« サイト運営方針 | トップページ | 松永英明さんへインタビュー ② »

2006年4月24日 (月)

松永英明さんへインタビュー ①

4月14日金曜日午後、都内某所で、元オウム信者であったとカミングアウトされた、ブログ「絵文禄ことのは」の松永英明さんへ4時間に及ぶインタビューを行いました。インタビュアーは、私と、佐々木俊尚さん、R30さん、の3人です。
佐々木俊尚さんとR30さんに同行をお願いした理由は、私がある意味当事者となっている内容ですので、一人でインタビューしたのでは公平さに欠けることと、オウム真理教・アーレフを取材するには私に力量が足りないと判断したからです。
現場の雰囲気をできるだけそのままで伝えるため時系列を変えずに掲載しておりますので、内容が飛んだり、前後したりしておりますが、ご了承ください。

松永さんのインタビュー中に度々感じたのは、「ギャップ」でした。
私の中のイメージのオウム信者と目の前にいる元信者のギャップ。
宗教観を持っている人と持っていない人のギャップ。
オウム真理教またはアーレフという教団を内から見た時と外から見た時のギャップ。

批判されている原因の一つは、オウム真理教が起こした一連の事件について信者たちは本当に反省しているのかという点だと思いますが、一般の人が抱くその様な感情と松永さんの意識には大きなギャップがあると感じました。
松永さんの中には、私が理解しがたい世界観(宗教観)があって、オウムへ入信したのも、その世界観とオウムの教義がピッタリとはまったからという理由からだそうです。当然、入信した当時、教団が一連の事件を起こすなんてことは予期できなかったことで、今でも、自分とは全く別のところで行われていたことだと言います。
松永さんの中で、事件と信仰の折り合いがついていないことは、衝撃的と言っていいと思います。これが、事件直後であるならまだ理解できるのですが、既に地下鉄サリン事件からでさえ11年経っているのですから。
松永さんの持つ世界観の元になるものは、オウムに入信するより以前から既にあったもので、本人の言葉にも、決してマインドコントロールされたのではないとあります。
オウムの問題を考えた時に、「洗脳」だとか「マインドコントロール」だという言葉がよく出てきますが、現実にそれらに該当する信者ばかりであるなら、解決の手段はもっと単純なのだと感じます。しかし、この松永さんのインタビューを読んでいただければわかるように、オウム問題の解決はそんなに単純化できるものではないようです。

松永さんのインタビューを終えて今感じることは、このインタビューだけでは終ってはいけないということ。このインタビューの内容を、オウムに詳しい客観的な立場の人にぶつけて意見をもらう必要があるということ。
オウム事件の被害者の気持ちと脱会者の気持ちを見てきた方へ取材をしようと考えています。
立場の違う2つの意見を踏まえることで、はじめて今回の事件を私なりに総括した記事にまとめることができると考えています。




松永英明さんプロフィール
屋号「ことのは編集室」を冠するライター。 1969年生まれ。関西生まれ関西育ち、現在は東京都区内在住。 大学中退後、ライターとして歴史・ビジネス・健康法・自己啓発など幅広いジャンルで執筆活動を行なう。インタビューから調査研究、書籍企画プランニングなど執筆全般をこなす。  2003年秋に独立、「ことのは編集室」を立ち上げ、同時にウェブサイトを公開。「絵文録(ウェブログ)ことのは」「はじめてのウェブログ」「土佐日記ブログ」「女子十二楽坊資料館」など、公開したサイトはいずれも大きな注目を集めている。日本のブログ大賞「Blog of the Yeah! 2003」でベストアーティクル部門第3位を受賞。アルファブロガーということになっている。2006年3月、元オウム信者であったこと、河上イチローとして活動していたとカミングアウトする。(参考:ことのは編集室)

佐々木俊尚さんプロフィール
1961年、兵庫県西脇市生まれ。早稲田大政経学部政治学科中退。
1988年、毎日新聞社入社。
岐阜支局、中部報道部を経て東京本社社会部。
1995年から1997年まで警視庁捜査一課を担当し、オウム真理教事件取材に関わる。
1999年10月、アスキーに移籍。月刊アスキー編集部などを経て2003年2月に退社。
現在フリージャーナリストとして、週刊誌や月刊誌などで活動中。
杉並区住基ネット調査会議委員。情報ネットワーク法学会員。(本人HPより引用)

R30さんプロフィール
「R30::マーケティグ社会時評」管理人。
1972年、兵庫県生まれ。
ビジネス誌の記者を経て、現在は教育系の企業に勤務。
R30というペンネームは、自分が30代になったということもあり、
リクルートのフリーペーパー「R25」をもじってつけた。
TBSの番組とは関係ない。(書籍「アルファブロガー」より引用)


以下インタビュー(敬称略)
※ 話し言葉そのままでは理解しづらく誤解を招く可能性がありますので、読みやすいように編集して掲載しています。



佐々木 :先に核心の話で、現在起きている問題の話を先に聞いちゃおうかなと。
90年代新聞社でオウム真理教の取材をずっとしていたので、ちょっとヒトゴトではない気がするもんですから、聞きたいことはたくさんあるんですよ。
単刀直入に個人的な意見を言うと、松永さんはかつてオウム信者であったということを表にしない状態で民主党の懇談会に出たということを批判している人はたくさんいる。でも、僕個人的には、事件の加害者として訴追されているとか、そういうことであればともかく、一出家信者として活動していたこと、しかも今は事実上教団にいないっていう段階で、それをわざわざ公にする義務があったのかどうかはかなり疑問を抱いていて、それは憲法に書かれている信教の自由の侵害じゃないかという意識がすごくあるんですよ。そういうことをあまり言うと叱られそうな気がするんですけど、それについてどうお考えなのか、そこら辺から。

松永 :多分それが教団の意図であったのではないかと言われているのであって、おそらく信教の自由のところまではみんな思いが至ってないと思うんですよ。
少なくとも自分で言うことだからというのはあるけれども、私はあくまでも個人的興味と関心。別に政治に食い込もうって話じゃなくて、聞きたいことを聞きに行って伝えるというブロガー的意識で行きました。だから教団とは関係ないです。教団からすれば逆に「そんなものになんか行くな」って話。だから私としては、教団と政党を結びつけようだとか、政界に食い込もうだとか、いわゆる危険視される要素というのは、全く思いつきはしなかったので、好奇心で動いたことが取り沙汰されることを想定できなかったのかと言うと、「全然想定もしてませんでした。まぬけでした」と言うしかないんです。

佐々木 :そういう批判は一理ぐらいはあると思いますか。

松永 :本当に教団の方針として、「政党に食い込め」或いは「国会議員と仲良くなってオウム新法を取り下げさせろ」という目的があったんだったら、……あれ? それはある意味正しいやり方だったんじゃないかと。(一同笑)教団としては、民主主義にのっとってきちっと筋を通せるという気がするので。それで「こいつを刺して来い」というなら話は別だけど、そういうことを言うわけはないので。

佐々木 :でもそれがもし教団の方針があってそれに体現して松永さんが動いているというのが本当であれば、その批判の正当性があるとおっしゃるということになりますね。ロジックの話になっちゃうんですけど、「松永さんはオウムではありません」ということを証明しないといけなくなっちゃいませんか。

松永 :だからもう一つは、実際のところ民主党に出た時は教団の中にいました。自民党の時はもうきちっと抜けていました。そうなった時に、例えば教団の信者には個人的判断による個人的行動は有り得ないのかという話になりますよね。つまり、信者である時に動いたものは、全て教団からの指示で動いているに違いないという予断があって、全てにそれが言われていると思うんですけど、信者に個人的行動が有り得ないのかと。
例えば、靖国参拝は常に公務なのか、そういう話ですよね。公用車を使わず自分の足で歩いて行って、肩書きも何も書かず「首相」と書かずに、閣僚も誰も連れて行かずに家族を連れて行って普通に参拝します。これは、首相としての行動なのかというのと同じで。
だから、例えば政党に近づこうとしたっていうのは、それ自体も普通の民主社会の範囲内の行動だろうし。もしだめだというのであっても、実際のところ、そこで聞いたことをそのまま伝えましょうと個人的行動としてやったこと。懇談会での内容を意図的に私が編集しましたってことはないはずなんですね。私が書いたエントリーの中で「あの時あんなことは言ってない」とか「そこを強調するのはおかしい」という話はないはずなので。

 :そもそも個人的な行動というのは、信者であっても全くの自由なんですか。

松永 :真面目な人は、戒律の範囲内で動くだとか、いちいち「どこそこへ行って来ます」と許可をもらってから動くんでしょうけど、私みたいに不良なヤツは、結構黙認されていたという部分もあって。

 :割と自由と言っていいでしょうか。

松永 :割とというか、もう全て。私は完全に自由に動いていたので、夜、寝に帰るだけは戻るという世界だと。

 :一応門限とかもあるんですか。

松永 :門限はねぇ、終電までには帰るっていう感じ。だから「夜は居ろ」っていうのがあったけれども、たまに帰れなくなって「あれー」っていう感じ。

 :修行とかは?

松永 :それは普通はやらないといけない。

 :いけないんですか。

松永 :いけないというか、義務というわけじゃなくて、「修行者なのだから一日何時間くらいはやりましょう」みたいな空気があって、一日の修行報告というのもあるけど、私は全然やってなかったし。そういう意味では、「どこがサマナやねん」っていう生活をしていました。だから烏山の屋根の下に住んでいますということ以外は、全然サマナじゃない。

 :さっき教団の意図という話がありましたけど、そもそも今、教団が存続している意義っていうのは何なのですか。

松永 :宗教的に言えば、修行するのは集団の方がやりやすいというのがどうしてもあるわけ。例えば、修行をやっていくと意識的に突っ込んでいく場合がある。深いところに突っ込んで行った場合に、例えば先輩から「そういう時はこうしたらいいよ」というアドバイスがあるとかいう様な点から、ある程度の集団で修行できる環境が重視されているというのは実際ある。

 :人数が多ければ多いほどいいってことですか。

松永 :限界があるので、1000人が1フロアで修行するわけにはいかないと思うけど、教団という枠組みの中で、「何時にはみんな集まって修行しましょう」というと、やりやすいということはありますよね。ただ、その辺が最近はかなり崩れてきている。

佐々木 :ある種、内向きのサークルなわけですよね。一緒に修行するための場を提供し、お互いのコミュニティとして修行がやりやすいという。教団の外向きの意志みたいのはあるんですか。教団として、例えば社会にどうコミットして行くのかとか、政治にどう参加していくのかっていう。

松永 :そこが今、教団内の分裂問題の一番の鍵なんですよ。とにかく布教をやりたい、或いは将来的には世界宗教というところまで目指したいというのが、代表派なんです。
実は、A派M派というのは代表派のプロパガンダですので。MとかJとかってのと、もう一つAというのが対比されて、代表派としてはAから「アーチャリー」を引き出して印象をつけようとしてマスコミにも流しているのだけれども、実際の派閥は「代表派」と「それ以外」なのね、簡単に言うと。
「それ以外」が大半を占めるので、ややこしいことに代表派が異端ということになる。人数的にもそういう比率なので実際そうなんです。
で、代表派は、布教したい人たち、或いは世界宗教を目指したいっていう。代表自体も、いろいろと政治的な・・・ま、できるものなら出たいみたいな、っていうところはあると。

佐々木 :それは代表派以外の人は派閥になっていないということなんですか。

松永 :というか、みんなバラバラなんです。いわゆる正悟師が、全部バラバラ。

佐々木 :教団全体として、何かの意志を外へ向かってアピールしていこうという姿勢にはなってないんですか。

松永 :その体力もないんです。今はもう収入状況が毎月赤字なんです。資産を食い尽くしつつある。一時期までは、収入も多く支出も多くという状態で、だんだんじり貧になっていて、何とか節約して凌いでいたのが、それも収入の限界が来て、今は赤。今年の内にやばいことになるでしょう。

佐々木 :家賃とか払えなくなるとか?

松永 :完全にもう何も無い。だから、そういう状況で「じゃあ何か新しいことをやりましょう」って言ってもそんな体力はないわけですよ。一円起業ってのがあるから、物理的にそれは不可能じゃないとしても。

佐々木 :今まで教団を離れた人がいっぱいいるわけですよね。みんなどうしてるんですか。

松永 :一番わかりやすいのは、実家に戻るっていう。或いは、それぞれに生活しているという感じですけどね。例えば何人かでまとまって脱会して仕事してたら、元オウムのグループだということがわかって、その仕事がなくなるとか、そういう話はたまに聞きますよ。

 :脱会したから社会復帰できるとか、問題全てが解決したってことにはならないですよね。

松永 :ならない。

佐々木 :脱会と信仰は別なのですか。

松永 :その辺はどうなるんでしょうね。

佐々木 :人による?

松永 :人によるというか、例えばケロヨンクラブなんてのは、だんだんおかしな方向に行ったとは言え、「今の教団の状態ではだめだ、私が教祖だ」と言い出した人がいて、そこに人が集まったって感じだし。
実際おそらく近い内に、上祐派は分裂するでしょう。うん、抜けていくでしょう。それが例えば脱会という形になったとしても、それは別の形の宗教を目指すという感じなので。
例えばオウムをやめて、テーラヴァーダ協会へ行っている人達だとか、或いはチベット仏教に行ってるとか、自分でヨーガ教室を開いているとか、いろんな人がいますよね。完全に宗教から離れている人もいるだろうし、或いは宗教的なところででもオウムじゃないものをやっている人もいるだろうし。或いは自分なりの信仰をやっている人もいるだろうし、そこは様々でしょうね。

佐々木 :傾向としては、教団から離れたから即、即物的な人生になるというわけではなくて、やはりスピリチュアルなものを大事にという人が多い・・・

松永 :これは後でR30さんとの話で絡んでくるかなと思っているんですけど、つまり全然興味がないのに説得されてマインドコントロールされて入りましたという人たちは、実際のところほとんどいなくて、元々入る前から興味があって、話を聞いて面白いなというので入ってきた人が多い。何か強引な勧誘を受けて入りましたというよりは、元々興味を持っていた人たちの方が多いわけですよね。だから、私の場合でも元々持っていた宗教観と合うところ、或いはわからないところ、後は全然知らなかった密教なんかもあるけれど、それぞれ説明がつくところがあって、「じゃあ教団を抜けてどこまで捨てたら捨てたことになるの?」みたいなね。その辺は、自分の全ての思考回路というか世界観まで捨てないといけないということになるわけで・・・。

佐々木 :そうすると、聖なるもの、スピリチュアルなものに対して、より親和性の高い松永さんっていう普通の人がいる。松永さんが翻訳された本を2冊買って読んだんですけど、あなたの中では、あれらの本の内容とオウム真理教とは同じフラットな平面上に見えている感じなんですか。

松永 :そうですね。

佐々木 :別にオウムだけが特別かどうかっていうことではなくて?

松永 :例えば、翻訳したジェームズ・アレンっていうのは、オウムの教義から言えば、あんなレベルじゃ物足りないっていう話にはなるわけですよ、結局。
ただ、オウムの教義の範囲が危険なのかと言うとそういうわけじゃない。或いはオウムの教義から翻訳したものへ何かを引っ張ってくるのかって言うと、例えば密教ヴァジラヤーナとか五仏の法則とかを引っ張ろうというのは、よっぽどの飛躍があるわけですよ。翻訳した本では段階的に言えば逆のことを言ってるというかね。
オウムの教義っていうのは、全ての宗教をひとつの体系で説明するっていう特徴があると思ってるんですよね。ひとつの枠組みで。その枠組みというのは、仏教の世界観の中に全てを説明する。キリスト教もそうだしイスラム教もそうだし、或いは仙道もそうだし道教そうだし儒教もそうです、と。この枠組みというのは、私が前から持っていたものではないけれど。
大学の時にサークルで、神話伝説研究会ってのをやってまして、それの会長までやってたんですけど、元々いろんな神話だとか宗教の世界観だとかを知ってはいたわけですよ。
ところが、それがオウムの説明で全部ピターっとはまってしまった。だから、「何で入ったの?」って言ったら「これはすごいわ」と。もうひとつは、やっている人たちがヨーガ的な修行だとか、体験して物を言っている。それで、もうこれはすごいなと思ってはじめた。

佐々木 :さっき、アレンから見るとかなり飛躍があるとおっしゃったけど、同じ直線上には?

松永 :直線上というか、オウムの教義には大きな世界観の枠組みがあって、その中で例えばアレンはこの部分を言ってます。(目の前の空間に図を描きながら)例えば、仏教の枠組みは最後はここですとか、ここに行くための一つの道筋としてこういう技法があります、こういうやり方があります。キリスト教はここからここまでに行く話をしてます、と。アレンの場合は、カルマの法則というものを取り入れて、ちょっと仏教的なのがかかってこの辺です、みたいなね。なんかそういう形で認識があるので、だから一直線を引いて「ここ」「ここ」って言うよりは、もうちょっと平面的な。

佐々木 :大統合理論みたいな?

松永 :まあそういう。

佐々木 :統合されたオウムの理論、要するにさっきおっしゃっていた全ての説明はピタリとオウムの説明にはまっている。松永さんの認識としてですよ、その延長線上にああいう殺人事件を起こすっていうようなことってのは、必然なのか何なのか。どういう風にそこは捉えていらっしゃいますか。

松永 :先ず、あの事件そのものが、宗教的意図によって起こったものなのかどうかというところは、ちょっと疑問があるんですよね。純粋に宗教的なもので来てるのかどうかというと、例えばサリン事件にしても、あれは強制捜査を遅らせるためだという説明になってますよね。となると、そこに宗教性はないですよね。
宗教的意図でなされたものではない。大きい意味では、教団を守るとかそういうことになるんでしょうけど、単純に考えりゃ、余計に強制捜査招きそうなものなので、ようわからんのですけど。

佐々木 :ただ、ポアすることによってその人を何て言うんでしたっけ、解脱させるじゃなくて。

松永 :ポアっていうのは殺すんじゃなくて、生きてても死んでてもいいんですけど、ある意識を幾つか高い世界に移し変えるっていう定義なんですよね。

佐々木 :それを人為的に起こしたわけですよね、あの事件っていうのは。

松永 :なのかどうかは私にはわかんないです。つまり、ポアを目的としてやったのかと言うと、それが強制捜査を遅らせるためであれば、それは違う話になるので。

佐々木 :要するに、ポア云々っていうのは後付みたいなものだろうかという。

松永 :或いは事件によって亡くなった方の魂があった時に、それをポアしましたってことは有り得ると思うけれども、ポアするためにそういうことをやるっていうことは考えにくい。

佐々木 :少なくとも松永さんが学んだオウムの教義というものにそういう発想はないということですよね。

松永 :更に、ポアというものをできる人は、滅多なことではない。存在しない。
いわゆる危険な教義と言われているのは、「ヴァジラヤーナ」の中の「五仏の法則」という部分なんですよね。五仏の法則というのは、例えば悪業を積み続ける魂が居れば、そこで殺してそれ以上悪業を積ませない方がいいだとか、或いは、財産に対する執着があまりにも強い場合には、その財産を盗めとか、密教の経典の中に書かれている内容なんですけど。ただ、それは私たちが実践する内容として教わっていたわけじゃないんですよね。経典には、そういうことも書かれているが、これは神々の法則であり、お前らできるわけないだろう、と。つまり、例えばこの魂は悪業を積んでいるから殺すと言った時に、その魂に対する害をなそうという想いだとか、或いは殺すことによる、例えばちょっとでもよろこびがあるとか、そういう想いがあれば終わりなんですよ。つまり、心に於いては完全に慈愛でなければならない。肉体的に殺すというカルマを積むかもしれないけど、心に於いても意識に於いても、完全にその魂に対する慈愛に満ち溢れていなければならないと。「それは、君たちには無理でしょう」という話なんですよね。だから、そんなものできないよねっていう。

佐々木 :それは要するに極めて高度な。

松永 :あまりにも高度で、神々の世界の法則であって、人間の世界の法則ではないとされているんですよ。「じゃあ、五仏の法則を今日からやりましょう」ってことになったら、教団の中でみんなおかしくなりますから。だからそういうことをやるヤツは逆にバカだと。それは知識としてそういう経典の記載があるよという話は解説にあったわけですよね。

佐々木 :今おっしゃる話はすごく理にかなっているというか、すごくよくわかるんですけど、外部から見ると、95年の事件の罪を負っていかなきゃいけない団体っていう風に見られているわけで、そうするとそこで内部に於いて一つの統一された教義を持っている我々っていうのと、外から見られているオウムっていうのにものすごいギャップがあるわけじゃないですか。

松永 :そうですね。

佐々木 :そうすると、そのギャップをどうやって解消・・・解消できないのかもしれないけど、どうやってバランスを取るんですか。

松永 :もうね、何ていうのかな

R30 :「こっちが聞きたい」ですよね。

松永 :ギャップあり過ぎみたいな。もう諦めるしかないっていうのかな。外から見りゃ殺人集団で、今でも何か企んでるみたいに「きっこの日記」でも書いてましたけど、今でも人を殺そうと思ってるみたいな。でも、教団内にはそんなヤツは誰もおらんっていうね。「もう警察なんか厄介になりたかなんかねーよ」と。「もうおとなしくしてるから勘弁してください」というか、そういう状態で、だからみんな理解されてないっていう意識はありますよ。

佐々木 :もちろん今現在はそういう事件を起こさないだろう。それはわかるんですけど、過去にそういう事件を起こして、それはもちろん一部の信者がやったこととは言え、尊師が関与していたっていうのは間違いないわけだし、そうなると教団のコミュニティとしての責任なり罪っていうのはやっぱりあるわけで、それについてどう自分たちで咀嚼しているのかっていうところをお聞きしたいんですよ。

松永 :だからその辺が1999年までは全く認めないという方向で行ってたわけですよね。その前後に内部にもいろいろ議論があって、少なくとも団体の中の構成員が事件に関与したことは認めないといけないだろうし、そこで賠償を支払っていくということも決まったわけですよね、2000年にアレフになった段階で。

佐々木 :松永さん個人としてはどうなんですか。

松永 :私としては、教団に属している間は、例えば自分が稼いで来て納めたとしたら、その一部が賠償支払いに回っているわけですよね、実際。「払ってない」と言う人もいるけど、実は払っていると。まぁ、最近はあまり払う金もないって感じですよね。それに関しては、実際苦しんでいる人たちがいるのだから、そこで何らかのことができるとしたら、少なくともお金を払うっていうことができる間は、そういう形で苦しみを和らげてもらえるのであればという、そういう意識はありますよね。

佐々木 :個人として贖罪意識っていうのはありますか。

松永 :ピンと来ないってところはあるんですよね。あそこのサイト(「オウム・アレフ(アーレフ)の物語」)にもサリン事件の日の話を書きましたけど、まるっきり別のところで起こっているというか、例えば日本の中で誰かが犯罪を犯しましたと言ってもピンと来ないっていう。たまたまそれが知ってる人でした。或いは同じ教団の内部で、或いはある程度の人数が固まってそういう動きをしてましたというと「ええ、そんなことしてたの?」みたいなところはやっぱりありますよね。

佐々木 :その辺の松永さん個人の意識と、他人が期待している贖罪意識のズレが今回の事件を招いたと思いませんか。

松永 :それはあるんだと思いますよ。だからそこで「申し訳ございません」と言う形で出すくらい要領が良きゃいいんだけど、ただ本当にピンと来てないってのが正直なところで、逆に謝る方が不誠実だという意識もあるんですよね。だから、そこで非難を受けるというか、納得されないだろうっていうのは、それはそうなんだけどというか。それについては予測はしていたけれども。
だから例えば、「私は被害に遭いました」と、「あの時地下鉄に乗っていました」と、「病院通っていました」という人から「お前殴らせろ」と言われたら、それはわかりやすいんですよ、逆に。「わかりました、殴ってください」と、それでいいんだけれども。友達がひどい目に遭ったとか言う人はまだいいとして、あまり関係がない人、その時期に日本に生きてましたというだけの人たちが一緒に、なんかいろいろ「謝罪が足りない」とか言ってくるのは、本当にピンと来ないっていうのはあるんですよね。そういうことを言うとまた怒られるんだけど。

佐々木 :個人的には「今までオウムのことなんて意識になかっただろうに、なんで急に言い出すんだよ」って感じは確かにありますね。でもそこってインターネットらしいコミュニケーションのエッジに非常にピュアになっているような感じがありますよね。

松永 :それはあるでしょうね。本音を出しやすいメディアだということがあって。多分思っていても言わない人って結構いると思いますけど。

R30 :僕が今日松永さんに本当に聞きたいこと、核心に於いて一つだけはっきりさせとかなきゃいけないなって思うのは、「宗教で何かができるのか、それともできないのか」という部分、それを松永さん自身が、この10年間を経た中で、どういう風に総括しているのかということです。今日の段階で、これをうまく言い表すのってすごく難しいかもしれないと思うんですけど、こういう記録にまとめておくのは重要かなと思う。言葉に出すことによって人間って自分に初めて客観的になれるから。どうなんでしょう、それって。宗教で何かができる、できないってどう考えてます?

松永:何かってのが、どの範囲までを指すのかってのがある。例えば個人を変えていくという範囲だったら、これは間違いなく変えるでしょう。じゃあそれが社会だとか国だとか世界だとか、そこまで変えるのかというと、それは今まである政治形態だとか社会の構造だとか、そういうものとバッティングする場合だって有り得る。ていうか、正にバッティングするわけで、そこで受け入れられるのか受け入れられないのか。例えば、キリスト教みたいに国教になっていくという道だってあるわけだし、今ヨーロッパではキリスト教徒でなければ人でないみたいな、それぐらいの話になってくるという形で、それは宗教が何事かを成した結果だと思う。それが元々のイエスの教えと合っているかどうかは別にしてね。或いは、仏教でも仏教国みたいな。日本でも仏教ってものがあって、天皇がそれに基づいて大仏を作ってしまうことも有り得る。
ただ、今の個別のこの宗教がと言った時に、そこまで行く力があるかどうかというところまではわかんない。今だと創価学会が与党に入っているという意味では、憲法の条文を変えさせないとか変えるとかいうところに影響力を持ってるわけで、それは何事かを成しているかと言えば成している。ただ、それは純粋に宗教的な力なのかと言ったら、それはわかんない。人の数の力かもしれないし、それは。

R30 :そういうものを成したくて宗教を信じるんだったら、それこそ創価に行きゃいいんだよね。(一同ちょっと笑)そう思います。だから、松永さんが創価に行ってないということは、別にそういうものを求めて何かをやろうとしているわけじゃないということだと思うんだけど、それって一体、じゃあ何なんですか。松永さんにとって宗教って何なんですか。

松永 :私にとって宗教っていうのは、簡単に言うと世界観なんですよね。どういう世界観を左右するかっていう。で、その世界観というものは、それに基づいて生き方も決まるわけで、例えば輪廻転生があるないってそれだけで生き方が変わるわけでしょ。死んで次転生する時に、今まで成したことの蓄積によって生まれる先が決まりますよという仏教的な考え方と、或いは死んだら終わり、土に帰るだけだという人だと、もうコレ生き方変わるでしょ。実際、遊ぶ時は遊ぶだろうし、いろいろあるけれども、でもどういう行動を取るか、細かいところでやっぱり影響が出てくる。
そういう意味では、自分にとって宗教的なものっていうのは世界観であって、生き方に通じる部分があって。それはかなり影響というものはある。そういう意味では、無宗教だという人も一つの宗教だと思っている。

R30 :世界観を持ってどうするんですか。

松永 :その世界観によって、例えばご先祖様が自分を見守ってくれていると信じている人たちがいるでしょう?日本教の人はだいたいそうだったりするけれど、そういう人達はお墓参りを欠かさない。ところが、純粋に仏教的に考えて、四十九日の内にどこかに生まれ変わっていると、それ以降はお墓参りに行っても、そこはもぬけの殻だぞみたいに考える人だと、お墓参りに行くと言っても意味が変わってくるでしょう?
そういう意味で世界観というのはあるんじゃないかと。或いは「お盆の時期にはお墓参りをしましょう」というけど、なんでするのかはわかってない。死んだら土になると思っているのになぜか帰省するための口実になってるみたいな。だから、そこで捉え方が全部変わってくるわけでしょう?

R30 :松永さん自身はお墓参りするの?しないの?

松永 :ここんとこ全然してないですけどね。

R30 :それは四十九日になったら、魂は転生してるからというのを信じているから?

松永 :それもある。あんまり意味を感じないっていうのと、あんまり親が好きではないっていう。

R30 :なるほどね。僕なんかは別にお墓参りなんてみんながしてるからすればいいんじゃないのっていう感覚なんですよ。自分も別にそんなにムキになって何かをしようとは思わないけど、他人がする時にはすればいいやっていう程度。

松永 :だから、例えばそこでお墓参りしないと祟りがあるわよって占い師に言われたと言って、とにかく熱心に本当に心を込めてお墓参りをする人達だっているわけですよね。だからそこで変わってくるって話。

R30 :他人にお墓参りをしないと祟られるわよと言われてお墓参りを必死にするような人たちの生き方、そういうのから自由になりたいと思って宗教を世界観に採用しているって感じなの?

松永 :というか、例えばそういう世界観だって有り得るわけだけれども、私の世界観的には、それは採用しないということ。そういう風に言っている人達というのは、多分何か別のものを見てるね、みたいな。そういう意識でいるんで。

R.30 :じゃ、松永さんは何を見てるの?何を見ようとしてるんですか。

松永 :仏教的に言うと六道輪廻ですよね。そこで前の転生、次の転生、その次の転生と延々と繰り返してくと。転生を決めるのは自分の日々の行いであったり考え方であったり、或いはしゃべることであったりということであって、今いろいろと叩かれているっていうのも、自分の過去の結果であるというのは、間違いないし。ただこれでキレて誰かを殴りに行ったら、それは次の悪い因を生むということになる。(笑)だから報復とか、そういうことは考えていない。

佐々木 :そもそも世界観って必要なんですかね。

松永 :いや、誰もが持っているんじゃないかと思うんですよ。大袈裟な言い方じゃなくて。

R30 :意識化されているかされていないかということですよね。

松永 :うん、それはあるとしても。だって、何となく「草場の陰から見守ってください」みたいなことを平然と言ったりして、でもそれが無神論というか、死んだら土になるしかないと、元素に帰っていくと思っている人が、本当にそれを信じているんだったら、そのことがおかしいと思わないとおかしい。でも何となく日本教みたいな、アニミズムだと私は思っているんですけど、日本人の土台はアニミズムっていうか、何にでも魂が宿ってて、ご先祖様もその辺を漂っててみたいな。そういう中にいる人達と、例えばオウムは言ってみりゃインド的な文化だったりするわけで、ヨーガやったり、仏教もインド的な発想があるので、そこは文化衝突的なところもあるだろうと。
或いは、私がオウムを気に入ったのは、家族というものを重視しない。家族というのは今生の縁であって、たまたま親子に生まれました。でも来世はわかりません。家族同時に死んだら、人間だったとしてみんな同じ年齢から生まれるわけで、それがまた家族になるということはない。或いは敵同士が今度は恋人同士になるかもしれないとか、その辺は普通に仏教的な考えである。それに完全に則って行くと、家族とか関係ない。

②へ続く

<文責/泉 あい>

|

« サイト運営方針 | トップページ | 松永英明さんへインタビュー ② »

コメント

"So, no more running. I aim to misbehave."

投稿: aceon | 2006年5月16日 (火) 11時35分

この記事へのコメントは終了しました。

« サイト運営方針 | トップページ | 松永英明さんへインタビュー ② »