SONYは、ハード、ソフト、コンテンツ、さらにコンテンツを流通させたり、またオンラインでゲームを楽しむプラットフォームを持つ数少ない日本ブランドです。そのSONYが、ハッカー攻撃を受け、1億件超の個人情報が流出したことで苦しんでいます。
この事件が起こる前に、ハッカーグループ『アノニマス』との対立があり、法廷闘争にまで発展し決着したものの、その対立がハッカーからの攻撃につながったとの推測もでています。
今日の日経電子版のゲームジャーナリスト新清士氏による記事で、この事件はSONYとハッカーの文化の対立があり、SONYはハッカーコミュニティーとの付き合いに失敗したとしていますが、おそらくそうなのでしょう。
ソニーが読み違えたハッカー文化 不正侵入招いた対立構図 :日本経済新聞:
しかし、新清士氏がハッカーのコミュニティとしていますが、プレイステーション3(PS3)のセキュリティーを破った米著名ハッカーのジョージ・ホッツ氏の法廷闘争に対して、「自身のサイトで募金を始めたところ、わずか2日間で弁護士費用が十分に集まった」(同記事)ことを考えると、ハッカーのコミュニティというよりは、ハッカーを支持するもっと多くの市民のコミュニティや文化があるということでしょう。
ところで、この事件を知ったときに、3つの出来事を思い出してしてしまいました。ひとつは、記憶にある人も多いと思いますが、SONY「ゲートキーパー事件」です。SONYの社内LANからブログに自社ライバル社製品の誹謗中傷を投稿していたことがIPアドレスから判明し批判が集中しました。
SONYはネットを情報戦の道具として使っていたこと、匿名性を利用して、ライバルにフェアでない誹謗中傷を行っていたことなど、その体質が疑問視されました。この事件をご存じない方は、ゲートキーパー事件の経緯はこちらのブログに詳しいのでご参照ください。
れとろげーむまにあ: SCEの歴史とゲートキーパー事件を振り返る :もうひとつは、ウォークマンAシリーズの発売前に始まった「メカ音痴の女の子のウォークマン体験日記」でした。このブログの主人公が、届いたウォークマンを手にした写真をネットに公開したのですが、写真がタングステンハロゲンランプとスタンドを使って撮られたものだと見破られます。
ネットにSONYのあたかも素人が自発的に書き込んだと演じたブログで情報操作しようとしたことが流れ、また書き込み内容も不自然で、さらにアップルを誹謗中傷するともうけとれる内容もあったため、SONY側の「やらせ」に対して非難が殺到し、いわゆる炎上事件が起こったのです。
ネットのコミュニティを侮ってはいけないのは、普通はプロが見れば嘘だとわかってもそれで終わってしまうのですが、それが情報として広がっていくことです。またネットのコミュニティには、企業側よりも豊富な情報力と高い能力をもった人びともいるという重要なことをSONYは理解していなかったのです。おそらく回線のむこうに生身の人がいることが想像できず、ネットは仮想的な空間だと思い違いをしてしまったのでしょう。
もうひとつの事件は、プレイステーションの誕生と成功に欠かせない人材であり、当時はSCEの社長であった久夛良木健氏が、PSPの設計に問題があったことを指摘された際に、「仕様に合わせて貰うしかない。世界で一番美しい物を作った。著名建築家が書いた図面に対して門の位置がおかしいと難癖をつける人はいない。それと同じこと。」(ウィキペディア)と発言して物議を醸したことがあります。その後に不具合と認め、無償修理になりました。そこにもSONYは最高のものを提供する、消費者はそれで遊んでいればいいのだという奢りがあったのではないかと感じます。
これらの事件に共通して感じられるのは、企業がひとつの人格として、消費者と向き合うのではなく、消費者は受身で企業が提供する製品やサービスをたんに消費する存在に過ぎず、その消費を拡大するためには情報操作をも行なってしまうという文化です。
重要なことは、ブランドはいったん成功すると、もはやそのブランドは企業のものではないということです。ブランドは、企業から消費者のものに移り、むしろ人びとが求めるブランドのミッションに企業は従わなければならないのです。つまり、コミュニティが期待する文化に企業が応えることができるかどうかが問われてきています。「市民企業」という言葉は最近あまり聞かなくなってしまいましたが、今日はますます「市民企業」でなければ消費者と良好な関係は築けなくなっているのだと思います。
コトラーが、ソーシャル・メディア時代の10の新法則を示していますが、その最初の原則
顧客を愛し、競争相手を敬うことが求められているのです。
コトラーのマーケティング3.0 ソーシャル・メディア時代の新法則クチコミを見る人びとは変化が激しく、情報が錯綜する不安な時代のなかで、信頼できる存在、正義や誠意、精神的充足をもとめはじめています。そんな時代に、自社のセキュリティを破ったことに強硬姿勢をとり、ネットのなかに根づいている文化に対立し、企業論理を押し付けたことは、はたして正しかったのかです。
SONYに求められているのは、ブランド・アイデンティティの再構築と、もっとオープンで開かれた企業体質づくりではないかと感じます。でなければSONYのファンを失っていくだけです。この事件が一段落したところで、ぜひそういった企業の文化や体質の改革に取り組んでもらいたいものです。失うにはあまりに惜しい企業でありブランドだからです。