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きょうのコラム「時鐘」 2011年5月13日
朝、新聞に目を通すときは大概、行儀が善くない。寝ぼけ眼で片ひじをついたり、朝食を食べながらだったり。きのう、「女性の目」を読むうちに、曲がっていた背筋がしゃきっとした
被災地に出向いた3人が住民の重い言葉を紹介している。不明の人が遺体で見つかった。残念ではなく「よかった」と安堵(あんど)の言葉を交わす。演奏会で老女が涙を流す。「うれし涙です。もう悲しみの涙はない」 遺体と対面して無念の思いが湧かないはずはない。悲しい涙は枯れるものだろうか。あるいは痩せ我慢の言葉かもしれないが、赤裸々な本音以上に、必死の忍耐が強く心を打つこともある ボランティアの片付け作業を、まだ泥にまみれた隣家の住人は「暗い表情で」見守っていたという。強い意志だけでなく、屈折した心も消えてはいない。女性の目は、被災者に寄り添うようにして素顔を伝えてくれる 為政者もそんな被災地を見ているはずなのに、復旧の歩みは悲しいほどに遅い。曇りのない目で被災地を見て、力を尽くす大勢の人がいる。同じものを見ても力が出せぬ為政者がいる。明と暗は、どこにでもある。 |