「枝野批判」オフレコ発言をすっぱ抜かれ、 今度は東京新聞記者を「出入り禁止」 にした経産省の「醜態」広報室長は直撃にひたすら沈黙

2011年05月20日(金) 長谷川 幸洋
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 簡単に言えば、同じ会社の人間を処分することによって、私に圧力をかけようとしたのである。サラリーマンなら分かるだろう。「お前のせいで、とんだとばっちりだ。どうしてくれるんだ」というさざ波を誘発し、黙らせるという戦法である。

 上司に文句を言っても効かなかったから、今度は仲間たちから文句を言わせようという話だ。分かりやすいが、卑劣である。誤解のないように明言しておく。私は社内でいっさい、そうした苦情や文句は受けていない。ただ、こういう展開になって私に忸怩たる思いがあるだけだ。

 同じ会社の縦と横から記者に圧力をかけ、黙らせるという手法はたいていの場合、きわめて有効である。なぜなら記者もサラリーマンだからだ。

 役所の側から言うと、こうした手口を有効にするためにも、マスコミ対応というのは「役所vs新聞・テレビ」というように組織同士の枠組みにしておくのが絶対原則になる。相手が組織の人間でなければ、縦横の圧力は効かせようがないからだ。

 だからこそ「記者クラブ」という制度は、なによりも役所側の事情で本質的にフリーランス記者を排除する。それでは、なにかあったときに記者を干し上げようにも干し上げようがないからだ。

 記者クラブという制度は記者の側が取材を便利にする仕組みである以上に、実は役所が政策宣伝をする仕組みでもある。記者に都合のいい記事を書かせ、都合の悪い記者は排除する。そのための制度なのだ。

 論説委員懇談会という体裁は違っても、役所にとっては初めから政策宣伝の場に変わりはない。だから論説委員がオフレコ破りに出れば、記者クラブから記者を締め出す。どちらにせよ「オレたちに都合のいい記事を書け」という話なのだ。

ジャーナリストの原点

 かつて小沢一郎元民主党代表が土地疑惑事件で結局、不起訴処分になったとき、検察には説明責任があると考えて、私は小沢不起訴を発表する記者会見への出席許可を求めた。すると検察は「記者クラブ向けの会見なので、クラブの同意をとってほしい」と言ってきた。

 それで別途、検察の責任者にインタビューを申し込むと「質問があれば、東京新聞の記者を通じて質問してほしい」と逃げた。(コラム『小澤問題で問われるマスコミのビジネスモデル」』)

 これも同じである。

 役所は個々のジャーナリスト、論説委員を相手にせず、記者クラブという枠組みを通過させることで、いざといういうとき、組織に縦横から圧力をかける余地を残すのである。これでは言論に「会社の枠」がかかってしまい、本当に自由な言論が成立しない。

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