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2004.11.04更新
| 下記のサイトに今回の発言についての意見などが書かれています。 ほぼ日刊イトイ新聞(鳥越俊太郎さん) http://www.1101.com/torigoe/ 第1262回 天皇陛下が国旗国歌問題に発言 第1263回 五十嵐仁の転成仁語 http://sp.mt.tama.hosei.ac.jp/users/igajin/home2.htm 10月29日(金) 「言説価値の再分配」(小倉利丸さん) http://www.alt-movements.org/no_more_cap/ |
| 弁護士の澤藤さんがこの問題について、連日、日記に書いています。同感するところが多いので紹介します。(10/31管理人) 澤藤統一郎の事務局長日記 http://www.jdla.jp/jim-diary/jimu-d.html 「米長邦雄を糾弾する」(10/29) 「問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと」「問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたこと」「問題の第3」は、「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と説明した「宮内庁の発言である」と指摘。 翌日10/30の日記では、朝日新聞社説「国旗・国歌――園遊会での発言に思う」について書いています。 朝日の社説は、「波紋の原因はむしろ、米長さんが国旗・国歌のことを持ち出したところにあるのではないか」として米長を批判しながらも、「政策や政治に踏み込んだものではない」「憲法の趣旨に反することではない」とする宮内庁・官房長官の説明を、「妥当な判断だと思う」とし、「陛下が政府見解を述べたことは、結果としてそれ(天皇の政治的利用)を防いだとも言えよう」とまで書いている。 しかし、澤藤さんは「天皇とは、もともとが時の権力の方針を権威づける道具立てであった。政府見解を是認する発言をすることが危険性の根幹なのだ。今回は、たまたま極右の見解に同調しなかっただけ。危険な天皇の政治的発言を「政府見解を述べたのだから問題ない」というのは不見識の誹りを免れない。」として朝日の社説を批判。 「米長君、君には教育委員は務まらない 」(10/31) 「これは、天皇の政治的利用以外の何ものでもない。」「不見識を通り越して、ルール違反」として、「米長邦雄君、君は教育委員にふさわしくない。潔く辞任したまえ。」と辞任を求める。 |
園遊会の席上で、天皇が「日の丸・君が代」について、「やはり、強制になるということではないことが望ましい」旨を述べたことについて、様々な意見が出されています。現時点で私(管理人)が考えていることをまとめてみました。
日の丸・君が代
天皇発言「強制でないことが望ましい」を考える
◆そもそも ―「選別」された「功労者」を天皇が顕彰する「園遊会」の廃止を!
園遊会とは、毎年春と秋に開催される天皇皇后主催の行事であり、各界の有名人や功労者が招待されています。招待者は、総理府が宮内庁の委託を受けて各省庁と相談した上で、推薦人の名簿を宮内庁に提出し決まっていくようです。叙勲制度などと同様、行政の基準によって「功労者」を選別され天皇に顕彰させる場であり、天皇の権威を再確認させる場でもあります。国体などと同様、園遊会も廃止に向けていくべきだと思います。
◆「東京から日本を変える」米長・都教委
米長邦雄は、天皇に対して「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます。」と述べました。東京都の一教育委員に過ぎない米長が「日本中」に「国旗を揚げて国歌を斉唱させる」(=まさに強制)と述べたことに、違和感を感じた方も多いでしょう。ここには、東京都独自の規則・要綱や既成事実の積み重ねにより、既存の法的秩序を破壊し、「東京から日本を変える」という石原都政下の「教育改革」への「意気込み」がよく表れています。具体的に言えば、「日の丸・君が代」強制、都教委支配の貫徹(校長権限強化・異動要綱改悪)、反ジェンダーフリー(性教育・男女混合名簿の是正)、この三つを推進することを、米長は自分の任務と考えているのだと思います。
◆「天皇の政治利用」に手を出した米長は辞職を
問題の発端は、米長が天皇を政治利用しようとしたことにあります。昨年の10.23通達以降、東京都教育委員会の「日の丸・君が代」徹底により、約250人もの教職員が処分され裁判にもなっています。多くのメディアがこの問題を報じており、意見の分かれるテーマです。このような政治的なテーマを意図的に天皇に投げかけたということは、「天皇の政治利用」そのものです。天皇がどのような反応をしようとも、そこに政治的意味を帯びてしまうのは確実です。
天皇を政治利用した米長は責任をとって教育委員を辞職すべきです。また、任命した石原都知事は米長を罷免すべきです。
◆米長・都教委は、「強制はしない」という政府見解をどう考えるのか説明を
昨年4月10日の教育委員会定例会では、横山教育長 「そもそも国旗・国歌については強制しないという政府答弁から始まっている混乱なのです。」と発言し、鳥海教育委員が「だから政府答弁が間違っているのです。」と応じています。そして実際に都教委は、「強制しない」という政府答弁をくつがえすような既成事実をつくり続けています。米長は、「職務命令を出さなかった校長は呼びつけて詫びさせるべき」(04年5月24日)、「仰げば尊しを歌っているかも調査を」(03年4月10日)などと主張し、「日の丸・君が代」強制を推進してきました。
東京都の教育委員として、国旗・国歌法制定時の「強制はしない」という政府答弁をどのように考えているのか、このことを説明する責任が米長にはあります(今回の天皇発言があろうとなかろうと)。
◆「民主的」な内容であろうと、天皇の政治発言は許されない
天皇は「強制でないことが望ましい」との旨、発言しました。 「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます。」と言った米長に天皇が「強制でないことが望ましい」と応じたあの映像は「興味深い」やりとりではありました。しかし、どんな主張であれ、天皇に政治的発言の権利などありません。天皇が政治の権能を持たないことを大前提として、戦犯ヒロヒトは免罪され、天皇制は延命されたのです。
◆民主党・岡田代表は「陛下も自由に自分の考えが伝えられるような方向に」はどういう意図なのか?
この点、最も重大な発言をしているのが民主党の岡田代表です。岡田代表は、「陛下も人間ですし、当然いろんなお考えをお持ちですから、何も言えないというのはおかしいと思う。一般論として申し上げるが、自由に自分の考えが伝えられるような方向に持っていくべきじゃないか」と述べています。天皇が自由な発言をしたければ、それは退位してもらうか、もしくは改憲して天皇の位置付けを変更するしかありません。天皇の発言は強い政治的影響力を持っており、天皇タブーに触れることは身体・生命の危険をともなうのが日本社会の現状です。いったいどのように天皇の位置付けを考えているのか、岡田代表は説明すべきです。
◆天皇が「政府見解」を述べたことが、政治利用を防いだ??
また、宮内庁は「国旗・国歌法制定時の『強制しようとするものではない』との首相答弁に沿っており、政策や政治に踏み込んだものではない」「具体的な行政施策の是非を述べられたものではない」と説明しています。このことについて朝日新聞社説は、「妥当な判断だと思う」とし、「陛下が政府見解を述べたことは、結果としてそれ(天皇の政治的利用)を防いだとも言えよう」とまで書いています。しかし、天皇がときの政府見解を是認する発言をすることも、十分に「政治的発言」といえます。歴史的に見ても、天皇とはときの権力者に正当性を与え権威づけ、「臣民」を同調させるという役割を負ってきたものだからです。
◆天皇制こそが「強制」の根源
今回の天皇発言について、「民主的」なものであり、強制に反対する「国民の総意」を代表したものだとして、共感し、評価するという見方も少ないようです。しかし、私個人としては、なかなかそのような感覚を共有することができません。
「強制でないことが望ましい」という天皇発言を聞いたとき、私が最初に思い浮かべたのは、「パンがなければお菓子を食べればいいのに」というマリー・アントワネットの言葉です(正確な史実であるかはさておき)。
アキヒト天皇が、仮に民主的な考えの持ち主であり、主観的に国民のことを思いやろうとも、天皇制こそが「強制」を生み出す装置であることには何のかわりもありません。
天皇は「強制」という言葉にどのような場面を想定していたのでしょうか? 多くの人が推測するように、東京都教育委員会の「日の丸・君が代」強制のことを指していたのではないかと思います(宮内庁などは、「自発的に掲げる、あるいは歌うということが好ましいと言われた」と説明していますが)。
いずれにせよ、「日の丸」は皇族に向かって打ち振られ、「君が代」は天皇制の永続を願う歌です。「強制」されるのは「臣民」であって、天皇ではありません。
そして、都教委による「強制」だけが論点とされていますが、「強制」は都教委によるものだけではありません。国体・海づくり大会・植樹際などのあらゆる「天皇行事」のあるたびに引き起こされてきたことを明仁天皇はどう考えているのでしょうか。天皇の行く先々での過剰警備と交通規制。学校の授業は中止され、炎天下の中、吹奏楽・マーチング・マスゲームのために時間が費やされ、「歓迎」のために多くの人たちが動員されます。そして、「日の丸」の小旗を振ることを「強制」され、「君が代」で起立することを「強制」されるのです(国体で起立しなかったために、長時間拘束され身体検査を受けた人もいます)。
このような数々の「強制」を日々、生産し続けている天皇制こそが、問題の本質ではないでしょうか。
今回の天皇発言について、以上のようなことを考えました。
反天皇制運動連絡会(反天連)の声明
| 声明 アキヒト・米長の「園遊会」発言を許すな! |
| 10月28日に開かれた秋の「園遊会」において、天皇アキヒトと東京都教育委員・米長邦雄とのあいだで、「日の丸・君が代」をめぐって、次のようなやりとりがあった。 米長「日本中の学校で国旗を掲げ国歌を斉唱させるのが私の仕事であります。頑張っております」 アキヒト「あれですね、強制になるということでないことが望ましいと思います」 米長「もちろんそうです。すばらしいお言葉ありがとうございます」 このやりとりは、醜悪の極みというべきものである。なりふりかまわぬ強権的な態度で「日の丸・君が代」を学校現場に強制し、その押しつけに抵抗する教職員に処分を加える東京都教育委員会。その一員としての米長は、東京という地域では足りずに、日本中の学校に「国旗国歌」を強制しようというのだ。そして、それを受けたアキヒトの発言も、直後に出された宮内庁や文科相の「解説」を待つまでもなく、「強制」という手法に「疑念」を示しているにすぎない。アキヒトの発言内容は、「喜んで自発的に掲揚したり斉唱したりする」ことが「望ましい」ということに尽きる。あらためて確認するまでもなく、「日の丸・君が代」は天皇制国家日本を象徴する旗であり歌である。それはかつて侵略と戦争のシンボルであっただけでなく、現在に至るまで、国家や右翼勢力によってもたらされる強権と暴力、テロのシンボルとしてたち現れてきたのだ。天皇制の存在こそが、「日の丸・君が代」強制の原動力である。そうしたこととまるで無縁のような顔をして、「日の丸・君が代」の強制を「懸念」してみせる。それはきわめて欺瞞的であり、「内面支配」の完成を要求している点でも、米長とは別個の、悪質な政治的機能を果たす発言である。 このやりとりを、都教委の強圧的な姿勢を天皇が「たしなめた」という文脈で理解し、アキヒトの発言を賛美する言説が出てきている。とくに、「日の丸・君が代」の強制に心を痛める人たちの中から、このアキヒトの発言を使って都教委批判ができないかとする意見が、ごく一部であれ出てきたことを見過ごすことはできない。「使えるものは使う」という「戦術」であれなんであれ、天皇の「権威」を前提とする発想を、私たちは認めるわけにはいかない。 そもそも、天皇の政治的関与については憲法上許されていないはずだが、それはつねになし崩しにされてきた。「皇室外交」や国体など天皇行事への出席といった儀礼的な側面の拡大にとどまらず、このかん、きわめて生々しい政治的な発言を、「私的」な顔を見せつつ繰り返し発しているのである。 アキヒトは1989年、「国民とともに日本国憲法を守り」という「護憲宣言」を発して天皇の地位についた。当時、改憲派や右派勢力はこの発言に「ショック」をうけ、それまで天皇制に批判的だった人びとの間で、少なからず好意的な反応が示された。だが、現実はどうか。今年、来日中のチェイニー米副大統領に対して、アキヒトが「自衛隊は人道復興援助のためにイラクに行っている」と語って、小泉の「平和」を掲げた戦争政策を追認し支持してみせたように、「護憲」「平和」というアキヒトの演出は、戦争国家の現実を覆い隠し、改憲へ向かってはずみをつける方向にしか機能していないではないか。言うまでもなく、こうした政治的発言自体が、天皇の政治的権能を拡大していくものにほかならない。 われわれは、天皇制と「日の丸・君が代」それ自体に反対していく立場から、今回のアキヒト・米長の発言を弾劾する。 |
| 2004年11月4日 反天皇制運動連絡会 |