2007-05-27 00:05:46

ちんぴら

テーマ:ブログ



夕食を家で食べるのもめんどくさいので、帰宅途中にあるマクドナルドで簡単に済ませる事にした。
喫煙ルームでビッグマックセットを食べていたら、奥の席に座っていたおばあさんと孫の会話が気になった。
耳をダンボにして聞き入った。
おばあさんと思われる女性は、もぐもぐと口を動かしながら、孫と思われる小学三年生くらいの男の子に「欧米か!」と何度も繰り返していた。
孫は「なんだよ糞ババア、同じ事しか言わないじゃん」と毒づいていたが、おばあさんと思われる彼女は全然ひるまず「なんだって?もう一度言ってごらん?」と挑発していた。
「糞ババア」
「欧米か!」
使用方法が違う様な気がしたが、彼女は満足そうに微笑んで、またもぐもぐとハンバーガーを食べるのだ。
すると、おばあさんと思われる彼女は「しかし、あんたの父ちゃんもろくでもない男だったからね、あんただってきっとろくでなしになるよ」と、ろくでもない事を言い放った。
「ろくでもないって?」
「他に女作って逃げちゃうんだもん。そういうのをろくでなしってんだ」
「じゃあ、ちんぴら?」
「そうだね」
ちんぴら扱いしてもいいのだろうか。たとえ今は近くに居なくても、この子にとっては実の父親、悪く言うものではないと思うのだが。
「かっけぇ!」
予想に反して孫と思われる彼は、そんな父を評価した。
「俺もちんぴらになるの?」
「ちんぴらってのは『半端者』って意味だよ。だからあんたはちんぴらになっちゃだめだ」
「えー、でもちんぴらってタトゥ入れてるヤクザなんでしょ?」
「ヤクザとちんぴらを一緒にしちゃいけないよ。こないだ元奥さんを監禁して警察とドンパチやった馬鹿がいたでしょ?あいつ、親分に破門されたんだってよ。破門だよ?かっこ悪いったらありゃしない。ああいうのをちんぴらってんだよ」
「破門されるくらい凄かったんじゃん、かっけぇじゃん」
「あんたはまだ若いからわかんないかも知れないけどね、ヤクザってのは漢なんだ。あいつ、元奥さんに復縁迫ったんだろ?未練ったらしい。そんな女々しい理由でドンパチなんて性根が腐ってんだよ。よくピストル持ってたね」
「父ちゃんはピストル持ってた?」
「しらねぇ」
「父ちゃんは復縁迫らなかったから漢だろ?」
「そうじゃねぇよ馬鹿、逃げっぱなしも五十歩百歩だ」
「俺もピストルほしい」
「漢になったらもらえるよ」
「じゃあ、やっぱりあの人は漢だったんだ。だからピストル持ってたんだよ」
「今時ピストルくらい金出せば誰だって買えるんだ」
「いくらで買える?」
「30万くらいだろ」
「じゃあ、俺に30万円くれよ、漢になるから」
「やるか馬鹿。じゃない、欧米か!」
そして微笑み、もぐもぐとハンバーガーを食べるおばあさん。
「おかあさんのケチ」
おばあさんじゃなくてお母さんだった。
「欧米か!」
「ほらもう『喰いタン2』始まっちゃうから帰ろうよ」






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2007-05-23 17:00:14

セミ

テーマ:ブログ




先入観をなくす事は、暗闇を手探りで進む様で勇気のいる行為かも知れない。
でもそれをやらねば、俺たちの人生をつかさどるタイミングという壁を超える事は出来ない。
やりたい事はやりたい時にするがいいさ。


セミの一生は大半を地下で過ごす。
7年間だ。
セミの幼虫だと言う。
幼虫だと勝手に決め付けているのは人間であって、本当はセミは「地下で生活する生き物」なのかも知れない。
オケラやミミズみたいに地下で生活する生き物なのかも知れない。それはそれなりに幸せな生活なのかも知れない。
夏、地上に這い出てきたセミたちは、喚く様に、うるさいくらいに鳴くが、1週間もすれば地面に腹を見せて転がり、そのうち誰かに踏み潰されて枯葉と見まごう程にからからに乾燥し、羽を残して土に返って行く。
その短い1週間の命をして、人に「もののあはれ」を感じさせるが、チョッと待て
セミは7年も生きる虫の世界の長老なのだ。
哀れでも何でもない。
7年も生きる虫が他に居るか?
生き過ぎる位生きている。生命力のかたまりだ。
セミはセミとして飛び回っているときは、すでに老人なのだ。
老人ながら激しく受精行為をして子供を産む
1週間、喚き、飛び、樹液を吸い、子供を作る。
想像して欲しい、老人達が直管マフラーから爆音を撒き散らし集団暴走行為をする様を。
老人達がイカしたナオンをパーナンしてやりまくる地獄絵図を。
パーティ三昧の老人達。
セミはそれをやっている。
セミに出来て俺に出来ないわけが無い。





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2007-05-23 16:42:53

let`s get lost

テーマ:バリ島



俺は猛然と走っていた。もう日も暮れ、空はこれ以上無い澄み切った夕間暮れの群青色を呈していた。夜が迫ってくる。ところも知らぬ山里を抜け、長い下り道に差し掛かった。カーラジオは地元のFM局にチューンされ、俺の気持ちも知らずにリンディックが妖艶なメロディを奏でている。
夕方からジンバランのビーチで友人達とシーフード・バーベキューパーティの約束をしていたのだが、この様子だと大幅に遅刻することは確実だった。
ずっと北の方まで足を伸ばしたのが災いした。おまけに元来の地図嫌いで、当てずっぽうに車を走らせたのが道に迷ったそもそもの原因だ。
知らない土地に行く際にはそれなりのガイドが必要なのだろうが、折角のバカンス、どうせなら気の向くまま出掛けてみたいじゃないか。少なくとも俺はそんな男だ。でも今となっては泣きたい気分だ。こんな事ならガイドブックでも持ってくれば良かった。
ここはどこだろう、バリ島山中の田舎道には当然街灯など無く、ヘッドライトの先には、ただアスファルトの道が真っ直ぐ伸びるだけだった。すれ違う車など無い。だれか道を歩いてさえ居れば、片言のインドネシア語で道を尋ねる事も出来そうなのだが。
陽気なバリ島のポップスがラジオから流れ始めると、さすがに俺はいたたまれなくなってラジオを消した。暗闇とうなるエンジン音、真っ直ぐに下るばかりの道。闇。闇。闇。
そのうち道はT字路にぶち当たった。ヘッドライトに照らされる行き先表示板。右も左もさっぱりわからない地名だった。
右か、左か・・・
道の真ん中に車を止め、外に出てあたりを見回してみた。森、森、森である。 カエルの声、トッケイの声、いろんな声が姿も見せずあちらこちらから聞こえてくる。
ああ神様、小声でつぶやくと、レンタルしているジム二ーに乗り込み、ままよと右折した。


昔から俺はそうなんだ。
仲間とツーリングに出る際には、大抵俺がパイロットだった。つまり先頭を走る役目である。
パイロットを務めると言う事は、道に精通していなければならない、と言うことだ。そうでなければ後続の仲間達を引き連れて、ぞろぞろと道に迷う事になる。それなりに責任が伴うのだ。
だから大抵の仲間はパイロット役を嫌がった。
やむを得ず毎回俺がパイロット役を引き受けたのだが、先も述べたとおり、俺は地図を見るのが好きではない。だから、大抵の場合、いわゆる「野生の勘」ってヤツで後続の仲間を引っ張る事になる。
そして道に迷い、皆から非難轟々浴び、大通りの真ん中で十数台のバイクがUターンしなければならなくなる。
ある時など、山あいの秘湯と呼ばれる温泉宿に行かなければならないのに、同じ山道を何度も何度も回り、日が暮れて、挙句の果てに方向さえ分からなくなり、結局全員で野宿をしたことすらあった。
本当は俺の様な男は地図を読むところから始めなければいけないのかも知れない。
しかし、だ。地図を読まない事にだってメリットはある。「ハプニングを楽しめる」と言う事だ。残念ながらそれは俺以外のメンバーには殆ど理解されなかったので、俺としては仲間と野宿も楽しかったのだが、彼らは温泉にもありつけない、酒も飲めない、それ以前に飯さえ食えない、と悪い事だらけで、山の中でシュラフにくるまると、皆口々に俺を罵るのだった。


今回は自分で自分を罵った。脳裏に仲間たちの罵詈雑言の数々がよぎる。
もう頭上には手ですくえそうなほどの星が輝いていた。
先程まで下りだったのに、今度はずっと上り坂が続いた。
やばいな、また山に向かっているんじゃないか。同じところをグルグル回る悪夢が再び俺を襲う。このままじゃ待ち合わせにも間に合わず、それどころかバリ島の山の中で野宿になるのだろうかと思うと気が気でなかった。
バリの闇は暗い。これでもか、と言うほどの漆黒の暗闇である。野宿する事など考えるだけでも恐ろしい。一人で闇夜を過ごすなんて真っ平ゴメンだった。
これ以上登りつづけても恐らくデンパサール方面には出ないだろう。そう思って引き返すことにした。やっぱり左だったのか。
少し行った先でUターンすると、俺は反対方向に向かって走った。ヘッドライトに照らされた前方以外は、全く何も見えない暗闇だ。ライトに向かって虫が大量に飛んでくる。
先程のT字路をパスすると、つづら折の下り坂になった。まだ山の中腹なのだ。これで分かった事は、つまり俺はとんでもない田舎に居ると言う事だ。
いつまでも続くつづら折を走っていると、なんだかエンジン音がおかしな感じになってきた。エンジンブレーキのうなる音が、たまにうわんうわんと微妙な低音を発するのだ。
長い下り坂でエンジンブレーキとフットブレーキをハードに使っていたため、どこかに不具合でも生じてしまったのだろうか。こんな何も無い漆黒のジャングルの中で車がエンコするなんてシャレにならないぞ、エンジンがお釈迦になる前に一旦車を止めてクールダウンした方がいいだろう、と、俺は道端に車を寄せた。
イグニッションキーを抜くと、ボンネットを開けようと表に出た。
ヘンだぞ。エンジンは停止している筈なのに、うなりは消えていなかった。低い音で、波が寄せる様な、聞いたこともないうなりだった。
エンジンの異常ではなかったのか?もう一度エンジンを掛け、アイドリングの音をじっくり聞いてみた。
車に異常はない様だ。
このうなりは別のところから聞こえてくるものだ。
そう思うと恐ろしくなってきた。
バリ島にはいまだたくさんの神々と妖怪が存在すると信じられている。暗闇のジャングルの中には女王ランダを始め、たくさんの妖怪たちがうごめいている。
このうなりは妖怪の発する叫びなのだろうか?
恐ろしくて車に飛び乗り、一路つづら折を下った。そりゃあもう無我夢中でなるべく早くこの漆黒の魔界から抜け出そうと車を飛ばしたのだ。


夜中の奇声に関して、こんな話がある。
俺の友人コミンはデンパサールとウブドの中間地点「バトゥブラン」という村に住んでいる。
彼の家は田んぼに面しており、昼間の景色はそれは美しいものだ。川が流れ、田んぼの向こう側には椰子の木の林が生い茂り、スコールの後には木々についた水滴が太陽の光を浴びてキラキラと輝く。
ところがひとたび夜になると、田んぼは漆黒の闇に包まれる。たまに明るいのは月が綺麗に輝く夜だけで、こと新月の晩は鼻をつままれても分からないくらいの暗闇なのだ。
ある晩、コミンが兄の経営するレストランで友人と会っていたとき、彼の携帯が鳴った。相手は彼の奥さんだった。
「どうしたんだ、まだ仕事は終わってないぞ。」
「あなた、帰ってきて。田んぼからヘンな声がするの。何かが叫んでるの!」
何事が起こったのかと車を走らせ我が家に向かった。
するとどうだろう、田んぼの方向から聞いたことも無い不思議な叫び声が聞こえてくるではないか。
その叫び声は一晩中続いたという。
後日、彼の師匠であるヒンドゥのお坊さんに訊いたところ、それは妖怪たちが遊んでいたと言うのだ。妖怪たちもたまには林の闇から出てきて、広い田んぼで遊ぶのだ。


俺もついにバリ島の妖怪の叫びを聞いたのか?
しばらく走っていると、パンジャール(共同体)の入口を示す「割れ門」が見えてきた。カウィ語の表示板の下には「Selamat datang(いらっしゃいませ)」とインドネシア語で書かれている。ああ、よかった、人が居る場所に出た、全くの孤独から開放されたかと思うと、俺は胸をなでおろした。しかし安心するのはまだ早かった。不思議な事に、民家が見える様になっても どの家の灯りもついていない。真っ暗な村だ。まだ夜と言っても9時前のはずだが、人が居る気配を全く感じないのだ。俺はまだ孤独から開放されていないのだろうか?おまけにうなりは更に大きく響いてくる。遠洋から届いた波のうねりの様に、定期的な音の波となって俺の鼓膜を揺さぶった。いや、もはや鼓膜どころではない、体全体に振動が伝わるほどの大きなうねりだった。妖怪たちに誘われるがまま、とんでもないトワイライトゾーンに迷い込んでしまったのだろうか。

俺が「妖怪の叫び」だと思っていたものが判明した。

村も半ばを過ぎた頃、灯りが見えたのだ。それは「バレ・バンジャール(集会所)」だった。

車を止め、入口付近に行くと、おびただしい人数の正装した村人がそこに集まっていた。

うなりの正体はガムランだった。そのガムランの中でも最も大きな楽器「グデ・ゴング」のスーパーウーファーさながらのうなる音だった。

近くに居た若い男性に尋ねてみた。

「これは何をしているのですか?」

「あ?これはな、もうすぐ村対抗のガムラン・コンテストがあるから総出で練習してるんだよ。」なるほど、それで村中の人が出払っていたのだ。道理で人を見かけなかった訳だ。

「すみません、俺、見ての通りのよそ者なんですけど、練習見てて良いですか?」これまで様々なガムランを聞いてきた。しかし、これほど素晴らしいガムランを聞いたのは初めてだった。重いグデ・ゴングはきらびやかな旋律を一まとめにして、黄金の旋律を天上に送り込んでいた。それはまさしく神々に捧げる音楽の花束。

「ああ、いいとも。でもこれは観光用に演奏している訳じゃないから飲み物やお菓子の販売はないよ。」

男はおどけて言った。

彼は俺をバレ・バンジャールの中に案内してくれた。見事なのはガムランだけではなかった。女性達の踊りもまた素晴らしかった。これほど素晴らしい踊りは見たことが無かった。それでも納得のいかない彼ら村人は、確認する様に何度も何度も同じ踊りを繰り返し練習していた。

「バイク・バグース!(素晴らしい!)」思わず口をついて出てしまった。それを聞くと彼は

「だろ?俺たちのガムランがバリでナンバーワンだ。」と誇らしげに言った。

道に迷っている事などすっかり忘れて見入った。

ガムランは空気を揺らす。素晴らしいガムランほど空気を揺らすのだが、この村のガムランは空気が揺れすぎて音の波が眼に見える様だった。

その夜、山の妖怪たちも、このグデ・ゴングのうねりに身をゆだねていたのだろうか。

ガムランに揺さぶられる闇夜の大気を見ただろうか。


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2007-05-23 16:38:38

親子

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バリ島では毎月 満月の晩に盛大なセレモニーが行われる。
天上界の神々が地上に降りていらっしゃる日だ。だから、島の人々は今までの暮らしに感謝し、将来の幸せを祈る。
そこには教義があるわけでもなく、自発的な「心からの祈り」が一晩中捧げられるのだ。島全体が他意の無い祈りに包まれる。
そんな晩は、俺も何となく祈ってみたくなる。何かにとらわれるのではなく、本心からの祈りだ。
どうか、みんな幸せでありますように。
安らかでありますように。
バリ島に行く際はなるべく満月に当たる様に日程を組む。
島全体が「無償の愛」に包まれるのを実感できるからだ。
俺も、彼らと共に寺に赴き、彼らと共に祈る。
頭上の天空には、凛とした輝きの満月。
島全体はおろか、バリ島を中心に、「無償の愛」が全世界に広がるようなイメージに包まれる。








過日の朝、ひところ俺のチャットルームに出入りしていた女の子のお母様から電話があった。家出してしまったというのだ。
それで、思い当たるふしは無いか、情報を聞くために電話したのだと言う。
彼女が俺のチャットルームに出入りする様になったのは、彼女が中学生の頃だった。
パソコンのスピーカーから流れる音楽と音楽の合間に、日々の雑感を語る俺の声を聞きながら、あたかもそこに「なんでも理解してくれる友人」がいるかの如く思っていたらしい。
それは丁度、深夜ラジオを聞きながら勉強した受験生の、あのスタンスだ。そんな俺が、とある事件をきっかけに彼女を遠ざけた。もう来ないで欲しいと伝えた。
彼女は自身がリストカットするライブ映像を参加者のパソコンに流し続けるという事件を起こした。そして他の参加者からお叱りの指摘があったのだ。
「彼女はまだ未成年だし、大人が集まる時間帯のチャットに居てはいけないのではないか」「傍若無人に振舞うのを見るに絶えかねる。教育上よろしくない」と、そんな意見が多数寄せられた。
言われるまでもなく、いつまでも甘い顔をしているわけには行かなくなったので、彼女に理解出来る様に噛み砕いて分かりやすく小言した。
それから彼女は俺のチャットルームに来る事は無くなったのだが、事情通の参加者の話によると、彼女自身のホームページには、俺への罵詈雑言が書き連ねてあったそうだ。
事あるたびに注意して、その都度「はい」といい返事を返してもらったのも、全部「ふり」だったんだ。
そんな事実を知ってから、俺はチョッと悲しくなった。
しかし、いい大人なんだから子供には正しい道を示さなければならない。
これで良かったのだと思った矢先の電話である。



彼女のお母様によると、事の次第はこんな感じだ。
母子二人暮しの母と娘の間には、ある約束が取り交わされていた。
それがどんな約束なのかは知る由も無いが、とにかく、これだけは守って欲しいと云う約束があった。
彼女はそれを、いとも簡単に破ってのけた。
彼女の母は、約束を守れなかった罰として、自宅謹慎するよう言い付けた。
その時はしおらしく謹慎を守ると約束したらしいのだが、母は心配で、仕事の最中にもかかわらず様子を見に戻ってみると、案の定彼女は家に居なかった。

日ごろ気に掛け、動向に注意しているとの話だったが、電話口のお母様の話し振りを聞いていると、どうもこの母にも問題があるのではないか、と云う気がしてならなかった。
語気が荒い、と言うか、娘が失踪しているわけだから語気が荒くなるのも分からぬでもないが、お母様は自身の話しかしない。
自分はどう思っている、とか、自分はこれこれこう言う事をしてきた、とか、つまり一方的に「自分は正しい事をしてきたのに、何故こんな仕打ちを受けなければならないのか」と主張するばかりなのである。
「上の兄弟達と同じ様に育ててきたつもりなんですけどねぇ」と母は言う。同じ様に育ててきた、と言うのは、同じ様に育てれば手の掛からない子に育つ、と思ってのことだろうか。

例え兄弟でも、それぞれに生まれつきの個性がある。
同じ様に育てたところで、1から10まで同じ様に成長するとは限らない。
それよりも、兄弟一人一人がどんな特性を持っているのかを見極める事が大切なのではなかろうか。
兄弟の中の何番目、ではなく、一人一人が、かけがえのない唯一の存在なのだ、と認める事こそ大切なのではなかろうか。
叱りつけるにしても、「お兄ちゃんはそんな事しませんでしたよ!」等の、他の兄弟と比べる言動などはもってのほかである。余計ひねくれてください、と言っているようなものだ。
つまりまあ、お母様の話しぶりを伺っていると、そんな諸々を想像させるのだ。
思惑通り順調に育つ子供なんてこの世に存在しない。皆、何だか分からないまま、この世に生まれ出ちゃったものだから、そりゃ、右に行ったり左に行ったりするさ。
それを頭ごなしに「それは間違いだからやめなさい」と一刀両断に斬って捨てるのは、自然に伸びようとしている健康な樹木に添え木して不自然に真っ直ぐしようとしている様じゃないか。



結局、電話の大筋の内容としては、もう私の手に負えないから、廻りからの情報が欲しい、何か変わった動きがあったら私に知らせて欲しい、という事だった。
お母様は昼間、仕事に出られているので、なかなか彼女の相手をしてあげられないという負い目を抱いている。それでも「私がやらなくちゃ!」という気持ちが強いのは、やはり親だからだ。
ただ、俺はこう思う。
まだ親になった経験がない俺が言うのもおこがましいが、親子の関係は「必死の努力」の上に成り立つものだと云う事を一番に考えるべきじゃないかな。
仕事? 世間体? それがどうした! それよりも重要なのは「必死に愛する」事なんだと。
当然、このお母様だって必死なのだろう。
しかし、「必死のベクトル」が別方向を向いている。
何が何でも「言う事を聞くいい子」になって欲しい、と言うのは一方的な親のエゴなんだ。
「何があっても、お前を愛してやまないんだよ」と云う姿勢に対して「必死」たるべきじゃなかろうか。
親の究極の姿とは「愛の人」である。
子供は、年齢と共にいろんな学習をする。そしていつしか大人になるが、子供時代に大いに学習しなければならないのが「愛する」事なんだと思う。
「愛する」力は、「愛されてこそ」得られる感覚なので、幼少期から親離れまでの間に、これでもか!って程の愛を降り注ぐ事が大事なのだと思う。
そうしているうちに、人間関係とは「愛で支えあって行く」ことを実感し、慈しみの心を大切にする大人に成長するんじゃないかな。
与えてこそ愛されるのが人間関係。それを教えるのは親の勤め。
愛さなければ愛されないのは必然。
どうすれば「愛を感じてもらえるか」が難しい、と云う話を良く耳にするのだが、愛の為に何をすべきかは、それぞれが苦悶しつつ答えを出さなければいけないのだと思う。
それが「必死に愛する」って事じゃないか?

親も人間だから、気持ちが一杯一杯になれば子供と同レベルで内側にあるモヤモヤをぶちまける事だってあるさ。
でも、気をつけて欲しいのは、親が思う以上に、つまらないたった一言で子供は傷つく。
それが全ての悪しきものの始まりになるやも知れない。
もちろん、親だってたった一言で傷つく。でもそれは、最初から分かっていた事じゃないか。それが「親になる」って事なんだと思うよ。
いろんな覚悟の上、親になるんだ。その覚悟がない内に、親になっちゃいけないだろう。
ああ、子供の学校はあるのに、なんで親の学校はないんだろう。
子供に罪は無い。まっさらなカンバスの何所に悪意が隠されていようか。
もしそこに悪意を感じるのなら、それは、親であるあなたが黒い絵の具を塗ったのだ。
そうこうしているうちに、あなたは愛する責任から逸脱し、自分の気持ちに負けてしまう。子供にいろんなものを押し付ける。
そうなれば、子供としては俄然、責任の無い甘やかしてくれる他人の方が居心地が良くなるに決まっている。
きっと例の彼女も、そう言ったいきさつで俺のチャットルームに来たし、家出をしたんだろうなぁ。
チャットルームならまだしも、夜の街にフラフラ出掛け、誰かに誘われるがまま帰らない、となると、どうだろうか。



日常ではついつい忘れがちになってしまうかも知れないが、イマジネーションはとても大切だ。
自分が子供だった頃、何が足りて、何が足りなかったか、良く考えてみよう。
七転八倒の先に、共に夢見る将来があるだろうか。何気ない普段の会話の中に、そんな話をしているだろうか。
親子はそれぞれが別の人生、いずれ自分の手を離れる子供が、どんな環境に溶け込んでゆくのか、それを一緒に語り合うのも楽しい作業じゃないか。
喜びあえる環境が整っていれば、帰ってくる場所はココなんだからね、と笑って子供を見送れるじゃないか。







満月の晩、ことさらこの間の電話の事が気に掛かる。
窓の外には、通り雨で曇った空に、うすぼんやりと月が顔を覗かせている。どうか神様、あの親子が、様々な人たちが、愛の何たるかを理解し、支え合う事が出来ますように。


 

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