悪 い 男


「占ってくれ」

その娘は不愛想に言った。

老婆は娘を見上げ、皺に囲まれた小さな灰色の目をしばたかせる。
セイレーン城の城下町。
街路には、市場がたっており、大勢の人々が行き交い、賑わっていた。
色とりどりの果物、菓子、磁器、玩具、雑多な小物が並ぶ露店の数々。
その間に、老婆は「占い屋」の看板を出し、台の前に座っていた。
今、その前に立つのは、簡素な衣服をまとった若い娘だ。
印象的な艶やかな長い黒い髪と漆黒の瞳はこの付近では見かけない。
シレジアではなく、東方の出身なのだろう。
髪を切りそろえ、香油をつけて結い、紅をさして華やかな色の服をまとえば、見違
えるような美人になるだろうに――そう思いながら老婆は答えた。

「――お嬢さんは何を見てほしいのかね?」
娘は少し言いよどんだ。頬が少し赤らんでいる。
「……どもだ」
「あ、なんだい? はっきり言ってくれないとわからないよ、お嬢さん」
「子どもだ。子どもができたかどうか、知りたいんだ」
「子ども……」
そんなことを占ってくれ、という娘は初めてだった。
「月のものはあるかい?」
「いや、もう、ずっとない」
「食欲は?」
娘は首を横にふった。
「亭主はいるのかい?」
娘はやはり首をふる。
老婆はためいきをついた。
「まずは、わたしではなく、相手の男に相談するんだね。それとも、相談できない
ような相手なのかい?」
娘はそれには答えず、お金だけを置いて立ち去ろうとした。
お待ち、と老婆がその手をつかむ。
くすんだ緑色のローブの下から小さな木の札を取り出すと、娘の手におしつけた。
「これをやろう。おまえさんが本当に困っているのなら、ここを訪ねてくるといい」
老婆は娘の耳元になにかをささやく。娘の顔色が変わった。
やがてその場を離れ、逃げるように去って行った。
遠ざかる黒髪の後ろ姿を見つめ、老婆は小さなためいきをついた。
やれやれ。かわいそうな娘だよ。

「やあ、マーシ。こんなところで会うとは思わなかったな」
入れ違いに見事な金髪の女が現れた。
「ブリギッド! 驚いたね。なんだってシレジアにいるんだい。――おや、その子は?
いったいいつ子どもを産んだんだ?」
ブリギッドは小さな男の子の手をひいていた。
「これはわたしのボスの子さ」
「ボスだって? 誇り高いオーガヒルの海賊の頭が誰の下についたっていうんだ」
「残念ながら、海賊は廃業したんだ。今はもっと面白いことをやっている」
「まさかおまえさん、変な男につかまったんじゃないだろうね」
「あいにく、そんな色っぽい話じゃないよ」
「ふーん。まあ、それならいいんだけど。若くてきれいできだてのいい娘が、男の
ために人生だいなしにされるのを見るのはつらいからね。さっきの娘だって」
「さっきの娘って、黒い髪の娘のことだね」
「そう、見ていたのかい? かわいそうに、あの娘、わたしの見立てがはずれてい
なければ、間違いなく妊娠しているよ。あんなに青い顔をして、きっと、悪い男に
だま されたんだろうね」
「へえ……悪い男ねえ」
ブリギッドは、子どもを抱き上げた。きゃっきゃっという笑い声があがる。
「悪い男って、誰のことだろうね? ねえ、セリス」



黒い髪を風がなぶる。アイラはセイレーン城の城壁の上に立っていた。
手の中には、さきほど占い屋の老婆からもらった四角い木の札があった。
「マーシの店」と書かれたその札を指の先で弄び、アイラはとほうにくれていた。
やっぱりわたしは妊娠しているらしい。
ひょっとして、とは思っていたが、今日、占い屋の老婆に会ってそれが確信に変
わった。老婆は相手の男に相談しなさい、と言ったが、あいにくその男は今この
城にいなかった。

アイラを妊娠させた張本人は、シグルド軍の騎馬隊を引き連れて、セイレーン城
とシレジア城の間にある、シレジア王代々の墓所の守備に行ったのだ。
と、言っても近くには、温泉もあるし、古代の天文台もある。ていのいい観光旅行
のようなものだ。
なにしろ、長い戦争の果てのセイレーン城逗留だったから、兵士たちの間にも、
鬱々としたものが溜まっている。それを晴らすために、シグルド公子が提案した、
小さな旅だった。小さなセリスを連れては行けない、という理由で、シグルド自身
は参加していないが、シグルド軍の主だった者が半数、同行している。
アイラが行かなかったのは、シャナンのためだった。
彼は、セイレーン城で、ラーナ王妃の好意で家庭教師について勉強している。
真面目なアイラは、彼が勉強して
いるのに、遊びの旅行に行く気にはなれなかった。
一行は三日の逗留で帰るはずだった。が、今日は五日目で、まだ帰ってきていな
い。きっとどこかではめをはずしているのだろう。
そして、その五日の間に、アイラは自分の体の変調に気づいてしまったのだ。

「レックス――早く帰ってこないかな」
その声は風の中に飲み込まれる。
アイラは、地上を見渡した。
緑の絨毯を割って走る道の果て。その道を愛馬バラッカを走らせ帰ってくる彼の
姿が見えないかと、思うのはそればかりだ。
馬の姿は見えなかったが、代わりに、門から金髪の髪をきらきらと揺らして歩く
女の姿が見えた。
ブリギッドだ。子どもを抱いているのは、きっとセリスだろう。
ブリギッドも城の居残り組だった。海原を自由自在にかけめぐっていた彼女は、
地上の旅行をする気になれなかったらしい。城の生活の方がよほど面白い、と
言ったそうだ。彼女は子どもの面倒を見るのが好きらしく、よくセリスを連れて
出歩いている。

そのブリギッドに駆け寄る者がいた。――あれはシャナンだ。
アイラ自身はブリギッドとそれほど親しくないが、シャナンは、セリスを通じて,、
結構仲良くなっているらしい。
シャナンはシャナンなりの人間関係をきちんと築いているのだな――そう思うと
少し複雑な気持ちになった。
わたしときたら、レックス一人に振り回されているというのに。
アイラはもう一度、手の中にある木の札を見つめた。
いったいどうすればいいんだろう――?



「ブリギッドさん、セリス、お帰りなさい」
「はい、シャナンただいま」
「ちゃなん、ちゃなん」
セリスがシャナンに抱きつく。
「セリス、おなかすいていない? パン食べる? ブリギッドさんもどうですか?」
「ありがとう。わたしはぺこぺこだよ」
ブリギッドは、シャナンとセリスと共に食堂のテーブルにつき、昼食を食べた。
「ブリギッドさんってよく食べますよね」
チーズとパンをぱくぱくと勢いよく食べるブリギッドを見て、シャナンが感心した
ように言った。
「食べなければどうする? 食べることは人間の基本だ。ましてや、わたしは
『聖戦士』なんだぞ」
そう言ってブリギッドは笑ってウィンクをする。
うん、そうだね、と言ってシャナンも笑う。
シャナンがブリギッドと親しくなったのは、彼女の物事に頓着しないおおらかさと
明るさのせいかもしれなかった。
なにしろ、セイレーン城についてからというもの、シグルド軍の皆の表情は暗く、
冴えなかった。シャナン自身、失踪したセリスの母親のことを思うたび、胸に
大きな蓋をされたような苦しい気持ちになる。
平然としている(少なくとも、そう見える)のはブリギッドくらいのものだ。
海賊の中で育った彼女には、城の生活や軍隊や騎士達の言動が、珍しく
思えるらしい。いつも楽しそうに皆の様子を眺めている。

「アイラもそれくらい食べたらいいのにな。体力がつかないよ」
「アイラは食べていないのか?」
「うん。もともとあんまり食べる方じゃないんだけど。最近は、特に食欲がない
みたい だ。今日も昼食はいらないって言うし」
「なるほど、つわりじゃしょうがないな」
「えっ? つわり?」
シャナンの目が丸くなった。
しまった、というように顔をしかめたブリギッドに、シャナンはたたみかけるように
たずねてくる。
「つわりって子どもができたってこと? でも、アイラは結婚していないよ。
結婚していないのに、子どもができるの?」
「できるよ。シャナンも、もう一人前の男なんだから、それくらい知っておいた
方がいいな。恋人ができた時に笑われるぞ」
「そういえば、ディアドラも子供ができた時は食欲がなかったみたいだったな」
ブリギッドは少し眉を寄せてシャナンを見つめた。
ディアドラ。
この名を口にする時、彼の無邪気な顔に、シグルドと同じ痛々しい影がにじむ。
失踪したシグルドの妻――その顔を、ブリギッドは知らなかった。
やがて、シャナンは元の子供らしい表情に戻ると、首を傾げた。

「アイラも子供ができたのかな。神様がアイラに子供を授けてくれたのかな?」
「神様?」
うん、とシャナンはうなずく。
「前に、シグルドがそう言ったよ。神様がディアドラに子供を授けてくれたって。
アイラにも神様の力が働いたのかもしれない。でも、子供には、お父さんが
必要だよね。僕がお父さんになってあげられたらいいけど、僕とアイラはオバと
オイだから結婚しちゃいけないんだ。神罰がくだるってオイフェが言っていた」
ブリギッドはぷっとふきだした。
「何がおかしいんだよ」
「いや、だって……ま、シャナンがそこまで心配する必要はないよ」
「そんなことないよ」
シャナンは強い口調で言った。
「アイラの子供だっていうことは、ぼくの子供だということだよ。イザークの子供は、
みんなイザーク王の子供だって、おじいちゃんが言っていた。ぼくはアイラの子
供 の面倒を見るセキニンがある。だって、ぼくはマナナン王、おじいちゃんの跡
つぎな んだから!」
「ふふふ……なるほど。シャナンはしっかりしているな。な、セリス?」
パンをほおばったセリスが、あい、とうなずいた。


アイラは、大広間の寝椅子に横たわっていた。城壁で風に当たっているうちに、
気分が悪くなってしまったのだ。額を押さえながら、レックスに切り出す言葉を
延々考える。
――レックス、おまえはパパになるらしいぞ。
――レックス、わたし、子どもができたみたいなんだ。
――レックス、子どもは好きか?
アイラはためいきをついた。レックスの反応が予想できない。
そもそもレックスは子どもができたことを喜ぶだろうか? 
レックスはわたしのことを好きだと言ったことはあるが、子どもを好きだとは一度
も言ったことがない。
かんべんしてくれよ、というかもしれない。いや、あいつなら言いそうだ。
絶対言うに違いない。
そんなことを考えていると、頭が痛くなり、また気持ち悪くなってきた。
ああ、もう、いやだ――。そう思って寝椅子のクッションに顔をうずめた時、誰
かが慌ただしく廊下を走る靴音がした。
バタン、と勢いよく広間の扉が開く。

「アイラ! ここにいたのか? 探したよ」
ぼうぜんとした。そこには、アイラの苦悩の元凶が立っていた。男は羽根でも生
えているかのように走りより、アイラをぎゅうと抱きしめた。
頬がすりよせられ、汗と香油の混じった懐かしい男の匂いがした。
「会いたかった!」
「レックス……帰ってきたのか」
「この五日間、すっごくさびしかった。一緒に来てくれればよかったのに」
「そ、そう?」
「アイラ、俺に会えなくてさびしくなかった?」
「ええと、うん、まあ」
突然、レックスが現れたため、彼に言おうと思っていた言葉が、みんなどこかへ
ふっとんでしまった。気のぬけた台詞しか返すことができない。
「シグルド公子のところへは行ったのか?」
あげくの果てにどうでもいいことを聞いてしまう。
「行った行った。ただいま帰りましたって、挨拶したよ。もうお役ごめんだ。もう、
これからはずっとアイラのそばにいる」
熱っぽく言うレックスにとまどいながら、アイラは必死で言葉を探していた。
このままでは、レックスのペースに乗せられたまま、肝心なことを言いそびれて
しまう。
「レックス、大切な話があるんだ」
「そうか、俺も、アイラに話があるんだよ」
何、と言いかけたアイラの唇は、レックスの口づけでふさがれた。
これがおまえの話か!? と言ってやりたかったが、あいにく熱烈なレックスの
口づけがそれを許してくれない。
アイラは内心ひやひやしていた。彼の口づけに酔ったのはほんの一瞬だけ。
今まで静かだった城内に、ざわざわと人の気配が満ち始めている。
広間の外でも話声がする。皆が旅行から帰ってきたのだ。
この広間にも、やがて誰かが来るだろう。

こんな場面を誰かに見られるのはたまらない。

実のところ、二人が恋人同士だということは、シグルド軍の大半の者が知ってい
る周知の事実だった。レックスは別に隠すつもりはないから、誰にアイラのことを
聞かれても平然と答えている。
一方、アイラは、彼のことをほとんど誰にも言っていなかった。
色恋に溺れている自分を、自分自身でさえ許せない時があるのに、ましてや他
人には知られたくない。アイラはごく一部の人間――アゼルとエーディンくらいし
か二人の仲を知らないと思っていた。
離せ、という代わりに、アイラはレックスの背中をバンバンとたたいた。彼の手が
ようやくゆるむ。
「レ、レックス。だめだろう? ここは人が来るかもしれないから……」
「それもそうだな。じゃ、俺の部屋に行こう。うん、そうしよう」
レックスはアイラの言葉を、自分の都合のいいように解釈したらしい。
アイラの手をつかんで、ぐいぐい歩き出した。


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