カルト新聞と主筆様を評す(9)−裸の王様 

「カルト新聞と主筆様を評す」(9)

 さて、タイトルの「カルト新聞を評す」である。
 参考にしたのは宮村氏・山口代理人サイドに偏向した「やや日刊カルト新聞」のコメント欄である。

 これがけっこう面白い。笑えるし、本質を衝いている。今回の文章はたぶんに、アジュマさんの揶揄的精神と文体に影響されています。読者の笑いが取れるかどうか・・・。
 これでこのシリーズの打ち止めにします。よって、長文となってしまいました。ゆっくり読んでください。

投稿される際には、「コメント投稿にあたっての注意事項」をよく読んでからにしてください。タイトル(件名)は必ずつけてください。横レスをされる場合には➏の説明文を頭に入れてからにしてください。つまらない横レスは博物館行きとさせてもらいます。
 また、相手を批判する文章を書かれる場合はロジックとエビデンス(論理と根拠)に留意してください。これについての参考文献は『あなたの癌はがんもどき』


・・・・・・・・・・・・・

 藤倉氏がカルト新聞を発行するようになった経緯はよくわからないが、おそらく反統一教会活動家のエイト君と意気投合。軽いノリで「作っちゃおうか」・・・。当たらずとも遠からずだろう。 

 新聞名はakiさんが指摘しているように、「ほぼ日刊イトイ新聞」のパクリなのかもしれない。(だったら、糸井重里さんもさぞかし・・・)

 軽いノリで「カルト退治の桃太郎侍をやろうか」。これは2人に共通する気分だったのだろうが、それぞれの思惑は少々異なるように思える。


統一教会の掃除人


 エイトこと田中清史(きよふみ)氏の思惑は、わかりやすい。

 彼は、統一教会の違法行為に目を光らせる街角パトロール隊の隊長さん。パトロールしては、自分のブログにその報告を載せる。これは大いにけっこうなことで、「エイト君が現れると、その地域の教会が良くなる」と、一部の統一教会員からの高い評価もある。
 それで、私は彼のことを密かに「統一教会の掃除人」と呼んでいる。

 ただ、掃除人に徹してくれればいいのだが、エイト君とは関係ないはずの「拉致監禁問題」にもクビを突っ込み、私のことまで批判する。しかも、SDGとかエロい花屋の小林とかとつるんで。それに呼応するかのように韓定食もやってきた。

 私のことをウダウダと、駄文を書くひまがあったら、パトロールに精を出したらどうかと思うのだが。
エイト君にお願いしたいのは、町田市、相模原市界隈を含め神奈川県全域でのパトロールだ。それと静岡県もお願いしたい。面白い光景にぶつかるかもしれない。

 時折、こんな言葉で、陰ながらエイト君のことを応援している。
 
さあ、飛べエイトマン! 走れエイトマン! 無敵の男エイトマン 今日も、統一教会の悪を退治しに行くのだ! 
懐かしの克美しげるさんが歌ったエイトマンの楽曲は←をクリックすると5秒後に聞こえてきます。




 それはともかく、身も蓋もない言い方になるのだが、エイト君の文章は下手である。
 下手な理由は、はっきりしている。前のめりになって、怒りの感情表現を多く使うからである。怒りのあまり、事実をデフォルメする場合もある。

 落語家が高座で、自分でしゃべり自分で笑う。そんなシラケる高座には、誰も木戸銭を払ってまで行かない。
 エイト君の文章はそれと同じである。文章を読んで怒るのは読者であり、書く人が怒っていればシラケてしまうのだ。
 それに、文章の模範とされる「起承転結」はなく、“柔道一直線 ”だ。

 また、文章に余裕がない。だから、読んでいると疲れてしまい、次にアクセスしたくなくなってしまうのだ。
 ひとつだけアドバイスをしておけば、文章は淡々と書いたほうがいい。そのほうが効果的だ。統一教会の問題点がより浮かび上がってくる。広津和郎の『散文の精神』を読んでみたらどうか。

 ところで、 なぜ、文章に余裕が生まれないのか。それはエイト君の思考様式・生活様式が統一教会の献身者に似ていることから来るものではないかと想像する。
 献身者の多くはなぜかいつもいつも忙しく、映画や美術展を鑑賞したり、スポーツを観戦したりすることはない。小説もほとんど読まない。1日の大半は統一教会のことだ。

 エイト君も似ている。
 頭の中は「反統一」でいっぱい。<どうやったら、統一に打撃を与えることができるか。う〜ん、あっ、いいアイデアが浮かんだ。渡辺博弁護士にさっそく提案してみよぉ〜と>

 文化を楽しむことはほとんどないから、小説の一節を文章に入れるとか(起承転結の「転」、あるいは異化効果)、気の利いたことが書けない。それが文章に余裕がない原因になっているのではないかと分析する。

 統一教会諸君に、エイト君のことでお願いしたいことがある。立ってのお願いである。
 それは、統一教会をつぶさないで 欲しいということだ。
 統一がつぶれれば諸君と同じように、エイト君も生き甲斐を喪失してしまう。
 エイト君は学生時代を含め青春のすべてを反統一に費やしてきた。統一がつぶれてしまえば・・・。唖然・茫然・ぽか〜ん。  
 ひょっとしたら、自宅のそばを走る西武線に・・・。ヒェ〜。
 統一の教えは「為に生きる」。エイト君のために、統一をつぶしてはならないのだ!

前回のブログのコメント欄でも書いたことだが、有田氏は国会議員になってからも、頭の中は春爛漫の如く「反統一」の花が咲き乱れているようだ。まあ、彼のアイデンティティは反統一しかないのだから、バッジをもらい、約3000万円の年収を受け取る身分になっても、変わりようがないのだろう。統一がつぶれたら、一気に惚けてしまうのではないかと心配している。
 
エイト君の職業は?

 エイト君は、エイトブログの投稿者から「素敵、頑張って」と、花よ蝶よとおだてられ(つまり賞賛の嵐)、豚だって褒められりゃあ木に登るように、一時期は有頂天になった。
 だが、彼は真面目な青年である。
 おだてられたあと、咲いてみせりゃあ捨てられると、人生の先まで冷徹に見通せる青年である。

 なにしろ、このブログのコメント欄に最初にデビューしたときは格好良かったんだから。
  いきなり、こうだった。
「私は年間数百冊の本を読む」

 ヒェ〜、思わずのけぞいましたわ(アジュマさん風)。
 仮に300冊なら毎日一冊。
 ヒェ〜、大川隆法さんみたイ〜!(若い頃の大川氏は速読能力=パターン認識能力があった。ちなみに大川さんは1日3冊の本を読んでいた。これはトーメンの社員寮同室の人の証言)

  まるで他流試合に挑む青年が道場に入ってきたかのようだった。思わず、私はパソコンの画面に向って正座してしまった。む、むっ、私は年間1冊しか本を読んでいない。それで、たすきをかける前に、汗をダラダラ流し、木刀を床に置き、参りましたぁ〜!(そんなことないか

 それほど知的な青年だから、パトロール&ブロガーだけでは、未来がないと内省し、「新聞記者」になりたいと夢想した。
「新聞で、統一教会批判ができれば最高!それができれば、もう死んでもいい〜っ」
 興奮のあまり、失神したかどうかまではわからない。
 
 そんなわけで、藤倉氏の新聞スタイルのブログ企画に飛びついた。

  エイト君の親は大いに喜び、赤飯を近所に配ったとか。
「うちのキヨフミがついに日刊新聞に就職することが決まりまして」


 エイト君は、どうも本気で、「やや日刊カルト新聞」をオーマイニュースのようなネット新聞と思い込んでいる節がある。後述するが、藤倉代表もだんだんと・・・。(ヒヤッ

 エイト君は、“新聞記者”なのに、給料(原稿料)をもらっていないことに疑問を感じないのだろうか。労働組合をつくって新聞社の代表である藤倉主筆に「金を払え」と、団体交渉をしたらどうかと提案しておく。

 話はそれるが、エイト君の本業についてである(個人メールで見知らぬ人からも問い合わせがあった)。

 火の粉ブログのコメント欄で、仕事のことをからかったら、「きちんと仕事をしている」とムキになって反論してきたが、ロンゲを風になびかせながら、パトロールに時間を割き、それをエイトブログで報告し、その一方でカルト新聞ブログに原稿を書く。八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍だ。まさに、 響け 轟け 鉄の男 である。

 そればかりか、紀藤弁護士や山口貴士弁護士と一緒にスイスやアメリカに出向き、識者の前で統一教会批判を行なう。エイト君は否定したが、どう考えても、旅費のタニマチは紀藤さんだったとしか考えられない。

 このせちがらい世の中で、有給休暇がたっぷりもらえ、フレックスタイムが可能な会社は、まずない
 会社に面接に行ったら、真っ先に「おまえ、学生じゃないんだろっ。その長髪をばっさり切ってから出直せやぁ〜!」、と言われるのは間違いない。(彼は「長髪は男の命」と、憤然として立ち去るだろう)
 まあこんなわけで、エイト君は正業についていないと想う。だったら、たんなる親のすねかじりか。意外と、お金に不自由しない資産家の、エイトマンファンのお坊ちゃんだったりして。写真からはそんな雰囲気も漂ってくる。

エイト 藤田 藤倉(masking)-1

 <このままじゃあ、いつまで経っても結婚できない>と心配してあげているのだが。
 女性は良くても、相手の親は「何ぃ〜、職業は統一教会の掃除人?ウザケンナ!
 合同結婚式に反対する統一教会員の親の心情と同じである。
 最悪の場合、親はエイト君と結婚したいという娘を拉致監禁するかもしれない。
そうなったときには連絡してくれ。一緒に救出しよう。


「カルト新聞主筆」が営業の武器?

 一方の藤倉氏の思惑は、よくわからない。

 肩書はフリーライター。組織に属するライターなら、会社から給料がもらえる。ところが、フリーの場合は出来高払い。原稿を書かなければメシは食えない。
 だから、タダ原稿は書かないものだ。
 それなのに、頻繁に、タダ原稿をカルト新聞に載せる。
 同じライターとしてはまるで理解できない。私だって、タダ原稿の火の粉ブログなんか書きたくないと思っているのだから。

火の粉ブログで文章を書くより、有料原稿のほうがはるかに楽です。編集者は原稿をチェックしてくれるし、校閲マンは固有名詞など恐ろしいくらいに赤や?を入れてくれる。ところが、火の粉の場合、何度も何度も、目を皿のようにして一人孤独に原稿を推敲しなければならないのです。それでも、固有名詞とかテニオハの間違いがある。手伝ってくれる妙齢のご婦人はいるのだが。
 早く拉致監禁がなくなって、解放されたい気分です。

 考えられるのは、「カルト新聞の主筆」としての肩書を営業の武器に、雑誌社からの注文(あるいは講演依頼か)を待つ作戦−なのだろう。

 実際の話。藤倉氏は自身の「やや日刊カルト新聞主筆ブログ」で、オランダ人のフリージャーナリストから取材を受けたことを書いている。
 彼は、「どういうわけだか」と、突然の取材の申し込みに戸惑っている風だったが、理由は簡単なこと。オランダ人のフリーは、日本のフリーライターとしての彼(現実)ではなく、藤倉氏のカルト新聞主筆という肩書(バーチャル)に関心を抱いたからだろう。

 というわけで、「カルト新聞の主筆」の肩書を営業の武器に、雑誌社からの注文を待つ作戦というのは、あながち穿ちすぎというわけではないと思う。

 話を戻せば、まあ、このようなわけで、田中清史氏と藤倉善郎氏は結びつき、カルト退治の桃太郎侍気分で、「ほぼ日刊イトイ新聞」、いや違った「やや日刊カルト新聞」を始めたと思われる。


 ところで、勘違いしている読者もいるようなので、あえて説明しておくが、カルト新聞はオーマイニュースのようなネット新聞ではない。本人たちも認めているように、個人ブロガーが集まって作った、新聞の名を冠したたんなるブログに過ぎない。


小学校の新聞委員会みたい

 話を転じる。
 カルト新聞のことを知るには、2つの文章が参考になる。

 1つは2009年の記事、「お知らせ−主筆就任とインタビュー出演
 もう1つは、「本紙主筆をデマで中傷」記事の3月3日午前3時49分のコメントだ。

 前者の文章を引用すると、以下の通り。2回繰り返し読んで欲しい。

【お知らせ】主筆就任とインタビュー出演
 創刊より3週間の長きにわたり弊紙社主編集長を務めてきた藤倉善郎氏が、一身上の都合により本日付で辞任いたしました。同時に、藤倉善郎が主筆に就任いたしました。今後、主筆が弊紙の代表を務めてさせていただきます」


 これについては、すでにアジュマさんがとことん揶揄して書いているので、それを紹介しておく。 (テニオハの間違いは修正した)


 思わず、ブフッ!
 飲んでいた麦茶をキーボードに吹き出してしまいましたワ
 ギャッ、修理に出さなきゃアと一瞬真っ青になったけど(パソコンはサムスンじゃなく、日本製、修理が大変)、すぐに笑い転げてしまいましたワ。青くなったり赤くなったりする私の顔を見て、主人は怪訝な顔をしてましたけど、次のことを説明するのは難しゅうございましたワ。
本郷人のみなさんなら、わかっていただけると思いますが。

<これって、まるで小学校の新聞委員会みたいイ〜>

「創刊より3週間の長きにわたり」???
3週間を「長き」って、大人は言いませんよね。やっぱし、小学校の学級新聞だワ。

「弊紙の社主」だってェ。も〜オ、小学生のくせに大人のマネをしちゃって。

「一身上の都合により」???
ヒェー、編集長の肩書が主筆に変わっただけなのに、「一身上の都合により」だって、やっぱ、学級新聞だワ。

それで、真面目に考えましたのヨ。
「やや〜新聞」の方って、大人ですよね。

 それなのに、学級新聞みたいなことを恥ずかしげもなく文章に。おそらく、小学校時代にクラスの新聞委員にもなれず、教室の隅っこで、羨ましそうにしていた人たちばかりではないのかしら。
何を隠そう、私も実はその一人でしたから、その辛さ・苦しみ・妬みがよ〜く、理解できますことヨ。
{きっと、ワタシだって、いつかは新聞を作って、世間を見返してやるわよ!}

そうした同類がつどって、「やや〜新聞」を立ち上げたのでございましょッ。
それで思いましたの。
<おばさんは、これから熱心に読むからね。愛読者になるからね。主筆様のファンになるからね。頑張れニッポンじゃなかった、頑張れややカルト>
(略)
あっ、もう一言ございましたワ。主筆様も、サイトで紹介されているような本を書かれんことを、遠い清平の礼拝堂で祈念いたしますワ。頑張れ、主筆様!


 全文、これ揶揄の文体だが、完成度が高い。一歩間違うと、たんなる下品な文章になってしまう。さらさらと書いているように見えるけど、相当時間をかけたのでは。エイト君も見習ったほうがいい。

揶揄、かからかい文体の模範は、川柳である。
 自己宣伝になって恐縮だが、揶揄文体を試みたのは落合信彦さんの20世紀最後の真実」と、ややからかいのトーンは違うけど、「さすらいのギャンブラー」

 アジュマさんの分析に、付け加えることはない。


 主筆就任の記事がカルト新聞に載ったのは2009年10月22日だが、3週間前の10月1日付のお知らせ記事、「ややカルト新聞」、公式創刊ですでは、こう書かれている。

 7月からプレ創刊していた「やや日刊カルト新聞」を、本日、公式創刊いたしました。

 「やや日刊カルト新聞」は、宗教団体やスピリチュアル団体をめぐる社会的問題について、報道やインターネット情報の収集と整理を目指しています。代表の藤倉善郎(フリーライター)を含め、計7名の記者が「やや日刊カルト新聞社」として記事を執筆しサイトを運営します。

 創刊時の記者陣は、いずれも、カルト問題に取り組む人やカルトウォッチングに関心がある個人ブロガーです。「やや日刊カルト新聞社」は法人格のない任意団体です。


 ここでは、個人ブロガーの集まりであり、新聞社といっても「法人格のない任意団体」と明記されている。
 ただ、「やや日刊カルト新聞」と名乗ってもブログに過ぎないことは記されておらず、当事者たちは<任意団体であろうと新聞なのだ>と思い込んでいた節がある。
*1「7名の記者」に藤倉氏も含まれていることに、留意しておいて欲しい。
*2細かいことだが、左サイトの「本紙記者の個人ブログ」を見ると、5つしかない。2名は2年もせずに早々と退職したということなのか。よくわからない。


「思い込み」はときとして更なる「思い込み」を呼ぶ。


『今日から俺は』主筆様

 公式創刊のお知らせが載ったのは10月1日。4日後の5日には「やや日刊カルト新聞社賞」を創設したことをアナウンス、そして22日に先の“人事異動”のお知らせである。

 10月1日記事に載った肩書名は「代表」だけだったが、3週間後には「社主」「編集長」「主筆」が加わってくる。

 アジュマさんがからかったように、私も先の【お知らせ】を読んで、新聞ごっこをやっているのだと思った。ただし、マジではなく、軽いノリ、遊びであることを自覚しながら。

 ところが、どうも「遊び心」ではなく、本気で「社主」「編集長」「主筆」だと思い込んでいたようだ。

 後者の文書、藤倉コメントを引用する。(原文ママ)

それより問題なのは、米本氏が藤倉を藤倉を記者呼ばわりしている点です。ぼくは主筆なのに。あと善郎の字が間違ってる。

【註・日本4大よしろう】
中松義郎(ニセ大阿闍梨)
森喜朗(サメの脳)
伊藤芳朗(カルトの弁護士)
藤倉善郎(主筆様


 これを読んだとき、アジュマさんではないが、ぶっ飛んだ。

 ふざけて書いているのかと思ったが、どうもそうではないようだ。引用したコメントの前の文章を読むと(確かめて欲しい)、真面目に書いていることがわかる。
 ぶっ飛んだあと、急に背筋が寒くなった。

「ぼくを記者呼ばわり」→「ぼくは主筆」→「主筆様」と、だんだんとエスカーターしているからだ。
 しかも、【日本4大よしろう】と註までつけて、著名人の1人であることをアピールする。
 自分のことを自民党の元総理大臣と並ぶ人物と思ったのだとすれば、そして「サメの脳」の元総理より主筆の俺様のほうが頭がいいと思ったのだとしたら、それはもう妄想と言わざるを得ない。

 投稿した時間が午前3時49分だから、頭が朦朧とし、ふと錯覚に陥ったのであれば、心配はないが・・・。
 しかし、彼は本気で「主筆様」と思い込んでいるようなのだ。

 立ち止まって、もう一度考えてみる。
 彼は、私が藤倉氏の肩書を「カルト新聞の記者」と書くことがなぜか気にいらず、「記者呼ばわり」していると書く。
 つい、2年前の創刊の【お知らせ】では、自分のことを含めて「7人の記者が記事を執筆」としていたのに。

 つまり、他の6人のことを私が記者と呼ぶのはかまわないが、「今の自分」はもう記者と呼ばれたくない、たんなる記者ではない、と心底を思っているのである。


王様であることの絶対条件

 どこかで取材したような構図だと、記憶の底をたどった。
 そうだ!幸福の科学の大川隆法氏だ。
 20年前の取材を思い出した。

 その昔、川隆青年は荻窪だったか4畳半一間のアパートから、4人の仲間と、精神世界(主にヨガ)の探求を始めた。
 ところが、ほどなくして、川隆と名前を替え、みんなから先生と呼ばれるようになった。
 呼称は次々と変わり、「大川先生」から「大川主宰」そして「大川主宰先生」に。取材しているときは「生まれ変わった仏陀」に昇格していたと記憶する。

このときに取材したことは『別冊宝島−いまどきの神サマ』で書いた。記事を読み返した上で書いているわけではないので、上記のディテールは正確でないかもしれない。

 ところで、王様が王様として存在するのは、臣民がその人を王様と思うからである。
 臣民が、もう王様と思わなくなってしまえば、ただの人となってしまう。
 中東で反対デモが活発に行なわれているが、それは国民が数十年間認めてきた大統領を大統領と思わなくなったからである。

 この構造はカルト新聞にも当てはまる。

 藤倉氏がたんなる記者ではなく、記者呼ばわりされたくない、俺は主筆様だと、カルト新聞のコメント欄に平然と書く。他の6人?の記者も当然読むコメント欄だ。
 私がカルト新聞の若き記者なら、憤慨してこう抗議するだろう。

「藤倉さんは確かに多く記事を書いているから、を取っているという意味では主筆だけど、私たち記者と立場は同じではないか。それなのに記者呼ばわりされたと憤慨するのは、私たち記者のことを格下に見ているということではないのか」

 ところが、記者から抗議の声があがった形跡はない。

 ということは、幸福の科学の信者にとって、大川氏が「総裁」のように見えるから「大川総裁」と崇めるように、カルト新聞の記者にとって、藤倉氏が「主筆」「主筆様」のように思えるから、「俺のことを記者呼ばわりするな」という藤倉氏の発言が許容できる(その通り主筆様なのだ)−ということなのであろう。
 

 私たちからすると、大川氏を見てもただのオッサンにしか見えない。それと同じように、ノンフィクション業界の人たちにとって、藤倉氏は業界の仲間入りさえ果たしていない無名の人である。決してバカにしているわけではない。客観的にみれば、そう表現せざるを得ない。

 「評す(4)」で、番屋会を紹介しながら、古き良きノンフィクション時代のことを説明した。
 番屋会に、月刊誌に2、3本記事を書いたという実績をもって、若手が入会してくると、猪瀬直樹さん(現、都の副知事)なんかが
「おまえなんか、まだこの座敷にあがれる身分じゃない。下足番がいいとこだ」
と、痛罵していた。
 同じ新米ライターとしては気持ちのいい言葉ではなかったが、猪瀬さんが言いたかったことは「雑誌に記事が載ったからといって、1人前のライターと思うなよ」という戒めだったと思う。

 この文脈で言えば、藤倉氏は下足番に過ぎないフリーライターである。
 それなのに、カルト新聞記者たちは藤倉氏を、主筆として、つまりすごい人として奉る。

エイト 藤田 藤倉(masking)-2



おまえ呼ばわりの正体

 これは一体どういうことなのか。この激しい落差の正体は何なのか。
 つい考え込んでしまうのだが、こういうことではないのかと思うのだ。

 藤倉氏は夕刊紙『日刊ゲンダイ』やウエブニュースで、署名入りで記事を書いていた。といっても、社会的な硬派記事ではなく、日刊ゲンダイでは土曜日のレジャー版で、主に街ネタであった。

 そうであっても、一般の人からすると、「メジャーの活字媒体に文章を書くことを仕事にしているライターさんってすご〜い」ってことになる。カルト新聞の“素人記者”(個人ブローガー)にとっても、そのように<見えている>のではないかと想う。
 実際、街ネタであろうが、メジャーメディアに署名入りで記事を書けるようなライターはごくごくわずかである。

ただし、『日刊ゲンダイ』に記事を書いているフリーライターの名前をあげよと言われた場合、そうしたライターはたくさんいるのだが、一人でも名前を答えることのできる人は皆無だろう。


 あるとき、藤倉氏から電話でこんなことを聞かされたことがある。

「ライター志望の若い人たちの集まりに参加しているんですが、ものすごくもてる(注目される)んです。米本さんも来てみませんか。きっとすごいですよ」

 ライターを志望する若者にとって、日刊ゲンダイで署名入りの記事を書いているライターは垂涎の的である。藤倉氏が「注目される」のは当然のことだろう。

 私は彼の話を聞いて、正直、危ない  なと思った。

 藤倉氏がノンフィクション業界の集まりに参加すれば「下足番」と見なされ、それとは逆に、ライター志望あるいは横文字職業としてのWRITERに憧れるようなミーハーの集まりに行けば、スター扱いだ。
 換言すれば、「下足番」扱いされれば、くそっぉと思い、切磋琢磨する。誰もが手がけたとことのないようなテーマを足で探そうとするし、文章だってうまくなりたいと試行錯誤する。ところが、スターになってしまうと、自己完結の世界に安住することになる。

 どちらにも顔を出し、等身大の 自己を認識できればいいのだが、「下足番」扱いは精神的に厳しく、「スター」扱いは心地いい。だからどうしてもチヤホヤされるところに、ひたるようになる。

 このような構造の一端は、カルト新聞でも表れているように見える。“素人記者”たちからすれば、一般媒体で書いていた藤倉氏は「俺たちの主筆様」ということになる。一方の藤倉氏にとって、他の記者は俺とは違う、たんなるブログの書き手に過ぎない。

 それだからこそ、私が藤倉氏のことを記者と表現することに、彼は不快感を抱き、「俺は主筆様」だと主張する。先に妄想ではないかと書いたが、そうではなく、彼がひたっている「カルト新聞世界」の中では間違いなく「主筆様」なのである。

 話を「3月26日付記事」に戻せば、藤倉氏は20歳くらいは年上の私に対して、「おまえ」と呼び捨てにした。感情の流れに任せ勢いで書いた、あるいは2チャンネル世界の流行り言葉?をつい使ったのかもしれないが、心の奥底に、「主筆様」と「たかだか一介のルポライター」という強烈な自意識があったために、それがつい顔を出したということなのだろう。


オルタナティブ

 藤倉氏は齢(よわい)40前。今さら等身大の自己を再認識せよとまでは言わないが、50歳になっても主筆様をやっているのかと思うと・・・。
  私に単行本を書きたいと語っていた頃の藤倉青年が蘇ると、何だか哀しくなっていく。

 光陰矢の如し。光陰流水のごとし。
 私が『洗脳の楽園』を書いたときは「米本中年」。今は「米本初老兵」だ。一人暮らしの老母の面倒を見るために、故郷に帰る回数と滞在日数は年ごとに増え、いずれ島根に帰ることになるだろう。

 藤倉氏が「フリーライター」の6文字を名詞に刷り込んだときは「藤倉青年」。今は「やや藤倉中年」だ。あっという間に「藤倉初老兵」になり、親の介護をしなければならない生活様式に変わる。

 立花隆さんが月刊『文藝春秋』で「田中角栄の研究」を書いて、一気にノンフィクション業界のスターダムにあがったような時代は終焉したといっていい。
 そうであっても、1人前のノンフィクションライターになる可能性はないわけではない。
 それは、やはり単行本になるような原稿を書くことである。雑誌マーケットはなくても、単行本マーケットは確実にある。出版社は本の書き手を探している。

 ところで、数年前、藤倉氏から相談を受けたことがあった。
「ウクライナのチェルノブィリに取材に行くんですが〜〜〜」
 相談内容は忘れたが、私は<おっ、いよいよ本格的なノンフィクションを書くのか>と心が弾んだことがあった。
 しかし、取材目的が「チェルノブィリを観光ツアーのコースに組んで、金儲けしているヤカラがいるそうなんですよ。そいつらのことを書きたくて・・・」
 シュルルンルン。こりゃ、ダメだ。

 何でもからかってやるという横っちょ的な視点は、記者として必要不可欠な条件である。
 しかし、横っちょ的視点は本筋の視点があって、初めて成立する。本筋のテーマなくして、横っちょ的ばかりだと、たんなる野次馬ライターにしかなれない。

 もしあのとき、「チェルノブイリその後」という視点で、本格的な取材をしていれは、福島原発事故が盛んに報道されている今頃は、雑誌社から執筆依頼の行列ができていただろうに・・・。
 残念というしかない。
 確か、彼はチベットとか上海にも足を運んでいたはず。なぜ、長編ルポを書かないのか不思議でならない。
  同じ頃にチベットや中国に行った人たちは、きちんと書いているというのに。

 このまま主筆様の人生で終わってしまうのか。それとも下足番でなく座敷にあがれるようなノンフィクションライターになれるのか。あと数年が「やや藤倉中年」にとって勝負どころであろう。


 正直な気持ちを言えば、もうこれ以上、カテゴリー「カルト新聞と主筆様」を書きたくない。社会的に何の価値もないからだ。
 再び、私にちょっかいを出さないことを願うばかりである。無駄なことに時間を取られたくのだ。

 しかしこのまま記事を終えてしまうと、後味が悪いだろう。

 そこで、前向きな提案をしておく。
 カルト新聞の可能性についてである。

 藤倉氏が宗教情報リサーチセンターで新聞の切り抜きをしていた仕事は、社会的に意義あることであった。
 なぜなら、同センターに行けば、一般紙や専門誌、雑誌を問わず、宗教関係のすべての記事を閲覧することができる。宗教関係の研究者や、宗教担当の記者はけっこう重宝しているという。
 
 つまり、カルト新聞も初期の頃の精神に戻って、宗教関係の記事をネットでアップすることを真剣に考えてはどうか−という提案である。もちろん有料サイトにして。

 紙メディアのすべてを収集して、それを入力するのはお金も手間もかかる。地方記事を含めネットにアップされた記事(ただし信用性の高い記事)のコピペだけで十分だと思う。
 そうすれば、社会的に有意義な仕事ができ、なおかつ収入も入る。

 火の粉ブログのブログ開設の目的のコメント欄(末尾)で、タカさんが「伊勢白山道」のことを話題にしている。私はこの団体のことを知らないし、ブログの目的・性格上、タカさんには申し訳ないけど、調べることに時間を費やすことはできない。
 しかし、カルト新聞に検索項目があって、そこをクリックすれば「伊勢白山道」の情報(ただし信用性の高い情報)が出てくれば、これほど便利なツールはない。入会金が1000円なら、私もサイトの有料会員になる。

 カルト新聞では統一教会と幸福の科学のことが多く記事になっているが、私が批判した「エホバの証人」や「顕正会」は一切記事になっていない。エホバでは輸血関係のことが全国紙で報道されていたと記憶するが。
 おおどころではなくても、全国各地には様々な新興宗教(疑似宗教)団体が生まれているようである。
 過日、広島県を訪れたときも、宗教色がきわめて強い団体が生まれ、興隆をきわめていると聞いた。

 資料性の高いサイトにすれば、個人ブロガーに不満がたまるかもしれない。しかし、それぞれが得意分野としている団体で、記事化されていないようなネタを書けば、さらに有力な情報媒体になっていく。
 ただし、エイト君のような感情剥き出しの統一教会批判記事ばかりだと、プロパガンダ的色彩の強いサイトと見なされ、信用力は生まれない。個人ブロガーにそれぞれの想いはあっても、できるだけ価値中立的な文章にすれば、資料的な価値が生まれるはずだ。

最近のカルト新聞は、私にコケにされたエイト君がリベンジからなのか、猛然果敢に、統一教会批判の記事を書いている。まるでエイト君の個人ブログのようだ。それはそれでけっこうだが、このままの状態が続けば、ブログ名は器に合わせ「反統一新聞」に改名すべきだろう。そうなったときには、藤倉氏は主筆の座をエイト君に譲るべきでしょうね。今でも、に記事のをとっているのはエイト君だ。


(走れ!君が走れば走るほど、統一教会は掃除されるのだ!)


 とまれ、この提案を受け、編集部で真摯に検討されることを期待する。

「やや日刊カルト新聞」が「カルト情報センター」(先駆は「エホバの証人情報センター」)に脱皮することを祈って、このシリーズをおしまいにする。長い間、熟読・精読、ありがとうございました。次回からいよいよ、「勝ち犬の遠吠え」の再開です。

−完−

コメント

リンク先に(たぶん)ミスあり

文中の「落合信彦」のくだりのリンク先、おそらくミスしておられます
(2つとも今現在は「別冊宝島 ギャンブル狂読本」へのリンクになっています)

おそらく落合のリンクは、今文庫になっている『「陰謀」大全』に張られる予定だったのでは?
http://www.amazon.co.jp/dp/4796616268
そうだ思い出した、あの記事は米本さんのものでしたか。
宝島30も含めて、別冊宝島は90年代のあの時代が面白かったなあ。正直今の「別冊宝島」なんて、同じシリーズを名乗って欲しくない・・・

男なら

エイト記者に藤倉主筆、ペンの力で学級新聞よりもっと面白い事やろうよ(別に掃除やカルト被害対策をやめろとは言わないからね)。

こんな事をやっている人が世界にはいるんだよ。拉致監禁反対・容認派を限らずに見てみてね、絶対面白いから。
http://www.ted.com/talks/lang/jpn/jr_s_ted_prize_wish_use_art_to_turn_the_world_inside_out.html

最近、投稿しすぎなのでしばらく大人しくします。はい。
  • [2011/05/13 23:52]
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所感

お二方まだまだお若くて。

若くして夢を抱きつつも "12年5ヶ月" という期間 "拉致監禁"によって陰湿な空間で歳をとらざるを得なかった後藤徹さん、
他、何年もの間、何ヶ月もの間、幾度となく、"拉致監禁"によって 貴い時間・夢・親子関係・家族関係・知人友人・健康 を奪われた何千もの被害者たち、
そしてそのご家族・親族が、この記事を読まれたら何を思われるだろう。
どれほど苦しかっただろうか、命を絶ってしまった方々もいる。

"統一教会信者に対する拉致監禁強制改宗容認"者がいなくなることを願います。
併せて、体調の優れない多くの方々のご健康を祈ります。

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