DNA鑑定
テーマ:震災一週間後、DNAが一致したと警察から連絡が来た。
なんとなく現実とは思えず、「へぇ~」というような感想しか言えなかった。
今でも実感が無い。
身内を褒めるつもりは無いが、おじいちゃんはすごい人だった。
一言で言えば「温厚」な人だった。
私にはダンナの父(義父)にあたり、初めて会ったのは、75歳くらいだったと思う。(義母)と歳が離れていたので。
北海道で生まれ、今の土地に移住してきて学校に通ったが、兄弟が多いため、学校の途中で大工さんの弟子になって家計を支えた。
そして、独学で25歳くらいで1級建築士の資格を取り、仕事をしようとしたが、やはり手っ取りばやくお金を稼がなければならなく、東京に出稼ぎに行った。
そして20年仕送りをし、家を建て直し、離れを作り、蔵ができた。
その当時の話を聞くと、半場(土木作業員の住む小屋の事)で一緒の東南アジア系の人に缶コーヒーをおごるとすごく喜ぶ話や東京は車より地下鉄のほうが便利ということ。聞いていて楽しかった。
私たちが引っ越すというと、掃除、草取り、立て付けをちょっと直し、ご馳走をおごってくれて、日帰りで帰った。
私が娘を出産すると、3時間おきのミルクとオムツ替えをやり、私は隣の部屋で寝てほとんど何もしなかった。トイレに行こうと起きると、寝ている娘の顔をずーっと見ていた。
出稼ぎでいなかったため、自分の子供の面倒はほとんど見たことが無い、と照れたように笑っていた。
大きくなってからも遊びに行くたび、メジャーで身長と足のサイズをチェックし、次に来た時にはピッタリのサイズの服と靴が準備されていた。
娘がお店の棚のものをすべて欲しいというと端から端まで店員さんに包んでもらおうとしていた。
年金や自分のお金はすべて娘のもの、迷惑だけはかけたくないと言い、遊びに行ったときには、折り紙、粘土、お絵かき帳など完備していた。
だからといって口うるさい訳ではなく、お金は出すが、口はまったくださない、という理想のおじいちゃんだった。
泊まりに行っても洗濯と掃除はおじいちゃんの担当で、おばあちゃんと私はボーっとお茶を飲んでいるという感じだった。おばあちゃんも、このほうがボケなくてすむと言い、おじいちゃんは、出稼ぎで慣れているから、と笑った。
そんな人がなぜ・・・と思った。
本当に信じられなかった。
☆今日の私☆
いまだに1万人ほど行方不明のまま。海に流されたのなら、海の底に沈んでいると思うが、陸にいる人は、体の上にヘドロがあり、その上に倒壊家屋があり、その中にも住んでいた人の遺体がある、というミルフィーユの状態でいて、家屋撤去が始まった今、本当の一番下にいた人が見つかり始めている。
ぶどうゼリーの腐ったような色のものにカラスが集まると、それは大抵、人か鎖でつながれたまま死んだペットなのである。ドロドロに溶けた人の部品を回収しているのをみると、どうにもならない思いがグルグル回ってしまい、しばらく立ち直れなくなる。