原発労働 思い複雑 県内で再起の安田さん

2011年4月15日 09時48分このエントリーを含むはてなブックマークLivedoorクリップに投稿deliciousに投稿Yahoo!ブックマークに登録

 東日本大震災から1カ月以上が過ぎた今も、東京電力福島第1原発は放射能汚染など重大な危機を抱えたままだ。世界の耳目が集まる現場では、東電や協力会社の社員のほか、自衛隊や消防を巻き込んだ懸命な事故処理が続いてきた。誰もが「想定外」を口にする巨大災害を目の当たりにし、働く当事者たちは、そして大切な人を被ばくによる労働災害で亡くした遺族は、何を思うのか。

 大震災が起きたときに福島第1原発で働いていた那覇市出身の安田慶人さん(37)=福島県浪江町=は、妻(36)と2人の娘と共に豊見城市内の公営住宅で新たな生活を始めている。19年間、危険さえ感じたことがなかった仕事を失い、自宅には避難指示が出された。「被災者だからと甘え続けるわけにはいかない」と奮い立たせるが、思いは複雑だ。

 福島第1原発4号機の建屋内で、1階から地下へ鋼材を降ろす作業中、立っていられないほどの揺れに襲われた。危険を知らせるサイレンと、操作室でパニックになった東電社員の声がスピーカーを通して建屋内に響き、見上げると厚さ2メートル以上のコンクリート壁がぐにゃりと波打っていた。「目

の前のことが信じられなくて、笑いが出ていた」と極限の心理状態を振り返る。

 安田さんは那覇市内の中学を卒業後、18歳で東電の協力会社へ就職。新潟県の柏崎刈羽原発で電気のメンテナンスを担った。福島へ移り、3年前に独立。仕事の依頼は絶えず「忙しかった。こんな事態は考えたこともなかった」。

 東電から施設の危険性について説明されたことはない。「爆発しても壁が原子炉を包んで、放射能は漏れ出さない」と人づてに聞いていたが、“防御壁”にはならなかった。

 政府が原発事故の国際評価尺度を「レベル7」に引き上げたことで、20キロ圏内にある自宅への不安が増した。2人の子どもの写真や倒れたままの冷蔵庫、生活の全てを置いてきた。「避難指示が解除されたら荷物を引き揚げて、世話になった人にあいさつして。一区切りつけたい」

 今週から新しい仕事を始め、沖縄での生活は整いつつある。7月には3人目の子どもも生まれる予定だ。「早く自立した生活を始めたい」と前へ進むが、喪失感は拭いきれない。

 「危険な場所で働いていたんだとあらためて思う。けど、原発がないと今の電気需要は賄えないんですよ」。今も現地で働く大勢の仲間を思い、言葉少なに語った。(金城珠代)

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