悪い男・2


……どうしてこうなるんだ?

アイラは自分で自分にあきれ果てていた。
すっかりレックスのペースになっているじゃないか。
ベッドに横たわる彼女の隣では、望みを遂げた恋人が、にこにこと満足げに微笑
んでいた。たくましいむきだしの二の腕が、アイラの頭の下にある。
もう片方の手が優しくアイラの髪を撫でた。
彼に腕枕をされ、彼の体温を間近に感じ、髪を撫でられるのは気持ちよかったが、
もう一人のアイラが、こんなことをやっている場合じゃないとささやく。
アイラは体を起こした。レックスが再び変な気持ちを起こさないように、シーツを
かきあわせ、両の胸を覆った。

「話があるんだ、レックス」
「うんうん。話があるんだったね」
「真面目な話なんだ。真剣に聞いてくれ」
「うん、真剣にね」
レックスは軽く眉間に皺をよせてみせた。
「えーーっと」
しかし、いざ彼を目の前にすると、何から言っていいのかわからない。
「あの、ほら、こういうことをしていると、いろいろな問題が起こるだろう?」
「こういうことって?」
「こ、こういうことは、つまり、こういうことだ」
「俺たちが二人仲良く愛し合うこと? 問題あるかな? 睡眠不足になるとか?
体が痛くなるとかだるくなるとか?」
「いや、そうじゃなくて、その、もっと重大で微妙な問題だ」
「重大で微妙? 難しいな。あっ、安心しろ、俺は悪い病気は持ってない」
「あのねっ、あの……そうじゃなくて! もう、わたしは真剣に言っているんだ!」
「俺も真剣に聞いているよ」
「じゃ、この手はなんだっ!!」
アイラはレックスの手をつかんだ。
アイラは胸元はガードしていたが、背中はむきだしだった。彼は、話の間中、
ずっと、ねぞべりながら、アイラの背中から腰をうっとりと撫でていたのだ。
「さわっちゃだめ? 愛し合っているのに」
「ふざけないでっ。わたしは真面目な話をしていると言っただろう!?」
「俺も真面目に聞いているよ。でも、手は別行動を取っていたみたいだな。
ま、要するに、アイラが俺のことを毎晩考えてさびしかった、ということだろ? 
大丈夫だよ、これからはずっと一緒だから」
「何言っているんだ、ばかっ!」
アイラはベッドを降りると、ここは戦場か、と思うほどの勢いで服を着始めた。
「ア、アイラ、もう行くのか?」
「ちょっと頭を冷やしてくる。おまえも頭を冷やせ」

バン、と部屋の扉が閉められた。
引きとめる暇もなかった。レックスは一人ベッドの上に残される。
「何を怒っているんだろう……?」
ちょっとはしゃぎすぎたかな、と思った。

このシレジアで、レックスは、自分が置かれている状況が愉快なものではないこ
とは百も承知していた。そして、その状況を変えられるほどの力が自分にないこ
とも。どこを見ても愉快では状況で、たったひとつ手にいれた幸福がアイラなのだ。
いや、今となってはアイラのためだけに生きているとさえ言ってもいい。
シレジアに来るまでは、いつか、ドズル公国に帰るつもりでいた。だから、アイ
ラにひかれまいとした。イザークの王女を愛しても、いずれ苦しい立場に立たさ
れるだけだと思った。
だが、今はもう、ドズルに帰るつもりはない。というより、帰れない。父親に従
うことよりも、「反逆者」であることを選んだ自分を、父は絶対に許さないだろう。
そして、レックスも父親の所業を許す気にはなれない……。
故国への思いを断つと、アイラへの思いだけが彼に残った。それは、冬の木々が
春に葉を茂らせるように、あっという間に育っていったのだ。
シレジアに来てからというもの、そんな思いを彼女に対して正直に出しているだけ
なのだが、その態度がかえって逆効果なことがあるらしい。
今日はついに怒らせてしまった……。

嫌われたかな……。そう思ってアイラの出ていった扉を見つめていると、ふと、
何かが視界の隅に映った。なんだ?
レックスはベッドを降りた。
床に四角い木の札が落ちている。
アイラの服があった場所だ。きっと彼女の持ち物だろう。
レックスは札を拾い上げる。
「マーシの店? なんだ、こりゃ」



レックスは部屋を出ると、城内を一周してみた。しかし、どこにも、アイラは見
当たらない。自室にいるのだろうか。
しばらくそっとしておこう。そう思いながら、もう一度木の札を見た。
表には「マーシの店」と凝った字体で彫ってあり、裏には、住所らしきものと、
103という通し番号らしきものが書いてある。
……なんだろうなあ……店の会員証か何かだろうか。

テラスの椅子に座って眺めていると、フュリーが声をかけてきた。
「レックス公子、長旅、お疲れさま」
「ああ、フュリー。君もいろいろありがとうな」
フュリーは、今回の旅行では天馬を駆って参加し、何かと異国の訪問者の便宜を
計ってくれていたのだ。
「何を見ているんですか?」
「うーーん。なんなのか、俺もわからない。これってなんの住所だろう? 知ってい
るか?」
「リベリオン通り、二の辻を曲がった3軒目の、一階……。リベリオン通りというの
は、セイレーンの町の、いちばん大きな通りですね。何かのお店の住所かしら。
あそこは市場や店が並んでいる賑やかなところですから」
「欲しいものでもあるのかな、アイラ」
「アイラ王女が持っておられたんですか?」
「そう。彼女が落としたんだ」
さすがにどこで落としたものかまでは言わない。
「『マーシの店』ってあるけど、聞いたことある?」
「マーシの店? マーシの店……どこかで……」
次の瞬間、その慎み深い声音が一変した。
「あっ、マーシの店って……! あっ、あっ!!」
「なになに? 思い出した? 何の店?」
「いえ、あの、な、なんでもありません」
「思いだしたんだろう? 教えてくれよ」
「わたしは行ったことありません。そんな店があるって、部下たちが言っていた
のを、ちらっと聞いただけで」
フュリーの顔は、今や真っ赤だった。
「うんうん、だから、何の店か教えてくれよ」
足早に立ち去ろうとしたフュリーの腕を、レックスはがっしりとつかんだ。
緑の髪の騎士は、振り返り、やがて哀しみに満ちた目で彼を見上げた。
「かわいそうなアイラ様……」
「は? 誰がかわいそう?」
「きっと一人で苦しんでいるんだわ。誰にも相談できないでいるのね」
「あの……?」
「わたしはアイラ王女の味方ですから、レックス公子。貴方がどういうつもりでも」
「あ、そうなんですか?」
レックスは頭をかいた。アイラといい、フュリーといい、まったく要領を得ないこと
ばかりを言う。
「俺は『マーシの店』が何の店なのか、知りたいだけなんだが……」
「何の店か知りたければ、ご自分の目で確かめることですね。わたしの口からは
言えません」
フュリーはぴしゃりとそう言うと、今度こそ去って行った。
なんだ、ありゃ? 女というのはわけがわからない。
レックスは空を見上げた。
まだ陽が高い。
よーし、自分の目で確かめてやろうじゃないか。
レックスは厩舎に足を向けた。

また出かけるのか……うんざりとしたような黒い瞳を向けるバラッカの背中をたた
いてなだめ、レックスは愛馬にまたがった。
門へ行こうとしたところで、今度はまた別の女に出くわした。
「レックス、どこへ行くんだ? 帰ってきたばかりなのに」
ブリギッドだった。彼女はエーディンと顔こそ同じだが、少しばかり背が高い。
衣服の裾から見える長い足や腕は陽にやけ、ぴっちりとした筋肉に包まれている。
ふだんはおおらかに笑っているが、弓をひく時は冷酷に感じられる程の表情を見
せる女だ。レックスはアイラを恐いと思ったことはなかったが、ブリギッドのことは
ひそかに底の知れない恐い女だと思っていた。

「『マーシの店』へ行くんだ」
「『マーシの店』だって? おやおや、本当に行くつもりか。あそこは男の行くところ
じゃないぞ」
「男の行くところじゃない? 高級下着専門店か何かか? まあ、いい。女装して
でも行くよ」
レックスは馬の腹を蹴る。
夜、門が閉まるまでには戻ってこなければならないのだ。
こんなところで無駄話をしている場合じゃない。
ブリギッドの声が後ろから追いかけてくる。
「がんばれよ、悪い男!」
「おうっ」
馬を走らせながら、首を傾げた。
「……なんだ? 悪い男って???」



アイラはテーブルの上につっぷしていた。
厨房の下働きの者から、パンとスープをもらったのだが、やはり食べる気になれ
ない。
さっきまで自分の部屋にいた。
アイラは部屋を出た。気分が悪くて今までベッドに寝ていたのだ。
食事を取らないから、よけいに気分が悪いのかもしれない。
そう思い、厨房に来たのだが……。
アイラはスープの皿をテーブルの端に押しやった。
匂いを嗅ぐだけでむかつく。
「アイラ様……隣、いいですか?」
アイラは顔を上げ、力なく頷いた。フュリーは横に座ると、顔をのぞきこんだ。
「お加減、悪いんですね……顔色が真っ青」
「いいや、たいしたことない。すぐに治る。よくあることだ」
アイラはこめかみを押さえた。
心配そうなフュリーの視線を感じる。しかし、今はその視線さえ、うるさく思える。
アイラは物憂げに口を開く。
「何か、用なのか……?」
「あの……わたし、アイラ様の味方ですから」
「えっ?」
「どうか、お一人で悩まないでください。わたしでできることがあったら、力になり
ますから……」
アイラはぽかんとフュリーを見つめた。
「わたしが悩んでいるって……?」
「女同士ですから……気持ちはわかると思います」
「…………えっ……と」
アイラが返事に困っていると。
「アイラ、探していたよ」
シャナンが入り口に現れ、駆け寄って来た。手に小さな篭を持っている。
「はい、アイラにこれあげる。今、馬番の爺やにわけてもらってきたんだ」
「……?……ありがとう、シャナン……」
覗きこむと、中には、小さな赤い果実が入っていた。
「木苺だよ。爺やの奥さんが妊娠した時、他のものは食べないでこればっかり
食べていたんだって」
アイラは茫然とした。今、シャナンは何て言った?
「アイラ、どうして僕に言ってくれなかったの」
「……何?」
「子どもができたこと」
悪かったアイラの顔色がさらに蒼白になった。


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