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2006年4月24日 (月)

松永英明さんへインタビュー ②

 :私、松永さんの書いたものより先に、いろんな人の手記を読んだんですよ。そしたら、共通点があって、元々依頼心が強くて、思考を止めて何となく入ってしまったとか、行ってみたら信者さんがみんな優しかったのもあって、説得に応じて入ったとか、そういう人の手記が多かったんですね。でもさっき、そういう人の方が逆に少ないっておっしゃってましたよね?

松永 :自分の心の中で依頼心だとかいうものはあるかもしれない。例えば、マインドコントロールという言葉が使えるイメージの土台にあるのは多分、今までになかった考え方を徹底的に叩き込まれるというイメージだろうと思っていて、でもそういうものでもないんじゃないかっていうね。

 :そういう人が大半だと思ってたんですよ。で、先に手記を読んだので、「やっぱりそうなのか」って感じだったんですよね。その後で松永さんが書いていらっしゃる「半跏思惟」で、子供の頃からの思想を読んで、すごく納得するわけですよ。松永さんは奈良ご出身ということで回りにお寺が多いという環境もあって、仏教にだんだん関心を持っていったという思考は辻褄が合っていて納得する。ただ、私も同じように人として生まれてきて、通っていた幼稚園がお宮という環境はあったけど、全く宗教観を持っていない。自分と比べると松永さんの中に世界観があるっていうのを感じるんですよ。自分には全く持っていないものだと思う。
オウムを脱会した人が書いた手記と松永さんの世界観というのが、全く結びついていかないんですよ。だから、脱会した人のほとんどがマインドコントロールされていて、家族に説得されて気持ちも離れていったっていうのが手記の中にはあるんですけど、松永さんのおっしゃっていることっていうのは理にかなっているというか、何と言えばいいんですかね・・・

松永 :だからマイントコントロールされていたと主張したい脱会者と。私はマインドコントロールされてもないし、それから解けるなんてこともないよ。

佐々木 :逆洗脳みたいなのもあるからねぇ。

松永 :そう。だから、じゃあオウムで洗脳されていたのか、或いはマインドコントロールされていたのかという話になってくるので、そうすると、ひとつのある考え方を一生懸命勉強しましたとか、或いはいわゆる決意という「修行するぞ」というのを唱えてましたというのが、マインドコントロールだっていうんだったら、

R30 :大学でマルクスを勉強するのもマインドコントロールですよね、と(笑)

松永 :そういうことです。

佐々木 :そうですね。

松永 :しかも自分の場合は、新しく学んだことと言うよりは、枠組みなんかは与えられた情報というのもあるけれども、元々持ってた土台をパシパシと整理していったという。オウムに入るところは、エッセイにはあまり書いてないけれども、大学でずっと神話伝説研究会やって、もう頭の中がごっちゃごちゃになるわけですよ。あちこち行ったけど、オウムでそれがパシーっとはまるわけですよ。

 :矛盾を感じることはなかったんですか。修行をしている間とか。

松永 :矛盾というのは?

 :教えに対してもそうだし、いろいろとあると思うんですよね。修行する方法であったりとか。教団としての回りの人の行動とか。教団の中にいて、こういうところがおかしいんじゃないかという矛盾はないんですか。

松永 :教義的にわかんないところがあったら、徹底的に聞きまくれとかいう感じだったし、修行に関しては、とりあえずやってみて体験するしかないと。ある段階まで、そういう体験が起こるまでやらない方が悪いという感じだし。だからそこで矛盾というよりは、実際教団のいろんな人たちが絡んでやっていて、自分含めて何か鈍くさいなっていうのは今に至るまではずっと。

R30 :今、話を聞いていて、松永さんがオウムの教義を聞いて今まで自分の考えていたものが全てきれいに整理されたというのと、だから修行しなきゃいけないというところがどうしてつながるのか。僕にはそれが分からない。どうして世界観が出家、修行というアクションに直結したんですか。

松永 :一つは知識的な問題で、それはずっと言っていたんですけど、大学の4年の頃に就職活動も何もせず、夏頃かな、なんだか急に出家願望みたいなものが出来て、どこか修行できるような場所はないのかなと、鞍馬山に行ってみたりとか、いろいろ。そこで誰に話を聞いていいかわからなくて山を下りて来たんですけど、もしかしたら鞍馬山の坊主になっていたかもしれない。そういう実践するものに興味があったというのは一つ。それは今言ってなかったけど。

R30 :要するに自分の世界観を頭の中にだけ留めておけなくて、それを何らかの形に知行合一させたいというのが、欲しいしあるべきだと思ったのね。

松永 :そう。それは今すぐじゃなくても、定年後かもしれないけどと言いながら、なんですぐに鞍馬山へ行くのか自分でもわかんないけど、思い立ったら即行ってた。どういうことをやるんだろうと。そういうある意味宗教的な生き方に非常に興味もあった。ただ実際にはヨーガとか具体的にどういう方法論かというのは自分としては別で、オウムの場合、ヨーガはハタヨーガから入っていろんな技法があって瞑想があってとか、いろいろあるんだけれども、その辺についてはあまり知識はなかった。ヨーガなんて体かたいしなって思ってて、今はかなりやわらかくなったけど。

R30 :仏教って、元々釈迦が唱えたインドの仏教というのは、僧は木の上で暮らせと。身には必要なものしか纏うなというようなことを言ったというのは、逆に言うと、その生き方を支える社会があの地域にあったからなんですよね。要は木の上に座って、着の身着のままで暮らしている人間に対して、一定の施しをするというそれ以前のヒンズー教の喜捨の考え方があの社会にあって、そのコミュニティに頼りながら、自分たちの考えをもっと深めていけるライフスタイルが、たまたま紀元前何世紀のインドで可能だったから、仏教も可能だったと思うんですよ。松永さんが原始仏教に憧れる気持ちはものすごくよくわかるんですけど、現代日本という社会の状況からして、あの通りにやりたいと言っても実現は難しいよね、というのは考えなかったんですか。

松永 :それをある意味現代的にやろうとしたのがオウムだったという。例えば托鉢をして食っていけるかというと、今の社会でそれは無理だと。午前中だけ食えと言ってもそれは無理だと。そこは信徒からの布施という形、或いは出家する時に今持っている物全部を教団に対して出すことによって、出家という形態を維持する。釈迦の時代は、出家すると言って財産をすするというのは、社会に対してやってたんだみたいな批判はあったわけだけれども、それは修行したい人が修行するためには、そういう形を取らざるを得ないということはあっただろう。それが強制でなければ、例えば私なんか全財産と言ってもほとんどなくて、乗ってたバイクとあと1万円もなかったんじゃないかなぁ。それ出して全てだったという形になってますよね。

佐々木 :でもその一方で、出家する仕組みというのが、オウムだけじゃなくて今までいろんな宗教で、社会と軋轢を起こしてきたという部分があるわけじゃないですか。それって折り合えないんですかね。

R30 :逆にね、そういう出家の生活の仕方というか、教団形態っていうのが、日本の社会の中で、ある意味反発を買うんだと。

松永 :ある意味というか、完全に反発を食らいますよね、それはね。

R30 :っていうところは全然考えなかった?そこの折り合いをつけるかというのは、しょうがないっていうのもあるけれど、ある程度反発するヤツがいるとは考えなかった?いても関係ないやって感じだった?

松永 :だから、宗教的な生き方というか、ある意味社会から外れるという生き方になることはわかってたんで、波野村の問題だとか、私は行ったことがないので実感としてはないけれども、いろいろと反発は食らってる。親子の問題がいろいろと報道されていると認識はしているけれども、自分としては価値観的に、少なくとも家族という枠組みはぶっ壊してという。少なくとも、日本社会みんな壊せって意味じゃなくて、自分のところではそれを壊してしまってというのは、全然違和感がなかったというか、むしろ壊したかったというか。

佐々木 :脱社会というか反社会というか、そうしたことは是認せざるを得ないということですか。

松永 :それはもう最初から説法の中にも出てくる言葉で、反社会というのが、社会に対して攻撃を加えるとかそういう意味ではないけれども、相容れないということは、認識の上で在る。なぜならば、簡単に言うと、仏教的なというかオウム的なというか、共通するところだと思うんですけど、生き方の根本が、煩悩を弱める生き方なんですよね。煩悩というか欲望を抑えるっていう。それによって得られない苦しみを減らすという発想なんだけれども、世の中はいかに欲望を満たしてあげるかということで成り立っている。これだけでもう相容れないわけです。

佐々木 :でも、それは社会生活を営む人間として考えると、かなり茨な道なわけであって、それが結局今のこの様な事態になっているような気も若干はするんですけど、じゃあそれはもう覚悟の上っていうこと?

松永 :だからその当時は、教団がこんなことになるとは思っていないんで。だからそのまま拡大しなくとも、そのまま維持できれば、とりあえず信徒さんに宗教的なサービスを提供し、それでお布施で生活していくという、これはこれで社会が成り立っているという感じになってくるんですけど、それが維持されれば、別に問題はなかったはずなんです。
ところが、事件があって、社会に牙を向くような感じに受け取られているという。

佐々木 :別の宗教団体でパナウェーブってあったじゃないですか。

松永 :ああ、はいはい。白装束の?

佐々木 :アレすごく気持ち悪いと思ったんですけど、映像に対して。松永さんは気持ち悪いと思いますか?(一同笑)

松永 :あの人たちが何考えているのかは、私にはわからない。(一同笑)

佐々木 :いや、だから多分松永さんは教団の中にいるから、オウムがどう見られているかの認識できてないんじゃないかと。多分、一般の人が見るオウムと一般の人が見るパナウェーブって、実はあんまり変わらないんじゃないかなっていう。

松永 :いや多分そうだろうなというのがあって、確かに昔みんな白い服着てやってた頃だと、そういう印象も強いだろうと。お互い白い服だし。色がついてる人もいたけど。

佐々木 :河上イチロー名義で仕事をされていてたのは何年だった?97、8年くらいでしたっけ?

松永 :河上サイトは96年の6月1日から破防法反対のサイトではじまった。

佐々木 :そうですよね。秀逸な文章力と視点で、すごい文章書く人がいるもんだなと、本を2冊買いまして、1冊はどこかに行っちゃって1冊は未だに手元にあるんですけど。後から実はオウムのサマナだとカミングアウトされて、「ああ、そうだったのか」とびっくりしたんですけどね。
今の仕事でもいいんですけど、河上イチローの時は、まだ完全なサマナだったわけでしょう?あの仕事の質と傾向というか意志みたいなものって、オウム真理教というものの何か影響みたいなものってあったんですか。

松永 :あのサイトはもうほとんど自分の趣味と言うか、あとは掲示板に集まった情報が、妙に濃かったんですよね、軍事情報とか。で、それをまとめて載せてあげるとすごく喜ばれて、アクセスが増えてくる。それが面白かったので、いろいろと続いていったと。あとはミーハーでやってるとか、いろいろありますけど。日記で思うことをバっと書いたりとか。
あれも結局は自分の趣味でやってて、アレフになって完全に教団に戻ったという時に、「お前のやってることって宗教的じゃないよな」と言われて、それで止めにしようと思ったら、ネット上で「こいつサマナだー」と騒ぐ人がいたという形で。もうちょっと静かに消えようかと思ったのに、ざっと消さなければいけなくなった。

佐々木 :そうすると、破防法反対から始まる一連の河上イチローという存在は、松永さんの頭脳の中で、オウム真理教信者とは全く切り離した中にあるということですか。

松永 :ただ、やってるのが破防法反対、或いは盗聴法反対というので、そこは情報戦的なところはありましたね、確かに。世論が100%破防法賛成みたいな流れの中だったので、破防法ってものがかけられたらえらいことになるというか、日本自体がそういうものを使ったということになってしまうので、そういう焦りがあったりとか。だからあの時は、結構いわゆる左翼的な発想を身に着けて動いたというのがあるんですよ。

佐々木 :元々左翼じゃないんですか。

松永 :左翼というか、私右にも左にもなれないです。というのは、父方のじいさんはシベリアに抑留されて、「ソ連だけは許さん」と。母方のじいさんは新劇やってまして、終戦の時は共産党員ってことで特高に牢屋にぶち込まれていたんですね。「演劇はロシアだ」と言ってて、その間で育つとどっちも偏れない。

 :濃いですよね、松永さんの幼少時代って割と。エッセイを読んで「濃いな、松永さんの人生」と思ったんですけど。

佐々木 :河上イチロー的なある種新左翼的な発想というのは、あれは手段としてなんですか。

松永 :新左翼なのかどうかよくわからないけど、なんか「何たら反対」みたいなパターンだったら、こうやるんだろうなみたいな感じで、見様見真似でやったという。

佐々木 :戦術的にやったという。

松永 :ええ。よくわからなくて、早稲田の教会で、教会の人も参加している破防法の反対集会があるというので行ってみたら、そこに中核派がいて、みたいな。そこでどうも革マル派に狙われたみたいで、恨まれたというか。それで河上イチローはCIAの手先で、酒鬼薔薇事件の真犯人でとか革マル派の機関誌に書かれたという。不思議な展開になってしまった。

佐々木 :中核派の人たちと話しました?

松永 :中核派の人たちとは、集会の会場とかで、話はしてるわけですよ。

佐々木 :親和性感じました?

松永 :いや、目的が一緒だから一緒にいるなというそれくらいの感じですよ。

佐々木 :同じコミュニティには属してないけれども、

松永 :それはありましたね、それこそ言葉遣いも違うし。あれはあれで一つの宗教だと思ってるんですよ。

佐々木 :『ヴァジラヤーナ・サッチャ』って雑誌、作っていらっしゃったんですよね?

松永 :作ってたというか、ライターとして書いてた。

佐々木 :1号当たりどれくらいの分量を書いてたんですか。かなり?

松永 :例えば特集なんかでも分担して書くわけですけど。

佐々木 :何人ぐらいで書いてたんですか。

松永 :4、5人いましたけどね。

佐々木 :編集はまた別なんでしょ?

松永 :編集長は別です。よく怒られてました。

佐々木 :よくできた、結構いい雑誌だったんですよ。作りとかデザインがちゃんとしてたし。

松永 :デザインはデザインでね

佐々木 :あれは外注してたんですか。

松永 :いや、全部中です。

佐々木 :ぱっと見、そこら辺で売られている雑誌とあまり変わらない。宗教団体の雑誌ってだいたいひっでぇデザインで非常に素人くさいんだけれども、全然そうじゃなくて

松永 :幸福の科学は結構やりますけどね。

佐々木 :ああ、そうですね。一体どこの誰が作ってるんだろうって、当時から不思議に思ってたんですけど。

松永 :自給自足がオウムのモットーみたいなところがあって、市販品を買って来ずにそれを真似して作れみたいな世界なんですよ。

佐々木 :小説の連載とかってあったじゃないですか。あれは誰が

松永 :あれは私です。

佐々木 :あ、やっぱそうだったんだ。アメリカ軍がヘリコプターで毒撒きに来るみたいな話が出てくるでしょ。

松永 :うん、あの時はオウムが毒ガス攻撃を受けているというのが教団内の常識であって、それをアピールする必要があったっていうか。

佐々木 :それまでにも文章はいっぱい書いてたんですか。

松永 :元々は、作家になりたかったんですよね。

佐々木 :それは学生時代から?

松永 :ちっちゃい頃から。本ばっかり読んでたんで、本を読んでたら書きたくなると。大学の頃はほとんど書けなかったんですけど、たまたまスカウトに来た某社のノベルズの担当の人がいて、その人に、1、2年くらい原稿を書いて送っては添削してもらうってことをやってたんですよね。

佐々木 :それは出たんですか。本になったんですか。

松永 :いや、全然。「じゃあそろそろ本にしようか」という時に出家したんです。

佐々木 :じゃ、そこで出家しなければ、今頃ミステリー作家になっていたかも。

松永 :ミステリーというか、ファンタジー系の作家というか。時代ものかなんか、そんなのを書いてたりして。

佐々木 :もったいないと思いませんでした?

松永 :だからそこで私が書こうとしたのは、ファンタジー系というか、魔法が出てきたりとかいろいろする。それかその世界観が、オウムで知った整合性のある世界観と食い違う可能性がある。そうなると書けないや、と。

佐々木 :そのファンタジー小説は、何をベースにしたどこの国の神話というか

松永 :真田十勇士がね、アーサー王の円卓の騎士だという設定なんですよ。

佐々木 :意味がよくわかんない(笑)

松永 :要は、アーサー王の物語ありますよね。それを日本でやってしまおうと。

R30 :ふーん、すごい・・・ハハハ強烈だ

松永 :そう、エクスカリバーは実は、武田が持っていたとかね。それを受け継いだ真田幸村が、みたいな。それで、信貴山の飛ぶ鉢が聖杯で、槍は毘沙門天の槍、これは上杉のところに・・・

R30 :っていうかそれって、結構話題作になったような気がするな。ハハハ

松永 :ただ10冊くらいになりそうな勢いだったのと、今から思うとまだ描写力足りなかったなという。

佐々木 :もう1回書けばいいじゃないですか。

松永 :それはネタ的に面白いかな。

③へ続く

<文責/泉 あい>

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