焼津の元漁労長 第五福竜丸と40年ぶり再会(5/23 07:30)

 1954年に中部太平洋ビキニ環礁での米国の水爆実験で被災した焼津港所属の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の元漁労長、見崎吉男さん(85)=焼津市在住=が22日、東京都江東区の第五福竜丸展示館を初訪問し、第五福竜丸と約40年ぶりに再会した。船体に触れた見崎さんは「よく残してくれた」と目を細め、「(第五福竜丸は)平和運動の一つの出発点。できるだけ長く残し、みんなに船を見てほしい」と平和の象徴としての同船の継承を願った。
 見崎さんは1968年、当時廃船となり東京・夢の島に放置されていた第五福竜丸を見て以来、1976年の同館開館後も長年、同船を見ずに過ごしてきた。今回、見崎さんと交流を続ける焼津市の市民グループの誘いを受け、「これが最後かなと思って」訪問を決めた。
 一緒に訪れた幅広い年代の焼津市民ら約30人が見守る中、第五福竜丸の船底のかじを触り、船の感触を確かめた見崎さん。「心の中で『ありがたいね』と語り掛けた」。水爆のために海から引き離され、多くの人々の中で生き抜いてきた船と自身の人生を重ね合わせたかのようだった。
 「来ていただき、本当にうれしい。元漁労長としての重責を背負ってこられた見崎さんに、敬意を表します」と同館主任学芸員の安田和也さん。見崎さんは船の甲板を見ながら、「白い灰が飛んできて、なめてみたが、味はしなかった」と当時の体験を語った。
 ビキニ事件から57年。事件後に世界中から湧き起こった核廃絶の願いはいまだ実現していない。国内では福島第1原発の事故の影響で放射線被害が今も続く。「40年、50年たっても、世界はどういうわけか静かにならず、危険な方向に向かって右往左往している。核の時代に後戻りしないように、日本が中心になって世界と手をつないでほしいね」。ゆっくりとかみしめるように語り、核被害なき世界の実現に向け、若い世代の活躍に強く期待した。


 ビキニ事件 1954年3月1日、中部太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で米国が水爆実験を実施し、第五福竜丸のほか、同諸島周辺海域にいた多くの漁船、同島民、米兵らが被ばくした。第五福竜丸乗組員23人の一部が放射線障害の症状に陥り、同年9月に無線長の久保山愛吉さんが死去。国際的な原水爆反対運動につながった。

約40年ぶりに第五福竜丸との再会を果たし、船底のかじに触れる元漁労長の見崎さん=22日、東京都江東区の都立第五福竜丸展示館

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