新しい住宅地はすべて波にのみ込まれ、田老一高い6階建てホテルだけが残った。その「たろう観光ホテル」も3階以下は赤い骨組みがむき出しのまま。「津波が来たら最も危ない」。宮古市田老総合事務所(旧田老町)職員の大下哲雄さん(55)が常々そう感じていた地区(B地区)には今、わずかに残った住宅の残骸と破壊された防潮堤の破片が点々としている。
3月11日。大下さんは田老港に近い高台で、国民宿舎だった建物の解体に立ち会っていた。三陸の観光拠点と期待されながら、経営難で閉館した施設だ。地震後、作業員とその場にとどまっていると、沖から大砲を撃つようなごう音が聞こえた。父から大津波の前兆と聞かされていた音だった。
大下さんの曽祖母は1896(明治29)年の明治の大津波で家族6人を失い、ただ一人生き残った。その孫である父の信平さん(87)は9歳で昭和の大津波に遭い、母を亡くす。大下さんにとっての祖母だった。父からは「食いものはうまいものから食え。津波が来たら食えなくなる」と教えられて育った。大下さんが小学生だった66年、海側に新しい防潮堤(第2の防潮堤、地図緑色)が完成。その内側となった畑に次々と民家が建っていくのを見てきた。
町に就職し、広報誌の製作などにかかわっているうち、海側の防潮堤が陸側の補強として造られたことを知る。「一本でしか守られていない地域は津波に弱い」。心配した通りだった。高台から見下ろしていたホテル周辺は、あっという間に水の底に沈んだ。「過去の三の舞いなのか」。シャッターを押しながら、力が抜けた。
大下さんがピントを合わせたホテル。社長の松本勇毅さん(54)はその頃、最上階の客室にいた。地震後すぐに従業員を帰らせ、自身は残って予約客からの電話に「今日は泊まれない」と対応しなければと考えた。海側の防潮堤を一気に乗り越え、ホテルに激しくぶつかってくる津波を客室から見下ろした。「それどころじゃない」。全身が震えた。
松本さんがホテルの2階に開いた壁穴からようやく外に出たのは、津波の翌日未明のことだ。砕けた防潮堤が目に入る。「こんなに、もろかったのか」とがくぜんとした。
「津浪(つなみ)を正面から防御するのは不可能。高地移転が唯一の策」
1933(昭和8)年の大津波から3カ月後、文部省震災予防評議会が発表した「津浪災害予防に関する注意書」には、そう記されている。被災した集落の代表として真っ先に、911人の犠牲者を出した田老を挙げ、地形を分析して「住宅地を北側斜面12メートル以上の高地に移す」と提案していた。
それでも田老は、津波に挑む道を選んだ。住民約500戸が住めそうな高地が周辺になかったことや、基幹産業だった漁業に大きな支障が出ることから移転をあきらめ、中心部を守る防潮堤(第1の防潮堤、地図赤色)を築いて同じ場所に暮らすことを決める。翌34年に着工し、戦争での中断を挟んで58年に完成。町民は「万里の長城」と誇った。
町を二重に囲う形にする新しい防潮堤の建設を始めたのは、そのわずか4年後。三陸沿岸を中心に死者142人を出した60年のチリ津波で田老は一切被害がなく、国内外の注目を浴びたことがきっかけだった。
当時の町職員で元町長の野中良一さん(75)は「被害がなかったものの、どんなに優れた壁でも一つだけでは不安が残る、と議論になった」と振り返る。さらに町の100周年記念誌に掲載された座談会では「最初の防潮堤より海側に土地を持っている人たちが分家などで家を建て始め、宅地化してきたため」という理由も述べられた。
新しい防潮堤は66年に北側(第2の防潮堤、地図緑色)、79年に南側(第3の防潮堤、地図青色)がそれぞれ完成し総延長2・4キロ、高さ10メートルの巨大なコンクリートの壁が出来上がった。その後、海側と陸側の二つの壁に挟まれた地区(B・C地区)に住宅が増え始める。
86年には、たろう観光ホテルも開業する。周辺にはまだ、現在の半分しか建物がなかったと社長の松本さんは記憶する。昭和の大津波の後、いったんは市街地から高台へ自宅を移したが、72年に家族で再び市街地に戻った。元々土地を持っていた海のそばにホテルを建てたのは、それから14年後だ。「だんだん海に近付いていったが、新しい防潮堤ができた後だったので危険とは思わなかった」
元町長の野中さんは「なぜ住宅建設を規制しなかったのかと今も言われる。しかし核家族化が進む中、二重に囲まれた地区(A地区)にはもう土地がなく、町は黙認するしかなかった」と言う。
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公表された死者・行方不明者の一覧を基に、記者は地区別の人数を調べた。田老地区(旧田老町)のうち、港を望む中心部の平たんな地域の人口は2466人。地域全体で死者96人(4月10日現在)、行方不明者50人(同27日)を出した。新しい住宅地には566人が暮らし、死者19人、行方不明者36人。地域全体で5・9%だった死者・行方不明者の割合がこの地区では約1割と高く、特に不明者は全体の7割超がこの地区に集中していた。
津波から2週間後、幅3メートルの陸側防潮堤上から交互に両地区を見渡した。内と外で対照的な光景が広がる。二重に守られていた市街地には、2階部分だけは外観上原形をとどめた家屋がいくつも残る。一方、新しい防潮堤しかなかった地区は、ほぼ更地になっていた。この防潮堤が砕かれたことで、自宅に残った人の多くが家ごと海に流され、犠牲者と不明者の多さにつながったと推測できる。
港の岸壁沿いに切り立つ崖に、明治と昭和の大津波の水位表示板が掲げられている。その近くに、田老総合事務所職員の大下さんが津波を見た旧国民宿舎へ向かう急な坂道の上り口があった。途中のカーブで、白い軽乗用車が横倒しになっていた。その位置は、二つの水位表示板より上だった。
宮古市職員、山崎正幸さん(45)は昨年まで7年間、防災を担当していた。「防潮堤のもともとの役割は、自然の力に逆らわないよう南北にできるだけ津波を受け流し、避難するまでの時間を稼ぐことだった」
万里の長城は万能ではない。しかし、それがいつしか忘れられていく。山崎さんは「新しい防潮堤を造ったことが、安全の過信を生んだかもしれない」と語る。
陸側防潮堤のすぐ内側に建つ田老町漁協のビル。津波から1カ月半後、職員の畠山昌彦さん(43)は、震災の日にカメラを構えたのと同じ3階会議室の窓から、廃虚となった漁協施設を眺めていた。
3月11日、地震をビル2階で感じた畠山さんは、海の近くで働く人々の安否が気がかりだった。その一人がワカメ加工場にいた漁協職員の鳥居高博さん(46)だ。11日は今年の収穫を始める前日で、40人以上が準備に追われていた。消防団員でもあった鳥居さんは地震直後に全員避難するよう告げ、合流した他の団員と、陸側防潮堤で門を閉める作業に当たった。
逃げる人を誘導しているうちに、波がみるみる引いていく。津波が来ると確信し、早歩きで山へ向かった。すでに午後3時10分を回っていた。山に上る階段の入り口までは3分でたどり着けた。「津波が来るぞ」と声を掛けながら数人を追い越したが、全員が迷わず同じ山を目指し、間に合った。住民の頭には避難経路が刻み込まれていた。訓練の成果を感じた。
気になったこともある。鳥居さんの目には、逃げる途中で間に合わず津波に巻き込まれた人は確認できなかった。国道で車が渋滞する光景も見ていない。それでも田老地区全体で約200人の死者・行方不明者が出た。「亡くなった人の多くは、逃げ遅れたというより逃げなかったのではないか」
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1610人が暮らす二重防潮堤の内側(A地区)では72人が死亡・行方不明となった。住所を基に、その分布を調べてみた。死者・行方不明者は、避難所から遠い海側の住宅に偏っているわけではなく、広範囲に分散していた。田老診療所の入院患者は500メートル離れた公民館に避難して全員無事だったが、自宅のすぐ裏に高台があっても亡くなった人がいる。
避難所で川上早紅子(さくこ)さん(41)に話を聞いた。自宅は最も近い高台まで歩いて2分の距離。3人の子供と家にとどまり、建物ごと流されながら2階に上がってなんとか助かった。「逃げようかと迷っているうちに波が来た」。近所でも6人が死亡した。
田老では昭和大津波当日の3月3日、午前6時半から毎年避難訓練をしてきた。震災8日前にも行われたが、参加者の多くは高齢者だった。二重の防潮堤がすべて完成する前年の78年に参加したのは930人。宮古市との合併直前の05年は502人で、約30年でほぼ半減した。その理由は、住民の生活の変化と重なる。
「若い世代は、田老を離れ、宮古市街などで働く人が増えた。出勤の準備に追われ、訓練に顔を出す時間の余裕がなくなった」。消防団員の鳥居さんはそう説明する。核家族化が進み、「孫の手を引いて高台に上り、昭和大津波の経験を伝える姿は、近年見られなくなった」という声も聞いた。
消防署員や団員には、合併を理由に訓練が簡略になったことを指摘する人もいる。行政職員の人数が減り、消防団員の避難所への集合や結果報告は省かれるようになった。避難場所にはストーブも置かれなくなり、住民の関心は低くなっていったという。
市街地から周囲の山々を見渡すと、高台へ上る階段が至る所に設置されていることに気付く。南北約2キロに広がる平たんな地域から最初に向かう第1避難所は16カ所に及ぶ。1次避難所の被害が各地で報告されているが、田老では被害がなかった。
田老の町は、どんなに海辺にいても10分もかからずに高台に上がれるように避難ルートが確保されている。誰もが逃げようと思えば助かった。
それでも犠牲者をなくすことはできなかった。
二重の防潮堤に守られていたはずの市街地(A地区)が、煙を巻き上げながら波に押し流されていくのが見えた。その様子を避難した常運寺から撮影したのが、自治会連合会長の小向源一郎さん(69)。津波の被害を予想して警鐘を鳴らす説明会や訓練に、積極的にかかわってきた。今振り返れば、防潮堤だけに頼らない備えにも一定の効果はあったと思う。だが多くの人命が失われた。「高台移転しかないのか」。そんな考えも浮かぶ。
郵便局員だった約40年前、高台から町役場(現・宮古市田老総合事務所)の正面に移り住んだ。町の歴史を学ぶうち、市街地が碁盤の目状に整備され、交差点の角を斜めに切り取る「角切(すみき)り」=地図中の図=がされていることを知る。避難時の見通しを良くするためだった。学校や役場は明治の大津波で流された後、背後がすぐ山の位置に移転したことも知った。
地震後、自宅で防災行政無線を聞いた。田老地区では01年に「窓を開けないと聞き取りにくい」という声に応え、希望する世帯に戸別受信機が設置された。避難の途中には、見通しの良い通りを、多くの高齢者が混乱することなく高台に向かう様子も目にした。
それでも「『大丈夫だ』と避難しなかった人に犠牲者が多い」と聞くと、思うことがある。「ハードは十分整備されていたが、避難の大切さは伝わっていただろうか」
小向さんが撮影した映像には、1台の白い車が映っていた。津波がすぐ後ろまで迫る。寺に逃げ込もうとするが、前に進めない。
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その車を運転していたのが、理容師の沢口栄子さん(47)だった。地震が起きて、店を閉め小学6年生の次女を車で迎えに行った。内陸へ3キロ離れた自宅にそのまま戻ろうと考えたからだ。
学校で次女を引き取り、坂の下に止めていた車に向かおうとした瞬間、200メートル先の防潮堤を越えてくる津波が見えた。碁盤の目状に整理され、交差点が広くとられていたおかげで、防潮堤まで一直線に見渡せ、早く津波に気付くことができた。車に飛び乗り、高台の寺に急いだ。数十メートルの距離だがハンドルが手に付かず、何度も切り返した。後部座席の次女が「すぐ後ろに来てるよ」と悲鳴を上げる中、なんとか難を逃れた。
津波の約1カ月前、住民の有志と岩手大が協力して実施した避難訓練に参加した。走って逃げるか、歩いて逃げるか。実際に、街の複数の地点から避難場所までの時間を往復して計った。結果は「歩いても十分間に合う」。「車を使う」という選択肢はなかった。
「車に乗るな」「1人で逃げろ」とは何度も聞かされていた。なのに車で子供を迎えに行ってしまった。「『歩いて1人で高台へ』とは考えられなかった。一番は子供、と思ってしまって。後で家族からは『1人で逃げるのが正解だった』と言われたのですが……」
各地では、車で逃げた人が大勢亡くなったとも聞いた。田老でも、多くの車が寺の前で渋滞していたら。思い返すとぞっとした。
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津波から2週間後、記者は建物の解体がまだ進んでいない市街地を歩いた。街を南北に貫く国道と交差する道はすべて、第1の防潮堤から高台まで一直線に進めるよう造られている。昭和の津波は真夜中に起きた。細い道に人が殺到して混乱が深まったとされている。夜に歩いても見通しは良く、迷うことなく山にたどり着けた。
昭和大津波の2年後に発行された「田老村津浪誌」にはすでに、市街計画として「多数の避難道路を設ける」と記載されている。当時の村長をしのぶ冊子では「防潮堤だけではだめだ。避難路がないから多くの犠牲者が出た」という村長の言葉も紹介されていた。
4月下旬。小向さんは地区の有力者を訪ねた。田老を今後どうするか。話し合いの場を作る手順を相談した。5月中には会合を開く予定だ。「このまま田老に住みたい」「街を分断しないで」。高台移転は有力案の一つ。他にも、さまざまな声が耳に届く。
「田老にとって一番いい道は何なのか」を探る日々が始まる。
■伝承
「私はほんとに、独りぼっちの児(こ)になったのです」
1933(昭和8)年の大津波を11歳で体験、自分を除く家族7人すべてを失った直後に作文でそうつづった女性が、78年後に再び津波に遭った。吉村昭が70年の著書「三陸海岸大津波」で紹介した荒谷アイさん(89)。「また津波が来たんだねえ。おっかないなあ」と顔を覆った。
震災以来、宮古市街近くの高台にある次女宅へ身を寄せていた荒谷さん。「私は『津波残り』なんです」。昭和大津波のことを聞くと、しわが刻まれた手を震わせて、そう語り始めた。
呉服店やアワビの加工を手掛けていた家に両親や兄弟など8人で暮らしていた。「地震で真っ暗な中、誰かが『津波だ』と叫んだ。お手伝いさんに『アイちゃん行くべ』と言われて、無我夢中で家族とばらばらに山に逃げた。おっかなくって寒くて。朝になると、あっちもこっちも死体だらけだった」
作文は、田老尋常高等小学校の教師が、生き残った児童を集めて書かせた。「みんなの家のお父さん、お母さん達は自分の家の子供達をたずねに来るのに、私の家の人は誰も来ませんでした。(中略)其(そ)の時、私は初めて一人残ったということがわかりました」「どうしてもあきらめることが出来ません。お父さんお母さんの事が思い出されて涙が出てきます」と記した。
荒谷さんはその後、宮古や北海道・根室の親戚宅を転々とした。根室では和裁の女学校に通い、搾乳の手伝いをしながら5年間暮らしたが、反対を振り切って田老に戻った。「津波で死んだ人たちのことを思い出し、古里が恋しくなった」。帰郷後すぐ、教師の功二(こうに)さんと結婚する。功二さんも両親と兄弟の一家4人を津波で亡くしていた。
津波で流された実家のそばに、再び暮らし始めた。2男4女に恵まれ、田老の海も穏やかな日々が続いた。それでも、地震があると幼子をおぶい、雪の日でも真夜中でも山に登った。同居する四女の栄子さん(58)は「どんな地震でもランドセルを背負って避難させられた。それが当然のことのように体の芯に染みついていた」と振り返る。
今回の津波は、内陸の老人ホームでデイサービスを受けていて、難を逃れた。
栄子さんは当初、荒谷さんに津波が来たことを告げないでいた。1カ月近くたって、車で自宅周辺に連れて行った。荒谷さんは、変わり果てた街を見回して「これは何」と理解できない様子だったが、栄子さんが「津波が来たんだよ」と語り掛けると、数秒の沈黙の後に「うわああ」とおえつを漏らした。何もなくなった古里の姿を、2度見ることになった。だが、あの日と違い、家族は無事だった。
「自宅にいたら助からなかったかもしれない」と栄子さんは思う。それでも荒谷さんは、今後も田老に住みたいという。「友人や知人がたくさんいるし、昭和の津波で死んだ家族の墓も守らなければならない。津波が来たら、また山さ逃げればいい」
■■伝承
昭和の大津波以来、78年間ずっと手元に置いてきたリュックサックを手に取り、高台へ逃げた。8歳での体験を基にした自作の紙芝居で、小中学生に津波の恐怖と避難の大切さを伝え続けてきた田畑ヨシさん(86)。今は青森市の長男宅に避難している。「紙芝居の教訓は生かされただろうか」
8人暮らしだった幼いころの田畑さん。明治の大津波を体験した祖父からいつも「地震があったら1人で山に逃げろ」と聞かされ、「また津波の話か。何度も聞きたくないな」と思ってきた。その言い聞かせ通り、昭和の大津波では家族と離ればなれになりながら1人で逃げた。
多くの人々が細道に押し寄せ、倒れながら山に向かったが、登り口には大きな板塀があった。小さなくぐり戸の場所を知らなかった人は、ここで波にのまれたという。さらに進むと、畑の高い垣根が立ちはだかり、越えられない。「波にさらわれるのかな」とおびえながら、なんとかくぐり抜けて助かった。家族はそれぞれ避難していたが、母は両足の大けががもとで3日後に死亡。自宅の再建など重労働が重なった兄も、4年後に22歳で亡くなった。「もう田老にはいたくない」と思ったが、祖父から「墓を守ってほしい」と言われて従った。
戦後すぐ、漁師だった夫と結婚。1男2女をもうける。地震のたびにリュックサックを背負って飛び出す田畑さんを見て、子供たちは「またお母さんの津波恐怖症が始まった」と言いながら後を追った。3人の子供は独立して田老を離れたが、79年には、高校教師として田老に赴任することになった夫とともに長女一家が戻ってきた。「孫に経験を伝えたい」。自分で絵を描き、文を付けた10枚の紙芝居を読み聞かせることにした。
「山からおりてみると、みんな家はなく、海だけがたかく青くすんで、ざんがいといやなにおいがしていました。お寺の前には、なんにんもけがをした人たちがうめき、流れた人がそのままこごえて死んでいました」「心のなかでよっちゃんは『海のバカヤロー』となんかいも、なんかいもさけびました」
評判を聞き付けた県内の小中学校や消防団から、読み聞かせをしてほしいと依頼が来るようになった。今でも年に数回は子供たちの前に立つ。最後に出してもらう感想文に「地震があったら高台に逃げます」と書かれていると安心する。読み聞かせを始めて30年になった。
今回の津波で田畑さんは、貯金通帳や登記簿を入れてあったリュックサックを肩に掛け、近くの高台に住む妹宅を目指した。妹が心配してむかえに来てくれた。78年前は真っ暗闇で見えなかった津波を、妹の家から初めて目にした。
1人暮らしの自宅は流された。離れて住む3人の子供に世話になることもできるが、「何ぼ津波が来ても、我が土地」という思いがある。同じ1人暮らしの妹の家で一緒に暮らせればと考えている。壊れた自宅から見つけた愛用のズボンを刻んで縫い合わせ敷物にするつもりだ。あの日を忘れないために。
■■■伝承
上空から見下ろした映像が、さまざまな角度で田老の市街地を映し出す。スクリーン上部の時間表示が30分を超える頃、海上にいくつもの波が現れ始めた。32分すぎには、二重の防潮堤を乗り越えて、一気に市街地に押し寄せる。二つの防潮堤に挟まれた地区(B・C地区)は半分以上、二重の防潮堤内(A地区)でも3割ほどが浸水する様子に、出席した住民ら120人から驚きの声が上がった。
05年2月に開かれた町主催の「津波シミュレーション説明会」。岩手県が作ったシミュレーションを基に、町が独自の情報を加えた3D映像だった。「実際に津波が防潮堤を越える映像を見て、実感してもらえたと思う」と担当者は振り返る。この映像を使った住民の勉強会は、その後も続けられてきた。
■■■■伝承
昭和大津波から70年を迎えた8年前の3月3日。合併前だった田老町は「津波防災の町」を内外に宣言した。文言には、こうある。
「津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、近代的な設備におごることなく(中略)必ずや襲うであろう津波に町民一丸となって挑戦する」
当時、田老港の岸壁で宣言を読み上げたのは、田老第一小学校の6年生、佐々木亜以(あい)さん(21)だった。今は県内陸部の北上市のグループホームでヘルパーとして働く。
高校卒業まで過ごしたのは、海側の防潮堤ができた後に広がった新しい住宅街(B地区)。この場所に家を構えた理由は聞いていない。それでも昭和の大津波を体験していた祖父は「いつか絶対に津波が来る」と言い、3キロ離れた高台に土地を購入していた。今、市街地の自宅は流され、家族はその高台に建つ家で暮らす。
震災の日は北上にいて家族と連絡が取れなかった。1人で家にいた祖母(74)。「助からなかっただろうな」と覚悟した。かつて看護師をしていた祖母だが、最近は認知症を患っていた。それでも、地震後すぐに家を出て、近くに住む高齢者の車イスを押しながら高台に逃げていた。「地震が来たらすぐ逃げろ」。繰り返し教えられた祖母の言葉の重みを改めて知った。
もしあの日、実家にいたら。避難していたはずだ。祖母に連れられ訓練に参加したこと、田畑さんの紙芝居や体験談を見聞きしたことは、忘れていない。
教訓を生かした多くの住民の命が助かった。その一方で約200人が死亡・行方不明となった。「田老の今後をどうすればいいと思うか」と聞くと、佐々木さんはしばらく考えて言った。「またすぐ津波が来るなら、みんな高台に逃げる。でも100年後だったらどうなのか」
伝承の力が試される。
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安高晋(東京社会部)が担当しました
毎日新聞 2011年5月15日 東京朝刊