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「安全だから家にいろ」津波、母と妻のむ 後悔と悲しみの日々

自宅跡地に立つ及川さん。「本当に何もかも流された」=宮城県南三陸町歌津

 宮城県南三陸町歌津峰畑の農業及川道男さん(62)は、3月11日の東日本大震災発生直後の判断を悔やみ、自らを責め続けている。自宅は海抜10メートルより高い場所に建ち、津波が来ても安全だと信じていた。同居していた母と妻に自宅に残るよう指示したが、大津波は2人を自宅ごとのみ込んだ。母は亡くなり、妻は行方不明のままだ。
 及川さんの自宅があった場所は現在、がれきが散乱し、家屋の基礎がわずかに残るだけだ。及川さんは変わり果てた自宅を見る度、母テル子さん(84)と妻よし子さん(60)に地震直後に伝えた言葉を思い出してしまう。
 「うちが一番安全だ。どこにも行かないで、ここにいろ」
 判断の根拠はあった。1960年のチリ地震津波で、周囲の家は津波にのまれたが、やや高台にある及川さんの自宅は被害を免れたからだ。
 及川さんは2人を自宅に残し、約250メートル離れた海の様子を見るため、自転車で海へ向かった。真っ黒な津波が壮絶な勢いで岸壁を乗り越え、及川さんに迫った。身の危険を感じて高台に上がり、波から逃れた。
 すぐに母と妻が心配になり、自宅に急いだ。自宅が見える所まで来て、想像したくもなかった光景を目にした。2人が残った自宅が濁流に流されていった。数日後、テル子さんは遺体で見つかった。
 「あんな化け物のような津波が来るとは考えもしなかった。おふくろは脳梗塞を患い、脚が不自由だった。女房は逃げずに一緒に家に残ったはずだ。2人をもっと高い所に逃がせばよかった」
 及川さんは3月16日、避難所で誕生日を迎えた。よし子さんが、誕生祝いの料理のメニューを楽しそうに考えていたことを思い出した。
 「俺も何を作ってくれるのか楽しみにしていたんだ。女房も早く見つかってほしい」
 5月上旬、仮設住宅の抽選で当選した。後悔と悲しみに暮れる及川さんに、周囲はささやかな幸運が訪れたように思った。しかし、及川さんは新たな苦悩にさいなまれている。
 「1人で仮設住宅に暮らしたら、悲しみが一気に込み上げてくるんじゃないか。見知らぬ隣人と親交を深める心境にはない。今は、何もすることができない」(水野良将)


2011年05月16日月曜日


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