俺は猛然と走っていた。もう日も暮れ、空はこれ以上無い澄み切った夕間暮れの群青色を呈していた。夜が迫ってくる。ところも知らぬ山里を抜け、長い下り道に差し掛かった。カーラジオは地元のFM局にチューンされ、俺の気持ちも知らずにリンディックが妖艶なメロディを奏でている。
夕方からジンバランのビーチで友人達とシーフード・バーベキューパーティの約束をしていたのだが、この様子だと大幅に遅刻することは確実だった。
ずっと北の方まで足を伸ばしたのが災いした。おまけに元来の地図嫌いで、当てずっぽうに車を走らせたのが道に迷ったそもそもの原因だ。
知らない土地に行く際にはそれなりのガイドが必要なのだろうが、折角のバカンス、どうせなら気の向くまま出掛けてみたいじゃないか。少なくとも俺はそんな男だ。でも今となっては泣きたい気分だ。こんな事ならガイドブックでも持ってくれば良かった。
ここはどこだろう、バリ島山中の田舎道には当然街灯など無く、ヘッドライトの先には、ただアスファルトの道が真っ直ぐ伸びるだけだった。すれ違う車など無い。だれか道を歩いてさえ居れば、片言のインドネシア語で道を尋ねる事も出来そうなのだが。
陽気なバリ島のポップスがラジオから流れ始めると、さすがに俺はいたたまれなくなってラジオを消した。暗闇とうなるエンジン音、真っ直ぐに下るばかりの道。闇。闇。闇。
そのうち道はT字路にぶち当たった。ヘッドライトに照らされる行き先表示板。右も左もさっぱりわからない地名だった。
右か、左か・・・
道の真ん中に車を止め、外に出てあたりを見回してみた。森、森、森である。 カエルの声、トッケイの声、いろんな声が姿も見せずあちらこちらから聞こえてくる。
ああ神様、小声でつぶやくと、レンタルしているジム二ーに乗り込み、ままよと右折した。
昔から俺はそうなんだ。
仲間とツーリングに出る際には、大抵俺がパイロットだった。つまり先頭を走る役目である。
パイロットを務めると言う事は、道に精通していなければならない、と言うことだ。そうでなければ後続の仲間達を引き連れて、ぞろぞろと道に迷う事になる。それなりに責任が伴うのだ。
だから大抵の仲間はパイロット役を嫌がった。
やむを得ず毎回俺がパイロット役を引き受けたのだが、先も述べたとおり、俺は地図を見るのが好きではない。だから、大抵の場合、いわゆる「野生の勘」ってヤツで後続の仲間を引っ張る事になる。
そして道に迷い、皆から非難轟々浴び、大通りの真ん中で十数台のバイクがUターンしなければならなくなる。
ある時など、山あいの秘湯と呼ばれる温泉宿に行かなければならないのに、同じ山道を何度も何度も回り、日が暮れて、挙句の果てに方向さえ分からなくなり、結局全員で野宿をしたことすらあった。
本当は俺の様な男は地図を読むところから始めなければいけないのかも知れない。
しかし、だ。地図を読まない事にだってメリットはある。「ハプニングを楽しめる」と言う事だ。残念ながらそれは俺以外のメンバーには殆ど理解されなかったので、俺としては仲間と野宿も楽しかったのだが、彼らは温泉にもありつけない、酒も飲めない、それ以前に飯さえ食えない、と悪い事だらけで、山の中でシュラフにくるまると、皆口々に俺を罵るのだった。
今回は自分で自分を罵った。脳裏に仲間たちの罵詈雑言の数々がよぎる。
もう頭上には手ですくえそうなほどの星が輝いていた。
先程まで下りだったのに、今度はずっと上り坂が続いた。
やばいな、また山に向かっているんじゃないか。同じところをグルグル回る悪夢が再び俺を襲う。このままじゃ待ち合わせにも間に合わず、それどころかバリ島の山の中で野宿になるのだろうかと思うと気が気でなかった。
バリの闇は暗い。これでもか、と言うほどの漆黒の暗闇である。野宿する事など考えるだけでも恐ろしい。一人で闇夜を過ごすなんて真っ平ゴメンだった。
これ以上登りつづけても恐らくデンパサール方面には出ないだろう。そう思って引き返すことにした。やっぱり左だったのか。
少し行った先でUターンすると、俺は反対方向に向かって走った。ヘッドライトに照らされた前方以外は、全く何も見えない暗闇だ。ライトに向かって虫が大量に飛んでくる。
先程のT字路をパスすると、つづら折の下り坂になった。まだ山の中腹なのだ。これで分かった事は、つまり俺はとんでもない田舎に居ると言う事だ。
いつまでも続くつづら折を走っていると、なんだかエンジン音がおかしな感じになってきた。エンジンブレーキのうなる音が、たまにうわんうわんと微妙な低音を発するのだ。
長い下り坂でエンジンブレーキとフットブレーキをハードに使っていたため、どこかに不具合でも生じてしまったのだろうか。こんな何も無い漆黒のジャングルの中で車がエンコするなんてシャレにならないぞ、エンジンがお釈迦になる前に一旦車を止めてクールダウンした方がいいだろう、と、俺は道端に車を寄せた。
イグニッションキーを抜くと、ボンネットを開けようと表に出た。
ヘンだぞ。エンジンは停止している筈なのに、うなりは消えていなかった。低い音で、波が寄せる様な、聞いたこともないうなりだった。
エンジンの異常ではなかったのか?もう一度エンジンを掛け、アイドリングの音をじっくり聞いてみた。
車に異常はない様だ。
このうなりは別のところから聞こえてくるものだ。
そう思うと恐ろしくなってきた。
バリ島にはいまだたくさんの神々と妖怪が存在すると信じられている。暗闇のジャングルの中には女王ランダを始め、たくさんの妖怪たちがうごめいている。
このうなりは妖怪の発する叫びなのだろうか?
恐ろしくて車に飛び乗り、一路つづら折を下った。そりゃあもう無我夢中でなるべく早くこの漆黒の魔界から抜け出そうと車を飛ばしたのだ。
夜中の奇声に関して、こんな話がある。
俺の友人コミンはデンパサールとウブドの中間地点「バトゥブラン」という村に住んでいる。
彼の家は田んぼに面しており、昼間の景色はそれは美しいものだ。川が流れ、田んぼの向こう側には椰子の木の林が生い茂り、スコールの後には木々についた水滴が太陽の光を浴びてキラキラと輝く。
ところがひとたび夜になると、田んぼは漆黒の闇に包まれる。たまに明るいのは月が綺麗に輝く夜だけで、こと新月の晩は鼻をつままれても分からないくらいの暗闇なのだ。
ある晩、コミンが兄の経営するレストランで友人と会っていたとき、彼の携帯が鳴った。相手は彼の奥さんだった。
「どうしたんだ、まだ仕事は終わってないぞ。」
「あなた、帰ってきて。田んぼからヘンな声がするの。何かが叫んでるの!」
何事が起こったのかと車を走らせ我が家に向かった。
するとどうだろう、田んぼの方向から聞いたことも無い不思議な叫び声が聞こえてくるではないか。
その叫び声は一晩中続いたという。
後日、彼の師匠であるヒンドゥのお坊さんに訊いたところ、それは妖怪たちが遊んでいたと言うのだ。妖怪たちもたまには林の闇から出てきて、広い田んぼで遊ぶのだ。
俺もついにバリ島の妖怪の叫びを聞いたのか?
しばらく走っていると、パンジャール(共同体)の入口を示す「割れ門」が見えてきた。カウィ語の表示板の下には「Selamat datang(いらっしゃいませ)」とインドネシア語で書かれている。ああ、よかった、人が居る場所に出た、全くの孤独から開放されたかと思うと、俺は胸をなでおろした。しかし安心するのはまだ早かった。不思議な事に、民家が見える様になっても どの家の灯りもついていない。真っ暗な村だ。まだ夜と言っても9時前のはずだが、人が居る気配を全く感じないのだ。俺はまだ孤独から開放されていないのだろうか?おまけにうなりは更に大きく響いてくる。遠洋から届いた波のうねりの様に、定期的な音の波となって俺の鼓膜を揺さぶった。いや、もはや鼓膜どころではない、体全体に振動が伝わるほどの大きなうねりだった。妖怪たちに誘われるがまま、とんでもないトワイライトゾーンに迷い込んでしまったのだろうか。
俺が「妖怪の叫び」だと思っていたものが判明した。
村も半ばを過ぎた頃、灯りが見えたのだ。それは「バレ・バンジャール(集会所)」だった。
車を止め、入口付近に行くと、おびただしい人数の正装した村人がそこに集まっていた。
うなりの正体はガムランだった。そのガムランの中でも最も大きな楽器「グデ・ゴング」のスーパーウーファーさながらのうなる音だった。
近くに居た若い男性に尋ねてみた。
「これは何をしているのですか?」
「あ?これはな、もうすぐ村対抗のガムラン・コンテストがあるから総出で練習してるんだよ。」なるほど、それで村中の人が出払っていたのだ。道理で人を見かけなかった訳だ。
「すみません、俺、見ての通りのよそ者なんですけど、練習見てて良いですか?」これまで様々なガムランを聞いてきた。しかし、これほど素晴らしいガムランを聞いたのは初めてだった。重いグデ・ゴングはきらびやかな旋律を一まとめにして、黄金の旋律を天上に送り込んでいた。それはまさしく神々に捧げる音楽の花束。
「ああ、いいとも。でもこれは観光用に演奏している訳じゃないから飲み物やお菓子の販売はないよ。」
男はおどけて言った。
彼は俺をバレ・バンジャールの中に案内してくれた。見事なのはガムランだけではなかった。女性達の踊りもまた素晴らしかった。これほど素晴らしい踊りは見たことが無かった。それでも納得のいかない彼ら村人は、確認する様に何度も何度も同じ踊りを繰り返し練習していた。
「バイク・バグース!(素晴らしい!)」思わず口をついて出てしまった。それを聞くと彼は
「だろ?俺たちのガムランがバリでナンバーワンだ。」と誇らしげに言った。
道に迷っている事などすっかり忘れて見入った。
ガムランは空気を揺らす。素晴らしいガムランほど空気を揺らすのだが、この村のガムランは空気が揺れすぎて音の波が眼に見える様だった。
その夜、山の妖怪たちも、このグデ・ゴングのうねりに身をゆだねていたのだろうか。
ガムランに揺さぶられる闇夜の大気を見ただろうか。