誰も言わないので勇気を出して俺が言おう「福島県人は原発事故人災の加害者だ」

3.11の東日本大震災以後、Twitterではそのときどきの感想を述べてきましたが、あまりにも大きな出来事に語るべき言葉を失っていましたが、震災・原発事故から約二ヶ月、今の思いを書き連ねてみようと思います。

はじめに、今回の震災・津波で被害に遭われた方々、大切な家族や友人を亡くされた方々には、心からお見舞い、お悔やみと申し上げます。

私自身、過去に仕事で7年間仙台に住んでいたことがあります。30歳になる少し前に、今回津波で大きな被害を受けた仙台市若林区にあった当時の勤務先の仙台営業所に赴任し、東北6県・新潟・北海道をテリトリーにして営業のため走り回りました。それまで営業を担当していた名古屋を中心とした東海・北陸地区に比べて格段に弱い経済状況故か、とても売上に苦しんだので、今でもその時代のことは忘れられません。

仙台を離れてからもう15年以上経ち、当時の取引先の方々や、同じ営業所で働いていた同僚の方々との音信も途絶えていたため、安否を確認する術が無く、ただ無事を祈るしか出来ない状況ですが、震災被害に会われた方々が早期に生活再建をされるようエールを送りたいと思います。

当時事務所があった場所:

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地震・津波による被害は天災で、地震大国の日本に住む以上避けられない不運としか言いようがありません。一定の間隔で一定の確率で被害を被る、日本人として生まれ、日本で生き続ける限り、避けようの無い運命のようなものかと思います。しかしながら、今回、大きな問題を引き起こしている原発事故はあくまでも人災です。人類の優れた英知と正しい見識をもってすれば避けられたはずのリスクだと思います。

このことに関して、ずっとモヤモヤしていてスッキリしなかったことに関して、今日、自分なりの結論を書こうと思います。たぶん、多くの人が内心思っていて口に出すのが憚れるので、語られることの無かった結論です。このことを言うと、原発事故被害者に鞭を打つヒトデナシ扱いされそうですが、あえて、勇気を出して言おうと思います。

「福島県人は原発事故人災の加害者だ」

本日、事故を起こした福島第一原子力発電所、半径20キロ圏内の「警戒区域」にある福島県の9市町村で初めてとなる川内村の住民の方々の一時帰宅の報道がされていました。報道の論調は、あくまでもこれらの住民の方々は被害者で、同情されるべき存在です。事故を起こした原子力発電所を運営していた東京電力が加害者で、これらの住民の方々は被害者として語られています。

しかし、果たして、福島の人達は単に原発事故の被害者なのでしょうか?彼らが被害者として扱われている間は、他の原発を受け入れている地域の人達も原発被害者予備軍で同情されるべき存在です。本当にそうゆう一面的な評価だけで良いのでしょうか?

今回の原発事故の後、電力の受益者である東京周辺の人達は、原発を福島に押し付けて自分たちはリスクを回避した後ろめたさからか、福島の人達に対して同情的です。人間の心理作用に照らし合わせれば、これはごく自然な流れだと思います。日本の人口構成比や報道メディアの集積度から考えると世論の多くは東京周辺で形成されるといっても過言ではないので「福島の人=被害者」論は東京周辺の人達の隠れた加害者意識にの裏返しだと思います。

単に、経済的に余裕のある東京周辺の人達が、経済的弱者の福島の人達に(たとえ表面上でも)同情して、なんらかの支援をするという流れは、それはそれで、良いと思います(もともと、原発を福島に押し付けたのも、同じくそうゆう経済力の格差が背景ですから)。ただ、理由の如何は別として、原発を受け入れた地域の人達が、いざ問題が起こったときに被害者のポジションを取れるという状況がある限り、日本から原発は無くならないと思います。

正しい表現かどうか自信がありませんが、原発を受け入れた地域には、補助金・交付金・税金などで巨額の金が落ちます。直接的なものでなくとも、原発そのものに関わる雇用や、周囲の道路整備とか、原発が来ることによって、かなり地元は潤っていると思います。原発を受け入れた地域の人は直接的・間接的にそれらの受益者で原発利権のど真ん中にいるです。

私の仙台時代の短い経験からの印象ですが、原発のある福島・宮城では、他の東北、例えば、青森(当時まだ原発は無かった)・秋田・岩手・山形と比べて、人々には何かしら余裕があって切迫感のようなものは感じられませんでした。道路や街も比較的整備されていて美しい街並でした。逆に言うと、青森・秋田・岩手・山形の人達は、何かしら切迫感があって、街の風景も何かしら寂れた空気を漂わしていました。この印象が全て原発利権の成せる技だとは言いませんが、原発から落ちる金が多少でも地域を潤していたのは間違い無いと思います。

つまり原発を受け入れた地域は、原発を推進した政府や東京電力などの電力会社と一蓮托生です。福島県人はリスクが低いと考えられていたが実は危険な賭けに打って出て、その賭けに破れて大きな損失を生んでしまった、純然たる当事者だと私は思います。一面、被害者であることは間違いありませんが、同時に事故を起こした当事者であり、放射能の悪影響を広く拡散させた加害者です。

電気を使っている人も原発利権の受益者というような言い方をする人もいますが、それは少し違うと思います。現在の方式では電気を買うときに「俺は原発由来の電気は買わない」とか選べませんからね。東京周辺の人達の微かな後ろめたさの背景になっている「電気を使っている人も原発の受益者」という考えはある種植え付けられたもので、そのような考え方にとらわれる必要は無いと思います。むしろ危険な原発を自身の生活圏から遠ざけた東京都民などの見識は妥当だったと評価されて呵るべしだと思います。

福島の方達の中には「俺は原発に反対した」という人も勿論居られると思いますが、民主主義の世の中では、多数意見に従うか、それが嫌ならばその地を離れるしかありません。そうせずして、いざ事が起こったら「私は反対していた」と異論を唱えるのはフェアーではありません。

そうゆう観点からいくと、例えば私のように、地元に原発が無い地域に住んでいる、今回の事故を起こした原発から遠く離れたところに住んでいる者も、たとえ原発推進を唱えてなくとも、たとえ明示的に原発推進の為政者を選択してなくとも、過去の歴史的経緯の中で今の状況を生んでしまった責任は一蓮托生で背負うしか無いと思います。

原発を受け入れた地域の人達は、いざ事が起こったときは第二もしくは第三順位の加害者として非難される立場に立たされる。そうゆう共通認識だったとしたら、今までのような損得勘定で地元へ原発を受け入れることが出来ないと思います。また私のような原発から遠く離れた地域に住む日本国民も、いざ事が起これば事故復旧・周辺住民への補償などのコストを税金などで間接的に負担して痛い目に遭わないと「もう、ほんとに、原発止めとこう」とは思わないと思います。

私は当初は「事故の補償に税金を使ってくれるな!」と思っていましたが、考え方を変えました。なんだかんだ言って、責任の一端はあるので痛み分けはしようがないと、今は考えています。そして、そんな痛みを多少でも感じて、それでもなお「原発OKです!」と言えるかどうかを自分に問うてみるべきだと思います。逆に、福島県人=被害者、東電=加害者、自分には責任無いので税金使うな、そうそう事故なんて起こらないし原発OK、と言う人は責任逃れの卑怯者だと思います。

今回の件で色々見聞きして、フィンランドのオルキルオトに建設中の、原発から出る高レベル放射性廃棄物の最終処分場”オンカロ(隠された場所)”と呼ばれる施設のことについて知りました。固い岩盤を掘削し地下500メートルにまるで地下都市のような巨大な施設を作って高レベル放射性廃棄物が安全な状態になるまで、10万年間保管しようとしているそうです。何万年も後に現在と同じ言語が使われているとは限らないので、未来の人にどうやってその施設の危険性を知らせるかということを真面目に議論しているそうです。

二酸化炭素による地球温暖化に関しては、子孫に現代人のツケをまわすな、という論調に多くの人が賛同しているようですが、その人達は同じ目線で原発のもたらす長期的な影響について考えるべきです。二酸化炭素排出削減=>原発推進という論調は全く合理性を欠いています。

「福島県人は原発事故人災の加害者だ」という題名でこの記事を書き始めましたが、勿論、福島の人達を非難することが目的ではありません。逆に今回の報道で伝えられた「原発のお陰で出稼ぎに行かずに家族で暮らせるようになった」「原発が無くなったら仕事が無くなる」というような福島の人達の生の声を聞いて、原発受け入れを選択しなければならなかった状況には同情の念を禁じ得ません。

しかし、あえてこの題名を使い、いざ事故が起こったとき、また将来の子孫に悪影響を残す、そんな加害者になるつもりなのか、ということを自分自身も含めて問いかけたいと思います。

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