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Re:8.12 穀価騰貴と飢饉対策(宝亀四年(773)三月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月13日(水)11時57分59秒
   奈良時代という、古い時代の事蹟であると考えますと、朝廷はよくやっていると思います。
 当時の食料の流通がどのようなものであったのか、あまり知識が無いので、飢餓問題の様子が浮かびにくいですが。
 現在の日本も、緊急時の食料の確保を政治の主要課題にしてほしいです。アメリカや中国から輸入して・・・などという呑気な事を言ってないで・・・。
 私は空気と水からデンプン質を得る方法を推奨しますけど・・・。
 

re:阪神タイガ-ス(1)(2)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月13日(水)11時57分1秒
   たしかに、阪神は投手陣が問題ですね。あと二人ほしいです。中日が投手陣だけ?で優勝したのと反対です。
 逆に、中日のファンの不満は、「投手捜しはうまいが野手捜しは下手だ」というものです。
 運もあるので難しい話ですけど、たしかに、中日が指名しなかった選手が他球団で活躍する例が多いです。今年パの本塁打王になったT-岡田にしても、監督の意向で指名をやめて平田にしたらしいですし、巨人で活躍する坂本にしても、やめて堂上弟にしています。
 楽天で打撃の中心にいる鉄平にしても、まったく評価しないで放出してしまいました。
 CSですが、そう簡単にはゆかない気がします。
 ただ、たしかに、打線は水物でも投手は波が少ないですから、安定感はありますね。
 

Re:「神功皇后」(34)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月13日(水)11時55分27秒
   こういう考察を読んでみますと、歴史学者って素直でない人が多いですね。
 もう少し素直に古代史料を読めばいいのに・・・と思います。
 

奈良時代にこんなことが-一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2010年10月12日(火)18時33分56秒
  8.光仁天皇の御代(770~781)

8.12 穀価騰貴と飢饉対策(宝亀四年(773)三月)
 三月十四日、天下の穀物価格が騰貴し、人民への飢饉救済は緊急を要している。食料などを施したが、まだ十分救済できていないとして、太政官が穀価安定のための二つの施策を奏上し、認可を得たのじゃ。一つは、各国に貯えてある米穀を安い時の価格で貧しい人々へ売却することじゃ。ただし、国司、郡司、富裕な者が購入したら、違勅の罪を科すとしたのじゃ。二つは、民間貯蔵穀の廉価による放出の奨励じゃ。一万束を放出したら、位一階を与えるとした。ただし、五位以上は除外されておる。

 本章8項で述べたように、昨年来の天候不順で全国的に飢饉となり、穀物価格が騰貴していたのじゃ。これに対して朝廷が打った手は、四つじゃ。まずは、除災のための神仏への祈りじゃ。神々への神馬や幣帛の奉納、国分寺での吉祥悔過、度重なる大赦などじゃ。次が、貧民への食料などの施しじゃ。これも全国各地に及んでおる。そして、太政官が策定した二つの穀価安定策じゃ。とくに、太政官の二つの施策は有効だったじゃろう。民間貯蔵米の放出については、実際に宝亀五年三月に、諸国で私稲を売った七人に位階を一階ずつ与えておる。神様も協力したのじゃ。雨乞いのため黒毛の馬がこの三月と四月に丹生川上神に奉納されたのじゃが、好い雨を得たとして丹生川上神に神戸として四戸があてがわれておるのじゃ。神戸は、神社に所属し経済的に神社を支える民のことじゃ。

 食料価格の安定は、何時の世でも政治の枢要じゃ。奈良時代は自然災害が原因のほとんどじゃが、今は多くの要因がからんでくるだけにその対策も複雑じゃ。なにしろ本来食料として栽培されてきたものが、自動車のガソリンに変わってしまう時代じゃからの。しかし、ガソリンはなくても生きていけるが、食料無しでは生きてはゆけん。そこのところをしっかりと押さえて置かなくてはならんのじゃがの。
 

阪神タイガ-ス(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月12日(火)13時15分43秒
   私の予想通りの結果となった。阪神がコケタとの同情論が寄せられている。ありがたいお話であるが、それは違う。成るべくしてそういう結果(2位)になったもので、これも僥倖というべきものである。
 投手陣は、岩田のケガは痛かった。でも岩田が出場していても同じような結果だったと思える。戦前から投手陣の弱体は予想されていたことで、下柳・安藤・福原などのロ-トル陣におんぶし、若手の育成を怠っていた「球団」の責任は極めて大きい。昨年度からオオバケした能見(彼もケガで途中は出場できなかった)、ロッテから拾った久保、外国人のスタンリッジ、突如現れた高卒新人の秋山では駒が足りない。加えて救援陣の不安定、藤川の衰えで勝ちゲ-ムも落とすことが多かった。ならば、先発投手を完投させるという手があったが、0、1、2点に抑えていても投手を交代させ中継ぎ・抑えが打ち込まれて試合を落とすことが多かった。特に終盤の横浜戦での久保から藤川への投手リレ-で逆転負けを喫したのはその典型であった。ようやく6日(水)の横浜戦の久保の完投が見られた。これらは真弓監督の采配に大きな問題があった。さらに終盤に1回限定の藤川を2回投げさせたことは狂気の沙汰で、藤川が次第に力を失っていったことの要因となり、優勝を逃したのである。とにかく高卒新人の秋山にロ-ティションの一角を任せること自体が今年の阪神の姿を物語っている。
 さて、来年だが、岩田が出場して、能見、スタンリッジ、秋山が先発を担うことになろうが、やはり駒が足りない。まったくの未知で、小嶋に期待する他ないが、まぁ無理だろう。後はメッセンジャ-、筒井、鶴、上園しかないが、期待する方がオカシイというものだ。下柳・安藤・福原などのロ-トル陣には期待できない。そろそろ引退をお願いしたらよいと思う。来年も投手には泣かされよう。
 

阪神タイガ-ス(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月12日(火)13時14分51秒
   野手 外野の左翼・右翼が固定しない。金本には多くは期待できない。そろそろ引退を願って、次の野手の育成を考えた方がよい。桜井、林(リン)は長打力があり期待したいが1年間を通じての活躍となると疑問が付く。金本は彼ら次第である。
 後はまったく心配はない。強力打線は来年も続くだろう。今年活躍したブラゼル、平野、鳥谷、新井の内野陣と捕手の城島はケガがなければ、今年と同じ活躍をしてくれるだろう。城島は入団2年目となり、弱体投手陣のリ-ドも期待できよう。モチロン中堅のマ-トンも同じだ。代打、内野の控えも層が厚い。勝負強い桧山、藤川、浅井、葛城、坂、狩野など人材には欠かない。関本などは他球団であればレギュラ-だろう。
 外野の左翼・右翼が固定しないこと除いても球界一の野手陣だといえよう。
 最後に来年の優勝というとまず無理だろう。打線の強力は続くだろうが、弱体投手陣が改善するとは思えないからである。やはり「野球は投手」なのである。中日の2連覇が確実だと思えるが(これについては後掲します)、これの対抗馬はやはり巨人だろう。来年は投手陣を整備してくると思うからである。
 

「神功皇后」(34)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月12日(火)13時13分16秒
   なお、「池内 宏」は、「神功皇后」研究の先駆者である。彼の持論を挙げ、これについて
も検証したい。
 彼の49年条が造作であるとする論拠は、① 49年にいったん「卓淳国」に集まっておきながら、この「卓淳国」も含めた7カ国を平定するのは不合理だとする(前掲書 53頁)、② 「千熊長彦」は新羅に対する「問罪使」として派遣されたもので、突然に盟約の当事者として記されているのは不自然である(前掲書 58頁)、③ 当時の「百済」は「漢城」(ソウル市近郊)にあり、盟約の地として「辟支山」(韓国全羅北道金堤市)と「古沙山」(韓国全羅北道古阜郡)に赴いたというのは不自然である(前掲書 59頁)、にある。
 ①については、「百済」の軍と合同して「新羅」を攻めるには、この両国の中間点(緩衝地帯)に集合してから事を起こすのが妥当であり、「新羅」を攻略した後に「卓淳国」を平定したとすることは不合理な説明ではない。②については「山尾幸久」への批判でしてきしてある。③については、この地はいずれも「山」で、当時から「百済」の領土であり、後の「百済」の王都(「熊津」)にも近く、「聖地」としての役割を担っていた可能性も捨てきれない。『三国史記』新羅本紀第30代「文武王」5年(665年)8月条に、王が「唐」の勅使「劉 仁願」・熊津都督「扶余隆」らと共に「熊津」の「就利山」(現在の韓国忠清南道公州市)で盟約を結んだという記事がある。おそらくこの辺りは「聖地」であったのであろう。したがって、彼らがここに立ち寄ることも決して不可思議なことではあるまい。
 

オロモルフ号の航宙日誌4752『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月12日(火)12時48分51秒
  ▼日韓議定書

 秋山眞之が、朝鮮清国の沿岸にも無電望楼を建設するべきで、そのために土地借用を両国に働きかけるべきだとの意見を出し、その先見性に驚いた山本権兵衛海軍大臣が直ちに外務省に働きかけ、折衝に動いたことはよく知られています。
 結果は無惨なもので、清国では外交官自身が動こうとせず、韓国では外交官はかなり必死になりましたが、相手が全く無関心でどうにもならず、最後には「自分たちで無電を作る」と言いだしましたが、戦争が始まっても作ろうとはしませんでした。
 そのため、陸海軍は外務省に対して怒りを爆発させたらしい話があり、一部の資料とともに保存頁に記しました。
(今考えると不十分な記述ですが)
 ↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/muden_sessyou.htm

 結局、戦争開始時に、日韓議定書がかろうじて出来、それを論拠として、朝鮮半島沿岸に多数の無電望楼を造り、これが日本海海戦勝利の原因の一つになりました。
 その議定書がこれです。
 日本の外務省の事勿れ体質と、韓国の先見性の無さが印象的です。
 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4751『日露戦争と無線電信278』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月12日(火)12時45分44秒
  ▼木村駿吉の資料(61)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[15]

▽38
 調査会から引き継いだ受信機の中でもっとも曲者だったのはアンテナ下の変圧器だった。
 このころようやく合調というものが分かってきたので、焼津や艦船からの送信に合わせて合調変圧器に取り替えた。
 それは元の変圧器よりずっと簡単なもので、後の測定では600メートルの波長に合っていた(*1)。
 コヒーラは山本大尉の考案のもので、電極は銀にして開き方は上を広く下を狭くし、調整した上で排気封止した(*2)。
 継電器は英国海軍型無線用継電器に換えたので、精密な調整が可能で狂うことも無くなった。

▽39
 調査会から引き継いだ受信機は鉄函に収められていたので自身の送信から害を受けることは無かったが、送信・受信の切換が敏捷性を欠いていた。
 そこで、印籠蓋の真鍮張り受信函を作り、
◎蓋を閉じると――
 送信用の電鍵が動き、
 アンテナは送信機と接続し、
 函内の受信機の電路が六カ所で切断する。
◎蓋を開けると――
 それら六カ所が閉じ、
 電鍵は不動となり、
 アンテナは受信機と接続する。
 ――のようにした(*3)。
 軍艦で使う碍子は外波中佐の発案で、三個の盃状エボナイト碍子をネジ込んで一つにし、壊れてもその部分の盃状エボナイトだけ取り替えれば良いようにした(*4)。
 そのころ、朝鮮海峡を隔てた試験をした。

*1:アンテナの下部にコイルをつけますと、アンテナ全体の共振波長が長くなります。変圧器はコイルとコンデンサから成っていますので、巻き方やコンデンサの容量によって複雑なインピーダンス変化が起こり、共振周波数も変わったでしょう。
 おそらくは、コイルの巻数を減らして、遠方からの送信が良く受かるように調整したのでしょう。合調(同調)といっても、後の同調回路のようなシャープなものではなく、きわめてなだらかで曖昧なものだったと思います。600メートルというのは、戦後にテレフンケンの波長計を知るようになってからの測定値です。

*2:固定されているような記述ですが、回転によって、金属粉が有る部分の長さが変化するように工夫されたコヒーラです。ただし船の動揺によって変化してしまう事があるので、反対意見も有ったようです。たとえば、木村駿吉を手伝っていた立石彌吾衞は、三笠で実験して、感度の調整はアンテナ下のコイル巻数でなし、コヒーラ電極は斜めにはしない方が良い――という意見を出しています。また立石は同時に、水銀を入れたために劣化があり、多くの軍艦や望楼では仮製現波管を使っていると述べています。

*3:その六カ所とは電気回路図のどことどこなのか、あれこれ資料を当たったのですが、あまり明確ではありません。また、電鍵が動く動かないという表現も、力学的なものなのか、動かしても電気的な変化が無いという意味なのか、不明確です。たぶん電気的な事だと思いますが・・・。

*4:この三段碍子は、『極秘明治三十七八年海戦史』の図に出ていますし、また現物の写真が、ヤマナカさん紹介の写真に写っています。

[続く]
 

Re:無知というものは恐ろしい

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月12日(火)12時43分8秒
   こういうご意見は、何らかの形でぜひ新聞投書、雑誌投稿などにしていただきたいです。
 韓国の特許制度も、日本人が作ったものです。ですから戦前の日本の特許制度にそっくりです。中国の現制度も日本に酷似しています。
 大正から昭和初期にかけて日本人が奮闘努力して旧外地の法制度を作ったのですから、それをそのまま踏襲した現在の彼等の制度が日本に似ているのは当然ですね。
 

無知というものは恐ろしい

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月12日(火)11時50分11秒
   朝日新聞を読んでいたら、大阪地方裁判所の判事「今井輝幸」が『刑法や民法が似ている韓国の方が欧米と比較するより日本には参考になる点が多い』と述べている(2010年〔平成22年〕10月10日〔日〕朝刊 東京14版 2面〔「ひと」欄〕)。
 この人は、日本が朝鮮を統治したということを知らないらしい。朝鮮は南北に限らず日本により近代化がなされた。その最たるものが法制度である。朝鮮人の中には日本の持ち込んだ法制度がこびりついて離れない。それは決して朝鮮人にとっても負の財産ではない。当時の日本の法制度は世界の法制度を研究し最先端を走っていた。
 そして、朝鮮人はそれを受容した。その典型的なものが戸籍制度であるが、すべての法体系についても同じであった。したがって、「韓国が日本と刑法や民法が似ている」のは当たり前のことである。現在でも韓国は国会審議などでの法の動向について常に日本の情報を集め、これを自国の法体系に組み入れている。元々日本の法体系を真似たものだから、齟齬はない。判事にせよ日本の歴史教育を怠った結果がこれである。
 この記事の中で気になったのは、判事に「韓国が導入した取調べの全面可視化などみならうべき点」を言わせたことである。この<取調べの全面可視化>は朝日新聞が強力に推し進めているものである。ところで、韓国の<取調べの全面可視化>は、① 韓国では取調べに拷問は日常茶飯事で被疑者の権利保護からの要請が強かった、② 韓国では北朝鮮に対する信奉者に対する取調べがきつく、親北政権からの要請が強かった、③ 左翼に主導された人権尊重という宣伝を背景に政権が国民の犯罪者取締への懸念という要請を無視した、という日本とは異なる事情がある。こうした制度導入への政治的状況などを一切無視した議論は「朝日新聞」の得意とする隠蔽報道であって、留意しなければならない。加えて、この問題は立法の問題であって立法権への侵害という問題をはらむため、現役の裁判官が発言するのは穏当ではない。もちろん、最高裁判所などの司法当局も同じである。
 こうした発言も朝日新聞の得意とするところで、人に自分と同じような意見を言わせて、それがいかにも世論を形成しているかのように国民を誤導する極めて<卑怯なやり方>である。あの「筑紫哲也」がよく用いた方法である。
 それはともかく、『朝日新聞』は、判事が<取調べの全面可視化>に反対しても黙ってますか?
 なお、判事は韓国の方が日本より人権尊重という面で進んでいると言いたいようだが、それも一面的に過ぎない。例えば、韓国も日本の「検察審査会制度」を真似て、同じような制度を導入しているが、日本と違って検察庁に対する「強制起訴権」はない。
 

広告屋さんへ

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月11日(月)21時33分59秒
  お願いします。
この掲示板に合った広告をお願いいたします。
三六式電信機の写真など・・・。
 

とんちんかん

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月11日(月)12時47分44秒
  ・・・な広告がたくさん出て来るので、興味深いです。
この掲示板とは無関係な広告がたくさん出ますね・・・
 

オロモルフ号の航宙日誌4750『祝日』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月11日(月)12時16分6秒
  ↓↓↓↓↓  

オロモルフ号の航宙日誌4749『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月11日(月)12時14分21秒
  ▼風邪

 悪くはなっていませんが、どうもスッキリしません。
 無理はしないようにしています。

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4748『日露戦争と無線電信277』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月11日(月)12時12分43秒
  ▼木村駿吉の資料(60)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[14]

▽35
 欧米視察中に無線電信調査委員会は解散し、同時に経理部員の手腕で、横須賀海軍工廠造兵部内に旧御雇教師の官舎を移して無線工場とした(*1)。
 そしてそこで委員会から引き継いだ送信機と印字受信機とに、軍用兵器とするための改造を施すことになった。
 外波大佐が工場長格で、山本英輔大尉(のちの大将)や造兵大技士種子嶋時彦(のちの大監)も勤務された。
 日露戦争切迫を感じていたので日夜兼行だった。
 山本大尉は、コヒーラの導通不導通の間に粘りがあるのを見て、顕微鏡で金属粉を調べてササクレのあるのを見つけ、薬研に入れて擦り、少量の水銀を入れて感度を補った(*2)。
 外波大佐は司令官格で一糸乱れず進行した。戦役に間に合ったのは整然たる軍紀の賜。
 当時職工の平均日給が60銭、出張させると宿泊料が50銭だった(*3)。

▽36
 改造の目的――
◎連続使用しても壊れず調子が落ちないこと。
◎調整箇所を最少限にし、一度調整すれば変化しないこと。
◎波浪や砲撃の振動によって故障を起こさないこと。
◎偶然ではなく感度を良くし通信距離を伸ばすこと。
◎受信と送信の切換は一挙動によること。
◎フールプルーフを設けて自己の送信のために受信機を破損しないようにすること。

 これらは、焼津(*4)や艦船や大洗(*5)のような出張所との遠距離通信によって適否を定めた。
 その他――
◎無電室までのアンテナの引込口の考案
◎アンテナから火花を飛ばさない碍子の考案
◎陸上望楼に備えるエンジンや二次電池の検定
 ・・・など。

 一口に言えば「確実堅固」ということだった。
 アンテナに妨害を与えないための支索の絶縁のために京都の松風舎に碍子を作らせたが、強度の点で不合格で、使えなかった(*6)。

▽37
 調査会から引き継いだインダクションコイルは、もともと米独の教育・医療のためのもので、ごく短時間手加減しながら使うもので、とうてい連続使用は無理だった。
 故障の原因は二次線が焼けることで、さらに調べると一次線と二次線の間にある厚さ1センチほどのエボナイト管が火花で貫通することだった。
 そこで厚さ1センチのマイカナイト管にして目的を達した。
 これは安中という篤志家がやってくれた(*7)。
 一次電流の断続は、白金槌型開閉器や、水銀の壺に出入りする鉄線によるものだったが、電極は消耗し調子がすぐ狂うので、水銀を噴出する電動開閉器に変更した(*8)。
 放電の火花は垂直だったものを水平にした。イオン化した大気の影響を減らすため(*9)。

*1:本拠を横須賀に移して工場を造ることは、欧米出張の直前に外波内藏吉が提言していた事でした。

*2:これは山本英輔の大ヒットでした。金属粉を顕微鏡で観察して良否を見分けるという発想は、それまで無かったのです。

*3:これまでこの連載で明治期と現在の物価の変動を見積もりました。それによると数千倍から一万倍程度という答えでしたが、人件費と土地値段の倍率はそれよりずっと大きい事が分かっています。

*4:焼津は明治36年10月16日に完成/横須賀とは69浬ほどです。のちに望楼にもなりました。

*5:大洗は臨時だったと思います。

*6:マストのステイの類はすべてアース状態なので、アンテナに多大な影響を与え、それからアンテナを離して張らねばならず、苦労が多かったわけです。そこでステイを碍子でアースから浮かすことを模索したが、ダメだったという記録です。

*7:現アンリツの創業者の安中常次郎です。一次と二次の絶縁をマイカにして壊れにくくする実験は、横須賀の工場でやっていたようです。それを安中に教えて、作らせたのです。当時の安中は、神田明神そばの小さな住居用の二階屋に住んでいて、二階の押し入れを工作場にして製造していたそうです。

*8:ターボ式と呼ばれる開閉器です。大きな電流(60ボルト10アンペア)を切りますから、その時に多大な火花が飛び、ふつうの接点ではたちまち損傷してしまいます。そこで、液体である水銀の噴出を接点の金属の代わりに使う方法です。これは現在の三笠に展示されているものです。外観は現物とは違うようですが・・・。

*9:なぜか松代松之助による三四式では、放電球は縦に並んでいました。

[続く]
 

Re:だから野球はオモシロイ

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月11日(月)12時10分51秒
   ドラゴンズ側から見ますと、巨人も阪神も勝手に転んでくれたような感じですね。
 はたしてCSの結果はどうなりますか・・・。
 パではロッテが頑張りましたね。
 

Re:蓮舫も大変だ

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月11日(月)12時10分8秒
   何でもそうですけど、一番を目指して必死にやって、やっと10番とか20番とかになるのが世の中というものですね。
 最初から二番を目指していたら、後から二番になってしまいます。
 コンピュータの性能の問題はまた別の評価基準が必要だとは思いますが。
(コンピュータと言いますと、かつて、使えないアメリカのスーパーコンピュータを買わされたとかいう珍事を思い出しました。私もあの当時の自民党売国政治の被害者ですので)
 

Re:ヤクザの身代金と同じだ

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月11日(月)12時07分47秒
   あの国がヤクザだという話は、石原慎太郎が盛んに言ってますが、昔からいろんな人が言っていたことで(戦前から言われていたことで)、それを知らずにノコノコ出かけて行く方がどうかしていると思います。
 仙谷由人は、桃太郎の話は中国から来たので中国を大切に・・・と言ったとか・・・笑い話にもなりません。
 

だから野球はオモシロイ(訂正版)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月10日(日)21時05分35秒
   阪神は最終戦の横浜との試合に敗れて。翌日の巨人・ヤクルト戦は巨人が10中8,9勝つことが予想されたため、セリ-グ3位が確実だった。
 ところが、翌日の巨人・ヤクルト戦、8回まで巨人が4:3。9回表、ヤクルトの攻撃。押さえのクル-ンがファ-ボ-ルを2つ出して2死からヒットを打たれて同点。今度はその裏の巨人の攻撃、1死満塁。逆転確実・サヨナラだと思ったら、三振・セカンドゴロでオジャン。延長に入りヤクルトに3点ホ-ムランを打たれて終戦。押さえのクル-ンの不安定、攻撃のムラ、今年の巨人を象徴する試合だった。
 さぁ クライマックスシリ-ズ(私はこの制度に反対) 阪神と中日との戦いになると予想するが、野球は何があるかわからないから巨人が出てくるかもしれない。どちらで出てきても中日の勝ちは動かないだろう。
 

蓮舫も大変だ

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月10日(日)20時16分46秒
   「2位じゃだめなんでしょうか」と発言した「蓮 舫」行政刷新担当大臣は、
この度ノ-ベル化学賞を獲得した「鈴木章」北海道大学名誉教授によって『研究は1番でないといけない“2位ではどうか”などというのは愚問。このようなことを言う人は科学や技術を全く知らない人だ』と厳しく批判された(産経新聞 平成22年〔2010年〕10月9日〔土〕朝刊 東京15版 2面)。
 こんなことは何も科学に限らずスポ-ツでも子供の運動会でも見られるもので、皆が1番になろうと切磋琢磨しているのである。
 「蓮舫」はこの発言で世の中のことを知らないことを暴露したが、今度は国会内でモ-ド雑誌のファッション撮影を行ったという。これも国会の事務局を騙しての撮影だった。まさに「女帝」気取りだ。人気があるから何をやってもいいんだというのだろう。国会議事堂内の撮影というと「片山さつき」自民党参議院議員もやったが、同じ<傲慢同士>だ。
 そもそも昨今の国会を見ていても権威などヒトカケラもないから、こういうこと公然とまかり通っても無理はないのかもしれない。
 

ヤクザの身代金と同じだ

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月10日(日)20時04分40秒
   中国河北省石家荘市で中国当局に拘束され、9日に解放された中堅ゼネコン「フジタ」の現地法人社員、高橋定(さだむ)さん(57)が解放に当たって5万元をキャッシュカードで支払ったことを明らかにしたという。
 一体、この5万元(約65万円) 何じゃいな? 裁判もしないで金を取るとはユスリ・タカリじゃないのか。公安の小遣い稼ぎだろうか。法治などひとかけらもなく人治がまかり通っている中共だから当たり前のことだろうが、ヤクザと同じだな。
 一方、領海侵犯した中国人船長は無償で釈放された。
 この報道から政府は釈放に向けて何もしてないことが判明した。「菅直人」首相が「温 家宝」首相との<廊下面談>でも「フジタ」の現地法人社員の釈放を要求しなかったというから、政府は一体何をしていたんだろう。「菅 直人」首相には国民の生命と財産を守るという気構えが全くない。その気があるなら、直ちに5万元の返還と謝罪を求めるべきだ。まず、やらないな。
 中国に限らず国民は政府が助けてくれないことを肝に銘じて外国に行くべきだ。<国家など何も役に立たない> これも時代の趨勢か。

★ 読売新聞  10月10日(日)16時19分配信
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20101010-00000413-yom-soci
 

だから野球はオモシロイ

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月10日(日)13時43分44秒
   阪神は最終戦の横浜との試合に敗れて。翌日の巨人・ヤクルト戦は巨人が10中8,9勝つことが予想されたため、セリ-グ3位が確実だった。
 ところが、翌日の巨人・ヤクルト戦、8回まで巨人が4:3。押さえのクル-ンがファ-ボ-ルを2つ出して2死からヒットを打たれて同点。今度はその裏の巨人の攻撃、1死満塁。逆転確実だと思ったら、三振・セカンドゴロでダメだった。延長に入りヤクルトにホ-ムランを打たれて終戦。押さえのクル-ンの不安定、攻撃のムラ、今年の巨人を象徴する試合だった。
 さぁ クライマックスシリ-ズ(私はこの制度に反対) 阪神と中日との戦いになると予想するが、野球は何があるかわからないから。どちらで出てきても中日の勝ちは動かないだろう。
 

オロモルフ号の航宙日誌4747『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月10日(日)12時44分36秒
  ▼不思議な本

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オロモルフ号の航宙日誌4746『日露戦争と無線電信276』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月10日(日)12時43分14秒
  ▼木村駿吉の資料(59)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[13]

▽32
 この欧米視察旅行の最大の収穫は、日本での研究以上のものが見つからなかったことで、自信を持った。
 このことは、戦後の捕獲品を見ても証明される。
 どこでも火花送信とコヒーラによる印字や音響受信なので、似たり寄ったりなのは当然だった。
 降伏軍艦の捕獲品は、スラビーの印字受信機とアルコーの音響受信機だったが、印字は変圧器とデコヒーラの組み合わせで、破損していて動かなかった。
(*1)

▽33
 送信に瞬滅式が用いられたのは日露戦争後五、六年のことで、真空管発振器は世界大戦(第一次)以後であろう。
 受信に鉱石検波器を用い始めたのは明治41、2年のころで、軍艦と駆逐艦の通信困難解決に役だった四三式い黄鉄鉱の検波器を用いた。
 四三式は合調音響受信機だったが、海軍は貧乏なので、安くつくり、全体は木箱に収めて、受聴器だけはサリバン製四千オームの上等品を使った。
 黄鉄鉱は六トン貨車一杯で50円で買えたが、海軍が使うと分かって高騰した。
 アメリカから造兵部にパイロンという検波器を売りにきたが、それは自分がすでに作っていた黄鉄鉱だった。
 造兵部の横田という勤勉な一等兵曹が丹念に実験して見つけたのがこの黄鉄鉱だった。
(*2)

▽34
 ドフォレストの三極管が出現したのは大正二、三年ごろ。それが発達して現在になった。
 世界大戦の間くらいまでは、飛行機に取り付けた検波用真空管はガス電離の原理によるもので、調整が大変だった。そこでラングミュアの電子放電管が現れた。
 日露戦役で無電機が活躍したため世界中がマルコーニの発明を認識し、その研究を促進した。

*1:木村駿吉は「日本以上のものは無いと知って自信を持った」と視察に結果を語っていますが、実際には同じ時期に山本英輔がマルタ島で英国海軍の無電機を視察して、日本の三四式の二倍以上の到達距離があることを知り、改良の要望書を提出しています。
 大体は同様な技術であっても、細部の高性能化によって、40浬になったり120浬になったりしたと思います。木村駿吉の話に、80浬達成という言葉が再三出てきますが、そういうデータのある資料は見つかりません。陸地と軍艦の間で40浬程度の資料はたくさん有りますが、それ以上の資料は見つからないのです。とくに、軍艦と軍艦の間で80浬という実験資料はまだ見ていません。

*2:鉱石検波器は逓信省の鳥潟右一の研究が有名ですが、ほぼ同時期に木村駿吉も黄鉄鉱の良さを発見していた事が分かります。ただし研究の精密さでは鳥潟が一段上で、世界最高性能を達成しています。

[続く]
 

Re:8.11 山部親王立太子(宝亀四年(773)正月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月10日(日)12時41分37秒
   この権力争いは有名ですけど、実態はどうだったのでしょうか。
 山部親王ご自身の政治力が物を言ったように感じておりますけど・・・。
 

奈良時代にこんなことが-一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2010年10月 9日(土)12時49分58秒
  8.光仁天皇の御代(770~781)

8.11 山部親王立太子(宝亀四年(773)正月)
 正月十四日、天皇は山部親王を皇太子に立てられたのじゃ。本章4項で述べたところじゃが、前年五月に井上皇后の呪詛事件に連座した形で他戸皇太子が廃されてしまった。称徳朝で見たように皇太子の不在は、政治の乱れにつながりかねない。そのように影響が多いだけに、立太子には多くの思惑が交錯するのじゃ。

 光仁天皇には、即位した時点で五人の息子がおった。その息子の名前と年令を、母の身分・素性の良さの順に並べてみよう。
① 他戸親王(二一歳) 母は井上内親王(聖武天皇の皇女)
② 薭田親王(二〇歳) 母は尾張女王(光仁天皇の弟の娘)
③ 山部親王(三四歳) 母は高野新笠(渡来系氏族の和乙継の娘)
④ 早良親王(二一歳) 山部王の同母弟
⑤ 諸勝親王(?歳)  母は女嬬・県犬養宿禰勇耳(後に従五位下)
令の規定によれば、皇后の資格を持つのは井上内親王のみじゃから、他戸親王が皇太子になるのは順当なのじゃ。他戸皇太子が廃されると、山部親王が皇太子の最有力候補になるわけじゃ。しかし、母親の身分が低いこと(卑母)が問題になったのじゃ。

 『水鏡』によれば、藤原浜成は、「第二の御子薭田親王、御母卑しからず。この親王こそ立ち給ふべけれ」と主張したそうじゃ。これに対し、藤原百川は、目を怒らし太刀を引きつけて、浜成を罵りつつ、母の尊卑ではなく親王の器量・実力こそ大事だと主張したそうじゃ。百川は、桓武天皇(山部親王)にとって恩人と言えるじゃろう。その百川は、娘・旅子を桓武天皇の夫人にあげ、五十三代淳和天皇を誕生させておる。一方、藤原浜成は、桓武天皇の即位とともに太宰帥に任命され、さらに員外の帥に降格させられてしまったのじゃ。誰を皇太子に推すかによって、その後の栄達が大きく左右された典型じゃろう。
 

オロモルフ号の航宙日誌4745『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 9日(土)11時26分44秒
  ▼風邪

 少々風邪ぎみで元気が出ませんので、今日はこれだけです。

▼不思議な本

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Re:「神功皇后」(32)(33)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 9日(土)11時25分2秒
  『広開土王碑文』って、じつに素晴らしい史料ですよね。
 なにしろ、その当時の人たちが彫った文章ですから!
 私は『卑弥呼と日本書紀』の中で、ごく簡単に『広開土王碑文』の事を記し、そこに任那が書かれている事を記しましたが、つい最近も、それが「歴史と教育」誌に引用されていました。
 解法者さんのこの力作によって、『広開土王碑文』の内容も詳しく分かるようになり、神功皇后の事蹟との関係も、明かになりつつあります。
 みなさんもどうか熱読ください。
 また質問ありましたらどうぞ。
 

「神功皇后」(32)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 8日(金)12時25分23秒
    『広開土王碑文』に「百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来海渡破百残□□□羅
 以為臣民」(第1面8行34字~9行24字)とあるが、この「辛卯年」とは331年
 を指し、「倭」が「百済(百残)」・「新羅」を臣民にしていたことが記されている。この
 ことは、49年条の「新羅」攻略をいい、「百済」が「倭」の朝貢国になっていた事実を
 物語っている。つまり、49年条の史実は『広開土王碑文』からも裏付けられるのであ
 る。また、『広開土王碑文』は単に「倭」が「百済」を臣民にしたばかりか、先の「百済」
 の「高句麗」との戦闘に「倭」が参加していたことも示唆するものでなかろうか。少な
 くともそれを物質的な面で「倭」が支援していたのではなかろうか(この辺の事情は、
 後述する「広開土王碑」で説明する)。
  こうした「倭」との和親もあって、国が安定した「百済」は自信をつけて中国の王朝
 との間に「冊封関係」を結んで、国家としての権威を中国にも認めさせたのである。そ
 の一端は、次のものに現れている。
 ① 余句(「近肖古王」-第12代〔在位 346年~375年〕) 372年 『晋書』
  鎮東将軍(3品)・領楽浪太守
 ② 余暉(「近仇首王」-第13代〔在位 375年~384年〕) 386年 『晋書』
  使持節都督(2品)・鎮東将軍(3品)
  これについても、拙稿「倭の五王」を参照されたい。
 

「神功皇后」(33)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 8日(金)12時23分57秒
    『広開土王碑文』は、前述の「辛卯年条」(331年)ばかりではなく、拙稿「広開土
 王碑」(後に投稿)で示すとおり、数年にわたって「高句麗」を侵略し、「高句麗」にと
 って最大の強敵となっている。それは「碑文」に次のとおり記されている。簡単に記す。
 詳しくは後述する「広開土王碑」で説明する
 ① 「永楽9年(広開土王の在位9年己亥年〔400年〕)」
   「百済」が「永楽6年丙甲」条の誓を破り「倭」と同盟した。「新羅」の使いによる
  と、「倭」が「倭」(「任那」)と「新羅」の国境に大軍を差し向け、(さらに)「新羅」
  の国内にまで侵攻し、城を占領してしまった。という。何とか救援をお願いしたいと
  申し出た。
 ② 「永楽10年(広開土王の在位10年庚子年〔401年〕)
   高句麗王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし新羅を救援に赴かせた。途中、男
  居城から新羅城までその中に「倭軍」が満ち溢れていた。高句麗軍はそこに至ると、
  「倭軍」は高句麗軍を恐れて背走したが、高句麗軍はなおも追撃し任那加羅にある従
  抜城に攻め入ると「倭軍」は降伏した。(「高句麗軍」は)さらに、新羅城および塩城
  を打ち破り「倭軍」を潰滅させた。昔から新羅王は高句麗に従ってはいたものの、朝
  貢することはなかったが、(これにより朝貢するようになった)。王(広開土王)は(新
  羅を臣下に加え、その証として-欠字部分を推測)新羅王(奈勿王)は「ト好」(「實
  聖」)を王(広開土王)に人質として差出し、朝貢するようになった」となる。
 ③ 「永楽14年(広開土王の在位14年甲辰年〔405年〕)
   不法にも「倭軍」は「百済」と共に帯方界にまで侵攻し「石城」にまでやって来た。
  「倭軍」は船を連ねて侵攻して来たのである。(この知らせを聞いて)王(広開土王)
  が自ら軍を率いて平壌から出陣した。先鋒部隊が「倭軍」らと遭遇し、「高句麗軍」は
  王の旗印を翻して侵略者「倭軍」(倭寇)と戦い、これを壊滅させた。惨殺したもの無
  数に上った。
 ④ 「永楽17年(広開土王の在位17年丁未年〔408年〕)
   王(広開土王)は歩兵・騎兵5万を遣わし、(倭軍)の討伐に向わせた。(倭軍)と
  の戦いは、相手を総て斬り尽くし、捕獲した鎧は1万余領、軍用物資・兵器は数知れ
  なかった。帰還の途中、沙□城婁城□留城など多くの城をも攻め立て破壊した

  「碑文」には、はっきりと「任那」の文字がある。つまり、このような「高句麗」と
 の激しい戦争を遂行できたのも「任那」があったからであり、その基盤となっていたの
 が、49年条にある「任那」である。「神功皇后」がその基盤を作ったのである。
 

オロモルフ号の航宙日誌4744『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 8日(金)11時51分5秒
  ▼少子化問題

 いま、少子化担当大臣は何をやっているんでしょうか?

▼戦争相手に塩を送る?

 ふつうの国なら軍隊を派遣するかも知れない相手の国内施設にお金を恵む日本って、いったいどうなっているのか?
 お子さんを拉致された気の毒な方々だって税金を納めてきたでしょう。その税金が、拉致した相手の組織に渡るのです!

▼不思議な本

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オロモルフ号の航宙日誌4743『日露戦争と無線電信275』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 8日(金)11時49分4秒
  ▼木村駿吉の資料(58)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[12]

▽30
 試験の最中、帝大医学部長青山博士が独逸からX線用として買い入れて大切にしていた50センチのインダクションコイルを無理に借り受け、返却の時にエボナイト薄皮が破損して大いに叱られ、独逸から取り寄せて修理した(*1)。
 日本ではまだ製造出来なかった(*2)。
 ES乾電池というのも、ロンドンで買い入れた(*3)。
 変圧器用四十番線絹巻銅線(*4)はサンフランシスコで買うなど、いちいち経理部を通して商社を経るから入手まで半年かかる。
 後年、GEのクーリッジ博士が発明した柔靱タングステン繊条が良いと聞くと、即金で払って持ち帰ったのとは雲泥の相違だった(*5)。

▽31
 外波委員長に随行して欧米視察したときは、これといった訓令は受けなかった(*6)。
 米国ではまだどこも無電には手をつけていなかった(*7)。
 英国では五年後に日本回航の軍艦内で見たところでは、マルコーニ会社から秘密に供給を受けていたらしい(*8)。
 マルコーニ会社はボルジュに柱を建てたばかりで、そこには近づけなかった(*9)。
 独逸ではスラビーがマルコーニを真似たと批判されていたが、すでにテレフンケンは出来ていた、アルコー伯の音響受信機を見せられた。真鍮板バネの上に縦に炭素針を乗せたもので、私が作っていた、より精密な音響受信機と同じ原理だった(*10)。
 フランスは素通りしただけで記憶に残るものはない。

*1:これは前に出た話ですが、いつどこで故障したのかの記述が違います。ここでは返却の時に故障が有って叱られてとありますが、別の記述では使おうとしたらすぐに壊れてしまったとされます。残された書類では後者が正しいです。

*2:その後必死で製造し、横須賀工廠で作るようになったそうですが、結局はその技術ノウハウを元にして現アンリツの祖の安中常次郎が製造に成功し、日露戦役に貢献しました。

*3:乾電池は日本のお家芸で、陸軍では屋井先藏が世界に先駆けて発明したとされるの屋井乾電池を大量に使ったようです。海軍でも使ったと思いますが、性能的に外国品を導入していたのでしょう。海軍が戦役に使用した乾電池は海軍内部で発明され大量に製造されたものだったようです。戦役中に三万個製造したという記録があります。

*4:番線には弱いのですが、0.1ミリ程度の細い銅線だと思います。

*5:これは海軍を退官したあと、東京電気の特許顧問として活動していた時期の話だと思います。明治大正期でも、お役所仕事の海軍と即応性の高い民間企業との違いが印象的だったのでしょう。

*6:呑気な事を言っていますが、外波内藏吉は多くの訓令を受け、多額の外貨を持って、さまざまな器具を購入しています。木村駿吉は欧米を渡り歩いた経験があり、気楽な立場で外波を助けたと思います。帰国を再三遅らせたので、海軍から叱責されています。

*7:実際にはかなりやっていたと思います。表面には出ていなかったのでしょう。

*8:同じ頃、山本英輔はマルタ島で英国海軍の無電機を見せてもらい、コヒーラを分けてもらうなどして、英国無電機を研究していました。

*9:これは前にありました。壁から覗いたという件です。

*10:スラビーとアルコーは、テレフンケンの二本柱でした。このあとテレフンケンは、急速に技術を進展させ、日本海軍でも採用するようになります。
 専門家をたくさん集めた企業と、木村駿吉と何人かの技術将校だけの海軍とでは、技術が発展しはじめたら、競争は無理です。
 木村駿吉の功績は、とにかく何も無い時代に、戦争に使える丈夫な無電機を作り上げたという点にあります。

[続く]
 

Re:マ-トン選手はすばらしい

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 8日(金)11時47分58秒
   マートンにはずいぶんやられたという印象があります。
 今年の阪神の大収穫ですね。
 ナゴヤドームの目安箱に、小学生が、どうしてドラゴンズは変な選手ばかり採って、マートンのような良い選手を採らないのか――という意味の投書をしていたと、噂話にありました(苦笑)。
 

マ-トン選手はすばらしい

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 7日(木)12時34分34秒
   阪神のマ-トン選手がイチロ-の年間210本安打を追い越した。ただ、イチロ-のときは年間130試合で、マ-トンの年間210本安打達成は141試合だから、イチロ-の方が上だといえる。しかし、マ-トンは右打者、したがって内野安打がイチロ-の35(バンド安打2を含む)に対し19、つまり左打者が安打を重ねるには圧倒的に有利だということだ。同じ200本安打を達成したヤクルトの青木選手も左打者、ロッテの西岡選手は左右両打ちである。後はイチロ-と同じ。マ-トンも広角に打ち分ける。そうでないと200本の安打は打てない。マ-トンが右打者であることを考えるとイチロ-にも引けをとらない。おそらく安打という点では彼を抜く選手はそうは出ないと考える。
 日本とアメリカの野球は違う。日本の投手は制球力が良く、打者の弱点と思えば、そこを徹底的に攻めてくるといわれる。加えて低めに落ちるフォ-クボ-ルを多投する。アメリカ・韓国などから期待されてやってきた野手がミジメな結果に終わるのはそこにある。今年の中日のセサル選手もそうだった。
 それとマ-トンがすばらしいのは来日1年目であり、見事に日本の野球に対応できたのである。これには本人の努力がある。低めのボ-ルに対応しようと低く構えるなどはその一つだとされる。
 来年からはマ-クがきつくなると思うが、これだけ広角に打たれると投手も対応が大変で、あまり心配は要らない。
 マ-トンがこんなに活躍するとは阪神の首脳陣も思いもしなかったであろう。阪神はこれまで外国人選手に泣かされ続けてきた。ブラゼル選手も含めて、良い買い物をしたと思う。
 

オロモルフ号の航宙日誌4742『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 7日(木)12時05分22秒
  ▼セサル

 ドラゴンズの話題外人、セサルが、ようやく、次年度契約しない事が分かりました。
 どうして使うのか――と、多くのドラゴンズファンが不思議に思い、反発していた選手です。(本人が悪いわけではありません。使う方がおかしいのです)
 この件について、ドラゴンズ愛というファンが、落合監督がセサルを重視していた事を示す発言を記録しています。
 春から夏ごろにかけての発言です。

「セサルは今までで一番質の良い外人」
「みんなはセサルが落としたとかどうこう言うけどセンターに打たれなきゃ何という事はない」(センターを守って凡フライを落としたエラーの時)
「最後は落ち着くとこに落ち着くと思うよ。最初の構想通りになるんじゃないかな」
「まだ良くなる。俺の目が間違いじゃなけりゃあな」
「ミスがでたから外すでは選手がかわいそうだろ」
「もうちょっと暖かくなればな。見ていてかわいそうだ。寒過ぎる」
「吉見チェンバルデスあれは使わない手はない」

 これらは私も記憶しています。
 要するに落合監督には選手を見る目がまったく無かったという事です。
 そもそも日本人選手でも、落合監督が強く要望して採ったり、キャンプで目をかけたリした選手の大部分は沈没しており、今は首になったコーチが力を入れた選手が活躍しているのです。打者もそうですが、とくに投手はそうです。
 じつに不思議な監督ですね。

▼不思議な本

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オロモルフ号の航宙日誌4741『日露戦争と無線電信274』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 7日(木)12時02分40秒
  ▼木村駿吉の資料(57)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[11]

▽27
 築地の海軍大学校構内で一町くらいの距離での送受試験を終えてから、委員会では構内に150尺の柱を建てた。丸太を八番鉄線(*1)で継ぎ合わせて同じ八番線の支索を四方に張って倒れぬようにした。
 次に羽田に150尺の丸太櫓を建て、これは支索が無かった。
 それで築地→羽田としたが、まったく受信しなかった(羽田にいたらしい)。いろいろとやったが不可で、築地に戻って送信機を見たが精一杯の送信をしていた。
 ふと柱を見ると、アンテナが支索の内側にある。ためしにそれを外側に引き出して、羽田に行ってみると、強力に受信出来た。
 これが、高周波電流に叩きのめされた最初の経験だった。
 アンテナからの誘導作用は推察してはいたが、これほど強いものとは思っていなかった。
 良い経験だった(*2)。

▽28
 羽田・築地間の試験が成功してから、各鎮守府から優秀な将校が東京に呼ばれて無電の講習を受けた(*3)が、モールスコードを暗記して電鍵を打つ練習もあった。松代君が教えて池田・伊東二氏(*4)が助手をつとめた。
 これらの将校が日露戦役では各艦で無電を担当した(*5)。
 講習は三週間で、早く打つよりも「ゆっくり確実に」をモットーにし、一分間に24字くらいの速度だった(*6)。
 当時は、通信の最初は調整に機会を相手に与えるために、「・・・-・」という符号を四、五回から十回ていど送信した(*7)。

▽29
 築地・羽田通信が成功してから、築地を送信所にして、各地で受信試験をした。大島・八丈島・筑波山・房州大山・焼津など。
 簡易法で凧や風船でアンテナを揚げた時はすべて失敗(*8)。柱を建てた時はすべて成功だった。
 八丈島では牛から落ちたダニが松代君の睾丸に食い入って、掘り出すのが大変だった。
 大島の三原山では風船の綱に硫酸がかかって、五、六十尺上がったところで飛び去ってしまい、担当の立石兵曹長の顔を悲壮極まりなかった。
 こうして泣いたり笑ったりしながら、明治34年末には予定の80浬近くを成功したので(*9)、外波委員長と私は欧米視察の命を受けて、明治35年早々に出発した(*10)。

*1:径約4ミリの太い鉄線。

*2:アンテナを金属で囲んだら電波は出なくなる事は、今では常識だが、当時は一流の科学者でも思いつかない事だった。とくに支索は片方がアースされているので、なおさら電波は出ない。

*3:第一回の将校無電訓練は明治34年3月末に東京の海軍大学校構内で始まった。合計10名。
 下士卒の訓練も、同じ場所で明治34年1月から始まっていた。
 無電訓練はこの第一回の後第二回からは、横須賀の水雷術練習所でなされるようになった。

*4:松代松之助の助手役として逓信省から派遣されていた有能な技術者。

*5:第一回訓練将校の中には、終始旗艦「三笠」の無電を担当した白根熊三大尉や、後に木村駿吉を助けて四〇式や四三式の開発をした黒瀬精一大尉がいた。

*6:逓信省が自慢していた有線での専門家の半分程度の速度だと思われるが、実際にはもっと遅かったのではないか、と推理。素人が短期間で練習するのだし、また訓練生が現場に出てその下で練習したような下士卒もいたので・・・。あと、当時の無電機の性質上、あまり早く打電すると、電波が途切れてしまう心配があった。連続波の電波が出ていたわけではないので。

*7:明治34年10月に三四式無電機が制式されるに当たって出来た通信規則では、起信符・終信符はこれとは逆の「・―・・・」となっている。この符号「・・・-・」は戦時の記録では起信符として用いられたらしく、一字連送の最初の聯合艦隊命令書に文例がある。開戦まもない資料によると、警告符として「・・・-・・」がある。これは、遠方と強い電波で送信しようとしたとき、いきなり強い電波を出すと周囲の味方の無電機が破損してしまう恐れがあるので、はじめ弱い電波でこの警告符を繰り返し打って、味方に注意を促すためのものである。当時の無電機は、電波が弱いと受信出来ないし、強いと受信機が壊れるという不便さがあり、扱いはとても大変だった。

*8:凧や風船での実験は、マルコーニが初期に多く行っている。日本では戦時で柱を建てる時間も費用も無い時のために実験したらしいが、実用にはならなかった。

*9:実装前に軍艦どうしで確実に80浬達成という資料は見つからない。陸地どうし、または一方が陸地の場合は、高いアンテナが立てられるので、80浬も可能だった。三四式の軍艦どうしでの実力は、うまくいっても40浬程度だったらしい。三六式でも、ぎりぎりの時期になってようやく陸地(吾妻山)と軍艦(扶桑)の間で79浬というデータが得られ、艦本としては厳しい戦局を睨んでこれの実装に踏み切っている。したがって開戦後の軍艦間の80浬達成は担当者の努力によるところが大きかったであろう。有名な信濃丸の警報が直接は三笠に届かなかったのは当然であった。

*10:発令は明治34年11月には出ており、34年暮れに出発したらしい資料もある。『極秘明治三十七八年海戦史』では12月としている。この件不明確。

[続く]
 

Re:「神功皇后」(29)(30)(31)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 7日(木)11時59分44秒
   じつに面白いです。
 興味津々です。
 「山尾幸久」の論の論理的整合性の無さが明かですね。
 

「神功皇后」(29)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 6日(水)12時18分24秒
   これに反論する。
1.百済の将軍「木羅斤資」が天皇の命に従って行動するのは不可解であるが、『日本書記』
 応神天皇25年条に『百済記』を引用して、「木羅斤資」の子である「木満致」(もくま
 んち)は父が新羅を討ったときに、その国の女を娶って産んだ子である。父の功により
 任那の実権を握った。わが国(百済)に来て、日本との間を行き来した、とある。この
 ことは『百済記』の引用からして事実であろう。このことは何を意味するかといえば、
 「木羅斤資」は百済の将軍であったが、日本と百済との友好関係により共通の敵「新羅」
 を攻めたが、その際に日本の指揮下に入ったと考えても少しもおかしくない。こうした
 功績があったからこそ、日本はこれに報いてその子の「木満致」を重用したのである。
2.「千熊長彦」 確かに49年条に唐突に現れる。しかし、「荒田別」と「鹿我別」は日
 本の将軍、これに対して「千熊長彦」は「山尾幸久」も指摘するように「新羅への問罪
 使」である。つまり、政治家である。新羅との戦いが終れば、将軍は用済みである。「
 百済」との折衝を「千熊長彦」が行うのは当然であろう。良く考えてみれば、彼の登場
 は決して<唐突ではない>。
3.「神功皇后」の挿入 これは「神功皇后」紀全体の問題である。これについては最後に
 説明することにするが、「山尾幸久」の言わんとするところは、「49年条」が創作であ
 るというにあるから、これについて述べる。
  「神功皇后」摂政46年(366年)
   「斯摩宿禰」を卓淳国に遣わした。その前年に卓淳王「未錦旱岐」の元に、百済人
   がやって来て日本に行きたいが、道がわからないと言ったので、卓淳王が「斯摩宿
   禰」に日本から使者がやって来たら教えて欲しい」と伝えた。そこで、「斯摩宿禰」
   は従者の「爾波移」(にはや)と「過去」(わこ-卓淳の人)を百済国に遣わし、王
   は彼を厚くもてなした。
                   ↓
  「神功皇后」摂政47年(367年)
    百済王「近肖古王」は使者を遣わして朝貢した。このとき、新羅の使いも一緒に
   来た。皇后が貢物を見ると新羅の物が豪華であるのに百済の物が貧弱であった。そ
   こで、百済の使者に尋ねると彼は途中で貢物を新羅に奪われてしまったことを告白
   した。皇后は怒り「千熊長彦」を新羅に遣わし、そのことを責めた。
                   ↓
 

「神功皇后」(30)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 6日(水)12時17分1秒
    「神功皇后」摂政49年(369年)
    皇后は将軍を「卓淳国」に遣わし、さらに兵の不足を補うため「木羅斤資」を
   遣わし新羅を討った。それにより「比自本」など7カ国を平定した。
                   ↓
   兵を西に向けて、南蛮の「忱弥多礼」を攻略し、これを「百済」に与えた。
                   ↓
    「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)と王子の「貴須」(「近仇首王」)も軍を率い
   てやって来た。「比利」など4つの邑も自然に従ってきた。
                   ↓
    「百済」の王父子および「荒田別」、「木羅斤資」などと共に「意流村」で会い、
   互いに顔を見合わせて喜び合い、厚く敬って「百済」の王父子が「百済」に帰国す
   るのを)見送った。
                   ↓
    「千熊長彦」と百済王は「百済国」に行って、王が二山に登って、長年、日本に
   春秋に朝貢しようと誓った。そして「千熊長彦」を都に連れていき、厚くもてなし、
   人を付き添わせて日本に帰国させた。
                   ↓
  「神功皇后」摂政50年(370年)
    「百済」の使者が始めて日本にやって来て、永遠に朝貢することを誓った。
                   ↓
  「神功皇后」摂政51年(371年)
    「百済」の同じ使者が日本にやって来て、再び朝貢することを誓った。この使者
   につけて遣わした「千熊長彦」に対し、「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)と王子
   の「貴須」(「近仇首王」)は再び朝貢することを誓った。
                   ↓
  「神功皇后」摂政52年(372年)
    「百済」の同じ使者がまた日本にやって来て、「七枝刀」1口、「七子鏡」1面な
   ど種々の重宝を奉った。さらに、孫の「枕流王」に日本に永遠に朝貢をつづけなさ
   いと申し渡した。
                   ↓
  「神功皇后」摂政55年(375年)
    「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)が薨去された。
                   ↓
  「神功皇后」摂政56年(376年)
    「百済」の王子の「貴須」(「近仇首王」)が即位した。
 

「神功皇后」(31)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 6日(水)12時15分1秒
    このように、この7年間の一連の記事は、互いに切り離すことのできない一団の記事
 となっている(『任那興亡史』末松保昭 吉川弘文館 1949年2月28日 58頁)。
  これを見ても、「山尾幸久」のいう<つながりの悪い記事>が見事に連続している。
  ところで、49年条の要点の一つは、「新羅」の攻略にある。これはこの7年間の一連
 の記事から、「百済」の日本への遣使が「新羅」への出兵要請にあり、これを受けて日本
 が「百済」と聯合して「新羅」を攻めたというものが実相だったと考えられる(「末松保
 昭」-前掲書 同頁、「池内 宏」-前掲書 52頁)。
  49年条の要点のもう一つは、日本側から見て、「任那」の経営が軌道に乗っていたこ
 とを示したことである。それは、「新羅」を攻略するについて「卓淳」(現在の韓国慶尚
 北道大邸市-当時の百済と新羅の緩衝地帯)に集合したことである。集合できたという
 ことは、それ以前から「任那」が存在していたことを示している。それが記録に現れた
 のは、「垂仁天皇」2年条からであるが、その経営が記録上明確となったのは、このとき
 からである。
  このことは、「百済」が日本を頼ったことにも現れている。それは、前述のように「任
 那」の地が「新羅」と「百済」の間に位置し、これを自らの勢力に引き入れることは、
 そのまま自国の安定につながるからである。「任那」を支配していたのは日本であり、そ
 れとの親交を深める必要があったからである。
  「百済」は369年から371年にかけて「高句麗」との間に大戦争を繰り広げてお
 り、いずれも大勝し、371年には「高句麗」の「平壌城」を攻撃し、「高句麗」の「故
 國原王」(第18代)を戦死させている(『三国史記』百済本紀「近肖古王」26年条、
 同 高句麗百済本紀「故國原王」41年条)。「百済」がこのようなことができたのも日
 本との間に和親関係が成立したからに他ならない(「末松保昭」-前掲書 62頁)。
  「山尾幸久」はこの条の「木羅斤資」らが「卓淳」に集まって「新羅」を討ったとい
 う記事を干支3運繰り下げて429年と考える(前掲書 126頁)。これに同調する者
 に「吉田 晶」(『倭王権の時代』新日本出版社〔新日本新書 490〕1998年9月30日
 44頁)と「田中俊明」(『大伽耶連盟の興亡と「任那」』吉川弘文館 1992年8月20日
 92頁)がいる。「吉田 晶」はこの条で、「千熊長彦」が「百済」王と誓約し、「倭」
 「百済」連合軍が「新羅」・「高句麗」(「新羅」に駐屯していた)を打ち破ったとあ
 るは、「倭」が南朝鮮を保全し、その中心的存在であった「大伽耶」に対して影響力を
 保持するようになったことを示していると考える。そして、このことは『三国史記』百
 済本紀 第19代「昆有王」2年(428年)の「倭国」が従者50人を率いて使者が
 来たとの記事は「倭」が「百済」と「高句麗」を討つための軍議であったというもので
 で、これに合致するという。さらに、「倭」の五王の「讃」の430年の「宋」への遣
 使は、その勝利報告に目的があったとする(前掲書 同頁)。しかし、これが採り得な
 いことは前述のとおりである。
 

オロモルフ号の航宙日誌4740『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 6日(水)11時36分28秒
  ▼ゴミ捨て

 昨日完了しました。
 家の中で積み上げるとずいぶんあるように見えますが、路上に出ると僅かです。
 軽トラック一台で十分間に合いました。
 これであと一年は大丈夫です。
 自分でトラックに運ぶわけじゃありませんけど、やっぱり疲れます。
 書斎の隅に積んであった不要書類を玄関まで運ぶだけで、一日がかりです。
 あとは古いラジカセとか加湿器とかスピーカーとか布団とか・・・。

▼過疎地

 ケーブルテレビは、前に鎌倉に住んで居たときに家内が入っていましたから、同じ神奈川県でもあちらの方では古くから有ったらしいです。
 このあたりはようやく最近のこと。
 ためしにNTTの光ケーブルについて聞いてみたら、家のあたりはまだサービスが一部しか無いらしい。いつ完成するのかは不明とのこと。
 過疎地だなあ・・・そう言えば、家から駅までの道では、次々に商店が潰れています。どこも少子化で活気がありません。
 自治会の運動会では80過ぎたようなお婆さんがヨタヨタと走っていて、見ていられません。
 転居したころに246沿いにあった大きなスーパーは潰れて別のスーパーになりましたが、それも潰れて、もう一度潰れて、現在工事中なのでどうなるのかと思ったら、巨大なパチンコ屋が出来るという噂です。
 コンビニもだんだん減ってきたし、元気なのはパチンコだけ?

▼ケーブル

 上側は最近ひかれたケーブルテレビのケーブルです。
 うちの近くでは、他のいろんなケーブルとごっちゃになって、下側の写真のような有様です。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4739『日露戦争と無線電信273』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 6日(水)11時32分52秒
  ▼木村駿吉の資料(56)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[10]

▽24
 駿吉が工夫した音響受信機の説明――
 炭素粉の自己デコヒーリング性を応用。
 巾0.5~1ミリ程度の細長い溝にマイクの炭素粉を入れ、それに濃油をたらし、溝の一つの側をアンテナに結び他の側をアースにしたもの。
 アンテナとアースの間には移動接触子を設けて電波の強さに応じて溝巾の異なる場所の炭素粉を通過させる。
 アンテナから高周波電流が流れると導電性が増し、止むと元に戻る。そこで炭素粉を並列するヘッドホンで送信火花の音を聞く。
 これは感度が良く、受信音の変化によって送信や受信アンテナの様子を試験するには適切だった。
 しかし記録が残るし防音室も不要な印字式の方が軍艦には向いており、日露戦役に用いられたのは松代君の印字式を兵器に改良したものだった(*1)。

▽25
 送信は、今は禁じられている野蛮な方式で、インダクションコイルで二個の球体の間に1~3センチの火花を出し、一方の球をアンテナに、他方をアースに繋いだもの。
 太い電衝頭のあとに細く短い尻尾をつないだお玉杓子的電波を連続放出するもの。
 調査会当時は最初の電衝のみが大事だと思い、マルコーニはじめ不合理な変圧器を工夫したのもそのためだろう。
 電波の大切なことがわかり、同調法を採用したあとにもしなかった時にも、何十浬の通信が出来たり600メートルの波長に合わせたつもりが300メートルになったりしたのは、火花式の同調曲線がきわめてゆるやかだったからだろう(*2)。
 明治37年に水戸の大洗で造兵部員が風船をあげて実験したとき、アースとして長さ100メートルの被覆線を巻いたまま(コイル状)使用したので、波長が著しく延長して、何日たっても受信できず、思い切ってアースを二、三尺に切ったら直ちに明瞭に受信した事があった(*3)。

▽26
 明治43年ごろまでは、世界中の無電機はみなこの方式だった。
 戦役の一年か二年後に海軍はマルコーニ社から強力送信機を買い入れ、それを漢口と内地の通信に使ったが、それには数個の火花間隙を直列に使用してあり、恐ろしく大きな爆音を出した(*4)。
 私がそのころ作った送信機(*5)にも、大きな太鼓形の容器に水を入れ、それを数個直列して猛烈な火花を発生させたので、軍艦内ではその音が鉄板を伝って夜中誰も寝られなかったらしい。
 悪い事をしたと後悔するが、その後各国でクエンチトスパーク(消音火花/*6)式を研究採用したのは、眠れないのが主な動機だったのだろう(*7)。

*1:この音響受信機は初期にはかなり実験され、三四式にも採用されています。しかし記録が残らないというのが決定的な理由で、三六式には入りませんでした。なお、何にヒントを得て作ったのかは不明ですが、広い意味では似た試みは外国に有ったようです。松代松之助は炭素の代わりに鉄粉を使って似たものを作り、それはより感度が良かったそうですが、鉄粉が固まってしまって長続きしなかったようです。

*2:このあたりの記述は漠然としています。アンテナと受信機本体とが切り離せない構造になっていた事が、漠然とする理由でしょう。

*3:これは、明治36年の山本英輔の実験ではないか――と思います。山本の思出談とは、コイルのように巻いてある点が違いますが・・・。

*4:これは貴重な記述です。現在の三笠記念艦に展示されている放電回路は複式ですが、JACARの資料を見るかぎり、その日本側回路としての初出は明治40年です。おそらくマルコーニの送信機を見てそうしたのでしょう。複式自体は、前の資料に有りましたように、駿吉も明治38年より前に検討はしていました。

*5:四三式と言われる無電機で、これが木村駿吉が海軍で開発した最後の無電機と考えられます。複式の放電回路を使っています。

*6:一般には瞬滅式と呼ばれています。連続に近い電波を出す方式です。

*7:これは半分冗談だと思います。瞬滅式の利点は低い電圧で連続に近い電波を出す事にあります。

(こういう開発者の資料を読んでいますと、司馬遼太郎の書いた日露戦時の無電の話がいかに変かが分かります。情報通信の軍事史が分かっていないと感じます。もっともそれが主題ではないので、作品全体の価値とはあまり関係有りませんが、時々がっかりします。と同時に秋山眞之の先見性の凄さと戦役時の無電使用法の巧妙さにただ感服。明治天皇の日本に高天原が下さった最大の贈り物でしたね。苦難の神武天皇に下された霊剣布津御魂(石上神宮の御神体)にも匹敵します!)

[続く]
 

そのとおり

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 6日(水)00時33分12秒
  >「山尾幸久」って、その論説を読んでみますと、なにかこう、奥歯にものが挟まったような、小林よしのりが薄墨色・・・と呼んだような<

 私の論考は、彼に対する批判でもありますが、何と言うか、曖昧模糊というか、考えが
明確でないことが多いのです。「田中 卓」先生もこの点を批判してます。後に提示します。
 

オロモルフ号の航宙日誌4738『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 5日(火)10時39分48秒
  ▼尖閣諸島

 マスコミの扱いを見ていますと、外国人がどう言ったか――みたいな事ばかり気にしていますね。日本独自で守る意気込みを持つマスコミ人ってほんとに少ないですね。
 本当はこの機会に竹島奪回を叫ぶマスコミ人が沢山いてもいいと思いますけど、なんだか第三者的な人がほとんどです。
 これではダメだと思います。
 やはり、東京の真ん中に核ミサイルが落ちないと、目覚めないのでしょう。目覚めた時はもう遅いのですが・・・。

▼千両

 猛暑続きで、丈夫な千両までが枯れてしまった事は、前に書きましたが、少し晴れた機会に、枯れた枝を除きました。
 写真の上側が、枯れたままの千両、下側が枯れ枝を除いたもの。
 千両は日蔭でも野鳥に実を食べられても平気で大きくなってきたのですが、今年の夏の暑さには参ったようです。
 でも、少しは残りましたから、これからまた増えるでしょう。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4737『日露戦争と無線電信272』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 5日(火)10時37分51秒
  ▼木村駿吉の資料(55)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[9]

▽21
 印字受信機の回路構成を詳しく解説しているが、分かりやすいとは言えない。
 この解説で私にとって印象的なのことが二つある。
 一つは、一箇の火花で一箇の点が印字機に描かれるという説明で、これによって、放電による発振の最初のピークのみで通信していた事が分かる。
 他の一つは、印字機は其の動作を緩慢にしているので、連続した黒線が描かれるという説明である。

▽22
 印字機の中で大切なものが三個あった。

◎第一:空中線下の変圧器
 当時は高周波電流の性質が分かっておらず、マルコーニが電気雑誌に発表したのは、巻数を非常に多くして、二次線を数カ所に盛り上げて、角の生えたような代物だった。

◎第二:コヒーラ
 これは検波管と整流管と開閉器を兼ねたようなものだった。一度導通すると叩くまでは元に戻らない。

◎第三:継電器
 一ミリの百分の一、千分の一という微妙に調整をし、動揺や激動によって舌片が動いてはならない。当時の日本では不完全で、逓信省からの借り物は陸上ではよいし、軍艦でも試験の間は委員が熟練していて動作したが、それでも骨が折れた。

▽23
 この三個の内容説明。

◎第一:空中線下の変圧器
 アンテナ回路の中にある一次線が、送信電波と同調させ、二次線がコヒーラのCおよび自身のCとともにアンテナ回路と同調し、かつ、一次線・二次線の結合が緩ければ、それで最高性能だった(*1)。

◎第二:コヒーラ
 わずかな電圧でもすぐに導体になり、デコヒーラによって叩かれると明確に不導体になり、粘るような事が無ければ上等だった(*2)。

◎第三:継電器
 当時の日本では遊びの無いネジの製作もままならず、手工で作る状態だった。
 欧米視察中に、外波委員長が、ロンドン市シーメンス工場で発見した、英国海軍型無線電信用継電器が、大収穫で、日英同盟のお陰で、英国海軍省の了解を得て買い入れる事にした。日露戦役中各艦に装備したのはこれだった。
 バルチック艦隊が来る前に台北と澎湖島間の無電が思うように通じないと知らされて、この継電器を持って行って旧型と換えたら、完全な通信が出来るようになった(*3)。

 マルコーニの変圧器は神秘的な形で、今考えると理屈には合っていなかったが、委員会で試験して何十浬彼方の通信がテープに描かれた時には、不思議な感じだった。陸上から軍艦に天気予報が送られた時には、老司令官が「まるで神さまじゃのう」と言われたそうだが、まさにそういう感じだった。

*1:ここで合調(同調)という言葉が使われていますが、後の同調のような厳密なものでは無さそうです。回路理論が出来ていない時代のことで、受信電力が少し増えた――といった程度のものだったと思います。

*2:この粘りというのが大問題で、山本英輔が顕微鏡を持ち込んで金属粉の形状を見て、ギザギザを少なくしたら良くなったらしいです。金属粉を顕微鏡で観察するという事自体が、なかなか頭に浮かばない時代でした。

*3:台北や澎湖島などの陸上ではそれまで旧型が使われていたのでしょう。

[続く]
 

Re:「神功皇后」(26)(27)(28)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 5日(火)10時34分47秒
   「山尾幸久」って、その論説を読んでみますと、なにかこう、奥歯にものが挟まったような、小林よしのりが薄墨色・・・と呼んだような、うまくは言えませんが、奇妙な精神を感じます。
 影響力のある人ですから、創作説の論破はありがたいです。
 

「神功皇后」(26)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 4日(月)13時11分13秒
  5.「神功皇后」摂政49年(369年)
  ここの史実性が大変問題となっている。<造作>だと指摘するものが大変多い。その
 代表的な者が「山尾幸久」である(『古代の日朝関係』塙書房〔塙選書 93〕1989年4
 月10日 113頁)。その他にも「田中俊明」(前掲書 192頁)、「吉田 晶」(前
 掲書 111頁)があるが、「山尾幸久」のものと大同小異であるから、彼の分析を考 察してみる。記事は次のものに分けて考えられるとする。
① 「荒田別」(あらたわけ)と「鹿我別」(かがわけ)を将軍にして、「久氐」
 (くてい)〔百済人〕らと共に(朝鮮に)渡る。ある人が「兵士が少なかったので、新
 羅を討つことができない。「沙白」(さはく)、「蓋盧」(こうろ)〔いずれも「卓
 淳」の人だろう〕を天皇に仕えさせて兵士を増やすことを図りなさい」と言われた。そ
 こで、「木羅斤資」(もくらこんし)、「沙沙奴跪」(ささのこ)(この二人は姓が知
 れない。ただ、「木羅斤資」は百済の将軍である)に命じて、「沙白」、「蓋盧」と共
 に「卓淳」に集まって、新羅を討った。
② 「比自本」(ひしほ)・「南加羅」・「喙国」(とのくに)・「安羅」・「多羅」・「
 「卓淳」・「加羅」の7カ国を平定した。兵を西に動かして「古奚津」(こけのつ)に
 至った。南蛮の「忱弥多礼」(とむたれ)〔「済州島」-「耽羅」(たむら)[「継体
 天皇」2年12月条]〕を破った。その地を「百済」に与えた。「百済」の「肖古王」
 (「近肖古王」)と王子の「貴須」(「近仇首王」)も軍を率いてやって来た。「比
 利」、「辟中」(へちゅう)、「布弥支」(ほむき)、「半古」の4つの邑も自然に従
 ってきた。「百済」の王父子および「荒田別」、「木羅斤資」
 などと共に「意流村」(おるすき)で会い、互いに顔を見合わせて喜び合い、厚く敬っ
 て(「百済」の王父子が「百済」に帰国するのを)見送った。
③ 「千熊長彦」と百済王は「百済国」に行って、山に登って西蛮(西の野蛮国-「百済」
 をへりくだった言い方)として、長年、春秋に朝貢しようと誓った。そして「千熊長彦
 彦」を都に連れていき、厚くもてなし、「久氐」を付き添わせて日本に帰国させ
 た。

  ①は「倭」が「百済」と協力して南部朝鮮に侵攻してきた「新羅」と戦って「7カ
 国」を平定した、②は朝鮮西部に進攻してこの地域を「百済」の領土として賜与した、
  ③は「百済」が「倭」に朝貢という形で従属的同盟を盟約した、というものである
 (「吉田 晶」-前掲書 111頁)。
 

「神功皇后」(27)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 4日(月)13時04分53秒
    「山尾幸久」はこの3つが、46年条・52年条とつながりが悪いという(前掲書 1
 14頁)。52年条はあの有名な「七支刀」など奏上である。しかし、彼の頭の中からは、
 47年条、50年条、51年条が<スッポリ>と抜け落ちておる。これはこれらが創作
 だというのである(前掲書 115頁)。こんなの当たり前だろう。これが<創作>な
 らば、つながりが悪いのは当たり前だ。「神功皇后」のこれらの一連の記事はつながって
 いるのであって、途中が抜ければ<つながりの悪い>のは当然だ。彼の言いたいのは、
 この49年条も<創作>だと言うのである。こんなの全く論拠にはならない。
  47年条は、新羅が日本と百済との和親を妨害した。だから、49年条で新羅を征伐
 することになった。50年条はこの49年条の③を受けて、百済人「久氐」が万世に至
 るまで朝貢することを誓ったとあり、「百済」の「肖古王」(「近肖古王」)が「百済」で
 同じことをしたから、これも当然のことである。<見事>に記事はつながっている。
 

「神功皇后」(28)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 4日(月)13時03分48秒
    「山尾幸久」はさらに「49年条」が創作である理由として、次のものを挙げる。
 ① 「49年条には、二重性・重複がある。それは「荒田別」と「鹿我別」という日本
  の伝統的人物の出征譚を付け加えたこと。および「千熊長彦」立会いのもとでの百済
  王の二山での誓盟を創作したことによる。それらを取り去って49年条を改めて見て
  みると、そこには「百済」の将軍「木羅斤資」が主人公然で立ち現れる。百済の将軍
    神功皇后または倭王の命令で、ヤマトから渡海して朝鮮半島に出征し、また戻ってき
  ている(『日本書記』応神天皇25年条に『百済記』の引用として、彼が再度ヤマトか
  ら渡海している)。このような非歴史的・非合理的な話を了解することはできない。
 ② 「千熊長彦」が唐突として現れる。47年条では、彼は新羅への問罪使として任命
  されたことになっている。47年条で『百済記』を引用し、彼を「職麻那那加比跪」(ち
  くまななかひこ)ではあるまいか、としている。ところが、49年条では彼のことを
  姓が知れない。ただ、百済の将軍であるとしている。この2つはつながらない。とい
  うことは「千熊長彦」を作文して、神功皇后紀に挿入したことを示している。
 ③ 49年条が『百済記』に基づく確かな史実を踏まえた叙述ならば、これを応神天皇紀
  に編成しても良かったはずである。しかし、それがなされてない。それは、「神功皇后」
  にまつわる伝承が存在しており、これを『日本書記』に挿入しなければならなかった
  のである、その伝承こそ〈1〉海神たる「住吉大神」が彼女に助勢して海外に国土を
  領有した、〈2〉彼女が「神の妻」であり、その胎中なる日の御子にその国土を与えた、
  というものである。つまり、この伝承を「神功皇后」紀をわざわざ創作し、無理やり
  挿入したのである。
 

オロモルフ号の航宙日誌4736『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 4日(月)11時50分22秒
  ▼同人誌

 三ヶ月に一度の同人誌の編集作業が終わりました。
 必死で節約したのですが、それでも目標より四頁増えてしまいました。
 編集のノウハウを持っていないので、試行錯誤が続いていますが、なかなか「これで良い」とはなりません。もう121号になりますが、まだ試行錯誤です。

▼捨てる

 ふだん捨てにくいものを、一年か二年に一度、業者を呼んで捨てているのですが、いまその作業をやっております。
 前回捨ててから二年経ちますので、相当な量になっています。
 トラック一台分は有ります。
 電器製品も多いので、お金がかかります。
 トナーカセットも何種類も有りますし・・・。

▼運動会3

6.国旗掲揚。あまり目立たないところに国旗と校旗が掲揚されていました。開会にあたっては国歌のレコード演奏もありました。なんだか行進曲風の君が代でした。

7.六年生の100メートル競走です。いろんな子がいます(この写真に孫はいません)。

 朝早かったので、たちまち疲れてしまって、すぐに帰りました。家内はいったん帰って少し休んでまた行きました。昼食を家族と一緒に食べるのが、運動会最大の行事ですので・・・。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4735『日露戦争と無線電信271』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 4日(月)11時47分57秒
  ▼木村駿吉の資料(54)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[8]

▽19

◎アンテナ高
 試験用陸上は毎回150尺、軍艦のマストは60尺から100尺くらい。

◎発電機
 軍艦装備は直流80ボルト一台のみ(*1)。
 直接使うとたちまち腰砕けになり送信は止まってしまう。

◎二次電池
 そこで、60ボルト10アンペアの二次電池を用意(*2)。

◎電力
 したがって、高さ100尺のアンテナと600ワットの電力で80浬を通信。

◎送信機
 火花式の能率の悪いもの(*3)。

◎受信機
 コヒーラ式印字受信機で増幅無し(*4)。

◎通信兵の熟練
 粗末な送受信機だったが、通信兵の熟練は恐ろしいもので、戦役中に距離不足の報告は無かった。艦船間で100浬以上の通信は珍しくなかったらしい(*5)。

◎特別な例
 夜間に1000浬以上という報告もあった。戦役後の私の試験では200浬以上の成績も有った。シナの事変で漢口まで出張した時(*6)は、独逸軍艦の妨害電波があり、二、三の我が軍艦を中継して内地と交信した事もあった。

▽20

 明治33年3月に委員になったとき、松代君が海軍大学校構内で、双方3尺くらいのアンテナを立てて一町ほどの距離(約110メートル)で、火花送信と印字受信機で成功していた。
 私は野俣委員付の助力を得て音響受信機を工夫した(*7)。送信は火花式だった。


*1:ふつうは直流80ボルト一台だが、主要戦艦たとえば三笠などは大型三台有り、日本海海戦時にはさらに一台追加して四台になっている(計160キロワット)。また古い軍艦では、60ボルトなど、もっと貧弱な発電機も有った。これを動かす動力には蒸気機関が用いられたが、主要大型艦では推進用とは別に発電用に小型のボイラーを用意していた。これは日清戦争の教訓による改善だったらしい。推進用と同じだと、推進を止めると発電も出来なくなり、きわめて不便だった。陸上無電望楼用は、近くに大型のボイラーは無いのが普通なので、石油エンジンを動力にした。

*2:はじめのうちは軍艦も望楼も発電機直結でうまく行くと考えていたが、それは無理だと分かって、あわてて二次電池の大量購入に走ったらしい。開戦直前に木村駿吉らが京都の島津源藏を訪ねて依頼し、島津は自社工場用を急遽提供した愛国美談には、こうした背景が有ったらしい。
(望楼で発電機直結でうまくいかなかった理由の一つに、容量や整合の問題が有ったと思われる。

*3:供給される直流電力600ワットのうちどれだけが電波に変換されていたかの資料は無いが、効率はきわめて悪かったと考えられる。

*4:ここで木村駿吉が言っている増幅とは、真空管を用いた増幅の事で、電磁継電器を用いた増幅はおこなっていた。

*5:40浬も届かなかったり、100浬以上届いたり、いろいろだった理由には、送受信機の状態も有ったが、アンテナ問題が最大だったと推理する。

*6:明治44年11月1日付の清国出張の辞令が国立公文書館に残されている。清国末期の動乱で日本海軍は軍艦を派遣していたが、それに積まれたマルコーニ社の無電機の故障が多いため、木村駿吉が日露戦役後に開発した四三式無電機に改装するためだったらしい。

*7:炭素粉を利用して、電波を音響に直すものだった。三四式としては印字式と併用して使われたが、三六式では除かれた。感度は良いが、記録が残らないため、戦地での使用は無理だと判断されたため。一方印字式は、テープに記録が残るので、あとで将校が見て推理が容易である。また印字機は明治初期から有線電報に使われていて、国産でも実績が有った。

[続く]
 

Re:「神功皇后」(25)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 4日(月)11時44分52秒
   自分のイデオロギーに合わなければ何でも造作だというのでは、歴史学は成り立ちませんね。史料調査以前の問題です。
 しかしこういう輩が多いですね。ウンザリします。
 

「神功皇后」(25)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 3日(日)13時55分17秒
  4.「神功皇后」摂政47年(368年)
  ここの話は、『日本書記』垂仁天皇2年条に、同じく任那の王に天皇が贈物をしたが、
 途中でこれを新羅の人が奪うというものがある。また、『日本書記』応神天皇14年春2
 月条に、百済王が縫衣工女を天皇に奉ったが、途中で新羅人が邪魔をして加羅国に止ま
 っているとの記事とも類似している。ここのことから、『日本書紀』の編者が常に「新羅」
 を敵対的な国として叙述していることであり<造作>記事だとする(「吉田 晶」-前掲
 書 107頁)。『日本書記』を比較・検討してみるに、ここの記事は、垂仁天皇2年条
 の話を蒸し返したものと考えるべきではなく、新羅との抗争関係のなかで繰り返し起き
 ていることを記したものと考えるべきであろう。垂仁天皇2年条は「新羅」に奪われた
 のは、「倭国」から「任那王」に贈られた「赤絹100匹」であり、それで、「任那」と
 「新羅」の抗争の始まりだとしており、応神天皇14年条は、「百済」の使者が自国の1
 20県の人夫を率いて日本に渡来しようとしたところ「新羅」の妨害に遭って「加羅」
 に留まったとあり、内が異なる。摂政47年も含めて別々の事件と見てよかろう。
  ここで、一言付け加えておきたいことがある。こういう者は常に記事が重複すると<
 造作・捏造>だという。ならば、『三国史記』新羅本紀はどうだろう。これとは比較にな
 らないくらい「倭」に侵略されている。これは『三国史記』の編者による<造作>であ
 ろうか? そんなことはなかろう。『三国史記』の記述から見ても「新羅」と「倭」とは
 不倶戴天の敵であった。それは何も『三国史記』に限らず、「広開土王碑」でも明らかで
 ある。史料の比較・検討を怠り、重複すれば何もかも<造作>などと言うことは現に慎
 まなければならない。
 

オロモルフ号の航宙日誌4734『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 3日(日)12時06分54秒
  ▼運動会2

4.去年の優勝と準優勝のカップ返還。準優勝といっても赤と白の二組しかありません。

5.セレモニーが終わると、全校体操があります。要するにラジオ体操ですね。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4733『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 3日(日)12時05分11秒
  ▼運動会1

 二日土曜日は、孫の運動会で、珍しく朝早く起きて見に行きました。

1.行きがけにお社を拝みました。こういう個人の屋敷内社は、このあたりには沢山あります。そのほとんどがお稲荷さんです。これもそうです。

2.毎年同じようなデザインの入り口ですね。この小学校の運動会も、これで六年目です。月日の経つのが早いのに驚きます。家内は小学校にあがる前から孫の世話に奮闘していました。そろそろ卒業でいいでしょう。

3.全員が集まって、最初のセレモニーです。このセレモニーがけっこう長いです。校長先生の話、PTA会長の話、去年のカップ返還、一年から六年までの代表挨拶・・・。立ってるのも大変でしょう。自分の子供時代の立ったまま聞く校長先生の話を思い出しました。立っているのが苦手だったので、とても辛かったです。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4732『日露戦争と無線電信270』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 3日(日)12時02分18秒
  ▼木村駿吉の資料(53)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[7]

▽17
 調査委員会では最初から最終目的が定められていた。それは、
「調査期間三年以内、80浬が達成できれば卒業」
 ――であった。
 これは重要なことで、これが無いと、到達距離はどこまでも長く、電力は大きく・・・と、技術者の欲は限りなく、いちまでたっても終わらず、大切な時期に実用兵器が出来なかったであろう。

▽18
 外波委員長と共に英国に到着した時はマルコーニ会社は設立されていたが、特許不許可問題や発明買収問題で日本人に好意は持っていないだろうと覚悟して、同社には寄らず、直ちにランヅエンドに行った。英国最西端の岬で密輸入で有名な場所。
 その場所をボルヂユーと言い、荒涼な僻地で断崖の上にホテルが一軒あるだけ。
 そのホテルの前にマルコーニ社の無線電信柱を建設中で、周囲は板で囲われていた。
 ホテルに一泊して翌朝板囲いから覗いていると、守衛に咎められて追い払われた。
 囲いの中には、マルコーニ式無線電信柱と称する、低い柱が列をなして立っていた。
 帰朝してしばらくすると、ボルヂユー~カナダ間無線電信成功という宣伝が有ったが、それがこの柱によるものであっただろう。マルコーニが指向性という事を言い出したが、それはこのアンテナの張り方に基づいたものだろう。(*1)
 マルコーニという人は、はじめは大法螺だと思っていると、倦まず怠らず試みて実現する。
 日本が戦役に使った無電機は畢竟マルコーニの足跡を追ったもので、日露戦役がすむとすぐに私は海軍大臣に上申して、日本政府からマルコーニに相当の挨拶が有ってしかるべきだろうと申し上げた。(*2)

*1:このアンテナ形状の後の改良型は、木村駿吉が絵に描いて海軍に提出しています。下に掲示しました。当時の試みの一つで、その後はあまり使われていないと思います。

*2:この上申のためかどうかは知りませんが、後に昭和8年秋に夫妻で来日(サンフランシスコ経由で秩父丸で太平洋横断し横断中終始無電で日本と連絡、滞在は三日間)したとき、日本政府はマルコーニに勲一等旭日大綬章を贈りました。この時のマルコーニは、すでに59歳でしたが、元気溌剌で、歓迎会では長い演説をしてイタリアを宣伝、芸者さんにお酌してもらったり、明治神宮参拝したり、などしています。日本側は官民一体となって大歓迎しました。歓迎会は11月17日、丸の内の東京會舘で開かれ、南逓信大臣が歓迎の挨拶、学界代表としては長岡半太郎が挨拶しました。日本側は逓信省が中心で、海軍はあまり表には出なかったようです。なおこのころの日本は、すでにマルコーニ会社に「発明を売る」ほどの技術力を持っておりました。

[続く]

↓↓↓↓↓(*1)
 

オロモルフ号の航宙日誌4731『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時56分41秒
編集済
  ▼優勝

 解法者さんの予言どおり、阪神がズッコケてしまったので、ついにドラが優勝してしまいました。
 これで来期も、落合監督が生き残る可能性が高まりました。
 これほど喜べない優勝というのも珍しい。
 来年もまた選手だけで熱田神宮に参拝するんだろうか、それとも、もう選手も神社に背を向けるようになるんだろうか?
 某選手や某コーチの去就には某宗教問題がからんでいるとか、奇妙な噂が流れています。こういう噂は信じないようにしておりますが・・・。

▼尖閣「ならず者船長」の不思議

 宮崎正弘さんのメルマガに、三つの不思議が書かれていました。
(1)憤慨して死んだ筈の母親が出てきた。郷里では公安に囲まれて、メディアには一切出ず。誰との面会も許されていない。
(2)先に帰国した14人の乗組員も、メディアどころか親戚との接触も許されていない。
(3)船長はじつは訓練を受けた旧軍人だという説は、裏付けがとれていない。

(あの国はいつも不思議ですけど)

▼もっとも地球に似た惑星?

(産経より)
 米航空宇宙局(NASA)は29日、太陽系外の惑星としては、これまでに発見された中で最も地球に似た惑星を米カーネギー研究所などのチームが発見したと発表した。
 惑星は、地球からてんびん座の方向に約20光年離れた赤色矮星「Gliese581」の周囲を回り、質量は地球の約3~4倍。
↓↓↓↓↓
http://sankei.jp.msn.com/science/science/100930/scn1009301633011-n1.htm

 私は昔、『光世紀の世界』という大判の近距離星図星表集をつくりましたが、その中にこの星が収録されています。
 私がつけた光世紀番号は1050、代表名はW0LF562です。別名の一つがGL(グリーゼ)5810です。
 地球からの距離は21.3光年と計算しましたが、最近のデータではもう少し近いのかもしれません。
 赤色矮星だし惑星質量も違うので、生命発生の条件は地球とまったく同じとはいえませんが、これまでのいろんな惑星に比べて、地球との類似性は高いですね。
 どのあたりの星か、星図を出しておきます。
(出典は裳華房『光世紀世界の歩き方』で、これは前記の星図星表のサマリーのような本を裳華房から二冊出してもらいまして、その二冊目です)

 ↓↓↓↓↓(クリックすると大きくなる筈です)
 

オロモルフ号の航宙日誌4730『日露戦争と無線電信269』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時42分39秒
  ▼木村駿吉の資料(52)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[6]

▽13
 委員会では明治34年末までに大体所期80浬を得て、翌35年に外波委員長に随行して欧米視察した時には、米国では何でも見せる時代だった。
 しかし行ってみると街路も屋内も照明はガス燈で電気はなく、無線電信も誰も手を付けていなかった。
 質問しても要領得なかった。
 テスラ(*1)の実験所を訪問したが、巨大なコイルに青大将のような火花で、無線電力輸送とか無線電灯照明を目指していて、無線電信のような小さな問題は鼻の先であしらっていた。
 ラングレー(*2)の処へ行ったら、飛行機の話をされ、潜行艇に乗ってみろと水上の暗い穴の中へ案内された。
 山高帽を売りつけられて、これをかぶって歩いたが、それは間抜け帽と悪口言われているものだった。
(いろいろとバカにされたようなことが有ったらしいです)

▽14
 米国から英国に渡るとき(*3)エトリユーリアという大船に乗ったが、大西洋の真ん中でスクリューと舵を振り飛ばしてしまった。無電機は持っておらず、外波中佐は海軍軍人だというので頼りにされ、私は泰然自若として日本人の意気を示したが、要するに運を天に任せた。一ヶ月漂流し、アフリカの東北端に近い島にたどり着き、そこから海底ケーブルで迎えの船を呼び寄せた。

▽15
 アメリカでさえそういう有様で、高周波電流については自分で発見するほかなかった。そもそもアンテナのような一方が切れている電線に電流が流れるという事が飲み込めなかった。英語のサーキット、これを訳して回路は、環状を意味するので、前世紀の遺物である(*4)。
 周波数も波長も、思いよらないことだった。
 高周波電流の誘導作用や同調作用の激しさや、Lで波長が伸びCで波長が縮むことや、変圧器はカップリングが重要であることなど、三浬から数十浬の試験をしながら失敗によって発見したことだった。
 ヘルツの書いた『電波』は必死で読んだが、実際の通信には役立たなかった。テスラの書いた『高周波電流』も、せいぜい数千サイクルの話で、無電の役には立たなかったが、そういう高周波交流発電機を購入して試験したことは有った。金属の表面を流れるということは書かれていた。
 日本海海戦で降伏した軍艦から押収したものの中に独逸テレフンケンの波長計があり、これには脱帽した。
 早速造兵部でも作り、同調効果を示す電流計の代わりに豆電球の光を利用し、目盛の較正は、地上三尺に線を張ってその一端で火花放電させ、その線の四倍を波長として。大地とのCが影響するので、大体の目安だったが、測波器と名づけて艦船に配給した(*5)。

▽16
 明治40年ごろになって独逸で出たツエンネックの『電気振動』という大冊こそ、高周波専門の電気書だった(*6)。
 そのころ独逸から『無線電信及電話』という月刊誌も出たが、幼稚なものだった。
 世の中は火花送信で、鉱石検波器も無かった。

*1:テスラは交流電力を主張して直流を主張するエジソンと対立していた、有名な電気工学者で、当時の無電機の初段はテスラコイルなどと呼ばれる方法で交流を出していました。木村駿吉はテスラに面会した日本人として、非常に珍しいとされます。

*2:アメリカの有名な物理学者。動力のついた無人飛行機を最初に飛ばした人とも言われます。ですから飛行機の自慢話をするのは当然だったでしょう。

*3:明治35年の欧米視察は、アメリカ経由でイギリスやヨーロッパに渡ったようです。これは一般的だったのでしょう。大洋を渡る汽船が動かなくなってしまう話は、当時はよく有りました。駿吉の父親の咸臨丸の時代ほどではありませんが、まだまだ命がけの時代ですね。

*4:線条アンテナのような先端が途切れている電線には、直流はもちろん低い周波数の交流を入れようとしても、電流は流れません。軍艦のマスト程度の長さの線条アンテナに電流を流すためには、メガ(10の6乗)の桁以上でないと無理です。メガ以下の低い周波数では、根元から先端に向かう電流と、先端から戻ってくる電流とが打ち消し合ってしまうからです。

*5:これは、レッヘル線という、地上に長く張った電線の共振現象を利用して、波長の推定をしたのだと思います。高周波の基礎実験に使われるものです。

*6:この本を読んでから、木村駿吉の無線周波数の電気の理解は、急速に進み、現在の知識に近づいたようです。つまり、明治40年代以前の日露戦争の時代には、現在の高校生のレベルにも達していなかったわけです。

[続く]
 

Re:8.10 活断層動く(宝亀三年(772)十月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時39分45秒
   地震とか台風とかの記録がある日本の史書は、地震学などに関しても貴重な資料らしいですね。  

Re:「神功皇后」(24)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時39分0秒
   多数の日本の学者が奇妙な解釈をするのですね。不思議な事だと思います。
(余談ですが、アマゾンで本を検索していたら、例の長浜氏の本で厳しく批判されていた本(名前は忘れましたが、後の方にあったDNAについての本です)が、多くの人に絶賛されていて、高校教師らしい人が生徒にぜひ教えたいと言っていました。道は遠いです)
 

Re:唐突にすみません

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 2日(土)11時37分30秒
   残念なのですが、出版社の事情で、三冊目は出ないだろうと思います。
 元版『光世紀の世界』が古書で入手出来ると良いのですが。
 

奈良時代にこんなことが-一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2010年10月 1日(金)19時40分20秒
  8.光仁天皇の御代(770~781)

8.10 活断層動く(宝亀三年(772)十月)
 十月十日に、大宰府が次のように言上したのじゃ。
「去年の五月十三日に、豊後国速見郡朝見郷で山が崩れて谷を埋め、水が流れなくなりました。十余日を経て、突然谷を埋めていた土砂が決壊しました。このため、人民四十七人が水に沈み、家屋四十三軒が宅地とともに埋没しました」
これに対し、天皇は詔を出して、被害にあった人々の調庸を免除し、食料などを施されたのじゃ。

 このような自然災害によって人民が被害を受けた時は、被害の大きさにしたがって賦役令9に課役の免除が規定されておるのじゃ。また災害によって食糧などが不足するため、戸令45によって天皇から食料等がくだされることになっておる。今回は、この二つが施行されたわけじゃ。それにしても、被害発生から一年半後の対処とはどうしたことじゃろうか。原文は「去年」となっておるが、いささか納得しかねるところじゃ。じゃが、去年の五月にも今年の五月にも地震の被害は記録されておらん。今回の山崩れは、局所的なものだったのじゃろう。

 場所は、現在の別府市朝見付近じゃろう。別府市の南部には朝見断層線と呼ばれる活断層がある。おそらく、この活断層が動いて地滑りが発生したのじゃろう。それによって河道閉塞(天然ダム形成)が起きたわけじゃ。そのダムが決壊して大きな被害が出たのじゃ。第二章25項でも同様な被害が出たのじゃが、これは東海地震の歴史を伝えるものじゃった。今回のものは、地上に延びた活断層の歴史を伝えておるわけじゃ。

 『日本書紀』や『続日本紀』のような歴史書から、人間の足跡を見るだけではなく、人間に無関係な自然の動きを取りだしてみるのも興味深いものがあるのではないかの。
 

「神功皇后」(24)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年10月 1日(金)13時20分55秒
    ところで、「百済」の「卓淳國」への遣使の目的は何だったのであろうか。これについ
 て、「倭国」との通交は第二義的で、「卓淳國」との親和関係の確立が第一義的だったと
 し、その理由として、「欽明天皇」2年(541年)条の百済の第25代「聖明王」の
 言葉で、『昔、「速古王」(第12代「近肖古王」-在位期間 346年~375年)と「
 貴須王」(第13代「近仇首王」-在位期間 375年~384年)の時代に、「安羅」、
 「加羅」、「卓淳」と始めて使節を交換し親交を結んだ』という記事があることを挙げて
 ている(「吉田 晶」-前掲書 100頁)。そして、「百済」の建国は「近仇首王」のと
 に始まり(「百済史料としての七支刀銘文」木村誠〔『人文学報』306号 東京都立大
 学人文学部 2001年〕)、百済の積極的な南下政策の証であるとする(「吉田 晶」-前掲
 書 101頁)。しかし、「卓淳國」は「神功皇后」が「新羅」を攻略したときの拠点で
 あり、「倭」が支配していたのであるから、「倭」の同意なくして親交できるはずもない。
 つまり、「倭」との親交なくして「卓淳國」との親交はないということである。「吉田 晶」
 の考えは採り得ない。「百済」の意図が「卓淳國」にあるのせよ、やはり「倭」との親交
 の確立が第一義的だったのである。『日本書紀』を素直に読めば、これが正しいことは容
 易に理解できよう。
  また、この条に、百済の使者として「久氐」・「弥州流」・「莫古」の名が出てくる。彼
 らは実在の人物に間違いない。「久氐」はこの後、何度も「神功皇后」紀に出てくる。「
 弥州流」も47年条に1回だけ出てくる。おそらく「久氐」を補佐する人物だろう。「莫
 古」は『三国史記』百済13代王「近仇首王」(在位 375年~384年)の即位前紀
 に、百済の将軍として出てくる「莫古解」と同一人物とみてよい。こうしたことからも、
 46年条は事実を伝えるものと考えられる。
 

唐突にすみません

 投稿者:Kow  投稿日:2010年10月 1日(金)12時52分52秒
  はじめまして、20代のSFファンです。石原博士に質問したく投稿致します。
系外惑星グリーゼ581gが発見されたニュースで〈光世紀世界〉シリーズを思い出したのですが、
裳華房から出ている〈光世紀世界〉シリーズの最終巻は今後出る予定はあるのでしょうか?
また、もし出される予定があるのであれば、
最近の系外惑星探索について盛り込まれるかどうかについても知りたいです。
 

オロモルフ号の航宙日誌4729『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 1日(金)10時13分0秒
  ▼中国の尖閣諸島侵略糾弾! 全国国民統一行動

(宮崎正弘メルマガより)
 期日 : 10月2日(土)
 集合場所 : 代々木公園けやき並木(NHKスタジオパーク入口横)
   14時00分 東京集会
   15時10分 隊列準備
   15時30分 出発 けやき並木 〓 「渋谷」駅前 〓 青山通り 〓
                    表参道 〓 「原宿」駅 〓 けやき並木
   16時30分 けやき並木 到着
   17時00分 ハチ公前広場 街頭宣伝活動 (~19時)
http://www.youtube.com/watch?v=mGLfI1Mfjac&feature=watch_response
 (くわしくは上記サイトにあります)

▼日本海海戦の「七段がまえ」とは?

 日本海海戦時に聯合艦隊が準備した作戦は「七段がまえ」と言われ、秋山眞之が中心になって策定したとされています。
 有名な作戦ですが、その内容(第何段がどういうものか、何段と何段が実行されたのか)については、資料によってまちまちです。
 本当はどうだったのでしょうか。
 この作戦に詳しい方、教えてください。

▼「ゼロ時間へ」「復讐の女神」

 クリスティの映画化で比較的良い方だと言うので、見ていました。
 ミス・マープル役の女優さんはこの役に似合いますね。
 前者は原作ではマープルもポアロも出てこないらしいですけど。
 マープルものの日本の翻案(岸惠子)を見たことありますけど、翻案は難しいですね。
 だいぶ前に、別の作家ですが浅丘ルリ子で翻案された「新車の中の女」を見ましたけど、途中でがっかりしました。

▼小学二年生

 一昨日、近くの医院に健康診断結果を聞きに、家内と行きましたが、結果は二人とも去年と同様で、何となくほっとしました。
 で、その行きがけに、小さな女の子が子供用の自転車に乗って、泣きながら「XX小学校はどこか」と聞いてきました。どうやら道に迷って帰れなくなったらしい。
 で、たまたま医院と同じ方角だったので、一緒に行ってあげました。七歳で小学二年生らしい。友達と一緒に走っていて、一人置いていかれてしまったらしい。
 XX小学校の近くまで行って「わかるか」と聞くと「わかる」というので、そこで「気をつけていきなさい」と言って別れましたが、こちらの顔も見ずにどんどん行ってしまいました。
 わたしが家内に「小学二年なら「ありがとう」ぐらい言えるだろうに」と言ったら、家内は「教育のせいだ」との説。
 うちの子供たちの小学二年のころはどうだっただろうか・・・皆無口で社交性はありませんが、たぶん「ありがとう」くらいは言えたと思います。

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4728『日露戦争と無線電信268』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 1日(金)10時09分41秒
  ▼木村駿吉の資料(51)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[5]

▽10
 当時でも無電に使っていたのは、今で言う高周波電流だったが、交流でさえあまり知られていない時代で、電気工学の専門家でも高周波など知らなかった。外国の書物にも書いてなかった。
 チューニング(同調)という言葉は使っていたが、どうやってそれを実現させるかは知らなかった。
 今日のラジオ屋さんの小僧やアマチュア無線をやっている人にも及ばなかった。
 そういう中でなんとか作り上げたのは、いわゆるコケの一念というものだろう。

▽11
 マルコーニは事業家としての野心があって、ロンドンに来て盛んに宣伝していたので、種々の特許を出願して雑誌に出したり、通信の成功を次々に吹聴していたので、明治33年には、彼の発明はだいたい分かっていた。
 また、ケムニッツ市(*1)にマックスコールという会社があって、諸国の学術雑誌に出た発見発明を教育用材として作って英仏独三カ国語の図入りカタログにして無料で配布していた。
 私はこのカタログを見て明治31年か32年にマルコーニ無線電信機というのを二高で買い入れて(*2)、教場で学生に見せた。
 それはコヒーラとデコヒーラと継電器からなり、近くでインダクションコイルの火花を発すると、受信するという原理を説明するものだった(*2)。
 それは電波によるものではなかったが、受信してからの原理は十分に説明できた。
 私はこの機械とインダクションコイルの双方に小さなアンテナを付けて試験していたが、今考えると、火花が直接コヒーラに働いたのかもしれない(*3)。

▽12
 その他の資料では、独ヘルツの書いた『電波』、米テスラの書いた『高周波電流』、英フハヒーの書いた『無線電信史』という本を読んでいた。
『無線電信史』は大部分は電波によらないものだったが、明治31、2年の出版なので、それまでのマルコーニの実験やアンテナの下のトランスの巻き方などが記載されていたように記憶する。
 明治33年に海軍に来た時の知識はそれだけだった。
 教員生活から生きた研究生活に転じた時は、薄暗い陰気な処から明るい晴れ晴れした処へ来たという気分だった(*4)。

*1:最新技術の企業が多くある独逸の市。

*2:どうやらインダクションコイルは別に有ったものを使ったように読み取れます。どのように入手したのかは不明ですが、とても小型で電圧も低いものだったでしょう。

*3:これは、電磁誘導だったかも知れません。

*4:木村駿吉は高校(当時の高校は一流大学に近い教育機関)では、すぐにトラブルを起こしてしまって、憂鬱だったようです。一高では内村鑑三の不敬事件に巻き込まれて非職(休職)になってしまいましたし、二高では学生のストライキ事件に巻き込まれて大変だったようです。すべてに一直線で純真な子供のような性格で、いわゆる世渡下手だったようです。

[続く]
 

Re:今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(3)(4)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 1日(金)10時08分11秒
  >損害を防ぐために役に立つ戦果が得られる目算がなければ、戦争はしません

 じつに呑気な人ですね。
 こういう発言をする人って、天照大御神の教えも知らないし、修身の勉強もしたこと無いのでしょう。
 領土とは我々の先祖の血と汗と涙の結晶であることを全く考えていませんね。

 下世話な話を付け加えれば、尖閣海域の資源についても何も知らないのでしょう。
 戦争をして尖閣を奪う国は、経済的に見ても、大変な利益を自分のものにしますよ。
 領海の問題もあるので、台湾併合の第一歩にもなります。

>これを機会に「自衛隊法」の見直しを考えねばならないが、左翼の巣窟となっている「民主党」、危機意識がまるでない「自民党」が跋扈している状況では前途は暗い。

 昨日でしたか、神奈川県知事が、領土防衛では自衛隊法に重大な欠陥があるので、改正しなければならない――と語っていました。
 分かっている人は分かっていますけど、これまでやってこなかった自民と民主ではなあ・・・。
 

Re:「神功皇后」(22)(23)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年10月 1日(金)10時06分34秒
  >ところで、46年条に、「日本」、「貴国」という表現があることが大きな問題となって
> いる。これが「46年条」を<虚偽>である根拠となっている。

 ものすごく細かな箇所を取り上げて虚偽だと叫ぶのですね。
 46年条というと、日本に朝貢に来る話の始まりですから、虚偽にしたいのでしょうか。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(3)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)13時21分10秒
   中国の領土的野心は、どのようなものにも優先すると思える。しかし、次のように言う者がいる。
 『日米中とも、ここまで経済的に密接な関係を有していて多大な取り引きや技術関係でも相互依存の強い国際関係にある。そんな国どうしが、本気で戦争しかける事態があるとすれば、それは国民経済における自殺行為であり、正気の沙汰じゃありません。旧世紀前半ならいざ知らず、部分的にでも有事になるわけがないと思いますよ。勝っても負けても、戦中戦後の混乱を考えたら、日米台中、いずれも得しない戦争をやる理由がない。領土問題にしても戦争以外の外交手段でいくしかないでしょう。
 経済成長率の拡大に腐心する中国シナが経済的に停滞や退歩をもたらしかねない。日台米への対外戦争行為をするわけがない。尖閣諸島の問題も、それがゆえに戦争に訴えるなどありえない。
 日本はともかくシナも米も「国家の威信イコール経済発展」という考えです。だから、もうけにならない戦争はしないし、損害を防ぐために役に立つ戦果が得られる目算がなければ、戦争はしません
 国際的な市場経済によって、先進国同士の戦争は封じ込められている。その辺を見据えて、カネ勘定こそが、国際関係を支配するという前提を忘れないようにしたいものです。』

 今度の事件はどうだろうか。まだ<戦争>ではないと言うだろう。しかし、国際紛争と置き換えてよい。それもまだ<国際紛争>ではないと言うのかもしれない。領海侵犯に対して狂気とも思える反応を示したこと自体<国際紛争>と言える。そして日本国民の憤激を買うのみならず近隣諸国にも警戒感あるいは恐怖心を与えたことは否定できない。日本との関係で言えば、中国は日本の最大貿易相手国で、輸入も輸出も経済的恩恵を受けている。今度の紛争はそれに水を差し、その経済的損失は計り知れない。
 にもかかわらず、中国が尖閣諸島における領土権を顕著にしたのは経済よりも守るべき国益があると判断したからである。この面では中国の方が遥かに日本より優れていると判断せざるを得ない。経済が政治を凌駕するなどと言うこと自体、国際政治の何物かを理解してない証左であろう。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(4)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)13時18分1秒
   自衛隊に国境警備の任務が与えられてないことも判明した(産経新聞 同上 2面 主張)。
 自衛隊法第3条1項1号には「自衛隊は、我が国周辺の地域における我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態に対応してその確保に資する活動を行うことができる」と規定する。この条文から見たら「自衛隊に国境警備の任務が与えられている」ように考えられるが、<確保に資する活動>の具体的内容が明らかとなってなく(つまり、細則がない)、自衛隊に国境警備の任務が与えられてないとも解釈される。
 自衛隊法のような「国防法」の原則は、自衛隊が何をやってよいかを定めるのではなく、何をやってはいけないかを定めることにあるが、我が国の法制はその逆となっている。これは自衛隊を忌諱する左翼どもが主導した結果である。それが今回の惨状をもたらしたと言えるのである。
 これを機会に「自衛隊法」の見直しを考えねばならないが、左翼の巣窟となっている「民主党」、危機意識がまるでない「自民党」が跋扈している状況では前途は暗い。
 

「神功皇后」(22)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)12時13分8秒
    ところで、46年条に、「日本」、「貴国」という表現があることが大きな問題となって
 いる。これが「46年条」を<虚偽>である根拠となっている。これについて考える。
 ① 「日本」
     「日本」という国号が使われたのは、まず『日本書記』に「日本」とあり、『日本書
  記』は720年に完成されたのであるから、奈良時代の始めには「日本」という国号
  が成立していたのは間違いない。ところで、同じ頃に編纂された『古事記』では「倭」
  (やまと)と表記されており、『日本書記』と『古事記』とでは異なるが、「日本」も
  同じく「やまと」と読まれていた。『日本書記』(巻一 神代 上 〈第六〉)に「大日
  本豊秋津島」と書いて、「おおやまとあきつしま」と読ませている。なお、中国では「
  倭」と呼んでいた。このことは、後漢の「光武帝」の「倭奴国王印」(57年)でわか
  る。
   『唐暦』(「唐」の「代宗」〔在位 762年~779年〕)にも「日本国は倭国の別
  名なり」と記されている。これより古い資料としては、『史記正義』(「唐」の「張守節」
  が736年に撰した書)に「武后、倭国を改めて日本国と為す」との記事がある。2
  004年10月に中国で発見された、遣唐使の「井真成」の墓誌(734年に死亡)
  に「国号日本」とあるから、このことが裏づけられる。
   日本側の記録としては、704年(慶雲元年)に帰国した「粟田真人」の報告に「
  日本国の使い」と記されている(『続日本紀』文武天皇慶雲元年秋7月1日条)。
   日本で正式に「日本」という国号が使われたのは、『大宝令』(738年)のことで、
  そこには「明神御宇日本天皇」(あきつかみとあめのしたしらすやまとのすめらみこ
  と)を詔書に使うとあることから、元号も「日本」としたとされる(『「日本」とは
  何か-国号の意味と歴史』神野志隆光 講談社〔講談社現代新書 1776〕21頁)。
 

「神功皇后」(23)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月30日(木)12時11分50秒
     それでは、正式に「日本」という国号が使われる遥か前の46年条に、「日本」と記
  したのは、どうしてであろうか。それは「倭」と呼ばれていたことに対し、「日の出る
  ところに近い東の国であるという誇りがあり、「倭」がその東の神国であるとし、「日
  の出るところの本国」との意味として使用したものであり、朝鮮側もそれを受入れた
  ものと考えられよう(『中外経緯伝』伴 信友〔『伴信友全集(第3巻)』ぺりかん社 1977
  年復刻-神野志隆光 前掲書 37頁〕)。つまり、この時代から「倭」を「日本」と
  呼ぶ素地があったのである(「『三国史記』『三国遺事』の史料的価値」井上秀雄〔「『ゼ
  ミナ-ル 日本古代史 下』光文社 1980年1月30日 483頁〕)。したがって、『日
  本書記』の撰者が46年条に「日本」と記したことは決して不可解なことではない。
 ② 「貴国」
  これについては「「百済三書」と『日本書記』」の項でも説明するが、ここでの説明を
 補足するために再掲したい。
  これについて、百済人が百済の記録に日本を貴国と書くはずがないとして「津田左右
 吉」はこれを『日本書記』の改竄としている。「池内宏」は百済の記録に「倭」とか「倭
 国」とかあったのを『日本書記』の編者が「貴国」と書き改めたとする(前掲書 36
 頁)。
  「貴国」という用語は『百済記』だけでなく『日本書記』の本文にも使われている。「
 坂本太郎」は、『編者がまず『百済記』の「倭」を「貴国」と改め、ついで本文にも「貴
 国」と書くほど手のこんだ修正を加えるはずがない。また編者のしわざならば、「貴国」
 が神功・応神紀だけで消えてしまうのもおかしい。すべてこれらの修正は『百済記』以
 下の書物の編者のしわざであり、『日本書記』の編者はすなおにそれを取り上げたのに過
 ぎない』という(「継体紀の史料批判」〔『日本古代史の基礎的研究 上 文献編』東京大
 学出版会 1964年5月30日 256頁〕)。そのとおりだと思う。
  これについては、「貴国」という表現は、『百済記』の編者が日本側にこの『百済記』
 を見せることを考慮して、そこに記載されていたと考える。そう考えれば、おかしくは
 ないし、「百済」側としても、謙って(へりくだって)も「日本」との和親関係をむすび
 たかったのである。このことは「神功皇后」紀の一連の記事に明らかであろう。
 

オロモルフ号の航宙日誌4727『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月30日(木)10時47分25秒
  ▼70万円で卒倒

 木村駿吉や松代松之助の思出談を読みますと、ロンドン・エレクトリシアンという雑誌の明治28年から32年くらいの間にマルコーニの実験のことが沢山出ていて、それを読んで勉強したと書いてあります。
 そこで、まずは目次だけでも集めようと、科学技術振興機構に依頼したら、この期間に250冊ほど出ており、目次の複写だけで70万円かかる――という返事が来まして、卒倒してしまいました。
 これは木村松代の話を読むまでは聞いた事のない雑誌でして、学術誌というよりは技術紹介の雑誌のようです。
 国会図書館のインターネットを検索するのも苦手で、知人に教わっていくら試みてもほしい情報は出てきませんし、こういう雑誌の調査も出来ません。
 たぶん、資料性はあるが学術的には新味はないと思いますけど・・・。

▼ヤジ

「売国奴!」「辞めちまえ!」
 大相撲秋場所の千秋楽だった26日夕、菅首相が優勝した横綱白鵬に総理大臣杯を手渡すために東京・両国国技館の土俵に上がると、客席からすさまじいヤジが飛んだ。
(夕刊フジより)

 僕より前、内閣総理大臣賞で菅総理が土俵に上がると、凄まじい野次が飛んだ。
 「売国奴!」「辞めちまえ!」・・・・・・・
(東国原英夫オフィシャルブログより)

▼地図帳

 茶の間での雑談中に地図を見たくなる時があります。テレビの番組を見ている時にも。
 そこで、インターネットで調べて、帝國書院の教科書的な地図を買いました。
 これが良いと思ったわけではなく、似た地図を前に使っていたのと、消去法によります。
 薄い、軽い、判型が大きくない、世界と日本の両方が出ている・・・などの条件で消してゆくと、これが残ったのです。
 この版元は歴史教科書なども出しており、信用しているわけではありませんが・・・。
 買ってみて、だいたい予想どおりでしたが、本を開いた時のノドの部分がとても見にくく、力一杯開いても中央が見えません。
 何度も改版されている地図帳らしいのに、製本については工夫が不足です。

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4726『日露戦争と無線電信267』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月30日(木)10時44分59秒
  ▼木村駿吉の資料(50)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[4]

▽6
 当時の噂話では、マルコーニに売却の内意を訊ねたところ、百万ポンドとか百万円とか恐ろしく高い値段を言われた。
 当時は遼東返還を余儀なくされて日本全体は悔し涙にむせび、伊藤総理が七重の膝を八重に折り樺山海軍大臣が議会で卒倒されても海軍予算は通らず、臥薪嘗胆の標語のもとに官吏は全て月給の十分の一を献納するという実情で、とてもそんな大金を払うわけにはいかなかった。

(この話はよく出てきますが、山本権兵衛海軍大臣は、「本当に必要なら百万円でも買わねばならない」との意見だった――という話があります。その方が真実に近いと思います)

▽7
 海軍が無電の研究を始める前に、こんな話も有った。
 マルコーニが空中線の特許を日本に出願手続きした。
 そのころの日本では、万国工業所有権保護同盟条約に従って、本国に出願してから60日以内に出願しなければ日本特許を与えぬ事になっていた。
 ところが62日めの出願となったので、特許局はそれをはねつけたという話。
 事実はどうか知らぬが、もし空中線の特許が取られたら、手も足も出なかっただろう。

(この件については、くわしい検討をしてここに発表しました。当時はまだ日本は万国工業所有権保護同盟条約には入っておらず、問題は少々ややこしいことは、その時に記しました)

▽8
 無線電信調査委員会は明治33年に出来て、外波中佐が委員長、松代君は二月に嘱託委員、私は三月に二高教授より転任して委員。
 実験助手は逓信省から伊藤敬一と池田武智の二名の技手、海軍造兵廠から一名の技手野俣寛治君が委員付。
 委員会には予算は無く、海軍省の局課から寄進を受け試験材料や試作費用は造兵廠で融通し、逓信省からも電信用の器具を借りた。
 私は海軍教授という名目で給料は海軍大学校の教授給から払われた。
 出張の旅費に困ると、外波委員長が経理部に座り込んで談判した。
 研究所といっても、木造軍艦摂津の物置小屋で大池と小池の間にあった。夜中出入りするたびに何匹かの大蟇を踏み殺した。
 研究所専任の手伝いとしては、勝田という勇み肌の江戸っ子で喧嘩に強い雜工だった。私は数ヶ月間はこの物置に籠城して、毎日雜工が出勤する途中で買ってくるパンを食べていた。

(勝田という雜工の話は、他にはあまり出てきませんので興味深いです。当時ヤブ蚊などもいて刺され、また風邪をひいてしまって薬を酒で飲んでいたなど、逓信省技手の思出談にあります)

▽9
 辛かったのは夜中に銭湯に行く時、黒絽の紋付羽織を着ることで、これは、海軍大学の門には制服の守衛がいて敬礼されるので、浴衣の着流しというわけにはいかなかったからだ。

(珍妙な姿だったと思います。なおこの数ヶ月は仙台から東京に来たばかりで、まだ家族の東京での住居も決まっておらず、単身赴任だったのだと思います)

[続く]
 

Re:今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(1)(2)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月30日(木)10時42分9秒
  >「朝貢外交」を行ってきたのはなにも民主党に限らないのである。この度の問題について、自民党が民主党を糾弾する姿はコッケイでしかない。

 まったくその通りだと思います。
 安倍晋三の情けなさには涙が出ます。しかも本人は今でも国士気取りです。
 ところで、昭和40年代の国会での議論を保存しておいた筈なんですが、読み直そうと思って探しても出てきません。記憶力が大幅に減退しております。最近では自分の名前も忘れそうです。
 国会の議事録は戦後のものが全てインターネットで公開されていますが、検索して見つけるのがとても大変です。キーワードだけでは無理ですから。
 

Re:「神功皇后」(21)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月30日(木)10時41分9秒
  >さすがにここは<創作>であるという者を見出せなかった。『三国史記』に2度にわた
>り、『三国遺事』にも同じような記事があり、合致する記事が存在するからであろう

 なるほど、あちらの史書と一致すると、創作説は引っ込めるのですね。つまり、日本の古い史書よりも、あちらのずっと新しい史書の方を重んじるという・・・。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月29日(水)20時40分57秒
   今回の領海侵犯漁船の船長の釈放について、その原因を作ったのは「民主党」のみならず、かつての政権党「自民党」にもあったことである。このことを如実に示しているのが、先の谷垣自民党総裁の「逮捕後、直ちに釈放すればよかった」の発言である。この発言は単なる谷垣の独走ではなく、自民党に脈々と流れている<媚中派>を承継したものに他ならない。河野洋平元自民党総裁、加藤紘一自民党元幹事長の言動を見ればよく理解できる。
こうしたことの淵源は、田中角栄の日中国交回復にあったが、それはアメリカの示唆によるが、それまで親交を重ねてきた台湾を見捨てることだった。しかし、よしんばそれが政治的情勢から許されたにしても、いくらでもそれまでの人脈を生かし、水平面下で台湾とつながることは可能だったが、それを捨て去り、中国に傾斜していったのである。
 森 喜朗元首相・安部晋三元首相らの歴代自民党首相も靖国神社の参拝を断念してまで、中国との友好を果たそうとしたが、このことが日本の首を絞めたことを忘れてはならない。「朝貢外交」を行ってきたのはなにも民主党に限らないのである。この度の問題について、自民党が民主党を糾弾する姿はコッケイでしかない。
 

「神功皇后」(21)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月29日(水)13時07分7秒
  2.「神功皇后」摂政5年(333年)
  さすがにここは<創作>であるという者を見出せなかった。『三国史記』に2度にわた
 り、『三国遺事』にも同じような記事があり、合致する記事が存在するからであろう(
 『日本書記朝鮮関係記事考證』上巻 三品彰英 天山舎 2002年12月19日 77頁)。
3.「神功皇后」摂政46年(366年)
  この時代は、百済第12代「近肖古王」〔在位347年~375年〕の時代で、『三国
  史記』にも、初めて「国史」を編纂したとの記事がある。したがって、朝鮮人研究者
  もこの時代からの記事は正確性があると認めざるを得ない(『任那と日本(日本の歴史
  別巻 1 小学館 1977年10月1日 167頁』)。そして、『日本書記』もこの「国
  史」を参考に記述されたと考えている(同頁)。したがって、この記事には反論がない。
  特に本条には「甲子年7月」とあり、それはここの記事が朝鮮側の史料を引いてのも
  のと考えられるからである。
   朝鮮人研究者が本条の記事を認めるのは、「神功皇后」が「卓淳国」に遣使したとい
  うだけで<平定>したなどという記録がないから認めているだけだと考えている。

   ここで、この時代の朝鮮の「百済」の王統を『三国史記』と『日本書記』で見てみ
  たい。
〈1〉『三国史記』

   13代       14代     15代      17代     18代
   近肖古王    近仇首王       枕流王     阿辛王     腆支王

                           16代
                           辰斯王


               19代       20代      21代
        久爾辛王     昆有王     蓋鹵王

〈2〉『日本書記』

   13代     14代     15代      17代     18代
   肖古王      貴須王     枕流王     阿辛王    腆支王
  (近肖古王) (近仇首王)
                                    16代
                                    辰斯王


               19代       20代      21代
        久爾辛王     昆有王     蓋鹵王

     ここでは、第20代「昆有王」と第21代「蓋鹵王」の系譜が明確ではない。
   なお、「蓋鹵王」も含めてそれ以降の王統については、『日本書記』と『三国史記』
  では大きく異なっている。それについては「任那日本府」の項を参照されたい。
 ※ 第7代「沙伴王」(第6代「仇首王」の子-在位期間不明)が即位したが(『三国史
  記』第7代「古爾王」)、そこには「幼いために政事を執ることができなかったので、
  (第5代)「肖古王」の母の弟である「古爾」が即位したとあり、「沙伴王」の事績に
  ついては全く記されておらず、その後のことも不明であって本当に即位していたかど
  うかについて疑問がある。したがって、王統については第7代「沙伴王」を省いて記
  すことにする。

★ 罫線が消えてしまっているので、補足する。
 1.『三国史記』
  ① 15代「枕流王」と16代「辰斯王」は兄弟となっている。
  ② 13代→15代は父子承継、16代は枕流王の子である。
  ③ 18代→21代も父子承継となっている。
 2.『日本書紀』
  ① 15代「枕流王」と16代「辰斯王」は兄弟となっている-『三国史記』と同じ。
  ② 13代→15代は父子承継、16代は枕流王の子である-『三国史記』と同じ。
  ③ 18代→20代も父子承継となっている-『三国史記』と同じ。
  ④ 21代は系譜が不明である。つまり、20代との関係は不明となっている。
         ▲ ここが大きく違っている。
 

今回の中国漁船の領海侵犯でわかったこと(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月29日(水)12時35分58秒
   今回の中国漁船の領海侵犯で明々白々となったことは、「日米安保」への懐疑である。
 日米安保条約の第5条に「各締結国は、日本国の施設の下にある領域における、いずれか一方に対する攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言する」とある。ここにいう「領域」に尖閣諸島が含まれるかであるが、ブッシュ政権のときには含まれるとされていた。しかし、アバマ政権になって、クリントン国務長官の発言のように「含まれるが侵略されてもアメリカが直ちに武力行使することは規定されてない」としている(産経新聞 平成22年〔2010年〕9月29日(水)朝刊 東京第12版 7面
正論〔西尾幹ニ〕)。これがブッシュ政権とは違った対応であるかどうかは定かではないが、政権により解釈が異なるようでは信頼に欠ける。それはともかく、これでは何のために「日米安保条約」を締結したのか意味がない。産経新聞を中心とする保守派論客が「日米安保条約」堅持を唱えるが、事実すら見ておらずむなしい。懐疑を抱かないのは、もはや信仰に近い。保守派という看板を下ろしたらよかろう。
 尖閣諸島への対応について、アメリカに依存するのは属国意識も甚だしく、やはり日本独自で行わなければならないということが明確になっただけでも今回の事件は大きな意味があったと考えられる。
 

オロモルフ号の航宙日誌4725『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月29日(水)11時31分15秒
  ▼感覚のずれ

 テレビを見ていますと、いまだに、感覚のずれがあり、相互譲歩という日本人的感覚が北京政府にも通じると錯覚している日本人が多いですね。

(宮崎正弘さんが解説していましたが、それを少しアレンジすると下記のようになります)

 こちらが一歩譲歩すれば、相手もそうするだろうという日本人の感覚は、国際社会では通用しない。とくに対北京では絶対に通じない。
 こちらが一歩下がれば、相手は二歩攻め寄ってくる。これが北京の常識。
 民主党の連中は、日本人どうしの喧嘩だと錯覚しているのでは?

(しかしこんな事は戦前に日本人が散々経験してきました。タウンゼントが言っています。↓)

◎本文の一部24『軍艦を盾に賠償金を取った田村総領事』
(以下大意)
 昭和七年の上海事変の直前のこと。
 福州でも収奪目的の学生秘密結社がたくさんあり、ある日本人教師夫妻が脅されていた。
 そこで日本の田村総領事は、福州当局や警察に警備を依頼した。
 中国人の顔を立てたのである。
 ところが、警備にあたった中国兵は、ある日とつぜん姿を消し、日本人夫婦はたちまち殺されてしまった。
 グルになっていたとしか思えない。
 田村総領事は「これは重大な過失である。遺族に五万ドルの賠償金を払うべきだ」とした。
 ところが中国当局は言を左右してまともな返事をしない。
 そこで田村総領事は、日本海軍に打電して軍艦を向けてくれと頼み、それを中国側に話した。
 そうしたら急に五万ドルを持ってきた。
 ・・・・・
 日本海軍は実際に来た。
 中国人には田村式が一番である。
 それ以後、福州では日本人殺害や反日行動がピタリと止んだ。
 日本人は最高の扱いを受けるようになった。

(これは昭和8年に出版されたアメリカ人外交官タウンゼントの本を抜萃した一節です。下記をどうぞお読みください。)

■■■ タウンゼント『暗黒大陸中国の真実』抜萃(オロモルフ)■■■
↓↓↓↓↓
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/ankoku_tairiku.htm

(ところで、タウンゼントの本の訳はいくつか出ていますが、木村駿吉が紹介した中の一冊は未訳のようです。誰か訳してくれないでしょうか。タウンゼントの本は、日本の常識が世界の常識だと錯覚し歴史に学ぼうとしない日本人への警鐘に満ちています。もちろんタウンゼントがどこまで正しいかについては、いろんな意見があると思いますが)

▼ケーブルテレビと光ファイバ

 ケーブルテレビとNTTの光と、どれもテレビ、インターネット、電話と何でも出来ますという触れ込みですけど、具体的にどうなるかは、複雑で分かりません。
 高千穂さんのところでは、衛星放送は別にしておられるとか・・・まあ、ゆっくり考えようと思います。一度係員に話は聞こうとは思いますけど。

▼ああ、阪神

 昨日は巨人に負けてしまったらしい。
 これでドラは受け身の優勝の可能性が高まりました。
 なんだか消化不良の気持ちです。

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4724『日露戦争と無線電信266』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月29日(水)11時28分0秒
  ▼木村駿吉の資料(49)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[3]

▽3
 本文の最初に、前書き部分が三節あるので、その全文を記す。
「日露戦役の後三十年、当時お役に立った海軍初期の無線電信に付て、自己批判を加へながら順序に拘らず回顧して見よう。
 何分にも三十五年乃至四十年から前の事実を記憶に辿ることであるから、年月其他は多少朦朧とした点がないでもないが、重要の記事には誤謬のない積りである。外波、松代の両君が夫れ夫れ関係された部分を読まれて、意見訂正を寄せられたことは、本談に千鈞の重みを加へたるものとして感謝に堪へぬ。
 数年間苦楽を共にしたる三人が今尚生存して居るのはお目出度い話、敬老の順序で書くと外波君は七十三歳私は七十歳松代君は六十九歳でその様な老人達が相揃つて日露戦役三十年の祝典を迎へ得たるは何たる幸福ぞ。」

▽4
 明治三十一年を中心にしてその前後五、六年間に、基本発明が密集して現れた。
 マルコーニの無線電信、レントゲンがエックス光線、ニコラ・テスラが交流電気、ホルランドが潜行艇、ライト兄弟が飛行機。それらが今は働き盛りの活動をしている。

▽5
 明治三十年ごろ松代松之助が無電の試験を開始。それを見学した外波内藏吉が、時の海軍大臣山本権兵衛に調査研究を建言し、大臣はこれを入れて明治三十三年に海軍無線電信調査委員会が設けられた。日露戦争が避けられない運命だと感じられたためでもあろう。

[続く]
 

Re:8.9 王(おおきみ)が内親王を姦す(宝亀三年(772)十月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月29日(水)11時25分45秒
  『日本書紀』もそうですが、六国史には、皇室にとって不名誉な記述も多数ありますね。もし創作を重ねたのなら、もっと皇族方の美談を増やして、不名誉な話は除く筈だと思います。
 したがって創作説は信憑性がありませんね。
 

奈良時代にこんなことが-一言主大神は語る

 投稿者:ハチマキおじさん  投稿日:2010年 9月28日(火)20時10分51秒
  8.光仁天皇の御代(770~781)

8.9 王(おおきみ)が内親王を姦す(宝亀三年(772)十月)
 十月五日に、こんな記事が記されておる。
「中務大輔で従五位上、少納言で信濃守を兼務する菅生王(すごうのおおきみ)が、小家内親王(おやけのひめみこ)を姦した罪で除名になった。内親王は皇族の籍から削られた」
除名になると、名例律21の規定により、官位・勲位をことごとく剥奪されるのじゃ。除名の対象は、名例律18で定められており、八逆、殺意による殺人、反逆縁坐、および監守する所において姦し、盗し、人を略し、収賄により法を枉(ま)げるなどの行為じゃ。

 ところで、小家内親王とはどのような人物なのか、よく分からんのじゃ。小家内親王の記録はこの記事以外にない。小家は小宅とも書かれる。小宅内親王は、孝謙天皇の皇女であると書かれた書物もあるが、孝謙天皇は独身の女帝じゃから皇女がおるはずがない。舎人親王の子である三原王の娘に小宅女王がおり、この人の可能性がある。もしそうなら、内親王と書かれるのは誤りなのじゃ。そして小家内親王がその後どうなったかも分からん。

 菅生王の系譜も未詳じゃ。菅生王の所属した中務省は、天皇の側近くに仕え詔勅などを扱い女官の叙位などにも関わる。したがって、その除名は「監守する所において姦」に該当したのかもしれん。強姦の場合は女子は罰せられんが、和姦の場合は男子と同罪じゃった。この姦通事件では、小家内親王は皇籍から外されておるから、和姦だったと考えられるのじゃ。そのためかどうか分からんが、菅生王は半年ほど後の宝亀四年(773)四月に本位の従五位上に復しておるのじゃ。そして宝亀九年(778)一月に正五位下となり、二月に大膳大輔になっておる。その後の記録は『続日本紀』にはない。

 このような記事が『続日本紀』にあるということは、当時大きな話題になったからじゃろう。何時の時代でも、この種の事件は人々の関心を呼ぶものなのじゃろう。
 

ケーブルテレビ。

 投稿者:高千穂遙  投稿日:2010年 9月28日(火)15時08分47秒
  J:COMですから、うちと同じですね。テレビは1台だけですか?

テレビが地デジ対応なら、基本的に何もする必要はありません。工事してもらって、アンテナ線にテレビをつなぐと、そのまま地デジチャンネルが映ります。

ただし、衛星放送となると、事情は違ってきます。これはセットボックスというケーブルテレビ専用チューナー経由で見ないといけなくなります。わたしはこれがいやなので、衛星放送用のパラボラアンテナをべつに立てています。雨に影響されにくい60cmのパラボラです。

料金的には、はっきり高価と言っていいと思います。CNNとか、ディスカバリーチャンネルとか、ぜんぜん見ませんからねえ。番組に興味はあるのですが、時間がありません。
 

オロモルフ号の航宙日誌4723『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月28日(火)10時54分38秒
  ▼蘭姫の世話

 少し涼しくなってきて、蘭姫用の犬小屋の冷房も頻度が減り、だいぶ楽になりました。
 これまでは一日に二度アイスノンのクッション(一回二つで計四つ)を換え、氷にしたペットボトルを二度換え、アイスノンの上に載せる座布団も二回交換し、交換するたびに吸収シートを取り替える――という作業が、水や食事や散歩の他に有りまして、さらにお薬を一日に四種類も飲ませたりと、四六時中犬の顔を見ているような毎日でした。
 むろん犬小屋や柵の中の掃除もあります。
 そんな事を慌ただしくやって、犬の柵に入ったり出たりしているうちに、なんだか自分は本当は犬なのではないか――という気がしてきました。
 夜眠くなると、思わず犬小屋に入りそうになります。
 家内との会話もだんだんと短くなって犬語に近づきつつあります。
 人間の言葉って何だっけ?
 ワン

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4722『日露戦争と無線電信265』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月28日(火)10時52分8秒
  ▼木村駿吉の資料(48)

(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)[2]

▽1
 冒頭に、海軍教育局のコメントがありますが、これは他の雑誌掲載の諸資料には無いもので、このことから、本資料が海軍教育局によって出された最初の印刷物(たぶん謄写)の復刻であることがわかります。

「本書は日本海軍無線電信創始者の一員たる元海軍技師木村駿吉氏が、日露戦役三十周年記念として記述せられたるものにして、当時世界第一の無線電信を完成して海戦に寄与せし所多大なりしと其の研究の苦心とを窺ふに足り、後進憤起の好資料たるべきを思ひ請て之を一般に薦むることゝせり。
  昭和十年九月
                        海 軍 省 教 育 局    」

▽2
 上に続いて、復刻した日本無線のコメントがあります。

「戦火の中に良く残存した本書の写しを入手一読致しました処、技術者の精進が良く戦機先制の機会を作り日露戦役大捷に貢献せるを知り感激深きものを覚ゆるのであります。
また筆者木村駿吉氏は日本無線株式会社創立者の一員でもあり茲に再梓の上御参考に供する次第であります。
  昭和四十年十月一日
                     日 本 無 線 株 式 会 社
                        (創立五十周年記念)     」

(同一内容の雑誌掲載は多く有りますが、海軍教育局のコメントのついた本資料を日本無線が復刻してくれたことは、ビブリオの面からは、じつに有り難いです)

[続く]
 

Re:ケーブルテレビ。

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月28日(火)10時51分25秒
   高千穂さん、いつも気にしてもらってありがとうございます。
 じつは最近家の近所で電柱の工事があり、どうやらそれがケーブルテレビのケーブルだったらしく、係の人がパンフレットを置いていったのです。
 うちの市にもついにケーブルテレビが出来たという宣伝です。
 マイクロ波のアンテナは雨にやられますし、UHFアンテナは風が吹くとすぐ変になり、その都度業者に直してもらうのではとても不経済なので、ケーブルに興味はあります。いま困っているわけではありませんが。

 もっとも私は、ケーブルテレビよりも、都市ガスがほしいです。このあたりはプロパンガスのボンベで、とても値段が高く、不便でなりませんので。
 

ケーブルテレビ。

 投稿者:高千穂遙  投稿日:2010年 9月27日(月)15時21分52秒
  >パンフレットを見ましたが、何のことやらさっぱり分かりません。

なぜ、パンフレットを読まれたのです? ケーブルテレビにする必要があったのでしょうか? そこから教えてください。

うちはケーブルテレビですが、CS放送を見る必要があったので、そうしています。そうでなければ、自前のアンテナで見るのがいちばんです。
 

中国漁船の船長釈放に関する雑感(1)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)12時39分54秒
   先に、>自民党 非難はしたが、政権党だったら、釈放を拒絶できたか大いに疑問である。谷垣総裁などはガチガチの迎中派である<と評したが、そのとおりになってしまった。彼は「領海侵犯の中国漁船船長を直ちに海外退去させればよかった」と24日の京都市での講演で発言したという(産経新聞〔平成22年「2010年」9月27日[月] 朝刊 東京15版 5面〕)。自民党の総裁がそのとおりだから政治家が国益などは守れるはずもない。
 仮に穏便な措置を取るなら、逮捕→船長の自白を得る→簡易裁判所に略式起訴→釈放、ということが最善だったが、民主党に中国側と掛け合って知恵をつける者がいなかった。最初から外務省が蚊帳の外に置かれていたらしいから、それが原因とも思えるが、政治主導を標榜する民主党政権だから理由にはならない。小沢など媚中派がたくさんいたはずなのに、どうしたことだろう。元々人脈などなかったのか、それとも知恵そのものがなかったのか、だろう。
 

中国漁船の船長釈放に関する雑感(2)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月27日(月)12時39分7秒
   これで国民の間に国防意識が高まれば良いのだが、そうは思えない。
国民の間に海を隔てた向こうに野蛮な国がいるという認識は高まったと思う。しかし、それが国防意識まで高まったかというと疑問が残る。長年の平和ボケで、今回の事件を機にそれから抜け出るのは難しいと思える。それをいくらかでも打破するためには、ネットなどで中国・日本政府を叩き続けるしかなかろう。
 起訴すれば、中国の反発は高まり、経済制裁などが一段と強化されたと思う。中国一辺倒の経済界に痛烈な打撃を与えるためには、それが最善だった。国益は経済界への中国依存への警告が一番だったと考える。それに中国の狂気が増幅されることによる日本国民の国防意識の高揚が実現されたとも考える。国防意識というなら起訴が最善だったのではなかろうか。
 いずれにせよ、日本は絶好の機会を失ったと言える。
 

オロモルフ号の航宙日誌4721『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月27日(月)11時41分33秒
  ▼靖国神社参拝

 保守政党や経済界に、靖国神社参拝をやめれば中国との関係はうまくゆく――という思いこみが有ったが、それが間違いであることが、今回の事件で証明された。

 以上のような意味の記事を読みました。
 それは当然で、何を今更と思いますが、そもそも靖国神社と外国の意見とを関連づけること自体が、亡国の発想です。
 靖国神社参拝は外国の意見とは何の関係もありません。
 外国と関係するのは、「英霊に敬意を表するために参拝したいので案内してくれ」――と外国人から言われた時だけでしょう。

▼インターネット検索

 アメリカの検索企業が、これまでの質問を調べて、インターネット検索では回答が得られない下記の10の質問を発表。

1. 人生の意味は何ですか?
2. 神様は存在しますか?
3. 金髪女性はそうでない人に比べて楽しく暮らしていますか?
4. 最高のダイエット方法は何ですか?
5. 誰か向こうにいますか?
6. 世界でもっとも有名な人は誰ですか?
7. 愛とは何ですか?
8. 幸せになる秘訣は?
9. アメリカノ人気ドラマの主人公トニー・ソプラノは死にましたか?
10. 私は長生きできますか?

 こういう高尚な質問ではなく、もっと現実的な技術関連で、答えが出て来なかったり間違った答えが出てくる質問が無数にあるなあ・・・。

▼きわどい!

 セリーグもパリーグも大変な試合が続いていますね。
 じつにきわどい優勝争いです。
 ドラゴンズは、・・・・・

▼ケーブルテレビ

 のパンフレットを見ましたが、何のことやらさっぱり分かりません。
 意味不明な日本語の羅列です。
 係の人に訊いても、果たして分かるかどうか・・・?

 NTTの光ケーブルについては、多少は分かったのですが、やはり月々の値段が高くなるらしい。

▼不思議な本

 ↓↓↓↓↓
 

オロモルフ号の航宙日誌4720『日露戦争と無線電信264』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月27日(月)11時39分0秒
  (夏ばてなので、少しずつにします)

▼木村駿吉の資料(47)

◎次に、木村駿吉の思出談としてはもっとも長くかつ有名な資料を取り上げます。
 同じ内容で以下のような掲載種類があります。

(5)「日本海軍初期無線電信思出談」(執筆終了年月日)各種雑誌/昭和10年/原稿(後各種雑誌に掲載)
(6)「日本海軍初期無線電信思出談」(手書謄写)海軍省教育局/昭和10年/印刷物
(7)「日本海軍初期無線電信思出談」有終/昭和10年/雑誌記事
(8)「日本海軍初期無線電信思出談(承前)」有終/昭和10年/雑誌記事
(9)「日本海軍初期無線電信思出談(一)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(10)「日本海軍初期無線電信思出談(二)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(11)「日本海軍初期無線電信思出談(三)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(12)「日本海軍初期無線電信思出談(四)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(13)「日本海軍初期無線電信思出談(五)」ラヂオの日本/昭和13年/雑誌記事
(14)「日本海軍初期無線電信思出談」科学史研究/昭和20年/雑誌記事
(15)「日本海軍初期無線電信思出談」(復刻)日本無線(株)/昭和40年/日本無線社内出版(防衛省研究所にも収蔵)
(16)「日本海軍初期無線電信思出談抄録」幕末・明治初期数学者群像/平成3年/著書

(5)は原稿そのものが御遺族の元に保管されているとのことです。
 (6)以降はすべて入手していますが、ここでは(15)を見ながら記します。これは最初の海軍教育局の(6)の復刻と思われ、防衛研にも収蔵されています。
 なお、一般的には、コピーの取りやすい(14)が使われることが多いようです。
 これまでの資料との重複が多いのですが、省略せずにサマリーを記します。
 ▽#は仮番号で、主として改行ごとに番号をつけます。

[続く]
 

Re:「神功皇后」(20)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月27日(月)11時37分29秒
  >「倭」(日本)はその遥か前から「朝鮮半島」の南部に拠点を有し、数多くの人たちが居住していたのである。ところが、それを「新羅」が排除しようとしたから「神功皇后」が「三韓征伐」をしてその権益を守ったのである。

 ここのところは、資料を読めば読むほど、その通りだろうと思えてきます。
 『魏志倭人伝』とも照応しますし・・・。
 

「神功皇后」(20)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月26日(日)14時17分50秒
   次に、「直木孝次郎」の見解について述べる。
① 同じ記事があるからといって、これが同一の事実であると決め付けるのは根拠がない。
② 「直木孝次郎」も述べているように(前掲書 81頁)、「香椎宮」のことは中央政府の
 人々の記憶には残されていたが、『日本書記』や『続日本紀』に記録されないことも十分
 に考えられる。
 「池内 宏」の見解について述べたいが、これは③を除けば「津田左右吉」のものと大差
 ないので、省略する。③については後述する。
 最後に、「水野 祐」の見解について述べたい。
  「神功皇后」が「斉明天皇」の化体であるならば、どうして「神功皇后」を天皇にし
 なかったのであろうか。また、「斉明天皇」は筑紫の朝倉宮で急死しているが、神功皇后
 伝説で亡くなったのは「仲哀天皇」で男帝であり、相違がある(『ヤマト王権の謎をと
 く』塚口義信 学生社 1993年9月25日 53頁)。

  何よりも前述のとおり、『記紀』のみならず、その他の史料にも「神功皇后」の「三韓
 征伐」に関する伝承が記されている。『日本書記』の編者が「神功皇后」の史実を<造作
 >したなどということが有り得るだろうか。当時、「神功皇后」の「三韓征伐」は疑いの
 ないものとして信じられて来たのである。特に注目すべきは、前述の『常陸国風土記』
 行方郡条の「息長足日売の皇后(おきながたらしひめ-神功皇后)のとき、この地に「古
 都比古」(こつひこ)という人がいた。三度韓の国に遣わされた」という伝承である。こ
 のような都から遠く離れた地にまで、「神功皇后」の「三韓征伐」の伝承が存在していた
 のである。現在「風土記」はほとんど失われているが、他の地域にも同じような伝承が
 あったと思える。したがって、これらの者の見解は採用できない。

  それでは「神功皇后」はどうして「三韓征伐」を行ったのであろうか。「神功皇后」が
 「三韓征伐」をして、初めて「朝鮮半島」に拠点を持ったとは考えてはいけない。>倭
 はどこにあったのか< で詳しく説明したが、「倭」(日本)はその遥か前から「朝鮮半
 島」の南部に拠点を有し、数多くの人たちが居住していたのである。ところが、それを
 「新羅」が排除しようとしたから「神功皇后」が「三韓征伐」をしてその権益を守った
 のである(『倭の五王の謎』安本美典 講談社〔講談社現代新書 637〕1981年12月
 20日 213頁)。
 

オロモルフ号の航宙日誌4719『世相家事雑感』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月26日(日)10時00分9秒
  ▼社説

 私は各新聞の社説って滅多に読まないのですが、昨日は尖閣問題が有ったので、一通り読んでみました。
 案の定、どの新聞も本質論には入っていませんね。
 ほとんどは外交の立て直しとか言ってます。
 外交とは武力を背景にした我慢比べであるという歴史の経験則がまるで生きていない社説ばかりでした。

▼無責任なピエロ

【中国人船長釈放】「私なら温家宝首相と腹割って話し合えた」鳩山氏が首相を批判
 鳩山由紀夫前首相は25日、沖縄・尖閣諸島(中国名・釣魚島)沖で中国漁船衝突事件に対する政府対応について「私だったら事件直後に、この問題をどうすべきか中国の温家宝首相と腹を割って話し合えた」と述べ、政府の対応を批判した。

▼ドラ

 いよいよ、大変なことになってきました!

▼日本国辱史(元寇から大正時代までの国辱の歴史)
(どなたか、こういう本の戦後版を書いてくれないでしょうか。その中には当然、平成二十二年九月二十四日が入ります)

 ↓↓↓↓↓
 

Re:中国漁船の船長釈放に思う(1)・・・(8)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月26日(日)09時57分45秒
  >中国に依存する経済界こそ非難されるべきであって、経済よりも守らなければならない<国益>というものがある。

>首相→官房長官→法務大臣→検事総長と早期に決着を付けたいという政府からの強要があったからである。

>公開することにより、事実を隠蔽できなくなって、国民の怒りが沸騰することを恐れたのである。しかし、馬鹿だね! まったく国際政治というものを知らない。こういう馬鹿に外交を任せているから、いつまで経っても日本は国際社会に打って出れないのだ。

>その遠因は自民党にあり、靖国神社を参拝しなければ日中関係は確固たるものになるという思想にはまってしまったからである。これを推進したのが経済界であるのはつとに知られる事実である。

>「たちあがれ日本」に期待したが、「与謝野 馨」共同代表は・・・・・【立ち枯れ日本】と揶揄されているのも<むべなるかな>である。

>日本にいる中国人は中国共産党の支配下にある。日本にいること自体が日本の<国益>に反する。・・・・・そもそも中国からの観光客 歓迎すべき存在なのか。

>アメリカの考えているのは、あくまでアメリカの国益。これに頼っていては国防すらできない。尖閣諸島は日本独自で守らなければならない問題なのである。

>民主党は領土を守る意識など微塵もない。いち早く潰さないと、日本が崩壊する!

 解法者さん、八回にわたるご意見、ありがとうございます。
 大いに賛成です。
 私らには内情は分かりませんが、とにかく中国の見え透いた圧力に日本政府が屈服して、近隣国から嘲笑されている事だけは分かります。
 当然ながら経済界も情けないです。
 そもそも多くの企業が中国に進出するなどという事がおかしいです。
 私もこの掲示板で、ずいぶん前から、この事を主張してきましたけど、営業者たちは「儲かるらしい」という魔法の言葉に洗脳されているのですね。
 その経済界が、ちょっと圧力をかけられると、たちまち萎縮して事勿れを要望するという腰抜けぶりです。
 観光や買い物旅行など来なくて結構ですよ。中国にある工場など追放してくれて結構ですよ。
 要するにこれは、先祖の血と汗の結晶である領土を外国に売り、自国の法律を無視して自分個人の利益をあげようという、卑劣な売国行為です。
 

オロモルフ号の航宙日誌4718『日露戦争と無線電信263』

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月26日(日)09時55分16秒
  (夏ばてなので、少しずつにします)

▼木村駿吉の資料(46)

(4)「日露戰爭當時の海軍無線電信の懐想」日本無線(雑誌)/昭和10年/雑誌記事[6]

▽13
 これは技術者を使う上での卓見で、日露戦役に無電機が有効だったのは、この命令が真因であろう。
 80浬というのは、当時の軍艦の速力少なかったからだろうが、実際の戦役には、100浬以上も使用したし、夜間には1000浬以上に達したこともある(*1)。

▽14
 当時のマストは60尺くらいでアンテナも60尺くらい(*2)。
 発電機は直流80ボルトの小さなもので、直接使うと腰砕けになって速力は衰え送信は中止する。
 そこで、60ボルト10アンペアの二次電池に充電して、600ワットの小電力で送信した。
 600ワットの電力と能率悪い火花送信機と増幅できない印字受信機とで、確実に80浬の通信をし、日夜続けて休み無く通信できた。
 これは、幼稚な無電機の最高機能を発揮したものではあるまいか。

*1:夜間の遠方到達が電離層反射によることは、この時代にはすでに分かっていた事。

*2:戦艦や一等巡洋艦のマストはもっと高かったと思います。これはたぶん駆逐艦や民間船も含めた平均的な高さでしょう。

[この文献完]
 

Re:8.8 災害による被害調査(宝亀三年(772)九月)

 投稿者:オロモルフ  投稿日:2010年 9月26日(日)09時53分54秒
   淳仁天皇と光仁天皇って、穏やかで善政を心がけた御方だったようですね。
 善政と勢力拡大とはなかなか結びつきませんね。残念ですけど。
 

中国漁船の船長釈放に思う(7)

 投稿者:解法者  投稿日:2010年 9月25日(土)23時12分9秒
   それはそうと、今後どうなるのであろうか。まず、南シナ海で中国漁船が武装監視船に守られて操業しているという事実に注目しなければならない。今回の中国漁船の領海侵犯は偶発的なものではなく、意図的で、中国政府の支持の下になされた計画的なものと考えなければならない。なお、それが日米安保をめぐる日米のギクシャクした関係から、その間隙を縫ったものだとする味方が主として保守派論客の間からなされているが、これは誤り。アメリカは東シナ海の領有権問題には関与しないとい中立的態度を貫いており(毎日新聞 同上 5面)、今回の釈放に賛同している(。アメリカは中国とこの海域で紛争を起こすことを望んでいない。アメリカの考えているのは、あくまでアメリカの国益。これに頼っていては国防すらできない。尖閣諸島は日本独自で守らなければならない問題なのである。
 加えて、中国は拿捕された漁船の「護送」のために、農業省の監視船を派遣している。これからは武装監視船が尖閣諸島に常駐することも予想される(読売新聞 同上 2面)。いや、常駐するだろう。
 こうしたことを背景に、尖閣諸島に中国漁船が押し寄せても、逮捕できないだろう。そればかりか、海上保安庁は警告さえもしないだろう。
★ 「ニューヨーク 23日 ロイター伝、クリントン米国務長官は
 23日、沖縄・尖閣諸島付近の海上保安庁巡視船と中国漁船の衝突
 事件について、地域に長期的な影響が及ぶ前に速やかに問題を解決
 するよう日中両国に要請した。」
  「ニューヨーク 24日 ロイター伝、クローリー米国務次官補
 は24日、記者会見し、尖閣諸島沖の漁船衝突事件で日本側が中国
 人船長を釈放したことに関し、「日本は正しい決定をした。事態が解
 決し、満足している」と述べ、歓迎の意向を明らかにした。」
 

以上は、新着順1201番目から1300番目までの記事です。 9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  |  《前のページ |  次のページ》 
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