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[27170] 【習作】真・恋姫†無双“幸せな日々をあなたと”
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/04/13 20:21
 はじめましての方もそうじゃない方もいるかもしれませんが、今回投稿させていただくモトオと申します。
 長いお話は初めてなのでチラシの裏からはじめさせていただきます。
 中途半端なシリアスとぱっとしないコメディで進む上に遅筆な相変わらずの駄文です。
 それでも大丈夫という剛毅な方がいらしたら読んでみてください。
 尚このお話はTINAMIにも投稿しています。



[27170] 序章
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/04/13 20:20


 人生は一冊の本であり、生きることは物語を綴ることだ。
 そんな、くだらないことを、誰かが言った。

 ◆


 橙色の空。揺らぐ雲。落ちかけた太陽が滲んでいる。
 映るものの輪郭を覚束なくさせる夕暮れはまるで飽和した砂糖水のようだった。
『私』は、砂糖水が満ちた揺らめく書庫にいた。

 ぺらり、と。乾いた音が響く。

『私』の手元には一冊の本がある。
 それに目を落とし真剣に睨みつける。辺りを見回せば、書庫には他の人間もいたが、皆静かに読書を楽しんでいた。周りの人間は自身の本に集中しているらしく見回す私に気付いた様子はなかった。
 幸いだった、と『私』は苦笑を洩らした。
 今の『私』の姿は、もしも周りの人間が注視すればひどく奇異なものとして映っただろう。だから今の状況は幸いだった。
 もう一度視線を手元に落とす。
 開かれた本に文字はない。
 そう、今の『私』は奇異なことをしている。

 なぜならこの本は、全編を通して白紙なのだから。

 何も記されていない書物を真剣に読む『私』の姿は滑稽だろうか。それとも人は狂人のように思うのか。
 それは分からない。
 しかし『私』は淀みなく冊子をめくり、白紙の本を読み進める。
 当然、文字は書かれていない。
 それでも『私』は。
 この本に記された『私』以外には誰も読むことのできない、愚か者の物語を見つめながら小さく笑みを浮かべた。
 遠い昔抱いた夢想が頭を過る。胸に灯った感情は自分でも形容し難く、うまく言葉には出来そうもない。
 だから『私』は砂糖水に溶け込んで消えて往く陽の光を見つめながら、もう一度小さく、本当に小さく笑った。
 そしてまた本を読み進める。
『私』にとって本当に大切な、愚かな少女の物語を。


 ─────物語に題名はない。

 
 『私』は今一度、深く静かに、名も無き物語の中に入り込んでいった。


『真・恋姫†無双“幸せな日々をあなたと”』






 ◆

 柔らかいまどろみ。
 穏やかな朝の一時。
 包み込むような優しい気だるさを感じながら、寝台の上で北郷一刀は呻いた。

「おはようございます、ご主人様」

 遠い声が聞こえる。
 いや、近くでしたのだろうか。
 距離感さえ覚束ないあやふやな感覚が呼び水となって目覚めが訪れる。 
 重い目蓋を無理にこじ開けて初めに映ったのは白い光、そしてその中に浮かび上がる黒い人影だった。光から逃れるように目を擦れば寝ぼけていた意識が段々とはっきりしてくる。
  
「月……?」
「はい、おはようございます」

 もう一度、たおやかな笑みを浮かべながらメイド服に身を包んだ可憐な少女は朝の挨拶を口にした。

「ん、おはよう月」
「昨晩はよくお休みになられましたか?」
「ああ。でもなんか変な夢を見」

 そこまで口にして。
 何故か一刀は胸に強い痛みを感じた。
 熱いのか、冷たいのか。よく分からない感覚が胸を突く。息が切れる。目が霞む。次いで脳裏に浮かんだのは月の光と誰かの顔。表情は読み取れない。
 ただ纏った空気の静けさは感じ取れた。その誰かは悲しんでいるのだろうか、それとも別の感情を抱いているのか。考えても理解はできない。
 思考の海に沈み込む程、胸の痛みは強くなる。それなのに一刀は、『辛い』よりも何故か『寂しい』と感じた。

「ご主人様?」

 溺れる思考が柔らかな声によって優しく引き上げられた。視線を上げれば心配そうに目を細める月がいる。むしろ彼女の方が泣きそうな表情だった。だから少しでもそれを払おうとなんでもないと笑って見せた。
 
「ごめんごめん、ちょっと変な夢を見ちゃってさ。体調が悪いとかそういうのじゃないから」

 ようやくまともに動き出した頭で一刀はそう言い、陽光に照らされて眩くきらめく月の髪に手を伸ばそうとして、

「ふっ!」
「りばーぶろーっ!?」

 傍らにいた眼鏡っ娘メイドが短い呼気と共に放った拳によって肝臓を打ち抜かれた。

「朝から月に手を出そうとするな、ち○こ太守!」
「ちょっ、おま、止めるにしたって殺傷力高すぎ……」

 そう、そこにいたのは月と同じメイド服を身に纏った三つ編み眼鏡の少女、一刀付きの侍女・詠であった。
 朝の一発目の挨拶がいい感じのリバーブローであったとしても侍女である。一刀としては単に頭を撫でようと思っていただけなのだが、彼女には朝から種馬が盛っているように見えたらしい。まあ普段の行いを見ればそう考えても仕方ないところではあるので一刀の自業自得と言えなくもない。

「まったく、油断も隙もない……って、どうしたの?顔色悪いわよ」
「朝起きてすぐ腹を殴られて血色のいい人間なんていないと思う」
「う。そ、それは悪かったわよ。でもそれを抜きにしても血の気が引いてるじゃない」

 ばつの悪そうな顔をしながらも、心配になってきたのか額に掌が当てられる。ひんやりとした感触が心地よく、一刀は少しだけ瞼を下ろした。

「熱はないわね……」
「さっきも言ったろ?体調が悪い訳じゃなくてちょっと夢見が悪かったんだよ」
「夢?」
「一体どんな夢だったんですか?」

 不思議そうに首を傾げる二人。全く同じタイミングで動いたのがなんか妙に可愛らしかった。そんな二人を眺めながら聞かれたからには夢のことを話そうと思い一刀は思考を巡らせる。
しかし、

「……あれ?」

 どれだけ思考を巡らせても、先程まで見ていた夢は全く思い出せなかった。
 あんなに奇妙な感覚を味わっていたのに、いつの間にかそれすらなくなっている。

「どうかしましたか?」
「や、ちょっと待って。ええっと……確か、硬くて太いのが熱くてぐちゃぐちゃな感じというか、ベットで眠ってる夢とか?他には、手が三本になる夢?」

 自分でもよく分からないが、確かそんな感じだった……ような気がする。
 どうも上手く表現できそうにないので考えるのを止め、目の前にいる二人の表情を見やる。すると何故か二人とも顔を真っ赤にしていた。

「ん?顔を赤くしてどうしがぜるぱんちっ!?」
「死ねっ!」

 言い切る前に重たい拳が臓器に突き刺さる。その一発で膝が砕けた一刀は立っていることさえままならず崩れるように床に倒れ込んだ。ぶっちゃけもう武将になれるんじゃねーの?そう思わせる威力の拳である。いつの間にか武闘派メイドになっている詠であった。

「な、なんで……」
「うううううるさい!朝からなんて話をするのよ!?月、こんな奴ほっといていくわよ!」
「え、詠ちゃん?」

 理由は分からないがとにかくご立腹の詠さんは月の手を掴むと踵を返し、どすどすと音を立てながら部屋を出ていった。とどめに部屋を軋ませるほど勢いよく扉を閉めて。当然床に転がったご主人様は放置だ。
 
「ははは、視点が低いと自分の部屋でもいつもと違う感じに見えるなぁ」

 負け惜しみのように呟く。
 軽く眺めてみると床に寝転がって見ても部屋には埃一つ落ちていない。いつも掃除をしてくれる月と詠に感謝だ。
 あ、やべ。ベットの下に竹簡が転がってる。誰かに見つかる前に拾っとかなきゃ。
 いや、それはともかくとして、

「何で、ボクシング……?」

 きっとその答えは誰にも分からないだろう。
 目覚めたばかりだったが、一刀はもう一度深い眠りにつくのだった。

 
 ◆


「で、それが三国の王が集う朝議に遅刻した言い訳になると貴方は本気で思ってのかしら?」

 二度目の目覚めの後、玉座の間に辿り着き、朝議に顔を出した一刀を迎えたのは絹の如く柔らかな金糸の髪を左右対称に結わった、小柄で華奢な少女だった。
 魏王・曹操───華琳の、あまりにも冷た過ぎる視線が一刀に無遠慮なまでに突き刺さる。
 睨んでる、ものすごく睨んでる。
 もう視線が研ぎ澄まされすぎて、針どころかダイヤモンドをカッティングするウォーターナイフみたいになっている。痛いどころの話じゃないのである。

「いや、華琳。じゃない、華琳様。今日の遅刻は本当にこちらとしても予想外だったと言いますか……」

 まあ朝起きたらしこたま殴られて意識を失うことを予想できる人間なんている訳ないとは思う。というか床で意識を失ったまま放置とかあんまりじゃないだろうか。

「ま、まあまあ華琳さん。ご主人様を責めても仕方ないし朝議を始めようよ、ね?」

 その重苦しい空気を振り払おうと蜀王・劉備───桃香は、華琳の身体からあふれ出る怒気に多少引きつりながらも笑顔を浮かべた。
 柔らかそうな栗色の髪と少し垂れた大きな瞳が柔和な印象を醸し出す桃香。それは外見の印象だけではなく彼女は戦乱を駆け抜けた英傑ながら、その血生臭い肩書に似合わぬ穏やかさ気性の持ち主である。胸が豊かな娘は心が豊かという噂はどうやら本当らしい。

「そうよ、過ぎたことをいつまでも言っていても仕方ないでしょう?それに王が遅刻するなんて珍しいことじゃない。私なんて朝議休んで朝酒を呑んでることもあるし」

 くすりと軽い笑みと共に語り出したのは長い薄桃の髪に切れ長の瞳、褐色の肌に露出の多い赤い衣を纏った美女だった。金細工をあしらった、艶を出しながらも品のある装い。健康そうな色香の中に、どこか子供のような無邪気さを滲ませた妙齢の女性。呉王・孫策───雪蓮はまさしく子供のような無邪気さで、「王としてそれダメだろ」な台詞を言い放った。

「お前は少しくらい反省してくれ、頼むから」

 溜息を吐きながら傍らにいた美女から言葉が落ちる。
 美しい長い黒髪。眼鏡の奥にある切れ長で理知的な瞳。赤い衣から覗く褐色の肌はえもいわれぬ艶めかしさである。
 彼女こそ孫策と断金の誓いを交わした友にしてブレーキ兼フォロー役、周瑜───その真名を冥琳という。

「あら、いいじゃない。いつものことでしょう?」
「その『いつものこと』の度にお前の後始末をして走り回る私の苦労も考えてほしいものだな」

 呆れたように言って見せても何処か暖かな口調だった。結局冥琳自身も彼女とのこういう関係が気に入っているのだろう。
 そんな二人の遣り取りに少しだけ柔らかな空気を取り戻した玉座の間。そこに幼げな声が響く。

「こほん。では各国の代表者と軍師の二名、それぞれ揃ったようなので本日の朝議を始めたいと思います」

 その言葉の主は声色だけでなくその容姿も未だ幼さから抜け出ぬ風情の少女だった。しかしながら少女の知は等しく万人が認めるところである。蜀にその人ありと謳われたはわわ軍、もとい伏龍・諸葛亮───朱里が音頭を取り、ようやく今日の朝議が始まったのだった。

 ちなみに出てこなかった魏の軍師はというと、

「ぐー」

 頭に謎の人形を乗せた金髪幼女・風は騒ぎの最中にあって、それでもしっかり熟睡していたりします。

 ◆

「えーと、今日の朝議の議題ってなんだっけ?」
「朱里、すまんが概要から頼む」

冥琳が促すとそれに軽い笑みをこぼしながら答えた。

「はい、まずは基本的な所から。黄巾の乱から始まった群雄割拠の時代は、天の御使いが大陸に降り立ち、戦乱の末に魏・呉・蜀が三国同盟を締結したことによって終焉を迎えました。その後、乱世を終わらせた平穏の象徴である天の御使い……つまりご主人様を太守とした都を三国の中心に立ち上げ、三国の将は後進に国を任せ都に屋敷を構えました。そして後三日で三国同盟締結からちょうど一年になります。これを記念して三日後、三国あげての記念祭を開催することになりました。今朝の朝議はそれに際して出てきた問題点の修正、及び進行度合いの確認ですね。やった、噛まなかった」

 最後に余計な言葉が聞こえたがそこは軽くスルーして、とりあえず現状は理解できた。

「ああ、そうか。そういうことになってるのか」
「そういうことになってるのかって、貴方ね。自分の治める都のことでしょう」

 溜息と共に華琳は言った。

「いやだってなぁ……治めるって言ったって重要な所は軍師の皆や華琳や雪蓮に桃香、三国の王と決めてる訳だし。別に俺一人で運営してる訳じゃないからなぁ」
「それでも貴方はこの都を預かる人間として、ここで起こり得る全ての問題を把握し、それに関する予測や対応を準備しておくべきではなくて?」
「それが出来るのは才能に恵まれた一握りの人間だけだと思う……」
「うん、私もそう思う……」

 桃香が同意してくれる。数少ない凡人同士通ずるものがあるのだろう。もっとも二人とも仁徳と魅力のみで国をまとめ上げたことを考えれば十分規格外ではあるが。

「だとしても、せめて今回の祭に関しては把握しておきなさい。この記念祭の中核はあくまでも『大陸に平穏を齎した天の御使い』───即ち貴方なのだから」
「大丈夫、俺はテストの科目を当日になって初めて知るタイプだから」
「何を言っているのかは分からないけれど貴方が統治者に向いていない事だけは分かったわ。貴方達二人には一度王のなんたるかを叩きこまないといけないようね……分かってるとは思うけれどもう一人は貴方のことよ、桃香?」
「あ、あはは。お手柔らかに……」

 視線を逸らし恍けようとした蜀王の首にもしっかりと言葉で首輪をはめる。流石にドSのお姫様、首輪の扱いは手慣れたものである。

「えーと、そろそろ続けてもよろしいでしょうか?」

 朱里が遠慮がちに話に割り込んでくる。少し脱線しすぎたようだ。

「ごめん、続けてくれ」
「はい。それではまず呉から報告を上げて頂けますか?」
「ああ、構わん。とは言っても、報告するような問題は特に起こっていないな。将達による催しも準備はほぼ終わっている……当日に雪蓮と祭殿の暴走を抑えるという大仕事は残っているが」

 冥琳が何でもないことのように自国の王に対し暴言を吐く。「ちょっとそれどーゆーことよ、ぶーぶー」とか言っている呉王はさらっと無視することにした。

「催し……ああ、そっか。今回のお祭りでは三国の将が出店やら出し物を準備するんだっけ?」

 なんか学園祭みたいだな、と一刀は思った。

「そうだ。私達は今まで戦ばかりをしてきたからな。この記念祭は多少でも民が私達に抱いている物騒な印象を払拭し距離を近づける、という意味合いもある。そのために私達が催しを行うという訳だ」
「うちは明命が張り切ってるわよー。『私の人生の全てをかけます!』とか言ってたもの」

 いくらなんでもお祭りにそこまでかけなくてもいいと思うのだが。たぶんそこは突っ込んではいけないのだろう。
 恙無く呉の報告は終わり、いつの間にか目を覚ました風と華琳が一歩前に出る。

「次は魏ね。風、報告を」
「そですねー。魏の方も記念祭に関してはさして問題は起こっていません。ただ……少し気になる報告が上がっています。警備隊の皆さんが見つけてきたのですか、城壁の上や城下に文字があったらしいのです」
「文字?」
「はい。なんでしょう、血で書かれた文字が都の到る所で、という程ではありませんが見つかったのです。一応、風も確認してみたのですが解読できませんでした。いったい何が書かれているのでしょうね~」

 気の抜けるような間延びした物言いながら、風の口調は普段よりは幾分か重々しく聞こえた。
 一刀は軽く顎を弄りながら自身の思考に没頭していく。
風にも読めない血で書かれた文字。
何かが、妙に引っかかる。
 だがいくら考えてもその何かは見えてこない。ただ嫌な予感、とでもいうのだろうか。ぬるりとした鉄臭い不快感が体の上を這っているような気がした。

「血で書かれた文字か……何やら不吉だな。北郷、呉から穏を調査に出したい。あれで穏は呪術などにも造詣が深いからな。何か分かるかもしれん」
「冥琳が言うなら間違いないだろ。頼む」

 考えても血文字が何を意味するのかなど分からない。今は少しでも調べる方がいいだろう。
 奇妙な不快感を追い出すように頭を振り、気を取り直して朱里の言葉を促すように

「では最後は蜀から報告させて頂きます。血文字についてはこちらでも幾つか見付かっていますので蜀からも調査に人員を割こうと思います。もう一つ、報告に上げるほどのことかはまだ分からないのですが……」
「ん、なにかあるのか?」
「いえ、実際に何かがあったという訳ではないのですが。最近民から『幽霊が出た』という類の話を耳にします」
「幽霊?」

 一刀が意外そうに声を上げると、朱里はいやに神妙な面持ちで頷いた。

「幽霊、ねぇ。なんというか、ホントにそんなの居るのか?そもそも存在自体が眉唾だなぁ」
「何を言っているのよ。貴方がその存在自体が眉唾ものの代表格じゃない」
「う、そりゃそうだ」

 にまにまとからかいの笑みを浮かべながら発された雪蓮の言葉は確かに的を射ていた。何と言っても北郷一刀の肩書は天の御使いである。天からやってきた、などという与太話よりはまだ幽霊の方が現実的かもしれない。
 
「この際幽霊が本当にいるかどうかは置いておくとして、この類の噂が蔓延するのは好ましくありません。あまり長く続くと民の不安、不満が蓄積し何らかの弊害となるかもしれませんから」

噂の正体が幽霊であろうがなかろうが、悪戯に人心を惑わすものを放置するわけにはいかない、というのが朱里の考えだった。現代社会なら『幽霊が出る』などという与太話は何の影響もないが、神秘に近しい時代であればある程、信仰とは実行力を持つのである。故にたかが噂と切り捨てることはできないのだろう。

「分かった。それに関しては……そうだな。まずは幽霊の正体を探るところから始めるか。噂の出所を少し調べてみよう。各国から武将と軍師を一名ずつ出して調査してもらえるか?」
「軍師はともかく武将も?」

 不思議そうに首をかしげる桃香。短く「ああ」とだけ返し言葉を続ける。

「一応、ね。なにもなければそれでいいけど、もし幽霊の正体が幽霊を語った賊や五胡の先兵だったら目も当てられない。今は情報がないほとんどないんだから、用心するに越したことはないと思う」

こんな所でどう?と視線で各国の王と軍師に確認を取ると皆揃って満足気な笑みを浮かべ頷いた。なんというか、子供を褒める親の表情だった。なんだろう。普段の俺はそんなに頼りないのだろーかと若干いじけたくなる一刀だった。

「最後になりましたが記念祭に関してはこちらも最終調整を残すのみとなります。後三日のうちには全て滞りなく完了する見込みですね」
「ん、じゃあ記念祭に関しては問題なくいきそうだな」
「そう言えば、今朝のことなのですが、ご主人様と深い仲だと言い張る眼鏡をかけた導師服の男性が『げいばー』というものを記念祭で出店したいと申し出てきましたが、いかがいたしますか?」
「潰してくれ今すぐにだ」
「はわっ?まだ途中なのに……それに潰すも何もまだ出店していませんが」
「そうじゃなくてその男を潰してくれ。兵も将も使えるだけ使っていい。なんなら恋に出陣してもらおう。そいつは世界の歪みだ。放っておいたら大変なことになるから早めに潰していてくれ。後近くに金髪の男がいたらそいつも土葬しといてくれ。ダメガネの仲間だから」
「は、はぁ」

 よし、何しに来たかは分からないがこれで後顧の憂いはぶっつぶした。
 全くヤツらは物陰でカサカサと動いたかと思うと忘れた頃にやってくるから性質が悪い。そのうえ妙に打たれ強く生命力も尋常じゃない。可能な限り早めに潰しとかないと安心して眠れない。

「じゃあ三国とも報告は終わったし、これで終わりでいいかな?」

 一刀の言葉に頷きで返し、本日の朝議は終了した。各国の王辰も最後の仕上げのために記念祭の準備に戻る。
祭まで後三日。よく分からない情報もあったが取りあえずはうまくいっているようだ。この記念祭は盛大なものになるだろう。出来れば何の問題もなく開催出来ればいいのだが。
多少の不安もあるが、それを追い出すように一刀は首を振る。
 それで何かが解決するわけではないが少しは気合が入ったように思える。

「よし、それじゃあちょっと皆の様子でも見てくるかな」

 そう一人ごちて玉座の間を後にした。
 

 祭まで、後三日。




[27170] 第一話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/21 12:24
 

 
 祭まで後三日。
 将達はどんな出し物を準備しているのだろう。気になった一刀は散歩がてらに自身の治める都、その大通りを歩いていた。政務?気にしてはいけない。
 雪蓮が言っていたが、今回の記念祭の出店に関して明命がえらく気合を入れているらしい。だから一刀はまず明命を訪ねることにした。
 聞くところによると明命は記念祭の期間中、大通りで店舗を借りて茶屋、つまり喫茶店を開くそうだ。それこそ人生を賭ける勢いで明命はその準備に取り組んでいるという話だ。
 初めに明命の所を訪れようと思った理由は、出し物が気になったからというばかりではなかった。大通りで長い期間祭りの準備をしている明命ならば、『幽霊が出る』という民の噂を周りの者から詳しく聞いているのではないかと一刀は考えていた。だからこそ情報収集を兼ねて彼女を訪ねようとしているのだ。
 勿論、彼女が全てを賭けるとまで豪語する催しに興味を持ったというのも大きな理由ではあるが。

「しかし最初に記念祭のことを聞いたときも思ったけど、ますます学園祭ぽくなってきたなぁ」
 
 軽く苦笑を零しながら一刀は言った。実際、規模こそ大きいが将達が手ずから出店や催しを用意するのだ。学園祭というのは言い得て妙ではあった。
 つらつらと考えながらのんびり歩く。
 しばらくすると、明命が借りたという茶屋が見えて来た。元々あった店の看板は外されており、代わりに『天仙娘々』と書かれた看板が掲げられている。
 さて一体どんなことをしているのだろうと店に足を踏み入れた瞬間、

「あ!一刀さまっ、いらっしゃいませにゃん♪」

 思わず、一刀は立ち尽くした。
 無邪気に声を弾ませ出迎えくれたのは大きなお目目にちっちゃなお胸、『ねっこだーいすき』のフレーズでおなじみの明命だった。
 しかし侮るなかれ。
 眼前にいる明命はただの明命ではない。
 その姿は何時もの忍び装束ではなく、ふっりふりのゴスゴスとロリめいた白のドレスを身に纏い、頭にはトドメとばかりに猫耳を装備した明命だった。
 即ちゴスロリ猫耳白明命である。
 純白のドレスから覗き見る褐色の肌。このコントラスト。まさに計算し尽くされた一撃。それは五十人を超える女性に手を出した一刀だからこそ耐えられた衝撃だ。他の者だったならば恐らくは膝を砕き成す術もなく地に伏すこととなっただろう。ゴスロリ猫耳白明命はそれほどの威力を内包していたのである。
 
「どうかしましたかにゃん?」

 首を傾げ不思議そうに、しかも語尾にはにゃんを付ける。もう迷い猫がオーバーランしそうな勢いである。

「い、いや、ちょっとびっくりしちゃってさ」

 膨れ上がる下心を巧妙に隠し、何事も無かったように会話を続ける。もう一押しがあれば多分白昼堂々ことに及んでいた。ぎりぎりの所で対象年齢を引き上げずに済んだ一刀だった。

「明命の出し物は、あー猫耳喫茶?って言えばいいのかな?」
「はいにゃん!本当はお猫様と戯れることができる茶屋にしようと思ったのですが、衛生面で許可が下りなくて……」
「代わりに店員が猫の格好をする店にってことか。所でその語尾は?」
「やっぱりお猫様を演ずるためには細かいところも拘ろうと思ったのですにゃん!」 

 なんか発想が明後日の方向に飛んで行ってしまった感は否めなかった。明命が本当にやりたかったのは所謂『猫カフェ』であり、しかし現状この店はメイド喫茶の親戚で『猫耳カフェ』とでもいうべきものある。一文字増えただけでいかがわしさが一気に引き上げられたような気がしないでもない。癒しと萌えは似て非なるものなのだ。

「まあ俺としては眼福だし明命が納得してるんならいいんだけどさ。聞いていい?」
「にゃん!」
「……返事から『はい』が消えたなオイ。それはいいとして、とりあえず、あそこのアレはなにさ」

 指で指し示した方向には、これまた可愛らしい少女がいた。
 明命とは対照的に黒を基調とした生地を白のフリルで華美なまでに飾ったゴシックロリータを身に纏う少女。色素の薄い髪は柔らかく波打ち、肩まで届かない程度の長さが逆に彼女が纏うドレスの意匠には似合っている。
 少女の装いは本当に可愛らしい。大変、可愛らしい、のだが。

「……何見てるのよ、この変態。見ないでくれる?あんたの視線が触れたら体が腐るじゃない」

 その視線は、或いは呪詛と呼んでも差し支えがない程に怨みがましいものだった。もし視線で人が殺せるとすればおそらく一刀は最低三回は死んでいる。1UPを取っていない赤い帽子の配管工だったらゲームオーバーになっているところである。

「もう、駄目ですよ猫が……桂花様!お客様にはちゃんと笑顔で挨拶をしないとにゃん!」
「待ちなさいあんた今何と言い間違えた」

 たぶん猫神様かな、と一刀は思った。いや、それが何者なのかは全く分からないが。まぁそんなことはどうでもいいとして。

「……なにやってんですか桂花さん」
「そんなの私が聞きたいわよ!?この娘が私の所に来て『王佐の才と謳われた桂花様のお力を貸してほしいのです!』って真剣な顔して頼むから仕方無くついて来てみれば『お猫様になるのです!』とか訳分からないことを言い出して気付けばこの服装になってたのよ!?」

 息継ぎ無しの台詞だった。呼吸もせずに流れるように言いきった桂花を褒めるべきか、それとも軍師を流れるような手際で罠に嵌め切った明命を褒めるべきか悩むところである。

「あー、つまり明命は桂花にここの店員として働いてほしいってことか」
「はい!普段から猫耳頭巾をかぶっている桂花様はもうお猫様と呼んでも差し支えがないと思うのです!」
「何よその理論!?なんなのこの娘!?帽子だけで私を猫と判断してるってどう考えてもおかしいじゃない!?」
「何をおっしゃるのですか!?その癖のある髪も我儘で気紛れな所も閨では普段と違い一刀様にすり寄って甘える仕草も全て、その全てが桂花様の魂がお猫様である証拠なのです!お猫様になるために桂花様は生まれてきた……いいえ、生まれた時から桂花様はお猫様なのです!……にゃん!」

 駄目だ、明命がなんか対岸に渡ってしまった。そして自分で考えた語尾に『にゃん』を付けるというルールをあまりにテンションが上がり過ぎて忘れたらしい。というかなんで閨の中の様子まで知っている?あれか、覗いてたのか?覗いてたんだな? 

「……あんたコレどうにかしなさいよ。なんだかあの娘あんたには懐いてるみたいだし、あんたの言うことなら聞くでしょ」
「無理だろ、明命の猫好きをどうにかするくらいなら一人で三国を統一する方がまだ簡単だよ」

 冗談のような内容だが、わりと真剣に一刀は言った。
それに桂花がここまで押されっぱなしになっているのは非常に珍しいし、このままいけば語尾に『にゃん』を付けて接客する面白桂花が見れるかもしれない。だから一刀は満面の笑みを明命に向けた

「まあ俺はそろそろ行くから、明命、しっかり桂花に猫の魂を仕込んでやってくれ」
「任せてくださいにゃん!」

 それに対してまさに花が咲くという形容が相応しい笑顔を見せて、その笑顔とは対照的に乱雑な動作で桂花の首根っこを掴み、そのまま引きずって店の奥へと明命は戻っていく。彼女の猫への情熱は留まる事を知らないのだ。「何言ってんのよあんた達はぁぁぁぁぁぁぁ!?」という叫びが聞こえたような気はしたが恐らく多分きっと気のせいだろう。

「さあ桂花様!時間は後三日しかないにゃん。びしばし逝くにゃん!」
「分かった、分かったからせめて引きずらないでよ!?」
「分かったのなら返事は『にゃん』!」

 ハイじゃねーのかよ。突っ込んでもたぶん意味はないんだろうなーと思った一刀は売られていく子牛のような桂花の冥福を祈りながら踵を返し音もなく歩き始めた。

「ほ、北郷!?ちょっと待ちなさい! 」
「何度言ったらわかるんですか桂花様!語尾にはちゃんと『にゃん』か『にゃあ』を付けてくださいにゃん!」

 鬼軍曹も顔負けの指導力を見せる明命。見えはしないが恐らく桂花は絶望的な様相を醸していることだろう。
 ほら、その証拠に、

「お、お願い、お願いだから行かないでぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 背中に叩きつけられる悲痛な声。
 なんだろう、こんなにも心に響かない引き止めの言葉は初めてだった。
 おそらく三日後には桂花も立派な猫になっていることだろう。記念祭の日に降臨するであろう猫神様の眩いばかりに神々しい姿を夢想しながら、なんかもういろんなことがどうでもよくなって、一刀は今日の晩御飯は焔耶をお皿にしてワカメ麻婆豆腐を食べようとか考えながらその場を後にした。

「あ、そう言えば話を聞くの忘れてた」

 こうやって店舗の準備で民と直に接している明命なら幽霊の噂を知ってるかもしれないと思っていたのだが、なんか色々衝撃的すぎて話を聞くことをすっかり忘れていた。
 まあいいか。
 今から戻るのもなんだし、次に来た時ちゃんと聞いておこう。
 さて、他の皆の所も軽く回ってみるか。
 
 
 ◆


 明命の店を離れてからも散策はしばらく続き、気が付くと日は既に暮れはじめていた。
 ゆったりと落ちながら空に溶けていく夕日。滲む橙の空が何故かいやに寂しく見えた。昼から夜へと代わるこの時間が喪失に似た感傷と重なる。
 結構歩いたし、もうそろそろ帰るか。
 わずかに感じる寂寞の中で少しだけ目を細め、夕暮れの光景を流れる都の様相を眺めながら、一刀は帰路を辿ることにした。
 
「ご主人様、今お帰りですか?」

 くだらない感傷を切り捨てるように涼やかな声が響いた。
 声の方に目を向ければ、夕刻の喧騒の中に、艶やかな黒髪を片側で結わった見目麗しい少女の姿がある。
 少女の姿は一刀にとって見慣れたものだった。その姓名を関羽。真名を愛紗。北郷一刀の一の槍として戦場を駆けた軍神が、その肩書には見合わぬ、声の通りに涼やかな立ち振る舞いで立っていた。

「愛紗。ああ、そろそろ帰ろうと思ってね。今日は出し物の準備を見て回ったんだけど、流石に歩き過ぎたよ」
「それはご苦労様でした。皆、張り切っていたでしょう?」
「いや、本当に。明命辺りは人格変わってたよ」
「それだけ記念祭に力を入れているのです。喜ばしいことではないですか」
「まあ、そりゃそうかもしれないけどさ」

 それだけで片付けるには彼女のテンションは凄過ぎるとは思う。しかし混ぜっ返すと夕暮れの穏やかさが消えてしまいそうだったから何も言わなかった。

「愛紗は今日は何をしていたんだ?」
「朱里からの指示で稟と血文字の調査と、幽霊の噂を追っていました」
「稟と?なんか珍しい組み合わせだな」
「朱里と雛里は記念祭の催しに手を取られしまったので、魏から軍師を借りたのです」
「ああ、なるほど」

 調査も大事だが記念祭の成功も大事。いくら不穏な気配があったとて調査ばかりにかかりきりになる訳にもいかないのだ。

「で、何か分かったのか?」
「いえ、稟でも解読はできませんでした。明日の日中は呉から穏が調査に出るようです」
「そっか、冥琳も言ってたし穏の手腕に期待だな」
「そうですね」

 こくんと頷く。その動作が何となく幼げで、少しだけ穏やかな気持ちになれた。

「幽霊の噂の方はなんかあった?」
「いえ、そちらも然したるものは。人によっては男の幽霊だったと言いますし、女だったとも言います。見られた場所も城壁の上や大通り、都の郊外にある森と一定しません。正直なところ実際に幽霊がいたと考えるよりも、人心を惑わせるために噂を流布したと考えた方が納得がいきます」
「そっか。まだ分からないことばかりか」
「ふがいない結果、申し訳ありません」
「責めてる訳じゃないよ。だいたい調査を始めたのが今日なんだから」
「そう言ってくださると救われます。しかし、そういえば今日から調査を始めたのでしたね。たった一日で結果を出そうなどと、我ながら焦っていたようです」
「ま、それだけ愛紗が真面目ってことだな。でももう少し肩の力を抜いてくれていい。いくらでも、って訳じゃないけど時間はまだあるんだ。少しずつ調べて行こう」
「御意」

 短く、しかし力強く応える。
 夕焼けに映えたその姿は眩し過ぎて直視できなかった。


 ◆


 夕焼け小焼けで日が暮れた町並を二人で歩く。
 先程まで感じていた寂寞は姿を隠し、陽光は暖かく感じられる。いつからか言葉を交わすのを止めて二人はただ黙って我が家である城を目指していた。
 言葉はなくとも重苦しくは感じない。ただ、穏やかな心持ちで道を歩く。

「ふふっ」

 不意に、愛紗が笑みを零した。

「どうしたんだ?」
「すみません。我らが血で血を洗う戦を繰り広げていたのはつい一年ほど前だというのに。今では魏や呉の力を借りて問題の解決に乗り出し、こうやって夕暮れの街並みを心安らかに歩むことができる。それが妙におかしく感じられて、つい笑いをこらえることができませんでした」
「笑うような事じゃないだろ?桃香や愛紗の努力が実を結んだんだから」
「いえ、我らだけではこの平穏を手に入れることは出来なかったでしょう。ご主人様がいてくれたからこその『今』だと私は思います」
「買被りだよ」

 首をすくめて軽く流す。その動作に愛紗はまたくすくすと笑った。
 そうして笑い終えるとしばし足を止めて辺りをゆっくりと見回す。そんな愛紗に倣って一刀もまた立ち止まった。

「此処にいると、時折桃園の誓いが思い出されます」

 目を細めた少女は夕暮れの赤の中で咲く花を思わせた。風に揺れるような優しさで、道行く民に彼女は視線を送る。
 それを追えば夕暮れの中、尚も喧噪冷めやらぬ町並みがある。
 桃園の誓い。
 遠い日に、四人で誓った。大陸のすべてに笑顔を。蜀という国が出来る前から自分達の中に在った、ただ一つの指標。
 王としての力は足りなかったかもしれない。それでも、血生臭い乱世にあってその優しさを最後まで失わなかった少女の理想。
 今、一刀の目の前にはその理想が形を持って広がっている。

「あの時誓った想いを私達は確かに成し遂げた。私達の道行は確かに意味があった。甘いと嗤われた桃香様の、我らの理想は、それでも正しかったのだと今なら自惚れることができます。それが私にはとても嬉しいのです」
「……ああ、そうだな」

 その情景に心を奪われながらも一刀は想いに耽った。
 夕暮れは奇麗だと思う。そこに佇む彼女もまた、美しいと思う。
 日常の一幕。暖かな景色。
 ああ、それなのに。
 これ程までに暖かな光景なのに、何故こんなにも寂しく感じるのだろうか。
 少しだけ瞳が潤むのを感じた。
 きっと、橙色の光が目に染みたのだ。


 ほんの少しの痛みを残して今日が終わる。
 夜が明ければ祭まであと二日。
 朝が訪れる頃には、この理解できない胸の痛みも消えるだろうか。



 

 第一話 了 



[27170] 第二話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/04/23 18:52



 記念祭まであと二日となった。
 今日は朝早くから、都に在る競馬場へと一刀は足を運んだ。
 この競馬場は蜀の領地、涼州の成都に存在する競馬場を模して建設されたものである。元々は軍馬の調練、経済の活性化といった様々な要素を持っていた場所だったが、大きな戦が終わった今では単なる民の娯楽として競馬が時折行われている。
 しかしながら記念祭を前にして競馬は一時中止。
 というのも、この場所は馬超───翠の出し物の場として記念祭開催中は使われるからである。

「お、ご主人様。どうしたんだ?」

 栗色の髪をポニーテールでまとめた、妙に太い眉が特徴的な少女。
 翆は一刀の姿を確認すると馬から降りて軽く手で汗を拭い、息を弾ませながら小走りに近付いてきた。

「ちょっと覗きに来ただけだよ。翠は記念祭でなにをやるんだ?」
「あたしは民の皆に馬と触れ合ってもらおうと思ってさ。私達将兵や商人にとっては乗馬は必要な技術だけど、民の中には馬に乗ったことのない人たちもいるだろ?女子供は特に。だからそういう人たちに馬に乗る楽しみを知ってもらおうってのがあたしの出し物だ」
「成程、乗馬教室ってところか。いいじゃないか」
「だろ?馬は軍馬を使うんだ。この子達ならちゃんと調練されてる。暴れることもないだろうから、初めて触れ合うにはちょうどいいし」

 言って翠は優しげな視線を馬に向ける。彼女にとって馬は家族のようなものなのだろう。穏やかな空気をまとっている。

「まあ先生が翠なら安心か。あんまり無理させるなよ?民のみんなは翠みたいに体力がある訳じゃないんだから」
「分かってるって。でも、先生ってなんか恥ずかしいなあ」

 照れて頬を赤く染めながらも満更ではないのか口元を緩ませている。軍師ならばともかく武将が先生などと呼ばれる機会は滅多にないから案外先生と呼ばれるのが嬉しいのかもしれない。

「あ、ご主人様っ!ちょっと聞いてよ!お姉さまって酷いんだよ?」

 翠と穏やかに話していると馬場の隅から高い声が響き、それと同時に小柄な少女がその一つにまとめた髪をゆらゆら揺らしながら走ってきた。
 少女の名は馬岱。真名を蒲公英。彼女は翠の従姉妹にあたり、まだ少女の様相でありながら、蜀の次代の将として期待される存在である。

 ……まあ、その悪戯好きな性格が偶に問題となったりはしないでもない。そして幼い容姿でありながら相反して女性としてのふくよかさに恵まれた彼女は、ナチュラルボーン小悪魔として一刀を惑わせて楽しむ、結構アレな少女である。

「蒲公英、どうしたんだよいきなり」
「ちょっと聞いてよ!お姉さまってば酷いんだよ?」

 同じことを繰り返す蒲公英。大事なことなので二回言ったのかもしれない。

「ああ……蒲公英のことは放っておいてやってくれよ。こいつ、この乗馬が出し物として決まったあたりから、なんだかいじけちゃってさ」
「だってぇー、たんぽぽの出した案、結局全部却下されたんだよ?いじけたくもなるよ」

 ぷぅと頬を膨らませてそっぽ向く蒲公英。怒っていることをアピールしたいらしいがその仕草はむしろ可愛らしくしか見えなかった。

「あのね、お姉さまってばせっかくたんぽぽが考えた案をね『そんなの出来るかっ!』て考えもせずに全部却下したんだよ?酷いと思わない?」

 一刀の方にずいと顔を寄せて必死に語りかけてくる。
 案、というのは記念祭の出し物のことだろう。騒ぎやイベントが好きな彼女のノリが悪いのは自身の思った通りのことが出来なかったかららしい。一角の将とはいえこういうところはまだまだ幼さを感じさせる。

「ご主人さまからも説得してよ。ねぇ、お姉さま。今からでたんぽぽの方もやってみない?乗馬教室の合間でも全然大丈夫だし準備も要らないから。ね?」
「ででででででで出来るかぁっ!?」

 沸騰したように赤くなって全力否定。ものすごい勢いである。

「ここまで否定するって一体どんな出し物なんだ?」
「なんてこと聞くんだよこのエロエロ魔神!?」
「聞いただけでその扱い!?」

 理不尽なことこの上なかった。
 ちらと蒲公英の方に視線を送ってみる。するとその意をくんだのか指折り数えながら自身の案を少女は口にする。

「えーっとお姉さまの公開放尿とか脳筋の敏感肌を羽箒で民の皆にくすぐってもらうとか。他にも色々考えてるんだ。みんな喜ぶと思うんだけどなぁ」
「発想がエロゲすぎるっ!?」

 しかも鬼畜系である。今のご時世にとんでもない爆弾を投下してくれたものだ。

「そりゃ却下されるわ!駄目だ!ダメダメ、絶対ダメ!そんなこと俺がやるならともかく見世物にできるかっ!そしてありがとう蒲公英!今度やってみる!」
「さり気に自分の欲望が入ってるあたりさっすがご主人様!やる時は私も呼んでね?」

 あれである。
 彼女の出し物はどうやら民達に楽しんでもらうためではなく、恥ずかしがる彼女達を見て自分が楽しむためのもののようだ。そりゃあ却下されるってなものである。しかし一刀としてはそういうプレイもいけるタイプなのでびっくりするくらい良い笑顔でサムズアップ。

「ああ、任せろ!」

 あまりにも男らし過ぎる声だった。
 蒲公英の歓声が上がったのは言うまでもない。

「……★※@▼●∀~~~っ!!お、お前らアホかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」

 翠の絶叫が上がったのもまた言うまでもない。
 蒲公英には怖いものなどない。「したい放題」「好き勝手」「大抵のことはノリと勢い」で生きている。一刀も似た様のものである。意外とこの二人は相性がいいのかもしれない、タチの悪さ的な意味で。

「そういや、蒲公英の案では焔耶も出し物のメンバーに入ってるんだな。乗馬教室も一緒にやるのか?」
「ううん、乗馬の方はたんぽぽとお姉さまが主だよ?脳筋はまた他の出し物があるらしいけど、今日寝込んでるみたい。なんか体がヒリヒリするって」
「……そっか、なんでだろうな。まぁそれはいいとして。まだ時間はあるし、もう少し出し物のネタを考えてみれば?面白そうなヤツだったら皆協力してくれると思うし」
「そうだね。ありがとっ、ご主人様!」

 ようやく満面の笑顔を蒲公英は浮かべてくれた。
 やっぱりこうじゃなきゃ彼女は張り合いがない。満足気に一刀もまた静かに笑みを落とした。

「なに和やかに話してるんだよぉぉぉぉぉぉぉ!?」

 沸騰したままの翠は、取りあえずそのままにしとく事にした。


 ◆


 競馬場を後にして、一刀は今日の一番の目的を果たすために城へと戻った。
 透明な空が広がる午後。
 一刀は都に構えた自身の居城、その城壁の上にある石畳の道を歩いていた。
 戦があればこの場所には多くの弓兵が立ち並ぶことになる。しかしながら平和になった今では監視台への移動か、休日に空を眺めるために将兵が訪れるくらいにしか使われない場所だった。
 不意に空を見上げれば幾分か透明な色合いが近付いたように思える。雲一つなく風も弱い。今日は夜まで晴れ渡る空が続くだろう。
 ゆっくりと石畳の上を歩く。
 しばらくすると一刀の目に扇情的な赤い衣装を纏った女性が映った。
 女性は青い風が吹き付ける城壁の上でしゃがみ込み、石畳をじっと見つめてる。
 その真剣な表情に、邪魔をしては悪いかとも思ったが、元々彼女に会うことが目的だったので立ち止まらず彼女の方に歩みを進める。
 一刀が無造作に近付くと、ちょうど一段落ついて顔を上げた件の彼女はその姿を認めて妙に間延びした口調でふんわりと笑った。

「あら~、一刀さん、こんにちわぁ」
「よ、穏。調子はどうだ?今日は穏が血文字の調査に出るって聞いたからな。少し様子を見に来たんだよ」

 彼女の名は陸遜、その真名を穏という。
 呉国のたわわ軍師の異名を欲しい侭にする才媛は、その知謀とは裏腹にのんびりとした雰囲気と口調で会話を続ける。

「ああ~そうだったんですかぁ。やっぱり気になります?」
「正直気になる。特に役には立たないだろうけど俺も一緒にいていいか?」

 以前、朝議で出た風にも読めなかったという血文字。
 それが何を意味するのか。それは分からないが、血文字の話を聞いた時何か妙に引っかかる感覚を覚えた。
 だからその違和感の正体を知ろうと一刀は穏を訪ねたのだった。

「はい~、もちろんですよ」

 にっこりと、こちらが嬉しくなるような笑顔で穏は申し出を受け入れてくれた。綻ぶ表情に一刀もまた笑顔で返し、二人は並んで石畳に膝をついた。

「そう言えば冥琳が言ってたけど、穏は呪術とかも詳しいのか?」
「詳しいというほどではないですが基本的な知識ならあると思いますよ?これでもいろんな本をたくさん読んでますから~」

 これでも、も何も彼女の読書は既に趣味の域を超え性癖の域まで達している。事実、彼女は書物を読むことで発情するという大変奇特な人間である。

「やっぱり本は人生そのものだと私は思うんです。もっと色々な本を読みたいんですけどいい本はなかなか手に入らなくて……」
「へぇ、今はどんな本を狙ってるんだ?」
「華琳さんが詠んだという詩集があるらしいんですが、一番はそれですねぇ。あとは、太平要術も。けど、黄巾の乱以後は行方が分からないですし。あぁ何処かに私を満足させてくれる書物はないんでしょうか……」

 やばい。スイッチが入りかけている。
 自分で質問したことだが、これ以上脱線すると穏が大変なことになるような気がした。具体的に言えば多分想像だけで発情する。そうなったら調査どころではなくなってしまう。

「さ、さあ!調査を続けようか!?」
「あぁ、そうでした。此処に件の血文字が記されていたんですけど」

 そう言って視線を落とす。一刀が来るまで穏がじっと睨みつけていた場所である。そこには確かに赤い文字があった。

「でも……」

 穏は一呼吸置いて、

「先程からずーっと見てるんですけど、私にも結局読めませんでしたぁ……うぅ、面目ないです」

 聞いているこちらの方が申し訳なるくらい悲しそうな声を上げた。目の端にほんの少し涙を浮かべている。

「穏でも読めなかったのか。でも三国の頭脳でも読めない文字じゃ誰にも読めないよなぁ」

 実際の所、穏が解読していることを期待していたのだがそう上手くはいかないらしい。
 そうして一刀もまた血文字を睨みつける。

「あれ、これって」

 そこで一刀は奇妙な事に気付いた。
 城壁の上、石畳の地面に記された赤い文字。
 それには見覚えがあった。いつか、何処かで、それを書いたような気がする。
 奇妙な既視感に囚われ、操られるように片膝を突いたまま血文字を眺める。
 早鐘を打つ心臓。血が沸き立つように冷えていく。
 妙に静かな思考で文字にそっと触れてみた。
 そこに記されているのは、

「……ひらがな?」

 いつか、何処かで書いたような気がする。当然だ。それは一刀にとって慣れ親しんだ、母国の文字なのだ。

「一刀さんこの文字知ってるんですか?」
「ああ、知ってるも何もこれは俺の国の文字だよ」
「天の、文字……」

 なんでこんな所に、とは思わなかった。
 一刀はただ静かに記された言葉を読み上げる

「ほ…ん…ごう、かず…とはここ、で」

 そう、そこには不気味なまでに崩れた文字で記されていた。









『北郷一刀は此処で死ぬ』










「…………え?」

 一瞬、何か心臓を掴まれて、鼓動が止まったような気がした。
 胸の痛み。鉄の味が広がる。呼吸が上手く出来ない。裁断される意識が訳の分からない焦燥を掻き立てる。
 
「大丈夫ですかぁ?顔色真っ青ですよ……」

 心配そうに穏は俯いたままの一刀の表情を覗き込む。

「あ、ああ、大丈夫」

 内心を悟られまいと取り繕うが声は震えていた。
 ひらがなで書かれた血文字とその不吉な内容。
 それが何なのかはやはり分からないまま。
 誰が書いたのかも、何故そんな言葉を書いたのかも、結局は分からないままだ。
 それでも、記された内容は一刀に言い知れぬ不安を与えるには十分すぎた。
 心労のせいだろう。酷く心臓が痛んだ。

「なんて書いてあったんですか?」
「いや、最後の方はかすれてて読めなかったよ。だから俺にも分からない」
「……そう、ですかぁ」

 言ってはみたものの、無理のある言い訳だと一刀は自嘲した。誤魔化すにしても、もう少しうまくやらねば意味がない。こんなに狼狽していては何かあったと喧伝しているのと変らない。
 それでも穏は問い詰めようとはしなかった。
 ただ変わらず気遣った視線を向けるだけだった。
 何かあったのは分かり切っているだろうに、それでも自身を気遣って何も聞かないでいてくれる。
 その優しさに感謝し、小さく深呼吸をする。しかし記された呪詛に、思った以上に打ちのめされたらしい。未だ思考は混乱している。平静を取り戻すにはしばらく時間がかかりそうだった。
 だから一刀は力なく立ち上がり穏に軽く視線を送り、

「悪い、ちょっとどっかで休んでくるよ」

 それだけ、何とか絞り出した。

「それはいいですけどぉ、送っていきますよ?」
「大丈夫。少し一人になりたい」

 本心だった。
 今は冷静になるための時間が欲しかった。

「分かりました。でも、本当に気を付けてくださいね……」

 穏の心配そうな表情を申し訳なくも思ったが、それを気遣う余裕は一刀には無かった。ふらふらと、幽鬼のような足取りで城壁を去る。
 北郷一刀は此処で死ぬ。
 その呪いの言葉がいつまでも頭から離れなかった。

 
 第二話 了



[27170] 第三話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/09 23:23

 記念祭を翌日に控えた、よく晴れた午後の日。
 一刀は都の大通りをいつものようにふらふらと歩いていた。
 昨日、穏と別れてから一刀は自室に戻り程無くして床についた。共に行った血文字の調査のせいで鬱屈とした、名状しがたい感情に悩まされていたせいである。
 しかし一日経った今では気持ちはすっかり切り替わって、明日行われる祭りを楽しみにしている自分がいた。我ながら単純な男だと一刀は苦笑する。だが、思い悩んでいても何かが解決する訳でもないのだから、こういう時は自分の単純さも有難く思える。どうせ考えても分からないことならば、楽しめるうちは楽しんでおこうと、今日も今日とて将達の出し物を回ってみることにしたのだった。
 したのだった。
 ……だったのだが。

「なんというか、早くも後悔しかけてるんだけど俺」
「そう言ってくれるな。あれでも姉者は真剣なんだ……」

 傍らに立った青いチャイナドレスの美女。夏侯淵──秋蘭は、自身の姉の成した結果を目の当たりにして、その鋭利な美貌を崩して溜息を吐いた。
 
「まったく、姉者は何を考えているのか」

 たぶん何も考えてないと思う、とは言わなかった。魏武の大剣殿の名誉のために。

「あれ、いつもの『姉者はかわいいなぁ』は出ないのか」
「流石に今回はそんな事を言っている場合ではないよ。せめて準備をする前に相談してほしかった……」

 心底疲れた表情であった。
 根っからの苦労将、もとい苦労性の秋蘭は記念祭を前日にしてもやはりその立ち位置は変わらず、今回もしっかり貧乏くじを引いてしまっていた。

「今夜は冥琳と呑むか……」

 ぼそり、と疲れた笑みと共に小さく零す。いつの間にか二人は仲良くなっているらしい。きっとお互い貧乏くじを引く者同士、何か通じるものがあるのだろう。仲良きことは美しきかな、とはいうが若干哀惜を感じさせる二人の関係性だった。

「おおっ!秋蘭、北郷も!どうだ見ていかないか?もう準備はほとんど終わっているぞ!」

 そんな妹の苦悩の表情には気付かず、店の中から二人の存在に気付いた夏侯惇──春蘭は満面の笑顔である。
 まるで春の花のように咲き誇る彼女の頭……じゃなかった、まるで春の花のように咲き誇る彼女の笑顔に、にへらと愛想笑いを返して一刀は春蘭が準備したという店に近付いた。

 この店に秋蘭と一刀が二人連れ立って訪れたのには別に大した理由があった訳ではなかった。
 ただ単に今朝偶然出会った秋蘭から、春蘭が記念祭の当日に土産物屋を出し物として開くと教えられた。そこで興味を持った一刀が様子を見に行こうと言い出し、ならば自分も行こうと秋蘭が付いてきたという流れだ。
 春蘭が土産物屋をやるという話を聞いた時、一刀は素直に感心した。
 せっかくの大規模な祭りだ。何か記念になる物を買っていきたいと思う民も多いだろうし、目の付けどころは悪くない。
 春蘭も中々やるなぁ。
 普段猪と称されている彼女だが流石に魏の重臣だ。
 そう一刀は心の中で称賛していた。
 しかし……。

「流石に土産物屋という響きからこんな店ができるなんて想像してなかったよ」
「安心しろ北郷。それは私もだ」

 二人揃って溜息を吐き、ぐっと前を見据える。
 その視線の先、春蘭が準備した店の店頭には華琳が二人立っている。
 それぞれ意匠の違う妙に露出の多いマイクロチャイナドレスを着た華琳達は、ファミレスのウェイトレスがするような『いらっしゃいませ』ポーズを微動だにせずとっている。
 微動だにせず、どころか二人の華琳は瞬きすらしない。
 それもそのはず、二人の華琳は精巧にして緻密に造り上げられた、春蘭作『華琳様人形』なのだ。
 華琳様人形の手が示す店の扉をくぐってみれば、中には商品が所狭しと並んでいた。
 その商品もまた普通の土産物ではなかった。
『からくり華琳様・めいど服ばーじょん』『華琳様団扇』『華琳様特製ぶろまいど各種』等々、他にもたくさんの華琳様グッズが揃っている。
 とにかく店は中も外も華琳様一色。
 目がチカチカする程に華琳様だった。

「なぁ、春蘭。この店……なに?」
「よくぞ聞いてくれた!この店は華琳様の麗しいお姿を堪能できる商品を集めた土産物屋……その名も『華琳様屋』だっ!」

 ド直球なネーミングセンスだった。
 こちらの思考を切って捨てるほどの剛速球をストライクで決めてみせた春蘭は、いかにも「どうだ、すごいだろう!」といった表情である。
 というかなんだこのアイドル専門店は。
 陳列されている華琳様グッズを若干引きながら眺める一刀。
 興味深そうに、しかし明らかに疲れた表情で溜息を吐く秋蘭。
 そんな二人の様子に気づくことなく、春蘭は矢継ぎ早に言葉を続ける。

「私は今まで華琳様のお美しさを独占する事ばかりを考えていた……しかし間違いに気付いたっ!三国が同盟を組んだ今、華琳様のお美しさは最早魏だけにとどめることはしてはいけないのだ!三国の至宝といってもいいそのお姿を、蜀の民にも呉の民にも知らしめねばならんのだ!この店はその足がかり、ここから三国に華琳様の威光を知らしめることこそが私の使命っ!」
「……ああそう、使命なんだ」

 ぶっちゃけ心底どうでもよかった。

「ていうかなんで普通にブロマイドが置いてあるんだよ。どう考えてもおかしいだろ」
「真桜が『かめら』とやらを応用して作ってくれたぞ?」
「真桜、お前ってやつは……」

 技術協力は真桜らしい。
 そう言えば、まだ戦乱が大陸を包んでいた頃、確かに一刀は真桜にカメラの構造を教えていた。それを完全に理解し、カメラを三国志の世界で作り上げたことだけでも規格外だというのに、写真をブロマイドに加工するとは。真桜の才能を見せつけられた気分だった。ただその才能の使い方を致命的に間違えている。
 どうでもいいが、ブロマイドに在る写真は全て視線がカメラの方を向いていない。つまり、全て盗撮だった。もう訴えられたら完璧に負けるレベルである。
 
「うむ、真桜には今回世話になった。沙和にも華琳様人形に着せる服を選んでもらったしな」

 よし、二人は減給だ。
 心に決めた一刀だった。
 痛む頭を抱えながら、正直この場から早急に去りたい気分はあるが、確認しておかなければならないことがある。
 だから一刀は、若干重々しくなった心持で、軽い溜息を吐きながら問いかけた。

「……なあ、一応聞いとくけど」
「どうした、お勧めの商品か?ならばこの華琳様抱き枕……」
「いらない、つーか俺は本物使うし。いや、そうじゃなくて。これさぁ、不特定多数の人間に華琳の真名晒してるってこと、分かってやってるよな?」
「……あっ!?」

 ぴしり、と。
 空気が凍り付く音が聞こえた。
 というか主に凍りついたのは春蘭だけだった。
 この店の商品は全て華琳様とついている。それはつまり購入する者全員が曹孟徳の真名を口にすることとなるのだ。
 ちなみに言えば真名とは自身が認めた相手にのみ預ける、誇りと呼ぶべき真聖なる名前である。断じて簡単に口にしていいものではない。
 詰まる所、春蘭のやっていることは覇王曹操の真名を大安売りでばら撒いているのと同じ。
 正直怒った覇王様に首を切られてもおかしくないくらいの所業である。
 傍らにいた秋蘭も自身の姉の反応を見て、視線を落とし呆れた顔で言った

「やはり分かっていなかったか。商品の完成度は高いんだがな、流石にこれは売りに出すわけにはいかんよ、姉者」
「なっ、折角ここまで準備したのに!?」
「むしろ今気付いてよかったと思う。こんなの出店した暁には覇王様の反応が怖すぎるよ」
「なんだとっ!?こんなのとはなんだ!」
「今回ばかりは私も北郷と同意見だ。早く片付けてしまおう」
「しゅ、秋蘭~~」
「そんな声を出しても駄目だ。片付けるぞ」

 きっぱりすっぱりと、縋りつく姉を切り捨てる秋蘭の言葉。
 弓使いでありながらその切れ味は一流の剣士と言っても差支えなかった。

 ────華琳様屋、開店前に閉店。



 ◆




「さて。この店は片付けねばならんが、折角だから何か一つぐらい持っていくか?」

 店の隅っこでいじけている春蘭を軽く無視して店の片付けを始めた秋蘭は一刀に悪戯っぽく声をかけてきた。

「ん、ああ……まあどうせ売れないもんな。このまま捨てるのも勿体ないし一つ貰うか」
「どれでも好きなのを持って行け。ああ、『からくり華琳様』は駄目だが」
「……自分の分はちゃんと目を付けてるのね。いや、いいけどさ。じゃあ俺はどれにするかな」
「商品の出来自体はいいからな。私もいくつか保管しておこう」

 そう言って本当にいくつか懐に入れていく。
 店名の問題で出店は出来なかったが意外とこの店自体は気に入っているのかもしれない。
 馬鹿な行動を取らないだけで、結局秋蘭も華琳が大好きなのだった。
 やっぱり姉妹だな。
 苦笑を洩らしながら、せっかくのご厚意なので一刀は華琳様ぶろまいどを一枚もらうことにした。こういう時はブロマイドを貰うのが正しいのだと何処かから同じ一の字を冠した二刀使いの隊長が言ったような気がしたからだった。

「さて、じゃあ俺はそろそろ行くよ。他の所も見て回っておきたいし」
「そうか。それではな」

 踵を返し、一刀は再度歩き始める。しかし数歩程度進んだ所で秋蘭に呼び止められた。

「ああ、北郷」

 背中に投げ掛けられる静かな、しかしほんの少しだけ強張った声。向き直るといやに真剣な表情で秋蘭がじっと視線を送っている。

「都の郊外に森があるだろう?そこに近付くのは止めておけ。夜は特にだ」
「行くことはないと思うけど……どうしたんだ、急に?」
「別にそこが特別危険な場所という訳ではないが、ただ最近は不穏な噂を聞くからな。用心してほしいというだけだよ」
「それってもしかして、幽霊の話?」

 愛紗が言っていた、幽霊が都の郊外の森で目撃されたという噂を思い出しながら、そう問いを投げかける。それはどうやら正解だったらしい。こくんと秋蘭は声には出さず頷きで返した。

「意外だな、秋蘭が幽霊を信じてるなんて」
「ふむ、正直に言えば信じている訳ではない。ただ実際にいるかは分からんが一応注意しておいてくれ、というだけだ。勿論森だけではなく、他の場所もだ。しばらくは夜間の外出を控える方が無難だろう。お前はこの都の太守なのだ。軽率な行動は取ってくれるなよ」

 しっかりと釘を刺されてしまった。
 つまるところ彼女は幽霊どうこうよりも一刀が迂闊な行動を取ることの方が心配なのだ。一刀もまた自身が好奇心で動いてしまう性格であることを自覚しているからこそ反論も出来ない。
 むぅ、と唸る一刀に苦笑を零し秋蘭はさらに言葉を続ける。

「もう一つ」
「ん?」
「今は太守として政務をとり仕切らねばならない。以前のように、とはいかないかもしれないが、お前は太守であると同時に魏国の警備隊の隊長でもある。隊長ならば部下の心身を気遣うのも仕事の内だろう?それが、お前を慕う者達なら尚のことだ」
「それって」

 問い返そうとすると、からかうように片目を瞑り、軽く笑いを殺した表情でにやりと口元を歪める。
 その表情は何処か悪戯っぽく、それでいて見事に決まっていた。人をからかう姿ですら絵になるのだから美女は得である。
 だから一刀は「いや、まいった」と小さく呟いて、実際にお手上げのポーズを作ってみせた。

「分かった。ちゃんと凪達のことも気にかけておくよ」
「それでいい」

 満足気に頷く秋蘭の声は普段より幾分優しく聞こえた。
 
「うう……」

 ちなみに最後まで隅っこでT-SUWARIの春蘭には優しい言葉はかけられなかった。



 ◆



 それから一刀は一日かけて他の将兵の元を巡った。

 愛紗は出し物として記念祭当日に剣舞を披露するらしい。彼女の剣舞はその美しい容姿も相まって確かに見ごたえがあるのだが、星は「普通すぎてつまらん」と言っていた。当然そこで一騒動あったのは言うまでもない。

 朱里と雛里は自作の本を記念祭で販売するそうだ。用意された店舗には『腐海』という看板が掲げられていた。しかし一刀が入ろうとすれば「ここは男子禁制なんですぅ!?」とはわあわ言いながら止められてしまった。そのためどんな店かは分からなかった。一体どんな本を売っているのだろう?

 魏の屋敷の近くでは流琉が酒家の準備をしていた。聞くと秋蘭と一緒に記念祭開催中は食事処を開くそうだ。一刀自身も楽しみにしているのだが、季衣と鈴々にも既に目をつけられているらしく果たして民が食べる料理は残るのか若干不安ではある。

 呉の方では祭と雪蓮、連名の主催で呑み比べ大会が行われる。どう考えても自分たちが呑みたいだけだろと思ったが一刀は大人なので口には出さなかった。日和見、ともいう。

 その途中『ゲイバー・グリーンリバー』という街並みに合わない洋風の建物があったが軽くスルーしていく。あいつらは何を普通に祭に参加しようとしているのだろうか。

 最後のは余計だったが、祭を前にして三国の将は皆楽しそうに準備をしている。
 一刀がこの大陸に降り立ってから、争いばかりの日々だった。
 だが今ではこうして、平穏を満喫している。
 少し騒ぎ過ぎのきらいもあるが、今までみんな張りつめていたのだ。これくらいの馬鹿騒ぎもご褒美ということでいいだろう。
 寂しげな夕暮れの街並みを、それでもほんの少しだけ穏やかな心持で歩く。
 気がつけば空はだんだんと夜に近付いていた。


「もう夜になるなぁ」

 日が落ちて太陽がまた昇れば待ちに待った記念祭の当日だ。
 準備の段階でこの様子ならば祭の本番は大変な騒ぎとなるだろう。
 それもいい。
 せっかくのお祭りならば騒がない方がどうかしている。
 いずれ来るであろう大騒ぎを想像しながら一刀は人込みの中で微かに笑った。
 胸を過る寂寞には気付かないフリをした。
 それは今は考えなくてもいいことだ。

 今日が終わる。
 そろそろ城に戻ろう。
 夕日が映し出す影がいくつも重なり夜が訪れる。
 夕暮れの喧騒の中、一人ぼっちになってしまったような錯覚を感じながら一刀は家路についた。
 


 ◆


 夜半のことだった。
 居城に戻り自室で床についた一刀は、しかし妙に目が冴えてしまっていた。記念祭を明日にして 興奮のせいで眠れないかもしれない。

「遠足を前にしたガキか俺は」

 誰もいない部屋で悪態をついても一向に眠気は襲ってこない。
 布団の中にいてもこのままでは眠れそうもないので、一刀は少し体を動かそうと自室から抜け出した。
 こんな夜遅くに街へ出る訳にもいかないため、城内を軽く散歩する。普段見慣れたはずの城内も暗い夜では別の場所のように感じられた。
 そして、一刀はなんの気なしに城壁の上に登っていった。

 都の中心にある一刀の居城、中でもその城壁は都の中でもっとも空に近い場所だ。だからだろう、空に在る琥珀の月が一際大きく見える。

「そう言えば、今日は満月か」

 声が夜の冷えた空気に響く。
 別に何か理由があって此処に来た訳ではなかった。
 ただ今日は満月だ。
 月の光に誘われて、などと気取るつもりはないが、眠れない夜の過ごし方として月見というのも中々に雅やかだ。
 何をするでもなく、ただ月を見上げる。
 琥珀の月が空に独り。
 地面から離れているせいか虫の音も聞こえない。
 夜の静けさが一層の孤独を演出する。
 だからだろう。
 満ちた月はその鮮やかな輝きとは裏腹に、どことなく悲しい色合いをしているように見えた。
 中国では、月には仙女が住むという。
 或いは月の向こうで彼女が泣き腫らしているのかもしれない。

「明日は記念祭、か」
 
 くだらない感傷を切り捨てるように一刀は小さく呟いた。

 この三日間、城下を歩き回ってはみた。
 しかし結局幽霊の正体も血文字の意味も分からないままだった。
 明日は記念祭。
 出来れば憂いは断っておきたかったが、それを成すことは叶わなかった。
 
「まあ、仕方無いか……」

 悔やんだ所で解決する訳でもない。今は明日の記念祭を成功させることだけを考えよう。
 頭を切り替えて、眼前に広がる街並みを見下ろす。
 広がる人の明かりは現代と比べれば弱々しい。しかしその喧噪は夜となっても未だ冷めやらず、明かりとは反対に人々の強さを感じさせた。
 そして何よりも、この都は笑顔で溢れている。
 魏・呉・蜀。
 戦乱の世において血で血を洗う戦いを繰り広げた三国が、今では互いに手を取り合い、こうして祭を行うまでになった。
 出来ればこの平穏が、この笑顔が長く続いてほしい。
 叶わぬと知りながらも一刀は願ってしまった。
 まあ、今はそんな事を考える必要はないだろう。
 最後に、眼前に広がる切ないほどの暖かさを記憶に留める。

「さて、明日は頑張らないとな!」

 そうして心機一転、力いっぱい背筋を伸ばし声を上げた瞬間、









 

 ───ずぶり、と。

 すぐ近くで。
 嫌な音が聞こえた。

「あ、あれ?」

 声が震えている。
 胸が痛い。
 視線が痛みの原因を見る。
 在り得ない違和感が脳を焼く。
 おかしいな。
 手が三本ある。
 胸から、赤い腕が生えてるぞ?

 その赤が、自身の流した血だと気付くのに時間はかからなかった。口の中にも鉄錆の味が広がる。
 あまりにも突飛すぎる混乱の中、しかし一刀の心はむしろ当たり前の現象として自身の状態を認識していた。
 何故ならば、
 
『他には、手が三本になる夢?』

 ああ、確かに自分は、いつかこんな夢をみた。
 熱くて冷たい、手が三本になる夢を数日前見ていた。
 だから驚くには値しない。
 これはそんなに珍しい状況ではないのだから。

「あ……」

 擦れる声と共に血を吐いた。
 腕の先には何か赤黒い塊がある。
 それはおそらく一刀の■■だ。
 生きるために不可欠なそれが体の外に在る。

 かえせよ、それ。
 おれのだぞ。

 しかしその言葉に意味はない。
 いくら懇願しようと結末は変わらない。
 三本目の腕に力が込められる。
 そして、
 
 ぐしゃりと。
 
 目の前で■■が握り潰され、血肉が飛び散った。

 そこでようやく腕が三本から二本になった。
 突き刺さった腕を引き抜かれ支えをなくした一刀の身体はその場で崩れ落ちる。
 倒れ込んだ場所には不吉な赤い文字が記されている。
 霞む意識の中で、それでも読み取ることができた。
 そう、そこには不気味なまでに崩れた文字で記されていた。









『北郷一刀は此処で死ぬ』







「あ……」

 それは呪詛ではなく予言だったのか。
 北郷一刀は確かに、記された言葉通りの運命を辿る。最早それを止める術はない。
 零れ往く自身の命を繋ぎ止めるように一刀は記された文字をなぞる。
 また、此処だ。同じ失敗をしてしまった。
 だから此処に言葉を残さなくては。
 訳の分からない言葉が脳裏に浮かび、血液と共にすぐ体外に流れていく。
 一刀の胸中に在ったのは死への恐怖よりも自身には何も成せなかったという無力感。
 それすらも浮かび上がると同時に霧散していく。

 最後の力を振り絞り、自らを殺した犯人に視線を向ける。
 見上げた先には琥珀の月を背に佇む黒い人影。
 逆光のためその表情を見ることはできない。
 それなのに。

 ────何故、彼女はそんなに寂しそうな顔をしているのだろうか。

 表情は見えていないというのに。 
 そんな、場違いな寂寞を一刀は感じていた。

 けれどそれもここまでだ。
 最後の命を使い切り。
 ぶつり、と。
 世界が、途絶えた。


 終幕
 








 ◆

 終幕
 ──────再演

 ◆



 柔らかいまどろみ。
 穏やかな朝の一時。
 包み込むような優しい気だるさを感じながら、寝台の上で北郷一刀は呻いた。

「おはようございます、ご主人様」

 いつか、どこかで聞いた声。
 奇妙な既視感が呼び水となって目覚めが訪れる。 
 重い目蓋を無理にこじ開けて初めに映ったのは白い光、そしてその中に浮かび上がる黒い人影だった。光から逃れるように目を擦れば寝ぼけていた意識が段々とはっきりしてくる。
  
「月……?」
「はい、おはようございます」

 もう一度、たおやかな笑みを浮かべながら。
 いつものように月は朝の挨拶を口にした。妙な感覚を振り払う事が出来ないまま一刀も挨拶を返す。

「ん、おはよう月」
「昨晩はよくお休みになられましたか?」
「ああ。でもなんか変な夢を見」

 そこまで口にして。
 何故か一刀は胸に強い痛みを感じた。
 変な夢を見ていた。
 思い出せないが、ひどく奇妙な夢だったことは覚えている。
 騒がしくて楽しい夢だった。
 怖くて痛い夢だった。
 けれど胸に去来する感情はそのどれでもなかった。
 淡く儚げな美しさ。
 月光の如き眩しさが目に焼き付いて離れない。
 だから、この場所は、酷く寂しい。

「ご主人様?」

 心配そうな声をかけられて、一刀は意識を取り戻した。
 今いったい自分は何を考えていたのか。
 二、三度首を振って奇妙な考えを外へと追いやる。

「なんでもない。えーと、今日の予定はなんだっけ?」
「まずは朝議ね。もう三国の王は揃ってるんだから早く準備しなさいよ」
「そっか、急がないとな」

 傍らにいた詠の言葉に頷き手早く準備を済ませ自室を出る。
 いきなり殴られて意識を失うことを覚悟していたが、そんなことは起こらなかった。


 ◆

 覚めやらぬ頭を抱えたまま一刀は朝議へと赴いた。
 辿り着いた玉座の間には既に三国の王、そして軍師達が揃っていた。
 一刀が加わり、一言二言交わした後ようやく朝議が始まる。
 朝議が進むにつれて寝ぼけていた頭も随分とはっきりしてきた。しかし一刀はどこか真剣になれない気持ちのままでいる。
 ぼんやりと視線をさ迷わせていると、いつの間に移動したのか、桃香が傍らにいた。そして不思議そうに首を傾げながらいつも通りの穏やかな口調で聞いてきた。
 
「ご主人様、調子悪いの?」
「そんなことはないんだけどなぁ。もしかしたら寝不足なのかも。どうも頭がはっきりしなくてさ」

 自分でもはっきりしない感情故に、戸惑ったような答えしか返せない。それでも彼女は納得したのか、両手を前でポンと合わせて笑った。

「そっかぁ……じゃあ今日の午後は一緒にお昼寝しよっか?」
「おいおい、蜀の王様が何言ってんだよ」

 それにつられて一刀もまた小さく笑う。
 何が変わった訳ではないが、桃香のペースに引きずられて憂鬱も幾分か抜け出ていったような気がした。
 気がつけばその間にも朝議は恙無く進行している。あまり無駄な話をしていると覇王様のお叱りをくらってしまう。馬鹿な話は止めて一刀と桃香は改めて朱里の言葉に耳を傾け出した。

「────そして後三日で三国同盟締結からちょうど一年になります。これを記念して三日後、三国あげての記念祭を開催することになりました」

 え、と呆けた声が思わず漏れる。
 何でもない台詞が鋭く尖って胸を刺した。
 しかし感じたのは痛みよりも、名状し難い恐怖。
 何故自分はその言葉をこんなにも恐ろしく感じたのか。
 一刀には、それが理解できなかった。



 ────祭まで、後三日。


 第三話 了




[27170] 第四話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/09 23:26

<記念祭・三日前> 

 三国の中心に在る一刀が治める都には、魏・呉・蜀の三国の王と家臣が滞在するための屋敷が設けられている。
 既に三国の重鎮は後進に道を譲ることを考えており、試験的にではあるが国の運営を次の世代に任せ、都に移り住んでいるのだ。
 ……というのは建前で、それぞれ一刀を心配して、或いは一緒にいたいと考えて都に集っている、というのが本当の所だ。三国の重鎮が一つの都に混沌、もとい混在する理由は単に『北郷一刀』なのである。
 勿論、一刀自身はそんなことを理解してはいないが。兎も角、都には件の流れにより魏・呉・蜀の名のある者のほとんどが滞在しているのだ。

「よぅ、稟。今から出かけるのか」
 
 朝議が終わり、いの一番に一刀が訪れたのは魏の屋敷だった。ちょうど訪ねた時には会おうと思っていた人物が門をくぐって現れた。
 一見すれば涼やかなる才女、中身を見れば魏国一の妄想女子。
 妄想鼻血軍師こと郭嘉──稟はいきなり声をかけてきた一刀に対して、几帳面に挨拶を返した。

「おはようございます一刀殿。こんな朝早くから何か御用でも?」
「ちょっとな。今日は血文字の調査に行くんだろ?悪いけど俺もそれについて行きたいんだけど、いいか?」

 その言葉を聞いて稟は意外そうに目を見開く。

「随分と耳が早いですね。私自身、つい先程愛紗殿と調査に出てほしいと蜀から打診されたばかりだというのに」
「愛紗から聞いたんだよ。今日は稟と調査に出るって」
「成程。本人から聞いたのならば納得できます」

 そうだ。
 言葉の通り一刀は愛紗本人から聞いていた。

『朱里からの指示で稟と血文字の調査と、幽霊の噂を追っていました』

 ただ、何時それを聞いたのかは思い出せなかった。今朝はまだ愛紗には会っていない。はたして彼女と会話したのはいつだったか。

「ま、いいか。それよりどこを回るんだ?」
「そうですね……風から聞いた話では血文字が発見されたのは城壁の上、城内、広場に大通り。取りあえずはその四か所を回ってみるつもりです」
「郊外の森は?」
「森、ですか?いえ、そこに血文字があったという報告は受けていませんが。何か気になることでも?」
「あー別にそういう訳じゃないけど。ただそこで幽霊を見た人がいるって話を聞いたから」
「そうですか……一刀殿は血文字と幽霊に関係性があると?」
「どうだろうなぁ。それそのものには関係はないと思うけど。引っかかる所はあるってところかな。悪い、うまく言えない。そもそも血文字と幽霊に関係がないっていうのもほとんど勘みたいなもんなんだよ」

 要領を得ない一刀の説明。
 しかしそれを吟味するように軽く顎を弄りながら稟は唸った。

「いえ、今はその勘も重要な情報かもしれません。留意しておきましょう」

 言葉を発しながらもまだ試作を続けているのか僅かに眉間にしわを寄せる。
 しかし、確かに稟の言う通りかもしれないと一刀は思った。
 なぜか感じる違和感。
 それはとても重要な意味を持っているような気がする。


 ◆

 

 その後二人は愛紗と合流し調査へと乗り出し、まず訪れたのは城壁の上。
 青い空が近くなり心地よい風が城壁の上では流れている。しかしその心地よさには見合わぬ不気味さで石畳には赤い文字が記されていた。

「駄目ですね……私ではこの文字は読めません」
「むぅ、稟でも読めないか……」

 頭を悩ませる二人の少女を尻目に一刀は血文字に見入る。二人には読めなくて当然だ。なぜならばそこに在った文字はひらがな。これを読むことができるのは一刀か、あるいはこの世界の理外にいる者達だけだろう。
 声には出さず不吉な呪いの言葉を読み上げる。
 
『ほんごうかずとはここでしぬ』

 北郷一刀は此処で死ぬ。 
 また、だ。
 わずかな痛みを想起しながらその言葉をじっくりと飲み干す。
 記された内容に意味はない。
 記されたことにこそ意味がある。
 この血文字は呪詛ではなく予言。
 死ぬと予言されたのならば、いつか、或いはかつて、北郷一刀は確かに此処で死を迎えるのだ。

「ご主人様、どうかされましたか?随分と険しい表情をされていましたが」
「いや、なんでもない」

 愛紗の問いかけ。しかし声は振るえなかった。うまく内心は隠せただろう。自画自賛になるが、我ながら冷静な対応を取れたと一刀は思った。まるで予行演習をしていたかのようだった。

「ここはもういいだろ。次に行かないか?」

 一刀の言葉に二人は頷き、歩き始めた。
 不吉な予感は直ぐに消える。今はそれすらも日常なのだ。それでも何故か過る、どうしようもない寂しさだけはいつまでも胸に残った。



 次に向かった場所は城内、その調理場だった。
 此処では城内での食事が賄われるのは勿論のこと、時折華琳が講師となって桃香や蓮華に料理を教えている。
 朝食が終わって調理場も一度清掃したのだろう。床は多少水で濡れていた。
しかしそこにもひらがなで血文字が書かれていた。

『あいしゃとしゅんらんがこらぼ』

 愛紗と春蘭がコラボ。
 調理場。
 この不吉な組み合わせ。
 
「……………なあ、稟。多分だけどここの血文字は特に事件性とかないと思う」
「は?」
「いや多分ていうか間違いなく。ここは無視していい」
「はぁ……」
「あのご主人様、なぜ私をちらちらと怯えた目で見るのでしょうか」

 内心の不安が態度に出てしまったらしい。
 きっと此処で起こったのは血文字の内容通りの惨劇なのだ。
 それはそれで恐ろしいが、そこで死人が出たとしても自身を取り巻く不可解な現象とは何ら関係ない。だから気にする必要はないだろう。
 訳が分からないのか不思議そうに首を傾げる稟。
 同じく疑問符を浮かべる愛紗。
 一刀自身も理由は分からないが、愛紗と春蘭が調理場にいる時は決して近付かないように固く誓った。

「あれ、でも」

 不可解な現象とは関係ない。
 自分で考えたことだが、『不可解な現象』とはいったいなんのことだったろうか。



 場内の調査を終えて、城を後にした三人は賑やかな街並みへと足を向けた。
 そして訪れたのは民の憩いの場として用意された大広場である。現代の広場のように噴水や花壇で整備されている訳ではないが、十分なスペースが用意されたその場所は民達の会合や祭、また数え役満☆しすたーずのライブ会場などに利用されていた。今回の記念祭では此処に舞台が設置され、将達が出し物を披露する場所として使われることになっている。

「どうしたんだ稟、顔をしかめて」

 記念祭のため既に準備されている舞台を、いっそ睨むといった表現の方が近しい苦渋の表情で見つめる稟。彼女は一刀の問いかけに、

「いえ、明日は練習があるので」

 と、憂鬱そうに答えた。

「練習?」
 
練習というのは記念祭に将達が用意する出し物のことだろうが、どうにも彼女は乗り気ではないらしい。
 
「ほう、稟もこの舞台で何か演目を披露するのか?私も此処で剣舞を披露することになっている。何処かの、馬鹿ものは、『普通過ぎてつまらん』などとっ…言って…いたがな……!」

 ぎしぎし歯ぎしり鬼愛紗。周りの空気が歪んでいる。

「愛紗、怖いから殺気押さえて。と、稟は何をやるんだ?」
「あまり気にしないでください。できれば記念祭当日も見てほしくはないので」

 そっけなく話を終わらせる。あまり触れてほしくないのだろう。
 しかしそこまでされると逆に興味が出てくる。
 明日か。その練習を覗いて見るのもいいかもしれない。

「さて、調査の方を続けましょう。此方です」

 言って舞台から離れ大広場の片隅、植えられた並木を手で示す。案内されるまま木蔭へと近付くと一本の樹木には、確かにひらがなで血文字が記されていた。

『まつりのぜんじつにころされる』

 祭の前日に殺される。
 それが何を意味しているのかは一刀には分からなかった。
 だが記された文字は記憶する。
 これは覚えて置かなければいけないことだ。何故かは分からないが、そう思った。

 最後に訪れたのは大通りに在る一軒の店だった。
 とはいっても人の気配は感じられず扉も閉まっている。どうやら休業中らしい。

「む、此処は確か星がよく利用していた……」

 そこまで言いかけた愛紗は少しだけ頬を染めて口を噤んだ。
 真面目な彼女のことだ。往来ではそれを口にするのは憚られたのだろう。端的に言えば、この店は女性専門の下着屋だったのだ。
 この店はある意味で有名だった。
 取り扱う商品の質は良いが店員が筋骨隆々で黒光りした男、それも女性物の下着だけを身につけた変態だという話である。
 一刀自身噂には聞いていたが、実際に訪れたことはなかった。
 別に下着屋が恥ずかしいなどという理由ではない。種馬と謳われる北郷一刀の思考は最早そんなまともな羞恥心など振り切っている。この店を訪れなかった理由はただ一つ、 多分扉を開いた瞬間モンスターとエンカウントするのが目に見えているからだった。

「…………あれ?」
「ご主人様、どうかされましたか?」
「いや、こういうこと考えているとどっかから『ぶるぁぁぁぁぁぁぁぁ!だぁれが見るだけで眼球を腐食させる程の化け物ですってぇぇぇぇぇ!?』とか言いながら現れると思ったんだけど」
「……疲れているのですね。帰ったら何か体力のつく料理でも用意しましょう」
「うんすみません愛紗さん。その慈しみに満ちた目を止めてくれませんか。あと後半は本気で止めて」

 愛紗が綺麗な笑顔で少し涙を溜めている。その目には溢れんばかりの慈愛が含まれていた。分かりやすく言うとかわいそうな人を見る目である。痛い。優しさが痛い。優しさは時に悪意よりも人を傷つけるのだ。彼女の料理という名の優しさも同様である。

「取り敢えず寸劇はそこまでにして調査を続けましょう」
「あ、ああ。そうだな」

 冷静と言うかなんというか。稟は顔色も変えず流れをぶった切り、話を元に戻した。こういう時は彼女の動じない性格はありがたい。……まあもっとも、敬愛する主が関わった途端、普段の冷静さを失い残念なくらいピンク妄想に耽ってしまうのが彼女なのだが。
 それは置いておくにしても、今は彼女の言う通り調査を続けよう。
 店の扉、その下方の右隅には、不吉な予言が記されている。
 ゆっくりと、一刀はそれを読み上げる。

『なかまはずれがいる。にせもののしょうたいをしれ』

 仲間外れがいる。偽者の正体を知れ。

「どういうことだ、これ?」

 一刀は思わず声を出してしまった。
 それほどに彼の抱いた疑問は強かったのだ。
 言葉の内容が理解できない、ということではない。そもそも先に調べた三つも意味自体は分からなかった。ただ何となく、それは予言なのだと直感した。だからそれを受け入れたに過ぎない。
 しかしこの言葉だけは、予言ではなかった。
 他のものとは明らかに毛色が違う。だがそれまで。それ以上のことはやはりいくら考えても分からなかった。
 当たり前だ。予測を立てようにもそもそも情報が少な過ぎる。もっと前提条件を増やさなければ、いくら考えても意味がない。
 ぐっと体を起こし、一刀は二人に視線を送る。

「悪い、二人ともちょっと用事を思い出した。幽霊の噂は二人で調べといてくれ」
「それは構いませんが、用事ですか?」

 若干眉間に皺を寄せ、不審そうに愛紗が言う。

「ああ、なんか俺達の知らないこと知ってそうなヤツの所に行ってくる」

 それだけ残し一刀は踵を返し人混みに紛れた。
 こういう時何か知っていそうなのはやはりあいつ等だ。
 漢女の方はいなかった。だからあの二人に会いに行こう。
 一人で会いに行くのは危険かもしれないが、同時に何の問題もないと考える自分もいた。
 
 ◆

 目の前には、雑居なビル街の片隅にこそ似合いの、うらぶれた洋風の建物がひっそりと存在していた。
 出された看板には乱雑に店名が書かれている。
 ゲイバー・グリーンリバー
 この場所には多分、あいつ等がいる。
 正直に言えば進んで会いたいと思うような相手ではない。だがこの場所にいる二人の男ならばきっとこちらでは知らない、理外の事実を掴んでいる。今は少しでも情報が欲しい。自分を取り巻くこの違和感の正体をあいつ等ならば知っているはずだ。
 一度店の前で立ち止まり、一刀は呼吸を整える。
 空気を肺に入れて体の熱を冷ます。弱みを見せないように心を落ち着かせる。
これから敵地に飛び込むのだ。たとえやり直せるとしても下手を踏む訳にはいかない。

「って、何考えてるんだ。失敗したらやり直しなんてきかないだろ」

 自分で自分の考えを否定する。
 そんな考えでは駄目だ。 
日和見な自分に喝を入れ、ぐっとドアノブを掴み、ゆっくりと力を込める。
 しかし、

がちゃり。

 回した手は途中で金属音をたてて止まった。
 
「あれ、鍵が掛かってる?」

 何度回しても音を立てるだけで一向に開きはしない。一応念のために扉を強く叩いてみるが反応はない。どうやら誰もいないらしい。

「はぁ、なんだそれ……」

 体から力が抜けていく感覚が自分でも分かった。かなり緊張していたらしい。
 
「おかしいなぁ。あいつ等がいると思ったんだけど」

 朱里は既に眼鏡をかけた導師服の男と出会っている。
 だからこの世界に、確かにヤツらは存在する。
 それなのに、会う事は出来なかった。
 此処にいないというのはタイミングが悪かったのか。
 ヤツらの方が此方を避けているのか。

 ────或いは、今はまだ会えないのか。

「仕方ない。もう一度時間がある時に来よう」

 結局何一つ得るモノもなく一日が終わる。
 思考に纏わりつく違和感は消えないまま、一刀は帰路についた。




 第四話 了




[27170] 第五話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/09 23:29

<記念祭・二日前>

「はい、右・左・右・左、そこでくるっと回ってにっこり笑顔!」

 都の大広場、そこに設営された記念祭用の舞台から響く少女の声。

「あれ、この声……七乃?」

 声の方に視線を向ければ、肝心の七乃の姿はなかったが、代わりに舞台の上で三人の少女が輝かしいまでの笑顔で歌とダンスを繰り広げている。「飛び散る汗、爽やかな笑顔」では古臭い表現かもしれないが、舞台の上の少女達はそんなキャッチコピーが似合いの様子である。
 三人の少女は入れ替わり立ち替わり舞台を所狭しと踊り回り、眩いばかりの笑顔を振りまいている。
 その中には、確かに昨日言っていた通り稟の姿があった。

「つーか稟、歌めちゃくちゃ上手いな」

 意外だった。
 踊りながらも息を切らすことはなく透明な声が響き渡る。真面目な話、天和達とタメを張れるかもしれない。 
 その見事さに少しばかり感動した一刀は、敬意を表するために一度場を離れて水の入った竹筒を四つ用意する。自分でも思うが随分安い敬意だった。

「しかし練習ってこれのことだったのか」

 昨日調査の時に軽く稟が零した『練習』。彼女達の出し物はどうやらこの歌とダンスらしい。三人組のダンスユニットというところか。見に来てほしくないとも言っていたが、普段は真面目な稟だ。こういった姿を見られるのは恥ずかしいのかもしれない。

「よー稟、見に来たぞー」

 しかしそこは北郷一刀。少女が恥ずかしがる姿はむしろ大好物である。当たり前のように練習をしている三人に近付いていく。
 
「…………はっ!?か、一刀殿っ!?なぜ此処に!?」

 その声に動きを止め、一刀の姿を見つけた瞬間、稟は湯沸かし沸騰機並みの速度で頬を染め、身を竦ませた。当然そこで練習は中断である。
 谷間を強調する扇情的なライン。ホットパンツによって晒された眩い太腿。白を基調とした中に緑をアクセントとしたその衣装は、しすたーずのようなアイドル調ではなく現代のダンスユニットのような動きやすさを重視したものだった。その分露出は多く、取りあえず一刀の心境を分かり易く表現すると『真面目そうな普段とのギャップにやられた』ということであり、端的に言えば『ムラムラします』である。

「……これはつまりテイクアウトしていいってことだよな?」

 流れるような動作で舞台に上がり、がっしりと稟の肩を掴み種馬スマイルを見せつける一刀。

「よく分かりませんがそれだけは違うと断言できます」

 しかしそこは稟、冷静に回避する。それでも若干頬が赤いのは流石北郷一刀と言うべきか。

「つれないなぁ稟は」
「一刀殿の節操のなさも相変わらずのようで安心しました」
「皮肉が効くね」
「なら自重しては?」
「まあ無理だな」

 小さな笑いが零れる。
 昨日は調査ばかりだったため、その分も取り返すようにお互い軽い冗談を交わし合う。その意図を稟も組んだのだろう。小気味のいいリズムだった。

「なんだお館、見に来たのか」
「おお主様。いらっしゃいなのじゃー」

 同じく舞台で踊りを披露していた二人の少女も練習を止め一刀の傍まで近付いてきた。
 蜀の武将・魏延、真名を焔耶。
 三国一の名家を謳う袁家のお嬢様・袁術、真名を美羽。
 およそ接点のなさそうな二人は、稟と似た肌に張り付くような白の衣装を身に纏っている。それぞれ谷間や脇、腿など露出は多い。まあ美羽に関しては致命的に凹凸が足りていないため、色っぽさとは縁のない感じだが。まあ、あれだ。世の中にはいろんな趣味の人間がいる。幼女の艶姿に反応する人間もいるだろう。
 余計な思考は外に置いて三人を見ると微かに息を弾ませながら少しだけ肌を汗に濡らしている。おどりながら歌うのはやはり結構ハードなのだろう。普段鍛錬をしている焔耶もやはり息を切らしていた。

「お疲れさん。差し入れ、っていう程のもんじゃないけど水持ってきた」
「おお、お館にしては気が効いているじゃないか。有難く貰おう」
「むぅ、蜂蜜水ではないのかや?」
「済みません気を使っていただいて」

 三者三様の態度で水を受け取り、ものすごい勢いで呑み干していく。余程喉が乾いていたのか。一瞬で竹筒に入った水はなくなった。ていうか焔耶、女の子が『ぷはぁ』は止めようぜ。一刀は思ったが勿論口にはしない、後が怖いから。

「もう一刀さんってば練習の邪魔しちゃ駄目じゃないですか。もう本番まであと二日なのに」

 溜息と共に、掛け声の主がようやく姿を現した。どうやら舞台袖で練習を監督していたらしい。
 将、というか袁術付きのお目付け役といった方が正しい彼女の名は張勲、その真名を七乃という。髪型はショートで、アクセントにヘアピンをあしらっている。白を基調とした、現代の楽隊のような服装。可愛らしい笑顔の下に見え隠れする、なんとなーく底意地の悪そうな雰囲気。総合的に見れば、美人だが油断できない相手というのが少女への印象だった。

「悪い悪い。七乃も、はい」
「貰いますけど。皆さーん少し休憩したらまた練習に戻りますからね!」

 その言葉にそれぞれ返事を口にして、気を抜いたように三人は雑談を交わし始めた。というか、あの二人と普通に話している美羽の姿は凄く違和感があった。というのも一刀の中では美羽という女の子は名家故の尊大さ、幼いが故の短絡さで少々コミュニケーションに難があるという評価だったからだ。それが普通に会話している辺り、ほんの少しだけ奇妙な感覚を覚えた。
まあ、乱世が終わって一年近く経とうとしている。その間に彼女も少し成長したということなのだろう。
 そんな少女にほんの少しだけ笑顔を落とし、一刀は七乃に向き合った。

「しかし練習に精が出るなぁ」
「そうですねー。あと二日ですからしっかりやらないと」
「そういや、三人にも数え役満☆しすたーずみたいなグループ名……じゃなかった、名前あるのか?」
「ええ勿論です。お嬢様を中心とした、女性三人組だんすゆにっと!その名も『あいどる・ま……」
「ゴホンッ、んっ!そうだ、最近幽霊が出るって噂があるけど七乃は何か聞いてないか?」

 自分で聞いておいてなんだが、嫌な予感がしたため無理やり会話をぶった切る。一応此処に明言しておこう。声優なんて知らない。中の人などいない。

「いいえ?特にそういう話は聞いていないですねー。まあそれはそれとして、彼女達は!その名もあいどる……」
「げふんげんっ!あー!ちょっと喉の調子がおかしいなぁ!」
「もう一刀さんってば風邪ですか?そういえば見るからに頭悪そうですからね。お嬢様に近付かないでくださいね穢れますから。ああ、そういえば『ます』と言えば、その名もあい……」
「無理やり過ぎるだろその流れ!?どんだけ名乗りたいんだよ!?言うの邪魔してんだよ気付けよ!ていうか気付いてんだろ!?何危ないこと言おうとしてんだよっ!?あと何だ頭悪そうって!?」

 もう突っ込みどころが多すぎて間に合わねぇ。
 取り敢えずこの娘を自由にさせたら大変な事になる。それだけは嫌というほど理解ができた一刀だった。


 ◆


「そういや、七乃は歌や踊りに参加しないのか?」

 気を落ち着けて、もう一度冷静に話を始める。最初に浮かんだ疑問はそれだった。折角だから七乃も参加すればいいのに、という純粋な感想である。

「興味がない訳じゃないですけどねー、私は興行主ですから参加する訳にはいかないんですよ」
「へ?興行主?」
「一刀さんは勘違いしてるみたいですけど、私達の出し物は歌と踊りではなく『歌と踊りを見せる場所』の方なんですよ。此処に案内があるのでどうぞー」

 そう言って、七乃はパンフレットのようなものを一刀に渡す。
 それにはこう書かれていた。

『三国合同歌謡大会
 
 <概要>
  我ら三国同盟は数え役満☆しすたーずに続く新たな歌い手を募集しています。
 其処で隠れた才能を発掘するために記念祭当日、一般参加型の歌謡大会を開くこととなりまし  た。歌や踊りに自身のある方、奮ってご参加ください。
  優勝者には賞金及び、常識の範囲内であるならば、各人が望む賞品が“天の御使い”北郷一刀 より授与されます。
                     

・規約説明

1・原則として一組三人の参加とする。四人以上での登録は不可。ただし三人以下の人数での登録(個人、或いは二人)は可。
2・舞台で披露する歌謡・舞踏は未発表の、自身による創作に限る。盗作が発覚した場合は参加資格を剥奪し、後日太守・北郷一刀より刑を言い渡す。 
3・審査は大会審査員、及び一般投票によって行われる。
4・優勝者には賞金および賞品の授与、また数え役満☆しすたーずと同じく北郷一刀の支援を受け三国で音楽活動を行う権利を与える。 
                                           』
     
 まずは一通り読み終えての感想。

「うん、俺が知らないうちに俺の支援が賞品になってるのはどういうことだ?」
「今の時点でも参加者はかなり集まっていますから、本番も楽しみにしていてくださいね?」
「……無視なのね。いや、いいけどさ。つまり素人参加型の公開オーディションってことか。本当の出し物はこっちな訳だ」

 呆れながらも感心して一刀は唸った。
 色々引っかかる所はあるが、出し物自体は流石七乃と言うべき内容であった。
 民に娯楽を提供し、天和達に続く新たな才能を発掘し、尚且つ北郷一刀が賞罰を与えることによって『天の御使い』の」権威を民達に意識させる。
 記念祭の出し物に政治的な意図を盛り込む辺りは、戦乱の時代袁術に仕え国政をほとんで一人で請け負ってきた大将軍の手腕此処に在りというものである。
 何が凄いって、国に関わることを独断で進める行動力が凄い。

「恐れ入った。流石に七乃だな」
「いえいえ、そういう一刀さんこそ一目で意図を読み取る辺り中々ですよー。やっぱり曹操さんと孫策さんが仕込んでる帝王学がよかったでしょうか?」
「仕込むって言うなよ……」

 まあ実際その二人は戦乱の後、少しでも王らしくなるためにと様々な知識を一刀と、あと桃香にも詰め込んでいる。折角学校のない世界に来たのに結局此処でも勉強は必要だった。あれだ、人間一生勉強というヤツである。

「ん?でも大会の方が出し物なら、稟達はなんで歌の練習をしてるんだ?」
「一般参加者だけだとやっぱり盛り上がりに欠けますからねー。それなりに顔を知られている将や軍師が参加すれば面白いと思いません?」
「なるほどなぁ。確かに知ってる有名人がこういう企画に出てきたら何となくうれしいかも」
「それに」
 
 焔耶達との雑談を終わらせた稟がいつの間にか隣にいた。先程までの笑顔は鳴りをひそめ、軍師としての彼女の顔になっている。

「何より大会を通じ、公の場で三国は手を取り合っているのだと知らしめることができます。記念祭は民に三国同盟を意識させる絶好の機会。利用しない手はないでしょう」

 あまりにも直接的すぎる言葉で稟が言った。聡明ではあるが飾り気のない、稟らしい言葉だった。

「だから蜀から焔耶・魏から稟・呉の将じゃないけど呉の預かりになってる美羽の三人組か。つくづく見事だよなぁ。みんな見習ってほしいくらいだ。というか、美羽はともかく焔耶はよく参加したよな?こういうの嫌がると思ったけど」

 その言葉に憮然とした表情のままで焔耶は言った。

「正直に言えばこんな軟弱な真似は好きではない。しかしこれも三国の平和、即ち桃香様のため、ワタシが恥をかく程度で済むならやるさ」

 おお、忠義の士が此処に一人。

「そうですねー。もしかしたら舞台を見た桃香ちゃんから『わー焔耶ちゃん可愛いよぉ』なんて言葉が貰えるかもしれませんし」
「なっなななななななな!?違うっ!?ワタシはそんな不埒な事を考えてなど!それは勿論桃香様に見ていただければ、お褒めの言葉を頂ければと思いはしたが!」

 前言撤回、欲望の徒だった。
 そしてそれを聞いた稟は真剣な表情で、しかし顔を真っ赤に染め上げた。

「そう、ですね。或いは華琳様もこの舞台を見ることに」
「え、稟?」
「……舞台で歌う私の姿を見詰め不敵に笑う華琳様は静かに言う。『優勝なさい、その暁には閨でご褒美をあげましょう』約束を交わした私は記念祭で優勝しその夜誘われるままに華琳様と共に……。華琳様の白魚のような手が私の身体を捕らえると着物をはだけさせ透明な肌を重ね合わせ……ぶはっ……!」
「稟ーーー!?」
「血が、血がかかったのじゃー!?」

 一刀の見ている前で、稟は鼻血を盛大に空へと舞い上がらせた。
 そして練習の効果なのか、やけに美しいターンで血をまき散らせながら倒れ込む。無駄に優美な倒れ方だった。

「いや、しかし桃香様……ああ駄目です!お、お館まで!?」

 騒ぎを余所に妄想に耽る焔耶。どうやら一刀も登場したらしい。

「七乃、七乃ー!?ぬるぬるするのじゃー!?助けてたもー!?」
「ああ、そう、ぬるぬるするのです……もう、もう私は……華琳様」

 慌てる美羽。その声に反応しさらなる情欲の海へ飛び込む稟。
 駄目だこいつら。さっきまでの感心返せ。

「ホントに大丈夫かこの三人で……」
「いやですねぇ一刀さんってば。大丈夫ですよ」

 いつもと変わらぬ声でからからと笑う七乃。ただ視線は明後日の方を向いている。もし本当に大丈夫と思っているならせめて目を合わせて言って欲しかった。

「まあとにかく!あと二日で完璧に仕上げます!彼女達が優勝すれば賞金は払わなくてもいいですし、後は上位に食い込んだ人達に声をかければ隠れた才能の発掘という目的は果たせます。そのためには確実に優勝できるよう練習しないと!」

 ……そういうことか。
 確かに彼女達が優勝すれば金銭は払う必要はない。その上で大会で実力を見せた一般参加者には「残念でしたねー。優勝は逃したので支援はあまりできませんが三国を回って活動してみませんか?」と声をかければ、格安で人員を確保できる。成程、細部まで練り込まれた政策であった。その是非は置いておくにしても。

(まあいいか。これも、祭の騒ぎのうちかな)

 苦笑を零しててんやわんやの大広場の様相を一刀は眺める。
 しかし、突如として日中の暖かさとは相容れぬ冷えた声が空気を震わせた。






「残念ながら、それは無理というものですが」

 




 平穏といっても差支えない穏やかな午後に響く嘲りさえ含んだ声音。
 弾かれるように一刀はその声の方向に振り返り、その主を睨みつける。
 立ち並ぶ二つの影。
 一刀はその姿に見覚えがあった。
 かつて北郷一刀と敵対した管理者。
 外史を否定するモノ。
 二人の男は悠然と、昼下がりの大広場に姿を現した。

「お前はさ……」
「貴方達二人は鬼畜☆MEGANE!?」
「……じ、っていや、あの、え?」

 しかし、シリアスな空気は一瞬にして吹き飛ぶ。
『お前は左慈!?何故ここに!?』と叫ぼうとしたが、その言葉を七乃の訳の分からない驚愕にかき消された。
 七乃は険しい表情で二人を睨みつけている。あ、いや違う。睨みつけているふりをしているだけだ。口元は何故かにまにまという笑いを堪えている。

「あのーナナノサン?あちらのオフタガタお知り合いですか?」
「ふむ、状況をつかめていない者がいるようなので自己紹介をさせていただきましょう。私はタケ、こちらの金髪で甘いマスクの彼はヒカル。我ら二人は『鬼畜☆MEGANE』という名前で三国合同歌謡大会に参加するのですよ」

 折角の自己紹介だったが、目の前にいるのはどう見ても左慈と干吉だった。
 言い訳のしようがないくらい左慈と干吉だった。
 たとえ下はハーフパンツ、上はシャツなしで短いジャケットを引っ掻けて胸板を晒し、頭にはハチマキ足にはローラスケートを身につけるという全体的に八十年代センスのアイドル衣装だったとしても、それは左慈と干吉だったのだ……!

「むぅ、あやつらまた来たのか。しつこい奴らなのじゃ」

 血を七乃に拭って貰った美羽がいかにも面倒臭そうに息を吐いた。

「またって、前にも来たのか?」
「うむ、何度も大会に参加しても意味がないから練習なんてやめろと言ってくるのじゃ」
「ええ。どうせ優勝するのは私とヒカルなのですから、参加しても意味がないでしょう?ならばこんな練習などせずにもっと有意義な時間の使い方があるというもの。言ってみればこれは私の優しさです」

 タケ(干吉)は眼鏡をきゅぴーんと輝かせて、とうとうと語って見せた。
 ゲイバーの次はアイドルごっこかよ。本気で頭が痛い一刀であった。と言うよりも、まさかゲイバーにいなかったのはこんなことをしてたから?

「うわぁ、恥ずかし……」 

 一刀は思いっきり赤面した。
 そんなことも知らずに昨日は店の前で『或いは、今はまだ会えないのか』とか厨二な独白とかやってしまった。叶うならば初日をやり直したいくらいである。
 恥ずかしさ半分、呆れ半分くらいの気持ちで一刀は左慈に声をかける。干吉に、ではないのは何かまともに答えが返ってきそうになかったからだ。 

「なあ左慈、お前何やってんだよ……」
「違う!俺は左慈などではない!」
「いやどうみたってお前左慈……」
「だから違うと言っている!俺はあくまで鬼畜☆MEGANEのヒカル!断じて…断じて左慈などという男ではないっ!……くぅ…違うんだぁ……」

 どうやら自分はヒカルだと思い込むことでどうにか壊れそうな心を守っているらしかった。ぐっと涙を堪える姿が何となく芝居がかっている辺りアイドルとしての素養が意外とあるのか、或いは干吉に仕込まれたのか。どちらかは分からないが割と真面目に苦悩している様はいっそ哀れである。
 
「……なぁ本気でなんでこんなことになってんだ?」
「あの変態眼鏡が折角の前夜祭だから楽しめるうちに楽しもうと言い出して……」
「あ、分かったもういい。言わないでいい。悪い、嫌なこと聞いた」
「……済まん」

 なんというか、こんな弱気な左慈は初めてだった。
 多分楽しむのは干吉だけで振り回される左慈は言わずもがなな心境なのだろう。なんだろう、この迸るばかりのシンパシー。振り回されることに関しては一日の長がある一刀は左慈にある種の友情すら感じていた。人それを同病相憐れむという。

「ふっ、所詮胸の谷間や太腿を晒して男性に媚を売るしか能のない小娘どもに響く私達のラブ☆ビートを止めることなどできません。その無様さを衆目にさらす前に去った方が良いのではないですか?」

 反対に干吉はノリノリだった。
 見てるこっちが寒くなるくらいノリノリだった。

「……大変なんだな。まあその、頑張れとは言わないけど、何とか踏ん張れよ?」
「……つくづく済まん」

 何か今ならこの男と友達になれるかもしれない。そんな感想を抱いたのは偶然にも一人だけではなかった。

「言ったな。その言葉、宣戦布告と取る。ワタシ達の前に立ち塞がるのならば全力を持ってその身を砕くだけだ!」

 干吉の訳の分からないテンションに引きずられたのか、焔耶がずいと一歩前に出た。ていうかあくまでこれは三国歌謡大会の話である。彼女は歌と踊りでどうやって相手を砕く気なのだろう。あれか、彼女は歌を魔法にして敵にぶつけられる人種なのか。

「ふ、野蛮な行いは性に合いませんが、私と華琳様の蜜月を邪魔するものは早々に舞台から降りてもらいましょう。約束を破るのは野蛮な行いよりも性に合いませんから」 

 いつの間にか復活した鼻血軍師もまた眼鏡をくいっと上げて、そのレンズ越しに目の前の敵に不敵な視線を送る。微かに鼻血を垂らしながらクールに決める稟。クールというかシュールだった。後、約束なんて端からねぇ。それは全てお前の妄想だ。

「む、むむむむむ?そもそも大会は二日後で歌を審査するのは都の民じゃろ?妄達が此処で言い争っても意味がないのではないのかや?」

 当然の疑問を空気も読まずに零す幼女。
 なんてことだろう。この場で一番まともな発言をするのがよもや美羽とは。

「駄目ですよ、美羽様。こういう時はちゃんと受けて立たないと、王としての品格を疑われてしまうものなんですから」
「むむ?そういうものかの?」
「はい、そうなんですよー」
「うむ!ならば妄もあやつらと戦うのじゃ!」

 しかしその意見すらも、一を聞いて十を知り、敢えてそのうち八ぐらいは悪意を持って改変する素敵変換機能の持ち主によって修正された。もしかしたら、というかもしかしないでも、美羽が若干アレな感じなのは七乃の教育の賜物ではなかろーか。

「そういうことだ。戦いを前に尻込みをする者達はワタシ達の中にはいない」
「しかし此処で血を流すのも無粋。決着は二日後」
「大会で白黒つけるのじゃー!」

 三人はそれぞれの決意を胸に、高らかに戦いの意思を掲げた。

「ふっ、いいでしょう。貴方達は我ら鬼畜☆MEGANEが直々に叩き潰すことを此処に宣言するっ!」

 対するタケ(干吉)もまた、それでこそ我が好敵手と言わんばかりの表情で、彼女達の闘気を受けて立つ。

「面白くなってきましたねー」

 にこにこ笑う多分一番の元凶。
 最も今更彼女を止めたところで状況が好転することはない。
『鬼畜☆MEGANE』と『あい○る・○○たー』。
 既にその決戦の火蓋は切って落とされたのである────

 ◆

「……北郷一刀、お前も大変だな」
「……まあね。俺の場合は楽しくもあるけど、暴走したら手のつけられない人が多いから」
「……空が、青いな」
「……ああ」
「……行くか」
「……そうだな」

 その片隅で、ひっそりと咲く友情の花が一つ。
 晴れ渡る蒼穹は高く遠くどこか寂しげに見える。
 静かに二人は喧騒を後にする。
 微かに視界が滲んだ。
 きっと、幸せな情景を前にして感極まってしまったのだろう。


 ◆


「でも左慈とこうやって普通に話をするとは思ってなかった」

 広場から離れ、通りに差し掛かかろうという所で一刀は不意にそう零した。

「ふん、それは俺もだ。お前は外史を乱立させることになった元凶。俺にとっては最悪の敵だ」
「その割には何か友好的だな?」
「この“世界”においては敵ではない。それだけの話だ」

 そこで左慈は視線を切った。
 この話は此処で終わり、ということらしい。

「そんなことよりも、聞きたいことがあるのだろう?今は気分がいい。答えられる範囲で答えてやる」
「……聞きたいこと」
「どうした、こんな気紛れはもうないぞ」
「……いや、正直な所を言うと、何を聞けばいいか分からない。違和感があるのは分かる。でも幽霊といい血文字といい、最近よく見る変な夢といい、それが何を意味するのかが分からないんだ」

 そう気になることは多く在る。
 幽霊の正体は何なのか。
 血文字の意味は。
 何度も見る、自分が死ぬ夢の正体は。
 何もかも分からないことだらけだった。
 だから、何を聞けばいいのか。

「北郷一刀」

 深く思考の海に沈み込みそうになった意識が、男の低い声によって引き上げられた。目の前では左慈が真っすぐに瞳を見詰めていた。

「貴様がこの“世界”に違和を覚えたのならばそれを突き詰めろ。貴様等が許容する矛盾こそがこの“世界”の真実だ。そして、成すべきことが分からぬのならまずはニセモノの正体を知れ。そのニセモノこそがこの繰り返しの“世界”のすべてだ。もう一つ、『仲間外れは一人だけ』だ。忘れるなよ」

 一息に言う。ニセモノ。それは確かに血文字にもあった。ニセモノとはいったい誰のことを指すのか。

「おや、楽しそうですね左慈。浮気ですか?」

 飄々とした声が響く。いつの間にか、音も立てずに干吉が忍び寄ってきていたのだ。

「気配を断って近付くな悪趣味な奴め」
「これは失礼。しかし、態々ヒントとは貴方にしては随分優しいですね左慈」
「五月蠅い!俺にも分別くらいはある。この“世界”においては北郷一刀は敵じゃない。仲間とまでは言わんが時が経てば立ち位置を同じくすることになる。
それならこれ位の助言は許容範囲だろうが」
「確かに……では私からも。『ニセモノは知らない筈のことを知っている』『ホンモノは知っている筈のことを知らない』努々お忘れなきよう。もっとも私としてはもう少し彼がもがく姿を楽しみたくはあるのですが」
「この変態め。ふん、まあいい。北郷一刀、忘れるなよ」

 そう言って二人は並んで歩き始めた。
「おい、待ってくれよ」
「これ以上のことは、今は意味がない。どうせすぐに忘れるだろうからな。だが何度も繰り返せば綻びも大きくなりいずれ記憶を保持することもできるようになるだろう。それまではせいぜい日常を繰り返せ。ニセモノの正体が分かったら店に来い。答え合わせをしてやる」
「店って『ゲイバー・グリーンリバー』のことか?」
「分かっているなら口にするなっ!くっ、なんであんな所を拠点にしないといけないんだ」
「あんな所とは酷いですね。私と貴方の愛の巣だというのに」
「お前は黙れ……」

 いらいらとした様子で左慈は干吉を睨みつけた。干吉の方は相変わらず飄々としている。なんだかんだでこの二人はいいコンビなのだろう。
 そうして二人はこの場を後にした。
 しかし一刀は追いすがることはしない。することに意味はないし、何よりも得るものが在った。

 ───ニセモノ、か。

 新たな指針を与えてくれた左慈に小さく感謝を。
 しばらくの間、一刀はその場に立ち尽くし、ローラースケートを走らせて人混みに消えていった二人を見送った。




 第五話 了




[27170] 第六話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/09 23:32

<記念祭・前日>

 三国の平穏を象徴する都の城。
 その城内にある庭園は、整然と樹木が立ち並び芝生を敷く詰めて、美しい緑に溢れていた。慌ただしい国務の最中に在って穏やかさを忘れぬようにと整備された庭園は城内の人間の憩いの場所となっている。
 しかし今その憩いの場所は、対峙する二人の少女によって、憩いとは程遠い場所へと変貌していた。

 一方は北郷一刀の片腕となり魏国の安寧に従事する、魏国警備隊副隊長・楽進。その真名を凪。
 対するは呉国に所属し周瑜によって才覚を見出され、その師事の下勉学に励む未来の大都督・呂蒙。その真名を亞莎。

 昼下がりの憩いの時。
 穏やかな午後の庭園で睨み合う二人の少女。
 ひりつく風が吹く。
 空気そのものの重圧を感じる。
 一種独特の緊張感が満ちた庭園で互いの呼吸音だけがやけに耳を突く。
 まるで時間が止まってしまったような錯覚。
 しかし、

 対峙は、ほんの一瞬だった。
 
 ゆらりと凪の身体が揺れたかと思えば、重苦しい空気を切り裂くように彼女は駈け出し、二人の距離が一瞬にして詰まる。
 ずうん。
 響く鈍い音。
 その音は少女が大地を蹴った音なのだと、誰が信じるだろう。
 華奢な体躯には似合わぬ、大地を震わせるかのような、沈み込む程の踏み込み。
 それによって溜め込まれた力が足を伝わり上半身へ、そして一点、振るわれる腕、その先に在る拳へと集約される。
 それは刹那の瞬間に、亞莎の腹部、その鳩尾を目掛けて突き出された。
 傍目にはただの拳撃。
 されどそれは美しいまでの力の循環によって構築された、飽くなき鍛錬と実践が生み出した一撃である。
 並の者ならば何をされたかも分からないままに地へと伏さすその一手。
 しかし、相手もさる者。

「ふっ」

 短い呼気。凪の肉薄を予見していた亞莎は、その機会に合わせ後ろへと飛び間合いを外す。そして着地と同時にひらひらと揺れる長い袖から黒い何かが軌跡を描きながら繰り出された。
 鎖分銅である。
 相応の速度を持てば人を死に至らしめるに足る威力を持つそれは、正確に凪の眼球を狙っている。
 されど凪は怯まず。
 回避など端から考えはしない。
 不器用に、愚直に、ただ前へ進むことのみが彼女の武の証。
 ならばこそ避け得ぬ死の予感を前にした凪は。
 避けずに、前へとさらに踏み込んだ。
 もしも眼球に向け投げられた鎖分銅に怯めばそれは確実に直撃しただろう。避けようと距離をとれば亞莎が鎖を操り凪は成す術もなく捕縛されただろう。
 たが彼女が前へと踏み込んだことにより、分銅は予定された着弾地点から外れ凪の頬を僅かに切り裂く程度で終わった。
 ぞくり。嫌な予感が亞莎の背中を走った。
 攻撃の瞬間を狙って放った必殺の一手をふいにされ、間合いを更に詰められた。
 零距離。
 互いの吐息がかかる程に肉薄したこの位置は明らかに相手の距離。
 此処は拙い。
 助走を取れない狭い空間で凪は体を捻り、その反発によって再度拳を繰り出す。
 今度は、亞莎は距離を取らなかった。正確に言えば取れなかった。この状況で無理に下がろうとすれば直撃を喰らう。故に逃げることはできない。
 突き出される拳。
 それに合わせて愛用の爪型の暗器を持って、凪の腕を覆う手甲『閻王』に斬り掛った。
 金属音がぶつかり合う甲高い音が響く
 だがそれでは止められない。
 元より亞莎と凪では膂力が違う。
 たとえ武器を使ったとて亞莎では凪の攻撃を止めることはできない。
 せいぜいが勢いを殺す程度である。

 ────だが、それでいい。

 亞莎は薄く笑った。
 勢いをほんの少しだけ殺した凪の拳にぶつかった状態で爪を全力で固定する。それと同時に亞莎は地を蹴る。支えをなくした小柄な彼女の身体は、拳に押される形で勢いよく宙へ舞った。
 避けられない筈の攻撃を、逆らわぬことで受け流し、相手の力を利用して悠々と逃げ去って見せたのである。
 万全の状態ならば凪も追撃が出来ただろう。しかし体勢を崩した至近距離から、体の捻りだけで拳を放った彼女にそれだけの余裕はなかった。悠然と距離を開ける亞莎を前に、ただその様を眺めているしかできない。
 そうして完全に距離が離れる。
 一瞬の交錯は、互いに決定打を与えることなく終わった。

「流石、凪さんです」
「亞莎殿も」

 交わされた言葉はごく短い。しかしそれで充分。一度戦端を切ったならば言葉など虚飾に過ぎぬ。互いの意は武を持って語ればいい。譲れぬならば勝利にて我を通せばいい。故に、口は開かない。
 ただ凪の視線は、刃物の如き鋭さで語っている。

 ────私からは譲らんぞ。

その声ならぬ言葉を平然と受け、亞莎もまた声も出さずに瞳をもって返す。

 ────私も、負ける訳には参りません。

 凪も亞莎も視線に籠められた意を、互いに間違えることはなかった。
 ならばその行動に間違いも無い。
 今度は逃がさない。
 二人は相手の絶殺を胸に再び距離を、


 



「ってちょっと待てやあああああああああああああああああ!?」

 距離を詰めようとして、絹を裂くような北郷一刀の悲鳴を聞いて足を止めた。

「隊長、ご安心ください。すぐに決着をつけます」
「そうです一刀様。私、勝ちますから安心して見ていてくださいね」
「安心できねーよ!?今の戦いのどこに安心できる要素があるんだよ!?凪は鳩尾普通に狙うし亞莎は目を狙ってるし!殺る気満々じゃねーか!?暴力駄目!ゼッタイ!」

 その訴えに対し、一刀と同じくその戦いを眺めていた観衆から声が上がる。

「いいじゃないのよ、それくらいじゃないと見ごたえがないわ」

 とは雪蓮の言。

「まったくや。それにしても二人ともやるやないの」

 ご満悦の霞。

「主も腰を据えて見ては如何かな?これだけのものは中々見れませんぞ」

 手に在る酒を煽る星。

「私としては限りなく北郷に同意したいが、まあ止めても無駄だろうな」

 最後の良心・冥琳が疲れたように溜息を漏らす。

 さて、二人が全力全開でバトっているのには勿論理由があった。それは、少しだけ時間を遡った、まだこの庭園が皆の憩いの場だった時の話である。


 ◆

「凪っちって、なんや犬みたいやなぁ」

 麗らかな午後の風に吹かれながら、皆集まってのお茶会だった。
 お茶会、と言っても皆手にしているのは酒の入った器である。外聞が悪いのでお茶会という表現を使ったが、実際の所は昼間っからの宴会だった。 
参加者は前述の通り、一刀・星・霞・凪・亞莎・雪蓮・冥琳の七人である。取りとめも共通点もないメンバーだが、それも当然であった。
 
 最初は霞が庭園で酒を呑んでいたのだが、一人ではつまらないと偶然通りかかった凪と一刀を無理やり引き込んだ。酒の匂いにつられたのか星と雪蓮が現れちゃっかり参加し、これまた偶然通りかかった冥琳と亞莎を誘った。二人とも仕事をしている様子だったが亞莎は王の命令に逆らえず、冥琳は逆らっても無駄な事を知っているため何も言わず、この訳の分からない宴会が始まったのである。

 そんな中で紫の髪を結わい和装を着崩したような格好した女性、神速の張遼の異名を取る女性、霞は思いついたように台詞を口走った。

「犬、ですか」

 いきなりの言葉に困惑したように凪は声を上げた。その様子はいかにもおろおろとしており、成程確かに子犬のようではあった。

「そうそう髪型もなんやけど。一刀に対する懐きっぷりとか、何だかんだで甘え上手な所とか、なんつーか全体的に犬っぽいんよ凪は」
「あら、それならうちの亞莎だって負けてないわ。ちっちゃな体でぴこぴこ一刀についてく姿は小犬みたいだもの。たぶん尻尾があったら振りっぱなしよ?」

 がっぱがっぱと酒を空けながら、雪蓮もそれに乗っかってきた。喋りながらも酒を呑むペースが変わらないのはいかなる魔法だろうか。霞も雪蓮も止まることなく酒を消費し続けている。

「ああ、そうそう凪っちもそんな感じ!尻尾があったら振り過ぎで多分千切れとるわ。もうかわえーなーホントに!」
「って霞様、胸を触らないでください!」
「えー、いいやんこれくらい。あれ、なんや怒っとる?」
「お、怒ってはいませんが。ですが犬と言われて喜ぶ人間はあまりいないかと……」
「そうですよ雪蓮様……」

 犬に例えられたのが不服なのか、二人して異議を申し立てる。とは言え身分で言えば圧倒的に上な相手であるため否定の言葉も弱かった。

「別に馬鹿にしてゆーとるわけちゃうよ?可愛くて一刀に懐いてるっていうのを表現したかっただけやし。なあ一刀?」
「そこで俺に降る意味は分からないけど……まあ、犬って忠義の象徴みたいな扱われ方するから凪や亞莎には似合った表現だよな。ハチ公もそうだし」

 代わりに盲目的に命令へ従う者へは「○○の犬っ!」という風に罵倒表現として使われる訳だが、それは今は言わなくてもいいだろう。態々気分を害するような事を口にする必要もない。
 
「主、その“はちこう”とはいったい?」

 北方常山の登り竜・趙雲。その真名を星。
 彼女は一刀が出した名前に疑問符を浮かべ問うた。

「俺の国にいた犬で、ご主人様が死んでもその人が帰ってくるのを死ぬまで待ち続けたっていう話があるんだ。だから犬って忠義深い印象が強いんだよな」

 最も説によっては忠犬ではない、という話もあるのだがそれはどうでもいいことである。

「ほう?つまり天では犬と称されるのは忠義の深い者なのですな。所が変われば言葉の使い方も変わる、ということでしょうか」
「いや、何もそればっかりって訳じゃないよ。霞や雪蓮が言うように可愛い女の子の形容に子犬見たいって使う場合もあるし」

 一刀としては、何気なく零した言葉だった
 しかしその何気ない会話には、何やら心の琴線に触れるものがあったのか。

「犬と称されるのは……最も忠義の深い者……」
「一刀様にとって…可愛い…女の子……」

 若干言葉に改変が見られるがそれは置いておくにしても、途端ニ人の少女の目の色が静かに変わった。

「ま、まあ私は警備隊の副隊長として誰よりも隊長に忠義を誓っているつもりです。自分で言うのもなんですが、犬と呼ばれても不思議ではないと思います」
「え、凪?」

 まさかの犬呼ばわり肯定であった。
 それに対し、普段は引っ込み思案な亞莎が微かに体を震わせながら、それでも前へ出てきた。

「わ、私だって……一刀様に忠義を持ってお仕えしています。一刀様の犬ならば私だって……」
「亞莎まで!?」
「いや、亞莎殿が仕えるのは孫家だろう。やはりここは私の方が」
「それを言うなら凪さんだって正確に言えば仕えている相手は曹操様ではないですか」
「わ、私は警備隊の一員として隊長に忠義を持っているからいいんだ。それに今は都に所属しているのだから太守である隊長に忠義を持つのは当然であり……」
「な、なら私が一刀様に忠義を抱いてもおかしくないです」

 ぐっと見詰める瞳はまっすぐである。しかし負けぬと凪は語気を強めた。

「私はいつも町へ散歩に連れて行ってもらっている。私の方が犬に近い」
「おい、凪。もしかして散歩って警邏のことか?いつからそんな事を言うようになったんですか凪さん」
「そ、それなら私だって……毎晩し、躾をしてもらってます。それに餌だって時々貰います。わ、私の方がいいい犬です」
「躾ってなんだ躾って。夜、一緒に勉強してるだけだろ。後餌ってゴマ団子だろ?頼むから言葉を選んでくれ亞莎」

 一刀の言葉を無視して二人は熱くなっていく。ちなみに傍から見ている雪蓮も霞も星も面白そうにニヤニヤと笑っていた。止める気は全くないらしい。

「だが私は任務成功の褒美代わりにいつも隊長に抱いてもらっている!言ってみれば雌犬!隊長に飼われているようなもの!私の方が犬に相応しい!」
「で、でも私は呉国に降り立った天の御使い様の子種を頂くために選ばれた人間でもあります!いわば肌馬ならぬ肌犬!私の方が犬に相応しいです!」
「何言っちゃってんのこの娘達!?ていうかお願いだから俺の話も聞いてくれよ!?」

 亞莎の言葉に習うならば一刀は飼い主ではなく同じ犬になる訳だがそこまで頭は回らなかったらしい。そして凪。犬と雌犬には天と地ほどの差がある。意味合いが全く違っている事に気付け。しかし一刀の叫びは届かない。

「こ、子種っ!?ふっ、ふふふ…ふふふふふ……。いいだろう。そこまで言うのならば決着をつけるだけの話だ」
「どちらが一刀様の犬に相応しいか、ですね」

 瞬間、二人の視線が鋭くなる。
 あらん限りの殺気をその目に宿す二人の少女。
 

 そして冒頭に戻る。
 二人の少女は一刀の犬としてどちらが相応しいか、その実力を持って示そうとその武の限りを尽くし戦いを始めたのであった。
 言ってみればこれは女の尊厳をかけた戦い。
 彼女達にしてみれば決して譲れない聖戦なのだ。

「隊長の犬の座は譲らん!」
「わ、私だって!一刀様の犬は私一人で十分です!」
「だから何でだぁぁぁぁぁ!?なんだ犬の座って!?そんなもん争って勝ち取るようなもんじゃねーだろどう考えても!?」

 だが二人には価値のあるポジションらしい。女の尊厳は賭けて戦うが、人としての尊厳は二人にとってあんまり価値のないものなのかもしれない。
 
「くっ、俺じゃ二人を止められない……こういう時は、冥琳!困った時の冥琳!上にも下にも問題児を抱えて毎日走り回っている冥琳の出番だ!何か言ってやってくれ!」
「ふむ、なにか……か」

一度中指で眼鏡の位置を直し、二人の少女の顔を交互に見た後、静かに語り始めた。

「純粋な“強さ”という観点から見れば凪に分があるだろう。しかし亞莎は暗器使い。相手の“強さ”を発揮させず封殺することこそが本分。故に当たれば一撃で勝負を決められる凪が優勢、だがある意味では互角、といったところか」
「誰が戦況分析しろっつったよ!?そうじゃなくて、止めてくれって言ってるの!」
「止めろと言われてもな。はっきり言うが、軍師としては私が亞莎の師だが武では足元にも及ばん。止めるのは無理だ」

 困ったように、それでも笑顔は崩さずに、冥琳は言った。その声はどこか柔らかくまるで子供の悪戯をいさめる母親のような優しさがあった。

「あと、真実は時に悪意よりも人の心を抉ると覚えておけ」

 片手で頭を抱え二、三度首を振る冥琳。……上にも下にも問題児を抱えて毎日走り回っている冥琳、という表現がお気に召さなかったらしい。

「あの、その、えっとごめんな?」
「なに、お前の言は的を射ている。祭殿や秋蘭の指示を受ければ或いはいい狙撃手になるかもしれんぞ?なんなら鍛えて貰えるよう話をつけるが」
「勘弁してください……ていうか話をつけるって、祭さんはともかく秋蘭と仲いいのか?」
「最近は互いに杯を交わしている。お互い手のかかる大きな子供を抱える身、通じるものがあってな」

 くすりと小さく笑いを零し、雪蓮の方に視線を向けた。

「成程、向こうも春蘭の起こす騒ぎに苦労してるもんなぁ」
「そういうことだ」
「まぁ手のかかる子供程可愛い、っていう考えも一緒みたいだし。案外似てるのかもな二人とも」
「予想外の所から反撃してきたな……」
「これでも軍師見習いですから。かの美周郎に師事を受けた手前、下手な事は言えないよ」
「これはまた師匠冥利に尽きることを言ってくれる。天の御使いだと拾って来た時は正直辟易としたが、今となっては雪蓮の慧眼を褒めるしかないな」

 穏やかに笑い合う二人。心地よい午後を飾る日常の一幕。

「で、いいのか?向こうは」
「……現実逃避してたんだよちくせう」

 言って冥琳が指をさす方向には、心地よい午後をぶっ壊す光景が繰り広げられていた。
 エスカレートする凪対亞莎の超人バトル。流琉や季衣のような周りに被害の出る大型武器を使っていないのはせめてもの救いだが、やばい。あれはやばい。放っといたらマジで人死が出る。
 しかし冥琳では止められないと言う。

「なら、他の三人にっ!」

 助けを求めようと向き合えば、

「なかなかっ…やるじゃない……」
「そういうアンタこそな。まさかウチにここまで付いてこれるとは思わんかった」
「この程度で驚かれては困る。まだまだ先は長いですぞ」
「ようゆうた。吐いた唾は呑まれへんで」
「元より承知」
「私は記念祭で呑み比べ大会を開くんだけど……その前に此処で三国一を決めておくのも悪くないわね」
「ならばっ」
「おかわりを!」

 酒くっさい三人の美女。
 なんかこっちはこっちで呑み比べなんてやっていやがった。地面を見ると開けられた酒樽がいくつも転がっている。……数えるのは止めておこう、恐ろしすぎる。
 結論、誰も止められねぇ。
 一刀は怨みがましい目で冥琳を見遣る。こういうとき率先して諫めてくれる筈の彼女は、混沌とした宴会の様相をむしろ優しい眼つきで眺めている。

「ん?どうした北郷」
「いや、こういう時冥琳は絶対止めてくれると思ったのに」
「そう不服そうな目で見るな。折角の前夜祭だ、派手な方がいいだろう?」

 言いながら冥琳もまた一杯酒を煽る。もっとも、恐ろしい勢いで酒を呑み干していく三人とは比べ物にもならないほど優美な所作だった。

「前夜祭……?」
「記念祭の前日だから間違いではないだろう?滅多にないことだ。多少羽目を外すくらいは許してやれ」

 彼女の中では、あの惨状は多少なのだろうか。普段祭や雪蓮を怒っていると気を考えれば少しばかり違和感はあった。
 
「それに二人の心配をしているようだが安心しろ。亞莎も凪も急所を狙っているようで相手に防げないような手は打っていない。言ってみればあれは子犬のじゃれ合いだ」
「子犬のじゃれ合いって、そんなレベルじゃないだろ……でもまあ、冥琳がそういうなら信用する」

 ようやく腰を落ち着け、一刀もまた杯を持って酒を呑み干す。酔わなきゃやってられない気分だった。
 そんな様子の一刀を見て、冥琳が無邪気に微笑む。そっと風に吹かれ長い黒髪が踊った。美しい、と。混沌とした宴会の最中に在って一刀は純粋にそう感じた。

「冥琳、何かあった?今日は随分楽しそうだけど。あんまり怒らないし」
「別に私もいつも怒っている訳でもないさ。ただ楽しそうに見えた、というのなら確かにそうだろう。変わったことは別にないが、強いて言えば日常の幸福を噛みしめているといったところか」
「日常の、幸福?」
「ああ。三国が手を取り合って騒がしく過ごす。誰もが笑顔で、争うことも無く、毎日が過ぎていく。つい一年ほど前には誰も想像もしなかった光景だ」
「そうだよな。俺達、戦ってたんだもんな」
「それが何一つ失わず、こうして笑い合い酒を呑む日常が訪れた。それを思えば、多少騒がしくても怒る気にはなれんさ。ずっと、こんな日が続けばいいな」

 まるで間遠の景色を眺めるように冥琳は目を細める。彼女が映している景色は、一刀が今見る景色と変らないはずだった。それなのに一刀には、冥琳が何を見ているのか分からなかった。

「なあ冥琳……」
「そうだ。二人を止めたいのならこう言ってやれ」

 問い質そうとした瞬間、冥琳は声を被せ、一刀の耳元で小さく呟いた。だから一刀は自分のしようとした質問を忘れることにした。きっとそれは聞いても意味がないことだ。
 彼女の吐息が耳を擽る。一瞬の暖かさはすぐに離れ、見詰めた彼女の表情は悪戯っぽく口元が吊り上っていた。

「マジで?」
 
 彼女の言葉が信じられず思わず訊き返す。
 こくん、と笑顔で冥琳が頷く。一刀は半信半疑で立ち上がった。そして冥琳の言った二人を止める『魔法の言葉』を大声で叫んだ。

「凪!亞莎!おすわりっ!」

 瞬間、時が止まった。

「わん!」
「わ、わんっ!」

 高らかに犬の鳴き声を響かせて、二人の少女は軽く曲げた手を顔の横に寄せて、一刀の前で屈み込んだ。
 つまり二人は、本当に『おすわり』のポーズを取ったのだった。
 犬っぽいとは言っていたが、自分は犬だと凪も亞莎も言ってはいたが。まさか二人が本当に『おすわり』をするとは。一刀は茫然とその様に見入り、そこでようやく二人は自分達の行いに気がついたのか、顔を真っ赤にする。
 その姿を見た雪蓮達も大爆笑。酒が入ったせいもあるのか異常なテンションで転がり回りひたすら笑った。
 ばたん。
 余りの羞恥に耐えかねたのか凪が倒れる。「凪さん、凪さーん!?」大慌て亞莎。ここぞとばかりに凪の胸を揉む霞。真似をしてまだ意識のある亞莎の胸を揉む雪蓮。それを肴に「はっはっは、では私が三国一ということで」と酒を呑み続ける。だがそれで負けを認める二人ではない。雪蓮も霞も胸は揉んだままに酒を呑み始めた。三国一酒豪決定戦再開である。
 高らかに笑い声が響く。
 そんな壊れた宴会をたおやかな様相で冥琳は眺めている。
 カオス。迸る程にカオス。

「ああ、本当に」

 騒がしいことこの上ない。
 だけどそれがおかしくて一刀も一緒になって笑った
 高く遠い空に、楽しげな声が還っていく。蒼穹の下で繰り広げられる喧噪は日が暮れるまで続いたのであった。

 




 だけど、

『ずっと、こんな日が続けばいいな』

 その言葉が、何故か耳に残った。


 ◆


 日が落ちて訪れた肌寒い夜の刻限。
 一刀は何をするでもなく居室の机の上に肘を突いて項垂れていた。
 記念祭を翌日に控え興奮のせいか眠れない。
 眠気を誘うためにも少し散歩でもして体を動かそうとも思ったが、

『しばらくは夜間の外出を控える方が無難だろう。お前はこの都の太守なのだ。軽率な行動は取ってくれるなよ』

 今日の昼間受けた、秋蘭からの忠告があった。
 それに何か嫌な予感がする。だから外へ出かけることはせず、ただぼーっと自室で時間を潰していた。

「あれ、今日の宴会って秋蘭いたっけな……」

 いなかったような気がする。だとすればその忠告は言ったいつ聞いたのか。随分酒を呑んでいたから、気付かない内にいつの間にか参加していたのかもしれない。
 そう自分を納得させて、一刀はふと思い出した事柄に声を上げた。

「あ、そういえば」

 一昨日の朝、ベットの下に竹簡が転がっているのを見つけたのに、そのままに放置したままだった。ちゃんと片付けておかないといけない。

「しかし自分専属のメイドに殴り倒されるって……もうちょっと詠も優しくしてくれればいいのに」

 竹簡を見つけた時のことを思い出しながら、ベットの下に転がっているそれを取り出す。何が書いてあっただろうか。思い出せず、開けて中身を確認する。
 そこには、何処かで見た文字のように、ひらがなの羅列があった。

『おこったことをかきしるせ。おわったらまたべっとのしたにもどせ。もじはだれかにみられてもわからないようにひらがなでかけ』

「起こった事を書き記せ。終わったらまたベットの下に戻せ。文字は誰かに見られても分からないようにひらがなで書け……」

 間違いなく、一刀自身の字でそれは書かれていた。

「なんだろこれ……こんなのいつ書いたっけ」

 よく分からなかった。しかし、それは重要なもののような気がして、一刀はもう一度机に戻る。そして墨と筆を用意した。
 竹簡はこう書かれている。

『三日間を繰り返す』
『幽霊は一人じゃない』
『記念祭の前日に死ぬ。注意』

 意味は分からない。だが一刀は何の疑いも無く、自身も意味の分からない言葉を書き記す。

『仲間外れがいる。偽者の正体を知れ』
『偽者は知らない筈のことを知っている』
『本物は知っている筈のことを知らない』

「こんなところかな……」

 ふうと一息ついて筆を置く。それとほぼ同時に、部屋の扉を叩く音が聞こえた。

「一刀、起きてる?」
「えっ!?起きてるぞ!?」

 急な来客に驚き、一刀は竹簡を大慌てで丸めまたベットの下に投げ込んだ。なんか『そういう本』を隠してるみたいだ、と一刀は思った。
 そして扉の方に応対へ行けば、そこには薄い桃色の髪をした少女が立っていた。胸元からへその辺りまで見事に開いた赤を基調とした扇情的な衣装、しかし下品さを感じられないのは彼女の高貴な生まれ故だろうか。
 孫呉の系譜に名を連ねる、生粋の王族。
 名を孫権、真名を蓮華。
 通称、あーぱーねーさんとふりーだむ妹に囲まれて真面目にならざるを得なかった苦労人である。
 
「ごめんなさい、夜遅くに」
「いやどうせ寝れなかったから大丈夫。どうしたの?」
「これ……」

 そう言って見せたお盆の上には茶器と二つの茶碗、そしてお湯が置かれている。

「今日、華琳に茶の入れ方を習ったの。だから一刀にも味わってもらおうと思って」
「へぇ。あ、取りあえず入って」

 立ち話もなんだろう。
 部屋の中へ案内すると、すぐさま蓮華は机にかった。そして早速準備を始め出す。
 かちゃかちゃと音を立てる茶器。
 部屋の机で茶の準備をする蓮華の背中を見ながら一刀はベッドの上に座って待っている。

「お茶を美味しく淹れるのって大変なんだろ?」
「ええ、何度も華琳に怒られたわ。お茶を淹れるのって難しいのね」
「華琳は完璧主義だからなぁ」
「でも最後には合格をもらえたわ。期待していてね」

 背中からでも彼女の楽しそうな雰囲気を感じられる。王として毅然と皆の前に立っている彼女も凛々しくて魅力的だが、蓮華は二人の時には気を抜いて自然に振舞ってくれる。それは、彼女がそれだけ一刀に心を許しているという証拠だろう。だから一刀はこうやって普通の女の子をしている蓮華の姿が堪らなく好きで、飽きることなくその様を見詰めていた。

「……あれ?」

 ただその大きく空いた服の背から覗く褐色の肌を見ながら、しかし一刀はその後ろ姿に、ほんの少しだけ違和感を覚える。その違和感が何か理解できた時、一刀は既に口を開いていた。

「なぁ、蓮華って髪長かったよな?」
 
 湧いた疑問。
 彼女は以前、出会った時確かに長い髪をしていた。彼女が髪を短くしたのはいつだったか。そして、何故切ったのだったろう。確か、彼女が髪を切った理由は、何か大切なものだったような気がする。

「ええ、貴方と初めて会った時はまだ長かったわ」
「何で切ったんだったっけ?」
「何を言ってるの?貴方が短い髪の私も見たいって言ったんじゃない」
「あれ、そうだっけ?」
「そうよ、おかしな一刀。……それともまさか、他の女にも似たような言葉を言っているから分からなくなったのかしら」
「あー!思い出した思い出した!俺が言ったんだったよ!」

 ヤンファが降臨しそうになったので慌てて彼女の言葉を肯定する。
 実際よく覚えてはいないが、彼女がそういうからには多分そう言ったのだろう。だから自分の勘違いだ。戦に赴く際、涙を堪え、髪を南海覇王で切り裂いて軍を指揮する蓮華の姿なんて、そんなものは初めからなかったのだ。

「はい、召し上がれ」

 言っているうちにお茶が淹れた蓮華が一刀の隣に沿うように座った。手にはお盆、そして湯気を立てる茶碗がある。

「ありがと。じゃ、いただきます」

 喉を通る心地よい熱さ。程よい苦味が気分を落ち着けてくれた。

「うん、美味いよ」
「よかった、練習した甲斐があったわ」
「でも先生が華琳じゃ厳しかっただろ?」
「ええ。でも一刀に喜んでもらえたなら華琳に感謝ね」

 そして笑う。
 王の顔ではない。一人の少女の、本当に嬉しそうな笑顔だった。それを心穏やかに見つめながら、ちょっとからかおうと意地悪な事を言ってみる。
 
「でもお茶って刺激物だから夜寝る前はよくないらしいんだよな。ちゃんと寝れるかなぁ」
「大丈夫よ」

 しかし一刀の戯言に、にっこりと笑顔で返す蓮華。
 そして、

「そろそろ効いてくると思うから」

 その言葉を聞き終えるよりも早く、一刀は茶碗を床に落とした。
 部屋に響く陶器の割れる音。それさえも遠く感じられるほど自身の感覚が覚束ない。座っていることすら出来ずに一刀はベットの上に倒れ込んだ。

「なんだ……これ、蓮華、いったい、らりを」

 呂律が回らない。体がうまく動かない。寝転がったままの一刀は見上げる形で蓮華に疑問を投げかける。しかし、彼女が何かを言う前に、その手に在る茶碗を見て一刀は答えに思い当った。

 毒、だ。

 それが蓮華の持つ茶碗を見た瞬間理解できた。
 蓮華が誰かを殺すなら毒を使う。一刀は何故かそれを確信していた。彼女にとって命を奪う手段として毒以上に確実なものは存在しない。だって彼女の姉は毒矢によって────
 待て何を考えている北郷一刀。雪蓮はちゃんと生きている。今日の昼だって会った。三国の王、劉備・孫策・曹操は手を取り合い同盟が結ばれた。ならば雪蓮が生きているのは当然だ。雪蓮が生きていなければこの“世界”は成り立たない。

『なかまはずれがいる。にせもののしょうたいをしれ』

 だから、その矛盾は気付かなくていい。気付いてはいけない。それに気づけば何か、大切なものが消えてしまう。
 だけど、それは。

『貴様がこの“世界”に違和を覚えたのならばそれを突き詰めろ。貴様等が許容する矛盾こそがこの“世界”の真実だ』
 
 それは、ずっと探していた違和感の答えではないのだろうか。

 壊れ往く意識。崩れ往く自我。考えは纏まらない。やっと掴んだ真実の尻尾を逃さぬように歯を食い縛り、一刀は蓮華を睨みつける。
 末期の命が向ける視線を逸らさずに、むしろ穏やかな微笑で受ける蓮華は 、そっと一刀の頬に手を触れた。そしてそのまま自身の方へと彼の身体を導き、優しく、本当に優しく、口付けを交わした
 重なり合う唇。
 絡み合う舌。
 喉の奥へと流し込まれる、苦みを感じさせる液体。

 ───ああ、なんて甘い。
    溶けるような死の味わい。

 一刀は痺れるほどの死の予感を前にして、しかしある種の幸福観すら感じてしまっていた。駄目押しに毒を流し込まれた。それが如何なる毒なのかは理解できないが、呼吸すらままならない自身の身体を考えればもはや致死量は完全に超えているだろう。おそらくは即効性の致死毒。それをたらふく飲まされて意識を失っていないだけでも一刀の精神力は称賛に値する。
 しかしそれでも、どうしようもなく終わりは訪れる。
 小覇王と謳われた英傑が一本の毒矢によって命を落としたように。
 北郷一刀もまた、ここで死を迎える。

「ごめんなさい、一刀。でも……」

 遠く近く蓮華の声が聞こえる。
 今日は満月。
 外では月の光が夜の街並みを青白く染め上げていることだろう。
 しかし自室の寝床の上で動くこともできずに悶える一刀が最後に見た月の姿は、

「でも、よかった……これでずっと一緒よ」

 少女の笑みに浮かぶ、薄く紅い三日月だった。

 
 終幕




 第六話 了




[27170] 第七話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/11 23:13

 小さく、息を吐く。

 随分と長い時間その本を読み続けているせいだろうか。体には微かな疲労が溜まっていた。
 橙の空は今尚続き、夜の訪れは未だ遠い。
 大丈夫。まだ時間はある。
 少しだけ休憩しよう。
 疲れた心身を休めるために、『私』は今まで淀みなく動いていた手を止めて、天井を見上げた。

 机の上には一冊の本が置かれている。
 文字など一つも書かれていない白紙の本。
 その本に記されているのは、『私』にしか知る事のできない物語だ。

 そこに在る内容を簡潔に語るとするならば、これは愚かな少女の繰り返すだけの日々だ。
 それはまるで自身の尻尾にじゃれつく子犬。
 傍目には可愛らしく映り、心を穏やかにしてくれるかもしれない。
 けれどその行いの果てに得るものはなく、前に進むことは決してない。
 ぐるぐる。
 ぐるぐる。
 同じ場所でただ回り続けるだけ。
 ここに記された物語も同じ。ぐるぐると繰り返すだけで、決して得るものはない。
 
 だから。
 その日々は誰にとっても無意味であり。
 しかし『私』にとっては掛け替えのないものだった。

 失われていくだけの日々。
 分かり切った結末。
 それでも尚望まずにはいられなかった、幼さを残す憧憬。
  
 そうして過ごす年月の果て、それでも最後まで残った大切なものがある。
 
 その暖かさを愛し子のように優しく抱え、『私』は白紙の本に視線を戻した。
 
 さて、十分に休んだ。
 そろそろ続きを読み進めよう。
『私』は今一度、白紙の本に触れた。

 


 ─────これからも続く、繰り返す日々の眩しさに目を細めながら。





 ◆






<記念祭・三日前>

 息苦しい。
 うまく呼吸が出来ない。
 体が動かない。
 いったい、どうしてしまったのか。
 訪れた朝の気配を感じながらも、北郷一刀は起き上がることが出来ないまま横たわっていた。

 今朝は毒を呑み干し死に至る夢を見た。しかし夢の終わりを知りながらこの意識はまだ夢を見ているのか。夢の中と同じ溶けるような死の感覚が目覚めの後も続いている。
 毒がまわったように痺れる身体。
 鼻腔を擽る甘い香り。
 かつて在った死の名残を味わいながら、それでも瞼によって外界から遮られた瞳は眩しさを感じている。
 一刀は唯一自由になる瞼をゆっくりと開いた。
 そして、

「って、そりゃ起き上がれないよな……」

 自分の体の上で気持ちよさそうに寝息を立てる、二人の幼……少女の姿を認めてやれやれと苦笑を零した。

「むにゃむにゃ…お兄ちゃーん……」
「にいちゃん…むぅ、だめだよ……」

 赤い髪を短く整え虎をあしらった髪飾りをつけ、真紅のマフラーを纏った、見るからに溌剌そうな幼い女の子。名を張飛──真名を鈴々。
 もう一人はピンクの髪を二つに縛った女の子。魏武の大剣の妹分、許緒。その真名を季衣という。
 一刀を兄と呼び慕う彼女らは、何故か分からないが一刀の上でしっかり睡眠をとっていた。まあ大方起こしに来たはいいが麗らかな陽気に誘われてつい眠ってしまった、という程度の話だろう。それ以上の理由があるのなら聞いてみたいくらいのものである。それくらい二人は単じゅ……げふんげふん、非常に素直で純真かつ爛漫なのだ。

「んにゃあ……すぴー」

 鈴々が微かに寝息をたてて身じろいだ。彼女の体が右腕の上に在るせいで、一刀の手はかなりのしびれを感じていた。季衣はちょうど一刀の身体を中心として、鈴々と対称になる形で眠っている。いくら軽いとはいえ人を二人も体に乗せていれば体も痺れるというものである。
 朝から重かった体も痺れるような感覚もそのせいだった。
 だから、体に毒が残っているなんて、そんなことはない。
 そんなことはなかった。昨日は何事もなく眠りについたのだ。 

「おーい、二人ともそろそろ起きてくれー」

 二人の身体の下敷きになっていた手をゆっくりと抜き、軽く体を揺する。

「もー食べられないのだ……」
「に…ちゃん、…かな……よ。…願い…か…」
 
 べったべたな寝言を口にする鈴々。季衣の寝言はかすれ気味でよく聞こえなかった。けれど悲しい夢でも見ているのか。一刀の身体に必死になってしがみついている。その姿は縋りつくようにさえ見えた

「起きそうにないなぁ……」

 さて、どうしたものか。今日の朝議は三国の王が集う。遅刻する訳にはいかないのだが、ここまでぐっすり眠っていると起こすも気が引ける。
 
「ん……なんか忘れているような」

 今日は朝議よりも前に、何かあったような気が。
 寝転がったままつらつらと思考を巡らせていると、控えめな音で扉がノックされた。
 瞬間、これから起こることが脳裏に浮かんだ。
 
 しまった、これがあった。
 
 何故毎朝のことだというのに忘れていたのか。
 朝になると侍女の二人、そのどちらかが一刀のことを起こしにくる。しかし今日は、大切な朝議があるためか月と詠の二人が一緒にやってくるのだ。

「やばい……おい!鈴々、季衣、起きろっ!お願いだから起きてくれ!」

 大慌てで二人を揺り起こすが目を覚ます気配は全くない。
 一刀は本気で焦っていた。この状況。鈴々と季衣が同衾している様は、その真実がどうあれ、傍目には朝っぱらから幼女二人を連れ込んだ変態太守の図である。
 これを月と詠に見られたらどうなるだろう。
 一刀にはもう流れが大体読めていた。
 この惨状をみて月赤面→なんてものを月に見せるのよと詠激怒→しこたま殴られる。誤解だというのに聞く耳持たず、自分は意識を失うことになるのだ。

「失礼します、ご主人様」

 すうと部屋の空気が流れた。僅かに軋んだ扉が少しずつ開かれる。

「ちょ、ちょっと待って月……!」

 その扉を開けてはいけない。
 開けたら最後、俺は大切なものを失う。足元まで忍び寄る闇に慄きながら一刀はそれでも救いを求めるように手を伸ばし、

「ご主人様、おはよ────」

 ここに、審判の時は来た。
 月の言葉は途中で止まった。口を半開きにしたままで、どうすればいいのか分からず、ただ眼前に人がる光景を眺めている。
 その瞳が映し出すのは、幼女二人と同衾する己が主の姿。
 見ようによっては一刀が幼女二人をはべらしているように見えるかもしれない。というか、彼のこれまでを顧みればそうとしか見えない。
 そして、この様を見てわなわなと震えながら顔を赤くしているメイドさんも、
同じ意見を持ったのだろう。
 終わった……。
 一刀は既に殴られる覚悟を決めていた。

「どうしたの月?」
「へぅ~、詠ちゃ~ん」

 情けない声を上げながら親友に縋る少女。後ろから現れた詠はベッドの上で三人仲良く体を重ね合わせている姿を見て、一度目線を切って下を向いた。

『朝から何やってるのよこのち○こ太守!』

 そう言われると思ったのだが、いつまで経っても罵倒の言葉は出てこない。

 あれ、おかしいな。
 いつもなら詠は真っ赤になって怒るはずなのに。

 と一刀が疑問に思った瞬間、ゆっくりと体を左右に振り始める詠。その振り子運動は次第に大きくなり、最後には上半身の全てを使って大きく∞を描き出した。
 一歩。
 詠は一刀に近付く。
 一歩、また一歩。

「え、詠?おーい詠ちゃーん。なんか勘違いしてるみたいだけど誤解。誤解だから。ね?」

 妙な圧迫感からか、ベッドの上から飛び降りて両手を突きだし停戦を申し立てる。「にゃ!?」「わぁ!?」と二つの声が聞こえた。しかし今はそれに構っている暇はない。
 懇願するように視線を送る。だが詠は大股で最後の一歩を踏み出し、沈み込むような前傾姿勢から、

「フン!」
「でんぷしーっ!?」

 突き上げるようなボディブロー。込み上げる嗚咽。しかし彼女は止まらない。大きく流れた体を引き戻し顔面に打ち下ろされる右。軽く意識が飛んだ。
 尚も止まらない。拳。返す拳。拳。拳。拳拳拳拳。
 ∞の軌跡を描きながら放たれる、前が見えなくなるほどの拳の弾幕。
 一刀には反論する暇さえ、呼吸する暇さえ与えられない。
 そして、

「とどめっ!」

 最後の一撃が肝臓を直撃し、一刀は床へ倒れ込んだ。崩れ落ちる瞬間、一刀は詠の目を見てしまった。彼女の瞳は完全に蔑む目をしていた。

「だから…誤解だって……」

 リバーブロー→ガゼルパンチ→デンプシーロールと着実に進化する詠。次は何を身につけるのだろうか。
 だが何を身に付けたとて最早それを知る術は一刀にはない。既にその身は死に体。その先を見ることなどできはしない。
 穏やかな光が部屋に差し込んでいる。
 その眩しさを目に留め。
 何一つ成し得ぬまま。
 北郷一刀は、虫けらのように息絶えた。

 

 終幕









 ◆


「─────って息絶えてたまるかっ!」

 芋虫のように地面を転がった状態から少しだけ上半身を浮かせて脚力だけで飛び上がる。まさに『座ったままの姿勢でジャンプを!?』というヤツである。
 それを、やっぱり冷たい目のままで詠は見詰めている。

「……なんだ、生きてたの?」
「生きてるわ!つーかマジで殺す気だったの!?」
「朝から女の子を連れ込んでいやらしいことをしてるようなち○こ太守、死んだ方が民のためになるわよ」
「だから誤解!気付いたら二人がいつの間にかいたんだよ。ほら、二人とも何か言ってやって!」

 ベッドの上にいる二人に声をかける。

「まだ眠いのだ……」
「んー……」

 だがこんな騒ぎがあっても未だ寝ぼけているのか、鈴々も季衣もゆらゆらと体を揺らしている。デンプシー的な意味ではなく。その様を見て何かに思い当ったのか、詠の目は更に鋭くなる。

「そう、朝から連れ込んだんじゃなくて昨日からってこと?だから二人とも……」
「違うって!」
「あ、あの……ご主人様。あんまり詠ちゃんを怒らないであげてください。きっとご主人様にあまり構ってもらえないのから、二人が羨ましくてついあんなことをしてしまったんだと思うんです」
「ちがうわよっ!?ななな何を言ってるのよ」
「でも……」
「ゆ、月ぇ~」
「嫉妬にしてもひど過ぎるだろ……。あと今の発言、さり気に月も俺が二人のこと連れ込んだって思ってるよね?」
「え、えへへ……」

 えへへじゃねぇーよ、いや可愛いけどさ。
 どうやら月も一刀ならば朝っぱらからそういうことをしても不思議ではないと思っていたらしい。

「はぁ……もういいわよ。なんでもいいから早く着替えて玉座の間に行きなさいよ?三国の王は全員集まってるんだから」
「そ、それでは失礼しますねご主人様」

 そう言って二人して一刀の居室を後にする。最後まで幼女二人を連れ込んだ変態太守という誤解は解けなかった。思っていたよりも被害は小さかったが、それでも素直には喜べない。

「納得いかねー……」

 結局、二人とも勘違いを訂正しないまま出て行ってしまった。勿論一刀の普段の行いのせいなのだが、どうにも釈然としないものが残る。

「兄ちゃん、大丈夫?」
「お兄ちゃん、元気出すのだ」

 ようやくしっかり目を覚ましたのか、二人が傍に来てその小さな手で一刀の手を握った。うん、こうなった原因キミたちなんだけど。言いたかったが二人が本当に心配そうな表情をしていたため言うことは出来なかった。掛けられた優しい言葉が目に染みる。だから一刀はほんの少しだけ、涙を零した。



 ◆



「ところでさ、俺を殺そうとする人間に心当たりある?」

 恙無く朝議は終わった。
 そのタイミングを見計らって一刀は、そう切り出した。
最近よく見るようになった、自身が死ぬ夢。それがどうにも気になっている。だから例えば、自分を殺すような人間はどんな者がいるのか。一刀はそれが知りたかった。
 といっても、あくまで夢の話。あまり深刻なものではなく、せいぜいが雑談の延長程度のものである。だから何の気なしに訪ねたのだが、一刀の呑気さとは裏腹に、先の台詞を聞いて朱里は蒼白の容貌を作って見せた。

「はわわっ!?ま、まさかご主人様誰かにお命を狙われているのですか!?はっ!その傷はもしや刺客に!?こ、こうしてはいられません、愛紗しゃんに報告をっ!」

 朱里が朝議の冷静さを捨て去ってあちらこちらと視線をさ迷わせながらはわわる。まさかここまで過敏に反応するとは思っていなかった。

「あ、いや、この傷はべつにそういうのじゃなくて」

 そのあまりの慌てぶりに一刀もやんわりと訂正する。朝もはよからメイドにしこたま殴られました、とは流石に言えなかった。

「心配ないわよ。どうせこの節操無しが女に手を出して、それを侍女に見咎められて罰を受けたというだけの話でしょう」

 言わなくても華琳様には全てお見通しだった。こうも簡単に見透かされるのは彼女の推理力を褒めるべきか自身の行動を見直すべきか。

「誤解だ!……でも大体の流れはあってるのが悔しい」
「ほら御覧なさい。魏の種馬の勇名は尚も健在、といったところかしら?」

 そんな勇名は今すぐにでも返上したいものである。

「いいよ別に。どーせ俺は種馬ですよーだ」
「もう、いじけないの。ねぇ、朱里。貴方なら一刀の質問にどう答えるかしら?」

 雪蓮が多少強引ではあるが、話を戻してくれた。だから小さく頷いて感謝の意を示す。にぱーっと向日葵のような笑顔が咲いた。そんな顔を見せられたらいじけてなんかいられないじゃないか。一刀は苦笑でそれに返した。

「ご主人様を殺そうとする者、ですか。考えられるのは……そうですね。やはり五胡、でしょうか。他には、三国の一部にもそう考えている人がいてもおかしくはないと思います。武力による大陸制覇を考えていた過激派にとって三国同盟は邪魔にしかならないですから」
「そうだな」

 冥琳もそれに同意する。

「正直な所、現在の三国同盟は魏呉蜀が手を取り合っている、というよりは魏呉蜀がそれぞれ天の御使いに従っている、と形容した方が正鵠を射ている。私がこの同盟を破棄させるならば三国に働きかけるより北郷を暗殺する。そうすれば御旗を失くした同盟は勝手に自壊するからな」
「そんなっ!そんなこと……」

 桃香が冥琳の言葉に異を唱えようと口を開くが、それを遮って華琳が言葉を被せる。

「ないとは、言えないわね。この同盟は一刀を中心に三国の王が寄り添うことで成り立っている。民や将兵がお互いへの悪感情を抑制できるのは、単に三国はあくまでも同列であり、天の御使いという理外のモノが同盟の中枢に在るからよ。そうでなければつい最近まで殺し合っていた者の手を取るなんてできるものではないわ」

 そして誰もが黙り込む。忘れかけていたが、三国は殺し合いを繰り広げていた間柄なのだ。それを今更ながら突き付けられた。重苦しくなりそうな空気を感じた一刀はなるべく呑気に聞こえるようぼやくように呟いた。

「う~ん、難しいことは置いておくにしても、つまり俺を殺そうとする人間は、三国同盟を潰したいヤツって事になるのか?」
「もしご主人様を今の時期に狙うなら、その可能性が高いと思います」

 その意を汲み取った朱里がはっきりと言い切った。
 流石に伏龍その機微は見事、しかし答えの方は、一刀としてはあまり納得がいっていなかった。彼女が、三国同盟を潰したがっているとはどうしても思えなかったのだ。彼女が誰なのかは分からない。

「ふむ、納得がいかんか。ならば風はどう思う」

 一刀の様子を見ていた冥琳が、先程から何も言わない風に問う。

「さぁ、風には分かりませんねぇ。お兄さんが死ぬことで得をする人物は多いですから~」

 しかしその問いに、心底どうでもいいといった具合で風は言い捨てた。視線が一点に集中する。いつも眠そうにしている彼女だが、真面目な議論の最中にこんな態度をとることはない。その違和感にこの場にいる全員が困惑していた。

「華琳様、もう風は行ってもよろしいでしょうか~。そろそろ眠くなってきたのです」

 周りの困惑を余所に風はそう言って、返答を待たずこの場を後にしようとする。華琳もあまりのことに反応できずにいた

「って、風。ちょっと待ってくれよ」

 一刀は思わず去っていくその背中に言葉を投げかけた。
 反応した風が振り返る。彼女はいつも通りの、ぽーっと、どこを見ているのか分からないような様子だった。

「お兄さん、風はお兄さんのことが大好きです」

 それなのに、何所か彼女の色は陰っているように見える。

「でも、風は便利な女になるつもりはないのですよ。お兄さんに嫌われたとしてもお兄さんのお手伝いはできません。それは今の質問だけでなく、お兄さんが今調べていることのほとんどに対して」

 強い否定。いや、それは拒絶と言っても差支えない程だった。二の句を告げられない一刀から視線を外し、流れるような所作で風は歩き始めた。

「ではこれで~」

 開いた扉から一瞬だけ光が入り込んで閉ざされる。玉座の間と外界を繋ぐ扉は、風がいなくなって殊更に重々しく見えた。


 ◆


 風の態度は気になるが、そればかり気にしている訳にもいかない。朝議が終わり城から出てきた一刀はまた大通りまで足を運んでいた。
 さて、今度こそ明命に幽霊の話を聞こう。
 以前彼女の元を訪れた時はゴスロリとか猫耳とかあまりに衝撃的だったため肝心の話を聞くことが出来なかった。だから一刀は今度こそと意気込んで彼女の居る猫耳喫茶『天仙娘々』へと足を向けた。以前がいつかは相変わらず思い出せなかった。
 しばらくすると、明命が借りたという茶屋が見えて来た。元々あった店の看板は外されており、代わりに『天仙娘々』と書かれた看板が掲げられている。
 さて、今度はゴスロリ猫耳白明命に負けはしないと意気込んで店に足を踏み入れた瞬間、

「ご主人様、お帰りなさいにゃん!」

 一刀は自分の心臓が機能を失くしたように感じた。
 目の前で少女が笑っている。
 その笑顔は本当に可愛らしいというのに、一刀の胸中に在ったのは困惑、そしてそれを凌駕する恐怖だった。
 黒を基調とした生地を白のフリルで華美なまでに飾ったゴシックロリータを身に纏う少女は、顔の横で猫手を作り、晴れ渡る蒼穹のような笑顔を晒し、にゃんっとポーズを作って魅せた。

 それが、その事実が、何よりも恐ろしい。

 震える指先。乾く唇。一刀は動揺を隠せないままに喋ろうとしたが、声は笑ってしまうくらいに震えた。

「あ、あの、桂花……さん?」

 そう、そこで『にゃんっ♪』とばかりにポーズを決めて魅せたのは、明命ではなく。
 魏が誇る一輪の(嗜好的な意味で)百合の花。
 覇王曹操の傍らに在りて王佐の才と謳われた稀代の軍師。
 その正体は男嫌いの上毒舌ドМの墓穴掘り少女。
 名を荀文若。真名を桂花。
 一刀を笑顔で迎え入れたのは、ツンとデレの黄金比3:7をぶっちぎる10:0のツンツレ娘だったのである……!

「……北郷?」

 どうしたのよ、そんな顔をして。
 おそらくはそう言おうとしたのだろう。しかしその言葉が形になることはなかった。途中で自身のしているある種の美すら醸し出す完璧なまでのにゃんこポーズに気付き、その白い肌を瞬時に朱色へと染め上げた。

「あ、ああ、ああああああ、あああああ」

 ようやく桂花は自身の惨状を理解したのか。
 普段悪しざまに罵っている一刀の前でゴスロリ姿を晒しご主人様と呼び且つにゃんこ。
 その羞恥のコンビネーション。
 桂花はにゃんこポーズをとったまま頭のてっぺんから湯気を出しガクガクブルブル震え出すという非常に器用で奇妙な動きを始めた。
 
「よし、落ち着こう。まずは落ち着こう。俺は忘れる。ゴスロリ猫耳黒桂花なんて初めから存在しなかったんだ。だから桂花も落ち着け」

 なんとか宥めようとするも震動はさらに酷くなって往く。哀れ桂花。きっと明命の調教、もとい教育によってどこかが壊れたのだ。でも安心してくれ桂花、俺はお前を絶対見捨てない。たとえお前が猫から戻れなかったとしてもちゃんと飼い主になってやる。
 一刀はものすっごく優しい目である。
 その視線は見守るようで、父性に溢れ、しかし微かな憐憫を帯びていた。
 分かりやすく言うと可哀想な人を見る目だった。
 桂花にも、そう見えた。見えてしまったのだろう。だから、そこが限界だった。

「にゃーーーーーーーーーーーー!?死ねぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」

 こういうのも一種の照れ隠しなのか、発情期の猫のように襲い来る桂花。
 青空の下で猫神様の悲鳴が木霊する。
 彼女が落ち着くまで実に一時間を要したのであった。









「で、一体何の用よ。まあどうせくだらない内容なんでしょうけど」
「……今更そんな態度で繕ってもあんまり意味ないと思うぞ?」
「ウルサイダマレ」

 キッと睨みつける桂花だがゴスロリ猫耳では何の威圧感も無い。それどころかあの醜態の後ではむしろ微笑ましくさえあった。

「その生温かい目をやめなさいよこの変態!」
「いちいち盛り上がるなぁお前は。まあいいや、実はさ、都に出る幽霊のことを調べてるんだ」
「ふぅん?だから此処でずっと準備をしていて民と触れ合う機会の多いあうあう娘から情報を、ってことね」
「さっすが、話が早い。だから少し話を聞きたかったんだけど、明命いる?」
「いるけど『忙しいから声はかけないでください』とか言ってたわよ」

 そう言って桂花は店の奥に軽く視線を向けた。彼女の言葉に意識を店の奥へと傾けてみれば微かに声が聞こえてくる

『さあ私に続いてください!にゃんにゃんにゃんにゃんにゃんにゃぁ~ん♪みんなぁ、甘寧ネコさんだよぉ?はい、どうぞっ!』
『ま、待て!言うのか!?それを本当に私が言うのか!?』
『当然です!記念祭での出店は雪蓮様から承った立派な任務、ならば全力で当たるのが我らの役目なのです!それとも思春殿は王からの任務を内容でえり好みなさるのですか?』
『そんな訳はないっ!』
『ならばお猫様に、お猫様になるのですっ!』
『くっ、蓮華様……先立つ不幸をお許しください。にゃ、にゃんにゃん……』
『もっと大きく明るい声で!笑顔を忘れない!甘えるように上目遣い!それに手はこうです!常に顔の横で猫手!』

 …………成程、確かに忙しそうだ。
 気のせいか明命の誘導スキルがレベルを上げているような気がした。まあ考えてみれば桂花を猫神様に変えた明命にとっては武将の誘導くらいは楽なのかもしれないが。
 
「うん、今日は明命と会わない方がいいな。なんかよく分からないけどそんな気がする」
「あんたにしては賢明な判断ね」

 うんうんと相槌を打つ猫耳っ娘。珍しく、桂花と通じ合えたような気がした一刀だった。

「仕方ない、また今度来るか」

 正直、今は店の奥に行きたくない。下手したら羞恥に耐えかねた鈴の音に殺されるなんて言う嫌な最期を迎えること呑みなるかもしれないし。一刀は明命と会うことを諦めて、また大通りに戻ろうとする。
 しかし、桂花がそれを呼び止めた。

「待ちなさいよ。情報が手に入るなら別に明命じゃなくてもいいんでしょ?私が知っていることなら教えてあげるわ」

 本日何度目か分からない硬直だった。
 桂花のまさかの申し出であった。
 思わず耳を疑い、目を白黒させる。その態度が気に食わなかったのか、桂花がその可愛らしい容姿から不穏な気配を発する。

「何か言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「いや、桂花が自分から俺の手伝いをしてくれるなんて思わなかったから」

 隠すのも何なので正直に伝える。怒るかもと思ったが、少し視線を逸らしただけで終わった。

「……偶にはいいでしょ。聞きたくないなら別にいいわ、さっさと消えなさいよ」
「俺が悪かった。すまん、桂花。力を貸してくれ」

 そう言って頭を下げる。しばらく無言を貫いたが、桂花は呆れたように溜息を吐いて、感情も載せずに平坦な抑揚で語り始めた。

「私が知ってる幽霊の話は三つよ。一つは城壁の上で笑い声を上げる女の幽霊。毎晩のように出るけど、時折声を上げて幽霊が笑ってるって話を聞いたわ。二つ目は大通りを徘徊する黒い影。これは警備隊から聞いたんだけど、夜になるとさ迷うように黒い影が見え隠れするそうよ。そした最後は」

 そこで桂花は口を噤んだ。
 しかし二、三度首を振って真剣な表情で一刀の瞳を見据えた。

「郊外の森があるでしょ?その奥から、女の泣き声が聞こえるっていう噂を聞いたわ。これが私の知ってる全部。役に立つかどうかは分からないけど」
「いや、助かった。ありがとう桂花」
「ふんっ!止めてよ。あんたからの感謝の言葉なんて吐き気がするわ」

 そう言いながらも少しだけ頬を染めている。本当に、こういう所は可愛いのだが。

「でも今日はおかしな日だなぁ。風が手伝ってくれなかったり、妙に桂花が協力的だったり」
「風が?あんた、見捨てられたんじゃない?」
「そんなことはないと思うんだけど」

 彼女自身『大好き』とまで言ってくれたのだ。だからきっと風には風の、手伝えない理由があるのだ。自分を納得させるように言い聞かせる。

「ああ、そう言えば」
「ん?」
「郊外の森に行くなら、明日がいいわ。多分明日なら幽霊に会えると思うから」

 何故そんなことを知っているのか、と聞きたかった。
 けれど桂花が自身の肩を抱くように震えたから。
 一刀は何も聞かずに去ろうと思った。きっと今は傍にいてほしくないだろう。軽く片手をあげて別れを告げる。

「分かった、ありがと。じゃあ、帰るな?」
「にゃん♪いってらっしゃいませ、ごしゅじ……ごほん!さっさと帰りなさいよ」

 溢れんばかりの笑顔が途中で強張った不機嫌面に変わる。モーフィング表情変化。非常に面白くはあったが、しかし一抹の不安もある。果たして彼女は猫の世界からこちら側に戻って来ることが出来るのだろうか。後、思春はどうなってしまうのか。
 その辺りは考えてもどうにもならない事なのですっぱりと思考から追い出す。
 情報を得た。それ以上に気になることもあった。
 だが今は自分に出来ることをしよう。

「明日の夜、か」

 まずは郊外の森に行ってみよう。
 戸惑いの一日は少しずつ暮れなずむ。
 夜はもうすぐそこまで近付いていた。

 

 第七話 了





[27170] 第八話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/13 00:53

<記念祭・二日前>

 昨日は桂花から幽霊の情報を手に入れた。
 曰く、今日の夜ならば幽霊に会えるという。それを何故知っているかは分からないが、桂花の言葉を疑う理由はない。彼女がいると言うならば確かに幽霊は存在するだろう。だから一刀は朝から郊外の森に行くことを決めていた。

「さて、それまではどうやって時間を潰すかな」

 相も変わらず政務は放置プレイである。そろそろ愛紗に怒られそうな気もするが、以前は見つかっても何も言われなかったので調子に乗っている一刀であった。
 何処に行こうかと考えながらゆったりと城内の廊下を歩く。しばらくすると前の方から妙に間延びした調子で声を掛けられた。

「あら~、一刀さん、こんにちわぁ」
「穏?なにしてるんだ、ってそうか?今日の日中は血文字の調査だっけか」

 城内の廊下で会った、ということは今から城壁の方か調理場の血文字を調べに行くのだろう。

「はい、そうですぅ。一刀さんもご一緒にどうですかぁ?」
「俺はいいや」

 もう血文字は調べた。これ以上調べても新しい発見はない。だから一刀は首を振って断ることにした。

「なによ、城の主がそんなんでいいの?」

 途端、別の方向から言葉が投げ掛けられた。
 目を向ければそこでは、小柄な少女が呆れたように溜息を吐いていた。

「ってなんで地和が?」
「私達もいるよ~」
「こんにちは、一刀さん」

 立ち並ぶ三人の美少女。
 それは見る人が見ればそれは歓喜の咆哮を上げるほどに豪華な顔触れだ。
 彼女達は都にその名を轟かす、という表現では物々し過ぎるが、都で知らぬ者はいないという程に有名な存在だった。
 名実ともに三国一のアイドルユニット・数え役満☆しすたーず。
 そのメンバーである三人、天和・地和・人和が揃い踏みだったのである。
 何故こんな所にいるのだろうか。問おうとした瞬間、穏が先回りしてその質問に答える。

「私が呼んだんですよぉ。もしかしたら私では気付かないようなことも他の視点からなら見えるかもと思いまして~」

 相変わらずの、のんびりとした口調。朗らかに笑ってはいるが、なんというか、人選を間違えているような気はしないでもない。

「……こう言っちゃなんだけど、穏が気付かなかったことに気付けってのは無理がないか?人和ならともかく上の二人には」
「あー!バ一刀のくせにちぃを馬鹿にした!」
「でも実際そうだよねー」

 負けないくらいのんびりと返す姉と、激昂する真ん中の妹。一刀はその反応を見て自分の意見がさほど間違っていないと確信した。二人はどっちかって言うと馬……感覚的というか素直というか、とにかくそんな感じなのである。
それに、そもそも調査のために人気アイドルを呼び付けるというのが致命的に間違っている。

「でも、血文字が呪術に関するものなら私達でも少しは役に立てるかもしれないから」

 内心の葛藤に気付いたのか、微かに笑う人和。
 しかし、それは違う、と一刀は思った。
 記された血文字が呪詛ではなく予言だ。だから血文字が呪術に関連するものという考えは、出発点を間違えている。そもそも血文字は散々調べた。これ以上、新しい情報は手に入らない。

「そ。呪術なら、ちぃ達の専門だしね」

 彼女達の行為に意味がないことは分かっていた。しかし地和の物言いが気になった。

「それ、どういうことだ?」
「忘れたの?ちぃ達は少しだけど呪術を使えるんだから。舞台から客席の皆に声を届けられるよう音量を調節したり、呪符で楽器の演奏や舞台効果の演出をしたり、本当にちょっとした術だけど」
「そうなのか?」

 詳しく聞くとマイクがないこの時代で数え役満☆しすたーずがライブ会場全体に歌声を響かせることができるのは、呪術がマイク代わりになっているから、らしい。道理であの大観衆に負けない訳だ。

「だから御三方を呼んだんですよぉ。軍師とは違う視点でしょう?」
「成程なぁ。そういえば皆って何処で呪術なんて身に付けたんだ?やっぱり師匠とかいるの?」
「ううん、いないわよ。だって独学だし。太平要術に載ってたのよ、使い方が」

 随分と、懐かしい名前が出てきた。
 かつて大陸を血で染め上げた乱世、その始まりは黄巾の乱と呼ばれる戦いだった。
 史実において太平道の教祖・張角は太平清領書に基づく道教的な思想をもって貧困に喘ぐ大衆を掌握し、その信徒を次第に軍事組織化し漢王朝へ反乱を企てた。
 三国志演義ではこの農民反乱こそが後漢の衰退を招き、世にいう三国時代の幕開けを告げることになる。

 とはいっても一人達の経験した黄巾の乱は些か趣が異なる。
 この世界においての黄巾の乱は、首謀者が張角という点では同じだが、その内実は端的に言えば美少女・張三姉妹のファン達がその熱気を押さえることができず暴走した、という何とも締まらないものであった。
 張三姉妹の真名は、それぞれ天和・地和・人和。
 詰まる所、目の前にいる少女達こそが黄巾の乱を引き起こしたのである。
 初めは一旅芸人でしかなかった彼女達がそこまで熱狂したファンを獲得したことには勿論理由があった。

 それこそが『太平要術の書』と呼ばれる書物の存在である。

 本人曰く、この書の通りの活動をしていたら、ファンがこれ程までに大規模な集団になってしまったという。
 しかしその本は黄巾の乱以後話に上ることはなくなった。
 華琳もその行方を捜していたようだが、戦乱の最中に燃え尽きたのか、誰かが持ち去ったのか。結局最後まで見つかることはなく、その書物は歴史の中で忘れ去られていったのである。
 そんな本の名前を今になって聞くことになるとは。

「あれ、でも前、太平要術に書いてあった知識で歌手として成功した、って言ってたよな?太平要術って呪術の使い方も書いてあるのか?」

 純粋な疑問だった。それに対し、軽く首を傾けて地和は答える。

「ううん、そんなこと書かれてないわよ?そもそも太平要術には何書かれてないし」
「へ?」

 言っていることがよく分からない。だから一刀は間の抜けた声を出してしまった。
 
「だから、太平要術の書には何も書かれてないの。まっさら。白紙の本なんだってば」
「いや、おかしいだろソレ。さっきから言ってること無茶苦茶だぞ」
「でも一刀、ちーちゃんは嘘言ってないよ?」

 天和も同意するが、一刀には二人が何を言っているのか全く理解できなかった。こういう時は理路整然としゃべってくれる人和に期待だ。軽く視線を送ると、一刀の内心を察したのかこくんと頷いて語り始めた。

「それは私も確認したよ、一刀さん。でも私達は、確かに太平要術の書に記された知識を使って歌手として成功を収めたの」

 しかし、語る内容は前の二人と大差なかった。一刀は異を唱えようとしたが、それを遮るように少女が言葉を継げる。
 
「太平要術は確かに白紙だったの。でも私にはその内容が読めた。詳細に、歌手として成功する方法が書かれていた」
「ちぃが読んだ時は舞台で使える簡単な呪術の習得法が書かれてたの。それで実際使えるようになったんだから、疑うような事じゃないでしょ?」
「太平要術の書は多分、読む人によって内容を変える呪術書なの。私達は歌い手として成功するのが夢だった。だからそれに必要な情報を太平要術の書は映し出したんだと思う。だから、ちぃ姉さんが言う太平要術が白紙というのは事実。でもそこに記された内容を私達が読み、その知識を使って成功したというのも事実」

 だからほとんどの人間にとってその本は白紙で。
 けれど読み手にとっては、非常に重要な価値がある。
 
 そう考えた瞬間、息が止まった。

 橙色の空。揺らぐ雲。落ちかけた太陽が滲んでいる。
 映るものの輪郭を覚束なくさせる飽和した砂糖水の夕暮れ。
 その中で白紙の本を読み続ける『誰か』。

 ─────俺は、その『誰か』を知っている。

 一刀は右の掌を大きく広げ顔の前に持ってきて表情を覆った。今は表情を見せたくはない。そう思う程に一刀は動揺していた。
 知るはずもない、慣れ親しんだ、遠い景色を思い出す。その夕暮れはいつの日のことだったか。
 
「つまり太平要術の書は」

 人和のいつも通りの冷静な口調で、一刀は現実に引き戻された。

「多少回りくどいけど、ある意味で読む人の願いを叶えてくれる本なの」

 それは、或いは。
 
『ずっと、こんな日が続けばいいな』

 同じ日々を繰り返したいと望む者が読めば、それを成す手段が白紙の本には記されているというのか。

 不意に浮かんだ、突拍子もない思考。
 それは確証のない推測。
 しかし絶対に近い確信。
 一刀は今確かに、真実の欠片を手に入れた。

「どうしたの一刀?」

 急激な様子の変化に気付いたのか、心配そうに天和が近付く。だがそれを手で制して一刀は笑った。強がりでも誤魔化しでもない。自分が前に進めたことを理解したからこそ、笑うことが出来た。

「大丈夫、ちょっと前に進めたってだけだよ」
「はぁ?」

 今度は訳の分からない言葉に、周りが混乱する番だった。
 呆気に取られた皆のかを一頻り眺め、一刀は笑いながら言った

「よっしゃ、今日のお昼は俺が奢るよ。皆、うまいものでも食いに行こう」
「なによ、それ。訳わかんないってば。でも奢ってくれるって言うなら行く!」
「わーい、おねーちゃんシューマイがいいな~」
「一刀さん、本当にどうしたの」
「あの~まだ調査が終わってないんですけどぉ~、皆さん聞いてくださ~い。うぅ、お願いだから待ってぇ~」

 四者四様の反応。なんだか楽しい気分になって一刀は歩き始めた。

 予想外の所でまた一つ新しい情報を得ることが出来た。
 朧にだが輪郭がはっきりしてくる。
 後は、夜を待とう。
 
 

 ◆



 見上げた夜空には星が敷き詰められていた。
 空に月はない。そのせいか、星の瞬きは普段よりも一層強く感じられる。しかし歩き進めるにつれて、重なり合う木々が星の輝きすらも隠し、欝蒼とした森には微かに鳴く虫の声と静寂だけが響き渡っていた。
 人が殆ど通ることのない、草木の生い茂る小路。夜の闇に照らされた森は深緑よりも青白く、何所か冷たいガラス細工を思わせた。手を伸ばせば壊れてしまいそうな錯覚。それが余計にガラスの森を強く印象付ける。
 一刀はその脆く儚い、それ故に染み渡るような情景を、なぜか懐かしいと感じた。

「なぁ、ご主人様。本当にこっちで合ってるのか?」

 感傷を振り払うように、傍らに歩いていた翠の声が響く。
 
「いやぁ、実はそもそも何処に幽霊がいるのか俺知らないんだよね。噂を確かめに行くだけだから」
「何だよソレ。行き当たりばったりにもほどがあるだろ」
「まあ取りあえず森の奥まで行ってみよう」
「奥になんかあるのか?」
「ああ。確かこの森は奥に小川が流れてるんだよ。幽霊は昔から水場によく出るもんだし、なんかいそうだろ?」
「適当だなぁ」

 呆れたように翠は溜息を吐いた。

 夕暮れが過ぎ去り夜の帳が降り始めた頃、一刀は翠と二人連れ立って都の郊外にある森を訪れた。
 幽霊の調査、まだ実態の分からないモノを調べるにあたって一人で行くほどは迂闊になれない。だから一刀は翠に護衛を頼み、森の奥まで付いて来て貰っていた。
 最初は愛紗と行こうと思ったのだが、

『ゆゆゆゆゆゆゆ幽霊に会いにいくですかっ!?いえ民から話を聞くだけなら兎も角、いやしかしご主人様の命とあらばっ……!』

 と散々テンパっていたので、流石に連れていくのが可哀想になり翠に代役を頼んだのだ。

「そう言えば普通に幽霊の調査とか参加していたから忘れてけど、愛紗って幽霊が苦手だったんだよなぁ。翠は大丈夫なのか?幽霊」
「それなりに怖いとは思うけど、あそこまでじゃないよ。それに、ご主人様を一人で行かせるわけにもいかないし」

 快活に笑ってみせる。その言葉に心の中で感謝し、せめて気を楽にしてやろうと軽口でも口にしてみる。

「そっか、ありがと。そう言えば行き掛けに水は飲んできた?」
「ん?どうしたんだよいきなり」
「いや、幽霊にビビってお漏らししたら困るだろ?だからちょっと心配してさ。ほら、翠といえばお漏らしだし」
「なななななななんてこと言うんだよこのエロエロ魔神っ!?」

 顔を真っ赤にして怒り出してしまった。緊張をほぐすためのジョークはうまく伝わらなかったらしい。


 ◆


 しばらく無言で歩き続け、その沈黙に耐えかねたのか翠が口を開いた。

「なぁご主人様。そう言えば、ここに出る幽霊ってどんなのなんだ?」
「桂花が言うには女の幽霊の泣き声が聞こえるって話だけど」
「ベタな話……でも女の声なんて聞こえてこないよな」
 
 確かに、随分歩いているがそれといった声は聞こえてこない。こんなに静かな夜なのだ。本当に泣き声が聞こえてくるというのなら、森に木霊していてもおかしくはないと思うのだが。
 一刀はそっと耳を澄ましてみる。
 やはり泣き声など聞こえない。
 聞こえてくるのは音がする程の静寂と時折吹く風が起こす葉擦れのみ。
 そう、それだけだった。
 先程まで鳴いていたはずの虫達の歌も聞こえない。
 圧迫さえ感じさせる静寂。冷え切るような緊張。そこには、何の音もない。
 不自然なほどに。
 
「なぁ翠……」

 足を止めた一刀達は。
 いつの間にか、虫の音が止んでいる事に、ようやく気付いた。

「分かってる」

 腰を落とし、翆は槍を構える。しなやかな筋肉に力が籠る。意識が研ぎ澄まされていく。僅かな動きさえ見逃さぬ。微かな物音さえ聞き逃さぬ。無音の森が更に冷えていく。
 一分か。
 或いは一時間か。
 張りつめた空気は時間の流れさえおかしくさせる。短いのか長いのか分からない沈黙の後、それは起こった。

 何かが空気を裂いた。

 瞬間、微かに森へと刺し込む星の光が、何かに反射して鈍く瞬く。

「翆っ!」
「応っ!」

 短い返事。瞬時の反応。
 暗い森の中で、一刀の首を落とさんと月の無い夜に白銀の三日月が煌く。それが練磨された剣であると気付けたのは、

 きんっ、と静寂に響く甲高い金属音。

 寸での所で翠が凶刃を受け止めたからだった。
 突然の襲撃者は防がれたことに動揺も見せず、音も無く下がり闇に溶け込んでいく。一度で殺せるとは最初から思っていなかったのか。あまりにも迅速で自然な行動だった。

 むしろ、動揺というのならば一刀達の方が遥かに強かった。
 襲撃に関してではない。
 何かが起こるかもしれない。それを予想していたからこそ一刀は翠に護衛を頼んだ。それに彼女は応じて、武器を持って此処まで来た。最初から突然の事態は織り込み済みだった。予想が現実に変わった所でさしたる動揺はない。
 
 彼らが動揺したのは、襲撃者の顔を見てしまったからだった。
 闇夜に紛れて一刀を殺そうとした者。
 それは、

「明、命……?」

 一瞬、どうにか捉える事の出来た襲撃者の影は。
 いつも朗らかに笑う、猫が大好きな、可愛らしい女の子のものだった。
 腰まで届く黒髪。忍者のような服装。身の丈ほどの長刀。
 しかし彼女の特徴である大きな瞳は、これから起こる惨劇を前にして鋭く引き絞られていた。

「……ちょっ、ちょっと待てよ明命!なんでご主人様を狙うんだ!?」

 動揺からか翠は少しどもる。その問いかけは暗い夜の森に響き渡り、しかし 言葉は返らない。
 それが何よりの答え。
 外見が可愛らしい女の子であったとしても、明命の隠行は三国に並び立つ者のいない絶技である。自身から気配を洩らすことがなければ、深い森に潜んだ明命を探り当てるのは三国無双と謳われた呂布・恋ですら至難。
 彼女は翠の問いに何も答えなかった。声どころか一瞬の動揺すらも出さなかった。それは僅かでも自身の気配を洩らすつもりがないという証。
 つまり、彼女は。


 此処で、北郷一刀を確実に殺す気なのだ。



 ◆




「はぁ…はぁ……」

 息を荒げ翠は虚空を睨む。しかし明命は姿を隠したまま、次の攻撃の機を狙っているのだろう。聞こえてくるのは自身の荒い呼吸だけ。いくら深い森を睨んでも明命の居場所は分からなかった。
 はっきりと言えば。
 それは、戦いと呼べるものではなかった。

「くそっ……!」

 音も無く忍び寄る影、闇から不意に現れる刃を辛うじて止める。しかし防いでも反撃の機会も無く明命は再び闇へと消える。それが一体幾度続いたのか。戦いが始まってからどれくらいの時間が立ったろうか。そんなことはもう覚えていなし、数えていないし、考える余裕も無い。それほどまでに、翠はこの防戦に神経をすり減らしていた。

 姿も気配も感じない。移動の際の僅かな影の動きと空気の流れだけを頼りに攻撃を防ぐ。それが一体どれ程の神技かは、防ぐことしか出来ていないその様からは想像もつかないだろう。並の者ならば一合で終わるこの状況。それを、実に十を超える致死の白刃を防いで見せたと言うだけで翠の武は称えられてしかるべきだ。

 そもそも、明命と翠を純粋な武力で計るならば、翠の方が単純な強さとしては上なのだ。ここが森ではなく、平地での勝負なら翠に軍配が上がる。それは間違いない。しかし夜の闇と森の影、二つの暗さが翠を劣勢へと追いやっていた。
 そして、何よりも。

 背後から僅かに空気の流れる匂い。それだけを頼りに攻撃を察知する。

「間に、合えっ……!」

 振り返った瞬間目にしたのは一刀の頭を唐竹に割ろうと振り降ろされる明命の斬撃。それを、限りなく体を伸ばし、

「はぁっ!」

 裂帛の気合いと共に振るう槍にて何とか弾く。
 防ぐ事は出来た。しかし無理な体勢で手を伸ばしたため腕の筋を痛めたらしい。次は防げるかどうか。

 そう、そして何よりも。
 明命は隙あらば一刀を絶殺せんと襲いかかってくる。地の利以上に、守るべき主の存在が翠の圧倒的不利を決定付けていた。

 自身だけを狙うならば、まだ対処の仕様もある。だがこの状況で、自身の身を守り、一刀の安全を気にしながら、更に反撃を行う。そんな真似はいくら翠でも出来はしない。しかしこのまま続けていても消耗戦。遠からず自分は地に伏すこととなるだろう。

 ─────どうすればいい。どうすればご主人様を守れる。

 最早翠は勝つことなど考えてもいなかった。武人として有るまじき思考。しかし、翠は勝利よりも如何なる方法をとれば主を守り切れるか、それしか考えていない。
 
「ふっ…くっ……!」

 再度の襲撃。
 思索に耽ろうとすれば、翠の心の機微を理解しているのではと思うほど正確に、明命は愛刀『魂切』を振るう。その度に、銘の如く魂を切り刻む程に神経を使って防がねばならない。疲労は心身ともに限界を迎えようとしていた。

 駄目だ、これ以上は持たない。

 そう呟いたのは一刀だったか。それとも翠自身だったのか。
 月はなく星の光も届かぬ夜の森。
 欝蒼として生い茂る木々に四方を囲まれている。
 身を隠す場所など見渡せばいくらでもあった。
 そんな状況で明命と戦う?
 馬鹿な。勝てる訳がない。
 此処は完全に彼女の土俵。如何に翠が歴戦の勇士とて、この戦場で明命に勝つことはできない。それは一刀以上に翠自身が誰よりも理解していた。
 だから、彼女は決心した。
 
「ご主人様、動きは止める。だから頼む逃げてくれ」

 小さく呟くように、強く祈るように、翠は零した。
 それは事実上の敗北宣言である。自分では勝てない。あなたを守れないから、自分を見捨てて逃げてくれ。彼女はそう言った。それは錦馬超と称えられた彼女にとって如何な屈辱か。しかし迷いなく翠は懇願した。武将としての誇りよりも、自身の身よりも、一刀の命を取ったのだ。

『お前を見捨てて行ける訳ないだろ!』

 一刀はそう言いたかった。事実、もう喉元まで出かかっていた。それでも、そんな無責任な言葉は吐けない。必死に唇を噛みしめて、気を抜けば勝手に出てきてしまいそうな言葉を精一杯の力で飲み込む。彼女がここまで苦戦しているのは自分のせいだ。自分を守りながら出なければここまで劣勢になることはなかった。
 それなのに、彼女は自身の誇りよりも一刀のことを取ってくれた。ならばその選択を、自分の我儘で汚すことはできない。その言葉を口にすれば、錦馬超の誇りを踏み躙ることになる。そんなことは死んでも許されない。

「ありがと、ご主人様。あたしご主人様のそういうとこ、すっごく好きだ」

 自分を武将として扱ってくれる。でもそれと同時に女性としても想ってくれる。そんな彼だからこそ、命を賭ける価値があるのだ。

「次の攻撃、死んでも止める。その機会に逃げてくれ」
「分かった」

 それ以上の言葉はない。必要ない。二人は身構え、そして翠は叫ぶ。

「ご主人様っ!逃げろ!」

 絞り出した叫びが空気を震わせる。それと同時に一刀は足に力を込める。

「させません」

 此処に来て初めて明命が声を洩らした。気付けば彼女は大地にしっかりと足を付き、一刀の前で、日本剣術で言う左車構えを取っていた。明命の姿が歪んでぶれる。横薙ぎに放たれる、一刀では視認することさえ許されない神速の一手。刹那まで迫った自身の死、しかしそれが身体を切り裂くことはなかった。
 その間に、

「やっと、捕まえた───」

 血飛沫が舞い、肉を切る嫌な音が響いた。
 一刀までその刃は届かなかった。
 翠が、不敵な笑みと共に立ち塞がったからだ。

「今だ、ご主人様っ!」

 後のことはもう分からない。一刀は自身の情けなさを噛みしめながら、ただ只管に走った
 振り返ることはしない。
 そんなことで足を止めて翠の決意を無駄には出来ない。
 一刀は零れそうになる涙を必死にこらえ、聞こえる剣響を振り切って走り抜けた。


 ◆


「ここまで、逃げれば、大丈夫かな……」

 木に背を預け、荒れる呼吸を整える。疲労感は取れないが大分楽にはなった。
 翆は、無事だろうか。
 未練がましくそんな事を思ってしまう自分がいる。あれだけの血を流していた彼女が無事かなんて考えるまでもないだろうに。
 
「あれ、こっちって……」 

 そこで一刀は周りの様子を見て気付いた。必死に逃げていたせいで分からなかったが、ここらの枝振りには覚えがある。ここからなら、最初に目指していた森の奥の小川まですぐだ。
 一刀は逡巡した。このまま明命と出会わないうちに森を後にするべきか。それとも、小川の方まで行ってみるべきか。
 思索はものの数秒で終わり、一刀は表情を引き締めた。

「折角翠が作ってくれたチャンスだ」

 桂花は今夜なら幽霊に会えると言った。ならばこの機は逃せない。一度ゆっくり呼吸を整える。 よし、行ってみよう。或いは、また一つ真実に近づけるかもしれない。
 決意を新たに一刀は一歩を踏み出す。

 しかしその時、何処かから空気を裂く音が聞こえた。

 それと共に、誰かの声も。

「ふむ、身命を賭し主を守ろうという心意気は見事。だが一人にしたのは誤りだったな」

 とすっ。
 あまりにも軽い音だった。軽過ぎて、何が起こったか分からない程に。
 一呼吸置いて、痛みが脳に伝わり、ようやく一刀は現状を理解した。

 飛来した矢が。
 無慈悲に、無機質に。
 何の感慨もためらいも無く、心臓を貫いたのだ。

「警告はしたはずだったが。それでも動く辺り、北郷らしいと言えば北郷らしいのかもしれんが……今回はそれが災いしたな」

 秋蘭……?なん、で。
 薄暗い森の奥から静かに姿を現したのは、

『都の郊外に森があるだろう?そこに近付くのは止めておけ。夜は特にだ』

 自身の身を慮り、それとなく忠告をしてくれた筈の秋蘭だった。

「あ…うう……」

 脳を焼く痛み。何度も味わった死の感覚が思考を苛む。沸騰する血液。認めたくない現実。自身が信じた者に、愛した女性に命を奪われる。その事実に心が軋む。

「許しは乞わん。『あの男』の甘言に踊らされているとは言え、それを成すと決めたのは私自身だ。恨んでくれて構わない。元よりお前には私を憎むだけの理由がある。私のことは許さなくていい────その方が、いっそ救われる」

 秋蘭は自分の意思で一刀を殺すと決めたという。
 操られた訳でも、誰かに脅されている訳でもなく、この殺人は自分の意だと。

 ああ、それなのに。
 それを成すと決めたと口にしながら、許さなくていいなんて言いながら、なんでお前はそんな泣きそうな顔をしてるんだよ。
 無表情を装ったって分かる。
 お前が、こんなことをしたくなかったんだって。
 そんな顔されたら、俺だってどうしたらいいのか分からないじゃないか。
 
 悲しめばいいのか、それとも憎めばいいのか。感情の置き場所が分からない。
 混乱の中、ただ彼女の姿を見詰めていた。秋蘭は一息吐いて再度弓に矢を番える。

「苦しめるつもりはない。せめて安らかに逝ってくれ」

 その目には最早迷いはない。いや、内心の躊躇いはあったのだろう。それでも彼女は迷いを外に出そうとはしてくれなかった。其処にはただ鉄のように、氷のように、感情の無い美貌がある。
 青白い森の中、鋭く獲物を狙う氷の美姫。
 その姿を、視界に留めながら、
 
 ─────放たれた矢は正確に眉間を貫き。

 ごめん翠、折角助けてくれたのに。

 ─────意識はそこで途絶える。

 せめて秋蘭が傷付かぬようにと一刀は優しげに微笑み、穏やかに最後を受け入れた。



 終幕















 ◆
 
 終幕
 ──────再演。

 ◆


「北郷、起きているか!北郷!」

 そしてまた、いつものように目を覚ます。
 しかしその日の朝は普段とは違う声によって意識を引き上げられた。
 殴るようなノック、そして返事を待たずに部屋に入る。ノックの意味は全くない。そのあまりの慌ただしさに一刀は思わず目を見開いた。

 視線の先には赤いチャイナドレスの美女、春蘭が何故か部屋の中で仁王立ちしていた。

 春蘭ちゃんは朝から大層興奮したご様子で鼻息も荒い。もう少しばかり妙齢の女性としての慎みを持っていただきたいものである。そう思ったが、多分こうでなければ春蘭じゃない。だから一刀は苦笑を零すだけで文句は言わなかった。

「おはよ、春蘭」
「うむ、おはようだ。何だ、まだ寝ていたのか?」
「まぁね。で、どうしたんだよこんな朝から。何か事件でもあったのか?」

 ぽん、と胸の前で上に向けた掌を、反対の手を拳にして打つ春蘭。一刀若干びっくりである。そんな動作実際にやる人初めて見た。

「おお、そうだった。大事件だ!喜べ、今日の昼食は秋蘭と流琉が用意してくれるそうだぞ!」

 興奮さめならぬ様子で、自慢げに春蘭はその大きな胸を張った。成程、彼女が此処までテンションを上げていたのは秋蘭の手料理が食べられるからということらしい。というか朝食もまだなのに昼の話とは気が早すぎると思う。体は大人で頭脳は子供を地で行く春蘭であった。

「秋蘭、が?」

 しかし嬉しそうな、春蘭とは裏腹に一刀は沈み込んだ。
 その名を聞いた瞬間、胸が痛んだ。
 次いで脳裏には感情を押し殺した氷の表情が浮かぶ。
 記憶の中で彼女は、自身の悲しみを押し殺した、感情の無い顔付きをしていた。一体何故彼女は……。

「秋蘭、が……」
「うむ。なんでも『北郷も疲れているだろうから少しは、労ってやろうと思ってな』とか言っていたぞ」
「そっか……」
「むぅ、どうした、嬉しくないのか?せっかく秋蘭のシュウマイが食べれるというのに」
「いや、嬉しいよ。そうだな、折角だから楽しみにしておくか」
「うむ!よく分からんが、お前のおかげで私も美味いものが食べられる。感謝するぞ北郷!さて少し体を動かして腹を空かせておくか!」
「俺はこれから朝議だって。慌てて転ぶなよ」

 子供のようにはしゃぐ春蘭。外見は艶やかな美女だと言うのに、その無邪気な在り方が、妙に心を穏やかにしてくれる。
 騒がしい目覚めだと言うのに、怒る気にはなれない。こういうのも春蘭の魅力の一つだろうな、と何の気なしに一刀は思った。

 そうしてまた慌ただしくて楽しい一日が始まる。
 繰り返す日々は終わらない。



 
 ─────祭まで、後三日。


 第八話 了




[27170] 第九話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/16 20:37
<記念祭・三日前>

 これは、違和感の話だ。
 いつだったか、左慈は言った。

『貴様がこの“世界”に違和を覚えたのならばそれを突き詰めろ。貴様等が許容する矛盾こそがこの“世界”の真実だ』

 言われた時はその意味を理解できなかったし、今でも意味は分からない。ただ冷静になって見れば、この“世界”は違和感に溢れている。今更ながら一刀はそれに気付く。
 いや、その表現は少し違う。今になってようやく、それが違和感だと気付けるようになったのだ。

「どうした、北郷。口に合わなかったか」

 秋蘭がそう言いながら、カニシュウマイを一刀の皿に取り分けた。どうやら思索に耽り過ぎて手が止まっていたらしい。
 折角秋蘭と流琉が用意してくれた昼食だというのに、その態度は失礼だ。冷ましては勿体無いと頬張る。はらはらと解ける蟹の肉。僅かに鼻腔を擽るその濃厚な風味は、おそらく蟹味噌。舌に残るほろ苦さが逆に食欲を増進させる絶品だった。

「うん、うまい!口に合わないなんて、そんなことあるわけないだろ。滅茶苦茶うまいよ。ただ……」

 素直に感想を述べ、それでも疲れた顔で一度辺りを見回す。そしてお手上げだと言わんばかりに溜息を吐いた。

「すごい騒ぎだなぁ、と思ってさ」

 此処は三国の中心に在る、魏の屋敷のすぐ近くには一つの酒家がある。と言ってもそこは常駐している訳ではなく、流琉と秋蘭が記念祭の出店として準備した食事処だ。
 朝早くから春蘭に起こされて『昼食を秋蘭と流琉が作ってくれる』と聞いた一刀は昼時になってその酒家を訪れたのだが、あまりの騒ぎに多少引き気味であった。
 どうやら呼ばれたのは自分だけではないらしく、酒家は大変な賑わいを見せ、その様は昼食会……というか宴会……というか人外魔境だった。

「はむ…むぐ…おかわりなのだ!」
「ボクもっ!」
「はむはむ……」

 鈴々と季衣が争うように食事を平らげていく。無言で食べ続ける恋もまた静かながらすごい勢いだった。まあこのあたりはいつも通りと言えばいつも通りだ。
 
「あらあら、美味しいわねこのお酒」
「うむ。流石に呉の宿将黄蓋の秘蔵、正に絶品よ」
「なに、呉ではこうやって酌み交わせるのは策殿くらいじゃからの。溜め込んでいるよりはこういう機会に呑んでもらった方がいいと思ってな」
「なら今度は私の秘蔵を出そうかしら」
「紫苑が出すならば、わしも相応のモノを振舞わねばならんか」

 昼食時だというのに祭・紫苑・桔梗の熟女三人組、じゃなかったお姉さま方が酒を持ち込んだ辺りからおかしくなり始め。

「うぅ~ご主人様ぁ」

 ブレーキ役になってくれそうな愛紗が酔い潰れ。

「愛紗大丈夫か?う~ん、苦しそうやなぁ。仕方ない、やりたくないけどここは愛紗のために服を脱がせたらなあかんな。まずは下着から、と」
「あの、霞様……介抱に下着は関係ないかと」
「わかってないなぁ、凪っち!ええか?酔った時は体を締め付けてると余計気持ち悪うなってまう。つまり、まずは下着を脱がせるんよ。これが、正解」
「はぁ」

 介抱の名の下に公然と霞がセクハラ。十八禁ゾーンに突入し。

「あれ、いいわね……」

 その様を見て舌なめずりする華琳様。

「か、華琳様。なんでしたら私がこの場でお相手を務めさせていただきます!」
「なっ!桂花ずるいぞ!?華琳様、ここは私が!」
「黙りなさいよ猪!」

 そして公然セクハラを所望する二人の忠臣、というか変態。

「私さぁ……ここでも出番少ないんだけど、どうすればいいと思う?」
「さぁ、言ってみればその残念さが白蓮殿の特性ですので、私からは何とも。いっそ孫家の三姉妹に加わってみるというのはどうでしょう?名前も似た感じですし」
「孫家か……」

 何故か人生相談を始める白蓮とどうでもよさげに杯を傾ける星。というか星よ、その案は無茶過ぎる。あと白蓮、ホントに考え込むな。

 とこんな感じで、秋蘭が疲れている一刀を労うために準備した昼食会は大層騒がしいものとなってしまっていた。
 まぁこれだけ癖のある女性が大勢集まって普通の昼食になる訳はないのだが。民達には間違っても見せられない光景であった。




 ◆



 つまり、これは違和感の話だ。
 一刀は秋蘭と流琉が用意してくれた絶品の昼食に舌鼓を打ちながらも、今一つ宴の騒がしさに身をゆだねることが出来ないでいた。
 食卓を囲う少女達は皆それぞれ楽しそうに喧騒を上げている。その様を、順を追って一刀は確認していく。

「どうしたの一刀?」
「なぁに、私に見惚れちゃったのかな~」

 髪の短い蓮華と雪蓮が並んで座っている。
 それは、違和感だ。

「翠殿これとってもおいしいですよ、食べてみてください」
「おっ、悪いな。いやぁ、それにしても今日は昼から豪勢だなぁ」
「ほんとですね~、はむっ。あうぅ~おいしいです~。こんなに食べたら太っちゃいます~」
「んぐっ!?い、嫌なこと思い出させるなよ明命……」

 翠と明命が仲良く食事を食べている。
 それは、違和感だ。

「ふむ、そろそろ無くなってきたな」
「そうじゃな。どれ、新しいのを持ってくるか」
「祭、座っていていいわよ。今度は私が取ってくるから」

 桔梗・祭・紫苑の三人が浴びるように酒を呑んでいる。
 それは、違和感だ。

「うへへぇ~華琳さぁーん、呑んでる~?にゅふふふ相変わらずすべすべの肌ぁ~」
「ちょっ、行き成り何をするのよ桃香!って誰よ!?桃香にお酒を呑ませたの!?視線を逸らすな雪蓮っ!」
「あははははは、いいじゃない。偶には羽目を外すのも必要よ?」
「貴方は年中外してるでしょう!って服の中に手を入れないで!?」
「気持ちいぃ~」

 三国の王が騒がしく戯れている。
 それは、違和感だ。

「ふふ……本当に、騒がしいな」

 その様を見て冥琳が穏やかに笑う。
 それは、違和感だ。

「最近は疲れているようだからな。しっかりと食べて体力をつけるといい」

 穏やかに、一刀を見て優しげに笑う秋蘭。

 ─────脳裏にはまだ、彼女の放った矢と冷たい表情が焼き付いていて。

 それは、違和感だ。
 一刀は到る所に違和感を覚える。今までは何も感じなかったというのに、日々が過ぎていくごとに違和感は強くなっている。そうやって、『日々が過ぎる』と感じている自分もまた違和感だ。過ぎるとはどういうことだ。今日は記念祭の三日前、日数は少しも動いていない。
 しかし何よりの違和感は、これ程までの違和感を誰もが受け入れているという現状だ。
 騒がしく呑み食いする三国の将達。
 彼女達はこの現状に違和を覚えているようには見えない。
 何故こんなあからさまな違和感を彼女達は意識しないのか。

『成すべきことが分からぬのならまずはニセモノの正体を知れ。そのニセモノこそがこの繰り返しの“世界”のすべてだ。もう一つ、“仲間外れは一人だけ”だ。忘れるなよ』

 もう一度、左慈の言葉が脳裏を過った。
 その言葉を額面通りとるならば、ニセモノは一刀達の中にいる。そしてその『誰か』こそがこの違和感を引き起こしている原因なのだろう。
そこまでは分かる。
 しかし、一刀に分かるのはそこまでだ。それではまだ真実の片鱗にも届いていない。
 沈み込む程に思索は深く、暗い森の奥に入り込んでしまったような閉塞感が思考を苛む。そう言えば、結局たどり着けなかったあの暗い森の深くにはいったい何が在ったのだろう。 

「にゃ?お兄ちゃん食べないのか~?」
「ほんとだ、兄ちゃん全然食べてない」

 一刀の様子がおかしいと気付いたのか、心配そうに二人の少女、鈴々と季衣が側へと近付いていた。駄目だな、と一刀は苦笑を零した。

「いや、なんでもないよ。二人とももっと食べるだろ。こっちのもどうだ、うまいぞ」

 そう言って先程のカニシュウマイを鈴々の口の中に放り込む。形としては所謂『あーん』というやつなのだが、意識せずにするあたり北郷一刀である。

「わーい、ありがとうなのだ!」
「あ、ずるい!兄ちゃんボクもボクも!」

 自分にもと口を開ける季衣と、争うように並んで口を開ける鈴々。気分は雛に餌をやる親鳥であった。
 一刀に構って欲しくて無邪気にはしゃぐ少女達を眺めながら、一刀は全く別のことを考えていた。

 違和感を覚える、で止まってはいけないのだ。
 そこから先、果てに在る真実へとたどり着くにはまだ何かが足りない。その何かを見つけなくてはいけない。
 問題なのは違和感そのものではなく、なぜ其処に違和を感じるのか、その“理由”だ。

 ─────俺は、それを知らなければならない。

 顔を上げて辺りを見回せば騒がしく食卓を囲む少女達の姿。
 その眩しさに目を細めながら、一刀は小さく決意した。



 ◆



 騒がしい昼食会は過ぎ去り、自身を労ってくれた秋蘭に感謝を伝え、一刀はまた城下の散策に訪れていた。午後の喧騒をどこか遠くに感じながら人混みを歩く。騒がしい昼下がりは何故かいやに余所余所しくて、寂しくさえ思えてしまう。

 ─────何故だろう。俺は、この騒がしい街並みを寂しい光景だと感じている。

 その寂寞は、都を巡る度に一刀が感じていたものだった。慌ただしい日々の中で、滑稽な一幕があって、笑ってしまう騒動があって、美しい景色をいくつも見た。それは何処にでもあった。
 それなのに、ふと一人になってその様を思い返せば言い知れぬ虚無感が胸を抉る。それもまた、違和感だ。一刀は自身の情動にすら違和を感じてしまっていた。
 知れず、溜息を吐く。
 溜息の理由は変わらず胸に在る寂寞のせいもあったが、何より見通せない現状への疲労の方が大きかった。

「違和感の理由を知る……口にするのは簡単だけど、決意したってすぐに何か分かる訳じゃないないんだよなぁ」

 元々、理由が分からないからこそ違和感というのだ。そんな簡単に答えへと至れる訳ではない。再度溜息を吐いた。また調査のために都を歩きまわり、そして最後には痛い目に会うのだろう。何故か分からないが、その様がありありと想像できた。

「おや、随分大きな溜息ですね」

 瞬間、後ろから男の声で呼びとめられた。誰だろう、男の知り合いなんてほとんどいないのに。若干悲しい事実を思い浮かべながら振り返ると。

「って、干吉っ!?」
「ふう……貴方は前回会った時、何を聞いていたのですか?いいですか、私はあくまで鬼畜☆MEGANEのタケです。干吉などというセクシーでイケメンな眼鏡紳士とは何ら関係ありません」

 眼鏡をかけた導師服姿の男性、干吉が当たり前のように立っていた。というかお前はいつまでそのネタを引っ張るつもりだ。

「へぇへぇ、言ってろ。で、そのタケさんが何の用だよ」
「貴方に用があった訳ではありません。ここでの出会いは偶然。私は『腐海』という店に寄ろうと思って出て来たのですよ」
「あーと、『腐海』って確か、朱里と雛里が記念祭で開く本屋だったっけ?確か自作の本を出すとか何とか」

 その話を聞いたのは大分前だったので結構あやふやだが、確かいつだったか一刀もその店を訪れたはずだ。しかし男子禁制という理由で入れては貰えなかった。

「ええ。そしてその途中であまりにも憂鬱そうな溜息を聞き、つい声をかけてしまったのです」
「……もしかして、心配したのか?」
「まさか。もがき苦しむ貴方の様を見て私が楽しみたいだけに決まってるではありませんか」
「ああ、お前はそういうやつだろーよ!」

 この男は鬼畜・眼鏡・子安が三拍子そろった男だ。優しさとは無縁の、悪趣味な変態なのである。

「さて、もし暇ならば一緒に『腐海』に行ってみますか?」

 タケ(干吉)からのお誘いとは、それもまた違和感だった。
 でも、そういうこともあるかもしれない。
 違和感さえ飲み込むのがこの“世界”ならば、或いはそれすらも日常の一幕のなのだ。

 




 そうして訪れたのは、大広場近くにある店舗を借りて準備された、小さな書店だった。大きく掲げられた『腐海』という看板。字面の割に看板には花型の彫り込みが入れられピンクに彩色されている。なんというか、非常に趣味が悪かった。

「失礼しますよ、店主」
「はーい、あ、タケさんいらっしゃいませ。また来られたんで……はわぁっ!?ごごごごごごごごご主人しゃまっ!?」

 干吉を出迎えた店主、伏龍・諸葛亮こと朱里は笑顔、停止、はわわの流れで表情を変えていく。

「朱里ちゃん、どうしたの……あわわわわぁっ!?」

 童話の魔女がかぶるような紺の三角帽を被った、幼い女の子だった。少女は騒がしさに気付いたのか店の奥から出てきて、一刀がそこにいると視認した瞬間再度店の奥に逃げようと走り出した。
少女の真名は雛里。朱里と同じくその幼い容姿とは裏腹に知謀に長けた軍師であり、『鳳雛』と呼ばれる程の逸材である。
 わなわなとふるえ涙目で逃げ出そうとする姿からはまったく想像もつかないが。
 
「雛里ちゃん何処に行くの!」

 逃げようとする彼女の服を何とか掴む朱里。しかしそれでも前に進もうと雛里はジタバタしている。

「あわわわわわ違うんでしゅぅ!私は、私は朱里ちゃんに無理矢理手伝わされただけでこんなことに興味は……」
「何一人で逃げようとしてるのっ!?酷いよ、作ってる時は雛里ちゃんもすっごく楽しそうだったのに!あんなに一緒だったのにっ!」

 夕暮れはもう違う色をしているのだろう。

「だって元々朱里ちゃんがこの店を開こうって」
「そ、それはそうだけど。でも雛里ちゃんも一緒に準備したんだから共犯だよ!」
「ふぇ、そんなぁ……あわわ違うんでしゅよぉご主人様ぁ」
「ご主人様聞いてください、一刀×華佗ものはほとんど雛里ちゃんが書いたんです。私はほとんどそれには触れていなくて」
「それを言うなら一刀×ヒカルと鬼畜☆MEGANEものは朱里ちゃんが書いたんですよ。それに朱里ちゃんは凌辱系も」
「はわわわわわぁわぁぁぁぁぁ!?それは言っちゃダメぇぇぇぇぇ!?」

 しつこいかもしれないが敢えて明記しておこう。
 この二人は『伏龍』・『鳳雛』と称せられる、大陸屈指の大軍師である。傍目にはただの幼女にしか見えず、自分からボロボロと言わなくてもいい情報を晒していたとしても、それほどまでに混乱しているだけであり、これは本来の彼女達の姿ではないのだ。
 兎も角、はわわとあわわの混乱はしばらく続いたのであった。



「……で、二人は記念祭当日この店でBL……あーと、男性同士の絡みを題材にした本を売るってことか」

 混乱する朱里と雛里を何とか落ち着け、詳しく話を聞くと、小さな声でぽつりぽつりと店の詳細を語ってくれた。
 聞けばこの『腐海』は詰まる所BL系同人専門の店であり、しかもその題材は全て実在の人物という限りなくキワモノ臭漂う書店だったのである。

「はい…そうでしゅ……」
「もうお嫁にいけないよぅ……」
 
 何故か店内の床に正座している幼女軍師達。落ち着いた、というか落ち込んだという方が表現としては正しい。
 なんだかんだで自分達がこういうものを取り扱っているのを一刀に知られたことは、彼女達にとって大きな痛手なのかもしれない。ここまで落ち込ませる気はなかったのだが、
 しかし救いの手は意外な所から差し伸べられる。

「いえいえ、多分その心配はないですよ?なにせ彼は自分からこの店を見たいと言い出したのですから。或いは彼もこの手の話に興味があるのかもしれません。何より貴方達の場合嫁ぎ先の心配はしないでいいと思いますし。ねぇ?」

 さわやかに腹黒い笑顔を振り撒いて、変態は一刀に語りかける。
 ちょ、何言ってんのこの変態……!?
 思わず問い詰めようとするが、それよりも早く舌っ足らずな幼い声が上がった。

「あわっ、ご、ご主人様、本当ですかっ!?」
「えっ、いや」
「はわわ、まさかご主人様が私達の趣味に理解を示してくださるなんて」
「そういう訳じゃ」
「朱里ちゃん、やっぱりご主人様は人を偏見で判断するような方じゃなかったんだよ」
「そうだね雛里ちゃんっ!」
「流石ご主人様……」
「一生ついていきますぅ……」


 何故か集まる尊敬の眼差し。
 そのきらきらと輝く瞳は子犬のように愛らしく、今更違うとは言えなかった。
 こうして一刀は本人に見の覚えのない、不本意な性癖を追加されることとなったのである。



 



「ところで、朱里はこいつと親しかったのか?」

 一連の流れによってようやく正気を取り戻した朱里に一刀はそう尋ねてみた。かつて争った敵と何事もなく語り合う彼女に、ほんの少しの奇妙さを感じたのだ。

「タケさんですか?はい、勿論。三国合同歌謡大会に出場される歌い手さんですよね?この方は何と言いましょうか、同好の士としてよくこの店に訪れてくださるんです」
「此処は私好みの本が多いですから。開店前ですが特別に譲って貰っているのですよ。勿論支払いはしていますが」

 それは、違和感だ。雛里と違い、朱里はこの男の正体を知っている筈。それなのに、何の蟠りもなく干吉と朱里が談笑している。

「へぇ……しかし何と言うか、朱里も雛里もこういうのが好きなんだなぁ。意外というか、意外じゃないというか」

 その言葉に、朱里はふうと息を吐いた。そして真剣な表情を作ってみせる。

「ご主人様は少し勘違いをしています」
「そうですよ……」

 威風堂々といった面持ちで一歩前に出る朱里。
 おずおずと、しかし一刀の目を見据える雛里。

「いいですか、この手の趣味に関しては、私達は別段特殊という訳ではないんです」
「ご主人様、女の子は……」

 そして、二人は揃えて、力一杯声を上げた。

「そう、八百一が嫌いな女の子なんてこの世に存在しないんですっ!」

 どんっ!という効果音が聞こえてきそうなほど堂々と言い切る二人。
 言ってる内容はともかくすごい自信だ。普段はわあわしてる彼女達からは想像もできないほど活力に満ちている。

 ─────まあ、その活力の源がアレな本っていうのは問題ではあるが。
 
「……そ、そりゃあ悪かった。ま、まぁあれだよな。趣味は人それぞれだもんな」

 あまりの二人の気迫を前に、多少どもりながら逃げるように店内で視線をさ迷わせる。すると平積みされている本の中に奇異なタイトルを見つけて思わず手に取った。

『鬼畜☆MEGANE・その愛』

 ……あれだろうか、もしかして鬼畜☆MEGANEって意外と人気あるんだろうか。三国合同歌謡大会はまだだが、デビュー前のインディーズバンドみたいに知ってる人の中では有名な存在なのかもしれない。

「なぁ、朱里、この本って……」
「あっ、『鬼畜☆MEGANE・その愛』ですか?それは雛里ちゃんとの合作で、タケさんの情報提供でかなり完成度を高めたお勧めですよ!」

 朱里は満面の笑顔だった。それがあまりにも可愛らしかったので、一刀は手の中にある彼女達の力作をぱらぱらと開いてみる。
 そしてそこに記された内容に目を通す。

『「ここが弱いのですね」「やっ、やめろタケ」「ふふっ、そんなに震えた声を出して。ヒカル、あなたは戻れなくなるのが怖いのでしょう?」しなやかに鍛え上げられたヒカルの筋肉にタケはそっと触れた。そして指を肌に這わせる。ぞくぞくと背中を通り抜ける快感にヒカルは呻いた。「そろそろ行きますよヒカル」抵抗できなくなるまで嬲り、タケは……』

 ぱたん。静かに一刀は本を閉じてそっと戻した。
 見るんじゃなかった……。BLだ。めっちゃBLだ。言い訳できないくらいBLだ。いや、それはいい。それは最初から分かっていた。問題なのは、

「最後までやっちゃってる……」

 続きを読む気はないが、この本は男性同士の恋愛に留まらず、恐らくは肉体関係の描写までしっかりと表現されているのだろう。大丈夫なんだろうか、いろいろと。
 更によく見ると、平積みにされている沢山の書物は大抵そんな感じのようだ。勿論それは中国語で書かれている訳だが、そのタイトルを日本風に訳すとこうなる。

『鬼畜☆MEGANE物語・ヒカルとタケ、想いの行方』
『ヒカルと筋肉男~犯される美青年~』
『一刀の願い・ヒカルの想い』
『愛欲~ヒカル~』
『友情が愛に変わる時~一刀×華佗~』

 ……正直、突っ込むのも嫌だった。
 どうも鬼畜☆MEGANE、それもヒカルの方は二人にとって鉄板ネタらしい。あの男もまさかこんな所で自分が好き勝手描かれているとは思ってもみないだろう。というか、出来れば知らない方がいい。どうかこの店が左慈の目に止まりませんように。一刀は小さく祈った。

「ふむ、これは良さそうですね」

 横では干吉が何冊も本を抱えている。それを満足そうに眺める朱里と雛里。やはり自分の創作物が他人に評価されるのは嬉しいらしい。

「あと、これは左慈……ではなく、ヒカルのお土産に」

 そう言ってジャンル・鬼畜☆MEGANEものにも手を伸ばす。一刀の祈りはすぐさま無に帰した。取りあえず、今出来ることはただ一つ。

 ─────左慈、負けるなよ……。

 一刀には、遠い空へそう呟くことしかできなかった。



 ◆



「ありがとうございましたー!」
「ありがとう、ございましたぁ」

 二人の可愛らしい店主に見送られ、一刀と干吉は『腐海』を後にした。干吉の手には紙袋、中には大量のBL本が入っている。ほくほくとした表情で帰路を辿る干吉。なんとかシュールを超えてブラックジョークの域に達した奇妙さであった。

「何というか、お前全力で楽しんでるな」
「当然でしょう?折角のお祭りなのですから。と言っても前夜祭ですか」

 何が当然なのかは分からないが、この男は記念祭の準備期間を本気で楽しんでいるようだ。確かに言うとおり、この三日間は騒がしく、これも祭の内と呼んでも差支えないだろう。しかし干吉が祭ではしゃぐ姿はやはり違和感がありありだった。

「つーかさぁ、干吉ってそんなヤツだったっけ?前はもっと裏でこそこそ悪巧みしているような性格暗いヤツだったろ?」
「おやおや酷い言われようですね。その干吉という男は」

 口元を釣り上げて、皮肉気に嗤うタケなる男。あくまで自分が干吉だとは認めないらしい。
しかし、いやらしい笑みはすぐさま消え失せて、干吉の表情が引き締められる。纏う雰囲気の変化が急激過ぎて、一瞬別人になったような気さえした。

「ところで。前、とは“いつ”のことですか?」

 あまりにも真剣な声色で干吉が問う。

「それは」

 思った以上に動揺したらしい。それ以上言葉を継げられなかった。そんな一刀の様子はお構いなしに干吉は更に一刀を追い詰める。

「よく考えてみなさい。私と貴方が、いつ出会ったのかを。」
「いつ出会ったって、お前は俺の敵として……」
「そうです。私は『外史を否定する者』、故に外史を肯定する貴方と必然的に争う形となった。ですか、少なくとも劉備がいる以上貴方と私が出会うことはありません。私達が出会うには、貴方が劉備でないとおかしいのですから」

 その言葉に、一刀は頭をがんと殴られた気がした。
 俺が、劉備?
 言っている意味が分からない。この“世界”では劉備は女で、桃香なのだ。だから干吉の言葉はおかしい。
 ああ、でも。

『我が名は関羽。我が主よ。共にこの乱世を鎮めましょう─────』

 そう言って彼女は手にした青龍偃月刀を掲げ、蒼天の下高らかに誓ってくれた。それは、一刀にとって、大切な情景で。だけど、それはいつの話だったか。彼女は出会った時、既に桃香にも忠誠を誓っていた。彼女の忠誠は桃香と一刀、二人の主に対してのものだ。だから、そんな言葉はあり得ない。
 それならば、何故自分は、あり得ない筈の情景を覚えているのか。

「さて、些か喋りすぎましたか」
「干吉…お前……」
「そろそろ、ニセモノの正体が分かってきたのではないですか?」

 ある種の確信を持って、干吉は一刀を見据えた。
 しかし当の本人には何を言っているのか理解が出来なかった。一刀にはまだ何も分からない。だからこうやって調べている。分かっているのは、違和感があるということだけだ。
 その戸惑いを正確に読み取りふと眼を伏せる。眼鏡の奥にある切れ長の瞳からは感情を読み取ることはできない。

「それならそれでいでしょう。私もまた折角の前夜祭を楽しませてもらいます。こんな機会はめったにありませんから、しっかり左慈を弄るとしますか。おっと、ヒカルを、でしたね」

 それではこれにて。
 最後にそれだけ残し、言葉が雑踏に消えるような希薄さで干吉は人込みに紛れて去った。
 一刀は立ち尽くすことしかできなかった。
 あの男の台詞に、完全に打ちのめされたからだ。
 
 つまりこれは、違和感の話だ。
 この“世界”は何かを致命的に間違えている。

 

 ◆


 干吉と別れ、どこか憂鬱な気持ちで訪れた大通り。
 そこは普段の喧騒とは程遠く、時が止まったように静まり返っていた。
 夕暮れは過ぎ去って、夜の闇は既に辺りを包みこんでいる。そして静寂の中で甲高い音色が流れていた。

 夜の闇に、二つの旋律が重なり合うように響き渡る。

 自然と目が音色の出所を探し、止まったのは大通りの一角。そこには赤い絨毯が敷かれ、その上で二人の美女が柔らかな空気を纏い、ただ穏やかにニ胡を奏でている。

 まるで水が砂に染み込むように、風が空へ還るように、宵闇の静寂へ音色が溶ける。奏でられるその曲はどこか物悲しく、だからこそ別れの風情を感じさせる美しさを持って、聴衆の心を此処ではない何処かへと運ぶ。
 幻想を紡ぐその曲は夜の闇の中で尚眩く、天上の音色だ。
 そう感じさせるほどの美しさがそこにはあった。

 しばらく一刀は茫然と流れる曲の幻想に心を奪われていた。
 不意に、ゆったりとした曲調に変わった
 終わりが近付いたのだ。それか感じ取れた。 
 名残惜しくも思うが、それを止める術などない。
 当たり前だ、あらゆる物事は始まれば終わる。永遠に続くモノなどありはしない。だから、一度曲が始まれば、それがどんなに美しく幻想的であったとしてもいつかは終わる。

 もし終わりを忌避するならば、最初から始めなければいい。

 曲を奏でなければ曲が終わることはない。そうすれば今この胸に在る寂寞を感じなくて済むだろう。
 だがそれでは意味がない。
 始めなければこれだけの美しさに触れることはできない。終わりがなければ、この切ないほどの幻想は創り上げることが出来ないのだ。
 結末の無い物語はそれだけで輝きを失ってしまう。
 それは何も曲に限ったことではない。あらゆるものは変わり往く。終わりに向けて流れ去るものだ。
 
 巡り往く季節。移ろう景色。時代も街並みも、永遠を誓う人の思いさえ、歳月の中では意味を成さず、その姿を変えていく。
 どれだけ寂しくても、どれだけ辛くても、それはどうしようもないことだ。
 その是非を問うことは一刀には出来ない。
 それでも、

 ───美しいと。

 物悲しい旋律の終わりを前にして、この心は悲哀でも寂寞でもなく、ただ美しいと感じてくれた。
 

 そして、最後に割れんばかりの喝采を辺りに響かせて、天上の音色は終わりを告げた。
 


 ◆


 止まっていた時が動き出し、大通りは普段通りの喧騒を取り戻す。
 それと共に、先程まで演奏をしていた美女二人が一刀を見つけ近付いてきた。

「おお、これはお館様。御出ででしたか」

 先に声をかけたのは、花魁を思わせる、妙に露出の多い着物を纏った妙齢の美女。名を厳顔、その真名を桔梗。
 妖艶な装いに身を包んだ、蜀の猛将は普段のにやりと挑発するような笑みではなく、どこか照れたような、初心な笑顔を落とした。

「御清聴、感謝しますぞ、お館様」
「なんだ、お前も聞いていたのか北郷。練習のつもりが思った以上に人が集まってしまった」

 桔梗と同じく演奏をしていた冥琳が、そう言って微かに笑った。
 この演奏が、二人の記念祭での出し物なのだ。
 二人にとってはリハーサルのつもりだったのだろう。しかしこれだけ見事な演奏に、集まるなというのが無理な話だ。一刀は苦笑しながら二人を労った。

「お疲れ様、桔梗、冥琳。でも二人の出し物は優雅だなぁ。胡弓……じゃない、中国だとニ胡だっけ?」
「ええ。久しぶりだったので多少不安はあったのですが、気に入っていただけたようで何より。正直に言えば人前で披露するのは苦手なのですが、記念祭の成功に従事するのも将としての務め。精々恥を晒すとしましょう」
「恥を晒すなんてとんでもない、見事な演奏だったよ。奇麗だった、音色以上に、それを奏でる桔梗が」
「お館様は女心を擽るのが上手い。その褒め言葉も話半分で聞くことにしますかな」

 からからと笑いながら、それでも少し頬を染めてふいと視線を外した。何のかんの照れているらしい。

「冥琳も、なんというか、すごかったよ」
「私の場合は趣味と実益を兼ねて、と言った所だな。祭とはいえ騒ぎ回れば落ち着いて休みたいと思うものも出てくる。ならば夜には静かな音に耳を傾け、酒でも呑みながら、心静かに終わり往く祭りを眺める、それもまた風情だろう」
「確かに、それも祭の夜の過ごし方かもしれないな。本当に、心静かにって表現がぴったりくる気持ちになれたよ。でも、ちょっとだけ寂しい曲だったな」

 それを聞いて、ほう、と意外そうな顔をした。一刀がそこまで曲に理解を示すとは思っていなかったのだ。

「それはそうだろうな。これは先立った妻を想い夫が鳥となってその魂を追いかけ空へと還る、その情景を描いた曲だ。祭の夜には合わなかったか」
「そんなことないさ。いい曲だった」
「おや、私には音色以上に冥琳が奇麗だった、とは言ってくれないのか?」

 からかうような冥琳の調子に、桔梗が耐えきれず「くっ」と笑いを洩らした。

「まぁ寂しい曲だが夜の静寂にはこういったものの方がいいだろう」
「うむ、騒がしい催しは若いものがやってくれる。わし等のような古い将にはこちらの方が似合いだ」
「……私はそこまで老成しているつもりはないんだがな」

 小さく冥琳が零す。自分も老兵扱いするような桔梗の物言いに引っかかるものがあるらしい。

「ところで、この曲は二人で決めたのか?」
「いえ、選曲に関しては冥琳に任せましたからな」

 その言葉に、冥琳に目を向ける。
 何故この曲を選んだのか。先程の理由のような漠然としたものではなく、何故誰かの後を追って死ぬモノを描いた曲を選んだのか。それが知りたくて一刀は意を視線に込めた。

「なに、過去の自分に重ね合わせた、と言ったところかな」

 寂しげに、落とすような声だった。
 そして視線から逃げるように冥琳はついと星を見上げた。

 その儚げな彼女の横顔に、■■の後を追うように■■た冥琳の姿が重なる。

 だから一刀は理解してしまった。ああ、彼女は。知らない筈のことを知っている。彼女が見ているのは、奏でた曲が心を誘ったその先、此処ではない遠い何処かなのだ。それを一刀は、悲しいくらいに理解してしまった。




「ぬ、なんだあれは」

 だから、桔梗の呟きに耳を傾けることが出来なかった。

「夜の運動、か?」

 冥琳の方はすぐさま現実に戻ってきており、桔梗の見ているものを同じように見ている。

「お館ー!お館ー!」
「たいちょー!どこなのー!」

 二人が見ているのは大通りを騒がしく走る少女の姿だった。先程までのシリアスをぶち壊す勢いで大声を上げながら走り回っている焔耶と、その隣で息を切らしている少女、于禁──沙和は涙目になりながらそれでも足を止めない。
 そして二人は、探している筈の一刀の傍を通り過ぎて駆け抜けていった。

「何がしたいのだあやつらは」
「む、戻ってきたぞ」

 探し人がいたことに何とか気付いたのだろう。二人は慌ててきた道を戻ってきた。
 そしてスピードを緩めることなく、今だ自身の思索から覚めやらぬ一刀に対して、

「おおおおおおおお館ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
「たいちょーたいちょー!怖かったのー!」
「ぐおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」

 全力で衝突。
 そのまま流れるような動作で一刀の首に手を回し抱きつく沙和と肩を掴んでがくがくと揺さぶる焔耶。抱きついた沙和によって体が固定されているため揺さぶられると首の負担が凄いことになっている。

「ちょ、ちょっと何事!?と、とりあえず落ち着け……!」

 あんまりな手段で現実へと引き戻された一刀は呻くように呟くが、聞こえていないのか二人の力は更に強まっていく。沙和は抱きついているというかもうほとんど首絞めに近く、その状態で揺さぶられているものだから、気管に多大なダメージが与えられ続けている。

 やばい、俺此処で死ぬかもしれない……!

 わりかし真剣に一刀はそう思った。
 先程から酸素が体に入ってこない。窒息死してもおかしくない状況であった。

「ふ…ふたりとも……まじで……」

 やばい、これ以上は。意識が段々と遠のいていく。しかし、そこで夜の静寂を揺るがすほどの怒声が響いた。

「ええい、少しは落ち着かんか小娘どもっ!いったい何を慌てておる!」

 それにびくっと二人の少女は振るえ、鬼の形相で仁王立ちする桔梗の姿を視線がとらえた瞬間、背筋に走る寒気と共に冷静さを取り戻した。

「はっ、き、桔梗様っ!も、申し訳ありません!」
「ふぇーん、ごめんなさいなの……」

 桔梗が発する怒声に何とか二人は落ち着き、焔耶は揺さ振りを止め、沙和もそれ以上力を込めることはなかった。

「落ち着いたなら、まずはその手を放さんか!」

 そうして顔を青白く、というか紫色にした一刀の様子にようやく気付く。ぐったりとしている一刀を見て焔耶は飛びのいた。

「お館っ!?大丈夫か!?」
「たいちょー、しっかりしてなの!」

 それでも沙和は離れる気はないらしい。力こそ弱まったが抱きついた状態のままで「うー」と唸っている。

「す、すまんワタシとしたことが」
「いや…ごめん、ちょっと待って……」

 ようやく末た酸素を肺の中に溜め込みゆっくりと吐き出す。なんとか呼吸を落ち着ける。

「で、一体に何があった?その慌てよう、ただ事ではないのだろう」
「あっ、!?そ、そうだ、幽霊っ!幽霊がいたんだっ!」

 冥琳の問いに、大きく眼を見開いて震えた声で焔耶は言った。
 焔耶の目は真剣だった。怯えている訳ではなく、ただ信じられないモノを見たがために動揺を隠せないでいる。

「幽、霊……?」

 掠れた声で一刀が言った。

「そうなのー!さっき、夜の警邏の途中で黒い影が大通りでふらふらしてるのを見ちゃったのー!ど、どどどどどうしようたいちょー!?もし呪われたりとかしたら……」

『二つ目は大通りを徘徊する黒い影。これは警備隊から聞いたんだけど、夜になるとさ迷うように黒い影が見え隠れするそうよ』

 桂花の言葉が脳裏に浮かぶ。
 宵闇は暗さを深め、誰も彼もを包み込んでいた。
 夜は、まだ明けない。
 
 第九話 了




[27170] 第十話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/21 16:49
<記念祭・二日前>

「ご主人様、気持ちいいねぇ」
「そうだなぁ」
 
 城内に在る庭園。
 奇麗に整備された芝生に寝転べば、目の前に広がるのは、遠くどこまでも続く空。体の熱を冷ますように風が吹き、微かに緑の香を運んでくる。

「いい天気だねぇ」
「風も気持ちいいしなぁ」

 風に揺れる草の音はさざ波のように寄せて返し、ゆらゆらとこの身は穏やかな眠りの海に浮かんでいる。

「何だか、眠くなってきちゃうねぇ」
「ほんとだなぁ」

 柔らかな日差しはまるで母親が幼子を撫でるように、そっと優しく瞼に触れる。
 麗らかな光に誘われ、少しだけ足を止めた午後の日。
 庭園の芝生で桃香と一刀はのんびりと空を眺めながら、並んで寝転がっている。

『ご主人様、なんか最近疲れているでしょ。いっしょに一休みしよ?』

 結局、昨夜の幽霊騒動はそこで終わり、今晩改めて調査することになった。夜まで空いた時間をどうしようかと城内を歩いていた一刀を、そう言って半ば無理やりに桃香は休憩へと誘ったのだ。

 一刀自身は疲れているつもりはなかったのだが、桃香の方が自分のことをよく見ていたらしい。手足をだらりと放り出せば中々起きようという気にはなれなかった。どうやら思った以上に疲れていたようだ。

 ふと顔を横に向ければ、同じように一刀の方を向いた桃香と目が合う。そうすれば彼女は陽だまりのような笑顔を浮かべた。僅かに数センチ伸ばせばお互いの手が触れる距離。遠からず、近からず。くすぐったくなるような距離感。まるで青春映画のワンシーンだ。それが妙に気恥しく、それが妙に心地よかった。
 もう一度空へと視線を向けた。

 薄く開けた瞳に差し込む、穏やかな光が眩しくて一刀は手で遮った。
 僅かに滲んで移り込む青色は胸が空くようで、ここ数日感じていた違和感さえ洗い流してくれるようだった。

 不意に、空が曇った。

 落とされた影。それは雲ではなかった。 
 見上げた空を隠すように陰を作ったのは、白い太腿。白磁のような滑らかさが心を奪う。視線を這わせるようにそれを辿れば、スカートの中で慎ましやかに、しかしながら確実に自己主張する布に行き当たる。
 
 それは、黒のレースだった。
 一刀はほんの少しだけ、時を止めた意識に気付いた。
 
 ────ああ、俺が目にしているのは。
 
 誰もが、いつかは夢見た桃源の園。
 大人になって、良識を持って、いつしか口にすることも恥ずかしくなって。
 流れ往く時の中で失ってしまう童心。誰もが忘れてしまう、子供の頃、望んでやまなかったはずの青い情景。

 ただ目にするだけで、あんなにも心が浮き立ったはずの、幼い夢の楽園が目の前に広がっている。

 ああ、だけど。
 一刀は静かに笑った。
 昔ほど純粋にはそれを喜ぶことが出来ない。
 透き通る白と艶やかな黒。
 そのコントラストは見事なのだが、黒を履くならばもう少し肉付きがあって欲しいというのが一刀の本音。
 だから一刀は流れる風に言葉を乗せた。

「華琳、黒はあんまりに合わないな。個人的には華琳は水色の縞の方が」
「黙りなさい」
「げふぅっ!?」

 言い切るより早く鳩尾にストンピング。
 麗らかな光に誘われた、少しだけ足を止めた午後。
 穏やかな午睡の時はすさまじい痛みと共に終わりを告げたのである。


 ◆


「全く、人の下着を覗き見ておいて、そんな言葉しか出てこないのかしら」
「いや、スカートの中身を見た健全な青少年の当然の反応といいますか」

 少なくとも健全な青少年は覗き見た下着にリクエストなど出さないものだが、まあそれは置いておくとしよう。

「まあいいわ。今日の要件は貴方にじゃないから」

 そう言って華琳は、寝転がっていた姿勢から体を起こした桃香についと視線を送った。

「え、私に用事?なんだろ……あ、華琳さんも一緒にのんびりしたい?」

 ほんわかと語りかける桃香。しかしそれに対し、あまりのも大きく華琳は溜息を吐く。

「貴女ねぇ。のんびりしたい、じゃないでしょう。いつまでも来ないと思えばまさかこんな所で優雅に午睡を楽しんでいるなんて」
「ん?桃香、なんか約束でもあったのか?」
「えーっと…………あっ!?」
「ようやく思い出したの?」
「えへへ……ごめんなさい」

 ぺろりと舌を出して、可愛らしく謝罪する桃香。しかし一刀には訳が分からなかった。

「なんだなんだ、全然話が見えないんだけど」
 
 不思議そうに目を瞬かせる一刀に、華琳はにやり皮肉げに、桃香は柔らかく笑って見せた。

「あ、ならご主人様も見に来る?」



 ◆



「二人とも遅いわよ……って、一刀も来たの?」

 そうして向かった先は、大通りに在る一軒の茶屋だった。そこでは待たされていたにも拘らず朗らかな様子で雪蓮が迎えてくれた。
 
「ごめんなさーい雪蓮さん、遅刻しちゃいました」
「一刀と一緒に昼寝をしていたせいでね」
「てへっ」
「てへ、じゃないわよ。反省なさい」

 こつん、と桃香の頭を叩く華琳。それが十年来の親友のように様になっていたものだからなんだか少しだけ一刀は嬉しくなった。

「もう、仕方無いわね桃香は。待ちくたびれて先に始めてるわよ?」

 そう言って満たされた杯を煽る。お茶会、といっているのに茶碗ではなく杯を、である。

「ねぇ雪蓮。今日はお茶をしながら例のものを待つ、と聞いたのだけれど?」
「……これ位、お茶みたいなものよ?」
「貴女にとってはそうでしょうけど、違うでしょ…それ何かが確実に……」

 流石の華琳も疲れた様子で頭を抱えた。
 ともあれ三人とのお茶会はこうして始まったのである。


 ◆


「で、結局今日ってなんの集まりなんだ?」

 肝心の内容を未だに聞かせて貰っていない一刀は、不思議そうに首を傾げた。

「待ちなさい。そろそろ来ると思うから」
「それって……」
「華琳様―!おまたせしましたなのー!」

 そう言って元気な声を響かせて現れたのは、沙和だった。その手には三つの紙袋がある。

「あ、沙和ちゃん待ってたよ~」
「桃香はあんまり待ってないけどね」
「うう、雪蓮さんがいじめる……」

 そんなことを言いながら、二人の視線は紙袋に固定されている。二人ともあの中に何が入っているのかちゃんと分かっているようだ。

「ねぇねぇ、折角の完成品の披露なら、皆で着てみませんか?」
「あ、それいいわね。せっかく観客もいることだし。華琳もいいわよね?」

 華琳はこくりと声も無く頷き、それを契機に三人は店の奥に入っていく。それを見て「着付け方教えてくるの~」と沙和もまた後を追う。訳が分からないままに、一刀は一人取り残されるのだった。
 
 そうしてしばらく時間が立ち、まずは沙和が戻ってきた。

「じゃあ隊長、とくとごろうじろ!なの~」

 気の抜けた声と共に、奥から三人がゆっくりと歩いて来る。

「どうかしら?」
「可愛いでしょ?」
「ちょっとこれ、胸元がきついわね」
 
 三者三様の声を出して、衣装を普段のものから着替えた三国の王がそれぞれポーズを決めて魅せる。
 その様を見た瞬間、一刀は愕然とした。
 彼女達が纏っているのは、白を基調としたブレザー、短いスカート。それは一刀がよく知るものだった。
 そう、三人の王が身に纏っているのは、聖フランチェスカ学園の制服、それも女子のものだったのだ。

「これ、制服じゃないか。いったいどうしたんだ?」
「すごいでしょー。隊長の白い服を女の子向けの意匠にしてみたの。沙和の自信作なんだから!」

 ぶいっと手を突き出して、沙和は自信満々に胸を張ってみせる。そんな彼女に満足げな笑みを浮かべ華琳は語りかけた。

「見事よ、沙和。此方の期待通り、いえ、それ以上の出来だわ」
「えへへー、褒められちゃったの」

 照れて頬を赤く染めながら沙和は舌をぺろりと出した。何の解説もないまま今の状況を眺めている一刀は、一体どういう流れなのか全く理解できない。そんな動揺を見てとったのか桃香が声をかけた。

「ご主人様、これはね。私達が記念祭で着る衣装なんだよ」
「これが?」
「私達が、ご主人様の服に似た意匠で出来ないかなって頼んだら、沙和ちゃんが作ってくれたの。うん、すっごく可愛いよね」

 うん、訳が分からない。解説してくれるのは有り難いのだが、なんか色々すっとばした説明で、全く理解が出来ないことに変わりはなかった。だから今度は華琳が苦笑しながら桃香の言葉を補足する。

「今度の記念祭は、『天の御使いの権威を知らしめる』ことも目的の内なのは分かっているでしょう?だから三国の王が天の御使いに似た衣装を作って纏うことで、民に『三国の王は天の御使いに従っている。故に三国は同列であり、同じ衣装を王が着るほどに三国は友好な関係を築いている』と知らしめたいのよ、私達としては」
「ああ成程、つまるところ三国同盟は天の御使いの下で非常に強固な関係を築いている、と対外的に示したい。その為の小道具としてこの制服を使うってことか」
「そういうこと」

 どこか満足げな、生徒を見る教師のような眼で華琳は薄く笑った。一刀がちゃんと言葉の意味を理解したのが嬉しかったらしい。
 敵わないなぁ。
 一刀は三人の制服姿を眺めながら、そう小さくぼやくのだった。

  
 ◆


 制服を届けた沙和は既に帰り、再び三人の王と一刀はお茶を始めていた。三人ともフランチェスカの制服を着たままであり、なんというか三国志の時代とは思えない非常に浮いた光景ではあった。

「どうかしたのかしら?」

 軽く視線だけを一刀に向けて静かに華琳が言った。

「いや、正直華琳が制服着てるのが意外でさ。民のためとはいえ自分を晒しものにするみたいな真似をするとは思わなくて」
「情報操作は立派な戦略よ。それにこの服を着るくらい、恥という程のことじゃないわ」
「またまたぁ、本当はご主人様とおそろいの服を着れて嬉しいくせに~」
「貴女は黙りなさい」

 桃香のからかいの言葉をにべもなく切って捨てる。ふん、と背けた横顔が若干赤く染まっていたのは気付かないフリをした方がいいのだろう。

「雪蓮も桃香も、何だかんだで王様なんだな。小さなこともそこまで考えて記念祭に望むなんて」

 感心して二人を見ると、きょとんとした表情で一刀を見つめ返した。

「え?私はただ楽しそうだから着ただけだけど?」
「私も、ご主人様とお揃いだし、沙和ちゃんが作るなら絶対可愛いのになると思って」

 うん、実は先程のような小難しい理論を考えていたのは華琳だけらしい。二人の表情からは照れ隠しではなく、マジでそれしか考えてなかったというのが簡単に読み取れた。

「……これが、王?こんなに適当でも…王ってなんだったかしら……」

 その様を見てがっくりと華琳は項垂れた。いかん、華琳が何か真剣に悩んでいる。

「華琳、気にするな。これに関しては二人が適当過ぎるだけだ。華琳は何も間違っちゃいない」
「そう、よね?」
「ああ勿論だ」
「……ふふ、貴方がこの場にいてくれて助かったわ一刀。正直、私一人ではあまりにも負担が大きすぎるもの」

 何気にマジな感謝の念を示されて、一刀はどう反応すればいいのか分からなかった。天然ボケな桃香と確信犯の雪蓮、二人の突っ込み役に回るのは結構な心労らしい。今更ながら乱世の頃の愛紗と冥琳の苦労が偲ばれる。

「あー、何か一刀が華琳だけ贔屓してる。そういうのってよくないと思うわ、私」
「そうだよねー。それにご主人様だって一緒に休憩してたのに華琳さんあんまり怒らなかったし。なんか不公平ー」

 いや、鳩尾に思いっ切り蹴り入れられたんですけど。そう言いたかったが、実際に言うと桃香よりも覇王様の方が怒ると思うので何も言わない一刀であった。

「あれよね、華琳って絶対女の友情より男を取る人間よね」
「そうですよね~」
「今時ツンデレなんて流行らないのに、それを武器にして男を操ろうとする辺り、流石としか言いようがないわ」
「そうそう。厳しいこと言っておいて、裏ではご主人様といちゃいちゃすることしか考えてないんですよ、きっと」
「まあいやらしい。いやね、そういうのって」
「雪蓮さん、私達はもっと清廉潔白に行きましょうね」
「勿論よ、桃香。私達友達ですもの」

 両の手を互いに合わせと友達だよねと確認を取り合う雪蓮と桃香の姿は、着ているフランチェスカの制服も相まって、なんというか女子高生のノリだった。なんか二人は華琳をからかって遊ぶことに決めたらしい。というか雪蓮、お前はどこでツンデレなんて言葉を覚えた?

「貴女達……喧嘩を売ってるのかしら?」

 怒気を抑え、華琳は震えた声を絞り出す。

「そんなことないわよ?」
「はい。そんなことありませんよ~」

 それに対して二人が声を揃えてにっこりと笑った。いや、にっこりというか、物凄くわざとらしい笑顔だった。完全にからかいの表情である。
 だからぴくりと華琳のこめかみに血管が浮いたのは仕方のないことだろう。

「まったく、華琳は心が狭いわね」
「そんなこと言ったら駄目ですよ、雪蓮さん。だって心ってここに在るものだから、華琳さんの場合狭くなっても仕方ないんです」

 そう言って、自身の手を重ねてたわわに実った両胸の果実の上に置く。桃香、言うことが黒過ぎるぞ。

「ああ、そうね。それは仕方ないわ。華琳の場合、心が狭いんじゃなくて、そもそも入る余白がないものね」

 雪蓮は自分の胸の下で手を組んで、あからさまにその凶器を強調して見せる。今の一連の流れを分かり易く言えば「華琳は胸がちっちゃいから心が狭い」と二人して言ってのけたのだ。
 だから、そこがもう限界だった。

「って待て!『絶』を取り出すなってどこから持ってきたそれっ!?」

 いつの間にか愛用の大鎌を取り出しプルプルと震えながら構えようとする華琳。

「落ち着きなさい一刀。別に殺す訳ではないわ。ただちょっと王の在り方というものをこの娘達に教えるだけだから」
「お前が落ち着け!そんな顔して言っても説得力無さすぎるわっ!」

 完全に目が据わっていた。
 後ろから羽交い絞めにして何とか前進する華琳を押し留める。弄られる華琳、とはなかなか珍しいが、これは少しやり過ぎだ。そう思い、二人に視線を送る。するとにっこりと笑った雪蓮と桃香は、

「……読めたわ。あれは怒っているように見せかけて、ああやって一刀に抱きしめてもらう策よ」
「ひゃー。なるほど~、勉強になります」

まだ弄るのを止める気はないらしい。ていうか桃香さん、あなたそんなキャラじゃないでしょ?そう言いたかったが桃香は実に楽しそうな笑顔を浮かべている。

「こっこここここいつらっ!殺すっ、絶対殺す!」

 華琳様さらにヒートアップ
 ああ、穏やかなお茶会って何処に行ったよ?
 そう思っても一刀は口にはしなかった。だって彼女達の考えなど最初から分かっている。三人とも、疲れている一刀に息抜きをしてもらおうと、わざとこうやってはしゃいでいるのだ。……まあ胸の小ささを指摘されて怒る華琳は素のような気もするが。
 まったく、自分の周りはいい女が多すぎて困る。
 込み上げる苦笑をかみ殺すことができず、一刀は結局声をあげて笑うのだった。

 
 だから多分、聞いてはいけない。
 なんで沙和がここまで正確に、見たこともないフランチェスカの制服を作れるのかなんて。
 きっと、聞いてはいけないのだ。


 ◆


 そして日が落ち、大通りには一刀を中心として数人の武将が集まっていた。
 昨夜、焔耶と沙和が見たという幽霊。それを調べるために、各国の将に集まってもらったのだ。

「うー、隊長、沙和も本当に行くのー?」
「当たり前だろ?幽霊を見たのは沙和と焔耶なんだから。二人は外せない」
「そんなぁ……」

 がっくりと肩を落とす沙和。それを見るとは多少可哀想ではあったが、彼女は数少ない幽霊の目撃者なのだ。やはり彼女を外すことはできない。

「そういう理由だから、焔耶も悪いけど手伝ってくれ」
「無論だ。幽霊の正体は分からんが桃香様やお館に仇なす者ならば叩き潰してやる」

 右肩に愛用の大金棒・鈍砕骨を乗せ、焔耶は表情を引き締めた。桃香に仇なす者と言わず一刀のことも含めてくれた焔耶に少しだけ感謝を込め、柔らかく見詰める。それが照れくさかったのか焔耶は頬を染めて視線を切った。 

「やれやれ……って、あれ?そういや、凪は?夜の警邏手伝ってくれって頼んでおいたのに」
「凪ちゃんは体調が悪くて来れないって言ってたの。でもきっと嘘なの。だって晩ごはんに麻婆豆腐二杯もおかわりしてたの」

 不満そうにぐちぐちと文句を言う沙和の傍らから一歩踏み出し、ぺこりと頭を下げたのは亞莎だった。

「代わりに私が参加させて頂きます。よろしくお願いします一刀様」
「亞莎が?」
「はい。凪さんに頼まれたのです。隊長の力になってくれ、と」

 いつの間にか二人は仲良くなっていたらしい。何があったのだろう。

「うーん、本当はもしもの時のために武官だけで調査したかったんだけど」
「あら、でも亞莎ちゃんの武はかなりのものですよ」

 そう言って擁護に回ったのは、深いスリットと男性の目を引く開いた胸元が印象的な薄紫のドレスを纏った美女だった。
 たおやかに笑い長い髪をなびかせるその淑女然とした立ち振る舞いからは想像も出来ないが、彼女は蜀の五虎将軍に数えられる歴戦の勇士である。
 名を黄忠、真名を紫苑。
 母性的な雰囲気を醸し出す彼女は、ゆったりとした口調で言葉を続ける。

「確かに亞莎ちゃんは軍師ですが、暗器使いですから。武器を持たずに移動できるため民に余計な圧力をかけないという点でもこういった市街での調査には向いているかと」
「そっか、確かに」

 それをいうと大金棒を振り回す焔耶はあまり向いてないのだが、そこは外せないのだから仕方ない。なんとか自分を納得させて亞莎に向き直る。

「ごめん、亞莎。よろしく頼む」
「は、はいっ!一刀様の犬として恥じない働きをしてみせます!」

 …………今の台詞は聞かなかったことにして、今度は紫苑に声をかける。

「ごめんな紫苑も、夜遅くに。璃々ちゃんのことも心配だろ?」
「いいえ。桔梗と祭に任せていますから」
「はは、そっか。祭さんは子供に好かれるから安心だな」
「ええ。母親としてはちょっと嫉妬してしまうくらいに」

 軽く笑い合い、次いで一刀が目を向けたのは、傍らで腕を組み、目を瞑って静かに立つ少女だった。

「思春もよろしく」

 こくんと、頷きだけで返す。
 彼女は刃物を思わせる鋭い眼が印象的なふんどしっ娘、鈴の甘寧の異名をとる、蓮華付きの武官。その真名を思春、追跡や隠行に長けた一流の隠密である。
 追跡を得意とする彼女だからこそ調査への助力を請うたのだが、始まる前からその表情はどこか疲れているようにも見える。

「あれ、もしかして急な呼び出しで怒ってる?」
「そんなことはない。おかげで特訓から抜け出すことが出来た」

 不思議な事を言い出した思春に、素直に質問をぶつけてみる。
 
「特訓って?」
「明命の三国総お猫様化計画の一環……いや、なんでもない」
「そ、そうか」

 苦渋が表情に広がる。たぶん踏み込んではいけない類の話だろう。そして出来れば聞きたくない話でもある。

「よっしゃ、グダグダしててもしゃーないし、そろそろ警邏にいこか」

 にやりと好戦的に口元を歪めて、霞は快活な笑顔を浮かべた。正体不明な幽霊の調査、その任を前にして尚も堂々とした態度を崩さぬ彼女に頼もしさを感じつつも、しかし違和を感じて一刀は声を洩らした。

「霞」
「ん、なんや?」

 不思議そうに首を傾げる霞。そう、一刀は彼女がこの場にいるという事実に、違和を感じていた。とは言っても、いつものような理由も分からぬ違和感ではない。
 一刀が彼女の在り方に感じた違和は、

「……なんでいるの?俺、声掛けなかったよな?」

 ものすごく単純なものだった。
 一刀は本気で疑問に思い、霞に問いかけた。 
 そもそも、一刀が幽霊の調査に声をかけたのは発見者である沙和・焔耶。
 警備隊としての巡視により都を詳しく知っている凪。
 あまり若手ばかりでは判断力に心配があるため紫苑。
 隠密行動・追跡に優れた思春。
 この五人である。
 後は警備隊から人員を割き、数で幽霊を探そうと思っていた。凪が来なかったため当初の予定とは既に違ってはいるのだが、何故霞は当たり前のようにこの場にいるのだろうか。
 一刀の問いに、そちらこそ何を聞いているのか、そんな当たり前のことを、と言わんばかりに霞は答えた。

「え、だって面白そうやし。最近体動かす機会あんまのうなったからなぁ。ここらで運動不足の解消を……」
「よし、皆そろそろ行くか。そこの酔っぱらいは放っておいて」
「あ~ん、嘘!嘘やって一刀~。一刀のことが心配で来たに決まってるや~ん」

 言いながら腕に絡みついてきた霞は一刀を自分の体に引きよせ、それだけでは飽き足らず両の胸の圧倒的ボリュームで攻め立ててくる

「なぁ、ええやろ~ウチ、役に立つで?ほら、調査ゆーても一刀の護衛だって必要やろ?なんたって太守様なんやから」

 そして上目遣いで首を傾げ懇願。まさか彼女がこんな技を使ってくるとは。一刀は驚愕と共に腕がむにむにであり、正直なところぷにゅぷにゅな心持ちであった。

「そりゃ、そうだけど」
「なら話は簡単や!ウチが護衛になったる。そうすれば他のみんなも動きやすいやろ?」

 でも、と言おうとしたが、追い打ちをかけるように霞の挟撃ならぬ胸撃が一刀が襲う。いや、挟撃でも間違いではないが。兎に角、そこでもう、何かが限界だった。

「し、仕方無いな。分かった。霞も手伝ってくれ」
「さっすが一刀話が分かる!」

 だから思わず霞の同行を許可してしまっていた。
 明言しておこう。決して一刀は胸の感触に負けたのではない。あくまでも調査の手は多い方がいいという判断から霞の助力を受け入れたのである。決してふにふにでぷにょぷにょがむらむらだった訳ではない。
 だから亞莎さん沙和さん思春さん。そんな目で睨まないでください。そしてさり気に「まぁ、負けてはいないな……」とか自分の胸を見て呟かないでください焔耶さん。

「ごほん!よし、そろそろ調査に出よう。皆、正直幽霊が不鮮明な以上何があるか分からない。危ないと思ったらすぐ切り止めてもかまわないから。自分の安全を第一に考えて行動してくれ」
「ご主人様、今更取り繕っても遅いと思いますわ」

 分かってるから紫苑、何も言わないでくれ。
 結局、ぐだぐだのままに一刀達は幽霊の調査を開始したのだった。


 ◆


 それから一時間ほど、それぞれが散らばり都を巡視していた。しかし思ったように成果は上がらない。

「む、北郷」
「思春か。そっちはどうだ?」

 目を瞑り、思春は軽く首を振る。

「此方にはいなかった。いつも通りの平穏な都だ」
「そっか」

 昨日幽霊を見た者がいるからと言って、今日も簡単に見られるとは限らない。そんな事は分かっているがどうにも気持は焦ってしまう。

「ま、そんな風にあせってもしゃーない。ここは見つかったら儲けもの、くらいの気持ちでいたほうがいいやろ」
「確かに、そうかもしれんな」

 静かに二人が頷き合う。
 しかしその瞬間、大通りに甲高い声が響き、事態は動いた。

「一刀様っ、出ました『黒い影』ですっ」

 珍しく焦りに声を荒げた亞莎の報告。それを聞いた一刀達の反応は早かった。報告を聞き終えるか否かというタイミングで全員が身構え、そして亞莎が指し示す方へと駈け出した。

「よっしゃ、とっ捕まえるで」

 その先頭を走るのは、思春。次いで霞が後を追う。一刀も何とかぎりぎり二人についていけている。しかし速度が少しでも落ちればすぐに離されてしまうだろう。
 遠くを睨みつけるように見据える。
 その先に、距離は遠いが、逃げるように走り去る白い肌と短く切った髪が見える。一刀はその背を見詰めながら小さく呟いた。

「女……?」
 
 その後ろ姿は女のものである。
 種馬と謳われた一刀が見間違える訳がない。その柔らかな背中のラインは間違いなく女性のそれだった。亞莎はあの女性を指して『黒い影』と称したのだ。奇妙な違和感。しかし今はそれに囚われている訳にはいかない。今現在喰らいつけているとしても一刀の脚力では思春、霞の二人に並走出来る訳がない。だから思索を巡らせ瞬時に指示を与える。

「思春、影を路地裏まで追い込みたい。できるか?」
「やってみよう。亞莎、回り込んで誘導するぞ」
「分かりましたっ」
「頼むっ」
「任された」

 亞莎と思春はそれだけ言い残して人混みに紛れた。あの二人ならばうまくやってくれる。後は単純に影を追い続ければいい。

「此処で逃がす訳にはいかない。先に行ってくれ、霞」
「分かった」

 短く返し霞も更に速度を上げる。その背はどんどんと小さくなり直ぐに見えなくなった。それでも何とか追いつこうと全力で足を出す。
そうしてしばらく走り続けていると、先に行った筈の亞莎が近寄り現状を一息に告げた。

「思春さんが先行しています。この先、角を曲がれば路地裏、更に奥は行き止まりになっているそうです。そこまで誘導しますから一刀様は霞さんと合流して追い詰めてください」
「さんきゅ、助かった」

 そしてまた亞莎が離れる。
 一刀は荒い呼吸で、それでも速度は落とさなかった。
 もうすぐだ。もうすぐ幽霊を追い詰めることができる。


 ◆


「お、一刀来たか。どうやら“幽霊”はこの先みたいやで」

 黒い影が逃げ込んだ路地裏。
 各国の軍師達の政策により都は環境整備が進んでいるため、路地裏と言えど特有の饐えた臭いはしない。表通りと比べれば多少薄暗く汚れた印象はぬぐえないが、言葉のイメージ程荒れている訳でもなかった。
 ちゃり。
 一歩踏み込み、踏みしめた砂が鳴いた。
 この先は行き止まりだ。幽霊がもし本当に幽霊ならば、すり抜けて逃げることもできるかもしれない。だが、もし幽霊の正体がそれ以外の何かならば、この先には確かにそいつが待っている。
 
「一刀、いくで。離れんなや」

 一刀を庇うようにずいと前に出る霞。表情からは普段の人懐っこい笑顔が掻き消え、代わりに猛禽の鋭さが宿っていた。
 頼もしいと思う。乱世において神速の張遼と恐れられた使い手がこの身を守ってくれるという。一刀の無事は既に保証されたようなものだ。
 それなのに。
月のない夜。記念祭・二日前。闇に潜む何か。幽霊を追う二人。

『ご主人様、動きは止める。だから頼む逃げてくれ』

 嫌な符号だ。現状が不吉な予感に重なる。どろりとした不安が手足に纏わりつく。
一刀は「ああ」と短く答えるのが精一杯だった。それを緊張と勘違いしたのだろう。霞は安心させるように一瞬だけ顔を綻ばせて、

「大丈夫や、何があっても絶対ウチが守ったる!」

 力強く言い切って見せた。
 それが、

『やっと、捕まえた───』

 ────血飛沫が舞う。肉を切る嫌な音。

 誰かの凄惨な笑みと重なって、一刀は泣きたくなった。

「やめてくれよ。自分を犠牲にして、なんてのは絶対に」
「分かっとるわ。ほないくで」

 不吉な予感を振り払うように、更に一歩。路地裏の角を曲がり、その奥に足を進める。
 そこには、散々探していた黒い影の姿が惜しげもなく晒されていた。
 黒い影の、幽霊の正体は─────







「くっ、もう逃げ場がない。かくなる上は……って、おお、霞。なんだ、私を追ってきたのはお前だったのか。また警備隊かと思って逃げてしまったではないか」

 どこかほっとした顔でしゅたっと手を挙げて見せる、露出の多い軽鎧を身に付けた女性だった。

「って、華雄ぅぅぅ!?あんたなんでこんなとこにおんねん!?」

 そう、彼女の名は華雄。真名は……まあそれはいいだろう。
 彼女はかつて菫卓軍に所属していたが、袁紹を盟主とした反菫卓連合との戦を境に歴史の舞台から姿を消した武将である。
 それが、何故こんな場所にいるのか。

「なんで、か。むぅ」

 言いにくそうに、華は眉間のしわを深める。しかし苛烈に睨みつける霞に押されてか、おずおずと口を開いた。

「いや、まあ、なんというか。反菫卓連合との戦いで菫卓様が敗北し、私は将軍職を辞すことになってしまったからな。この都には職探しにきたのだ」

 切実過ぎる理由だった。

「なんだかんだいって金がなくては生活できん。そういう理由で様々な国を巡り、我が武をまた戦場でふるおうと思ったのだが『もう戦は起こらないので貴女のような猪はいりません』と断られてしまい、しばらく流浪の日々を続けていたのだ」

 面接落ちた理由「猪だから」って悲し過ぎるだろう。一刀は心底そう思った。

「それでも最近までは賊退治で日銭を稼いでいたのだが、ここのところ賊の小規模な反乱も少なくなってきてな。路銀も少なくなりどうしたものかと考えていた折に、三国の中心に出来た新しい都の話を聞いた。そこならば何か仕事があるかと思ってきたのだが……」

 ぐっと空を見上げる華雄。その動作は涙が零れないようにしているとしか思えなかった。

「……此処は平和すぎて賊退治ような仕事はないらしい。とは言え城に仕官しようにも、武将としては必要ないと言われ、文官の真似事をする知も私にはない。その上何故か警備隊には幽霊とか言われて追いかけられるし。私は、どうすればいいんだろうなぁ……」
「あかん、一刀。どないしよ。ウチ泣きたくなってきた……」
「うん、その意見には限りなく同意したい」

 何と言うか、『残念』や『不幸』という称号は彼女にこそ与えられるべきものではないかと思う。

「しかし、何故ここ一年急に戦が減ったのだろうか?魏・呉・蜀は未だ睨み合いを続けているというのに……」
「いや、だって、なぁ」
「そりゃ、三国の間で同盟が締結されたんだから、もう戦は起こらないよ」

 此処はそういう“世界”なのだ。だから戦なんて起こる訳がない。

「なにっ、そうなのかっ!?」
「あんた知らんかったんか?」
「今日、初めて知った。そうか……通りで」

 遠く、何処かを見つめるような瞳。だがシリアスな雰囲気など欠片も無い。在るのはただ哀れ過ぎる華雄に対する同情の念ばかりだった。
 
「なんつーか、つまり纏めると職も住むとこも無くてふらふらしとったら幽霊と間違えられて警備隊に追われてた、と」
「うむ、そういうことになる」
「なんやそら……」

 霞は疲れたように溜息を吐いた。
正直、一刀も同じ気持ちだった。
また以前と同じように殺されるかもしれないと緊張して望んだというのに、幽霊の正体が実は華雄で、しかもこの幽霊騒ぎのオチがただの勘違いだなんて、肩透かしにもほどがある。溜息だって吐きたくもなるというものだ。
 あれ、また殺されるってなんだ?一刀の脳裏に疑問が浮かぶ。しかしすぐにその疑問は霞にかき消された。

「ま、ええわ。ここで会えたのもなんかの縁やろ。あんたも城に来おへんか?今、月と詠は侍女として城で働いとるし、ねねや恋もおる。職なら一刀がなんか世話してくれるやろ。なぁ、ええやろ?」
「そりゃ勿論」
「よっしゃ、流石一刀や」

 満足そうに腕を組んでからからと笑う霞。しかしそれとは対照的に、華雄は苦々しい顔をしている。

「いや、折角の申し出だが遠慮しておこう」
「って、なんでやねん。職探して都まで来たんやろ?」
「確かにそうだが、そこに菫卓様がおられるのであれば行く訳にはいかん。この身は菫卓様を守ることもできず無様を晒した。今更合わせる顔などない」
「ちょっと待ってくれ、華雄。月はそんなことを気にするような娘じゃない。会えば絶対に喜んでくれるよ」

 話に割り込んだ一刀に、華雄はいぶかしんだ視線を向けた。

「お前は」
「北郷一刀。天の御使いや」
「そうか、何処かで見た顔だと思えばお前が……。まあ、それはいいか」

 納得したように頷き言葉を続ける。

「成程、確かにお前の言う通りだ。菫卓様は我が身の無事を喜んでくださるだろう。そして私を受け入れてくださる。そんな事は分かっている。だがそれに甘んじるのは武人としての意地に反するのだ」
「それは、そうなのかもしれないけど」
「元より最後まで御身を守れなかった私が、菫卓様のお傍にいる訳にはいかん。そこに私の居場所などない。菫卓軍配下・華雄は汜水関の戦いにおいて確かにその命を落としたのだ」
「アホか。食うにも困っとる癖にそんな意地張ってる場合やないやろ」
「だが、もはや私には意地しか残っていない。この意地だけは最後まで捨てられん」

 頑とした否定だった。これ以上は何を言っても無駄だと分かったのだろう。霞は黙り込んだ。そして、一刀もまた。
 しかし一刀が黙った理由は、霞のそれとは趣が違った。
 普段の一刀ならば間違いなく、『そんな事はない!』と言って食い下がっただろう。だが一刀はそれを言わなかった。言えなかった。
 何故ならば、

 ─────居場所が、ない?

 彼女が何気なく言ったその言葉に、思考を絡め取られていたからだった。

「ではな、霞、天の御使い。久々に知った顔を見て少しだけ安心した」

 その言葉を聞いて、ようやく自由になる思考。しかし追い縋ろうとした時にはもう遅かった。最後に爽やかと言ってもいい程に簡素な言葉だけを残し、裏路地を離れ、華雄は大通りの人の流れに再び紛れ込んでいく。

「ったく、あの頑固もんが。ちぃとぐらい融通利かせてもええやろうに」

 呆れたように霞は言った。
 人間貧すれば鈍する、というが。華雄は落ちぶれて尚武人としての矜持は捨てなかった。確かに頑固者ではあるが、それは評価しなくてはいけないのだろう。一刀は去っていくその背中を見詰めながらそう思った

「でも変な話やなぁ」

 霞は不思議そうに首を傾げた。

「ん、なにが?」
「いやな?いくら夜が暗いからって、普通に歩いてるだけのヤツを幽霊と見間違えるもんか?」
「それは……」

 当然の疑問だった。
 いくら夜だからと言って、普通に歩いている人間が黒い影に見えるなどあり得ない。
 それでも華雄は確かに幽霊として見えていた。
 少なくとも、焔耶と沙和、そして亞莎にとっては。
 そう考えた瞬間。居場所がないと嘆く華雄の顔が思い出され、
 
「そっか、華雄は幽霊だったんだ」

 一刀はその事実が指し示す意味を理解する。それはあくまでも推測にすぎないが、間違いではないと感じられた。

「だから最初からそう言っとるやろ?幽霊の正体は華雄。ただ見た人が勘違いしとっただけ。そんなことあるもんかとは思うけど、実際そうやったから疑いようもないしなぁ」
「勘違いじゃない。華雄は幽霊なんだ」

 小さく、零すように言葉が漏れる。

「ん?それってどうゆー意味や、一刀?」
「意味も何もそのまんま。華雄は幽霊。それ以上の意味はないよ」
「むぅ……なんや、実は華雄が実はもう死んどった、なんてオチ?」

 訝しげな視線。それを平然と受け、淡々と、まるで業務報告のような平坦さで一刀は言った。

「そうじゃないよ。たぶん華雄は、生きてるから幽霊なんだ」

 それは、確証のない確信だった。
 今晩得た情報はこの“世界”を解き明かす重要な鍵だ。それでもまだ足りない。

『許しは乞わん。“あの男”の甘言に踊らされているとは言え、それを成すと決めたのは私自身だ。恨んでくれて構わない』

 秋蘭はいつか、確かにそう零した。
 そうだ、理外の外にいる『あの男』に会わなくてはいけない。そうすれば、もうこの“世界”のロジックはほとんど解き明かせる。穴開きの理論だが穴は後で埋めればいい、情報は何度でも集め直すことができるのだから。だから優先すべきは『あの男』に会うことだ。恐らく、今一番自分を殺したがっている『あの男』に。
 しかし、以前店に行った時は会えなかった。
 いったい何処に行けば会えるのか。

「生きてるから幽霊?死んでるから幽霊、やなくて?」
「ごめん。今は言えない。もう少し、待ってくれ」

 呻くように絞り出し、一刀は裏路地を後にしようと歩き始めた。
 これで『大通りの幽霊』に関しては片がついた。まだ分からないことも多いが確かな前進。
 しかし、一刀の心は晴れない。
 前に進めば進む程、逃げ場のない袋小路に足を踏み入れているような気がした。

 
 第十話 了




[27170] 第十一話
Name: モトオ◆e71ef7c8 ID:d88471de
Date: 2011/05/21 17:16
<記念祭・前日>

 からん、と乾燥した音が部屋に響いた。
 一刀は居室の机に向かい、竹簡に目を通している。とは言っても政務をしている訳ではない。
 彼が読んでいるのは、

「死ねっ!」

 今日も今日とて朝から自分付きの武闘派メイドの剛腕によって床に這いつくばり、その時偶然見つけた、自室のベッドの下に転がっていた竹簡だった。
 そこにある文章は全てひらがなで記されており、恐らくは自身が書き記したのであろうということは容易に想像がつく。
 書いた覚えのない竹簡にはこう記されている。 

『三日間を繰り返す』
『幽霊は一人じゃない』
『記念祭の前日に死ぬ。注意』
『仲間外れがいる。偽物の正体を知れ』
『偽者は知らない筈のことを知っている』
『本物は知っている筈のことを知らない』
 
 意味の分からない言葉の羅列。それを一刀は吟味し、意味の通じるものにしようと朝から試行錯誤していた。

 仮説、である。
 まずは自身の感じた奇妙な違和と得た情報を全て現実のものと仮定した上で話を進める。 
 何度も見る『記念祭前日に自分が死ぬ夢』とその夢から覚めた時が必ず『記念祭三日前である事実』、そして『三日間を繰り返す』と『祭の前日に死ぬ。注意』という言葉。
 ここから、立つ仮説。


『北郷一刀は記念祭三日前~前日の三日を繰り返す。北郷一刀は死ぬことで記念祭三日前からやり直すことになる』


 これは、情報がすべて真実であるとするなら疑いようのない仮説。確証はなくとも一刀の中では絶対に近い確信だった。

「そうだ、俺はもう何度もこの三日間を繰り返している。この“世界”はずっとループしているんだ」

 声に出した瞬間、その仮説はすとんと胸に落ちた。自分の中のどこかが、それは真実だと教えている。

 次に、一刀は桂花の変貌について思索を巡らせる。いや、一見ふざけているように思えるかもしれないが、これもまた重大な要素である。
 この繰り返しの最初に会った時、桂花は明命から猫耳メイドとして教育を受けたばかりだった。しかし二度目に会った時、彼女は完璧なゴスロリ猫耳黒桂花になっていた。会ったのは、同じ初日であるにも拘らず、である。
 それが示唆する事実。


『一刀以外の人間も、同じように三日間を繰り返している。そして、本人が意識しているかは分からないが、ある程度記憶を保持している』


 猫耳桂花、自身を犬と言った亞莎、秋蘭の言動。全て、ループ時の記憶を保持していると考えなければ説明がつかないのだ。

 さて、この二つを総合し、次に考えるのは記念祭前日に殺される一刀についてだ。
 何度も見る死ぬ夢は大抵の場合、誰か……魏呉蜀の将の手によって引き起こされる。前述の二つから考えるのならば、北郷一刀を殺す動機は明確だ。


『この“世界”を取り巻くループのトリガーは北郷一刀の死である。将達はそのトリガーを引くために、北郷一刀を殺害する』


 ここまでは、容易に予測が立つ。そしてこの仮説は限りなく真実に近い位置に在る、と考えていい。
 つまり、将達はこのループを続けたいがために、北郷一刀を殺し続けるのだ。

「……正直、信じたくないけど。まずはそれを認めよう」

 表情を歪め、重々しく呟かれた独り言。思った以上に心が沈み込む。しかしそれでも、このループの動機はある程度分かっている。それは救いだった。
そう、誰かが言っていた。

『ずっと、こんな日が続けばいいな』

 おそらくは、それこそがこのループする“世界”の全て。その想いを胸に、将達は北郷一刀を殺す。彼女達にはそうまでしてこの“世界”に拘る理由があるのだ。
 一刀は沈む気持ちを誤魔化しながら思索を続ける。
 思い出したのは、以前交わした天和達との会話である。
 
『つまり太平要術の書は』
『多少回りくどいけど、ある意味で読む人の願いを叶えてくれる本なの』

 そう言ったのは人和だった。太平要術の書。非常に回りくどい方法を取るが、読み手の願いをある程度叶える力を持った呪術書。このループは、太平要術を手にした誰かが引き起こしたもの、というのが一刀の推測であった。
 そして左慈は以前こう口にしている。

『もう一つ、“仲間外れは一人だけ”だ。忘れるなよ』

 つまり仲間外れとは、太平要術を手にした『誰か』。
 その『誰か』こそがこのループを引き起こす『犯人』なのだ。そう、『犯人』はあくまで一人。その『誰か』は北郷一刀を殺すことでこのループを繰り返し、永遠にこの前夜祭を続けようとしている。
 だから、

「この現象をどうにかするためには、その『犯人』をとっ捕まえないといけない……」

 そして、その『犯人』は。
 間違いなく、北郷一刀のよく知る、彼女達の中にいるのだ。

 何度もこの三日間を繰り返し、ようやく成すべきことが理解できた。

「まぁと言っても、出来ることといえば都を散策するしかないんだけど」

 最後に気の抜けたオチをつけて、一刀の仮説は棄却される。
 さあ、いつまでも部屋に閉じこもっていても仕方がない。今日もまた都へ繰り出そう。



 ◆


 さて、今日は久しぶりに皆の出し物を見物しに行こう。
 相変わらずぶらぶらと大通りを歩く。そして向かった先、記念祭のメイン会場となる大広場、そこには見慣れた二人の少女がいた。

「あれは、愛紗と……蓮華?なにしてんだろ」

 愛紗と蓮華が顔を向き合わせて、その愛らしい容貌を歪め、眉間にしわを作っている。

「おーい、二人とも」

 一刀は遠くから二人に声をかけた。すると二人してほぼ同時に一刀の方へ振り向く。

「ご主人様」
「一刀。どうしたの?」

 愛紗は軽く頭を下げ、蓮華は意外そうな表情のまま一刀に視線を向けた。

「俺は、まあ散歩かな。蓮華達こそどうしたんだよ。そんなしかめっ面してさ」
「いえ、実は……ご主人様には以前、私の記念祭での出し物の話をしたと思いますが」
「確かここで演舞をするんだろ?軍神関羽の演舞、きっと民の皆も見惚れるよ」
「あ、ありがとうございます。ですが、少し問題が出てきまして」
「問題?」
「はい、それが……」

 一刀の褒め言葉に頬を染めながら横目でちらと蓮華を盗み見る。それに倣い蓮華を見れば、どうにも浮かない顔をしている。

「なんかあったのか?」
「大げさなことではないのだけれど。私も記念祭での演目として、この舞台での演舞を考えていたのよ」

 ああ、成程。
 蓮華の態度に合点がいった。祭の見世物でネタが被ってしまう、それだけでも居た堪れないというのに、同じ土俵で争うのはかの有名な武将・関雲長である。彼女の演舞の後では並の武将では霞んでしまう。
 蓮華自身弱い訳ではないが、それでも愛紗に比べれば武の実力は見劣りするのも事実。舞台での演舞にしても、評価はそれに準じたものになるだろう。とは言え、最早記念祭の前日まで差し迫っており、今更出し物を変えるのも現実的ではない。 
 
「それでどうしようかってことか」
「ええ。何か良い案はないかしら」
「って言っても。今からじゃなにするにしても準備の時間がなぁ」
「本来なら私が辞退するべきなのでしょうが」
「それは駄目よ愛紗。貴女の演舞を楽しみにしている民は多くいるはずなのだから」
「蓮華殿……」

 しかしそれでは堂々巡りである。どうすればいいのだろうか。一刀も加えうんうんと唸る三人。それでもいい案は出ない。
 その時、大広場に舌っ足らずな、幼げな声が響き渡る。

「それなら私に任せてっ!」

 元気いっぱいな台詞と共に現れたのは桜色の髪を二つに纏めた、薄衣をひらひらと踊るようにはためかせた少女だった。
 
「しゃ、小蓮?いきなりどうしたというのだ」

 妹の急な登場に動揺しながらも、努めて厳格な姉を演じようと蓮華は硬い声を出した。
 現れた少女の名は孫尚香。真名を小蓮。少女は孫呉の系譜に名を連ねる、正真正銘の姫である。もっともその天真爛漫さは姫という言葉から浮かび上がるイメージとは遠くかけ離れてはいるが。表現は悪いが、悪戯小僧の少女版と言った方がしっくりくる立ち振る舞いであった。

「だ~いじょうぶ!愛紗もお姉ちゃんも普通に記念祭で演舞をやればいいのよ」
「しかし、それでは」
「もうっ、お姉ちゃん慌てちゃダメなんだから。最後までシャオの話を聞くの!」
「う、うむ」
「お姉ちゃんは愛紗と演舞で競うと負けちゃうから演舞は嫌なんでしょ?」

 身も蓋もない言い方だが、間違いではない。不服そうな蓮華を軽く流して小蓮はさらに言葉を継げる。

「それって要は、同じ演舞っていう出し物でも、民が別物として見るようにすればいいってことでしょ?それなら簡単!」

 言って、小蓮は懐に手を突っ込み、何かを探すようにゴソゴソとしている。

「はいっ、魔法の衣装~」

 そして、どこかで聞いた効果音を辺りに響かせながら、小蓮が取り出したのは真紅の水着だった。
 しかしあまりにも布の面積が小さすぎる。
 それは極限まで細く作られたV字型の水着である。衣装というか水着……というかほぼ紐だった。

 試しにこれを着た蓮華の姿を想像してみる。
 褐色の肌を彩る申し訳程度の真紅の水着。大事な部分をぎりぎり隠せるかどうかのそれから、零れそうになる蓮華の胸。そして後ろから見れば、ほとんど全裸と変らず、彼女の美しいヒップラインが丸見えになっている。
 
 駄目だ、素晴らしいけどこれは駄目だ。捕まる。確実に捕まる。一国の王たる彼女がこんな水着を着て演舞を行う?そりゃ小蓮の言う通り演舞になんか見える訳がない。どう考えても大人なお店で繰り広げられるそういうショーである。
 そんなことを考えている一刀を余所に、限りなく犯罪に近い格好を勧める小蓮は、いやに熱弁を振るっている。

「これで普通に演舞をすれば、民達も大興奮間違いなし!ううん、もうそれは演舞なんかじゃない。名付けて“孫権様の恥ずかしだんす”……イケる、これはイケるわっ!」
「いけるかっ!というか出来るかっ!?小蓮、貴女何を考えてるのよ!?」

 まあそれが普通の反応だろう。顔を真っ赤にして怒りを露にする蓮華、しかし小蓮は真剣な表情を作って小さく首を振った。

「お姉ちゃん。お姉ちゃんの考えてること、シャオには分かるよ?孫家の一員として記念祭で下手な事は出来ない。だけど愛紗の演舞の後じゃ自分の演舞なんて面白くも何ともない。そう思ってるから困ってるんでしょ?」
「それは……」

 図星だったのだろう。激情のままに言葉を吐き出そうとしていたのに、出鼻をくじかれた形で蓮華は黙り込んだ。

「でもお姉ちゃんには、愛紗にはない才能がある。愛紗程の武はないかもしれないけど、個人としての魅力は絶対に負けてないっ!」

 沈み込む姉を激励するように力強く小蓮は叫ぶ。それが彼女の胸にも届いたのか、蓮華は視線の位置を合せ、今までとは違い真摯に問う。

「ありがとう、小蓮。でも私の才能ってなにかしら?正直に言えば、愛紗に勝っているところなんて私には思いつかない」
「そんなの決まってるじゃない……お尻、だよ」

 重々しく、そして真剣に、ふりーだむ妹は言い切った。

「……済まない、もう一度言って欲しいのだけど」
「お姉ちゃん、聞いて。お姉ちゃんのお尻には呉の国宝と言っても過言じゃない……はっきり言って三国を統一するだけの力があるの!もしお姉ちゃんが本気になっていたら、今ある三国同盟は孫権美尻倶楽部になっていた可能性だってあるんだよ!?」

 ねーよ。
 一刀は姉妹の気の抜ける問答を聞きながら、口には出さず心の中でそう呟いた。傍らでは愛紗も微妙な表情でこの寸劇を眺めている。
 しかし姉妹は止まらない。正確に言うならば、小蓮に止まる気がない、というところか。現状を把握し切れていない蓮華に対して、正論を、時には屁理屈にさえならない理論を持ち出して、巧みに「蓮華のお尻は凄い」という結論まで誘導している。恐らくそれは小蓮ブレインウォッシュと呼ぶに相応しい話術。多分彼女は何処かで宇宙人から力を与えられたのだろう。

「ねえ、お姉ちゃん、今だけシャオを信じて?私はただお姉ちゃんの力になりたいだけなの」
「小蓮、貴女そこまで私のことを」
「もうっ、当たり前じゃない。お姉ちゃんはシャオの大切なお姉ちゃん(おもちゃ)なんだから」

 一見感動的なシーン、しかし一刀は頭を抱えていた。

「やべぇ、俺疲れてる。絶対疲れてるよ。だって今聞こえたもん。お姉ちゃんって言ったはずなのにおもちゃって言ったように聞こえたもん」
「ご主人様、奇遇ですね。私にもそう聞こえました」

 うん、幻聴じゃなかったらしい。しかしこちらの苦悩など無視して尚も寸劇は続く。

「ああ、でもこんな格好。私はどうすれば」
「まずは試しにやってみよう?それで駄目だったらまた次の機会に違うことで挑戦すればいいだけの話だし」
「それはそうかもしれないけど」

 一応言っておくが、一度でもあんな破廉恥きわまりない格好で民の前に出れば、その時点でいろんなものが終わる。蓮華の評判とか。彼女の真面目なイメージとか。他にも色々と。あと本番は一回こっきりで次の機会なんてない訳だが、蓮華はそこまで頭が回っていないらしい。
 そこで、一刀の心はもう限界を迎えた。

「愛紗……」
「なんでしょうかご主人様」
「腹減ってない?なんか食いに行こうか」
「そうですね……ご主人様のお誘いならば是非もありません」

 二人は頷き合い、そしてなんかどんどん訳の分からない方向に話を転がしていく姉妹に一瞬だけ視線を送り、その場を後にした。ぶっちゃけあんまり関わり合いになりたくなかったのだ。

「ああ、私はどうすれば……ねえ一刀、私はどうすればいいと思う?……って一刀?一刀、どこなの!?」

 さて、彼女の記念祭での演目は結局なんだったのだろうか。
 演舞だったのか。
 或いは“孫権様の恥ずかしだんす”だったのか。
 それは誰にも分からず、知ることも叶わず、真相は全て闇の中である。


 
 ◆



 訳の分からない日中の騒動を終えて、愛紗と早めの夕食を取って城に戻る。その頃には既に日は落ち、夜が訪れていた。
 空には星の天幕。
 そこから顔を覗かせる琥珀の月が城内を青白く染め上げていた。
 そういえば、中国では月には嫦娥という仙女が住んでいるという。成程、この儚げな美しさは何処かたおやかな女性の姿を想像させる。零れ落ちた輝きさえここまで人の心を打つのならば、きっと彼女は絶世の美女なのだろう。

「日本だと何だろ。かぐや姫?ツクヨミノミコトだとなんかイメージ違うしな……」

 そんなことをつらつらと考えながら城壁の上に辿り着く。
 あまりに月が奇麗だったせいだろう。一刀はほとんど無意識のうちに、月がよく見える城壁の上まで足を運んでいた。
 空を仰げば月は一際強い。月は奇麗だが城壁との相性は悪い。祭の前日なら尚のことだ。

『北郷一刀は此処で死ぬ』

 青白い月の光は美しくも何処か冷たい印象があって、いっそ死の匂いさえ感じさせる。不吉な予感は拭えず、けれど月は知らない顔で輝き続ける。いつだって月は我関せずを貫いている。

 ──────逝かないで……。

 いつだって琥珀の月は冷たいままだ。

「おや、主も月見かな?」

 不意に声をかけられる。
 視線を向ければ、城壁の上で腰を下ろし月の光を肴にして星が杯を傾けていた。

「星。こんな所で一人酒なんて優雅だな。っと、悪い、もしかして邪魔したか?」
「なに、お気に召されるな。それに一人で呑んでいる訳でもありません」

 そういってついと星が顎で指し示した先ではいくつも大徳利を抱えた、銀髪の女性が歩いてきていた。

「おお、北郷。なんじゃお主も来たのか」

 呉の宿将・黄蓋。その真名を祭。彼女は山ほど抱えた徳利を石畳の上に置いて、にかっと邪気のない笑みで一刀を迎えた。

「祭と一緒に呑んでたのか」
「ええ、祭殿は最近毎晩ここで呑んでいると聞きまして、ご相伴に与ろうと参じたという次第です」

 悪びれずに言う星はくいと一杯酒を煽る。祭は顎でお前も座れと示してみせた。どうやら酒に付き合えということらしい。
 見ればいくつもの空の徳利が置かれている。随分と長いこと呑んでいたようだ。それでもまだ足りないらしく祭が追加を取りに行っていたという所だろう。
  
「さ、まずは一献」

 腰をおろした一刀に自身の杯を渡すと、星はなみなみと酒を注いだ。

「ありがと、でもこうやって呑むなら俺も誘ってくれればよかったのに」
「主は忙しい方ですからな、特に夜は。我らが独り占めする訳にも」
「損な性分なんだな」
「なに、それも恋の至上というものでしょう」

 月に濡れた優しげな笑み。星の姿は嫦娥もかくやという美しさだった。
 一瞬彼女の佇まいに目を奪われる。視界の中で杯を一刀に渡した星は、徳利で酒をかぶ呑みし始めた。ものすごい勢いで酒を呑み干し、最後には「くはぁ」と声まで出す。……蜀国の嫦娥随分と豪快らしい。
 口に出すのも何なので黙って注がれた酒に口をつける。
 喉を通る熱さが心地よい。一口で上等だと分かるくらいにいい酒だった。

「……うまい」
「それはなにより」

 短く言い合って会話はそれきり途絶えた。重苦しい雰囲気な訳でもないのであえて話題を探すことはせず静かに酒を呑む。肴は空に映る月だけだが、こんなに奇麗ならば十分すぎるだろう。
 空が近い。
 ここからなら届くかもしれないと思って月に手を伸ばしてみる。当然その手は空を切り、掌には何もなかった。

「ぬ、北郷どうかしたか?」
「や、空が近いから。手を伸ばせば届くかなって」
「……なんじゃ、存外に乙女じゃな」
 
 呆れたような表情だった。しかし祭の言うことも分かる。お星さまに触れるかもしれないと思って手を伸ばす、なんて確かにちょっとメルヘン過ぎる。自分の発言が急に恥ずかしくなって、ごほんと咳払いを一つ。そして誤魔化すように台詞を吐いた。
 
「まあいいや。こんなにいい月なんだ。ぐだぐだ考えるのは無粋だ」
「ふふ、その通り。月にも酒にも、傍らにある美女二人にも失礼というものでしょう」
「むぅ、この老兵も美女に数えるか。世辞とはいえ、照れるな」
「おや、少なくとも主ならば間違いなくそう言うと思いますが」
「勿論だ。老兵なんて、とんでもない。祭さんはすこぶる付きってヤツだよ」
「阿呆っ!小僧がからかうでないわ」

 怒ったような顔をして見せても耳まで染まった顔の朱は隠せない。それを突っ込んだ所で今度は酒に酔ったのだというだけだろうから何も言わないが。妙齢の美女でありながら何処か初心な反応を見せる祭が可愛く見えて一刀は小さく笑った。


 ◆


 酒宴は続き、しばらくすると不意に星が声を上げた。

「おや、あれは」
 
 何かを見つけたのか、疑問を含ませた声。何かあるのだろうか。そう思って視線を辿る。するとその先には、月の光に誘われたのか、ふらふらと覚束ない足取りで華琳が歩いている。
 華琳の方もこちらに気付いたようで、ゆっくりと近付き、どこか沈んだ雰囲気を纏わせたまま語りかける。

「あら、こんなところで酒宴かしら」
「おお、これは曹操殿。これだけ見事な月ならば呑まぬ方がおかしいというものじゃろう。一献如何かな?」
「遠慮するわ」
 
 祭が勧めた酒を素気無く断り、一瞬だけ顔を歪め、華琳はすぐに言葉を継げた。

「月は好きじゃないのよ」
「おや、此処には月を見に来たのでは?」
「……そうなのよね。なんで来たのかしら」

 自分の感情を掴みかねているのか、随分と困惑しているようだった。

「しかし勿体無いですな。月を愛でればそれだけで酒は旨いというのに」

 星が言葉通り、本当に旨そうな表情で酒を呑み干す。

「本当、曹孟徳ともあろうものが無粋もいいところだわ。……でも、どうして
も月下で楽しむ気にはなれないの」

 一瞬、目の端で月を捉え、憎々しげに言い捨てる。けれど浮かんだ表情には憎悪や嫌悪はなくて、ほんの少しの悲哀を感じさせた。

「あの月の光は……」

 口にした言葉はだんだんと小さくなって、最後は呟く程度だった。しかし星のいぶかしんだ表情に気付き、「なんでもないわ」と取り繕い、華琳は話を打ち切った。
 けれどこんなに空気が冴えた夜だからだろう。


 ─────私の、大切なものを攫っていくような気がして。


 一刀の耳には、彼女の呟くような声が届いてしまった。

 琥珀の月が空に独り。
 現代と違って空気が澄んでいるからだろうか、人間の光が弱いからなのか、月の光は地上までよく届く。
 氷のような、薄く儚げな美しさ。それを讃えるように瞬く星々。切り取られた銀色の時間。虫の音すら聞こえぬ、完成された月下の幻想。
 そうだ、この美しさは幻想と呼んで差支えない魂響の情景だった。
 ああ、それでもきっと。
 彼女にとってこの幻想の下には、



     ……なら寂…が…屋……の子
  
                ……てい………琳
  

 まだ少し震えてる、傷口のように。
 触れるだけで痛みを覚える何かがあるのだ。

 眩暈がした。
 雰囲気に当てられて少し呑み過ぎたのかもしれない。
 華琳の横顔。称えられた悲しみ。何が彼女を苦しめているのか、それは分からない。でも、そんな顔をさせるのは嫌だと、一刀は素直にそう思った。だから、立ち上がり華琳の傍によって自身の杯を押し付けた。

「ほい。俺の使った後で悪いけど」
「だからいらないって言ってるでしょ」

 無理矢理に押し付けた杯へなみなみと酒を注ぐ。少しばかり華琳は不機嫌になったが、それを無視して杯の中身を指さす。注がれた酒は鏡のように夜空の月を映している。

「魏王曹操は敵なんて一飲みにするくらいの方がらしいだろ?」
 
 一刀は笑った。彼らしい、人懐っこい笑みだった。
 くだらない冗談。何の意味ものない言葉遊び。それでよかった。彼女ならそれだけで十分だ。
 その意を解したのか、酒を呑みながら祭が笑った。
 
「相変わらず気障な男じゃ」

 あんまりな暴言、けれどその物言いは暖かい。見れば星も「くっ」と笑いをかみ殺している。
 肝心の華琳は目を白黒させて、しばらく間を置いてようやく一刀の言いたいことを理解したのか、落とすように笑みを零した。

「貴方、意外と乙女ね」
「……いいよ、もう乙女で」
 
 一刀は諦めたように言い捨てた。
 しかしあまり悪い気分でもなかった。
 自分の馬鹿げた真似が一瞬でも彼女を笑わせることができたなら、まあそれくらいは受けよう。漢女と言われなかっただけマシだと思いたい。
 琥珀の月は変わらず空に。杯に映えた面影を呑み干すように華琳は、一気に酒を煽った。

「おいしいとは思わないけれど……悪くはないわ」
 
 そう言って不敵に笑う。
 彼女の心中を図ることはできないけれど。今の笑顔に嘘はなかったのでそれでよしとしておこう。
 ……きっと、彼女の悲しみは彼女にしか解決できない。当たり前だ。痛みはあくまでも本人にしか理解できない。それを分けてもらう手段などありはしないのだ。
 どれだけそれを憂い、力になりたいと願ったとしても、彼女の悲しみは一刀にはどうしようもないことだ。
 だから今は花を飾る。 
 埋もれた想いには届かなくとも。
 せめてその花が慰みになりますように、彼女を苛む月の光に小さく祈りを掛ける。

「では、ささやかながら酒宴を始めるとしましょう。小さな前夜祭、というところですな」

 星の物言いがどこかおかしくて、一刀達は微かに笑った。
 空には変わらずに月がある。
 けれど冷たさは息を潜めて、琥珀の月は宴を彩る照明に変わった。或いは月に住むという仙女が気を利かせてくれたのかもしれない。
 ああ、月が奇麗だ。
 これ程までに月が綺麗ならば、偶にはこんな夜も悪くはないだろう。

「でも、そろそろ行かないといけないよな……」

 誰にも聞こえないよう、小さく呟く。
 これだけ暖かな光景は中々見ることが出来ない。でも、今はここを離れないと。

「おや、主。どうされました」
「悪い、ちょっと厠に」

 それだけ言って、暖かな景色に背を向ける。
 見上げた先には琥珀の月が。
 一刀は溜息を吐いた。 
 気が重い。こんなにも柔らかな夜だというのに、それだけでは終われないのだ。



 ◆


 小さな前夜祭を後にして、一刀は大通りに在る一軒の店を訪ねた。しかし店の中に人の気配は感じられない。
この店は女性専門の下着屋であり、ある意味で有名だった。
 取り扱う商品の質は良いが店員が筋骨隆々で黒光りした男、それも女性物の下着だけを身につけた変態だという話である。
 店の扉、その下方の右隅には、不吉な予言が記されている。
 ゆっくりと、一刀はそれを読み上げる。

『なかまはずれがいる。にせもののしょうたいをしれ』

 仲間外れがいる。偽者の正体を知れ。

 ここに血文字がある以上、三日目の夜、北郷一刀は此処で死ぬ。それを理解しながらも一刀はこの店に訪れた。確かめたいことがあったからだ。

 じゃり、と。
 土を踏みしめる音が夜の静寂に響いた。

「俺が桂花から聞いた幽霊の話は三つ。一つ目は城壁の上で笑い声を上げる女の幽霊。二つ目は大通りを徘徊する黒い影。三つ目は郊外の森、その奥から聞こえる女の泣き声」

 一刀は背後に気配を感じ、聞かせるように語り始めた。
 桂花が聞かせてくれた噂は、一番最初に愛紗が調べた噂と一致している。
 しかし愛紗は言っていた。

『人によっては男の幽霊だったと言いますし、女だったとも言います。見られた場所も城壁の上や大通り、都の郊外にある森と一定しません』

 それはつまり、男の幽霊を見たという目撃談も存在している、ということだ。

「それなら、大通りの幽霊は男じゃないとおかしい。だって森と城壁の上は女の幽霊で噂が確定してるんだからな。黒い影の正体は華雄だった。でもそれとは別に、男の幽霊も大通りにはいる筈なんだ。……だから、三日目の晩にここで待っていれば会えると思っていたよ」

 大通りには華雄と同じく、この物語に関わることが出来ない、“幽霊”が存在する。
 一刀は踵を返した。
 琥珀の月に照らされたその影が、静かに映し出される。

「なあ、“幽霊”……いや、貂蝉」

 眼前で腕を組み、静かに佇む筋骨隆々とした男。
 貂蝉。
 傾国の美女の名を冠した、理外の存在がそこにはいた。
 







「あらぁん、そんなに私と会いたかったのかしら、ご主人様ぁん?」

 その体躯に似合わぬ女性のような言葉で、それでも真剣な風情という奇妙な語り口で貂蝉が言う。一刀は笑いもせず表情も変えなかった。
 
「ああ、会いたかったよ。でも会いたくなかった。お前と会えば、この“世界”の謎はほとんど解明されちまう。だから、この場所に来るのはお前以外のヤツが良かった」

 言いながら、一刀が考えていたのは、華雄のことだった。と言っても色っぽい理由からではない。その存在が示す意味を一刀は考えていた。
華雄は幽霊だった。
 大通りを徘徊する黒い影。彼女は何故かそういう扱いを受け、警備隊に追い回されていた。
 それは何故か。
 一刀は考え、そして答えは容易く出た。
 よくよく考えてみれば、実に簡単な話だ。
 沙和、焔耶、亞莎。この三人にとって、華雄は幽霊であり、黒い影にしか見えなかった。
 霞、一刀。この二人にとっては華雄は、ちゃんと華雄として見えていた。
前述の三人は汜水関の戦いにおいて、華雄と出会っていない。つまり三人は、そもそも華雄のことを知らない。しかし一刀は以前に出会ったことがあり、以前同じ陣営に所属していた霞は言わずもがなだ。
 ここから分かる事実。
 つまりこの“世界”において、“華雄”を知っている人間だけが、華雄を華雄として捉えることが出来る。
 だから華雄を知らない人間にとって、華雄は確かに幽霊だったのだ。
 それが指し示す意味。行き着く仮説。幽霊の正体。ニセモノの正体。
 
 ─────そうだ、この“世界”は初めから。

 そこまで考えて、一刀は首を振った。そして今浮かんだ答えを振り払うように、貂蝉へ声をかけた。

「よく考えれば、おかしかったんだよな」

 一刀は、思索とは関係のない言葉を吐いた。貂蝉は腕を組んだまま静なに耳を傾けている。

「俺はこの三日間、何度も殺された。その動機もなんとなく分かる。でもおかしいんだ。なんで蓮華や秋蘭は、俺の死がループを起動させる条件だって知っていたのか、ってね。これが一人の人間に殺され続けたって言うなら分かる。単にそいつが『犯人』で、端からそいつが決めたルールだから知っていただけの話だ。それなのに、なんで複数の人間がそのルールを知っていたのか」

 このルールを『犯人』が教えた、ということはないだろう。
 わざわざ疑われるような真似をするとは思えない。ならば誰が。そう考えていきつく答えは一つしかなかった。

「考えてみれば、当たり前だよな。俺だって左慈や干吉から情報を貰っていた。他の皆がそういうことをしていても不思議じゃない。俺を殺せばこのループを続けられる……そう皆を唆したのはお前なんだろ?」

 だから秋蘭は言った。『あの男』の甘言に踊らされている、と。彼女にとってこのループは、北郷一刀を殺してでも続けたいものだったのだ。

「そそのかした、とは失礼ね。私はただぁ、皆の願いのお手伝いをしていただけよん」

 確かに、それは事実だろう。
 この男は左慈達とは逆、『外史を肯定する者』だ。故に、この“世界”を壊す要素、即ち事態を解決しようとしている北郷一刀を排除したかった。
 そしてそれは、将達にとっても魅力的な誘いだったに違いない。
 乱世の果てに失われたものは多く在った。
 けれど、この“世界”が続く限り、誰も失われていない世界で絶え間なく幸福を甘受できる。
 命を落とした筈の誰か。避け得ぬ別れ。そんな悲しみはなかったものとして、騒がしい毎日が続いていく。
 それこそが『犯人』望み。
 そう、つまり。


“幸せな日々をあなたと”


 このループは、そういう名前の呪いなのだ。
 そしてそれはある可能性を示唆している。それこそがこの世界の真実。怯えたように一刀は一度だけ身を震わせた。

「さぁ、ご主人様?そこまで分かっているなら、私がここに来た理由も分かっているでしょう?」

 貂蝉が、話はここで終わりだと一歩前に近付く。

「ああ、俺を殺しに来たんだろ?死ぬのは嫌だけど逃げる気はないよ。逃げても意味がない。それをして記念祭の当日を迎えれば」
「この“世界”は終わる。記念祭を始めるには天の御使いが不可欠。だけど始まる前に死んでしまった、だから最初からやり直す。それが太平要術を手に入れた『彼女』が組み込んだルール。この“世界”は記念祭前の三日間、始まらないお祭りを前提条件とすることで永遠に続くループを保っているの。だから記念祭にご主人様がたどり着けばそこでお仕舞い。ループは終わるわ。どうする、ご主人様?逃げるというならそれでも」

 死ぬことに恐怖がない訳ではない。ループを続けたいと思っている、ということでもない。
 それでも一刀の中に逃げるという選択肢はなかった。

「いや、いい。一思いにやってくれ」
「そう……中途半端なままでの終わりは、ご主人様も良しとしていない、そういうことね」

 そうだ、中途半端なままでは終われない。
きっとこのままループを終わらせることが出来ても、それを望んだ『犯人』は救われないままだ。
 それが自分のよく知る少女達の誰かならば、このまま終わる訳にはいかない。

 ちゃんと、『犯人』に会わないと。

 今更ながら、何故この異常をここまで躍起になって解決しようとしていたのか、その答えが一刀の中で形になる。
 それを忘れぬよう胸に抱え、ぐっと前を見据えれば、瞬間貂蝉の身体が大きくなった。違う、大きくなったのではなく距離が詰まったのだ。
 風を裂く音と共に振るわれる剛腕。それは的確に一刀の頭部を捉えた。

 ぐちゃり、と。

 肉が潰れる音と共に、北郷一刀の意識は途切れる。

「一つだけ教えてあげるわ。このループに記憶の消去なんてルールはないの」

 貂蝉は、最後にそう言っていた。
 だから答えに辿り着く。
 この“世界”は■■だ。


 終幕

 第十一話 了


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