連載「脳力のレッスン」世界 2007年1月号
軽率に『核保有』を議論してはいけない理由
北朝鮮が核実験に踏み切ったという事態を背景に、日本も核保有の可能性を議論して何が悪いと主張する政治指導者が登場してきた。複雑なのは、明快に「核保有すべし」という主張ではなく、「非核三原則は守る」と言いつつ、議論するぐらいいいだろうという問題提起で、本気で議論しようにも論理的な議論をするための土俵さえ見えてこない。「議論することは言論の自由だ」という主張に至っては、作品を見せたこともない作家が「表現の自由」を主張するようなもので、大人の議論のレベルに達していないというべきであろう。
それでも、「日本が核保有の誘惑を抑制できなくなりつつあるのではないか」との情報が世界に伝わり、日本の選択に対する疑念が静かに広がったのも事実である。「北朝鮮ごときに恫喝されてたまるか」という日本人の怒りと不安を背景に、喧嘩強い政治家が「日本も核保有論議を」と語ることで溜飲を下げるという構図も理解できなくもないが、思わせぶりな「売り言葉に買い言葉」がいかに愚かな結末をもたらすのか、そのことを明らかにするため、3つの論点を示しておきたい。
原子力における日本の立ち位置
第一の論点は、原子力に関する日本の立ち位置の自覚である。現在、日本には五五基の原子力発電施設が稼働中であり、一次エネルギー供給の17%、電力供給の35%が原子力によって賄われている。既に原子力に依存した産業・社会構造になっているという現実に加え、非核保有国で唯一「核燃料サイクル」を国際社会から容認された国でもある。つまり日本は、原子力の平和利用について国際ルールに準拠して行動する優等生としての地位を、半世紀以上かけて確立してきたのである。
また、近隣諸国は次々と原発を建設し稼動させており、今後も原子力発電量を急速に増やしていくであろう。中国では、9基700万KWの原発を稼動させているが、2006年3月に発表された「原子力発電中長期発展計画」では2020年に総発電量の4%に当たる400万KWを原子力で供給するという目標を掲げており、今後15年で約30基の原発の新設を計画しているようである。韓国は20基、台湾は6基の原発を稼動させている。こうした環境で、東アジアの原子力発電の「安全」を確保するためにも、日本は、原子力技術に関する専門家を層厚く育て維持していく体制を整えなければ、原子力問題での発言基盤を失うことになる。私は原発推進論者ではないが、日本は、原子力の平和利用に徹して世界的に最も高いレベルの技術を蓄積し、それ故にこそ兵器としての核の廃絶と不拡散を主導する、という筋を通すべきだと考える。軽率な「核保有論議」は国際社会での立場を危うくするだけである。
06年5月に発表された「新・国家エネルギー戦略」において、日本は「2020年以降も、電力供給の3〜4割を原子力で供給する」という目標を明らかにした。現状延長のシナリオにすぎないように見えるが、実は重大な決断を意味する。現在稼働中の原発がことごとく老朽化し、廃棄か再建かを迫られる中での原子力発電の維持を決断したのであり、それを無理なく推進する環境を作り上げることが重要になる。
2005年にウィーンのIAEA(国際原子力機関)を訪れた際、「IAEAの核査察予算の3割は日本の六ヶ所村で使っています」という話を聞きドキリとした。日本人は意識していないが、世界は日本の核兵器保有を疑っているということであり、六ヶ所の核燃料サイクル施設にはIAEAの査察官が常時張り付いて監視システムを維持している。つまり、国際社会からの信頼が揺らげば、イランや北朝鮮に向けられている非難の目線がいつ日本に向けられてくるか分らない。「日本に原発や核燃料サイクルを認めるべきではない」という論調が芽生える可能性さえ否定できないのである。
事実として日本は、IAEAを舞台に各種の国際核管理に関して積極的な役割を果たそうとしている。「核ドミノ現象」といわれるほどの核拡散の危険が高まる中、これから原子力発電を始めようとする国に対し「安全な形で核燃料を供給することを保証する構想」(濃縮・再処理技術の移転制限と核燃料供給保証)に向けて、国際ルール作りに参画しようとしている。核不拡散のレジームを構築しなければ、今後増えるであろう核保有懸念国を安全に制御することはできない。
地道ではあるが「非核」に向けた動きも見える。06年9月、中央アジアの5カ国が中央アジア非核地帯条約に調印した。非核地帯条約としては、中南米(1968年)、南太平洋(1986年)、東南アジア(1997年)、アフリカ(ペリンダバ条約、未発行)に次ぐ5番目の非核地帯条約であり、これを拡大していくのも現実的なアプローチであろう。06年11月ベトナムでのAPEC首脳会議に際し、中国の胡錦涛主席と面談した安倍首相は「北朝鮮の核放棄に向けての協力」を確認したが、本来ならば「朝鮮半島の非核化」どころか、中国の核廃棄を含む「北東アジアの非核化」を主張してもおかしくはなかった。もちろん、その前提として「日本の非核三原則の遵守」と「五大核保有国への核廃棄要求」がなされなければならない。
06年の日本は毎年「核兵器の廃絶決議案」を国連に提出している。国連総会の第一委員会では、昨年を上回る169カ国の支持を得た。反対したのは、米国、北朝鮮、インドの3カ国であり、現下の世界情勢を炙り出す構図となっている。日本としては「核の廃絶と不拡散」について、いかなる国よりも前にでて筋道の通った主張をし続けるべきである。
「核抑止論」の無効性
第二の論点は「核抑止論」が有効な議論ではないということである。冷戦期の安全保障論として「核抑止論」は一定の有効性を持つものであった。米ソ二極構造を軸とした東西の「勢力均衡」の下に、核で先制攻撃すれば核で反撃されるという恐怖心による相互抑制が働くという認識であり、事実として冷戦期の半世紀、人類は核戦争を避けてきた。核は実際には「使えない兵器」であった。
ところが、冷戦が終わり「平和の配当」といった議論をしているうちに、世界は「新しい戦争」のステージを迎えた。その象徴が9・11であった。イデオロギーの対立を克服したと思ったら、宗教や民族などの要素が絡みついた新しい脅威が浮上してきた。「冷戦孤児」ともいえる北朝鮮のような「アウトロー国家」のみならず、テロリストといった非国家主体からの脅威が世界を揺さぶり始めたのである。
「新しい戦争」の局面を迎え、核抑止論は無効となった。相互抑止の前提には「相手は合理的判断のできる正気の存在」という認識が存在する。「先制攻撃をしなければ、相手も先制攻撃をしないであろう」という判断が成立しなければ、相互抑止にならないのである。新しい戦争とは「見えない敵」との戦いでもあり、「反撃を恐れて大量破壊兵器を使わない」と期待することはできない。相手が正気か狂気かも分からないのである。 9・11後の流れから、「米国にとっての核兵器の意味が変わり、むしろ本土防衛のための積極的地域介入を進めるなかで、核兵器は反撃を恐れることなく『使える兵器』になった」との見方もあった。しかし、現実にアフガンでもイラクでも、米国は核兵器を使わなかったし、使えなかった。グローバル化時代における国際世論の監視の中で、まともな国民国家であれば、戦術核であっても無差別大量破壊兵器を使うことは困難なのである。
それでも核保有国は冷戦期の認識を引きずり、いまだに核抑止論のトラウマから脱却できずにいる。テロリストや「ならずもの国家」が核を保有に向かうのは、核を信奉する核保有国の心理の裏返しといえる。この構図を突き崩すためには、日本は「自分も核保有国に参入する」アプローチではなく、核抑止論の無効を説き、NPT(核不拡散条約)からCTBT(包括的核実験禁止条約)の早期発効、さらには核廃絶への流れを作っていくしかない。
北朝鮮は核保有を宣言した核実験直前の声明の中で奇妙なことを述べている。「絶対に核兵器を最初に使用しない。核兵器を通じた脅しと核の移転を徹底的に許さない」と言及しているのだ。辛うじて核による先制攻撃を避けたいという心理を有し、「やったらやりかえされる」という正気の判断力を保持しているともいえる。ただし、これこそ北朝鮮指導部の思考が冷戦型の核抑止論から一歩も出ていないことを示すもので、この認識の過ちを正すためにも「日本の核保有」などという古い思考をちらつかせてはならない。「日本は米国の核の傘の下にあれば安全」というのも、冷戦をひきずる固定観念である。「新しい戦争」が語られる時代には自国への攻撃リスクを極小化し、核を実際には「使えない兵器」に追い込む思慮深い安全保障戦略が求められる。
「絶対悪」としての核
第三の論点は核兵器を拒否する意思である。我々は「核保有」を議論する前に、「核兵器」そのものへの認識を自らに問わねばならない。核兵器は究極の致死兵器であり、非人道的な大量破壊兵器だからである。我々が9・11で戦慄したのは、それが一般市民を巻き込んだ無差別な大量殺戮であったからだ。日本人は「ヒロシマ・ナガサキ」においてあまりにも不条理な大量殺戮を体験している。女性や子供も含め、ヒロシマで14万人、ナガサキで7万人も死に至らしめられた。この数字は1945年に死亡した被爆者のみで、その後後遺症に苦しみながら死んでいった犠牲者を加えるならば、約27万人もの核兵器による無差別大量殺戮の犠牲者を出したのである。広島の原爆記念碑に「二度と過ちは繰り返しません」という言葉があるが、原爆はある日突然、自然災害のように空から降ってきたわけではない。人間のなせる業なのである。この巨大な悲劇をもたらした人間の愚かさを見据える意思こそが、戦後なる時代を生きた日本人の要件ではないのか。
原爆の投下命令を出したトルーマン米大統領の責任は重い。また、アインシュタインなど原爆開発に参画した科学者の責任、さらに、ヒロシマ・ナガサキに帰結した戦争へと導いた日本の指導者の責任にも目を背けるわけにはいかない。こうした思考の回路を辿るならば、究極の大量殺戮兵器、「絶対悪」としての核を否定する強い意思が日本人に求められることは明らかである。とりわけ9・11から「泥沼のイラク」に至る五年間で我々が得た教訓は「力の論理では問題は解決しない」ということである。
核の廃絶と不拡散への明確な意思こそ21世紀指導者に求められる不可欠の要件であり、近視眼的な核保有の誘惑を絶ち、核を「使えない兵器」に追い込む政策構想をひたすら探究することこそ我々が向き合うべきテーマであろう。