2011年3月26日 19時23分 更新:3月26日 23時14分
米国史上最悪の放射性物質漏えいとなった「スリーマイル島原発事故」は、1979年の発生から28日で32年を迎える。地元では事故の記憶が風化しかけていたが、東京電力福島第1原発の事故が起きたことで当時の恐怖感がよみがえっていた。住民たちは、1週間から10日で放射能汚染拡大の危機が収束したスリーマイル島事故よりも「状況はひどいのではないか」と語り、日本の被災者たちの苦しみや不安に思いをはせた。【米国東部ペンシルベニア州で草野和彦】
州都ハリスバーグの南東約20キロ。サスケハナ川の中州(スリーマイル島)に白煙を噴き上げる2棟の冷却塔が建つ。二つの原子炉のうち、事故が起きた2号機は現存するが閉鎖され、1号機は85年に稼働再開。川の東側に広がる集落との距離の近さに驚いた。
「自分たちの運命は自分たちで責任を持ちたい」。原発周辺の放射線量を監視している市民団体代表、エリック・エプスタインさん(51)が語った。自宅のパソコンには25カ所の観測結果が刻々と表示される。活動の原点だった「事故の深刻さを隠そうとした原発事業者への不信感」を、日本の事故で改めて思い出したという。
当時も放射能に関する情報が混乱し、州政府が原発から半径5マイル(約8キロ)の住民に避難を勧告したのは事故から2日目だった。避難対象は妊婦と幼児約5000人だったが、約14万人が避難した。
エプスタインさんの目には、発表が二転三転している東電の対応と重なって見える。それでもスリーマイルの場合、混乱のさなかにカーター大統領(当時)が夫人と被災地を訪れたことで「住民の不安解消に役立った」と振り返った。米原子力規制委員会は「健康や環境への影響はごくわずか」としたが、「反原発」運動に携わるマリー・スティマスさん(67)は、事故後に周辺の動植物に「異変」が起きたと写真を見せながら証言し、「福島原発周辺の人々はこれから定期的に健康診断を受けるべきだ」と語った。
一方、自宅窓から冷却塔が間近に見える看護師、デブラ・フォマーさん(53)は、「原発自体は怖くなかった。今もそう」と言った。生後3週間の長女を抱えて避難したが、「本当に怖かったのは、世界から専門家が集まったのに誰もどう対処してよいか分からず、無力感が漂ったことだった」。
フォマーさんは、同じ感覚が日本を覆いつつあるのではないかと気がかりだ。「日本政府はできるだけのことをしている」ように見え、「東電も提示できる情報がなかったのかもしれない」と言い、無力感に負けないでと願った。住民の大半は今、原発との「共存」を静かに受け入れている。事故後に安全管理が徹底されたと評価され、原子力発電所や関連産業が地元の雇用先にもなっているからだ。
サスケハナ川の東岸、原発正面にある記念碑には「ここで起きたことは世界の原子力産業に変化をもたらすだろう」と記されている。福島第1原発の事故は、世界にどのような教訓を残すだろうか。
79年3月28日、2号機の2次冷却水給水ポンプが故障し、緊急炉心冷却装置を誤って停止させるミスが重なって露出した炉心が溶融した。事故の国際評価尺度(0~7)は「福島」と同じレベル5。放射能除去に12年の歳月と9.7億ドル(約790億円)を要した。