「なんでウィルが一緒なのかな?」
「ん? だって俺、お前のお守頼まれたし」
「みぃ」
「みぃー」
魔従キャロに乗りリーラベルへの山道を下るエリカとウィルはコーワン学究院へと向かっている。
今朝の日課を終えたエリカが朝食後学校へ行こうと飼育小屋でみぃたんを連れ出そうとしていたところをウィルにつかまったのだ。
エリカがみぃたんに鞍をつけ終え外に出たところ、すでに鞍上(あんじょう)の人であったウィルに呼び止められ、今こうしてキャロで並んで駈けている。
「学校にまで一緒に来るの?」
「そうだ。気にするな」
苛立ちを隠さずそう言うと、なんでもないことのように綺麗な笑みを浮かべるウィルに嘆息する。
まさか本当に学校まで着いてくるつもりなのだろうか。
お守といっても、こうどこまでも金魚のフンみたいに一緒だとかなわない。唯でさえウィルにはエリカが女性であることも異世界から来たことも秘密にしているのに、いつもこんな風に隣にいたら気が抜けないではないか。
「気にするなって言われてもさ。気になるよ、何その格好?!」
マンスフィールド教授が着ていたマントのようなローブ。胸にコーワン学究院のエンブレムが入っている。
さっきから気になっていたウィルの着ているローブはエリカの着ているものと同じものだ。そして教授のと同じデザイン、色違いの灰色のローブ。
オリエンテーションの後に各自に配られたものだった。袖を通したのはエリカも今朝がはじめてだ。なぜウィルも着ているのか……まさかとは思いながら聞いてみる。
「俺も通うから。お前と一緒に」
「はぁ?!」
どうやらウィルは本当に片時もエリカと離れる気はないらしい。監視をされているようななんとも居心地の悪さを感じる。
ウィル自体傍にいても嫌な人物ではないのだが、あまりにも露骨な見守り方をされてしまうとふらっとひとりで消えてしまいたくなる。エリカは基本的に自由人だ。束縛は苦手。……といってもすでにウィルの存在に慣れてしまっているエリカがいる。
なぜかウィルといると安心する。それは今までのエリカからは考えられないことだった。男のフリをしているせいもあるかもしれない。
女性としてではなくひとりの人間としての付き合いが、とても心地の良いものに感じた。見た目に惑わされ寄って来るような軽い男性たちとは違う。エリカをエリカとして扱ってくれる。そんな生活が新鮮で男装も悪くないと思っていた……。
「エリック? 何、そんなに嫌なのかよ。だいぶ無理して俺も一緒に通えるように手回ししたのに」
「……え? 嫌だよ。だって僕だって自由が欲しいに決まってるじゃないか!」
急に地面を見つめるように俯いたウィルの姿に言葉が過ぎたかと少し心配になった。みぃたんを操り近づいていくと背中が小刻みに揺れている。
「……ウィル。何笑ってるの?!」
こいつ笑ってやがる。本当にふざけた奴。
「ぷははははっ。だってお前があまりにも簡単に騙されるからっ……くくくくくっ」
落ち込んだように見えたそれは、ただ単に笑いを堪えていたのだ。
「何なの?! いやっ、もう本当にムカついてきた。みぃたん行くよっ」
エリカは魔従キャロみぃたんの腹を踵で軽く触れ速足(トロット)で駈けだした。
リーラベルの街中に入ったエリカは、みぃたんから降り手綱を引いて歩く。
隣にはすぐに追いつき並んで歩くウィルがいた。
「エリック、ごめん機嫌直せよ。このローブは唯の冗談だ。学校には行かない。送り迎えだけしようと思ってだな……」
「……本当に? 随分手の込んだ冗談だけど」
エリカはまだ着られたままの灰色の学校支給のローブに目を向ける。
「あぁ、これか。学校に本当に通うんじゃないが……学生のふりはしようと思ってる」
「なんでそこまでするの? 必要があるの?」
怪訝そうにそう尋ねたエリカに彼は愉快な悪戯を思いついた子供のような顔で笑みをたたえる。
その顔は2つ年下の弟がよく見せる顔にそっくりだ。エリカは日本で元気にしているであろう家族に思いを馳せた。
なぜだか記憶に霞がかかったみたいで上手く思いだせないが幼いころに悪戯を一緒に考えている時の弟の顔のように見えたのだ。あれはいつだったか――?
「ちょっと学生気分を味わおうかなって思ってな」
「何ソレ。変なの!」
冗談か本気なのかそんなことを言っているウィルに振り回されながらも、賑やかなマーケット街を抜けクレアモント通りにさしかかる。この道を抜けるとそろそろコーワン学究院だ。
リーラベルの郊外に位置する学校のキャンパスが見えてくる。緑豊かな場所に佇む白磁のような建物。
エリカとウィルはキャンパス内のキャロ専用の小屋にみぃたんとウィルの乗っていた魔従キャロを預け校内と入っていく。
「じゃあ俺はここで。エリック、授業が終わったら図書室に来てくれ」
「わかった。じゃあもう僕行くね」
ホールを抜け各教室への廊下が始まる辺りで別れを切り出した。
ウィルも教室とは反対の方向へと目を向ける。
「ああ、がんばれよ」
「ウィルも本でも読んで知識を高めるように!」
「何だよ、それ」
「ぷははっ。そのまんまの意味だよ。じゃあね!」
クスクスと笑いながら片手を振りながら教室へと向かう。鞄から啓示板を取り出し、今日の授業の講義室の場所を調べる。
まだ慣れない魔導具のそれに触れ起動させるとガラス盤のようなそれが黒曜石で出来た黒板に変化する。浮かび上がる文字は色とりどりの蛍光色。まるでエリカに必要な情報がわかっているかのように思い浮かべたものの詳細な案内が表示された。今日の時間割に教室までの道順など。どういう仕組みかはわからないが、すごく便利な道具だ。欲を言えば学園外でも使用できたら良いなと思う。
1限目は歴史。教授はエリカのホームクラス、星の巣(ネスト)の監督教授マンスフィールドらしい。彼がどのような授業をするのかとても興味がある。
モーリーやマルクスも同じクラスだといいなと思いながら、歴史の講義へと向かう。
啓示板の地図を見ながら廊下を進むと、エリカのように板を見ながら歩く生徒たちが疎らにいる。毎月新たな生徒が試験を受け入学してくるので彼らも新入生だろう。
学力によってそれぞれの授業のクラスは振り分けられるらしいので、新入生と在校生とが同じクラスということも少なくないようだ。
唯、ホームクラスだけは同じ月に試験を受けた生徒たちで構成されるので、不安なことや困ったこと等を一緒に共有する仲間になるわけだ。
そんなことを考えながら歩いていると、教室に辿りついた。コーワン学究院の中は本当に広い。そして複雑な造りでもある。啓示板がなければエリカならば迷子になったに違いない。
開かれた扉をくぐり教室へ入っていくと見覚えのある赤褐色の髪の毛が目に入る。後ろ姿しか見えないがあれはきっとマルクスだ。マルクス・ヨッカー。留学生の青年だ。
「マルクス!」
そう呼び掛けたエリカの声で彼は振り返った。
「エリック! 君もイッショのクラスダッタンダネ。良かった、キット俺ダケだと思ったンダ。オチコボレのクラスにようこそ」
「それ言うなよ。まぁ自覚はあるけどね」
マルクスの言うようにこの歴史のクラスは落ちこぼれクラスに違いない。初級クラス。そう啓示板には書かれていた。
少し外国訛りのあるマルクスが歴史が苦手だとしても不思議なことはない。
エリカも異世界から召喚されたことを考えれば全くわからないことに変わりはないのだが、それを誰かに話すわけにはいかない。今エリカは、エリック・カスティリオーニというハウメア・ヴァレンディア王国での立派な籍がある。父親は王都の魔法騎士団長。上流社会でも通用する身分だろう。
そんな境遇にあるエリックとしての彼女が歴史が全くわからないというのはあまり人に知られない方が良い。少しでも早くこの世界について学ぶ必要がある。
マルクスには貴族の馬鹿な放蕩息子とでも思わせておこう。
「さぁ席に着こうか」
「ソウダネ」
ちょうど2人が席に着いた時、マンスフィールド教授がローブをはためかせながら颯爽と教室に入ってきた。机の間の通路を歩きながら生徒達を見渡すと、「全員出席。よろしい」と言ってにっこりと笑った。
「さて、教科書だが君たちにはこれが良いだろう」
そう言って各自の机上に現出されたのは分厚い本が3冊。国史、世界史、ハウメア記と書かれている。中をペラペラとめくってみると、簡単な言葉でとてもわかりやすく書いているようだった。
隣の席のマルクスのを一瞥すると、彼も教科書を開き、ゆっくりと一文一文指でなぞりながら読めているようだ。
「教科書を見てもらえばわかるように、この歴史のクラスでは国史、ヴァレンディア王国と密接に関わっている国々の世界史、そしてハウメアの成り立ちを学んでいく計画だ。ここまでで何か質問は?」
居心地の良い広めの書斎のような教室にいる8人の生徒たちの一部でクスクス笑いが起こる。
「ラ・ヘイノどうしたのかね? 私は何か可笑しなことでも言ったかな?」
マンスフィールドは笑いの起こったところにいる女生徒に尋ねた。
「ハウメア記なんて本当に習うんですか? だってそれはおとぎ話でしょう?」
「そうか。君はおとぎ話だと思っているんだね、ラ・ヘイノ。確かに失われた歴史は今では一般的には夢物語のように伝えられているが……もしもそれが本当に起こったことだとしたら? それを学ぶことはとても重要だと思わないかい?」
マンスフィールドの言葉に虚を突かれたような顔をしている少女ラ・ヘイノが「信じられないわ」と囁く。
ラ・ヘイノの隣の女生徒も顔を見合わせ驚いているようだ。
マンスフィールドはそんな様子の生徒たちににっこりと笑い掛け、教室の他の生徒を見渡した。
「どうやら君たちの多くは、ラ・ヘイノと同じ意見のようだ。失われた歴史は時を経るにつれだんだんと忘れ去られ、伝説のようなものになってしまったからね。……しかし失われた時代は存在する。これは私の研究対象でね。是非若いみんなに継承していきたいと願っている」
「僕は信じます。先生」
エリカは教授の意見を支持した。
マンスフィールドの言葉はエリカにとって思ってもいない収穫だった。ハウメアの失われた時代のことは彼女の知りたいことそのものだ。エリスのことがわかるかもしれない――そう思った。
ジンとエヴァが言っていた。その昔、ハウメアとエリスはひとつだったという伝説があると。ハウメア記を学べば得るものもあるだろう。
それにしても本当に一般的にはおとぎ話だと思われているらしい。今日の生徒たちの反応がまさにそれを表していた。
「ありがとう。ル・カスティリオーニ。では授業をはじめよう」
マンスフィールドは3冊の分厚い本を空中に並べパラパラとページをめくる。
「さてまずは君たちに馴染みの深い国史から勉強していこうか。そしてもっと身近なことから学んでいこう。ル・ヨッカー、君は留学生だったね?」
教授はマルクスに質問する。
マルクスはあてられた瞬間びくりと身体をこわばらせたが「はい、ソウデス」と返事をした。
「ル・ヨッカー、君は今ここにいる生徒たち、学究院に学びに来ている生徒が、一体この国の子供たちの何割位だと思うだろうか?」
マンスフィールドの質問に暫し考え込む様子だったが、マルクスは答える。
「たぶん、5ワリ? ガッコウに来る子とカテイキョウシに家デナラウ子がいるトオモウからです」
マルクスの答えに教授は頷きながら続ける。
「うむ。興味深い答えだね。大体それは正しいと言える。ル・ヨッカーが答えてくれたように、ヴァレンディア王国では、半数が学校に通い、また半数が家庭で学ぶ。これはその家々でどちらを選択しても良いことになっているんだ」
マンスフィールドはそこで一呼吸置き、空中に浮かんだ本のあるページで指を止め、その一文を読み始める。
「国史の教科書の37頁を見てみよう」
生徒たちは本をめくり始める。
「確かにこの国では学究院で学んでも家庭で学んでも良いことになっているが、それでは学力に差が出ることになると思わないかい?」
そこで一番前に座っている女の子が手を挙げた。ラ・ヘイノの隣に座っている女の子だ。
「ラ・チェン」
「はい。確かに先生のおっしゃる通りこの国では学究院で通っている者と家庭で学んでいる者に学力の差が出ています。学究院ではある基準までの学力に届くように勉強していきます。家庭では基準に満たないことも多くあるし、逆に基準以上の高い知識を得るような教育をしている家もあります」
エリカはラ・チェンと呼ばれた女生徒の明瞭な答えに舌を巻いた。初級クラスでもこの位答えられないとならないのだろうか。
「すばらしい。ラ・チェン。君の言うとおりだ。でもまだ忘れていることがあるな」
そこでマンスフィールドは男子生徒の方を見つめる。
「ル・スカリ。ル・ヨッカーとラ・チェンの答えに付け足してくれないか? そう。君の指差している一文のところに載っているね?」
男子生徒は教科書を見ながら答える。
「えーと、この国では全ての18歳までの子供が等しく学ぶ権利があり、保護者や後見人はそれを認め、学ばせなければならない」
マンスフィールドは頷きながらそれに付け足した。
「ありがとう、ル・スカリ。その通りだ。この国では全ての18歳までの子供たちが等しく学ぶ権利がある。一昔前まで考えられなかったことだね。学究院で学び始めるのは6歳から8歳位からだ。10年間学ぶことが義務付けられている。ただし学力が満たない時は落第もある。最大5回落第してもまた学ぶことが出来る。ここまではわかるかな?」
そこでラ・チェンがまた手を挙げた。
「ラ・チェン。どうぞ」
「先生は学校でも家庭でも学んでいない子供たちのことを忘れているわ」
マンスフィールドはにっこり笑ってとても満足そうに頷いた。
「君は本当に素晴らしいよ、ラ・チェン。そう。私は君たちに知っておいてもらいたいことがある。それはラ・チェンが言っていたように学究院でも家庭でも学ぶことのできない子がいるということだ」
教室が少しざわざわとなる。きっと知らない生徒もいたからだろう。
エリカも当たり前のように義務教育がある国で生活していたので、生活水準がある程度高いこの国の識字率が100%ではないという事実は驚くべきものだった。
「この国で身分制度が今のような形骸化されたものになる前には、学究院で学ぶことが出来るのは貴族の子息、子女だけだった。それが段々と大商人の子供たちや普通の商人の子、農民たちにも門徒は開かれたが、まだまだ貧しい家では学究院へ行けないということも珍しくない」
マンスフィールドの言葉にみんな熱心に聞き入っていたが、まだ当てられていなかった男子生徒が興奮した様子で教授の話に追々する形で発言する。
「でも身分制度はまだ残っているし、議員などの名誉ある職業や新しい事業に乗りだすことの出来るのは貴族などの一部の特権階級や大富豪だけじゃないですか!」
「そうだね。君の主張はもっともだ、ル・リバー。確かに身分制度はまだまだ残っている。それは今までの慣習からだったり、これまでの貴族が領民を守ってきたことの賞賛からかもしれない。そしてこのハウメアを守ってきたことに対しての……もっともそれは君たちにはおとぎ話だと思われているがね」
マンスフィールドは一呼吸置いて話し始める。
「学究院の授業料は基本的に無料だ。国と町で支援しているからね。でも全てじゃない。君たちの着ているローブ――これは特殊な生地で出来ていてね。とても高額なんだ――そして教科書、本も高額だね。後はそれぞれの授業で使う材料――薬学などで使用するハーブなどの素材だね――これらのものは君たち自身で用意しなければならないものだ」
教授の言葉に反応してエリカとマルクスの隣の島にいる女生徒達が発言する。
「だから貧しい家の子たちは学校にこれないのね」
フムとマンスフィールドは頷きながら女生徒に視線を向けた。
「そうなんだ。ラ・スペンサー。君の言うとおり、授業料を支援して学究院で学ぶよう促しても貧しさを理由に子供を通うことを認めない保護者や後見人はいる。しかし問題はそれだけではないんだ。ラ・ワイルド、他にはどんな障害があるだろうか? もちろん学ぶことに対する障害だよ」
ラ・ワイルドと呼ばれた女の子は先程発言したラ・スペンサーと顔を見合わせ相談しているようだ。
暫くして彼女は答える。
「えーと、例えば貧しい農民の子の場合は子供たちも働かなければならないので両親は学校に行かせられないのだと思います」
教授は満足そうに頷く。
「そうだね。ありがとう、ラ・スペンサー。その通りだ。貧しい家では子供たちも重要な働き手なんだ。ヴァレンディア王国ではそういう子たちにも学ぶ機会を与えようと働くのは18歳になってからという法をつくったが、抜け道があるんだ。君たちの何人かも経験があるかもしれないね」
マンスフィールドの言葉にル・リバーが手を挙げた。
「僕は小遣い稼ぎに商人ギルドに仕事を紹介してもらったよ」
エリカもこないだ商人ギルドで小包をリーラベルの店まで届けたことを思い出し、ル・リバーの発言に身を乗り出す。18歳から働く、というのは知らなかった。
「そう。ここで商人ギルドの特例が出てくるんだ。ありがとう、ル・リバー。今では大商人は貴族と同じ位の力を持っている。……まぁ貴族にしか与えられていない特権はいまだあるわけだが――それはハウメア記が関係してくるので今説明するのはやめておこう――嘗て商人たちは自分たちが力を持てるように組合をつくり商売を独占していったんだ」
マルクスがぶつぶつと隣で何か呟いているが、エリカは教授の言葉に神経を集中させ待った。
「それが商人ギルドの始まりだ。そうして今では大商人と貴族の力は均衡してきている。ある程度まではと付け足さなくてはならないがね」
そこでマンスフィールドは教科書を閉じた。空中に浮かんでいた3冊の本は教壇の上へと綺麗に積まれる。
エリカは腕時計で時間を確かめた。一時間半経過していた。マンスフィールドの授業には本当に引き込まれた。
生徒たちもみんな一心に教授の話に聞き入っているようだ。そしてマンスフィールドはひとりひとりが考えるよう仕向ける上手な案内人に違いない。
「今日の最後に、なぜ貴族や大商人たちと一般的な市井の人々の間に貧富の差が生まれているのか――一旦この国の富は等しく再分配されたことは知っているね? 身分は名称だけ残し、貴族が持っていた領地も国に返還された。この国は王政だが、実際に政治を行っているのは国民に選ばれた議員たちだ――それでもなお貧富の差は広がっている。それが今日の宿題だ。なぜ今なお貧富の差が埋まらないのか、それを各自調べてくるように!」
マンスフィールドの出した宿題にみんなざわめいている。エリカも隣のマルクスもお手上げといったように嘆息していた。
「マルクス! 宿題一緒にやらない?」
エリカはマルクスに声をかける。
「うん! ヨカッタ、君とイッショにできたら心強いヨ」
マンスフィールドが教室を見渡しにっこり笑う。
「もちろん協力し合ってしてくるのは構わないよ。では今日の授業はおしまいだ」
そう言って教壇の上の本を消し、颯爽と教室から出て行った。
歴史の授業が終わり生徒たちのいなくなった教室でエリカとマルクスは先程出された宿題について相談していた。
「マルクスこの後魔法の授業でしょ? 僕は授業ないんだ。マルクスが終わるまでちょっと調べておくよ」
「俺も魔法はトッテナイんだ。デモ待ってテ。モーリーにツタエテクルカラ」
そう言うとマルクスは教室の外へと駈け始める。
「あ! マルクス、僕は図書館に行ってるから。そっちに来て」
マルクスはエリカの言葉に「OK!」と返事をすると親指を立て腕を大きく振って出て行った。
「え……?! マルクスも魔法の授業受けないんだ……もしかして」
考え込むようにマルクスの背中を見送った。
エリカはこの後しばらく時間が空く。これからある魔法の授業が免除されているからだ。
かといってエリカは魔法が得意な訳では決してない。エリカが魔法は家庭で学ぶことを選択しているから授業を受けなくても構わないという理由からだ。
魔法はエヴァから教わっている。まだ生活に必要な基本的な魔法しか習っていないが、彼女は良い教師だろうと思う。魔法に関する何の知識もないエリカに一から叩きこむのはとても骨の折れる仕事だと推測された。
唯一救いがあったのは、エリカが魔法詠唱の際に使用する言葉の壁がなかったことだ。古語が話せたことは大きい。古語はヴァレンディア語と同じように自然と紡ぐことができた。それはエリカのかけているネックレスのお陰だ。
貴石――故人の能力を秘めた特別な石。
エリカのネックレストップは貴石だ。アメジストのような輝きを放つそれは、この世界で生き抜いた人の結晶らしい。
悲しい思い出を語るように少し濁すようにぽつりぽつりと話してくれたことによると、どうやらこのハウメアでは亡くなった人は朽ちていくのではなく、世界に満ちるとか。
エリカはあまり理解出来なかった。地球にある様々な宗教観や死生観とは根本的に違うような気がする。
貴石は故人が消えてしまうのが悲しく傍にいてほしい、失いたくないたとえ姿が変わってしまっても……という思いから生まれたものだという。
形は変われどミイラのようなもの。
悲しいものだ。
もちもん誰にでも出来ることではない。裕福で権力のあるものにしか許されない禁忌に近い儀式。庶民にはその知識さえも伝わってはいない。
それがエリカが聞いた貴石の知識だ。
そのおかげでエリカは今言葉や文字の書きとりなどで不自由していないという訳だ。
唯、解せないのはなぜそんなものがエリカの手に入ったということだ。あの日、訳もわからず異世界ハウメアに迷い込み、森の中を彷徨っていたエリカが川の中でこれを見つけた。
それは偶然だろうか――?
エリカは教科書と筆記用具をまとめ鞄へしまうと、啓示板で図書室までの道順を調べる。
軽く触れると透明だったそれは漆黒へと変化し、蛍光色で描かれたシンプルな地図が浮かび上がった。
啓示板の地図を見ながら校舎の中を進んで行く。
生徒たちがきゃっきゃと騒がしかった教室の辺りの廊下とは違い、図書室に近づくにつれ人は疎らになり静まりかえった環境がそこにはあった。
「あ……。ここか」
見上げるほどの立派で重厚な造りの木製の両開き扉が開け放たれ、中へと誘(いざな)っている。
そっと覗きこむと果てしのない空間が広がっている。本は十分な広さを確保された通路を幾つもつくっている本棚にびっしりと収まっており、迷い込みそうな空間で一息入れられるように所々に座り心地のよさそうなソファや一人かけの椅子もある。
様々な大きさの机や窓からの光を助ける為の色とりどりの暖色の魔法光も浮かんでおり、幻想的な雰囲気を醸し出していた。 本棚の間の通路を進んでいくと足音はふかふかな絨毯のお陰で全く響かない。エリカは図書室特有の古い本の匂いを胸一杯に吸い込んではーっと息を吐いた。
「本の匂いがする……」
あちこちの本に目移りさせながら奥へ奥へと歩いて行くと、複雑に立ち並ぶ本棚で出来た迷路のような道にに入りこんでしまった。
どちらが入って来た入口だろうか。
マルクスがもうすぐ来るはずだから、わかりやすい場所へと引き換えそうと踵を返す。
「ウィリアム。どうしたんだい? また来たのか」
聞き覚えのある声に足を止める。
聞き間違えではないはずだ。先程までずっと聞いていた声なのだから。
マンスフィールド教授の声だ。
「ベランジェおじさん。授業は終わったんですか?」
立ち聞きは良くないと引き返し始めたエリカは再び歩みを止めてしまった。
この声はウィルだ。
どういうことなのだろう。2人は知り合い?
「また調べていたのか。君は本当に父上に似て歴史が好きだな」
「埋もれた史実の欠片を集めるのは男の浪漫ですから」
マンスフィールドの柔らかな笑い声が響いた。
「くくくっ……本当に君はカーティスにそっくりだ。あいつもよく悪戯を思いついたような瞳をキラキラさせながら私にハウメア記の考察を語っていたよ」
「よく言われます。兄妹みんな父に似て古いものが大好きなんです」
朗らかに話している様子を推察すると知り合いなのだろう。
「まさか! みんなとはあのかわいい小さなリズ嬢もかい? 女の子なのに古臭い考古学に夢中だなんて変わっているな。カーティスに少し言ってやらないとな。そんなだと娘まで冒険に出たいと言い出すぞ! ってね」
「暗に俺を責めてるんですかっ。まぁリズはもう少しお転婆を直した方が良いのは同感です。母も手を焼いてるんですよ。目を離したらすぐに俺についてこようとするみたいで」
賑やかに笑いながら家族の近況を話す様子にエリカは家族ぐるみの親しい仲なのだと推測した。
思わず立ち聞きしてしまったが、本意ではない。
そのまま場を後にし、入口を探しながら元来た道を引き返した。
複雑に本棚が並び道作られている図書館の通路はまるで迷宮のようだ。
入口を目指してしたのにどうやら違う方向に辿りついてしまったらしい。
本棚の道が終わりを告げ、どうやら壁際には到達したようなのだが、さっきは見た覚えのないカウンターがある。
キョロキョロと周りを見渡しながら近づいていくと、誰もいないはずのそこから声が聞こえる。
「迷子なのかえ? 新入生なのかしらねぇ」
のんびりゆったりとした話し方のしゃがれた声がカウンターの下から伝わってくる。
「……え? 誰ですか?」
そう言いながら声の聞こえるカウンターの前まで歩き覗きこんで見ると、「ヨイショ、ヨイショ」と小さな踏み台を持ちながらカウンターの中を歩いてくるとても小さな人がいる。
「よっこらしょ。やれやれ、これでお前さんに見えるかしらねぇ。大きな新入生さん」
運んできた小さな踏み台に乗ると、くしゃくしゃの蜂蜜色の髪の毛に皺くちゃだが愛嬌のある顔に優しい茶色の目をしたおばあちゃんの顔が、カウンターからちょこんと現れた。
「あの……こんにちは」
エリカは小さなおばあさんに深々と頭を下げた。
「おやおや、珍しい挨拶の仕方だねぇ。こんにちは」
おばあさんの言葉にハッとする。頭を下げるお辞儀という挨拶はとても日本的なものだ。
思わず笑って誤魔化した。
「あの、僕入口を探していて。あんまり広いから迷ったみたいなんです」
エリカの言葉にうんうんと頷きながら、小さなおばあさんはにっこりと笑った。
「そうかい、そうかい。本にここは迷いやすい作りになっとるからねぇ。どれ、あたしゃが地図を描いてあげようねぇ」
おばあさんはカウンターの内側の引き出しをゴソゴソと探り羊皮紙を取り出し、鉛筆でカウンター近辺の地図を描き、万年筆で道順を示してくれた。
「今がここさねぇ。それでこの道を真っ直ぐ歩いて斜め左上に進んで右、斜め右下へ進めばもう入口さねぇ」
エリカは地図を覗きこみながら万年筆の後をなぞり道順を確かめる。
どうやらここからとても近い場所に入口はあるようだ。それにしてもとても複雑な造りだ。どうしたらこんなにあべこべな道ができるんだろう。まるで迷宮のようだ。
エリカの方向音痴を差し引いたとしても、この図書館の本棚で道作られる通路には皆悩ませられるはずだ。
「ありがとう、おばあちゃん。たぶんこれで行けると思う」
エリカは小さなおばあさんにお礼を伝え、手を振り入口へ向かった。
「またおいでねぇ。大きな新入生さん」
おばあさんはカウンターからちょこんと小さな腕を挙げて手を振ってくれた。
描いてもらった地図を頼りに入口を目指す。
マルクスはもう来ているかもしれない。自然とエリカの足は速まった。
――マルクス・ヨッカー。
エリカは今までずっと引っかかってきた違和感について考えていた。マルクスはきっと――に違いない……。
エリカはそっとペンダントを外し外套のポケットへと忍ばせた。
「エリック!」
古びた羊皮紙の地図と青銅色の絨毯から声の主の皮靴に目を走らせる。
視線を上げていくと考えを廻らしていた相手だった。
「マルクス」
「――――――? エリック」
貴石のペンダントを外しているのでヴァレンディア語は理解できない。唯、エリックと呼びかける名前だけは辛うじて聞き取ることができる。
これはある種の賭けだ。
“You must be understand my language,don't you?”
10年も使っていなかった錆びついた拙い英語でそう質す。
“……Why? I guess so. ……That's impossible!”
やはりマルクスも地球から異世界ハウメアへの迷い人か。
最初からエリカが感じていた違和感の正体はこれだったのだ。時々混じる聞きなれた呟きが英語のそれだと気付くのに若干時間がかかってしまった。
ヴァレンディア語と英語には共通点が多いのがその理由だ。だからまさかとは思ったのだが、エリカはハウメアに来てから初めて“OK”というのを聞いたのだ。それが先程のマルクスの別れ際の言葉。
ジンやエヴァたちは使用しない言葉。それが確信へと変わった瞬間だった。
『やっぱり君は地球から来たの?』
震える声で英語でそう問いかける。
『ああ。もう2年になるよ。まさかエリック、君も?』
マルクスの蜂蜜色の瞳が揺れていた。目に光るものが見える。
――涙。そこにマルクスの2年間の苦しみを見た気がした。どれだけ不安だったことだろう。エリカは森での遭難から魔従キャロのみぃたんやスビアコでジンたちに出会うまでひとりで心細かったことを思い出した。
エリカには守ってくれる人達がいる。でもマルクスには――?
モーリーはどうだろう。彼はマルクスの事情を知っているのだろうか。
『僕はまだ1カ月位だよ。日本から。気が付いたらバスティ山にいたんだ』
エリカはあの時のことをポツリポツリと話した。
気が付いたら見知らぬ森の中にいたこと。魔従キャロのみぃたんとの出会い。不思議な遺跡のこと。ようやくスビアコに辿り着いたことなどを。
エリカの話に真剣に耳を傾けながらも時折マルクスが質問を挿みながら、女性であることや魔法騎士団に入ることなどは伏せたまま大体の事情は説明した。
全て話さなかったのはジンやエヴァたちファミエール家の特殊な事情を考えてのことだ。
『……まさか! だって君はまるでハウメア人そのものじゃないか。ヴァレンディア語も古語だって巧みに操っているし。それに日本人だって? どう見ても君は西洋人じゃないか』
マルクスの言葉にエリカは外套のポケットを探る。
取り出したアメジストのような貴石が淡く輝く。ネックレスのそれを首にかけた。
「これは貴石と言って故人の能力を秘めた石なんだって。だから僕は言葉に不自由はしなかったんだ。それに僕の見た目が日本人らしくないのは元々で……。でもカラーコンタクトを着けてるからなのもあるかも」
貴石を身につけヴァレンディア語で紡いだ言葉にマルクスは苦笑する。
「俺がドレダケ必死にヴァレンディア語を覚えたトオモッテイルンダヨ……。ナンカバカらしくナッテクルな」
それに――とマルクスは話し出した。
「2年間デ24歳ダッタ俺のカラダハどんどんと若返りヲハジメテ……ドウシタラ周りのニンゲンニ不信にオモワレないように生活するか、タイヘンな日々だったよ」
彼の言葉にエリカは絶句した。とても想像出来ないほどマルクスは辛い過程を生き抜いてきたのだ。エリカはとても恵まれていた。彼の言葉からいかに自分が幸せな環境にあるのか再確認することができた。
「エリック、君もカラダは大丈夫ナノカ?」
そう気遣いの言葉をかけてもらいハッと石化からとけた。
「うん。僕はコンパス――遺跡の巨石に触れて一気に若返ったみたいで……。だからマルクスみたいな徐々に変化する苦しみは味わってないんだ。幸運なことに」
どういうことだろうか。徐々に身体が若返りをする?
これは本当に過酷な生活を強いられてきたに違いない。外見が成長しない、むしろ逆に若返ってしまうことを悟られないようにするためには、長く同じ場所に留まることもできなかったのではないか?
そんなことを思い質問した。
「ソウ。言葉もナニモワカラナイ、このセカイのことダッテ習慣もジョウシキもワカラナクテ……ようやく馴染んでキタと思ったらカラダのことで不信を抱かれて。長く同じバショにトドマルことはデキナカッタヨ」
人生に疲れたような悲しみと怒りの混在した静かな言葉は、マルクスの今までの苦労を物語っていた。
「マルクス。……大変だったね。なんて言ったらいいか……ごめん」
「……イインダ。君の性ジャナイのはワカッテルンダ。タダ、今までこのイキドオリを向けるアイテがいなかったカラ……」
マルクスの握った拳が震えている。
エリカはそっと彼の拳を両手で包み込んだ。
“Thanks”
擦れた言葉に彼の俯いた顔を見たが、冷たい雫が手の甲に落ちたのを感じ目を背けた。
誰だって見られたくない時があるものだ。こんな泣き顔、エリカだったら見られたくはない……。