、これから何をするべきか、どこに行くべきかは知っていた。

(会いに行かなくちゃ)

 彼に会って、伝えなければならない。伝えた想いも、伝えられなかった想いも、もう一度、全て――。



第五話『忘我の淫魔(サキュバス)』



 天使が自殺未遂の入院患者を抱えて病室に戻っていく、奇跡の瞬間――早朝だったことも幸いして、その奇跡を目撃した者はいなかったようだ。病院内で騒ぎが起こることも今のところはない。天使もといセイレーネスも、忙しいからじゃあね、とぬかしてどこかへ行ってしまったし、多分、問題にはならないだろう。

「絵里……」

 猩々を斃して悪夢が去った後、俺の頭の中には代わりに絵里の死が入りこんできた。夢の中で、いったんは決別した気分になったが、それだけで寂しさが癒えるはずもない。

 改めて彼女の死を強く意識したことにより、胸の中に空洞がぽっかりと開いてしまったような気分になる。もう、彼女には会えないんだな、二度と。

 不意に、ケータイが着信音を鳴らし、精華からメールが入ったことを告げた。特に深い意味はないが、彼女専用の着信音を設定している。

『今から一週間ほど、忙しくてお見舞いに行けません。寂しくて死んじゃダメだぞー。あと、看護師さんとイチャイチャするのもダメだぞー』

 文章間に絵文字がたくさん散りばめられた、いかにも女の子らしいメールだ。一週間後には、もう退院するし、次に彼女と会うのは退院パーティーの席だろうか。それまでは、静かな入院生活が始まりそうだ。幸い、精華が大量に持ち込んだ、読み切れないほどの大量の小説があるため、退屈することはないだろう。

 悪夢を見続けていた間にもケガの方は順調に治っていたため、全身を固定していたギプスはすでに取れている。あとは、絵里のことを引きずらないように、心のケガを治すことさえできれば、何も言うことはない。

 思えば、絵里が死んでからこの方、楽しいことを求めることをやめてしまった。俺があの日、花火大会に行かなければ、絵里は無事だったかもしれないのだから。俺が楽しいことを求めたが故に、彼女は死んだ。だから俺は、何もしない。したくない。

 自分を納得させるため、満足させるため――そして何よりも恐怖から逃れるため、俺はあの日以来、地味で冴えない男子へと変わった。

 誰かに近づけば、そのせいでその誰かは死んでしまう。そんな気がして、俺は人と関わることを恐れるようになった。理由は違えど、それはまるで、かつての絵里のようでもある。

 自分の殻に閉じこもるようになってしまった俺の周囲からは、当然人が離れていき、残ってくれたのはノリだけだった。今の俺には、精華とノリしかないのかもしれない。この二人がいなくなったら、俺の世界は意味を失くす。絵里さえいれば、全てが輝くのにな……。

「聖」

 だから最初、それは幻聴だと思った。

「聖……なんだよね」

 しかし、その声は確かに病室の入り口から聞こえてきた。その二度と聞くことはないはずだった声に、俺は混乱し、身動きが取れなくなってしまう。振り向いてはいけない、そうすることで、何か大事なものが壊れてしまうような気がして――でも、俺は我慢できずに、声の主の方を見た。

「絵里……なのか」

 我が目を疑った。目の前に、かつて死んだはずの彼女が立っていた。薄緑のカーディガンを羽織った少女が、そこにいる。それは紛れもない、絵里だった。これは夢なのか、それとも魔物が見せる悪夢の延長なのか、あるいは魔物が絵里に化けて出てきたのか。あるいは、そっくりさんを使ったドッキリという可能性もある。

「聖……会いたかったよ」

 彼女は唇を震わせながら、ベッドの上で上半身を起こした格好の俺へと近づき、抱きついてきた。

「ホントに、絵里なんだよな」

 俺は状況を呑み込めず、彼女を抱き返すことを躊躇った。

「うん、そうだよ」

「菜摘さんや梨佳さんとは違うのはわかるが……従妹とかじゃないよな?」

「もう、違うよ。あなたにいきなり抱きつくそっくりさんとか、いるわけないっしょ」

「でも、絵里……」

 お前、死んだよな、三年前に。そう言おうとして、言えなくなった。彼女も俺の心境を察してか、抱きついていた体を離し、俺と真正面から向かい合う。

「そう、私、死んだよ。でも、何故か生きかえってた。ついさっきだけど」

 何でもないことのように、彼女は言う。そんな簡単なものだろうか。これは魔物の仕業じゃないのか。――そう思うが、それも一瞬のことだ。絵里が目の前にいる嬉しさに、その疑問は一瞬にして流れ去っていく。

「何で生きかえったのか、私自身でもわからない。でも、聖にこうやって会えた」

 そう言いながら、彼女は潤んだ瞳を近づけてくる。それがキスを求める仕草なのだと気づき、俺は彼女と舌を絡めた。

「やっぱり、生きてるよ、私」

 唇を離すと同時に、彼女は涙を流しながら言った。生きているという喜びを噛み締めて。

「ああ、生きてるな、絵里」

 胸がいっぱいだった。色んなことを言いたくて、でも、何から言えばいいのかわからなくて、思考回路はショート寸前だ。こんなに情緒豊かな魔物がいてたまるか。目の前の少女は、誰がどう見ても絵里だ。

「聖、ちょっとおっさんになったね。髭が濃くなってる」

「あれから三年経ったからな。絵里は、ちっとも変わらないな」

「多分、死んだ時のままだから、まだ一六歳だよ」

 俺は、肉体だけが無意味に三年の歳月を重ねていることに気づく。目の前の少女に対して抱く愛おしさは今も変わらず強く、その進歩の無さに呆れと……そして、喜びを感じた。

「俺も、心は一六歳だ」

 今まで押し込めてきた、本来の自分が顔を出す。何でもできそうな気がしてきて、何でもやってみなければ気が済まない、バカみたいに活動的な男――それが、俺だったはずだ。

「よし、デートするか」

 こんな狭い病室にいたのでは、つまらない。それに、看護師さんが部屋に入って来た時に絵里を見られるのは、何となくイヤだ。見られたからと言って何があるわけでもないが……第一、病室ではエッチなことができない。何とかして、外へと繰り出さなければ――。

「でも、聖が病室からいなくなったりしたら、騒ぎになっちゃうよ?」

「ああ、それなら大丈夫だ。いい手が一つだけある」

 そうして俺は、ケータイを取り出して、ある人物へと電話をかける。講義中かもしれないが、知ったことではない。

『お、聖くんか。何だい? またピンチかな?』

 電話の相手は、もちろん石影教授こと威だ。

「今、時間は大丈夫か?」

『ああ、今は空きコマだから、大丈夫だよ』

「実は、影人形を用意してもらえねーかと思ってな」

 威の使い魔、百合花さんは下級の魔物である影法師を操る。彼女は自分の支配下にある影法師を使って、誰かのそっくりさんを生み出すことが可能なのだ。それを俺たちは影人形と呼んでいる。もっともこれには、そっくりさんを作りたい人物を影法師と直接引き合わせる必要があるのだが――俺はすでに何度も影人形を作ってもらっており、いつでも用意してもらえる状態だ。

 ちなみに、影人形は容姿だけでなく、思考や行動のパターンまで完全にコピーする。ただし、その人物が生きていることが条件だ。死者で影人形を作ることはできない。

『おやおや、入院生活に飽きちゃったのか。ケガの方は大丈夫かい?』

「もうかなり治った。少し痛みが残ってる程度だな」

『何か危ないことをするつもりじゃないだろうね?』

「今回は大丈夫だ。ただ、一週間ほど貸してほしい」

『随分と長いね』

「ああ、ちょっと……な」

『何をするかは、教えてくれないんだろうね』

 どこまで話していいものか。俺が悩んでいると、その沈黙を答えとして受け取った威が、苦笑する気配があった。

『まぁ、いいさ。いずれ聞かせてもらうことにしよう』

 そして、影人形が一〇分後にこちらに到着することが伝えられ、電話は切れる。

「これで大丈夫だ」

 さて、影人形の手配もすんだし、いつまでもここにいるわけにはいかない。俺と絵里、二人のことを知っている者がいない、どこか遠くへ行く必要がある。

「絵里、遠くへ行こうと思うんだが、どこへ行きたい?」

 そう言えば、高校二年の夏休みにどこか国内旅行に行こうと話し合ったこともあったような気がする。夏には彼女の体調がすっかり崩れてしまっていたため、結局立ち消えとなったが――確か、その時に二人で行こうと決めていたのは――。

「じゃあ、京都。京都に行こうよ!」

 そう、京都に行こうと決めていた。どうやら、大量の貯金が初めて役立つ時がきたようだ。

「そうと決まれば、さっそく出発だ」

 荷物なんて何もない。金さえあれば、全ての物品は現地調達できる。時間も、少なくともあと一週間はある。オーバーした場合も、またその時考えよう。



……



 こっそりと二人で病院を抜け出し、東京駅に着いたのは午前一〇時過ぎだった。切符を買って、電車を待つ間に駅弁を買う。平日の昼間だが、さすが日本の首都、人の流れは途切れることを知らない。ベンチに座り、行き交う人々をぼんやりと見つめながら、俺と絵里は会話に花を咲かせる。主に、はしゃぎまくる絵里に調子を合わせていただけだが。

「新幹線って、初めて乗るよードキドキだー」

 まるで小さな子どものように、彼女は目を輝かせる。

「普通の電車と何もかわらねぇよ」

「でも、切符が二枚もあるよ!」

「特急券と乗車券な。特急券は、新幹線の指定席に座るために必要な券だ」

「車掌さんが回ってきて、切符を拝見しますーとかあるの?」

「多分ある」

「おおー映画みたいだ」

 俺が切符の説明をしただけでもはしゃいでいたが、実際に新幹線に乗ると、もっとはしゃぎ出した。

「椅子大きいね。このペダルは何?」

「それを踏みながら座席を押すと、回転するんだよ」

「なるほど。あれ、横のおじさんの席にはテーブルみたいなのあるけど、私たちの席にはないの?」

「あるぞ。肘掛の下にしまってあってだな……」

「おおお、かっこいいー」

 そこまで喜べるほど面白いのだろうか。俺には正直理解できなかったが……まぁ、絵里が楽しんでいるなら、何でもいいか。

「聖、何かテンション低いよー」

「絵里が高すぎるんだよ」

 事実、絵里のテンションは人一倍高い。しかし、俺の方は俺の方で、確かにテンションが低いのかもしれない。

「絵里が死んでから、どんな風に騒いだらいいのか、わかんなくなっちまってな」

 はしゃぎ方がわからないなんて、何とも我ながらふざけたことを言っていると思った。でも、絵里が死んで以来、俺が心の底から笑ったことは、あっただろうか。なかった気がする。

「え、あの聖が、はしゃぎ方を忘れたって? 嘘っしょ?」

 絵里は目を見開いて笑い――次の瞬間には、笑顔を収めて、俺の胸に顔を埋めてきた。

「ごめんね、先に死んじゃって。聖につらい想い、いっぱいさせてきたんだね」

「いや、気にするなよ。今、こうして絵里は生きてるんだから」

「……うん」

 何故か、生きかえる。ゲームの世界でもないのに、そんな都合のいいことがあるはずがない。これは、魔物の仕業なのではないか。俺も、絵里も、そのことをどこかで意識している。きっと、何か裏があるはずなのだ、と。だから、今この瞬間にも、絵里を失ってしまいそうな不安に駆られる。

「絵里、俺から離れないでくれよ」

「……うん」

「二度と、離れないでくれよ」

「……うん」

 初夏の昼下がりのまどろみのような、そんな心地よさがあった。絵里の顔は柔らかく、彼女の息は温かい。しばらくの間、そうしてじっとしていた。

 窓の外の風景は、次々と流れる。似たようなビル群が、次々と現れては消えていく。まるで、無情に過ぎゆく日常のように。

「口にしたら、ダメな気もするけど……」

 彼女は、静かに口を開く。

「こんなこと、自分で言いたくないけど……私、いつ消えちゃうか、わかんないもんね」

 そして、はっきりと言葉にしてしまう。俺と彼女が今抱いている、一番の恐怖の正体を。

「だから、しんみりしてる時間も、もったいないよ。ね、聖、もっとはしゃごうよ」

 何て強いのだろう。こんなに強い女性だったのか、彼女は。

「ああ」

 俺は、頷く。上手にはしゃぐ自信はまるでないけど、彼女笑顔を見たいから。一分一秒でも多く、彼女の笑顔を見たいから。

「あー、言ってるそばから泣きそうな顔してる」

 わざとらしく頬に空気を溜めて膨れる彼女のほっぺを、両手の人差し指で挟みこんだ。ぷっ、というかわいい音がして、彼女のほっぺは潰れる。

「絵里、相変わらずかわいいな」

 三年前と同じようにはしゃぐことは、難しいのかもしれない。でも、絵里をかわいいと感じる気持ちに、一点の曇りもなかった。やっぱり彼女は、最高にかわいい。どんな女の子よりも……そう、精華よりも……。

「あ、今、違う女の人のこと考えたっしょ!」

「え、何でだよ」

「絶対考えてた! そういう目してた!」

 ひょっとして蘇ったついでに読心術もマスターしてしまったのだろうか。

「まぁ、いいよいいよ。今の恋人さんと私を比べてたって、仕方ないよ。死んじゃった私が悪いんだから。でも、この旅行の間だけでいいからさ、私のことだけ考えてよ。いつ消えちゃうかわかんない女の子の、願いなんだからさ」



[27529] 町に佇み 第五話『忘我の淫魔』 Part2
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:15
「この辺って熱海っしょ? 温泉入りたいなぁ」
「おおおおおお茶畑! 一面茶畑だよ。うわー香ってきそう」
「浜名湖! ウナギかな」
「名古屋! きしめんかな、コーチンかな、それともやっぱりひつまぶしかな」

 その後の車内では、絵里は窓の外に釘付けだった。行ったことのないところばかりで、全てがもの珍しいようだ。

「食うこと中心だな」

「えー、だって、ヤマハの本社だーとか、トヨタの本社だーとか、あんまりテンション上がんないっしょ」

「そりゃ、食うことに比べりゃそうだが……」

「旅の楽しみと言えば、何と言っても食事っしょ」

「一駅ごとに下車して食べ歩きツアーしてもよかったかもな」

「あああ、そういうこともできるなら、もっと早く言ってよー」

 本気で悔しがる絵里には申し訳ないが、名古屋を過ぎれば京都までの停車駅は二つしかない。

 間もなく京都駅へと到着し、俺と絵里は京都の地を踏みしめた。

「はるばるきたぜ京都!」

 絵里は車内の時より更に輪をかけてテンションが上がっていた。ハイタッチを求めてきたので応じたが、正直ノリきれていない自分がいる。

「もー、テンション低いんだから、聖は。まだ二十歳なんだから、守りに入るような年齢じゃないっしょ」

「そりゃそうなんだが……」

「ああもう、わかった。聖からはしゃがなくていい。私がはしゃぐから、聖がそれに合わせてよ。それならやれるっしょ?」

「善処するぜ」

 何て眩しいのだろう、彼女は。命の輝きに満ち満ちている。

「聖は京都の旅行プランとか、考えてる?」

「いや、特に何も」

「じゃあ、私が考えるね。とりあえずはガイドブックを買って、まずは市内の神社仏閣巡りからかなー」

 そして、彼女に手を引っ張られるままに、俺はあちこち連れ回された。

 東の方からせめようと言われ、まずは東福寺、清水寺、平安神宮を回った。

「すげぇ彫刻だな」

「うわー大きい木」

 同じところを二人で並んで歩いているのに、俺は建物、絵里は木ばかり見ていた。

「おい、ちゃんと建物の方も見てるのか?」

「もう、見てるよー。でも、似たようなのばっかで、飽きちゃった」

「木だって、似たようなのばっかだろうに」

 俺が小さく不満を漏らすと、途端に彼女はぷんすかと怒り出す。

「木をバカにしたわね! あんなに一本一本表情があって、立派なのに」

「建物も立派だろうが!」

「はいはい、立派立派」

「何だよ、その態度は!」

 そして俺たちは互いの口を両端に向かって引っ張り合い――喧嘩になる前に、笑い合っていた。

「聖、手加減してよ。か弱き乙女なんだよ?」

「絵里こそ、ツメが食い込んだせいで、半端なく痛かったぞ」

 そして、それまでの言い合いから打って変って、俺たちは互いを労わりながら寺の敷地を歩く。

「ごめんね、ちょっとやり過ぎちゃった」

「俺こそ、絵里の顔に傷作るようなマネしちゃいけないよな、すまん」

 感情もテンションもころころ変わって、一見すると支離滅裂なだけだが――俺たちの心は次第にシンクロしていって、二人の中では全てが自然に流れていく。

「あー、あれ乗りたい!」

 平安神宮では、絵里にせがまれて人力車に乗った。他人が乗っているのを見ているととても涼しげに見えていたが、乗ってみると意外と厳しい環境だった。砂利の上では、かなりの振動が伝わってくる。そのせいか、真横に座っているというのに、お互いの声が聞こえにくい。

「結構揺れるなー」

「えー? 今何て言ったー?」

「けっこー揺れるなー」

「そーだねー」

 と、大きめの声でしゃべっていると、人力車を降りる頃には喉がカラカラになっていた。

「やっぱ京都はお抹茶だよねー」

「砂糖とミルクがほしいな」

「えー、それだとどこでも飲める味になっちゃうっしょ」

「粉っぽくて飲みにくいんだよ。あー、余計にノド乾いてきた。すみませーん、水ください」

「スマイルもくださーい」

「マックじゃねーよ」

 以前ファストフード店でよくやった冗談も交え、茶屋で休憩を取った。俺たちみたいな若い連中は少ない。年配の人がほとんどだ。俺と絵里は、さぞかし賑やかで目立っていたことだろうと思う。

 ゆっくりと休憩を取りながら、時間配分を考えずに行動した結果、銀閣寺にまで足が伸びなかった。もっとも、時間が足りても体力が足りないので、これくらいがちょうどよかったのかもしれない。明日は二条城に行くと絵里が決めたため、都合がいいようにと烏丸のホテルで一泊することにした。

「何でツインにしたのよー。どう考えてもダブルっしょ」

 部屋を取る際、ベッドをツインにしたことで絵里が不満を漏らす。

「俺はともかく、絵里はまだ未成年だからな。男と二人でダブルとか、一般的に見て危ないって思われちゃうだろ?」

「えー、そんなの気にしなくてもいいよ」

「ヘンな目で見られるだけならまだしも、年齢確認とかされたくないだろ?」

「お客様なんだから、それくらい目をつぶってくれるんじゃないの?」

「いいホテルほど、そういうのちゃんとやってるの!」

「聖、常識人すぎるよー。もっと無茶しようよー」

 と、部屋に入るまではぶつぶつ言っていた彼女だったが、部屋に入った瞬間にテンションが一気に最高潮に達する。

「おおお、広い! だるまさんがころんだできるね!」

 彼女は俺が確認するより早く、部屋中の扉や引き出しの類を全てチェックしていく。

「へぇ、手鏡まで用意してある。細かいねー」
「ねぇ見て見て、冷凍庫の中にハーゲンダッツ入ってる」
「シーツふわふわ気持ちいいー」
「これが部屋の電源で、こっちが――うわ、枕元のスイッチでテレビの電源まで入るよ!」

 新幹線に乗った時と同じように、彼女はこれでもかというくらいはしゃいだ。その後荷物を置いて、夕食をとるためホテルの一階のバイキングレストランにいったが、そこでも彼女のハイテンションは止まらない。

「わーこれ美味しそうー! あ、こっちも、うわーこっちも」

「ちょっとずつ取ろうな」

「わかってるよー。あ、これは絶対美味しいよ、間違いない。多めに取っとこ」

「おいおい」

 一度に料理をとって来すぎて、半分ほどを俺が平らげるはめになった。

「腹いっぱいすぎて、動けねぇ。もう動きたくない」

「ごめんね、聖。まさかあんなに大量に取ってるとは、自分でも思わなかったから」

「いいよいいよ、かわいい絵里のためだし」

「やっぱ聖は男前だね、大好きだよ!」

「おい、抱きつくな。腹の中身が逆流する……」

 食後、部屋に戻ってから俺の胃の中が落ち着くまで二人でじゃれ合って、その後一緒に部屋に備え付けのバスルームへと入った。三年前の彼女なら恥ずかしがって、そんなことしようとは言いださなかったに違いないが、今の彼女はハイテンションすぎて、タガが外れてしまっているらしい。

「背中流してあげるねー」

 彼女は俺の身体を丁寧に洗ってくれる。他人の手で洗われると、くすぐったくて仕方ない。

「絵里、ちょっとタイム」

「だーめ」

「おい、もうくすぐったすぎて限界なんだよ」

 と、ここでもしばらくじゃれ合った後、絵里が正面から抱きついてきた。

「ねぇ、ここでやろっか」

「え、いや、ちょ――」

 上気した頬が、俺の目の前にある。風呂場で性行為に及んだ場合、声が響き過ぎやしないか? 俺は突然のことにうろたえてしまうが――。

「あ、エッチなこと想像したー! 別に、セックスなんて言ってないけど?」

「てめー、ずるいぞ!」

 そして、二人でボディソープの泡をぶつけ合いながら、やはりじゃれ合った。きっと、隣の部屋まで声が響いていたことだろう。

 風呂から上がった後は、服を着る前にそのまま行為に走ってしまった。俺としては、現金なところをあまり彼女に見せたくなかったが、あまりにも色っぽく彼女が誘ってくるものだから、抗いようがなかった。

「一六歳とは思えん妖艶さだわ」

「そりゃ私、本気だもん」

 ここが違うのよ、ここが、と言いながら、彼女は自分の左胸をトントンと叩いて見せる。

「身体も一六歳とは思えんエロさだな」

「なんたって、お肌の張りもピッチピチだからね。一九歳になってたら、ちょっとしなびてたかも」

 そう言って笑い合いながら、俺たちは互いの身体を激しく求めた。快楽のピークを迎えていったん射精をするが、俺のペニスは勃起したままで、性欲も残ったままだ。

「あれ、おかしいな……」

 男というのは、一度射精を迎えると一気に性欲を失うものだ。俺も例に漏れず、射精後は一気に性欲が萎えるタイプだったのだが――どうやら今は、特別らしい。

「なんか、性欲が収まんねーんだけど……」

「うん、いいよ。いくらでも付き合ったげる」

 絵里が妖しく誘うせいで、俺の性欲はますます高まっていく。

「三年分の性欲が溜まってたんじゃないの?」

「そうかもな」

 三年分の愛おしさ、会えなかった日々、抑圧されていた感情――それら全てが、性欲となって弾ける。

「コンドームなんて、いらないよ」

 行為の途中、俺がコンドームを取り変えようとすると、彼女がそれを制する。

「ねぇ、もう一度赤ちゃんが出来たら、結婚してくれる?」

「それは……」

 そんなに長い間、彼女が生き続けているという保証はどこにもない。

「三年前はさ……私も赤ちゃんも、まとめて死んじゃったっしょ? だから、やり直したい」

 俺の頭の中に、三年前の映像が浮かんだ。血まみれの赤ん坊と、それを愛でる絵里の姿が、目蓋の裏に焼きつく。その赤ん坊に魔物が取り憑いたことで、絵里は死んでしまったのだ。赤ん坊さえいなければ、絵里は死ななかった。

「絵里、俺は……」

 赤ん坊なんてもう要らない――そう言おうとして、彼女の瞳の奥を覗き込んでしまう。そこには、深い悲しみと、哀願の色があった。

「お願い、聖。私ね、自分を繋ぎとめたいんだよ。気休めかもしれないけどさ……赤ちゃんが生まれれば、ずっとこのまま聖と一緒にいられるんじゃないかなって……」

 儚げに、彼女の瞳は揺れる。その瞳に負けて、俺は肯いてしまう。

「……わかった。避妊はしないんだな」

「うん。だから、お願い……」

 俺の脳裡に、一瞬だけ精華の姿が浮かぶ。絵里と駆け落ちしたら、彼女はどんな顔をするだろうか。ふと、そう思ってみてから、自分の思考に違和感を覚える。どうして精華のことを気づかう必要がある?

 俺が真に愛しているのは絵里で、精華は幼馴染として大事に思っているに留まる。彼女が俺のことをどうこう思っているなんていう仮定は、不要だ。どう頑張っても絵里のことしか考えられない俺が、精華に対して二股的な感情を抱くことは許されるはずがないのだから。彼女を傷つけることはしたくない。俺は、彼女に近づきすぎてはいけないのだ。だから、俺が精華のことを気にする時点で、それはすでにおこがましいことで――。

『看護婦さんとイチャイチャしちゃダメだぞー』

 脳裡を、精華の顔がよぎる。

「私を思いっきり愛してよ、聖。私をこの世に繋ぎとめてよ」

 そんな俺の葛藤を打ち消すかのごとく、彼女は俺に思いっきりしがみ付くようにして腕を回してくる。こんなに強く抱きつかれたのは、初めてかもしれない。爪が皮膚に深く食い込む。あまりも切なく、鋭い痛みだった。皮膚や感覚器を突き破って、彼女の爪は俺の心臓まで切なさを送り込む。

「絶対に、一緒にいてね」

「ああ」

 俺も負けじと、彼女を抱き返す。わざと爪を立てて、傷を刻み込むように。

 精華には申し訳ないが、絵里とイチャイチャさせてもらおう。看護師さんじゃないし、問題ないよな。今は、絵里だけを見ていればいい。



……



 妄想の中では、いつも絵里と笑ってはしゃいでいたはずなのに、いざ本物の彼女を目の前にすると、それができない。彼女が目の前に現れさえすれば、俺ははしゃぐのが大好きな高校二年生の海詩聖に戻る自信があった。そのはずだった。なのに、俺は戻りきれない。

「聖、やっぱりテンション低いよ。もっと上げていこう!」

 彼女に、合わせきれない。おかしいな、確か俺に合わせてくれたから、彼女はこんなに賑やかな子になったはずなのに……俺の方が必死で合わせようとしてるなんて、冗談みたいだ。

「あ、ネコちゃん! ねぇ、そこのネコちゃんと一緒に写真撮ってよ」

 京都旅行二日目、俺たちはホテルをチェックアウトした足で二条城へと向かった。俺は庭園や濠に釘付けだったのだが、絵里の方はネコばかりに目がいっているようだった。

「ネコなんかどこでもいるじゃねーか」

「お城の中にいるのが、またいいんだよ」

「そんなもんかねぇ」

 俺は腑に落ちないものを感じながらも、ネコの横にしゃがみこんでピースをする彼女の姿をデジカメに収める。シャッターを押す直前、ネコがめんどくさげに目を瞑りながら顔を横に振り、仲良くツーショットという構図にはならなかった。

「ネコちゃん、つれないなぁ」

「昼寝を邪魔するなってことだろ」

「よし、次のネコちゃんでリベンジする!」

 そして結局、俺たちは二人でネコを追い回すハメになった。せっかくの国宝が、ネコに負けるとは、何とももったいない話だ。

「次は京都御苑に行くか」

「もう飽きた」

「おい」

 そして、京都御苑は映画鑑賞に負ける。

 二条城を出た後、JR駅前のショッピングモールに行った。食事を済ませた後はショッピングを楽しもうと最初は話し合っていたのだが、映画の告知ポスターを見て彼女が「映画観たい」と一言発したことにより、映画鑑賞をすることとなる。

 彼女が選んだ映画は、大阪が日本から独立して戦争ドンパチという、エンターテイメント作品だった。二人とも予備知識なく観賞したが、途中からはポップコーンを食べるのも忘れてスクリーンに見入っていた。おかげで、エンドロールが始まってからポップコーンを口の中に詰め込むハメになったのだが。

「やっぱ堤さんかっこいいなー。中井貴一もダンディだし、聖もああいう風に歳とってね」

「無茶言うなよ」

 その後、ショッピングをする。着替え用の服を持ってきていなかったので、俺も絵里も、一日目から同じ服を着ていた。必要に迫られてのショッピングだったのだが、メンズ店が少ないことも手伝い、絵里の服ばかり見ることとなる。

「あ、こういうの着てみたい」

「レベル高いんじゃないか?」

 彼女は南米風のポンチョを指さして言う。無難なファッションしか知らない俺にとっては、未知の領域だ。

「ちょっと試着させてもらおうかな」

 そうして彼女は試着室へと入ったのだが……。

「え、これどこが前? 腕はどうすればいいの?」

 試着室のカーテン越しに、彼女の間抜けな声が聞こえてくる。

「だからレベル高いって言ったろ」

 結局、ポンチョ一枚を着るだけで一〇分くらい格闘していた。ただ、ちゃんと試着して俺の前に現れた彼女は、エキゾチックなニュアンスが加わって、かわいかった。

「似合ってる似合ってる。現地人みたいだ」

「それ、褒め言葉?」

「褒めてるぜ。それに腕のところ、元々着てたカーディガンと似た感じの色だな。ウグイス色ってヤツかな。絵里によく似合ってる」

「そ、そう?」

「ああ、似合ってる」

 あまりに似合っていたので、購入してそのまま着て帰るように勧めた。

「パンプスよりもブーツだな」

「でも、靴まで買ったら荷物多くなるよ?」

「ブーツの方が絶対似合うって。荷物は俺が責任もって運ぶから、気にすんな」

 そのポンチョに合うようにと、次々と色々なアイテムを購入する。最後の方に、ちょちょいと俺の着替えも買って、夕食へ。その後、近くのホテルにチェックインする。

「昨日のホテルよりしょぼいね」

「今日のホテルは安いからな」

「部屋狭いし、備品が少ないし……何この安っぽい湯のみ」

 部屋に入ると、絵里が好き勝手に文句を言う。

「不満か?」

「聖がいるなら、何でもいいけどね」

 だったらそんなにボロカスに言ってやるなよ、と思ったが、文句を言いたい気分なのかなと思い直し、出かかった言葉を呑み込む。ひょっとすると、これは俺への当てつけなのだろうか。

「なんか、気にいらないことがあったんだろ? 何が気にいらなかったんだ?」

 さりげなさを装って、俺は彼女に訊く。すると、待ってましたと言わんばかりに彼女が口を開く。

「このポンチョ、手が全然使えないんだよ! 手を上げようとしたら邪魔になるし……ねぇ誰なの、これが似合うから着て帰れとか言ったのは!」

「いや、着たいって言い出したのは絵里だっただろ……」

「誰かさんが『似合ってる』って言わなかったら、それまでだったのに。誰よ、空気読めない子は!」

「お、俺です……」

 すごい剣幕で彼女がぐいぐいと迫ってくる。俺は思わず後ずさる。どうやら部屋に入った瞬間に、ガマンの限界を超えてしまったようだ。俺の一言は、最後の引き金だったのか。

「でしょ? ホントにこれ似合ってるの? 嫌がらせじゃないの?」

「ちゃんと似合ってるよ。そんな奇妙な嫌がらせ、想い浮かばねぇし……ってか、そんなにストレス溜まってたんなら、もっと早くに言ってくれればよかったのに」

「だって、せっかく誰かさんが似合ってるって言ってくれたのに、不満言っちゃ悪いっしょ」

 そう言いつつ、彼女はその場で服を脱ぎ出した。

「このツケは、身体で払ってもらうんだから」

 そして、俺をベッドの上へと誘った。

 まだまだ夜は長いというのに、こんなに急いで事を成そうとしなくてもいいのではないだろうか。そう思いながらも、あまりの快楽に常識が溶けていく。何度も射精するが、その快楽から逃れることはできない。

「ま、まだやるのか? もうそろそろ限界が……」

 俺は泣きごとを漏らしたが、彼女には受け入れてもらえなかった。



[27529] 町に佇み 第五話『忘我の淫魔』 Part3
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:15
 目覚めると、身体が何となく重たかった。昨日、頑張り過ぎたせいか、股間も腫れぼったい。時計を見ると、朝の六時だった。隣では、絵里が無防備な寝顔を晒している。夜には年不相応な色香に包まれる彼女も、こうしていると、一六歳の少女だ。ひょっとして、一昨日から精一杯の背伸びをしてくれているのだろうか。そんなことを、ふと考える。合わせないといけないのは、どちらかというと俺のはずなんだけどな。

 二十歳を迎えたというのに、余裕の全くない自分に嫌気がさす。子どものころに見た二十歳は、こんなに情けない人間だっただろうか。もっと余裕があって、頼りがいがあるように見えたのではないか。

 絵里、背伸びしないでいいぞ。絵里が一所懸命に合わせようとしているのは、俺じゃなくて、絵里自身の中で膨張した俺の幻想なのだから。実際の俺は、もっと低い場所に立っているのだから。俺は絵里への愛しさを全身で感じながら、彼女の横顔をしばらく見つめ続けた。

 彼女が横にいることが、当たり前のような気がしてくる。本当は、まだ三日目で、いつ彼女が消えてしまってもおかしくないのだが……ずっと、このままでいられるような気がするのだから不思議だ。彼女が横にいてくれるという安心感が、俺を優しく包んでくれていた。

 ほどなくして眠気が襲ってくる。あと少し寝るか……そう思ってまどろんだら、そのまま二時間ほど意識が飛んでいた。

「そろそろ起きて準備しないと、チェックアウト間に合わないっしょ。ってか、お腹減った! 早くご飯いこうよ」

 布団越しに胴体をバコバコと叩かれて、京都旅行三日目は始まった。

 午前中から北野天満宮、金閣寺、龍安寺、仁和寺を足早に回った後、遅めの昼食を取りながら午後の予定を考える。途中まで太秦映画村が有力候補だったが――。

「聖もポンチョ買えー」

 絵里の一声で再びショッピングに。しかし、探し回っても南米調のポンチョは見つからず、結局ポンチョ風の黒いシャツを買った。

「この無難男め」

 と彼女はご不満の様子だったが、どこか嬉しそうにも見えた。

「俺もこんなの着るの初めてなんだが、どうだ、似合ってるか?」

「うん、似合ってるよ。男前だ」

 昨日の仕返しで絵里が嘘をついている可能性もあったが、それで彼女が満足してくれるなら安いものだ。俺は着なれない服にむず痒さを感じつつ、その恰好でしばらくショッピングをして回った。

 時間は瞬く間に過ぎ、彼女と過ごす三度目の夜が来る。

「もう一日終わっちゃったの? 早いよ」

 不満の言葉を漏らしつつ、彼女の声はとても明るかった。楽しい時は一瞬で過ぎていく、そんな世の中の大原則。

「旅行来たのに、ショッピング率高いしな」

 服や靴を見始めると、一時間や二時間は一瞬のうちに過ぎる。男は女に比べて長々と服を選ぶことを好まない傾向があるようだが、俺はゆっくりと見て回る方が好きだ。あまりファッションセンスがある方ではないが、オシャレでイケメンな親友ノリと一緒にいると、自然とオシャレにも興味が湧いてくる。見る服見る服に興味が湧いてきて、なかなか店を出ることが出来ない。絵里に付き合ってレディース専門店に入っても、興味津々にマネキンのコーディネートを見てしまう。一見参考にならないようで、配色のセンスは意外と参考になるのだ。

「聖はもっと観光したいの?」

「いや、ショッピングの方がいいかもしれん。ちょっと疲れが溜まってきた」

「えー、まだまだ若いっしょ、何言ってんの」

「絵里が元気すぎるんだよ」

 主に夜に――と、心の中で付け足す。

「じゃあ、手加減してあげないといけないかな」

 と、口では優しく気づかってくれたが、結局その夜も俺は大量の精力を彼女に吸われることとなった。



……



 疲労は、昨日に輪をかけて溜まっている。身体の中心から脊髄を引き抜かれたような頼りなさと、激しい脱力感があった。その疲労が通常の筋肉疲労とは大きくことなることに、何となく気づいてしまう。これは、体内の魔力量の低下による症状だ。

 俺はすっかり失念していたが、絵里の能力は魔力の吸収だ。その能力が今も健在なら、彼女が俺から魔力を吸い取ることは容易い。三年前の彼女は、対象に触れるだけで魔力を吸収した。毎日のように一緒に行動している今、俺の魔力は彼女に取られ放題の状況だ。

 しかし、かつて彼女が俺の魔力を吸ったことは二回だけしかない。一度目は初めて会話を交わした日、もう一度は彼女が死んだ日だった。それ以外で、彼女がその能力を俺に行使したことはない。このタイミングで、彼女が俺に悪意を向けてくることはあり得るのだろうか。

 可能性はいくつも考えられる。絵里以外の何者かの仕業か、あるいは俺自身の身体的欠陥からか――いや、どちらも違う。彼女との性交渉の後、疲労感はどんどん増すという実感が、残念ながらはっきりとある。彼女は確かに俺の精力を――魔力を吸っている。

 彼女が自覚的にやっているのか、それとも無自覚的にやっているのか――それすら見当もつかない。どちらもあり得る。

 無自覚的にやっているのだとしたら、俺は彼女に告げるべきなのか。彼女が素直に俺の言葉を受け入れてくれたとして、問題はその後だ。能力を制御できればいいが、もし出来なければ――彼女は俺から離れようと努めるに違いない。

「聖を傷つけるしかできないなら、一緒にいられない」

 きっと、彼女はそう言うだろう。そんな悲しい別れ方はイヤだ。

 自覚的に俺の魔力を吸っている場合は、なおさら何も言えない。きっとそれを告げた瞬間、彼女は現実に耐えられなくなってしまう。彼女を追い込むことだけは、したくない。彼女が自ら告白してくれる時まで、俺は待つしかないのだ。待ち続けた先に、どんな結末があるのだとしても――。

「どうしたの、朝っぱらから、そんな難しそうな顔して」

 ベッドの上で物思いに耽っていると、絵里が上から覗き込んできた。ひらりと、彼女の髪の毛が宙を舞い、首元の辺りに垂れてくる。

「ああ、赤ちゃんの名前を考えてた」

 口から咄嗟に出たのは、そんな不自然な嘘だった。しかし、彼女は小さく吹き出して笑う。

「えー、まだ気が早いよー」

「でも、今から考えておかないと、決まらないだろ?」

「たしかに、そうかもね」

 本当に幸せそうに、彼女は微笑んで見せる。その笑顔を見ていると、全ての懸念は薄れていく。彼女が完全に黒と決まったわけじゃない。まだ大丈夫、まだ、このままで大丈夫だ。

「んじゃ、今日もはりきっていきますか」

 四日目は京都西の外れ、嵐山へ。紅葉の時期ではないので、観光客はまばらかと思いきや――どこからこんなに集まったんだ、と叫びたくなるくらい人で溢れかえっている。

「何でこんなに人が多いんだ?」

「若鮎祭り……これじゃない?」

 どうやら、たまたま祭りの日に来てしまったらしい。祭り会場にほど近い渡月橋では、完全に人の流れが出来ていた。

「うわ、ガイドブックで見たら綺麗な橋だと思ってたのに、橋げたじゃなくてアスファルトで舗装してあるじゃん。台無しっしょ」

 しかも、わざわざ近くまで見にいったのに、期待外れだった。

「まぁ、車も通るんだから、当たり前だよな」

「そこを何とかするために、日本の技術力はあるんでしょ?」

「無茶言ってやんなよ」

 渡月橋を渡らずに駅の方へと引き返し、途中の茶屋で涼む。そこでアイスを食べた後、オルゴール博物館へ向かった。オルゴールのメロディなんて単調だし、すぐに飽きてしまうだろうと、俺は全く期待せずに行ったのだが、からくり人形が上部に付いたオルゴールの精緻さに、思わず目を奪われた。

「ほら、聖見てみて、このからくり人形エロい」

「バカ、声が大きいぞ」

 実在した女性をモデルにしたという褐色の肌を与えられたからくり人形が、蛇を掴んでいる。近づいて見てみると、確かに身体のラインが艶めかしかった。彼女が興奮するのも無理からぬ話だ。

 建物自体がそれほど広くないため、コレクション自体はすぐに観終わってしまったが、ショップで絵里が長考に突入する。

「わー、これもかわいいなぁ。でも、かさばるしなぁ……」

 ここに来るまで、俺たちはほとんどお土産の類を買わなかった。邪魔になるのもそうだが、二人とも土産に対するこだわりがないのが一番の理由だ。衣類を除けば、三日目まででお土産として買ったのは絵里のお守りくらいだろうか。

「いくらでも買っていいんだぞ」

「でも、いっぱい買ってもありがたみがなくなるし……もうちょっと選ばせて」

 そして悩みに悩んだ挙句、彼女は小物入れになったオルゴールを選んだ。

「結局それかよ」

「うん。どれか一つだけって考えたら、これが一番いいかなって思って」

 かわいらしく小さな模様の入った、手のひらサイズのオルゴール。箱という辺りが、いかにも絵里らしいと思った。

「その箱の中には、思い出を詰めるんだよな」

「あ、ちょっと洒落たこと言っちゃってる」

「だって、その箱ちっちゃすぎるだろ。思い出以外に何が入る? 耳クソでも入れるのか?」

「うわー、前言撤回! サイテーだ」

 かっこいいことを言うと、つい照れてしまって自分で落としてしまう。そんな青臭い自分が、少し微笑ましい。そうだ、これでいいんだ。どんどん当たって砕ければいい。

「耳クソじゃないなら、乳歯か? 髪の毛か?」

「どうして人体がらみばっかなのかなぁ。発想力が乏しいよ、聖」

「……はい、すみません」

 彼女と歩調を合わせるためのヒントを得たと思ったら、早速玉砕した。でも、これでいいのだ。手数を出して、どれかを成功させればいい。それが、若さなのだから。

「ところで、そのオルゴールの曲は何だ?」

「秘密」

「クラシックだろ?」

「ひーみーつ。また東京の方に帰ったら教えたげる」

「秘密にしとく理由なんてないだろ? 教えろよ」

「秘密にしたいって言ったら、秘密にしたいの。そういう乙女心がわからない?」

「残念ながら、俺、男だから」

「あーもう。とにかく、教えてあげない」

 何故か、オルゴールの曲は秘匿されたまま、オルゴール博物館を後にする。秘密を作りたいお年頃、ということだろうか。鈍感な俺には、その理由がてんでわからなかった。

 その後、俺たちは嵐山界隈の下町を散策しながら、今後の予定について話し合う。神社の敷地内を歩いていたはずが、気づかぬうちに民家の裏路地へと抜けている――そんな奇妙な造りの町並に圧倒されながら、行くあてもなく歩く。別にどこに行かなくてもいいか、と俺が思い始めていた時、絵里が鶴の一声とも言うべき言葉を発した。

「天橋立行ってみたい」

 彼女がそう言うのだから、それに従うしかあるまい。京都駅まで戻り、そこから特急に乗って天橋立へ。地図で見ると京都の南から北まで縦断する長旅に見えたが、僅か二時間弱で到着した。乗り継ぎもなく、座っているだけでよかったので、ホントにあっという間だった。常に話しかけてくる絵里の相手をしたため、眠ることは叶わなかったが、疲労の溜まっている身体にとっては、非常にありがたい休養時間となった。

 駅からタクシーを拾い、近くのホテルへ。幸い空き室もあり、難なくチェックインを済ます。二人ともあまり空腹を覚えていないので、夕食をとる場所を探すついでに、周辺の散策へと出かけた。駅の周辺から少し離れると何もないようなところだったが、駅の周辺ならば個人経営の土産屋が犇めき合っている。

 土産は明日買うことにして、それらの店を冷やかした後、海鮮料理の店に入って夕食を済ませた。新鮮な魚に舌鼓を打った後は、部屋に戻ってから互いの身体を貪る。

 毎日毎日肌を重ねるなんて、普通のカップルならやらないだろう。しかも、ラブホテルではなく普通のホテルで行為を繰り返している。どう考えても普通ではない。だが、俺たちは元から普通のカップルではないのだから、世の中の常識に収まるわけがない。

「絵里、どこにもいかないでくれよ」

「うん」

 込み上げる愛おしさと快楽に、常識も、疲労感も吹き飛ぶ。色狂いと罵られても、一向に構わない。絵里のために狂えるなら、本望だ。

 やがて迎えた射精。精力と入れ替わるようにして体内に流れ込んでくるのは、濃い死のイメージ。酷く甘美で、しかし確実に俺を捕らえて放さない、恐ろしい死のイメージ。このまま彼女に囚われ続ければ、俺は死ぬのかもしれない。

「ひじりちゃん!」

 その甘美な死を受け入れようとするたびに、精華が頭の片隅で叫ぶ。

「ひじりちゃん!」

 何故か俺の頭の中にいる精華は、必死で叫ぶ。俺をこの世に引き止めようと、必死で叫ぶ。

 これは、俺の願望なのか。絵里ために死ぬことを選びかけている一方で、俺は死ぬことを恐れているのか。

「どこにもいかないでくれ、って言ってくれたけど……」

 不意に、絵里が動きを止めて真っ直ぐに俺を見つめる。

「あなたの心は、もう私からは離れてるんだよ」

 彼女は寂しげに微笑む。

「私は、三年前の私のままだけど、聖は違う。私とは違う三年の月日を経験して、私の知らない人になっちゃった」

 まるで、精華に対する俺の心情を代弁するかのように、彼女はそう宣言する。彼女も、俺と同じような心境を味わっていたのか。

「聖、大人になっちゃったよ」

 そんなことはない、と内心で反論する。俺は、三年前から少しも進歩していないのだから。

「落ち着き具合が、もう高校生じゃないもん。高校生の時の聖なら、私が止めなきゃいけないくらいだったのに、今は私が聖をずっと振りまわしてばっかじゃない」

「俺が落ち着いて見えるのは、そんな理由じゃない。前も言っただろ、絵里が死んでからはしゃぎ方がわからなくなったって」

「だから、それが変わったってことだよ。私の知らない男の人になっちゃったんだよ、聖は」

 俺がやっとのことで口にした言い訳も、あっさりと斬り捨てられてしまう。

「やっぱり、もう戻れないんだね、私たち」

 ショックだった。少しずつだが、俺は昔の自分に戻りつつあるような感覚に包まれていたのだ。それを彼女は、一撃の下に粉砕してしまった。

「でもさ……いいよ。私も、今の聖を見ないといけないんだから」

「絵里……」

「私の方が悪かったのかもしれない。三年前の聖の幻想を、今の聖に重ねてたんだよね」

 彼女は俺の口から何かが発せられるのを恐れるかのように、全てを一人で語ろうとする。

「もう一度、一から始めようよ。ね、きっと、上手くいくよね」

「ハイテンションじゃない俺に、絵里が満足できるなら、上手くいくさ」

「無理難題だよ」

 泣きそうな顔で笑いながら、彼女は俺の胸の中に顔を押しつけてくる。

「どこにもいかないでね、聖」

「ああ」

 その顔を見て、俺は理解してしまう。彼女は、自覚しているのだ。俺から精力を吸い取って、俺を死へと導きつつあることを自覚している。でも、俺を死に導かざるをえない事情がある。俺を愛してくれるが故か、それとも――。



……



 五日目は曇天だった。せっかくの天橋立が見えないかもしれないと思いつつ、一縷の望みを胸に、ロープウェーで山の上の展望台へと登る。

「ああ、疲れた」

 いよいよ疲労はごまかせない域を超えた。まるで、三九度の高熱を出した時のような疲労感と、呼吸をするだけでエネルギーを浪費しているかのような消耗感が、全身を支配している。絵里が見ていないところでこっそり栄養ドリンクを飲んでみたが、気休めにしかならなかった。立っているのもつらいほどの脱力感に全身が苛まれている。

 絵里が俺の魔力を吸っていることはほぼ確実だ。それが彼女の意思ではなく、魔物の仕業によるものだと信じたい。だが、彼女が魔物に操られているとして、俺は彼女をどうこうすることができるのか。三年前の焼き増しになるのではないか。

「まだ一日始まったばっかなのに、情けないなぁ」

 彼女はそんな俺の様子をさして気にするわけでもなく、ぐんぐん先へ先へと歩いていく。

「もうちょいゆっくり歩こうぜ」

 声を出すのも億劫になりつつあったが、絵里の姿を見ていると、身体の奥底から力が湧いてくる。まだ、こんなに余力があったのかと自分でも驚くほどだ。

「早く早く、一番高いところまで、あともうちょっとじゃん」

 そう、もう少しだ。俺の限界は近い。ならば、その限界をむかえる寸前まで頑張ろうじゃないか。彼女の笑顔を、一分一秒でも長く見るために。

「あー、靄がかかっててあんまり見えない」

 空気中の湿度が高いためか、天橋立は途中から白く霞んで見えない。彼女は不満そうに顔を顰めているが、俺は満足だ。彼女とここまで歩いてきただけでも、価値がある。

「聖、午後からの天気ってわかる?」

「ああ、確か今日は一日中曇りだ」

「マジで? 最悪じゃん」

 がっくりと肩を落とす絵里。少し慰めてやろうと彼女の肩に手を回す。華奢な腕が、手のひらに触れた。

「何としても股のぞきしてやる。聖、対岸でリベンジしよ!」

 しかし、彼女は諦めていなかった。俺の手を引っ張り、ロープウェーへと戻る。まだ半時間ほどしか滞在していなかった気もするが、対岸でゆっくりするならそれでもいいかと思い、大人しく従うことにした。

 山を下った後、対岸を結ぶフェリーへと乗り込む。乗客のキャパは五〇人ほどあるが、客は全くいなかった。俺たち二人だけを乗せて、フェリーが出発する。

「貸し切り状態じゃん! ちょっとVIP気分だね」

 彼女は大喜びで、前の座席から後ろの座席まで飛び跳ねるようにして動き回る。

「あれ、何これ。かっぱえびせん?」

 上の甲板へと続く階段の前に、段ボールいっぱいにかっぱえびせんの袋が詰まっている。その段ボールの側面には「ウミネコの餌 五〇円」の文字。

「え、これってつまり、デッキでウミネコに餌やりが出来るってこと?」

「多分、そういうことだな」

「やってみたい!」

 目を爛々と輝かせ、彼女はかっぱえびせんの袋を手に取る。段ボール横の集金箱に百円玉をつっこんで、俺と絵里で一袋ずつかっぱえびせんを手にして甲板へ。

「うおおおお風強い」

 甲板は強風に晒されていた。彼女が目を細めながら俺の腕に抱きついてくる。

「しかし、ウミネコくるのか? こんな過疎ってるフェリー目がけて」

 俺が一抹の不安を口にした時、その不安を消し去るかのようにフェリー後方から白い鳥の群れが近づいてくる。

「うわー、めちゃくちゃいっぱい来るよ! かっぱえびせんの袋見て反応したのかな」

「人がデッキに出たからかもしれんけどな」

 ほどなく、五〇羽ほどの大群に俺たち二人は取り囲まれる。俺たちが放り投げるかっぱえびせんを、彼らは空中で器用にキャッチしていく。餌やり係は絵里に任せ、俺はそんな彼女の姿をケータイのカメラに収める。

「絵里がやると、絵になるな」

「聖も私撮ってるヒマあったらウミネコさんに餌上げなよ――って、何自分で食ってんの!」

「いや、えびせんうめぇなぁと思って」

 俺がウミネコの餌を独占していると、物欲しそうに近寄ってきていたウミネコがバランスを崩して甲板に落ちてきた。それに驚いた拍子に、俺は大量のかっぱえびせんを甲板の上へとぶちまける。すると、今度は意図的に甲板の上へと落ちてくるウミネコたち。羽が腕や頬に当たってくすぐったかった。

「がっつくなぁ」

「聖ももっと、がっついていいんだよ?」

 絵里が、不意に身体を寄せてくる。

「いや、ここ屋外だし、あんまりそういうのは……」

 俺がうろたえるのを見ると、絵里は悪戯っぽく笑いながら俺の顔へと腕を突き出して来た。

「ほら、えびせん食べろー」

 絵里の手で、俺の口の中に無理やりえびせんが押し込まれる。また、このパターンか。ホテルのバスルームでの時といい、今回のことといい、自分の引っかかり易さに呆れてしまう。

「やりやがったな、このやろう」

 恥ずかしさを紛らわすため、俺も負けじと、えびせんを絵里の口の中に押し込む。互いの口に収まりきらなかったえびせんが甲板に落ち、更にウミネコたちが群がってきた。

「絵里が無理やり食べさせてくれるえびせん、美味いわ」

「ごめんね、もうちょっと丁寧に口の中に入れればよかった。まさかこんなに報復が来るとは」

 よく見ると、彼女は目に涙を溜めていた。俺は慌てて謝罪する。

「絵里、泣いてるのか。すまん、乱暴すぎた。どこか口の中切ったか?」

「ううん、違うの。なんか、幸せだなーって思ったら、涙が出てきちゃって」

 幸せすぎて涙が出てしまう――これ以上美しい涙は、きっと存在しないに違いない。溢れ出る愛しさを抑えきることができず、俺は彼女を抱きしめる。この愛しさを逃がさないためなら、多少の疲労など知ったことではない。彼女への精一杯の愛しさで、俺は魔力の不足した身体を制御する。

 フェリーが対岸に着く直前でウミネコたちはどこかへ飛んでいった。それを見送りながらフェリーを降りて、再びロープウェーで山の上へと向かう。

「やったー、結構見えてる!」

 山の上に到着した時、ちょうど日が射して視界が晴れてきた。彼女は待ってましたと言わんばかりに前屈みになり、股の間から反対に天橋立を見る。

「うんうん、天橋立だ」

 海面が小さく波打ち、陽光を照り返して白く輝く小舟を作る。その中に一本通る、細い陸地。ちょうど干潮のタイミングらしく、対岸まで地続きになっている。

「聖もやろうよ、股のぞき」

「このままでも充分綺麗だから、遠慮しとく」

「ちょっと、レディにだけこんなヘンなカッコさせる気?」

「わかったわかった、俺も紳士だ、やろうじゃないか」

 正直、普通に立っているだけでも頭が重くてつらい。元気な時でも前屈姿勢は疲れるのに、今やったらどうなることか……。

「あ、やばい、天橋立だ」

 やばい、頭が割れそうだ。本物の天国へ続く橋が見えかけたので、すぐに起き上がる。

「よし、満足した! 次はお土産買いに行こう」

 そして休む間もなく土産屋巡りへ。ここは頑張り時だと思い、必死で絵里についていく。持って帰るような物はほとんど買わず、その場で食べ歩けるようなものばかり買った。俺は彼女の食べ残しを処理していく係となったが、焼きちくわがなかなか処理できずに悶絶した。

 ホテルに帰るためにタクシーを捉まえた後は、ほとんど記憶が残っていない。タクシーの中でも寝ていたし、部屋に帰ってからもすぐに気絶した。

「絵里、俺そろそろ限界だわ……」

 ひょっとすると、このまま目覚めないのではないか。そんなことを思いつつも、俺の心は達成感で満たされていた。

 この五日間、絵里のために尽くした。俺は、やりきったのだ。さぁ絵里、教えてくれ。お前は、俺をどうしたいんだ。

「聖、ゆっくり休んでね……」

 ベッドの上に倒れ伏し、意識が途切れる寸前、絵里の声が聞こえる。その声は、暗く沈んで響いた。



[27529] 町に佇み 第五話『忘我の淫魔』 Part4
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/19 19:17
 俺は、激しい射精感とともに目覚めた。それは夢精の感覚に似ていて、もっとリアルなものだった。

「絵里……」

 目を開けると、淫靡な光景が飛び込んできた。俺の陰茎を、彼女の口がすっぽりと覆っている。何をやっているんだと発する猶予すらなく快楽のピークを迎え、俺は彼女の口腔内に射精してしまう。激しい快楽の後に押し寄せる、脱力感、喪失感、視界の明滅――それらが、俺の身体の摩耗度を知らせる。

「おはよう、聖」

 妖しく笑って、彼女は俺の上へと跨る。彼女の唾液が潤滑油となり、俺の陰茎は彼女の膣へと抵抗なく吸いこまれていった。無理やり引き出される快楽に、不快感と疲労感が混じる。

「おはよう、絵里」

 しかし、俺は彼女を突き放すことができない。身体はまだ動くが、動かせない。俺から彼女との関係を壊すことだけは、したくない。もし壊すのだとしたら、彼女の判断に委ねたい。これは卑怯なのだろうか。全てを彼女に委ねるのは、逃げでしかないのか。

 逃げ続けた先に、俺はおそらく死ぬ。死という逃げ道に、俺は向かおうとしているのか。彼女が与える性的快感と、射精後に彼女が奪っていく魔力が、俺の思考をどんどん緩慢なものにしていく。

 いや……逃げているわけじゃない。俺は全力で立ち向かってきた。彼女の全てを受け止めるために、ここまでやってきたのだ。三年前の自分に恥じることがないように、全身で彼女を受け止めてきた。少なくとも、この場から逃げ出したりはしない。この後、どんな悲劇が待ちうけているのだとしても。

「聖、どうして?」

 しばらくして、彼女は口を開いた。

「どうして、黙ってるの? どうして、私になされるがままなの? このままだと、死んじゃうよ?」

「絵里……」

 彼女の瞳に、吸い込まれる。そこにある暗い色が、俺の胸をチリチリと焦がす。

「聖自身も気づいてるっしょ? 私があなたの魔力を吸ってること」

 ついに、彼女は告げる。この五日間にあった、彼女の罪を。

「私ね、最初はホントに気づいてなかったんだ。でも、聖の様子がヘンだなって思って、それで気づいた」

 彼女は完全に動きを止めて、両手を俺の胸板の上へと重ねる。

「私、自分で力を制御できてないんだよ。でも、それを言うのは怖かった」

 聖が疲れてるのに気づいてないフリするのも大変だったよ、と彼女は自嘲する。

「気づかっちゃったら、聖が私から離れていくような気がしてさ。最低だよね、私」

「そんなことない」

「そんなことあるよ」

 絵里の目に、涙が溜まる。それは、この世でもっとも見たくない涙――自分の愛する相手が、自己嫌悪に溺れる涙だ。

「聖と一緒にいられなくなるって思うと、何も言えなかった。でも、私と一緒にいれば、聖が衰弱しちゃうし……私、あなたを殺すためにここにいるんだよ、きっと」

 まるでノドの奥から絞り出すように、彼女の声は濁り、歪み、掠れる。

「ここにいるのは、愛を囁きながら聖を殺そうとしてる、魔物なんだよ。私は、絵里じゃない」

「だったら、何だって言うんだよ!」

 俺は、自分でも驚くくらい大きな声で叫んでいた。

「そんな理由で、絵里を見捨てたりはしない」

「聖、やっぱ男前だね。三年前と、そこは変わってないや」

 魔物なもんか。絵里は絵里じゃないか。俺の身体のことを気づかって、俺のことを目一杯愛してくれるお前が、魔物なわけないじゃないか。だったら俺は、愛の魔物になろう。愛を存在理由にして、この世に存在を繋ぎとめて見せよう。

「でも、このまま私と一緒にいると、死んじゃうよ」

「だから、別れろっていうのか?」

「それだけじゃ、足りないよ」

 別れなくても、いいじゃないか。俺は、愛の魔物は、お前と別れた瞬間に生きる意味を失くしてしまう。別れるだけで、俺には充分すぎるんだよ。だから、それ以上言わないでくれ。

「私は、一欠けらの良心で忠告してるんだよ。私の身体は、あなたの魔力を吸い取りつくすまで止まらない。だから――」

 語尾は声にならず、息の漏れる音が僅かにする。彼女の唇は、こう告げた。俺がもっとも聞きなくなかった、一言を紡ぐ。



わたしをころして――



「いやだ……そんなの、できるわけないじゃないか!」

 一体どうやったら、愛した者を手にかけることができるんだ。そんなの、できるわけない。

 重い沈黙が、二人の間に流れた。

「……精華さんっしょ? あなたが今、一番大事に想ってるのは」

 おそるおそるといった様子で、絵里が俺の顔色を窺う。

「そう、思うか?」

「うん、そう見えた。どこかで誰かに遠慮してるように見えた。勘だけどね」

 重くなっていく空気を振り払うかのように、彼女は大きく首を振る。

「ここで死んじゃダメだよ、聖。ここで終わっちゃダメだよ。私と聖の記憶が無くならないように、私を殺して」

 彼女の涙が、頬に、腕に、飛び散る。

「私があなたを殺しちゃう前に、あなたが私を殺して!」

「無理だ……」

 彼女を殺すためには、彼女の首を絞めるか、刃物で刺すか――詩の力で彼女の身体を破壊するか。ダメだ、どれもできそうにない。もし、精神的な抵抗がなかったとしても、難しい。

 彼女に上に跨られている今、彼女の首を絞めることは難しい。この態勢では、締めることはできても、大して力が入らないだろう。刃物のような凶器の類は、手元に存在しない。とすれば、俺が今、彼女を殺す方法は一つ。詩の力で、彼女の身体を破壊すること。

 俺が詩の力を発揮するためには、対象を殴る必要がある。俺が絵里を殴ることなんて、不可能だ。それだけは、できない。できるはずがない。だが、殴ることができなければ、俺は詩の力を行使することができない。俺は絵里に殺されてしまう。

「聖……私、もう待てないよ?」

 彼女の膣内が脈動し、俺の快楽を引き出すために激しく動きだす。

「早く、殺して!」

 彼女は泣きながらも、俺を殺すために動く。やがて迎えた快楽のピークとともに、二度目の射精が起き――俺は意識を失った。



……



 俺の人生に最高の輝きを与えてくれた人、絵里。満たされない心を紛らわすためにバカ騒ぎをしていた俺の心を、真に満たしてくれた人。

「ふたご座流星群か、いいなー。流星なんて、今まで見たことないんだよね」

 いつの日だったか。確か、一年生の一二月に入ってすぐの頃、絵里がそう言いだした。

「二人で観に行くか」

 と、俺は気軽に言ったのだが、よくよく聞いてみると流星群のピークは午前三時だという。

「金曜日の深夜だし、いけそうだね」

 彼女も気軽に言う。確かに、観測する場所が近場ならば問題はない。しかし、東京は明るすぎて星が見えないため、ちゃんと流星群を見るためには、どこか遠くまで移動する必要がある。インターネットで調べた情報を頼りに、電車を乗り継いで九十九里まで行くこととなった。週間予報も連日お日様マークが続いており、絶好の天体観測日和となりそうだった。

 当日の夜は学校が終わった後、一旦帰宅して防寒着に着替えてから再び集合する。二一時半発の電車に乗り込み、総武線を細かく乗換え、最寄駅についたのが二時間後だった。流星のピークまで時間的にも余裕があったため、二人で海岸までの道のりをゆっくりと歩く。冬真っ只中だが、冷え込みもさほどきつくなく、歩くとポカポカしてきた。

「全然星の見え方が違うね」

「同じ空とは思えんよな」

 東京にいれば見えないような、六等星以下の星が空一面に広がる。海岸への道中は、歩きながら首を上に向け続けることが難しく、流星を見つけることはできなかった。しかし、満点の星空を見るだけで、充分この場所に来た価値があると思えた。

 一時間ほど歩いて海岸に着くと、同じように流星を見に来た人々の姿がちらほらと見えた。他の人たちから適当な距離をあけて、俺たちは砂浜に腰を下ろす。最初はひんやりと冷たいが、すぐに冷たさを感じなくなった。

「流星見るコツってある?」

「一か所を見つめすぎても見逃すから、全体をボーっと見渡す感じでいるといいんだとさ」

「えー、結構難しいなぁ」

 二人で寝転がりながら、流星を探す。真冬の夜空は、夏と比べて何となく高度が増しているような気がした。

「あ、今見えたかも。一瞬光る、アレだよね」

「そうだな、俺も見えた」

「うわー、ホントに一瞬だ。願いを思い浮かべるヒマとかないっしょ」

 星に願いを――ロマンチックだが、実際問題は流れ星が光る間に願い事を思い浮かべることなんて不可能だ。有象無象に願いを託すのはよくない、ということの典型例なのかもしれない。

「星に願うくらいなら、クラスのスターたる俺に願ってくれよ」

「聖に願ったら、全部オモシロ変換されちゃうからダメ」

「ちっ、読まれてたか」

 賑やかな俺たちにしては珍しく、口数少なく夜空を見上げていた。沈黙が続く。でも、その沈黙は息苦しいものではなくて、落ち着きを俺に与えてくれた。

「しゃべんなくていいの?」

「ああ、黙ってても何だか落ち着くわ。絵里と一緒にいるだけで、楽しいんだろうな」

 言葉を交わさずとも、通じ合うものがある。言葉があれば、ある方がいいが、無くても苦にならない。むしろ、心地いい。

「こんなこと言うと、絵里に似合わないって言われそうだけどさ――」

 俺の心の中に、宇宙が広がる。その宇宙の美しさを絵里にも伝えたくて、俺は夢中で言葉を紡いた。

「夜空に浮かぶ星は、俺たちには近くで瞬き合ってるように見えるけどさ、実はすんごい距離離れてるんだよな。人も実はそんなもんで、みんな孤独を埋めるために近づき合って、必死で輝いて――でも、結局は一人ぼっちなんだ。どんなに話題を共有しても、身体は共有できないからな。孤独に、一人で思考するしかないんだろうと思う」

「うん」

 彼女は茶化さない。静かに、俺の話を聞いてくれる。

「幻想なんだよ。友情だの愛情だの、結局近づいて見えるだけで、実は互いの心の間には何千何万光年っていう隔たりがあってさ。その隔たりを意識するのが怖くて、尻ごみする。超えてはいけない一線を決めて、その枠の中に収まろうとする」

「聖は、私との間に線引きしてるの?」

「してるんだろうな、きっと。生まれつきの防衛反応みたいなもんで、きっと自動的に線引きしちまうんだ」

 既成概念があるから、人は情報が溢れかえる日常を難なく乗り越えられる。見るもの、聞くもの、感じるものの全ては、俺たちが預かり知らないところで勝手に簡略化されて処理されてしまう。脳が、情報をより高速処理するために、余計だと思う情報を省いてしまう。その省かれた情報の中に、美しいものがたくさん含まれているかもしれないのに。

「対人関係をうまくやっていくために、本能的に線引きする。本能的にしちまうんだから、仕方ないと言えば、仕方ないのかもしれない。でも、本能さえも乗り越えるのが、人間なんじゃないかなと、俺は思う」

 雄と雌は子孫を残すために性交する。だから、人間の男女も子孫を残すために性交をする。人間は、そんなに単純なものなのか。俺は、そうは思わない。人は、もっと深く誰かを想い、愛することができる。

「世の中の連中が、どんな風に恋人と接してるか、そんなことは知らん。でもさ、俺は絵里と一緒に溶け合うくらい、愛する自信がある。俺だけが輝くってことじゃなくて、絵里だけが輝くってことでもなくて、二人で一つの星の輝きになる自信がある。伝わったかどうかわからんけど……そういうのって、俺だけかな」

「ううん、わかるよ」

 すぐ隣にいるはずなのに、周囲の暗さのために表情すら読めない。その代わり、手袋越しに繋いだ手が少しだけ強く握り返される。

「同じことを思って、感じてるから、わざわざ言葉にしなくてもいいってことだよね」

「ああ、その通りだ。最高に居心地がいいわ、今」

「私もだよ」

 星々と波の饗宴が、控えめに砂浜を彩る。俺たちは身体が冷えて我慢しきれなくなるまで、ずっと夜空を眺め続けた。

「寒いーもう限界! 流れ星も一〇個くらい見たし、もういい」

「いててて」

 絵里が手をつないだまま飛び起き、俺は無理やり引っ張り上げられた。

「寒い! ぎゅってして! ぎゅって!」

「仕方ねぇなぁ」

 彼女のリクエストに答え、力いっぱい彼女を抱きしめた。

「あったかいか?」

「ううーあんまり」

 彼女は俺の腕から抜け出して、砂浜を走り出す。

「寒いから走る!」

「おい、絵里、待てよ」

 男子顔負けの俊足で駆けていく絵里を、俺は必死で追いかけた。砂浜は足の力を吸収してしまうため、力いっぱい走ってもなかなか前に進まない。やばい、彼女より先にバテてしまう。そう思い、俺は必死で走った。俺がバテるより早く彼女がバテてくれなければ、男として面目丸潰れだったところだ。

「ああー疲れたー」

「お、俺はまだまだ……いけるぜ」

「肩で息してるけど、ホント?」

「絵里よりは、走ってみせる」

「じゃあ、試しちゃおっかな」

 そして、彼女はバテバテの俺を残して再び走り出す。そんな余力はないはずなのに、俺も絵里もノドがカラカラになるまで走り続けた。



……



 数えきれないほどの、まるで星の数ほどもあろうかという美しい輝きが、俺の心を掠めながら瞬いて、流れていく。

 初めて彼女と会話した時。
 初めて彼女と手を繋いだ時。
 初めて彼女とデートをした時。
 初めて彼女と一夜を明かした時。

 それは、俺にとって初めての連続だった。俺の高校生活は、絵里なしには語れない。彼女と一緒にいると、全てが華やいだ。彼女が励ましてくれると、何でもできるような気がした。

「絵里、ありがとうな」

 俺が死ぬにしても、彼女が死ぬにしても、構わない。

「絵里のおかげで、俺は変われた」

 誰かを愛することを知った。
 誰かから愛されることを知った。
 生きている喜びを知った。
 自分が必要とされる喜びを知った。

「絵里がいなかったら、俺は何も知らないままだった」

 彼女がいなければ、俺は喜びも哀しみも、何も知らずに満たされない日々を送り続けていただろう。

「ありがとうな」

 言葉にすれば短い一言だが、俺は感謝の気持ちを伝える。それ以上の言葉は見つからない。絵里の動きが、再び止まる。

「どうして、ありがとうなんて言えちゃうの? おかしいっしょ」

「おかしいことなんて、ないさ」

「何でよ。私と出会わなければ、聖はこんな思いをせずに済んだんだよ? それでも、感謝できるっていうの? つらいだけっしょ」

「つらいのも、いいさ」

 その時、俺の頭の中に一つの詩が流れてきた。愛する者を、送る詩。

「俺は一人の少女と出会って、生きることの喜びを知った」

 絵里の全てを、俺は詠う。身体の奥から微風が巻き起こり、俺と絵里を優しく包んだ。

「彼女の名は白葉絵里。魔力を吸う妖怪、白妖の血を引いていて、自身もその能力の片鱗を持つ。
祖母の言いつけを真面目に守り、自身の力を家族にすら秘密にしてきた。
うっかり話してしまわないように、彼女は人々と関わることを避けるようになっていく。
その過程で読書の世界に入り込んで、彼女は豊かな人生を疑似体験していた。
でも、それは所詮偽物だと高校生の時に知る。
高校で俺、海詩聖と出会って、彼女は変わる」

 頭の中で、彼女への愛しさが鳴り響き、何度も何度も反響して一つの大きな波を創り上げていく。

「彼女は、自分が誰かを変えていくことを知る。
同時に、自分が誰かのために変わっていくことも知る。
恋人と向き合い、家族と向き合い、自分の弱さと向き合い、そうして彼女は大人になっていった。
周囲の全ては彼女を祝福する。
祝福された彼女の妊娠は、その後の未来を明るく照らしていた。
そこには幸せだけがあった。
だから、魔物を呼びこんでしまう。
幸せを破壊する魔物の手で、彼女の身体も、赤ん坊も壊された。
それだけじゃない。
今ある幸せと、その後に続く幸せの全てを破壊された。
多くの後悔を残して、彼女は死んだ」

 俺が詠うたび、彼女の身体が消え去っていく。砂山に穴を開けるように、ボロボロと彼女の身体が崩れ去る。崩れる箇所から金色の輝きが放たれるのは、命の瞬きか、それとも俺と彼女の思い出か。美しく輝きながら、彼女は虚無へと還っていく。

「彼女と別れるのはつらいけど、全ての想いを伝えるために、俺は最後まで詠う。
多くの後悔が残っていたせいか。
彼女は、人外の存在としてこの世に蘇った。
それは、精力を吸う魔物。
魔力を吸う彼女の能力と近しい、淫魔。
標的の精力を吸い尽し、殺す、無慈悲な魔物。
本来は、無慈悲なはずだ。
だが――」

 俺がずっと感じていた違和感は、彼女の心と体のズレにあった。不自然に生きかえったことよりも何よりも、そのことが気になった。

「だが、その魔物は彼女を取り込んだが故に、慈悲深い。
その慈悲深さが、かつて愛した男を救い、自らの滅びを運ぶ。
彼女の思い出、彼女の存在を紡ぐため、俺は生きる。
だから、俺は彼女を送る詩を紡ぐ」

 殆ど光の塊と化した絵里に、俺は最後の言葉を紡ぐ。三年前、言い損ねた言葉の全て。その、最後の一つ。

「さよならだ、絵里」

「うん、さよなら。元気でね」

 微笑むと同時に、彼女の輝きは弾けて、眩いばかりの皓白の塊へと変わる。刹那、俺の身体に彼女の想いが流れ込んできた。その波は俺の内面の全てを洗い流さんばかりに激しく、しかし留まることなく、俺の身体を突き抜けていく。そこには限りない喜びと、感謝の気持ちが混じっていた。

「聖、ありがとう」

 最期に小さく、そう聴こえる。体内の魔力の低下による疲労感は、嘘のように消え去っていた。



……



 絵里が消え去った後、俺はしばらく呆然とベッドの上で寝転がっていた。先ほどまであったことが、夢のようだった。

 不思議なことばかりだった。絵里が何故か生きかえって、彼女を再び殺すために俺は詩の力を行使した。彼女が生きかえった理由はおそらく魔物のせいだったのだろう。状況から推測して、そうとしか考えられなかった。しかし、俺が使った詩の力――アレは一体何だったのだろうか。

 頭の中で響き渡った絵里との思い出と、彼女への愛しさがどんどん増幅されて、俺の口から溢れ出た。その言葉が、彼女の身体を壊した。もう一度再現しろと言われれば、できる自信はない。しかし、これはセイレーネスが云う、真の詩の力だったのではないか。指一本動かさずに、俺は確かに詩の力を行使した。あの時の感覚が、詩の真の感覚だったのか。

 でも、今回は特別だったんだろう。相手が絵里でなければ、あそこまで想いが増幅することはなかった。詩の感覚を掴んだのか、絵里への愛しさを確認しただけなのか、その境界があいまいだ。

(絵里、俺は強くなれたんだろうか)

 首を横に振ると、彼女の僅かな手荷物が目に入る。最低限の着替えしか入ってない、赤茶色のショルダーバッグが一つだけだ。

 何となく思い立って、俺はそのバッグを開ける。一番上には、ポンチョ。そして、内ポケットに小さなふくらみを見つける。気になってポケットのボタンをはずすと、そこにはオルゴールがあった。オルゴール博物館内のショップで買った、小物入れだ。そういえば、曲を教えてもらっていなかったな。

 そっと蓋を開けると、そこにはグリーンスリーヴスのメロディーと、小さく折り畳まれた紙が入っていた。その紙を見た瞬間、その音楽を聴いた瞬間、心臓が引きちぎれそうなほど痛み、俺は胸を掻き毟るようにして蹲った。この紙には、きっと俺に対する彼女のメッセージが書かれている。それを読んだ時、俺は現実に耐えられるだろうか。

 しばらく逡巡した後、恐る恐る、俺はその紙を開いた。そこには、ピンクの色ペンで丸っこい文字が綴られていた。

『聖へ。

 このオルゴールの中に、願いを
詰め込みました。あなたの幸せを
望む、私の願いです。
 願いは儚いものだけど、願わな
ければ叶わないから、私は願いま
す。私に幸せを与えてくれた、
あなたの幸せの全てを。

             絵里』

「……絵里」

 緑のカーディガンを着ていた少女が、この箱の中にいる。俺は、声を上げずに泣いた。明記はされていないが、伝わる。彼女がこの短い文面に籠めた想いの全てが。

 彼女は、早い段階から自分がこうなることを想定していたのだ。だから、オルゴールの曲名を秘密にした。俺が絵里のことを忘れないように、密かに自分をオルゴールの中に閉じ込めて。

 いかにも彼女らしい気づかいだ。俺が自分のことを引きずらないようにと、自分の幸せを願わずに彼女は逝った。表面上は、俺の幸せだけを願って。

 でも、俺にはわかってしまう。彼女が、彼女自身の幸せも願っていたことが。一切触れないからこそ、それを強く思っていることが、伝わってしまう。

『私を忘れないでね。私に使う予定だった愛情は、全部精華さんに注いであげて』

 俺の思い込みなのかもしれない。でも、彼女が一番言いたかったことは、きっとこれなのだ。思い出を紡ぐことを誓った俺に、念を押したかったのだ。

「絶対、忘れないさ。忘れるわけ、ないだろ」

 一人だけのホテルの部屋に、声が虚しく響く。答えはない。

 灰色の雲の向こうに、天橋立が霞む。空は、俺の心を映し出すように、大粒の雨を降らせた。



……



 悩んだ結果、絵里の着替えは全て処分することにした。俺には、オルゴールがある。このオルゴールがあれば、後の遺品はかさばるばかりで無用の長物だ。薄緑のカーディガンは彼女と一緒に消滅してしまったし、しいて保管する価値があるものといえば、ポンチョくらいか。

 もう、引きずるのはやめだ。彼女のことは忘れない、しかし、それを悔やむのはやめだ。

「ごめんな、絵里」

 そして、彼女を思い出にするために、ポンチョも処分することにした。きっとこれがあれば、彼女のことを思い出しすぎるから。

 ホテルを出た後、東京に帰るため、一人で電車に乗り込む。ただ一つだけ持ち帰ったオルゴールを、窓枠に置いて、景色と一緒に眺めた。電車の外の景色は次々と流れゆく。喜びも悲しみも、こうしてあっという間に流れ去っていくのだろうか。三年間引きずり続けてきた絵里の死も、三〇年後には、ただの思い出に変わっているのだろうか。

 そんなのは、考えても仕方のないことだ。考える必要はない。俺は、一つだけ忘れなければいい。絵里が愛してくれた男は、くよくよといつまでも前に進めない男ではなかったということを。

 いつまでも情けない男であり続けるのは、絵里に失礼だ。彼女があの世でも俺のことを自慢できるように、俺は前を向いて歩いていかなければならない。

 時には、立ち止まってしまうこともあるだろう。今までの俺は、立ち止まりっぱなしだった。でも、今日からは進んでいこう。無理に進まなくていい。一歩ずつ、着実に、前へ、前へ。

「絵里、見ててくれよ。男前になって見せるからな」

 オルゴールに小さく囁いて、それをズボンのポケットに突っ込んだ。そうして、夢のような五日間に終わりを告げる。

 まずは何をやってやろうか。大学生らしいことと言えば何があるだろう。飲み会か、合コンか、もっと活動的に山登りか、それとも社会貢献を目指してボランティア活動に従事するとか? 楽器を始めるのもいいかもしれない。やれることは何でもある。やりたいこと全てをやるには、人生はあまりにも短い。だから、こうして考えている間にも実行しなければならない。今、この瞬間に出来ることは何か。

 バッグの中には、紙と鉛筆――それだけしかない。出来ることは、文字を書くか、絵を描くかのどちらかだ。絵心がない俺に残された選択肢は、文字を書くことしかない。では、一体何を書けばいいのか。日記か、小説か、それともポエムか……。

 悩んでいたところに、ポケットの中のオルゴールが手に当たる。それで俺は閃いた。歌詞を書こう、と。

 初心者が書くのだから、きっと酸っぱい内容になると思う。それどころか、作曲の才能なんて皆無だ。でも、歌詞を書いてみよう。メロディが無い歌詞でも、俺の中には色鮮やかに流れるのなら、それでいい。想いを、思い出を、歌にしよう。

「桜の季節に出会い、若葉の下で始まった恋……ちょっと安っぽいか」

 書き出しが、思い浮かばない。俺は、絵里との思い出を歌にしたいのだ。そのためには、これじゃ足りない。もっと、想いが詰まっていないと……。

「絵里……愛しの絵里……ああ、ダメだ。サザンのパクりじゃねーか」

 そうだ、思いだした。彼女と二人だけでカラオケに行った時、俺はここぞとばかりにサザンのいとしのエリーを歌ったのだ。

「まんまじゃん」

 と彼女は感動する様子もなく、逆に失笑されてしまった。まんまか……。

『絵里 俺の初恋の人
桜のように綺麗で儚い人
学校は君に会うための場所で
授業は君の横顔を眺める時間
君の小さな歩幅に合わせるのは
疲れたけど楽しかった』

 こんな感じだろうか。かっこつけるよりも、素直に想いを書き起こした方がいいような気がする。

「センスないなー、聖は」

 不意に、絵里に笑われた気がした。

「うるせーよ」

 俺はオルゴールを小さく叩く。それきり、絵里の声は聞こえなくなった。

 でも、確かに俺の中では響いている。彼女の、幸せそうな笑い声と、笑顔が――。



……



 一人の男がいた。若い男だ。一つの惨劇を、ビルの屋上からじっと見守っていたその男は、左手に持っていた本を広げる。そして、静かに謳う。

二〇一一年、六月一一日、午前八時六分。
その惨劇を記録しよう。
遍く歴史を綴る本は、ここに在る。
歴史の闇など存在しない。
我々が、光照らし続ける限り。

 それは美しき歴史書。救われぬ人々に、埋もれ消え去る人々に、光を与えるモノ。

 一つの魔物が死んだことを記し、男は静かに本を閉じる。

「それは誰が言ったか――」

 大国の王か、違う。探求する科学者たちか、違う。神秘を求めた魔女か、違う。誰かだ。名もなき誰かが、それを言った。

「誰かがそれを言った。曰く――」

曰く、人の中には魔物が棲むという。
時に淫らな夢を見るのは、魔物がそうさせるからだ。
だから、毎夜続く快楽に身を委ねてはいけない。
快楽に身を委ねた人の末路は、ミイラ化だという。
精液が枯れるまで出続け、その後は体液が枯れるまで出続ける。
誰かがそれを、淫魔(サキュバス)と呼びだした。
曰く、人の中には淫魔が棲むという。
それは、新たな都市伝説――
誰かが叫んだ、都市伝説――





閑話へ続く……





※2011/5/19 UP


※とりあえず、ここまでの五話で第一章終了です。
次からは閑話を挟んで第二章に突入していきます。
話の流れがガラっと変わると思いますが、以後もお付き合いいただければ幸いです。

※先日R15とタイトルに付けたので、調子に乗ってエロい描写いっぱいにしてしまいました。申し訳ないです。
ただ、チョメチョメ板行きな内容にはしたくなかったので、なるべく「エロさ」ではなく「切なさ」が出るようにならないかなと頑張ってみました。
少しは上手くいったでしょうか?
それどころか、全体的に上手く書けた気がまるでしない。
もっと修正するべきかもしれないなーと思いつつ、早く次の話が書きたいのでUPしてしまいました。
今の自分の限界を痛感します……。
感想、アドバイスなどあれば、随時お寄せいただければと思います。

※あと、4話までの流れについて、下読みの友人から「もっと絵里の死のことを引きのばした方がよかったんじゃない?」と言われてしまいました。
確かにその通りだと思ったのですが、ダメダメ主人公聖くんのパワーアップイベントのために、早めに手を打っておく必要があったので、こうなってしまいました。
きっと、1話でダメダメに書きすぎたんだと思います。
「体言止めはなくそうね」と、初歩的な指摘も受けてしまったし……全面的に書き直さないといけないなぁ……
という、ボヤキでした。失礼しました。



[27529] 町に佇み 閑話『水の覇者』
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/22 18:36
 いつものように聖から軍資金を徴収し、私セイレーネスは都会という名の戦場へと出向く。食い倒れ、着倒れには要注意だ。宿に泊まれなくなる。足りなくなったところで、聖にお小遣いをねだりに行けばいいだけの話だけど、だんだん彼の態度が硬化している気がするし、なるべくマイナスポイントは溜めないようにしたい。遊び回れなくなるとか、退屈で死んじゃうものね。

 一日の始まりといえば、まずは朝食よね。ドトールに入り、モーニングを食べる。コストパフォーマンスに優れ、小腹を満たせるため、遅めの朝食にはピッタリだ。

 店内には席が半分埋まるほどの客がいる。平日の午前一〇時前という時間に、この人たちは何をしているのだろうか。仕事はないのだろうか。そんなことを思いながら、私は窓際の席へと座る。

 ハンドバッグから小説を取り出し、それを読みながらサンドを齧る。読んでる小説は奥田英朗のイン・ザ・プールだ。こういう面白くて読みやすい文章こそ、至高の娯楽だと思う。低燃費に多くの見返りを得る。これこそ娯楽の真理! 生きることの正道!

 こう見えて集中力がある私は、いつも小説を読みだすと一時間は小説の世界に入り込む。マンガなら必ず一気に読み切る。だから、私が読書を中断するということは、ただならぬ自体なのだ。



閑話『水の覇者』



 激しい寒気がした。久々に感じた、懐かしい感覚だ。この日本という平和な国の中にあって、先日までは感じることのなかった、強大な力を持つ存在――そして、その存在に対する恐怖が生じる。

 私はあまりの恐怖に耐えかねて、小説を閉じた。今のところ、敵意がこちらに向く様子はない。しかし、寒気の原因はどんどん近付いてくる。そっと周囲の様子を窺うと、一人の女性がこちらに歩いてくるのが見えた。その女性の身体からは大量の魔力が漏れ出ている。まだ店内に入ってきていないが、私とはっきりと視線が合う。間違いない、彼女は私の方へ来ようとしている。

 逃げるべきか、それともこのまま大人しくしているべきか――僅かばかりの逡巡の後、私は逃げずにこの場に留まる事を選ぶ。私ともあろうものが、尻尾を巻いて逃げ出すなんてありえない。そんな不格好なマネはしない。彼女が私から視線を逸らすまでの間、私はずっと彼女と視線を交差させていた。

 やがて店内に入ってきたその女性は、注文のためにカウンターの方に向き直る。視線が外れたことでホッと一息つくが、私の方は彼女から視線を逸らすことができない。ほどなくしてサンドとコーヒーを受け取った女性は、トレイを手に私の方へと一直線に歩いてくる。

「隣、よろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」

 癖のまるでない白銀の長髪が、サラリと私の肩を掠めた。不自然なほどに綺麗な日本語の発音が、育ちの良さを表している。精華ちゃんの更に上をいくお嬢様か。それと、不自然といえばもう一点ある。全身が、あまりにも白いのだ。髪だけでなく、顔も腕も、全身の肌という肌が色で統一されている。

「ああ、すみません。私、先天性白皮症――いわゆるアルビノなんです」

 私の視線から思考を読みとったらしく、その女性はわざわざ自分の病気のことを告げる。

「謝らなくてもいいわよ。その銀髪、すごく綺麗だし」

 お世辞抜きで、真っ直ぐ綺麗に伸びた銀の長髪だ。髪だけじゃない。スタイルも私に負けず劣らず抜群に良いし、顔立ちはドキリとするほどに整っている。欠点というものが、まるで見当たらない。

「あら、お褒めいただけるなんて。ありがとうございます」

 その銀髪の女性は、上品に小さく笑う。私も余裕があるように見せてやろうとしたけど、悠然と構える彼女の前にはそれも虚しい努力だ。私がかなり高位の魔物であることを把握した上での、この自然な振舞いなのだろうから。どうやら、私が敵う相手ではなさそうだ。身体の強張りを解くことだけを意識して、彼女と向き合うことにする。

「ところで……あなた、セイレーネスさんではありませんか?」

「……どうして、そこまでわかったのかしら?」

 私は、いよいよ寿命が縮んだような感覚に襲われる。私に初めて対面した時の聖も、こんな気持ちだったのかしら――と考える程度の余裕は残っていたが、状況を把握することを頭が放棄しつつあった。だから、次の一言を聞いても、理解が一瞬遅れた。

「ああ、やっぱりそうなんですね。好首尾です! 兄さんに会おうにも、大学の場所がわからなくて途方に暮れていたところだったのですよ」

「兄さん?」

「すみません、名乗り遅れました。私、石影瑞奈(いしかげ みずな)と申します」

 その女性は、石影瑞奈と名乗った。石影――どこかで聞いたことのある名前だ。

「……まさか、石影威の妹さん?」

「はい」

 なんていう化け物を妹に持っているんだ、あの男は。掴みどころのない男だと思っていたが、その妹は掴めるような器ですらない。強張っていた身体から、一気に力が抜けていく。

「兄さんから身近にいる方々の説明は一通り聞いていたので、一目見てわかりましたよ」

「そんなに目立ってたかしら?」

「独特のオーラを纏っていらっしゃいましたから」

 独特のオーラ――つまり、半鳥人の気配を私から感知したわけだ。

「そんなにわかりやすかったのかしら。これでも、気配を消しているつもりなのだけど」

「そうですね、魔力というよりは、たまたま目に止まったんです。浮世離れした容姿を持っていると聞いていたので」

 上手いこと言ってくれちゃって。完璧なだけじゃなくて、可愛いとこあるじゃないの、この妹さんは。

「それはどうも。ところで、聖や精華ちゃんのことも聞いてるのかしら? 冴えない男の子と、可愛い女の子……じゃ、目印にならなかったでしょうけど」

「ええ、そうですね。不可視の魔物さんは目印にならないから、兄さんに直接会うか、セイレーネスさんを探すしかないと思っていたんです」

 どうやら、他の地方からここ東京にやってきたらしい。私を目印にしなければならなかったくらいだから、土地勘がないのだ。

「日本に来たばかりで、右も左もわからないのに、兄さんったら『僕は講義で忙しいから、講義が終わるまでその辺をブラブラしておいて』と言って、私を迎えに来てくれないんです。五年ぶりの再会だというのに、つれないと思われません?」

 彼女の言葉に相槌を打つよりも先に、「日本に来たばかり」という単語に反応してしまう。

「海外から来たの?」

「はい。オランダから来ました」

「オランダ? オランダに何かあったかしら」

 日本名を持つこの女性――私をはるかに上回る魔力を体内に秘めた化け物が、オランダで何をしていたというのか。ぼんやりとオランダで暮らしていたようには思えない。

「ハーグの<英蘭(アルビオン)同盟>本部に立ち寄って来たんです」

 なるほど、納得だ。

「つまり、同盟の魔術師ってわけね」

「それは、少し違います。兄さんは確かに同盟の人間ですが、私自身は所属してませんから」

「何故?」

「こう申し上げてしまうと語弊があるのですが……私、連盟の幹部をしていましたので」

 連盟……それは<枢軸魔術師連盟>の略称だ。自分たちが信じる魔術以外を操る者たちを根こそぎ刈り取る、狂信者の集まり――それが、連盟という組織だ。

「幹部をしていたといっても、のし上がったというわけではありません。無理やり、ですね。所属していたこと自体、強制でしたから」

 私自身、日本に住み着いて長い。魔術師の総本山は欧州にあるし、魔導師の総本山は米国にあるし、とにかく遠い。だから、情報は風の便りに聞く程度なのだけど……。

「あなたまさか、ストックホルムの才女?」

 私がそう言った瞬間、彼女の表情が曇る。

「その呼び名は不本意ですが、その通りです」

 かつて英蘭同盟が保護していた、稀代の魔術の天才――ストックホルムの才女。彼女を巡って連盟が同盟を潰しにかかり、多くの血が流れたと聞く。確かその時、同盟は壊滅したはずだったが……。

「私のせいで、英蘭同盟は一度壊滅しました。多くの恩師も失いました。それは全て、私のせいなんです。忌々しい、ストックホルムの才女のせいなんです」

 彼女は、眉間に小さく皺を作る。それは、見た目以上に怒りを表現しているらしい。その一見涼しげな表情とは対象的に、握られた手が小刻みに震えていた。全ての感情を理性で抑えつけてしまえるであろう彼女が、感情を顕わにしてしまう程のつらい過去なのだ。

「ごめんなさい。その呼び名では、もう呼ばないことにするわ」

「そうしていただけると、助かります」

 お互いにコーヒーを一杯啜って、間をおく。

「そういえば、本部がハーグにあると言ったわね? 同盟は健在なの?」

「はい、英蘭同盟は最近活動を再開しました。そのタイミングに合わせて、私は連盟から逃げ出してきたんです」

 さらりと、とんでもないことを言う人だ、この瑞奈さんは。

「連盟から逃げ出すなんて、無謀としか言いようがないけど……あなたほどの魔力量があれば、それも余裕か」

 連盟は、単なる狂信者の集まりではない。世界最大の魔術師集団なのだ。当然、その組織力は優れており、全世界に支部を持つ。

「余裕ということはありませんでしたが……そうですね、少しデモンストレーションをしてきましたので、すぐに追手がかかることはないはずです」

 一体どんな派手なことをやらかしたのやら……興味は湧くが、命が惜しいので訊かないことにしよう。

「つまりあなたは、同盟と一緒になって、何かを企んでるわけね。連盟の転覆かしら?」

「いいえ、違います。連盟など、動かなければ無害です。わざわざこちらから動くまでもありません」

「じゃあ、何かしら」

 連盟を無害と言えてしまう辺り、並の感覚の持ち主ではない。連盟の母体となった<執行官(エクソシスト)>どもの恐ろしさを知っている私にとって、連盟は狂信者の集まり以外の何物でもないのだから。

「三至高です」

 瑞奈さんは、静かに言い放った。ここ数十年の間、最高に狂った三人の魔導師たちが、世界中を転々としながら活動している。彼らは、魔術師の世界を中心に三至高と呼ばれ、恐れられている。三至高とひとくくりにされているが、彼らは一匹狼だ。三人が同じ土地に集まったことはなく、それぞれの目的もバラバラにある。圧倒的な戦闘力を誇り、並みの魔術師や魔導師では歯が立たず、多くの者が彼らの手にかけられてきたと聞く。

「噂でしか聞いたことないけど、三至高の相手をするっていうこと?」

「はい。もっとも、問題となってくるのは一人だけなのですが……」

 一人だけだと彼女は付け足すが、その一人がいかに強大な存在か――考えるだけでも恐ろしい。

「勝てるの?」

「勝てる、勝てないの問題ではないのです。勝つしか、無いのですよ」

 瑞奈さんの表情が明らかに翳る。この自称高位の魔物こと私、セイレーネスが怖れ慄くほどの魔力を持つ彼女が露骨に表情を変える。恩師を殺されたことを思い出しても表情が動いたのはほんの少しだけだったというのに。

「そんなに事態は深刻なのかしら」

「ええ、彼を野放しにすることはできません。彼の目的を達するための条件が、整いつつあるのです。彼を止めることができなければ、世界は滅びます」

「なるほど、そういうわけか」

 世界の終わりに相応しい戯曲が、最高の役者を迎えて始まろうとしているのだ。この、日本を舞台にして。それを恐ろしいと感じる一方で、どこか楽しみのように感じてしまう辺り、私も根っからの魔物なのだなと苦笑してしまう。最高の舞台の客席に座れることに、私は興奮しているのだ。

「私は、歴史の証人になれるかもしれないわけね」

「世界が無事に残るなら、あるいはそうなるかもしれませんね」

 そうして私たちは、小さく苦笑し合う。この瑞奈さんには、どこか私と通ずるものを感じる。まだ三〇年足らずしか生きていない人間のはずなのに、まるで数百年生き続けてきたような、達観したような雰囲気が漂っていて、それが私にとっては心地良く感じられるのだ。

「難しい話はこれくらいにして、サンドも食べましょう。しゃべってばかりだと、サンドがしおれてしまいます」

「ええ、そうね」

 サンドを齧りながら、少し雑談もした。幼少期のことや、兄とのこと、意外と多弁に彼女は教えてくれた。

「――それで、兄さんのことを探究者だと呼んでいたら、それが同盟での兄さんの呼称になってしまいまして」

「あらあら、随分と仲がいいのね。うらやましいわ」

 話題が途切れたタイミングを狙って、私はさりげなく気になっていたことを指摘する。

「ところで瑞奈さん、あなた、そのだだ漏れの魔力を何とかできないのかしら」

 彼女の全身からは、尋常じゃない量の魔力が溢れ出ている。霊感の無い一般人でも感知できてしまうのではないかと思えるほどの量だ。

「ああ、これですか。すみません、できないんです。私の中にいる子が、ちょっとやんちゃをしているので」

 彼女が肩を竦めて、悪戯っぽく謝る仕草は、女の私にもかわいく見えた。しかし、彼女は今何と言った。

『やんちゃとはまた、かわいく表現しよったな、瑞奈』

 第三者の声が私たちの会話に割って入る。しかし、姿はない。瑞奈さんの体内から、声が響いているのだ。人間の男性のような声だが、それが魔物の声であることは疑いようがない。声の響き方がどことなくいびつで、機械音のようなものが混じる。彼女がその声と会話を始めてしまう。

「ただでさえ見た目がかわいくないんですもの。乙女としては、かわいいペットを所望したいところなんですが」

『こやつめ、言いおったな』

 その瑞奈さんの体内から響く声を聞いていると、ノドの辺りがチクリと痛む。おかしい、歌声を失くして以来、こんなことはなかったはずなのに。

「セイレーネスさん、すみません。この際ですから、私の中に潜んでいるペットも紹介させていただきます。さぁ、自己紹介を」

『ペットペットと喧しい。ワシはヒドラだ』

 ヒドラ――そう聞いて、私はノドが痛んだ原因を理解する。カチリと、歯車が噛み合った。同時に、胸の奥底が熱くなっていく。このドロドロの熱いマグマのような衝動は――怒りか。

「まさか、こんなところで出会えるとは思わなかったわ。私の歌声を奪った張本人に」

 私の声は、無自覚のうちに震えていた。先ほどまでの余裕はどこへ行ったのやらと、我ながら呆れてしまう。でも、怒らずにはいられない。

 ヒドラ――それは、強大な魔物だ。地球の奥深くに巣食い、水の全てを支配する。海の全ては彼のもので、故に、海の上で歌っている半鳥人が昼寝の邪魔になると思えば一瞬で始末する。私の歌声を奪って追い払うことくらい、彼にしてみれば造作もないことなのだ。そんなヒドラは強大な化け物だが、それを体内に押し込めている瑞奈さんは、更なる化け物だ。

「ヒドラ、あなた、何て酷いことを」

『はて、何のことやら』

 どうやら、瑞奈さんは何も知らないらしい。そりゃそうか、「昼寝の邪魔だった魔物の歌声を奪った」なんていうくだらない昔話など、いちいち聞かされていないだろうから。

「とぼけてもムダよ。私ははっきりと覚えてるの。四〇〇年前、あなたは私の歌声を奪った」

『昔のことなど、忘れてしもうた』

 ヒドラは白を切る。四〇〇年など、ヤツのような存在にとってはつい先日の出来事ではないか。忘れているはずがない。

「嘘はよくないんじゃないかしら?」

『覚えておらんものはどうしようもない』

「数十億年単位で生きてきたあなたが、四〇〇年前を昔と呼ぶなんて、馬鹿げてる」

『そんなに長く生きてきたのか。無自覚であったわ。何しろ、ワシは寝てばかりだからな』

 絶対に白を切っているだけだ。何としてでも、歌声を返してもらおう。私が持久戦に持ち込むべく、さらに口を開こうとした時、瑞奈さんが私たちの間に割って入った。

「二人ともやめてください。魔物の喧嘩に巻き込まれたら、時間がいくらあっても足りません」

 やっぱり、この妹さんは化け物だ。たった一言で、私とヒドラを抑えつけてしまった。

「論争の時間――というより、謝罪の時間でしょうか。それは、いずれ機会を見て作って差し上げますから。それより、申し訳ないんですが、兄さんのところまで案内していただけませんか?」

 そして、自らの目的を押し通す。まさか、断ったりしませんよね――というオーラが、背中から湧き上がっているような気がした。

「必ずお礼もいたしますので」

「まぁ、拒否権はなさそうね」

 断る理由もないし、お礼がもらえるならいいか。そうして、彼女を石影威の研究室へと連れていくこととなった。道中は再び多弁になった彼女の話をひたすら聞いていた。


「日本は一五年ぶりです。やはり湿度が高いですね」
「人が多いですね。田舎暮らしに慣れていたので、少々疲れます」
「こうしていると、幼い日のことを思い出します。あの頃は本当に、幸せでした」
「あのビルの上の看板、何が描いてあるのでしょうか。弱視なので、見えないのですよ」

 日傘をさして歩く彼女の姿は、貴族然としていて様になっている。従者に見られていたら癪だなと思いつつ、私は日傘をささずに彼女の横を歩く。しかし、一見完璧に見える彼女も、意外とおっちょこちょいかもしれない。出会った直後は私の容姿を遠目で見て美人だったと言ってくれた気がするんだけど、弱視だと告白してしまう。嘘バレバレじゃないの。……それとも、わざと? 当てつけだったりするのかしら。

「怖い怖い」

「え、何が怖いんでしょうか?」

「あなたのその完璧さが、怖いわ」

「実は、私自身も怖いんですよ。自分はどこまでできてしまうんだろうって、全く把握できなくて」

 やっぱり、この子は怖い。

「自分で言えちゃうのね。人間らしくないわ、あなた」

「魔力だけですと、既に人外の域に達しつつありますから。私自身、自分を見失いそうになります」

「しっかりしてね。あなたが暴走したら、三至高なんて関係なく東京が吹っ飛んじゃいそうだし」

 すっかり打ち解けて雑談しているうちに、石影威の研究室の前に着く。しかし、ドアには「講義中」の札がかかっていた。

「今は講義中だからいないみたいだけど、そのうちこの部屋に帰ってくるはずよ」

「ありがとうございます。助かりました。何か、お礼ができるといいのですが……」

 随分と礼儀正しいものだと思う。ふつうは絶対的強者となれば、自分の力に酔いしれて偉そうに踏ん反り返るものだけど。驕る平家は久しからず、ということか。

「金銭的なお礼はいらない。ただ、歌声を返してくれればいいわ」

 彼女を信頼して、私はそう言った。今をおいて、このことを告げるのに適切なタイミングはないはずだから。

『大きく出おったな』

 しかし、瑞奈さんの回答を得るよりも早く、横槍が入る。

「なんですって?」

 ヒドラの意地の悪い笑い声が響きわたる。私は思わず噛みついてしまった。

『覚えておる、覚えておるぞ。ワシの昼寝を邪魔した、煩い歌うたい。そうだ、ワシがそなたの歌声を奪った』

 瑞奈さんとは違い、絶対的強者として高圧的な態度に出るヒドラ。その姿は見えないが、声だけで私の精神に干渉してこようとしている。

「返して」

『ならぬ』

 でも、高位の魔物を自称する以上、声で威圧された程度で怯んではいられない。がっちりと食い下がる。

「返して」

『ならぬと言っておろうが』

「理由は何? まさか、めんどくさいとか、返す方法がないとか、そんなふざけた理由じゃないでしょうね」

『黙れ、小童』

 私の挑発に、ヒドラが食いついた。余裕しかなかった声に、苛立ちが混じる。情けないけど、勝った、と思ってしまった。

『私は二度とそなたの耳障りな歌声を聞きたくない。ワシがこの町から離れるまでは、預からせてもらおう』

 そして、まさかの譲歩を引き出す。

「ホントに?」

『ああ、何度も言わせるでない』

「出ていく時に、返してくれるのね?」

「それは、私が保証いたします。無理矢理にでも、必ず返すようにさせますので」

 ヒドラが返事をするより早く、瑞奈さんが割って入る。彼女が仲裁に入ることで、和解は成った。妹さん、何ていい人なんだろう。化け物だけど。

「期待しとくからね」

 私は四〇〇年来の悲願を達成した気分になった。まだ達成したわけじゃないけど、もうすぐ達成できるのだ。歌声を取り戻すことが。

「歌をうたう魔物が歌声を奪われたままでは、存在しているだけでも大変でしたでしょうに」

「まぁね」

「本当は今すぐにでも返して差し上げたいんですけど、先ほど申し上げた通り、この子がやんちゃをしている今は、間が悪いのです」

「そういうことなら、いくらでも待つわ」

「ありがとうございます」

 そうして、最高の約束をとりつけて、私は彼女と別れた。最高に気分がいい。飲みに行こうかしら、まだ昼間だけど。



 こうして、物語の歯車は小さく回り始めた。





六話へ続く……





※2011/5/22 UP

※ちょっとネタバレしすぎた気がしなくもないし、急展開すぎた気がしなくもない……
今後、こんな感じになって参ります。
あと、作者自身の情報整理も兼ねて、設定置き場も設置しました。
興味があるという酔狂な方がいらっしゃれば、見ていただければと思います。
(手抜きな部分はご愛敬ということで)



[27529] 設定
Name: Phyche◆ffda0d58 ID:f5b28ac9
Date: 2011/05/22 18:37
※最終更新日:2011/5/22

※情報を整理するためにあった方がいいかなと思い、設定集作成しました。
随時更新していく予定です。一部先走って公開している設定もありますが、重要なネタバレは含んでいないと思いますので、ご安心ください。

◆=トピック
・=トピックに関する補足説明
???=まだ秘密の設定。





~登場人物~

◆海詩聖(うなた さとる):本作の主人公。二十歳。日本の海運事業を独占する大財閥海詩グループ本家の次男。生まれた時から半女鳥(セイレーネス)と魂の契約で結ばれている。
・詩:海詩家の家系に遺伝的に伝わる能力。<共鳴(レゾナンス)>によって対象を破壊する。
・共鳴(レゾナンス):破壊対象を概念レベルで破壊する力のこと。詩の能力を使用する者が頭の中で想い描く像と、破壊対象の像が一致した時、共振が起こる。
・共振:共鳴によって対象を破壊すること。それが上手くいった状態。
・魂の契約:人と魔物が魂レベルで契約することをこう呼ぶ。契約後は運命共同体となり、どちらか一方を殺せば他方も死ぬこととなる。反面、互いの能力が上乗せ状態となるため、非常に強力な儀式である。

◆半女鳥(セイレーネス):高校進学と同時に一人暮らしを始めた聖の目の前に突如として姿を現した半獣の女。聖と<魂の契約>でつながっているが、それを意に介すことなく気の趣くがままにフラフラとどこかに行っては、たまに帰ってくるという放蕩者。
・鎌鼬の防壁:風に似て、風に非ざるもの。周囲の空間に<詩>を張り巡らすことで、そこに触れた異分子を全て不協和音として排除する。単純な物理攻撃は全て弾くことが可能。
・十字器官:???

◆山ノ井精華(やまのい せいか):聖の幼馴染。大手製薬会社社長の令嬢。<発光(ルミナス)>の能力を持つ。不可視の魔物フラウと契約している。
・発光(ルミナス):山ノ井家の家系に遺伝的に伝わる能力。自身の周囲の空間の光の粒子を自在に圧縮、変形させて扱う。

◆フラウ:不可視(インビジブル)の魔物。少女の容姿をしているが、特定の者にしか見ることができない。精華とは姉妹のような付き合い。ある男に捕まっていたが、姉がその男に協力することを条件にして逃がしてもらう。姉を救う力を手に入れたいと望む一方、いつかは姉と戦わねばならないということに脅えながら日々を送っている。

◆石影威(いしかげ たけし)〔石の魔術師、探究者〕:文化人類学者。天才魔術師であり、能力者でもある。山ノ井家のコネクションから、精華と聖は日本における魔術師のトップ(英蘭同盟のリーダー)である彼の元へと辿り着く。彼が二人を受け入れたのは、山ノ井家への恩返しや善意からではない。研究対象として興味があったから、ただそれだけだ。悪意や害意とは無縁だが、良心とも疎遠な男。影法師(シルエット)の長である黒貂(ふるき)を使役する。
・完全秩序(パーフェクトオーダー):威の所有する能力。

◆百合花(ゆりか)〔影の支配者〕:影法師(シルエット)を束ねる古の眷族、黒貂(ふるき)の個体。石影威の使い魔。その存在自体が影であるという。
・魔力掌握:百合花の所有する能力。自らの体を拡大して周囲の空間すべてのエネルギーを取り込み、取りこんだエネルギーを好きな場所に凝集することができる。

◆石影 瑞奈(いしかげ みずな)〔ストックホルムの才女〕:威の腹違いの妹。先天性白皮症(アルビノ)。稀代の魔術の天才。弱視だが、魔力反応を持つモノに対する視力は常人以上。水竜(ヒドラ)を従える。
・ストックホルムの才女:今から十数年前、スウェーデンに魔術の天才がいるという噂が世界に広がった。英蘭同盟はいち早く彼女を保護するが、連盟が彼女の身柄の引き渡しを求めてくる。それを拒否したことにより、同盟は連盟に攻め滅ぼされ、瑞奈は強制的に連盟に所属させられることとなった。連盟内で彼女は「リズ」と呼ばれていた。誰が言いだしたのか、彼女のことを揶揄してエリザベス(つまり女王様、ということ)と呼んだことがきっかけらしい。

◆水竜(ヒドラ):瑞奈の力に惹かれ、深海より現れた臥竜。壮絶な戦いの末、瑞奈を主に認める。封印の力を持ち、大昔より海底に様々なものを封印してきた。セイレーネスの歌声も、彼によって海底に封印されている。

◆白葉絵里(しらは えり):白葉家の三女。三人姉妹の末っ子。魔力を食らう妖怪「白妖(はくよう)」の末裔。聖との熱愛の末に婚約までするが、籠女に取り憑かれて死亡する。

◆今井紀次(いまい のりつぐ):聖の高校時代の悪友。石影ゼミ所属の学生。イケメン。

◆安藤法子(あんどう のりこ):石影ゼミ所属の学生。あだ名はノッコ。精華の親友。近頃、早世と孝太の二人からゲームの世界に引きずり込まれている。実は、二人とも彼女のことを狙っている。

◆逸見冴子(へんみ さえこ):山ノ井家のお手伝いさん。
◆三宅早世(みやけ そうせい):石影ゼミ所属の学生。あだ名はアホのアーちゃん。学力が低いというわけではなく、発想が奇抜すぎてそう呼ばれる。ゲーマー。
◆田中孝太(たなか こうた):石影ゼミ所属の学生。ゲーマー。
◆藤森さん:聖がバイトをしているスーパーのパートのおばちゃん。
◆中田さん:石影ゼミ所属の学生。
◆宮下さん:石影ゼミ所属の学生。
◆大内くん:通称リーダー。学科のまとめ役。
◆白葉菜摘:白葉家の長女。
◆白葉梨佳:白葉家の次女。
◆梓さん:高校二年の時の聖たちのクラスメート。



◆???〔執行者〕:三至高の一。十の魔物を従える、最強の魔導師にして、かつて猛威を奮った魔術集団エクソシストのメンバーの息子。年齢は三〇〇歳ほど。
◆???〔千年公〕:三至高の一。不滅を追い求める男。
◆???〔死神〕:三至高の一。その抜刀を見た者は必ず死ぬと謳われる。死神と呼ばれる魔導師。





~魔物~

◆執着者(スティル・デッド):自身が生きかえることを信じ、生者の魔力を吸う幽霊。存在意義「生者の魔力を吸い続ければ、いずれ生きかえることができる。今はまだ、死んでいるけれど……」
◆矮小悪魔(インプ):存在意義「無限の闇を作る」(存在意義はかっこいいけど、雑魚すぎて全然実行できないっていう)
◆半女鳥(セイレーネス):半鳥人の女性を特にこう呼ぶ。
◆半鳥人(セイレーン):古の眷族。美しい歌声を持ち、中世ヨーロッパではその歌声で船乗りたちを魅了したという。存在意義「歌をうたう」
◆不可視(インビジブル):存在意義「〝目には見えない貴いモノ〟を体現する」
◆黒貂(ふるき)……古の眷族。存在意義「土地を守る」
◆影法師(シルエット):存在意義「光と影の逆転(標的の存在を消し去り、自身がなりかわる)」
◆真似師(ミミック):存在意義「あらゆる他者を取り込み、自身に同化する」
◆猩々(しょうじょう):存在意義「夢を操作し、人の恐怖を食らう」
◆籠女(かごめ):子宝に恵まれなかった母親の怨念。存在意義「(女としての)幸せを破壊する」
◆淫魔(インキュバス、サキュバス):存在意義「人の精力を吸い尽す」
◆水竜(ヒドラ):宙の眷族。存在意義「???」





~勢力~

◆英蘭(アルビオン)同盟:本部をオランダのハーグに置く、小規模な勢力。イギリス、オランダ、日本の三ヶ国の魔術師を主体とした勢力(魔導師も若干名存在する)だが、エルクワールのドアに限らず、様々な力を持った者がおり、逃げ込んできた能力者を受け入れていた。瑞奈を巡って、一度連盟に滅ぼされたが、瑞奈が連盟を脱退したことを期に復活を表明する。盟主は石影威。

◆枢軸魔術師連盟:極右の過激派。魔術師至上主義を唱え、全世界に基盤を持つ巨大組織。自分たちが研究する魔術原理<エルクワールのドア>以外の法則から導かれる魔術の類を一切認めず、そう言った者たちを<異端者>と呼んでいる。異端者は自分たちに取り込むか、それができなければ処分するか、というオールオアナッシングの考え方の下、<異端狩り>を行う。盟主はエレミア。

◆魔導師連合:魔術師と敵対する勢力。それ以外は、よくわからない。連盟と違い、異端者には寛容。そのため、異端狩りから身を隠すために逃げ込んで来る者が多い。盟主は???





~用語その他~

◆アストラル体:エーテル体と物質体(器としての肉体)の集合体。物質世界での生命の自然な在り方をさす。

◆異端狩り:連盟が行う捕獲、殺戮行為。「根掘り葉掘り調べ尽くして、自分たちでものにできるかできないか。できないのなら連盟に取り込む。取り込めないのなら抹殺」という行為。魔導師のことも含まれるが、特に異端者を狩る。その目的は色々あるらしいが、魔術のみをこの世界に広めようという独占欲が根底にあるのは確かだ。

◆異端者:強力な能力を持つ者のところへ魔物が惹かれ、そのまま使い魔と成った場合、それを魔導とみなし、その能力者は事実上の魔導師となる。また、火と親しむうち、誰に習うでもなく火の魔術を使うようになり、事実上の魔術師となるものもいる。そのように連盟や連合の確立された方法ではなく、独自の方法で魔を導く者たちを枢軸魔術師連盟では異端者という。

◆古の眷族:???

◆エーテル体:魂のこと。物質化する前の概念体。

◆執行官(エクソシスト):産業革命寸前のヨーロッパで圧倒的な力を奮った魔術集団。セイレーネスの能力すら無効にしてみせる。現代の魔導師が二人がかりでやっと対等に勝負ができる程度の強さ。魔術師だと六人ほど必要。彼らによって、大量の魔物が狩られた。その狩られた魔物の中には、半鳥人のような古の眷族も含まれている。

◆外宇宙:宇宙全体を一つの球体だと考えると、その球体の周りには大小様々な球体が密着するようにして存在している。それら、一つの宇宙から見た他の宇宙のことを外宇宙と呼ぶ。

◆概念:全ての根源。この世界にはもともと「黒」という概念があって、その概念に合わせるようにして「黒色」が生まれた。

◆契約:魔物と魔力をシェアすることで、その魔物を自分の傍に置いておく行為。魔物は契約者からの魔力の供給(つまり、安定した魔力供給)がなければ存在を維持できない場合が多く、主従関係が生じやすい。

◆衒奇師(げんきし):魔導師が魔術師を指して云う蔑称。魔術を小馬鹿にしてこう呼ぶ。「衒奇」や「衒奇ども」という使われ方が多い。

◆三至高:己の信念のために破戒の道を突き進む、もっとも凶悪でもっとも危険な孤高の存在三名を指す。

◆精神世界:エーテル体のみで構成されている世界。その中心には概念体があり、多くの表象がぶつかり合って新しい存在を生み出し続けている。魔物の多くがここから物質世界に流れ込んでくる。物質世界と対になる世界。

◆宙の眷族(そらのけんぞく):???

◆道化師:魔術師が魔導師を指して云う蔑称。魔物に魅入られ、操られた哀れな人形どもという意味合い。「道化」や「道化ども」という使われ方が多い。しかし、魔術師単体の戦闘力では、魔導師に比べ大きく劣る。魔導師一人と互角に渡り合うためには、二~三人のチームを組まなければならない。それでも彼らは魔導師を道化師と呼ぶ。

◆能力者:なんらかの力を現出し、行使することの出来る者の総称。主に、<エルクワールのドア>や<オーギュストの縄>以外の力を用いる者をさしていう。魔術師や魔導師の卵でもある。

◆物質世界:物理法則によって支配された、人間が暮らす世界。精神世界と対になっている。

◆魔術原理【エルクワールのドア】
・伝説の魔術師エルクワールが構築した小宇宙空間を介しての魔術行為のことを指す。
・魔術とは、他の世界から法則を引用するもの。
・全ての存在は、魔術を使用する(=他の世界から法則を引用する)際に、全ての世界と繋がる小宇宙を介さなければならない。
・全ての世界は、その小宇宙と「ドア」によって繋がっている。
・自分の世界のドアと、引用したい法則の存在する世界のドアの距離によって、発動の難易度が変わる。
・ドアの大きさや重さも様々。無論、それらも発動の難易度に大きく関わる。

◆魔術師:主に<エルクワールのドア>を用いる<枢軸魔術師連盟>の能力者たちをこう呼ぶ。

◆魔導原理【オーギュストの縄】
・空間には無数の歪みがあり、そこは精神世界とつながっている。
・歪みに手を伸ばせば、いくらでも魔を導くことが出来る。しかし、何が出るかはわからない(不安定で、実用性に欠ける)。そこで……
・オーギュストの縄を利用し、魔導師は、己の魔力を消費し(維持費をかけ)、ある魔物を歪みの縁に拘束する。魔物の力が弱ければ弱いほど、また、魔導師の魔力が強ければ強いほど、拘束力が高くなり、召喚や維持のための魔力消費が抑えられる。逆の場合は、多大な魔力を消費する。
・強力な魔物は、歪みの縁から離れよう離れようと動き回り、召喚するためには膨大な魔力と時間を要することになる。つまり、漁師が網を引き上げる要領で、魔導師は魔物を召喚するのである。
・また、歪み自体の粘度や奥行き、広がりなどによっても召喚の手間が左右される。

◆魔導師:主に<オーギュストの縄>を用いて魔物を導く者たちをこう呼ぶ。

◆魔物:主に精神世界で産まれ、物質世界へとやってくる存在。多くの場合は人間に害をなす。

◆魔力:生命維持のために必要な不可視のエネルギー。また、魔術や能力を使う際のエネルギー源としても使用される。主に、空間と空間の摩擦<歪み>によって生産される。

◆歪み(ひずみ、ゆがみ):大気のように動き続ける空間が他の空間とぶつかった際に生じる摩擦のことをこう呼ぶ。この摩擦が生じた箇所から魔力が産出される。また、物質世界は歪みを介して瞬間的に精神世界と繋がる。





※その他、詳しく知りたいワードや、もっと補足説明のほしいワードなどありましたら、感想掲示板の方にお寄せいただければと思います。
ネタバレを含まない範囲で、補足説明いたしますので。


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