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恩師戸田先生に云く『創価学会という会ですが、この会が、二万世帯とか五万世帯ぐらいの
時なら問題ないが、五十万世帯になり、まさに八十万世帯になるというと、いろいろと問題が
出てくる。創価学会を、今日までもってきた私の理由は、宗教で金もうけをしているやつが
世の中にいる。立正佼成会にせよ、霊友会にせよ、宗教で金もうけするなんてこれはもっとも
罪悪であり、インチキだと私は信ずるのだ。こういうインチキ宗教どもを、ひとつ退治して
やろうというのが私の根本精神なのです』と。(昭和32年2月28日 本幹/於:豊島公会堂)
果たして、其のインチキ宗教の教祖様の葬式に、副会長を二人も参加させたるは如何なる事か。
病床に伏す池田太作よ。今こそ其の正義を恩師の前で申してみよ。
加えて恩師が云く『私には、権力もありません。創価学会の会長として皆様に奉ってもらって
みても、生まれをたずねれば漁師の子供です。どこに偉いところがありましょう。創価学会の
会長なんて、なにも偉くはありません。私が偉くないのだから支部長でも、地区部長でも同じく
偉くないと思うのだ。地区部長級などに「先生」というやつがいるのだ。婦人部の常任委員だとか。
なにが「先生」だ。カマボコ屋のおやじが先生、ゲタ屋のおやじが先生になったと言うのだ。
恥ずかしくないかね、どうだ。たとえ、言われても、御本尊様のおかげで言われたのでしょう。
そう思うたら、御本尊様に、涙を流してお礼を申し上げなければならぬと思うのだ』と。(同上)
何とも心打つ指導ではないか。しかし、其の恩師の一弟子と標榜してきた海苔屋の息子・池田
太作は、今や「先生」のみならず「名誉博士」「名誉教授」「名誉市民」などの称号をかき集め、
恩師の指導など疾っくに忘れて、何と己(おのれ)をして『世界桂冠詩人』などと尊称し、恩師が
命よりも大事とされた学会組織を、当に名誉会長という権力を以って、幾百万会員の頂点に君臨
しているのである。もしや恩師であるならば、名誉だ、勲章だ、表彰だと、コンテストではある
まいし、そんなものはきっぱりとお断りになるであろう。弥増して首からメダルをぶら下げて悦に
入る池田太作の脂体などを見たならば、其れこそ烈火の如く御叱りになられる事であろう。
そうとなれば、自称・民衆の王者たる池田太作も、其れこそ生き返った織田信長に太閤秀吉が
怯えるが如く、池田太作も恩師の前にひれ伏すのである。さても、恩師戸田先生は、今もって
富士大石寺の聖地に眠らる。
妙法の 広布の道は遠けれど、共に励まし、共々に往かなむ
応に此の歌こそは、恩師が詠みし歌である。して、此の歌を日淳上人猊下が染筆されし歌碑が、
今以って我が富士大石寺大講堂の正面左側に建てられている。
以って我が旧創価学会青年部は、恩師の御遺詠に示された僧俗和合の精神を厳守し、興門正統・
富士大石寺への赤誠を全うして、今や新興外道教団と化した、池田家創価学会への天誅を下すべく、
日々月々、其の邪義撲滅の為に邁進せんとするものである。
池田太作に云く『アルゼンチンから五月の大十字勲章をもらったが、これで七つ目である。これが
妙法である。信心です。たった五か月の間に三つの勲章をもらった。この三つは三代に通じる。
(会長就任)三十周年に通じるんだ。五か月に世界の勲章を三つももらえる人は、これまで一人も
いなかった。議員でもなんでもない私なのにだ』 (平成2年5月3日 関西記念総会)
哀…。お主は阿呆である。
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