<kin-gon>
25年前、ソ連(当時)でチェルノブイリ原発事故が起きた直後、私はパリ特派員としてフランスに赴任した。欧州は原発の風下にあって、毎日のように牧草や地表から放射能が検出され、不安が渦巻いていた。フランスでも「雨にはぬれないように」「牛乳を幼児に飲ませるのはしばらく控えましょう」とニュースが報じていた。
しかし人々は放射能におびえながらも、事故そのものについては自分たちとは関係ない彼岸の世界を眺める趣があった。そこには「硬直的な共産主義体制であればあり得る事故」「ソ連であればこのような事故を起こしても不思議でない」との気持ちがどこか心の底にあったように思う。当時、ソ連の行き詰まりはだれの目にも明らかで、チェルノブイリ原発事故は少なからず共産主義体制の欠陥に根差した出来事と見られた。
この点で福島第1原発事故が世界に与えた心理的衝撃はチェルノブイリをはるかに上回る。安心・安全・信頼では世界屈指の日本。そこで原発事故が起きたということは自分の国でも起きる可能性がある、と人々は感じ取ったからだ。原発事故は普遍的事象であることを示した点で、福島第1原発事故は現代文明が抱える深淵(しんえん)をのぞかせた。
日本が世界の耳目を集めたという意味で、もう一つ思い出すのは95年のオウム真理教事件だ。日本のような豊かな先進国において、恵まれた高学歴の若者たちが1人の指導者に心身をささげ、サリンや炭疽(たんそ)菌を開発し、いかに反社会的行為であろうとその命令を忠実に実行する。
当時、米国は事件に強い関心を示し、対テロ調査団を日本に派遣して背景を調べているが、これは01年の9・11(米同時多発テロ)における国家対組織の非対称戦争を先取りした事件となった。
日本は米国のように現代文明の先端を走っている国ではない。フランスのように世界に対するミッション(使命)を自負している国でもない。むしろロー・プロファイル(目立たず)の国だ。その日本が、現代文明が抱える深い闇を予兆させるような出来事をまれにだが引き起こす。
我々の効率一辺倒の生き方が、何か本質的なものを脇に追いやってしまったからなのか。安心・安全・信頼が表面的なものにすぎないからなのだろうか。しかもいずれも大地震の時に起きている(オウムは阪神大震災とは直接には関係ないが、逮捕されたメンバーが「震災の混乱に乗じる狙いがあった」と述べた)。3・11以降、「なぜ日本が」という問いが私の中で続いている。(専門編集委員)
毎日新聞 2011年5月13日 東京朝刊