ここから本文エリア 協力40年、新たな岐路2011年05月16日 40年余り前、畑が広がる浜岡町(現御前崎市)で、後に同町長になる鴨川義郎さん(83)は、町の用地交渉担当として中部電力と地主との交渉に立ち会った。 印鑑を押し、先祖伝来の土地を手放すことに涙を流す地主もいた。鴨川さんは住民の苦渋の選択を何度も見ていた。 中電が町に原発建設を決めたのは1967年。「原発」と言うと、「原爆」と同じ思いを抱く人が多かった時代という。 「道路一本の舗装もままならなかったし、水路の修理もおぼつかなかった。工業用水がないから、工場が来なかった」 原発から1キロ余り離れた自宅で、鴨川さんは原発ができる前の町の様子を話した。 「泥田に金の卵を生む鶴が舞い降りたようなものだ」。地元出身で、「財界四天王」の一人と称された故水野成夫・元産経新聞会長が当時の町長に原発受け入れを勧めたと、御前崎市の広報誌(2010年12月号)に紹介されている。 用地買収は進み、4年後には1号機の建設が始まった。日本の高度経済成長とともに2号、3号機と増設された。 76年には「東海地震説」が発表された。79年のスリーマイル島の原発事故、86年のチェルノブイリ事故があっても、町が方針転換を迫られるような強い反対は出なかった。「国の政策でもあるから」。住民にはそんな思いがあったという。 町には、立派な病院、役所、文化会館が建ち、下水道整備も進んだ。鴨川さんは75年から3期12年町長を務め引退した。町は合併で04年に御前崎市となった。 「原発城下町として御前崎市は豊かになった。しかも、電力供給で世間にも貢献した。選択は間違いではなかった」 それだけに、今回の菅直人首相の突然の全炉停止要請には「国に40年協力してきたものを、明日からやめろというのは唐突すぎる」と不満を見せた。 一方、裁判で運転停止を求めてきた住民は、喜びながらも複雑な思いだ。 「舞い上がるほどうれしかった」という原告団長の白鳥良香さん(78)は、津波対策を取るまでという期限つきの措置で、東海地震による激しい揺れへの危険が考慮されていないと指摘する。「完全に止めないと、福島第一原発の事故の教訓を生かしたことにはならない」と訴える。 浜岡原発は、津波対策が終わる2〜3年後までは停止する見通しだ。中電の水野明久社長は12日、運転停止を川勝平太知事に伝え、「浜岡原発は非常に大きな電源。これがないと中部地域に安定供給ができない」と、早期の運転再開へ理解を求めた。 これに対して川勝知事は、中電とは「運命共同体」と信頼関係を強調しながら、節電への協力を語っただけだった。 9日の会見では「脱原発も選択肢の一つ」と明言。11日に菅首相に会った際も、太陽光や風力発電など新エネルギー産業育成への意欲を伝えた。浜岡原発への思いは同じではない。(上沢博之、大久保泰)
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