明和の大津波 今へ教訓 八重山・宮古

「サコサバリコッチ」付近を示す新城さん。「土地改良前はもっと急坂だった」と話す=竹富町・波照間島

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2011年4月13日 10時40分このエントリーを含むはてなブックマークLivedoorクリップに投稿deliciousに投稿Yahoo!ブックマークに登録

 東日本大震災の復旧作業が続く中、240年前に先島で起こった「明和の大津波」など、過去に襲った津波の経験があらためて人々の記憶によみがえっている。甚大な被害の影響は現在も八重山、宮古の各地に当時の記憶を残す。専門家は「同様の津波被害が沖縄で起こる可能性もある」と指摘している。

 明和の大津波は1771年4月24日に八重山・宮古で発生した。津波の遡上(そじょう)高(津波が陸を駆け上がった海抜)は最大約30メートル(推定)。八重山で9300人余、宮古で2500人余が犠牲となり、家屋や畑へも被害を与えた。過去には同大津波以外にも、複数回の津波が先島を襲ったといわれる。

 竹富町の波照間島には巨大津波の痕跡が地名に残る。海抜40メートル以上の高さにある島東部の坂道で、住民の間で「サコサバリコッチ」(「せき込む坂道」の意)と呼ばれる。近くで農業を営む新城勝さん(51)は「かつて津波に追われ、必死に坂道を駆け上がった人がいた」と説明。津波により家屋の桁が流れ着いたとされる「ケタピナー(畑)」と呼ばれる場所もあるという。

 波照間島在住で島の歴史に詳しい勝連文雄さん(95)は、同坂道について「数千年前の津波に由来するのではないか」と推測。現在、島の各集落が海抜30メートル以上に位置する事実に触れ、「津波の恐ろしさを知り、集落を高台につくったことが、明和の大津波の時に生かされた」と強調する。

 宮古島市伊良部の「佐和田の浜」には明和の大津波で打ち上げられたという大小の岩が今も残る。佐和田区長の浜川正弘さん(56)は「年配者から集落にまで波が来たと聞いた。先月の津波警報時は海岸から避難を呼び掛けたが、東北の被害を見ると過去の津波が思い出される」と話す。

 琉球大学理学部の中村衛准教授(地震学)は、東日本大震災と明和の大津波との関係を「海溝付近で発生した津波で似たタイプ」と強調する。

 240年前の明和の大津波以前、約500年前にも八重山・宮古で大津波の伝承が残っており、250~300年間隔で津波が生じている可能性を示唆。「明和の大津波後、琉球海溝の断層に長期間エネルギーが蓄えられている。今日(こんにち)も同規模の津波の可能性はある」と指摘している。 

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